新田義貞と木曽義仲
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登場の仕方といい死に様といい。
これほど似通ってる人物もいない。 内村鑑三
私は幸いにも、未だかつて信州人に奸物を見ない。長州人の場合は、奸物でない者は稀であることに較べて、信州人の場合は、奸物である者は稀であるようである。
これが、私がこの明治の偽善政府の治下にあって、望みを信州人に託す所以(ゆえん)である。
それにもかかわらず、信州人が伊藤侯を戴き、大隈伯を仰ぐに至っては、言語道断である。私は信じて疑わない。浅間山麓は、狐狸族が繁殖すべき所ではないと。 やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ 「太平記」では意識的に似せて書いた感じがある。
義経は護良親王
義仲は新田義貞 >>1
そっくりさんシリーズはもうお腹一杯
おまえ、一体何個スレ立てるねん ええだろ
実際に転生者かと思うほど似すぎてんだから 徳川家康は新田源氏
徳川幕府は新田幕府でもある
なにゆえ家康が義貞に共感してたのかは分からないが。 新田義貞と木曽義仲は玄人好みの武将である。
楠正成と源義経は大衆好みである。 >>13
家康は超歴史オタクだからな
鎌倉打倒最大功労者が新田義貞であることを他の誰よりも理解してたのである 実際に新田義貞が挙兵しなければ鎌倉幕府を打倒できなかったのは動かしがたい事実 >>1
義仲も義貞も専用スレあるから、このスレ要らなくね? >>19
碓氷峠で越後新田党と信濃源氏が追いつき5000騎。鎌倉攻撃の時は60万。 つまり150→5000→600000か。
木曽義仲もだがここまで破壊力がある武将を俺は知らない。 太平記の記述は大袈裟すぎて流石に60万はありえないが、
いずれにせよ足利の荷担もあって大軍になったのは間違いない。 鎌倉幕府を完膚なきまで絶滅させて消え去っていった新田義貞かっこよすぎ。 中先代の乱がすぐ起きたから、「完膚なきまで」「絶滅」ではないな。
まあ偉業であることは認める。 中先代の時行は、なぜかそのあと新田義興とタッグを組む不思議。 >>32
千早城は100万の軍勢で囲んだとあるね。 >>38
六波羅攻撃軍はまともな人数。
足利尊氏23000赤松円心7000千種忠顕3000
統率 武勇 武芸 戦術 戦略 智謀 政治 策略 魅力 野心 仁義
ヤムチャ
木曽義仲 65 80 85 71 35 53 46 41 68 78 45
ピッコロ
源頼朝 71 63 67 54 70 77 81 73 72 84 52
天津飯
源義経 83 92 86 93 54 75 41 45 84 63 69
統率 武勇 武芸 戦術 戦略 智謀 政治 策略 魅力 野心 仁義
ヤムチャ
新田義貞 70 77 79 65 52 60 53 48 70 67 75
ピッコロ
足利尊氏 85 72 74 67 83 78 75 71 73 78 64
天津飯
北畠顕家 91 92 72 84 73 81 84 65 80 55 95 新田義貞も木曽義仲も旧体制を破壊することだけが歴史的使命だった
その後に出家して菩提を弔う後世を送れば良かったかも 貴乃花親方といい何時の世も汚れきった腐敗組織を崩壊させる露払いになる人物は嫌われて追い出される宿命なんだろう。
それを甘んじて受け入れた木曽義仲と新田義貞には日本史栄誉賞を授けたい。 >>45
バカが伏魔殿の相撲協会は平家だろ糞が!
貴乃花親方は源義経なみに判官贔屓されている 糞相撲協会=平家
貴乃花親方=木曾義仲
陣幕親方=今井兼平 平家と大相撲協会は伏魔殿。
これらを崩壊させる露払いになった貴乃花親方と木曾義仲は英雄である 実は新田義貞も平家打倒の先駆け。(北条得宗は平氏) >>47
その意味なら貴乃花は織田信長だろう
人間は糞だけど妄想ヲタの絶大な人気だけはある >>51
い〜や源義経だよ。
ここまで判官贔屓されてる超英雄はいない。
そして事実、日本の英雄である。 平家が糞だとわかったよ。
平家=長州閥が支配する自民党=大相撲協会 源平だと平清盛、源頼朝、源義経の三巨頭に比べて木曾義仲は有名になれない宿命なのか? >>55
小説「新田義貞」のあとがきでそれについて書いてる たいてい木曽義仲のファンは新田義貞のファンでもあり
そして武田信玄のファンでもある
木曽義仲の家臣団の子孫が武田信玄の家臣団にもなってる 新田義貞が大好きで織田信長が大好きという人は少ない
楠正成が大好きで織田信長が大好きな人は多い そうか?
とくに>>61は正論である。
木曽義仲オタと新田義貞オタは完全につながっている。
武田信玄のオタ層もだいたい同じ >>61
新田次郎なんかそれだよなw
いや俺もだw 義貞の先祖がまたアレなんだよな、罪人勝手に逃がしちゃうとかさ >>67
でも新田次郎は義仲の小説書いてないんでは。
武田信玄、勝頼は書いてるが。 長野の諏訪出身だから思い入れはあるんじゃないの?
なかったら不思議だ あるかも知れないけど本人のコメントがないからねぇ
俺が知らないだけかもしらんが 信州人にとって木曽義仲は神のはず
次が武田信玄と真田一族 >>48-50
一人になっても巨大権力に立ち向かう空気の読めなさこそが逆に義仲と義貞のかっこよさでもある。
やはり貴乃花親方に通じ合う
平家の末裔たる安倍自民党と相撲協会の癒着をみるがいい。 新田次郎みたいに先に新田義貞のファンになると木曽義仲には向かわないのかも。
先に木曽義仲のファンになると同類の新田義貞のファンにもなってしまう。 キャラが被るからじゃね?
アンチヒーローの楠木正成と織田信長は。
織田信長が新田義貞とは被らないし足利尊氏とも別物。 武田信玄好きは徳川家康も好きだと同じ論理。
武田信玄が好きなのに徳川家康が嫌いだとは余り聞いたとがない。 平家物語が木曽義仲の印象を悪くしてる
太平記が新田義貞の印象を悪くしてる 太平記というより、一部の無知が尊氏と義貞のスタートラインの違いもわからず単純比較し、
負けた新田氏を叩いてるだけに思える。 内村鑑三「私は幸いにも、未だかつて信州人に奸物を見ない。長州人の場合は、奸物でない者は稀であることに較べて、信州人の場合は、奸物である者は稀であるようである。」
「これが、私がこの明治の偽善政府の治下にあって、望みを信州人に託す所以(ゆえん)である。」「それにもかかわらず、信州人が伊藤侯を戴き、大隈伯を仰ぐに至っては、言語道断である。私は信じて疑わない。浅間山麓は、狐狸族が繁殖すべき所ではないと。」 太平記には平清盛みたいな絶対的なアンチヒーローがいないから平家物語を越えられない。 >>79
結果だけを見て武力知力魅力を数値化して雑魚扱いするようなものか >>82
関ヶ原の家康と三成でも似たようなことが言えるな >>85
徳川幕府は織田信長のおかげとかいうバカよりも無理があるぞ >>86
実際、信長との同盟で力をつけたので、あながち間違いではない >>85
実際、新田一族の子孫だから新田幕府なのも、あながち間違いはない。 たった14日で鎌倉幕府を壊滅させた新田義貞には日本史上最強の戦術家という称号を贈りたい 平成になってから
徳川家康
武田信玄
新田義貞
この3人を悪意を持って貶めいれる風潮が蔓延してる 信長ブームと韓流ブームはほぼ同時に始まった
つまりそういうことだ 新田義貞さんは当時の鎌倉陥落最速記録は打ち立てたのだが、
中先代の乱で諏訪頼重に更新されている >>94
>信長ブームと韓流ブームはほぼ同時
え? バカの一つ覚えみたいに織田信長狂賛は平成からだな
昭和末期まではここまでの病気ではなかった。(あのころは割と新田義貞なんかも好評価されていた。)
そして信長のアンチテーゼである武将の過小評価を俺は我慢ならん。 信長信者とチョンの共通点
歴史を捏造する
ウリジナル主張
日本の悪口三昧
秀吉が大嫌い >>90
新田義貞の戦術能力はピカイチであった
本当ここら辺が評価されないよね やはり平成に入ってから新田義貞が悪意をもって貶められるようになった
昭和末期まではわりと高評価だったのに。
それでも今も昔も評価が最悪の高師直よりいいか >>102
>平成に入ってから新田義貞が悪意をもって貶められるようになった
>昭和末期まではわりと高評価
これって具体例が無い個人的印象じゃないのか い〜や新田義貞の悪評が蔓延した時期と織田信長崇拝カルト信者が誕生した時期は繋がってる
それは1990年代からだ 昭和に義貞が高評価されてたって…戦前の話でもしてるのか 新田次郎の小説はなんだよ?
吉川英二の私本太平記でも好評化やぞ >>104
徳川家康を田舎大将にすぎないと馬鹿にしてる昨今の風潮もそれ もしかしたら家康が新田義貞の子孫を自称してるから
信長狂信者が家康嫌い=義貞嫌いになってるのかもしれない >>79
そんな無知が増えすぎたよなww
最近は三国志でもゲームからのめり込んだニワカ馬鹿が多すぎるし
こういうのは間違いなく信長信者になる >>113
江戸時代でも大権現様の依怙贔屓で新田一族は安住。
明治から戦前でも義貞が尊皇家とされて新田一族は安住。 >>112
義詮が参戦しなかったらどうなったことか >>117
曹操信者と信長信者が繋がってると俺も同じように思っていたがそれだったんだな!!
そしてこういう奴は坂本龍馬の信者にもなる 過激、革命、グローバル、急進
これらの言葉がふさわしい人物を好む人間はそうであろう。 義貞をもう少し評価すべきというのには同意だが、小説やゲームを目の敵にしてる奴はどうなの しかし信長厨は曹操厨になる可能性が異常に高いのは事実。
(確かに似た面もあるがな)
だが曹操は好きでもアンチ信長で信玄好きはどうしたらいいんだ。 新田義貞の悪評が1990年代から蔓延した根拠は何?
太平記の大河の影響とでも言うのか 江戸時代は子孫を自称した大権現様の依怙贔屓で新田義貞は英雄扱い。
明治から戦前までも尊皇家とされて新田義貞は英雄扱い。
昭和後期でも大して変わらなかった。
やはり平成から悪意で貶めいられるようになってきた。
江戸から昭和末まで約400年間の英雄評価と平成からの悪意での貶めいれようは異常。 贔屓されなくなったら発狂するのが義貞狂信者クオリティ 江戸期で讃えられてきた人物は薩長閥の明治政府に嫌われて逆賊扱いされることも多かったが。
それを免れた新田義貞は稀有なる超人なのである。 >>92
貶めるも何も、研究が進んで全員妥当な評価になっただけ >>131
免れるどころか明治で更に評価がうなぎのぼりになったのが新田義貞。 この平成30年間はグローバリストが織田信長を神の如く祭り上げて徳川家康を目の敵にしてるからそれが原因。 >>1
なぜか2人とも文豪に愛される。
木曽義仲 = 松尾芭蕉、芥川龍之介
新田義貞 = 新田次郎、安部龍太郎 新田義貞と木曽義仲より新田義貞と源義経が似てると思うのは俺だけだろうか? >>139
義貞の戦死は義経みたいに切羽詰まったもんじゃなかったが。
正成だって湊川で無理して死ぬことはなかったんだがな。 戦前の反動でもないだろうけど尊氏の名誉回復は必要だな
俺は新田の方が好きだけど よくよく読むと太平記では新田義貞は最大級に賛美されてる
しかも後醍醐は臨終の際に楠木正成への言及はないのに新田義貞を最大の忠臣だと讃えてる
平成時代から下等評価され始めた しかし南北朝の武将だけが時代が変わるたびにコロコロ評価が変わり過ぎないか?
しかも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで時代に否定されると全否定されてしまうのも南北朝の武将のみ。 平成に入ってから親米グローバリストが織田信長を神の如く祭り上げて徳川家康を目の敵にした
それで徳川家康が好んでた二人(武田信玄と新田義貞)まで連鎖反応で悪意の不当評価をされて今日に至る 太平記を読むと新田義貞はかっこよすぎて落ち目なし。
後醍醐が遺言で直に言及してたのも義貞のみ >>139
あえて源義経と新田義貞の共通点を探してみると。
・平氏の息の根を止めた最大の功労者
・最後まで天皇に従えていたが新体制派に攻撃され孤立して自害
・政治能力は欠けていても戦略的撤退もできて戦闘での騙し討ち謀略は得意
・女に振り回されやすい
あれ意外に共通点が多い? 義経が人気者で義貞が不人気だったのが違ってるくらいか >>149
正成は後醍醐に義貞を捨てて尊氏を採れといってるからな。 だから「楠木を湊川に置き去りにした説」まである
一方では正成は尊氏を嫌っていたから「梅松論は嘘説」もある >>151
正成は17回も殴り込みをかけていたんだから逃げようと思えば逃げれた。 湊川合戦の前に義貞と正成が酒を酌み交わす場面はフィクション? >>148
既出だが江戸時代から昭和までは新田義貞は大人気だった。
下手すると義経よりも人気あったんじゃないか?
しかし平成から>>145の理由等で不当評価されている。 江戸幕府下でも明治政府下でも神扱いされて人物を俺は新田義貞以外に知らない 信長は戦後はずっと人気がある感じだと思うがな
新田の評価については、戦後は皇国史観からの反動があって、
それ以降は後醍醐天皇がアレなキャラだという評価が定着したから新田云々とかもどこかに行っちゃったんじゃないかw 江戸時代は徳川王朝の始祖ということで新田義貞は神扱いだぜ
あと信長は昭和には一切人気ないから
その証拠に信長が大河ドラマの主役になったはなんと1992年の30作目から。 >>157
1973年の国盗り物語では斎藤道三とともにダブルヒーロー。 「昭和 信長 人気」で検索すると
昔の信長は人気なさすぎたよ
ただし極一部の偏狂者が必死に信長を持ち上げてたのは今と変わらないところだが >>158
戦前でも江戸期でも義貞は英雄だったんだが? ええ昔の信長は一部の作家が持ち上げてたぐらい
昭和の大河ドラマでも信長は相手にされなかった 木曽義仲を好評化してる新井白石も織田信長は貶している ということは平成が終わると同時に信長の評価は急落しそうだなww すでにバカみたいな信長ageは見られなくなってきてるよ。 >>162
1973年の大河司馬遼太郎の「国盗り物語」オープニングのキャストの最初に織田信長 高橋英樹とあるよ
https://www.youtube.com/watch?v=29Nj5V1DGLg 大河ドラマの最高視聴率は伊達政宗
次が武田信玄
織田信長では視聴率なんて稼げなかった証拠 >>164
信長人気は平成の30年だけでしたなw
これも人間50年夢幻の如くでいいんじゃないかw >>169
これは平成スレで書くべきなのだろうが。
1988年に平均視聴率歴代2位を獲得した武田信玄が翌年の平成から信長人気急上昇と反比例するかのごとく人気急落したのは
昭和まで国民的音楽だった演歌・歌謡曲人気が暴落して代わってJPOPが大ブームになったのと通じる
武田信玄=演歌・歌謡曲
織田信長=JPOP 歴代大河ドラマ平均視聴率
武田信玄=39・2%
徳川家康=31.2%
秀吉=30.5%
織田信長=24・6%
短絡的なニワカが増えてきた平成時代に信長が持ち上げられてる証拠。 信玄や家康の思考経路は思慮が深くないと理解できないだろ
思慮が浅い人間には信長が大好きなんだろうな なんで信長叩きになってるんだ?
戦前に信長評価が少なかったというのならまだわかるが
あと、信長はフィクションでは主役より最重要脇役ポジションを取ることが多い 大河も九州は九州でも西郷ばかりやらず島津維新か懐良・菊池武光をやれ。 戦前どころか昭和後期でも信長は相手にされてなかった。 >>172
まだ平成になった辺りでは信長人気は弱かったんだな
やはり2000年になってから小泉純一郎の登場と同時的に気持ち悪い信長賛美が始まった 義仲の勢力圏は一時的だが信長を上回っているんだよな。
挙兵から僅か数年で畿内を中心に支配したんだからもっと評価されていい。 スレ違いになるが藤原秀衡が1200年くらいまで生きとったらどうなっただろうか? いずれにせよ鎌倉軍は奥州に侵攻していきそう。
でも秀衡がいれば奥州も一枚岩で結束するから史実のように簡単には倒されることはない。
義経は山岳地帯を利用した遊撃隊で鎌倉本隊を翻弄する役割かな。
もちろん平泉側が勝利ってことはないだろうけど。
よくて和睦、悪ければ数年後に完敗ってところか。 >>172
信長は秀吉より低いじゃねえかよ
信長崇拝病は『学級崩壊』が社会問題と化した1998年から『日本史崩壊』と同時にスタートしてるw >>186
京都を離れて信濃に帰るのか
おそらく周りは付いてこないだろう
平家は西国で盛り返し
頼朝は義仲を警戒して京都に進めず
義仲は北信越で地盤固め
三国志の様相となるか 木曽義仲の京支配を天下三分の計のごときと記したのが九条兼実。 >>1には
登場の仕方と言い死に際と言い似通ってると書いてあるが >>191
義仲は追い込まれて敗死だが義貞は盛り返してきていたなかでの急死だからな。 同じような死に方をしてるのは事実。
しかも同じような登場までしてるようなのも事実 両者とも弓が眉間に当たって亡くなりましたとさ。
太平記の作者がわざと似せたのかもしれないが >>193
義仲は頼朝と平家と奥州の日本4大勢力。
義貞はまだ足利が分割してなかったから2大勢力。 義仲は最期がもうちょっと何とかならんかったかと思う
兼平の見事というしかない自決ぶりに完全に食われてしまってる
平家物語だと、巴御前と兼平の今井兄妹が最後全部持ってったみたいな感がある そう言われているけど根拠は何もないんだよな
ちなみに朝比奈義秀はその息子だという伝説がある 木曽義仲は源義経に惨敗したのが痛かった
もう少し見せ場はなかったのか 西に平家 東に源氏
南に小粒の新宮行家
義仲包囲網が出来ていた状態ではどうにもならんじゃろ 最期は義経も似たようなものではある
寡兵劣勢もはやこれまでというところで、義仲は田んぼにはまり、義経は寺にこもった
粟津に小屋でもあれば、兼平は弁慶と同じく義仲の自害まで絶対死守したかもしれん
もはやこれまで、という場面で総大将たるもの自決するか、最後の突撃で戦死か
捕まって刑死するかだが、日本では自決が一番多い感がある
義経、正成、勝頼、信長、久秀、信長、吉継、秀頼、隆盛に旧軍の司令官たちと各時代に満遍なくいる
義貞、義仲、光秀らは少々特殊な感がある
最期まで戦って死ぬというのは意外と珍しい気がする
足利義輝、天草四郎、山崎大佐とか、海外だがコンスタンティノス11世の突撃の
話はさすが最期のローマ皇帝と思う 自決を選ぶのは、日本は晒し首という習慣があるからじゃないの?
真田幸村も最後まで戦った派かな >>207
湊川の戦いで楠木は逃げようと思えば逃げることはできた。 光秀、秀頼、隆盛も生存説があるな
だからこそ首実検して本人確認したことを満天下に示さねばならん 源義経と真田幸村は最期から生存説に至るまでの経緯が似すぎてて転生者かもよ >>213
忠臣が必死の奮戦で守る中寺にこもって自害という点では
信長と義経は似てるが、あとは全然違うな 九州で大暴れした義親。のちに同じく九州で大暴れするその孫(甥という説も)為朝。
原康史の『檄録日本大戦争』では義親の腹心の部下を、のちに為朝の参謀になった老将として登場させている。 後醍醐天皇が臨終で最大の忠臣だと言及したのが新田義貞 徳川家康は義貞の新田源氏を自称してる。
どんな理由があったのかは知らないが。
まあ義貞が鎌倉打倒の名将であったのは事実だが。 >>236
鎌倉時代頃、土豪だった松平氏が賀茂氏と同じ紋を使っていたというだけ
家系図があるわけでもないし、ただ紋を拝借しただけとも >>235
家康が名乗った新田源氏の得川氏は
義貞が出た新田宗家とは鎌倉時代初期に分かれているので
家康の先祖が新田義貞ではない >>239
女系を辿ると間違いとも言えん。酒井氏は賀茂氏。 >>240
厳密には違うんだろうけど義貞は権現様の先祖として幕府から別格扱いされてた >>242
家康は吉良と良かったんだからそのへんの分かれにしてもらったら良かったのに? >>243
家康が源氏を名乗った理由は不明なので推測になるが、
松平氏を吉良氏の分家とすると、
足利将軍家庶流として、吉良氏と並立する今川氏に劣ってしまうことになる
新田と足利はかつての宿敵で同格
今川が足利の庶流なら、こっち(松平)は新田の庶流だと、家柄的に対抗できる >>244
徳川なんて一族でも末席だろう。吉良や今川は新田一族なら里見とか大館という感じだろう。 それでも家康は足利を頂点とする一門ピラミッドには、たとえ僭称でも入りたくないんだろう 新田一族から征夷大将軍が出たので義貞は我が意を得たり! 家康の祖父の清康が新田一族で本宗家に次ぐ世良田を名乗っていた
徳川は世良田の庶家にあたる >>248
宗家より山名・岩松・里見・大館の方が勢力を持っていた新田一族。 >>249
それらの庶家は新田本宗家から独立した御家人だから >>247
まさか子孫から征夷大将軍が出るなんて思っていもいなかった >>248
世良田より吉良の庶家の方が通りが良さそう。 >>251
新田義重の子孫ではあるが義貞の子孫ではない。 >>253
新田一族には変わりないだろ?
つまり家康も義貞も同一族である >>254
そんなこと言ったら義家まで遡れば足利とも縁続き。
経基も遡れば源頼政とも縁続き。 家康が自分は新田源氏だと主張してる。
足利家の子孫だとは言わなかった。
また家康が何ゆえ新田源氏に拘っていたのかは分からないが。 >>242
江戸幕府は新田義貞を家康の先祖扱いもしていないし
別格扱いにもしてないぞ?
水戸光圀なんかは楠木正成の顕彰碑を湊川に建てたりしてるけど
新田義貞は完全無視だし >>260
残念だが江戸幕府は新田義貞を別格扱いしてる
その証拠に新田一族が収めてた世良田は幕府から直接援助されるという優遇を受けている おそらく徳川家康は新田義貞の大ファン。
水戸光圀は違っただけだな。 >>261
残念だが世良田と新田義貞は別物だ
世良田に家康を祀る東照宮が建造されたのは3代将軍家光のときで
世良田に繋げる家系図を朝廷に提出したものだからあわてて
ここが徳川家発祥の地であると言い出した 世良田氏は断絶してるんだよな
本物の子孫がいたらやりづらいが
断絶した家なので正当な子孫がいない
そこへ家康の5代前だという出自不詳の有親を
落胤としてくっつけて家系図を作った
尚、世良田氏は平安時代末期に新田宗家から分かれた家で
新田義貞の子孫ではない←重要 残念だが家康は新田源氏を自称してる
これが全ての証拠 家康自身が俺は新田源氏の子孫だと自称してるんだから(それが遺伝的に事実でなくても)
それでいいじゃないか
後世の人間がああだこうだと評するのもおかしい 新田じゃなくて世良田一族の得川な
得川が本来の苗字なので吉字を当てて徳川とし
松平から徳川に苗字を変えている
そんなに新田が好きなら新田家康でよかったのにそうしてない
そして家康自身、新田義貞が先祖だなんて一度も言ってない >>260
あ〜あ水戸光圀大日本史を読んでないのがわかるわ。
めんどくさいが全文のせるぞ。
徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」 >>260
あ〜あ水戸光圀大日本史を何も読んでないのがわかるわ。
めんどくさいが全文のせるぞ。
徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/ 徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
徳川家康は新田義貞の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/ >>270
>>271
残念
水戸光圀は新田義貞の子孫だなんて一言も言ってない 徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
徳川家康は新田義貞の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/
このサイトをよく読め >>270
>>271
水戸光圀は楠木正成のほうが賛美してるがなw >>274のサイトで結論が出た。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を超特例扱いしてた >>274
お前、自分のブログの宣伝うるさいわw
「徳川家康は新田義貞の子孫なり!」
大日本史のどこに書いてあるの? >>274のサイトで結論が出た。
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も賛美していて。
さらに江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いしていた。
ハイ終了 >>274 のどこにも
徳川家康が新田義貞の子孫だとは書いてない はい、このサイトで結論が出た。
http://shonenji.net/nitta/
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も礼賛していて。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いにしていた。 はい、このサイトで結論が出た。
http://shonenji.net/nitta/
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も礼賛していて。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いにしていた。
はい論破で終了〜 >>282
二人の桜吹雪のようなパッと散る人生が信長なんかよりも魅力的。 太平記の新田義貞の海を引かせる名場面は痺れすぎる。 >>280
>>281
寺が勝手に家康公は新田義貞の子孫であることを
誇りに思っていたに違いありませんといってるだけで
江戸幕府側の史料じゃないしw 残念ながら家康の死後に天海が作成した「東照大権現縁起」にも
家康は義貞の子孫だと記されてるよ 家康が義貞の子孫と自称してたと記されてる
『東照大権現縁起』を知ってる人間なんて歴史家ですら少ないんだよなあ
もちろん家康が義貞の自称してただけでDNA鑑定とか当時にすれば違うんだろうけどな .
結論。
遺伝的に真実かはわからないが徳川家康は新田義貞の子孫を自称していた。
南光坊天海が作成した『東照大権現縁起』に記されている。 >>289
得川氏は義貞より前に分かれているのになんで子孫や? >>288
>>289
「東照大権現縁起」を読んでみたが
それを言ってるのは家康ではなく天海じゃないか
「伝教大師最澄(天海の宗派である天台宗開祖)は
山王権現(日吉大社・天台宗延暦寺の鎮守社)を厚く信仰した
山王権現は霊験あらたかで新田義貞は北国へ下るとき子孫繁栄を祈願した
そのお陰で東照大権現(家康)は天下を取れたのである(要約)」
家康自身は浄土宗であり、生前、天台宗や日吉大社を庇護した形跡はない
しかし家康死後、天海の選定により天台宗と関係の深い山王権現から
家康の神号を東照大権現とすることに成功した
東照大権現縁起は、天海によって、天台宗や山王権現のおかげで
こんにちの徳川将軍家の繁栄があるのだと3代将軍家光に訴えるために書かれた
この願いは届き、家光のときに天台宗寛永寺が徳川将軍家菩提寺となり
天台宗は徳川将軍家の庇護を受けることになった 家康の葬儀を取り仕切るぐらい側近中の側近である天海が断言するからには真実なのであろう。 家康は新田義貞の子孫だとも言ってないし
新田義貞が天台宗延暦寺の鎮守社日吉大社に祈願したおかげで
私は天下を取れたのだとも言っていない >>293
川越の喜多院とか天海がらみで立派だよな 葬儀を仕切るぐらい家康の側近中の側近でもある天海が家康は義貞の子孫だと文章に残してある。 >>305
家康は言ってないんだが
そもそも家康は新田義貞が山王権現に祈ったおかげで
自分は天下を取れたなんて言うわけがないだろう
家康は天台宗も日吉大社も庇護していない
家康は、息子の結城秀康が死んだ後
養子先の結城家が曹洞宗であるため曹洞宗の寺に葬られたら
徳川(松平)は浄土宗だから浄土宗の寺に改葬しろと命じて本当に改葬させた
浄土宗しか信仰してなかった 家康が最も信頼してた天海が断言してるからには家康は義貞の子孫。 家康が本当に新田氏の子孫である可能性は低いと思うが、先祖が関東で、南朝方で活動していた事実はあるのではないだろうか。
成瀬氏、大久保氏、石川氏など古くからの譜代には、やはり南朝方での活動の伝承が残されているし。
自家の系譜を粉飾するにしても、実質初代の徳阿弥が京からでも流れてきたことにすればいいのに、わざわざ「関東出身の南朝方」と限定するのは、そういう事実があったからでは? 三河の由良氏が南朝新田遺臣だから、
地元で古来からそれを知ってた松平氏が、
岩松氏や横瀬(由良)氏の新田系図手法をヒントに、天海がパクったって事。 新田義貞公のスレはここぐらい?
たしかに木曽義仲の人生と被るわ >>312
一発屋同士だが2人がいなければ平家を打倒できなかった >>314
足利千寿王が鎌倉から脱出できず殺されていたらどうなったんだろう? >>318
千寿王なしに義貞は鎌倉に勝てたんだろうか? >>319
一応、後醍醐天皇の綸旨に従ったんだろ
4歳の千寿王を人質として預かっていた赤橋守時がちゃんと殺していれば
皆北条高時に鞍替えして鎌倉幕府は万全だったとは思えん
足利尊氏は六波羅探題滅亡は自分の功績、鎌倉幕府滅亡は千寿王の功績
すべて足利尊氏親子の功績であると太平記で言ってるけど もし千寿王なしで戦線が膠着した場合尊氏は東下してきたかな? 六波羅探題滅亡も佐々木道誉や赤松円心の尽力あってだし
当時の尊氏にそこまでの兵力はないだろ 義貞が鎌倉を攻めきれなかったら当分睨み合いということか? 尊氏・千寿王にそこまでの人望があったのならば
鎌倉幕府の御家人は一斉に京にいる尊氏のもとへ参じなければ
おかしいが 武将たちは北条に対して不満は持っていたけど個別で旗揚げできない。
そこに後醍醐天皇の錦の御旗と中核になる大物足利氏が現れたのでそこに集まった。 >>326
六波羅を楠木・赤松・名和・千種だけで落としていたら後どうなっただろう? >>329
赤松が山陽路の兵を糾合し山陽路を六波羅に攻め上ったに対し、千種は山陰路で味方を糾合し丹波路から六波羅に攻め上った。両者攻めあぐねて、尊氏が丹波篠村で鎌倉に反旗を翻すことになるのだが。 モッくんも知らねえのかよw スシ食いねえシコふんじゃった。
ガイじゃのう。 >>335
船田義昌は高師直や恩地左近に比べ空気。 足利義詮・直冬と楠木正行・正儀に比べ新田義顕・義興・義宗は空気。
だけど楠木正時は超空気。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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WP9 家康は日吉大社を信仰してないぞw
天海が新田義貞は日吉大社で戦勝祈願をした
だから日吉大社を鎮守社とする延暦寺と天台宗を
新田流得川氏を称する徳川家は庇護しろ、と家光に言っただけ
ちなみに徳川家は朝廷に提出した家系図でも
新田義貞の子孫ではない >>346
太田道灌が江戸城を建造するときに勧請して城の鎮守とし
家康も江戸城に入ったときにそのまま城の鎮守にしただけ しただけじゃないだろw
家康は日枝神社は神田明神とならぶ江戸の鎮守とまで評してるぞ 日枝神社も神田明神ももともと江戸にあった神社
家康が厚く信仰する日吉大社にこそ江戸を鎮守してもらおうと
本家日吉大社を分社したものでもなんでもない >>359
項羽に一番近いのは武田勝頼、宇喜多秀家、牟田口廉也だろうね。 新田はショウケンから変わったんだっけ?
脇屋が石原良純 ごめんショウケンだったかも
でも大倉がけがでドラマに出られなくなって、
差し替えの映像にわずかに映っていたのだけは覚えてる。 大倉といえば、戦場のメリークリスマスで捕虜とホモった罪で切腹させられる朝鮮人キ役もム泣ける >>30
そんないないだろ
太平記のドラマ見てるけど2万くらいだったはず 新田と木曽も似てるけど
源義経と北畠顕家もかなり似てる 護良親王も義経そのものになってる
武蔵坊とか片岡八郎とか出てきたり
蔵王堂での村上義光自害も佐藤忠信のそれに似せてる 護良親王やろ
青年将校って感じの武将やでな
幕府討滅の指揮の主導権取った人やでな
あれ後醍醐天皇から嫌われて追悼されたんやっけ? 夏休みに馬刺を食べに長野に行く途中、木曾を通って思ったんだが、しかしあんな山深い木曾谷でよく挙兵したもんだな
田んぼも少ないし、義仲はどうやって生活してたんだか でも中山道で人の往来も多く情報はつねに入ってくるんだぜ
決して閉ざされた場所ではないよ >>406
平安時代の山暮らしは縄文時代の暮らしと変わらないんじゃ? /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
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'"´ `ヽ、 / 田舎者つっても源氏のボンボンだし狼藉なんか働くのかな
京都の僧兵がヒャッハーしてるのを責任転嫁されただけなのかも 義仲自身はそうかもしれないが協力してきた豪族どもはそうじゃないからな いそじん「吉村式のマスク会食で大阪コロナが大爆発や」 天皇のために戦った新田義貞なんて楠木正成同様反動勢力の手先だろ。 >>205
「7歳」でオオカミ退治、とあるから武勇は相当なのだろうな
木曾義仲の興亡と越中国の伝説 ettyuukyoudoshi.seesaa.net/article/299381386.html
> ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています