新田義貞と木曽義仲
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登場の仕方といい死に様といい。
これほど似通ってる人物もいない。 >>157
1973年の国盗り物語では斎藤道三とともにダブルヒーロー。 「昭和 信長 人気」で検索すると
昔の信長は人気なさすぎたよ
ただし極一部の偏狂者が必死に信長を持ち上げてたのは今と変わらないところだが >>158
戦前でも江戸期でも義貞は英雄だったんだが? ええ昔の信長は一部の作家が持ち上げてたぐらい
昭和の大河ドラマでも信長は相手にされなかった 木曽義仲を好評化してる新井白石も織田信長は貶している ということは平成が終わると同時に信長の評価は急落しそうだなww すでにバカみたいな信長ageは見られなくなってきてるよ。 >>162
1973年の大河司馬遼太郎の「国盗り物語」オープニングのキャストの最初に織田信長 高橋英樹とあるよ
https://www.youtube.com/watch?v=29Nj5V1DGLg 大河ドラマの最高視聴率は伊達政宗
次が武田信玄
織田信長では視聴率なんて稼げなかった証拠 >>164
信長人気は平成の30年だけでしたなw
これも人間50年夢幻の如くでいいんじゃないかw >>169
これは平成スレで書くべきなのだろうが。
1988年に平均視聴率歴代2位を獲得した武田信玄が翌年の平成から信長人気急上昇と反比例するかのごとく人気急落したのは
昭和まで国民的音楽だった演歌・歌謡曲人気が暴落して代わってJPOPが大ブームになったのと通じる
武田信玄=演歌・歌謡曲
織田信長=JPOP 歴代大河ドラマ平均視聴率
武田信玄=39・2%
徳川家康=31.2%
秀吉=30.5%
織田信長=24・6%
短絡的なニワカが増えてきた平成時代に信長が持ち上げられてる証拠。 信玄や家康の思考経路は思慮が深くないと理解できないだろ
思慮が浅い人間には信長が大好きなんだろうな なんで信長叩きになってるんだ?
戦前に信長評価が少なかったというのならまだわかるが
あと、信長はフィクションでは主役より最重要脇役ポジションを取ることが多い 大河も九州は九州でも西郷ばかりやらず島津維新か懐良・菊池武光をやれ。 戦前どころか昭和後期でも信長は相手にされてなかった。 >>172
まだ平成になった辺りでは信長人気は弱かったんだな
やはり2000年になってから小泉純一郎の登場と同時的に気持ち悪い信長賛美が始まった 義仲の勢力圏は一時的だが信長を上回っているんだよな。
挙兵から僅か数年で畿内を中心に支配したんだからもっと評価されていい。 スレ違いになるが藤原秀衡が1200年くらいまで生きとったらどうなっただろうか? いずれにせよ鎌倉軍は奥州に侵攻していきそう。
でも秀衡がいれば奥州も一枚岩で結束するから史実のように簡単には倒されることはない。
義経は山岳地帯を利用した遊撃隊で鎌倉本隊を翻弄する役割かな。
もちろん平泉側が勝利ってことはないだろうけど。
よくて和睦、悪ければ数年後に完敗ってところか。 >>172
信長は秀吉より低いじゃねえかよ
信長崇拝病は『学級崩壊』が社会問題と化した1998年から『日本史崩壊』と同時にスタートしてるw >>186
京都を離れて信濃に帰るのか
おそらく周りは付いてこないだろう
平家は西国で盛り返し
頼朝は義仲を警戒して京都に進めず
義仲は北信越で地盤固め
三国志の様相となるか 木曽義仲の京支配を天下三分の計のごときと記したのが九条兼実。 >>1には
登場の仕方と言い死に際と言い似通ってると書いてあるが >>191
義仲は追い込まれて敗死だが義貞は盛り返してきていたなかでの急死だからな。 同じような死に方をしてるのは事実。
しかも同じような登場までしてるようなのも事実 両者とも弓が眉間に当たって亡くなりましたとさ。
太平記の作者がわざと似せたのかもしれないが >>193
義仲は頼朝と平家と奥州の日本4大勢力。
義貞はまだ足利が分割してなかったから2大勢力。 義仲は最期がもうちょっと何とかならんかったかと思う
兼平の見事というしかない自決ぶりに完全に食われてしまってる
平家物語だと、巴御前と兼平の今井兄妹が最後全部持ってったみたいな感がある そう言われているけど根拠は何もないんだよな
ちなみに朝比奈義秀はその息子だという伝説がある 木曽義仲は源義経に惨敗したのが痛かった
もう少し見せ場はなかったのか 西に平家 東に源氏
南に小粒の新宮行家
義仲包囲網が出来ていた状態ではどうにもならんじゃろ 最期は義経も似たようなものではある
寡兵劣勢もはやこれまでというところで、義仲は田んぼにはまり、義経は寺にこもった
粟津に小屋でもあれば、兼平は弁慶と同じく義仲の自害まで絶対死守したかもしれん
もはやこれまで、という場面で総大将たるもの自決するか、最後の突撃で戦死か
捕まって刑死するかだが、日本では自決が一番多い感がある
義経、正成、勝頼、信長、久秀、信長、吉継、秀頼、隆盛に旧軍の司令官たちと各時代に満遍なくいる
義貞、義仲、光秀らは少々特殊な感がある
最期まで戦って死ぬというのは意外と珍しい気がする
足利義輝、天草四郎、山崎大佐とか、海外だがコンスタンティノス11世の突撃の
話はさすが最期のローマ皇帝と思う 自決を選ぶのは、日本は晒し首という習慣があるからじゃないの?
真田幸村も最後まで戦った派かな >>207
湊川の戦いで楠木は逃げようと思えば逃げることはできた。 光秀、秀頼、隆盛も生存説があるな
だからこそ首実検して本人確認したことを満天下に示さねばならん 源義経と真田幸村は最期から生存説に至るまでの経緯が似すぎてて転生者かもよ >>213
忠臣が必死の奮戦で守る中寺にこもって自害という点では
信長と義経は似てるが、あとは全然違うな 九州で大暴れした義親。のちに同じく九州で大暴れするその孫(甥という説も)為朝。
原康史の『檄録日本大戦争』では義親の腹心の部下を、のちに為朝の参謀になった老将として登場させている。 後醍醐天皇が臨終で最大の忠臣だと言及したのが新田義貞 徳川家康は義貞の新田源氏を自称してる。
どんな理由があったのかは知らないが。
まあ義貞が鎌倉打倒の名将であったのは事実だが。 >>236
鎌倉時代頃、土豪だった松平氏が賀茂氏と同じ紋を使っていたというだけ
家系図があるわけでもないし、ただ紋を拝借しただけとも >>235
家康が名乗った新田源氏の得川氏は
義貞が出た新田宗家とは鎌倉時代初期に分かれているので
家康の先祖が新田義貞ではない >>239
女系を辿ると間違いとも言えん。酒井氏は賀茂氏。 >>240
厳密には違うんだろうけど義貞は権現様の先祖として幕府から別格扱いされてた >>242
家康は吉良と良かったんだからそのへんの分かれにしてもらったら良かったのに? >>243
家康が源氏を名乗った理由は不明なので推測になるが、
松平氏を吉良氏の分家とすると、
足利将軍家庶流として、吉良氏と並立する今川氏に劣ってしまうことになる
新田と足利はかつての宿敵で同格
今川が足利の庶流なら、こっち(松平)は新田の庶流だと、家柄的に対抗できる >>244
徳川なんて一族でも末席だろう。吉良や今川は新田一族なら里見とか大館という感じだろう。 それでも家康は足利を頂点とする一門ピラミッドには、たとえ僭称でも入りたくないんだろう 新田一族から征夷大将軍が出たので義貞は我が意を得たり! 家康の祖父の清康が新田一族で本宗家に次ぐ世良田を名乗っていた
徳川は世良田の庶家にあたる >>248
宗家より山名・岩松・里見・大館の方が勢力を持っていた新田一族。 >>249
それらの庶家は新田本宗家から独立した御家人だから >>247
まさか子孫から征夷大将軍が出るなんて思っていもいなかった >>248
世良田より吉良の庶家の方が通りが良さそう。 >>251
新田義重の子孫ではあるが義貞の子孫ではない。 >>253
新田一族には変わりないだろ?
つまり家康も義貞も同一族である >>254
そんなこと言ったら義家まで遡れば足利とも縁続き。
経基も遡れば源頼政とも縁続き。 家康が自分は新田源氏だと主張してる。
足利家の子孫だとは言わなかった。
また家康が何ゆえ新田源氏に拘っていたのかは分からないが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています