新田義貞と木曽義仲
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登場の仕方といい死に様といい。
これほど似通ってる人物もいない。 >>207
湊川の戦いで楠木は逃げようと思えば逃げることはできた。 光秀、秀頼、隆盛も生存説があるな
だからこそ首実検して本人確認したことを満天下に示さねばならん 源義経と真田幸村は最期から生存説に至るまでの経緯が似すぎてて転生者かもよ >>213
忠臣が必死の奮戦で守る中寺にこもって自害という点では
信長と義経は似てるが、あとは全然違うな 九州で大暴れした義親。のちに同じく九州で大暴れするその孫(甥という説も)為朝。
原康史の『檄録日本大戦争』では義親の腹心の部下を、のちに為朝の参謀になった老将として登場させている。 後醍醐天皇が臨終で最大の忠臣だと言及したのが新田義貞 徳川家康は義貞の新田源氏を自称してる。
どんな理由があったのかは知らないが。
まあ義貞が鎌倉打倒の名将であったのは事実だが。 >>236
鎌倉時代頃、土豪だった松平氏が賀茂氏と同じ紋を使っていたというだけ
家系図があるわけでもないし、ただ紋を拝借しただけとも >>235
家康が名乗った新田源氏の得川氏は
義貞が出た新田宗家とは鎌倉時代初期に分かれているので
家康の先祖が新田義貞ではない >>239
女系を辿ると間違いとも言えん。酒井氏は賀茂氏。 >>240
厳密には違うんだろうけど義貞は権現様の先祖として幕府から別格扱いされてた >>242
家康は吉良と良かったんだからそのへんの分かれにしてもらったら良かったのに? >>243
家康が源氏を名乗った理由は不明なので推測になるが、
松平氏を吉良氏の分家とすると、
足利将軍家庶流として、吉良氏と並立する今川氏に劣ってしまうことになる
新田と足利はかつての宿敵で同格
今川が足利の庶流なら、こっち(松平)は新田の庶流だと、家柄的に対抗できる >>244
徳川なんて一族でも末席だろう。吉良や今川は新田一族なら里見とか大館という感じだろう。 それでも家康は足利を頂点とする一門ピラミッドには、たとえ僭称でも入りたくないんだろう 新田一族から征夷大将軍が出たので義貞は我が意を得たり! 家康の祖父の清康が新田一族で本宗家に次ぐ世良田を名乗っていた
徳川は世良田の庶家にあたる >>248
宗家より山名・岩松・里見・大館の方が勢力を持っていた新田一族。 >>249
それらの庶家は新田本宗家から独立した御家人だから >>247
まさか子孫から征夷大将軍が出るなんて思っていもいなかった >>248
世良田より吉良の庶家の方が通りが良さそう。 >>251
新田義重の子孫ではあるが義貞の子孫ではない。 >>253
新田一族には変わりないだろ?
つまり家康も義貞も同一族である >>254
そんなこと言ったら義家まで遡れば足利とも縁続き。
経基も遡れば源頼政とも縁続き。 家康が自分は新田源氏だと主張してる。
足利家の子孫だとは言わなかった。
また家康が何ゆえ新田源氏に拘っていたのかは分からないが。 >>242
江戸幕府は新田義貞を家康の先祖扱いもしていないし
別格扱いにもしてないぞ?
水戸光圀なんかは楠木正成の顕彰碑を湊川に建てたりしてるけど
新田義貞は完全無視だし >>260
残念だが江戸幕府は新田義貞を別格扱いしてる
その証拠に新田一族が収めてた世良田は幕府から直接援助されるという優遇を受けている おそらく徳川家康は新田義貞の大ファン。
水戸光圀は違っただけだな。 >>261
残念だが世良田と新田義貞は別物だ
世良田に家康を祀る東照宮が建造されたのは3代将軍家光のときで
世良田に繋げる家系図を朝廷に提出したものだからあわてて
ここが徳川家発祥の地であると言い出した 世良田氏は断絶してるんだよな
本物の子孫がいたらやりづらいが
断絶した家なので正当な子孫がいない
そこへ家康の5代前だという出自不詳の有親を
落胤としてくっつけて家系図を作った
尚、世良田氏は平安時代末期に新田宗家から分かれた家で
新田義貞の子孫ではない←重要 残念だが家康は新田源氏を自称してる
これが全ての証拠 家康自身が俺は新田源氏の子孫だと自称してるんだから(それが遺伝的に事実でなくても)
それでいいじゃないか
後世の人間がああだこうだと評するのもおかしい 新田じゃなくて世良田一族の得川な
得川が本来の苗字なので吉字を当てて徳川とし
松平から徳川に苗字を変えている
そんなに新田が好きなら新田家康でよかったのにそうしてない
そして家康自身、新田義貞が先祖だなんて一度も言ってない >>260
あ〜あ水戸光圀大日本史を読んでないのがわかるわ。
めんどくさいが全文のせるぞ。
徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」 >>260
あ〜あ水戸光圀大日本史を何も読んでないのがわかるわ。
めんどくさいが全文のせるぞ。
徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/ 徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
徳川家康は新田義貞の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/ >>270
>>271
残念
水戸光圀は新田義貞の子孫だなんて一言も言ってない 徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
徳川家康は新田義貞の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/
このサイトをよく読め >>270
>>271
水戸光圀は楠木正成のほうが賛美してるがなw >>274のサイトで結論が出た。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を超特例扱いしてた >>274
お前、自分のブログの宣伝うるさいわw
「徳川家康は新田義貞の子孫なり!」
大日本史のどこに書いてあるの? >>274のサイトで結論が出た。
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も賛美していて。
さらに江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いしていた。
ハイ終了 >>274 のどこにも
徳川家康が新田義貞の子孫だとは書いてない はい、このサイトで結論が出た。
http://shonenji.net/nitta/
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も礼賛していて。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いにしていた。 はい、このサイトで結論が出た。
http://shonenji.net/nitta/
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も礼賛していて。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いにしていた。
はい論破で終了〜 >>282
二人の桜吹雪のようなパッと散る人生が信長なんかよりも魅力的。 太平記の新田義貞の海を引かせる名場面は痺れすぎる。 >>280
>>281
寺が勝手に家康公は新田義貞の子孫であることを
誇りに思っていたに違いありませんといってるだけで
江戸幕府側の史料じゃないしw 残念ながら家康の死後に天海が作成した「東照大権現縁起」にも
家康は義貞の子孫だと記されてるよ 家康が義貞の子孫と自称してたと記されてる
『東照大権現縁起』を知ってる人間なんて歴史家ですら少ないんだよなあ
もちろん家康が義貞の自称してただけでDNA鑑定とか当時にすれば違うんだろうけどな .
結論。
遺伝的に真実かはわからないが徳川家康は新田義貞の子孫を自称していた。
南光坊天海が作成した『東照大権現縁起』に記されている。 >>289
得川氏は義貞より前に分かれているのになんで子孫や? >>288
>>289
「東照大権現縁起」を読んでみたが
それを言ってるのは家康ではなく天海じゃないか
「伝教大師最澄(天海の宗派である天台宗開祖)は
山王権現(日吉大社・天台宗延暦寺の鎮守社)を厚く信仰した
山王権現は霊験あらたかで新田義貞は北国へ下るとき子孫繁栄を祈願した
そのお陰で東照大権現(家康)は天下を取れたのである(要約)」
家康自身は浄土宗であり、生前、天台宗や日吉大社を庇護した形跡はない
しかし家康死後、天海の選定により天台宗と関係の深い山王権現から
家康の神号を東照大権現とすることに成功した
東照大権現縁起は、天海によって、天台宗や山王権現のおかげで
こんにちの徳川将軍家の繁栄があるのだと3代将軍家光に訴えるために書かれた
この願いは届き、家光のときに天台宗寛永寺が徳川将軍家菩提寺となり
天台宗は徳川将軍家の庇護を受けることになった 家康の葬儀を取り仕切るぐらい側近中の側近である天海が断言するからには真実なのであろう。 家康は新田義貞の子孫だとも言ってないし
新田義貞が天台宗延暦寺の鎮守社日吉大社に祈願したおかげで
私は天下を取れたのだとも言っていない >>293
川越の喜多院とか天海がらみで立派だよな 葬儀を仕切るぐらい家康の側近中の側近でもある天海が家康は義貞の子孫だと文章に残してある。 >>305
家康は言ってないんだが
そもそも家康は新田義貞が山王権現に祈ったおかげで
自分は天下を取れたなんて言うわけがないだろう
家康は天台宗も日吉大社も庇護していない
家康は、息子の結城秀康が死んだ後
養子先の結城家が曹洞宗であるため曹洞宗の寺に葬られたら
徳川(松平)は浄土宗だから浄土宗の寺に改葬しろと命じて本当に改葬させた
浄土宗しか信仰してなかった 家康が最も信頼してた天海が断言してるからには家康は義貞の子孫。 家康が本当に新田氏の子孫である可能性は低いと思うが、先祖が関東で、南朝方で活動していた事実はあるのではないだろうか。
成瀬氏、大久保氏、石川氏など古くからの譜代には、やはり南朝方での活動の伝承が残されているし。
自家の系譜を粉飾するにしても、実質初代の徳阿弥が京からでも流れてきたことにすればいいのに、わざわざ「関東出身の南朝方」と限定するのは、そういう事実があったからでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています