新田義貞と木曽義仲
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登場の仕方といい死に様といい。
これほど似通ってる人物もいない。 徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
徳川家康は新田義貞の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/ >>270
>>271
残念
水戸光圀は新田義貞の子孫だなんて一言も言ってない 徳川光圀『大日本史将軍伝』
「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」
徳川家康は新田一族の子孫なり!
徳川家康は新田義貞の子孫なり!
http://shonenji.net/nitta/
このサイトをよく読め >>270
>>271
水戸光圀は楠木正成のほうが賛美してるがなw >>274のサイトで結論が出た。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を超特例扱いしてた >>274
お前、自分のブログの宣伝うるさいわw
「徳川家康は新田義貞の子孫なり!」
大日本史のどこに書いてあるの? >>274のサイトで結論が出た。
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も賛美していて。
さらに江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いしていた。
ハイ終了 >>274 のどこにも
徳川家康が新田義貞の子孫だとは書いてない はい、このサイトで結論が出た。
http://shonenji.net/nitta/
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も礼賛していて。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いにしていた。 はい、このサイトで結論が出た。
http://shonenji.net/nitta/
水戸光圀は楠木正成だけでなく新田義貞も礼賛していて。
江戸幕府は新田義貞の菩提寺を特別扱いにしていた。
はい論破で終了〜 >>282
二人の桜吹雪のようなパッと散る人生が信長なんかよりも魅力的。 太平記の新田義貞の海を引かせる名場面は痺れすぎる。 >>280
>>281
寺が勝手に家康公は新田義貞の子孫であることを
誇りに思っていたに違いありませんといってるだけで
江戸幕府側の史料じゃないしw 残念ながら家康の死後に天海が作成した「東照大権現縁起」にも
家康は義貞の子孫だと記されてるよ 家康が義貞の子孫と自称してたと記されてる
『東照大権現縁起』を知ってる人間なんて歴史家ですら少ないんだよなあ
もちろん家康が義貞の自称してただけでDNA鑑定とか当時にすれば違うんだろうけどな .
結論。
遺伝的に真実かはわからないが徳川家康は新田義貞の子孫を自称していた。
南光坊天海が作成した『東照大権現縁起』に記されている。 >>289
得川氏は義貞より前に分かれているのになんで子孫や? >>288
>>289
「東照大権現縁起」を読んでみたが
それを言ってるのは家康ではなく天海じゃないか
「伝教大師最澄(天海の宗派である天台宗開祖)は
山王権現(日吉大社・天台宗延暦寺の鎮守社)を厚く信仰した
山王権現は霊験あらたかで新田義貞は北国へ下るとき子孫繁栄を祈願した
そのお陰で東照大権現(家康)は天下を取れたのである(要約)」
家康自身は浄土宗であり、生前、天台宗や日吉大社を庇護した形跡はない
しかし家康死後、天海の選定により天台宗と関係の深い山王権現から
家康の神号を東照大権現とすることに成功した
東照大権現縁起は、天海によって、天台宗や山王権現のおかげで
こんにちの徳川将軍家の繁栄があるのだと3代将軍家光に訴えるために書かれた
この願いは届き、家光のときに天台宗寛永寺が徳川将軍家菩提寺となり
天台宗は徳川将軍家の庇護を受けることになった 家康の葬儀を取り仕切るぐらい側近中の側近である天海が断言するからには真実なのであろう。 家康は新田義貞の子孫だとも言ってないし
新田義貞が天台宗延暦寺の鎮守社日吉大社に祈願したおかげで
私は天下を取れたのだとも言っていない >>293
川越の喜多院とか天海がらみで立派だよな 葬儀を仕切るぐらい家康の側近中の側近でもある天海が家康は義貞の子孫だと文章に残してある。 >>305
家康は言ってないんだが
そもそも家康は新田義貞が山王権現に祈ったおかげで
自分は天下を取れたなんて言うわけがないだろう
家康は天台宗も日吉大社も庇護していない
家康は、息子の結城秀康が死んだ後
養子先の結城家が曹洞宗であるため曹洞宗の寺に葬られたら
徳川(松平)は浄土宗だから浄土宗の寺に改葬しろと命じて本当に改葬させた
浄土宗しか信仰してなかった 家康が最も信頼してた天海が断言してるからには家康は義貞の子孫。 家康が本当に新田氏の子孫である可能性は低いと思うが、先祖が関東で、南朝方で活動していた事実はあるのではないだろうか。
成瀬氏、大久保氏、石川氏など古くからの譜代には、やはり南朝方での活動の伝承が残されているし。
自家の系譜を粉飾するにしても、実質初代の徳阿弥が京からでも流れてきたことにすればいいのに、わざわざ「関東出身の南朝方」と限定するのは、そういう事実があったからでは? 三河の由良氏が南朝新田遺臣だから、
地元で古来からそれを知ってた松平氏が、
岩松氏や横瀬(由良)氏の新田系図手法をヒントに、天海がパクったって事。 新田義貞公のスレはここぐらい?
たしかに木曽義仲の人生と被るわ >>312
一発屋同士だが2人がいなければ平家を打倒できなかった >>314
足利千寿王が鎌倉から脱出できず殺されていたらどうなったんだろう? >>318
千寿王なしに義貞は鎌倉に勝てたんだろうか? >>319
一応、後醍醐天皇の綸旨に従ったんだろ
4歳の千寿王を人質として預かっていた赤橋守時がちゃんと殺していれば
皆北条高時に鞍替えして鎌倉幕府は万全だったとは思えん
足利尊氏は六波羅探題滅亡は自分の功績、鎌倉幕府滅亡は千寿王の功績
すべて足利尊氏親子の功績であると太平記で言ってるけど もし千寿王なしで戦線が膠着した場合尊氏は東下してきたかな? 六波羅探題滅亡も佐々木道誉や赤松円心の尽力あってだし
当時の尊氏にそこまでの兵力はないだろ 義貞が鎌倉を攻めきれなかったら当分睨み合いということか? 尊氏・千寿王にそこまでの人望があったのならば
鎌倉幕府の御家人は一斉に京にいる尊氏のもとへ参じなければ
おかしいが 武将たちは北条に対して不満は持っていたけど個別で旗揚げできない。
そこに後醍醐天皇の錦の御旗と中核になる大物足利氏が現れたのでそこに集まった。 >>326
六波羅を楠木・赤松・名和・千種だけで落としていたら後どうなっただろう? >>329
赤松が山陽路の兵を糾合し山陽路を六波羅に攻め上ったに対し、千種は山陰路で味方を糾合し丹波路から六波羅に攻め上った。両者攻めあぐねて、尊氏が丹波篠村で鎌倉に反旗を翻すことになるのだが。 モッくんも知らねえのかよw スシ食いねえシコふんじゃった。
ガイじゃのう。 >>335
船田義昌は高師直や恩地左近に比べ空気。 足利義詮・直冬と楠木正行・正儀に比べ新田義顕・義興・義宗は空気。
だけど楠木正時は超空気。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
WP9 家康は日吉大社を信仰してないぞw
天海が新田義貞は日吉大社で戦勝祈願をした
だから日吉大社を鎮守社とする延暦寺と天台宗を
新田流得川氏を称する徳川家は庇護しろ、と家光に言っただけ
ちなみに徳川家は朝廷に提出した家系図でも
新田義貞の子孫ではない >>346
太田道灌が江戸城を建造するときに勧請して城の鎮守とし
家康も江戸城に入ったときにそのまま城の鎮守にしただけ しただけじゃないだろw
家康は日枝神社は神田明神とならぶ江戸の鎮守とまで評してるぞ 日枝神社も神田明神ももともと江戸にあった神社
家康が厚く信仰する日吉大社にこそ江戸を鎮守してもらおうと
本家日吉大社を分社したものでもなんでもない >>359
項羽に一番近いのは武田勝頼、宇喜多秀家、牟田口廉也だろうね。 新田はショウケンから変わったんだっけ?
脇屋が石原良純 ごめんショウケンだったかも
でも大倉がけがでドラマに出られなくなって、
差し替えの映像にわずかに映っていたのだけは覚えてる。 大倉といえば、戦場のメリークリスマスで捕虜とホモった罪で切腹させられる朝鮮人キ役もム泣ける ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています