邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 平原の方格規矩鏡は三角縁と外型を共有
しかし方形鈕孔ではないので青龍3年銘鏡以前の鋳造 >>452
よう、詐欺師!
で、四世紀の奈良県桜井市茶臼山古墳から何枚の方格規矩四神鏡が出土したんだ? >>454
それでも「短期間の同型鏡」であって
卑弥呼は青龍3年銘以前の2世紀中旬に共立されて
青龍3年銘の4年後まで生きていたのであるから
平原の方格規矩鏡は卑弥呼時代そのまんま
結論から言うと、畿内説は詰んだ 後漢と違う方格規矩鏡だろ?
要するに魏代の方格規矩鏡じゃないか。
なんの疑問もない。
青龍3年を中心として、廃墟と化した洛陽に戻った尚方鏡師たちが立ち上げた
再建工房で作られた
後漢と違う魏代の方格規矩鏡だな。
それが卑弥呼に百枚贈られて、
32面が平原に副葬。 三角縁と外型を共有しているのだから平原の方格規矩鏡を中国製と見るなら三角縁も中国製
そして三角縁には景初3年、4年銘がある
詰んでるのはどちらだろうね? >>458
外型を共有している?らしい?
幾何学的な方格規矩鏡>中国北部の鏡
肉彫りの三角縁神獣鏡>中国南部の形質の鏡
共通点を必死に探してやっと見つけたのが
「外型を共有」している?
というだけのことで、
洛陽の鏡である方格規矩鏡と同型の平原の方格規矩鏡が中国製だったとして、
中国から学術出土ゼロでしかも南方の呉の領域の鏡である
三角縁が中国鏡であることにはならない。
詐欺師もいい加減にしろ。 外型を共有ってなによ?
外型を共有しているのなら、
最低限の条件として平原の方格規矩鏡は三角ブチなのだろうな?
だがちがう ・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型
これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。
@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。
後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。
A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、
平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。 鏡笵と外型の違いも分からないレベルの奴が知ったふうな口をたたくな >>462
中国から学術出土ゼロ
知ったふうな口をたたくな 青龍三年のショックが大きすぎて
紀年銘鏡の一覧表で
必死に方格規矩四神鏡と三角縁を並べている憐れな姿
方格規矩四神鏡>漢代からの洛陽鏡
三角縁>南方の呉神獣鏡をベースとした国産鏡 >>465
よう、詐欺師!
中国から学術出土ゼロ
知ったふうな口をたたくな >>467
自分は最新の研究成果を知りませんという自己紹介乙 残念だなあ
詐欺師グループに所属してないからw
悪だくみの最新情報は手に入らないwww 硯で懲りてないようだな
いくら捏造しても
現実がついてこないぞ ・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型
これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。
@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。
方格規矩四神鏡でポピュラーなのは後漢期のものであって、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。
A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、
平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。 そうだな
漢代からの洛陽鏡である方格規矩四神鏡と
南方の呉神獣鏡をモデルにした国産三角縁神獣鏡とは
全くの無関係。
それを無理矢理こじつけようと
妄想を連呼しても真実にはならない >>458
△が魏皇帝から下賜された尚方作方格規矩鏡をコピーしたんだわな
しかも景初四年w鏡までこしらえちゃった 方格規矩鏡をコピーしても△にはならないよぉ。
洛陽ですら方格規矩鏡の後には内行花文鏡や位至三公鏡があって、
その後にようやく南方からの神獣鏡が入ってるんだから。
普通に考えたら、
滅亡した呉から亡命してきた陳さんが
呉から直輸入の技術で神獣鏡を作ったのだろうね。
だから呉の年号鏡があるし、景初四年までこしらえちゃった。
この当たり前の判断を捻じ曲げる限り、
いろんな点で矛盾が生じて混乱を巻き起こし続けることになる。
ある意味、学問的にかき混ぜまくって話題提供し続けるわけで、
邪馬台国論争は盛り上がるわけだけどw >>458
仮にどちらも中国製であっても、女王墓にふさわしいのは圧倒的に平原遺跡だよ。 >>477
>女王墓にふさわしいのは圧倒的に平原遺跡だよ。
平原遺跡って集落遺跡なの? 卑弥呼の居た弥生集落遺跡はどこ? @阿波 >>453 平原の女の古墳が卑弥呼だと
言ってるのは、まずいないのが常識だろ。
せいぜい卑弥呼か?の疑問符つきの
キャッチフレーズに使われるだけ >>481
>5chでは平原=卑弥呼はガチ
だから、平原遺跡って集落遺跡なの? 卑弥呼の居た弥生集落遺跡はどこ? @阿波 中国の三角縁神獣鏡は、
2008年に骨董市で購入したと自称する本が
2015年に発表された。 >>475
日本には縄文弥生を通して、中国系の痕跡遺構はない。
呉から鏡職人だけを連れてきたというならあり得るが。 秦氏の帰化は須恵器の登場から見て4C後半頃だし、須恵器の系統から新羅あたりの
朝鮮陶質土器である事も分かっている。 >>487
で、新羅が中国系である事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系生活土器と中粒種のイネは?
. 邪馬壹國は北部九州筑紫平野に在った
(旧倭都は伊都國・新倭都女王王都は久留米)
伊都國の王は旧倭國王
伊都國は惣座遺跡・肥前国庁跡
新倭國の王は卑弥呼
卑弥呼の倭都は久留米南部(隋書俀國伝のヤマタイ) >>491
伊都國の王は、途中で消滅するような
弱小の王だよ。邪馬台国の時代には
もういなかったんだから。
奴の国の王は旧倭國王
新倭國の王は卑弥呼
卑弥呼の倭都は久留米南部(隋書俀國伝のヤマタイ)
でいいだろ >>483
本人に確認したら(どこの骨董市かも含めて)
とうとう白状しなかったよ。インタビュー記事がある。
鏡の文字も鮮明すぎる。インタビューした教授が
こんなにはっきりしたのは今までみた古代鏡のなかでは
見た事がない、と述べている。
つまりは現代の贋作ということだ。決着はついた。 >>492
>伊都國の王は、途中で消滅するような弱小の王だよ。
>邪馬台国の時代にはもういなかったんだから。
少なくとも卑弥呼王の新倭國が景初二年(238年)十二月に成立するまでは、
女王國に統属している旧倭國王(世有王)は伊都國に居た。 これは他のスレッドの話になるんだけど
パク(朴)氏の話をしている人がいたよ、
何か理由でもあるのかな
子供の頃、一緒に遊んだりしていたんだけど、
ちなみに川崎市川崎区の話 朴氏と言っても、普通の一般人だよ、
・・・そうだと思う
朴 李 金 郭 田
このような名前の人達がいたり、
なぜか多い >>492
倭国王は伊都国の王統だろ。
少なくとも中国側はそう見ていた。 >>497
>倭国王は伊都国の王統だろ。
>少なくとも中国側はそう見ていた。
伊都国王統の倭王は景初二年(238年)以前の旧倭國の王。
卑弥呼は景初二年(238年)以降の新倭國の王。
景初二年(238年)以前の卑弥呼は女王國の王。
卑弥呼は女王國の王であったが、景初二年(238年)に魏は倭國王と認めた。
倭奴國の王統は、107年に帥升によって滅ぼされた。
そして帥升は倭國王となった。
伊都國には楽浪郡からの郡使が訪れているから、
伊都國の王は、帥升王統の倭國王と推定される。 >>498
>倭奴國の王統は、107年に帥升によって滅ぼされた。
そして帥升は倭國王となった。
いや、中国側は倭国を前漢代から朝貢してきた連続した王朝とみなしていた。 福岡市 広報戦略室??認証済みアカウント? @Fukuokacity_pr
比恵(ひえ)遺跡群で出土した石製品が硯(すずり)であることが分かりました。
比恵遺跡群のある福岡平野は「魏志倭人伝」に登場する「奴国(なこく)」の中心部とされています。
邪馬台国時代の「奴国」で、文字の使用を示す発見です。
福岡市博物館「ふくおか発掘図鑑8」で、3/6〜4/1まで展示します。
12:50 - 2018年3月5日
https://twitter.com/Fukuokacity_pr/status/970506712603127809 >>499
>いや、中国側は倭国を前漢代から朝貢してきた連続した王朝とみなしていた。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
永初元年(107年)に倭國王帥升は安帝に生口百六十人を獻じ、
請見を願ったが、却下された。
生口百六十人は倭奴國の捕虜。倭王権交代の証拠である。
安帝は帥升を倭國王と認めたが、
初代皇帝である光武帝が倭奴國に奉貢朝賀と印綬を与えているので、
帥升が倭奴國を継承する王であるとしている。 蝙蝠鈕座内行花文鏡は不思議と副葬品としては重要な位置を占めていない様に見える。
糸島のくびれあたりの潤地頭給遺跡でそれこそ弥生終末期ピンポイントの位至三公銘蝙蝠座鈕内行花文鏡が出土してるが、その墓に特に強い権力者という様相はない。
4世紀後半と見られる一貴山銚子塚古墳だが、棺内に置かれたのは鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡。
棺外に三角縁神獣鏡。
古来からの鏡形式のこだわりがある事がわかる。
このあたりの地域ではこの二種の鏡が最上位なのだろうな。 平原遺跡は明らかに蝙蝠の内行花文鏡が最上位だろ。
と言うか、内行花文鏡の中に序列があるようには思えないね。
籠神社の神鏡である内行花文鏡(十種の神宝)も、形式や年代はバラバラだし。 >>502
漢皇帝と倭王の関係は案外形式的なものじゃなくて
現代みたくトップ(優位勢力)同士の相性が効いてたんじゃないかな。
共和党だと仲良くできるけど民主党だとイマイチみたいな感じで
四葉内行花文鏡の頃はお互い円満にいったたけど
蝙蝠の頃は疎遠になったとか。 >>507
そこに大問題がある。
中国に勢力同士の傾向があったとしたら、
日本にも勢力同士の傾向があった可能性はないだろうか?
つまり、
中華皇帝と誼を通じて権威確立しようとする勢力と
日本独自の世界観で権威確立しようとする勢力。 なんで伊都に上陸じゃなくて末蘆國に上陸したのか?
五百里も陸行なんてしんどいし皇帝からの品々も陸送したの?
ナンパした説にしては末蘆國の人々が海に潜ってるのを見てるから
嵐じゃなさそうだし。
なんで陸行五百里だりょしかも東南ぽ。 >>509
>なんで伊都に上陸じゃなくて末蘆國に上陸したのか?
伊都国は直方辺り 内陸なんだから、そりゃ無理。 @阿波 >>502
>4世紀後半と見られる一貴山銚子塚古墳だが、棺内に置かれたのは鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡。
>棺外に三角縁神獣鏡。
つまり方格規矩四神鏡と内行花文鏡は4世紀後半まで重宝されていたわけだな。
銅鏡を中国での年代で古く論じることはできないわけだ。 というか、八咫の鏡にもなった内行花文鏡が至高なわけだよ。
籠神社の10種の神宝の鏡も内行花文鏡。
内行花文鏡と方格規矩鏡を詰め込んだ平原がいかに高位の王墓であるかわかるし、後漢鏡からはるかに進歩しているから魏代の卑弥呼以降の遺構であることも明白。 え?青銅鏡は、後漢時代が最盛期だよ
魏、晋時代には劣化・簡略化されてる 平原遺跡は独自の進化を始めた魏代以降の女王墓。
被葬者の最有力候補は卑弥呼。 祇園山古墳被葬者の最有力候補は、卑弥呼と奴婢100人。 >>507
>魏皇帝と卑弥呼はかなりウマが合ったようだね。
魏皇帝と卑弥呼は利害一致。 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解) >>514
ですね。
つまり平原遺跡の劣化方格規矩四神鏡こそが魏鏡。 いや、それは後漢鏡のコピー
しかも尚方(官営工房)で作ったものでなく、普通に取引されてる鏡のコピー 畿内説互助会
就職活動
天下り
税金泥棒
観光目当て >>509
秀吉の朝鮮出兵だって、
博多湾から出航してもよさそうなのに、
名護屋浦にわざわざ巨大な城と
兵站基地を作ったんだぞ。
古代では壱岐から伊都に向かうよりも
なるべく少しでも早く上陸したかったんだろ >>526
>秀吉の朝鮮出兵だって、
博多湾から出航してもよさそうなのに
対馬海流に邪魔されて、博多湾から出航できないよ。
だから、名護屋に城を築いたんだよ。 @阿波 >>526
伊都から壱岐に行くのに、呼子から出港するならわかります。
けれども壱岐から伊都に向かうのなら、
壱岐から呼子までは危険ですが、
呼子から伊都までは湾内での沿岸航行でいいので、比較的安全なはずです。
魏使の船酔いがひどくて一刻も早く上陸させてくれと頼んだのでしょうかね。 >>528
>伊都から壱岐に行くのに、呼子から出港するならわかります。
呼子よりもっと西からだね。 名古屋以西。 @阿波 対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)
☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)
潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。
壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)
極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%)
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%) >>530
じゃあ、呼子は大陸からの玄関口なのかな? @阿波 壱岐⇔呼子⇔唐津⇔伊都(楽浪土器)
玄関口といえば玄関口だな。 >>530
>・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
そんなにころころ潮流の方向が変わっちゃ、おちおち安全航行なんてしておれんだろ? @阿波 >>533
現実何だからしょうがない。
むしろころころ変わる潮流を読むからこそ、
壱岐対馬のイザナギイザナミは対馬海峡利権を独占できたわけだ。 >>532
>壱岐⇔呼子⇔唐津⇔伊都(楽浪土器)
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 まあ、壱岐対馬の住人は
普通に穀物の買い出しに行くけど
遣唐使はさんざん遭難してるからな。
地元民が海流と風を読まないと
難しい海域なんだろうなあ。 潮流を読みさえすればほとんど漕がなくても渡れるということだ。 >>534
>壱岐対馬のイザナギイザナミは対馬海峡利権を独占できたわけだ。
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>532
>玄関口といえば玄関口だな。
じゃあ、宗像方面が「世界文化遺産」に認定されて
なんで、呼子方面が「世界文化遺産」に認定されないんだい?
その差をなんと考える? @阿波 >>539
弥生時代の渡海ルートとは無関係。
@阿波は相変わらずアレだなあ、と考える。 >>541
>弥生時代の渡海ルートとは無関係。
あれ? 呼子は大陸の玄関口なんじゃないの?
@呼子は相変わらずアレだなあ、と考える。 @阿波 >>542
弥生時代に玄関口だった呼子が、なんで世界遺産になる必要があるの?
宗像祭祀は4世紀以降。
つまり、畿内が4世紀以降に発展することと連動して、
九州⇔畿内の玄関口である宗像が発展するわけだ。
そして日本の天皇家は畿内で発展するから、
宗像がそのまま現代まで権威を保ち続けて、世界遺産にもなる。
3世紀の壱岐呼子とはまったく無関係の話だね。 いや、沖ノ島の祭祀は筑紫政権が主導したアマテラスを祀るものだったのではないか。 ついでだけど、
漢⇔壱岐対馬⇔呼子⇔唐津⇔伊都
の頃には、唐津が栄えている。
江戸時代の参勤交代宿場町と同じで、ハブ宿場町は栄えるわけだ。
漢が滅亡すると唐津も衰退する。
何が言いたいかと言うと、
宗像祭祀が始まる4世紀こそが、畿内が発展し始める時代だってこと。
よく畿内説が、
4世紀北部九州が衰える衰えると言うけど、
それはブーメランであって、
畿内が盟主になって外交するのなら、その中間宿場町になる北部九州は、
むしろ栄えなければならない。
それが衰退するということは、畿内の開発にエネルギーを費やしたから。
4世紀畿内には何も無いから、畿内と九州を接続しても、
九州にとっては何の利潤も生まれなかったわけだ。
4世紀に畿内を開発して、畿内が成長したから、
4世紀からハブ宿場町の宗像祭祀は栄えるし、
中国⇔壱岐対馬⇔北部九州⇔畿内で、
5世紀6世紀の北部九州は金銀財宝の最盛期を迎える。 >>543
>弥生時代に玄関口だった呼子
なら、宗像のように、朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>546
呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに、なんで鉄鋌(てってい)を落とすんだ?
脳みそを車検に出したら? >>547
>呼子を通って唐津か伊都に上陸するのに
なら、宗像のように、「唐津か伊都」に朝鮮半島の鉄鋌(てってい)もあるよね? @阿波 >>547
じゃあ、宗像方面が「世界文化遺産」に認定されて
なんで、呼子方面が「世界文化遺産」に認定されないんだい?
その差をなんと考える? @阿波 >>548
唐津や伊都は主要宿場町や首都なのに、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きするんだ?
鉄鋌(てってい)は宗像で一旦集めてから、
紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
完成品である鉄器が、唐津や伊都に出土
なるほど宗像には鉄鋌(てってい)が出るのだな。
まさに
北部九州⇔畿内など東方
を接続する東方への宿場町だったわけだ。 >>545
>5世紀6世紀の北部九州は金銀財宝の最盛期を迎える。
むしろ畿内より九州の方が栄えているだろ。 >>550
唐津や伊都が主要宿場町や首都だったら、なんで鉄鋌(てってい)を荷解きしないんだ? @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています