邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>740
>そこからさらに八葉の超大型内行花文鏡にまで進化するのだから、
それ、進化だと思うの?
理由は? 須久岡本=大国主は、
自らの権威の集大成として、
漢に誼を通じ、
57年金印授与にこぎつけた。
これまでは楽浪郡使が定期的に来ていたのだが、
今回は違う。
漢と交渉して、
漢本国からの漢使が金印を携えてやってくる。
それは57年。
57年に向けて、
自ら構築した木材供給網をフル回転して、
漢使が通る沿道の家々を新築し、
漢使の宿泊する三雲の迎賓館、
そしてもちろん、漢使から金印授与される檜舞台となる吉武高木の宮殿も
全て新築する。 だが、日本海沿岸や瀬戸内沿岸からの木材輸送網は、
あくまで平時用のもの。
急に大量の木材を送れと言っても、
伐採人員も、輸送人員も、決定的に足りない。
だから、
漢使が来る直前になって、
自領である奴国の森林を大量伐採せざるをえなくなる。
大量の住居や工房群に対して禁止してきた、
那珂川流域の森林伐採。
それでも監視の目を盗んで伐採する者は後を絶たなかった。 もう時間が無い。
なりふり構わず、那珂川流域の森林を伐採して、
漢使を迎える
歴史的一大イベントの準備を突貫工事で成し遂げたわけだ。
考古学的には、
那珂比恵遺跡群の住居工房密集、
そして57年金印の実物出土や文献が裏付けする。 57年に漢本国からの使いがやってくる。
沿道には新築の建物がズラリと並び、
北部九州各地から、
さらには日本海沿岸の倭種地域からの豪族や関係者の
見物客にも、
委奴国の威信をかけた豪華な宿泊施設が提供されている。
漢使は筑前深江駅に上陸し、
三雲迎賓館の自国外交官である楽浪郡使に謁見し、
新築の最高級の部屋に宿泊。
吉日に、
日向峠沿道にずらりと並んだ倭人の好奇の目をうけながら、
吉武高木の新築宮殿へ向かって、
金印授与の式典を行った。 >744
お粗末な平原墓などと比較するのも憚れるんだが、
八倉比賣神社の縁起には、天照大神の葬儀の様子が記されているんだとか。さあいよいよ面白くなって来ました。
これがその謎の祭壇です。私の体と大きさを比べてみてください。高さは約50センチ、一辺は2.5メートルの正五角形をしています。
祭壇は石組みで、このような形の古墳は他の土地ではあまり見ることがありません。
実は徳島にはこのような五角形の囲みの祭壇が2000基以上もあると言われています。陰陽道の五芒星と関係があるのでしょうか?
一説には、この五角形は天照大神、大国主(オオクニヌシ)、少彦名(スクナヒコナ)、埴安媛(ハニヤスヒメ)、宇迦之御魂(ウカノミタマ)の五神を表すとも言われます。
五角形の頂点は天照大神が鎮座すると言われ、ここでも天照大神=卑弥呼、つまり五角形の祭壇は卑弥呼の墓の根拠とされています。 @阿波
「八倉比賣神社」 http://bqspot.com/shikoku/tokushima/569 須久岡本王にとっては、
若い頃に日本海沿岸をまとめあげて、
中広型銅矛を奉じて瀬戸内海の先輩である大山祇と争って勝利して、
大阪湾沿岸の集落に銅鐸を配って和平交渉をしながら、
淡路島に鉄工所を建設。
各地に配置したヒナモリ=恵比寿はよく地方を指導してくれている。
漢使に向かって歓声を上げる人々を見ながら、
新築の建物の数々を見回した。
だが、その向こうに見える山々は・・・禿げ上がっていた。 現代五輪では、莫大な経費を投じて巨大な競技場や宿泊施設を乱立して、
短いイベントが終了した後は、維持費と収益が釣り合わずに問題になっている。
57年奴国も同じで、
文字通り「歴史に残った」一大イベントである、金印授与のために
巨大な宮殿や宿泊施設を乱立して、
弥生時代の経費=奴国の森林資源
を失ってしまった。
早ければ、57年秋の台風シーズン、
おそくとも、58年中(梅雨、台風、秋雨)に、
大雨によって、
禿げ上がった山が耐えきれずに大規模な土石流を生じた。 下水道など完備されていない弥生時代に洪水を生じた場合、
方程式を解くがとごく、
続いて疫病が発生する。
家を失った難民が大量発生。
その難民も家が無事だった人々も巻き込んで
疫病が蔓延。
わずか数か月前の金印授与イベントがまるで夢であったかのごとく、
天国から地獄。
奴国始まって以来の阿鼻叫喚の地獄絵図が突如出現したわけだ。 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 命あっての物種。
須久岡本王は、たまらず、
正妻の実家である出雲=宗像田熊遺跡へ避難する。
その他の豪族も、続々と非難していった。 >>748
何も説明できず文句垂れの畿内説は黙ってて。
もしくは自分の意見の論拠を明示して。 >>570
>高級住宅地と工業地帯は離れている方がいい。
そこまで離さんといかんのかね? 大気汚染が心配なのかな? それとも騒音? 妄想も桁違いだね。 @阿波 倭国の最大発展地域である奴国がいきなり破滅。
動揺が広がり、
本来の王家である、倭国王家を立てる動きが広がる。
倭国王家五皇子の一人である、忍穂耳に声がかかるが、
奴国壊滅の様相にしり込みして、一旦は辞退。
田熊遺跡にて須久岡本王が指導権を返上。
忍穂耳に再び依頼がきて、
息子のニニギを推薦することとなる。 >>755
完全に妄想でワロた。
で、その祭壇から卑弥呼に関わる鏡やら絹やらはでてくるの? 金印を拝領したのは三雲の倭王だろう。
須玖岡本は将軍クラス。
そして三雲南小路遺跡の祭殿である細石神社が、江戸時代まで金印を保管していたという伝承とも一致する。
後漢の頃には、拡大し過ぎた奴国を離れて王宮は糸島に遷都していたのだろう。
それと、奴国の繁栄は金印拝領前に突然でっち上げたものではなく、紀元前から発展していた土地だよ。 忍穂耳=立岩堀田遺跡10号甕棺の被葬者
は、優秀な息子たちに恵まれていた。
本人は、
須久岡本王に遠賀川河口域を譲り、
上流で石器を作ってのんびりと暮らしていたのだが、
那珂川洪水で急に状況が変わった。
聡明な息子の、瓊瓊杵を倭国王に推薦し、
瓊瓊杵は猿田彦などの協力を経て、
先祖代々の吉武高木から見て、高祖山の西側になる、
日向峠を越えて西側の、
三雲に首都を新設。 >>765
伝世。
紀元前から、
倭国王家は吉武高木→五皇子→ニニギ
で、男系直系。
文身を入れていたのだから、
直系は外れようもないし、
傍系は入りようもない。
唯一潜り込めるとしたら、
妃が不貞を働いたときのみ。
だがそれも、古代ならなかなか難しいこと。
古代だから、あやふやなのではなく、
逆に、
文身を入れていたからこそ、
誤魔化しようもなく、
男系が維持されていた。 記紀に、文身をやめようという提案記事があるが、
現代の感覚で、時代遅れだからやめようと思ったのかなあ、というのは間違いで、
紀元前、吉武高木から続く男系王統を、
何らかの理由で揺るがそうとする勢力が、
まずは文身をやめて
つけいる隙を作ろう、と考えて提案したのだろうな。 同時代で三雲の小路が倭王で、須玖岡本が将軍クラスなら、三雲南小路がニニギで、須玖岡本が猿田彦だろう。
そして三雲南小路から、記紀の日向三代、魏志倭人伝の男王70〜80年が始まる。 詳細に検討してみればわかる。
神話時代=北部九州倭国時代
に、吉武高木以来の倭国王統に挑戦したのは、
大国主=須久岡本王=委国王金印(国津神と区別)
卑〇〇=饒速日の男系=親魏倭王金印(記紀から除外)
有史だと、天皇家に挑戦したのは、
足利義満=日本国王良懐とか、
織田信長とか。
日本列島の指導者たる男系に対して挑戦するために、
中華の金印を利用してみたり、
あれこれ努力してみたわけだ。
非常にわかりやすい構図だ。 天孫族の倭王男子相続が崩れるのが、倭国大乱の後の卑弥呼即位だね。
ニニギの末裔である神武が筑紫の日向を出て東征したので、天孫族の末裔の歴史書である記紀には卑弥呼は出てこない。
旧約聖書の出エジプト記にピラミッドを建設したエジプト王朝が描かれないのと同じこと。 >>769
須久岡本王は57年まで西日本を支配していたのだが、
57年に漢使を招いて金印授与式典まで開いて、結果的に失脚した。
水浸しとなった奴国から、
東の出雲=宗像に避難した須久岡本王は討たれ、
西の三雲=魏代伊都に首都を新設したニニギが倭国王となった。
ニニギの兄、ニギハヤヒが淡路島鉄工所を維持して、
さらに銅戈で大阪湾沿岸を占領して、
安芸広島を占領して、
越後信州タケミナカタも制圧した。
つまり、須久岡本王の残党を制圧して、
ニニギ倭国を安泰なものとしたわけだ。
須久岡本王は日本海沿岸の自分の荘園に封印され、
ニギハヤヒは須久岡本王の無念を封じるためにあえて須久岡本に埋葬された。
織田信長の建勲神社を見たらよくわかる。 >>764
>で、その祭壇から卑弥呼に関わる鏡やら絹やらはでてくるの?
庶民の墓、平原だから発掘ができたのだろうが、
気延山自体がご神体なので発掘などもってのほかなんですよ。 一般の墓と一緒にされると迷惑。 @阿波 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
ジョボw
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 >>774
クズの相手すんなよ。
もっと気高く生きていこうぜ! つまり須久岡本王は、
もともと住居や工房が乱立して森林資源が枯渇していたところに、
吉武高木帝王に対抗するために、
57年金印授与イベントに森林資源をつぎ込んでしまって、
大規模土石流を発生してしまったわけだな。
だから
須久岡本王は出雲=田熊遺跡へ避難した先で失脚
瓊瓊杵もわざわざ三雲まで遷都。 北部九州倭人が、
九州外の土地を外征する前に、
自分の国境で、祭祀銅矛(銅戈)を故郷の大地にぶっ刺して、
出征し、
毛人の土地を占領して、領有宣言として、
祭祀銅矛(銅戈)を占領地にぶっ刺した。
出征前にそれぞれの銅矛(銅戈)を祭壇に並べて飾ったのが
鳥居いの原型。 >>778
おまえ、それぞれの遺跡の年代をわかってないだろ。 平原女王墓が3世紀であることを否定する証拠は
無い、
ということで結論。 銅鐸出土図を見ると、あたかも畿内が銅鐸分布圏だったかのように見えるけど、
実はスカスカなんだよね。
銅鐸の音が響く範囲を500mとしても、
銅鐸の音が届くのは、
銅鐸を中心とした半径500m、1km四方ということになる。
これだと
銅鐸出土数と照らし合わせた場合、
畿内の隅々に銅鐸の効果が行き渡っていたとはとても言えないわけで、
集落があちこちに分布する中に、
銅鐸がポツンポツンと食いこんでいる、
というのが
実体図となる。 >>781
平原墓が3世紀であろうが大きな鏡が出ようが、
そんな平地にある、ジョボw い墓が王墓などと、片腹痛い。
まぁ、そんなものにでも頼らないとほかに何にも無いから仕方がないのだろうが @阿波 北部九州に、原始稲作を知っている人たちがやってくる
→北部九州から、全国の原始稲作適地に入植していく
北部九州に、ちょっと高地でも育つ稲を持った人たちがやってくる
→北部九州から、全国のちょっと高地に入植していく
北部九州に、河川をちょっと改修できる人たちがやってくる
→北部九州から、全国の河川のちょっと改修できる場所に入植していく
北部九州に、湿地帯を灌漑できる人たちがやってくる
→北部九州から、全国の湿地帯を灌漑しようと入植していく
これの繰り返し。 稲作集落が形成される。
不便な場所で誰も使わないと思っていた場所に、
北部九州からやってきた後進集団が、
河川改修したり、灌漑したりして、
新たな集落を築いていく。
別々に共存できるわけでは無く、
そこで水を堰き止められて、下流に流れてこなくなったり、
汚物を流されて、下流が汚染されたり。
争いが生じて、
ゆくゆくは、どちらがどちらの支配下に入るのか、
という問題になる。
考古学的も弥生稲作集落は争いだらけ。 そこで必要になるのが銅鐸。
例えば鴨一族が畿内に入植したとして、
本国である北部九州からの援軍はあてにできない。
だが、畿内には王国があるわけではなく、
中小のムラがいっぱいあるだけ(記紀によると
だから大規模な軍団に包囲されて殲滅されるということはなく、
攻められるとしても
せいぜい近隣の集落から、
十数人〜数十人で襲われるだけ。
環濠集落を作ってしまえば、
攻めてこられても、
銅鐸を打ち鳴らして環濠の中に逃げ込んでしまえば、
なかなか入ってこれない相手を、
弓で適当に打倒していれば逃げていく。
襲う側からしてみれば、
弓で射られて犠牲者を出す割には、
何の利益もないわけだ。 だから襲う側が攻めてくるのは、収穫期だけ。
収穫期に襲撃して、
収穫して積み上げられたばかりの作物を奪い、
収穫中の集落民を拉致していく。
もし、環濠集落を本格的に攻め滅ぼすのなら、
周囲の集落群と連携して、大規模な軍団を形成して攻め込むしかないが、
そのような指導者は畿内には唐古鍵などわずかしかいない。
襲撃する側にとっては、
収穫期に鴨一族を襲って嫌がらせをするくらいが精一杯であり、
鴨一族にとっては、
収穫期だけ銅鐸配備して気をつけていれば、
全滅することなど無かったわけだ。 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 >>785
>→北部九州から、全国の原始稲作適地に入植していく
入植していくと言いながら、忌部一族のように入植していった部族がいないというw @阿波 >>554
>紀元前は丹後の扇谷遺跡鉄工所
>紀元後は淡路の舟木・五斗長垣内鉄工所へ輸送して、
>鉄器生産したんだよ。
はっ、はっ、はっ、 北部九州では鉄器生産しなかったのかね? ちょっと、お粗末だね、北部九州。 @阿波 魏使の上陸地点が筑前深江駅なら、
朝鮮半島南部→対馬が千里
対馬→壱岐も千里
壱岐→呼子→唐津→筑前深江駅も千里で
ピッタシだな。
渡海千里には純粋な渡海部分におまけの沿岸航海を含むことになり
女王国から東に渡海千里もまた
宗像から豊国を沿岸航海して残りを渡海で本州でよいわけだ。 帳政は倭人船で往復している。
倭人船が出入港に神事があるだろうことを思うと
芥屋浜が海流潮の見極め母港ではないかと推測する。
距離はいいでしょ?
伊都へ500里だと、伊都は今宿〜早良西麓。
其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹
この一分のソースとして、持衰についての情報は政帳以外が知り得たとは思えない。
梯儁については魏の軍船で来日であるから
伊都を目指すにしても、いったんは目視で接岸可能な糸島野北に付け
案内人を雇い、今宿か今津浜あたりに上陸したと考える。
深江は地形的に隠れ場所の無い風に弱い平浜っぽくて
倭の王船の母港には向かないんじゃないかな?
アースで見た限りでだけどねw >>791
忌部氏なども、その起源について考えてみると
他説だと意味不明である。
神代の岩戸隠れ神話における、天太玉命が祖とされており、
神話中では、天児屋命と共に鹿の骨で太占を行い、
ニニギの天孫降臨に付き添った五伴緒でもある。
高皇産霊神の眷属。
その子孫に忌部五部神があり、
出雲忌部が玉
紀伊忌部が材木、宮殿造影
阿波忌部が木綿、麻
讃岐忌部が盾
筑紫・伊勢忌部が刀・斧・鉄鐸・鏡
他に、備前・越前にも忌部がいる。 前には、伊部(いんべ)という地名が残っており、
焼き物(伊部焼)
刀剣
などは備前のみならず日本の誇る工芸品である。
このスレの住人であれば、「伊」の文字を見た瞬間に閃くものがあるだろう。
越前には、備前と似たように、
焼き物(越前焼)
織田剣神社、を初めとする数多くの剣神社、
が存在する。
織田剣神社はあの有名な織田信長の織田氏の先祖であり、
社伝には、伊部郷にスサノオを祀ったとか、
伊部の臣なる人物が剣をスサノオの御神体として祀ったのが織田剣神社の名の始まり、
などと記されている。 他説、というのは例えば畿内説や阿波説にて、
紀伊、阿波、讃岐まではまあいいであろう。
備前、まあ瀬戸内海中までよかろう。
伊勢、伊勢神宮もあるし、まあよかろう。
出雲・・・日本海にいきなり飛ぶが、銅鐸同笵など結びつきがあったからいいか?
いちおう古墳時代に玉作り遺跡が出土している。
筑紫・・・出雲や筑紫はある意味敵対地域であって、出雲の玉ならともかく、
刀・斧(武器)・鉄鐸(たぶん銅鐸)・鏡(威信材)を筑紫に作らせるっておかしくない?
越前・・・なんでそんな辺境に?
真面目に考えるとわけがわからない。
だが、北部九州説なら綺麗に説明がつく。 忌部氏(伊部氏)とは、神代まで祖がさかのぼるのだから、
弥生時代から存在した技術者集団なわけだ。
弥生時代に生産特化した技術者集団であるから、
まずは鉄器そのものを作る。
戦乱弥生時代であれば、鉄製武器が主だろう。
そして他の品々を生産するにしても、
弥生時代にまともな製品を作ろうと思ったら、
なにをするにも鉄製工具が必要なわけである。
つまり、弥生時代に忌部氏(伊部氏)が仕事をするには、
鉄器が必須であり、鉄製工房のそばにいるのが一番仕事をしやすいわけだ。
また、技能者集団である忌部氏(伊部氏)は、貴重な人員であり、
例えば、敵襲Jアラートである銅鐸が必要な辺境の集落などには決して配置されない。
北部九州倭国軍が治安を保証した、鉄器が分布する集落にのみ
忌部氏(伊部氏)は居住して生産を行うわけである。 北部九州説であれば説明がつく。
紀元前3世紀に吉武高木王配下の東征将軍スサノオが、
越の八岐大蛇石剣部族に勝利して、
八岐大蛇の頭部(九頭竜川流域)を占領し、
八岐大蛇の体部(若狭湾)に水軍基地=一大率の前身=戦前日本海軍、現代の海上自衛隊まで続く日本海沿岸の海軍要衝
八岐大蛇の尾部(丹後半島)に扇谷鉄工房遺跡を建設した。
次に、日本海沿岸を統一した須久岡本大国主中広型銅矛が、
瀬戸内利権を持っていた大山祇平型銅剣に勝利して、
淡路島に舟木鉄工房遺跡を建設した。
そして、奴国大洪水で失脚した須久岡本王に代わって、
倭国王となった、三雲南小路邇邇芸の兄、饒速日銅戈が、
大阪湾沿岸まで征服して、淡路島に五斗長垣内鉄工房遺跡を建設したわけだ。
その孫の代になって、倭国乱が発生し、
日本海沿岸を従える伊都邪馬台国と、
瀬戸内沿岸を従える筑後狗奴国が争った。
伊都と敵対する狗奴国には朝鮮半島からの鉄原料が入らなくなり、
淡路島の鉄工房遺跡は操業停止。
伊都の卑弥呼は朝鮮半島に臨時の鉄工房を作った後、
戦局を優位に進めて、邪馬台国傘下の丹後若狭湾から南下した琵琶湖湖畔に
稲部鉄工房遺跡を建設する 忌部氏(伊部氏)の仕事は鉄工房が必須なわけだ。
紀元前3世紀から1世紀は、扇谷遺跡の時代。
八岐大蛇を倒して得た、天叢雲剣(草薙剣)とは、扇谷遺跡で伊部氏が製作した剣であり、
吉武高木王、あるいは東征将軍スサノオに献上されて伝世した。
その後も紀元前弥生時代には、扇谷遺跡で鉄工房が維持される。
日本海沿岸を石剣部族と争っている間は、
日本海沿岸に銅鐸配備倭人辺境集落が存在するわけで、
貴重な忌部氏(伊部氏)は、
扇谷遺跡内で鉄製武器を作り、
鉄製工具を輸送した先の北部九州で各種生産を行う。
鉄器の優位によって、日本海沿岸をほぼ制圧してしまうと、
銅鐸集落は必要なくなり、
忌部氏(伊部氏)も扇谷遺跡周辺へ多数進出することになる。
その末裔が織田氏などの越前剣神社末裔だろう。 次に淡路島に鉄工所が移動する。
あとはわかりやすくて、
淡路島を取り囲むように、
しかも北部九州倭国にとっての異地である畿内を避けるように、
備前、紀伊、讃岐、阿波、に忌部氏(伊部氏)が配置される。
備前の忌部氏(伊部氏)は、最も北部九州倭国に近い=重要なわけで、
丹後の伊部氏が移住してきて、
弥生時代最重要の武器を生産した。
紀伊は、木の国。
大国主の時代から、木材の主要供出地であり、
計画的に森林を管理して、建物の建築なども請け負っていた。
紀伊には伊都の名が残っているわけだが、
大山祇、大国主、瓊瓊杵、神武、など、
時代の勝利者を全部引き当てて、常に勝者の元に協力者として参加して、
勝ち組になった、ラッキーな土地柄と見受けられる。
讃岐は盾。
倭国兵の兵装は、
倭国王直属の軍は銅矛、饒速日は東征将軍銅戈。
遠距離武器は鉄鏃(威力重視)と骨鏃(返し・毒)の弓。
防御は朱塗り盾の中央に、武器受け目的の巴型銅器。
巴型銅器は北部九州を中心に出土するし、奴国などから鋳型が見つかっているが、
讃岐の森広遺跡からも巴型銅器の鋳型が見つかっている。
伝承は正しく、讃岐で盾を作っていた考古学的証拠が見つかっているわけだ。 出雲と伊勢が核心に迫る。
まず出雲。
出雲忌部氏は玉を作っていたとある。
そしてそれに符合するように、松江市に出雲玉作遺跡が存在する。
だが、出雲玉作遺跡は古墳時代以降。
しかも鉄器がない。
神代の出雲には該当しないのではないか?
ここで、神代=弥生時代の
北部九州における玉作遺跡に着目してみる。
一つは、押しも押されもせぬ、伊都の潤地頭給遺跡。
玉作工房だけでなく、準構造船も見つかっており、しかも無防備。
伊都倭国王のお膝元にあって、
完全な安全が保障された中で、各地の玉材料を集めて玉作に励んでいたのだろう。 もう一つが、北九州市の城野遺跡。
この玉作遺跡には、
朱塗りの石棺を埋葬した方形周溝墓
そして大量の鉄製工具
が出土している。
ということは、
筑紫倭国に所属する玉作工房であったことが明らかであり、
「筑紫伊部」が、主に奴国弥生銀座、副で潤地頭給遺跡など糸島にいたとして、
島根の玉作遺跡が古墳時代以降であることからして、
弥生時代の「出雲伊部」とは、城野遺跡のことではなかったのか。
という推測が成り立つ。 潤地頭給遺跡が筑紫伊部であれば、
城野遺跡は出雲伊部。
だとすれば、神代=弥生時代の出雲とは、
筑紫以東の、宗像〜門司までの北部九州沿岸であったと推定できる。
つまり、宗像〜門司までの北部九州沿岸が出雲であって、
宗像、稲場=鐘崎、根の国、堅洲の国、などなどが出雲の中にあった、
と考えられることになる。
今後の新発見によって、宗像に玉作遺跡が見つかれば、
宗像=出雲
見つからなければ、
宗像〜門司の北部九州沿岸が出雲、ということになる。 伊勢についても、考古学的に判明した鉄工房遺跡の変遷で明らかである。
筑紫伊部と同じく、刀・斧(武器)・鉄鐸(たぶん銅鐸)・鏡(威信材)を
作っていた忌部氏(伊部氏)。
つまり、
伊勢忌部とは、稲部鉄工房遺跡へ移動して来た忌部氏(伊部氏)のことであり、
弥生時代から古墳時代前期の伊勢とは、
近江、滋賀県のことであった、と考古学的に判明しているわけだ。
ここしかない。 そもそも大国主の頃の出雲が本当に今の島根県だったのかという疑問があったが、それに対する回答として明確だな。
滋賀県の伊勢と三重県の伊勢の関係もわかりやすい。 スサノオは出雲にて、オオヤマツミの孫や曾孫に出会うのだから、
オオヤマツミは既に出雲にいて、八岐大蛇石剣部族と戦っているわけだ。
つまり、
北部九州から広がったのは、
@最初期稲作集団=金属器無しの、石剣部族
A青銅器集団=オオヤマツミを代表とする、銅剣集団
B鉄器集団=筑紫王族の東征将軍スサノオ、鉄製武器
AとBは、方形周溝墓という共通先祖祭祀が共通しており、
近親部族であることがわかる。 オオヤマツミは出雲を足場にして、東方勢力拡大を試みていたが、
青銅器では石器に対して完全優位とはいかず、苦戦していた。
そこに、筑紫において、朝鮮半島からの鉄器入手ルートを確立した近親部族である、
スサノオが来て、
石器部族を駆逐してくれたわけだ。
スサノオは扇谷遺跡を作り、日本海沿岸を開拓していく。
であるから、
オオヤマツミは、競合しない瀬戸内方面に新たに展開していく。 イザナギとイザナミは結婚するわけだが、
よくよく読んでみると、イザナミとは、出雲出身の女性である。
これも、
青銅器出雲オオヤマツミと、鉄器筑紫スサノオ(アマテラス)の構図と同じで、
青銅器出雲イザナミと、鉄器筑紫イザナギの構図なわけである。
遠賀川河口には、縄文時代の山鹿貝塚が見つかっており、
出雲豊国には、縄文時代から巫女女王がいたことが考古学的に判明している。
山鹿貝塚から、イザナミ、宗像三女神、そして卑弥呼、神功皇后(宮地嶽)
巫女女王の系譜が続いていたことがわかる。 鉄器奴国オオクニヌシとその兄弟が、
稲羽(稲場)の八上姫に求婚するわけだが、
これはつまり、
東方へ勢力拡大しようとする、
鉄器奴国の王子たちが、
東方進出するのに必要不可欠な稲羽(稲場)=鐘崎の出雲姫への求婚を争った、
という故事なわけである。
この競争に勝ったオオクニヌシは、
さらに、スサノオ=宗像田熊遺跡の吉武高木アマテラス王族の東征将軍の娘である、
須勢理姫をも娶り、
出雲の要衝=宗像田熊遺跡スサノオ、鐘崎稲場、の巫女指導者を娶って、
出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸を勢力圏に加えて、
東方への足掛かりを作ったわけである。 >>809
>よくよく読んでみると、イザナミとは、出雲出身の女性である。
兄妹婚かと思ってました。
出雲が宗像や遠賀川方面の、後の豊国なら、ニニギと木花咲耶姫の婚姻とまったく同じ図式です。 >>809
>青銅器出雲オオヤマツミと、鉄器筑紫スサノオ(アマテラス)の構図と同じで、
>青銅器出雲イザナミと、鉄器筑紫イザナギの構図なわけである。
筑紫は鉄器、鉄器言わないのが吉。 @阿波 熊本は狗奴国だろ。
まあ、鉄器生産も稲作も盛んな国が、卑弥呼を相当悩ませたんだろう。 >>797
>出雲・・・日本海にいきなり飛ぶが、銅鐸同笵など結びつきがあったからいいか?
朝鮮半島まで、鉄材料を取りに行ってるんだから、日本海の出雲や越前なども倭国(阿波)の海人族の航行範疇。
>いちおう古墳時代に玉作り遺跡が出土している。
これまた、勾玉も倭国(阿波)のオリジナルですね。
徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など
中でも稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、
新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。
出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、
当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。 @阿波 >>797
>筑紫・・・出雲や筑紫はある意味敵対地域であって、
敵対などする訳がない。 出雲や筑紫も倭国(阿波)の拓殖地。
>刀・斧(武器)・鉄鐸(たぶん銅鐸)・鏡(威信材)を筑紫に作らせるっておかしくない?
作らせてなんかいない。 筑紫忌部が筑紫で作って利用し、暮らしただけ。 @阿波 >>797
>だが、北部九州説なら綺麗に説明がつく。
あれっ、とうとう、「忌部」も引き抜くつもり? @阿波 >>798
>忌部氏(伊部氏)とは、神代まで祖がさかのぼるのだから、
>弥生時代から存在した技術者集団なわけだ。
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>798
>北部九州倭国軍が治安を保証した、鉄器が分布する集落にのみ
北部九州は筑紫忌部(一大卒)により、監視され、治安を保証された。 @阿波 >>799-801
忌部一族の全国展開の足跡。 @阿波 >>799-805
忌部一族の全国展開の足跡。 @阿波 >>806-811
ここから、九州説信者の妄想話。 @阿波 倭人伝には登場しない倭人勢力が存在しています。
半島南部、韓の南岸全域の投馬国5万戸である。 >実は本州もだけどwww
北岸狗邪韓國はその一部、邪馬台国の勢力下に有った巨斉島を意味する。
では、いったい彼らはどこから来たか。
邪馬台国連合と無縁なのに青銅器、鉄器の有る 吉備、出雲である。
これら、銅鐸圏の青銅器の特徴は中国製、半島製、邪馬台国製ではない事。
入り会いの弁韓から材料を持ってきて、自製しているのである。
そこから、帰結することは、九州も宗像、遠賀川域、沖ノ島ー隠岐航路は
紀元前より本州海神族勢力の中にあり、倭人伝時代で言うならば非女王属国なのである。
邪馬台国と本州王朝は外国同等であり、ほぼ何のかかわりもない。
魏志が投馬国の説明が不十分なのは
東夷伝序文や評にある、歴代皇帝の 使譯の及ばない国を無視したからである。
評曰 史漢著朝鮮兩越 東京撰錄西羗 魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑 爰及東夷
使譯 時通記述隨事 豈常也哉
でも、陳寿は倭国の事は
>自郡至女王國 萬二千餘里 の
>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
のことしか、知りません。
と、小さな声でも ちゃんとはっきりと告白しています。 だから、卑弥呼の金印紫綬の経路上に無い宮崎は
新婚旅行か天孫降臨じゃなきゃ行かないでしょ?
降臨しても銅矛抜いて山が噴火したら、
龍馬が孫悟空で、Go West で、神武も東遷できない、っての。
なんだこれ? デジャブかよ?
阿波先生の妄想話の祟りでアワワワなのか? オオヤマツミが八岐大蛇に苦戦した理由は、2つある。
一つは、鉄器が無かった=朝鮮半島へのルートを確保していなかった。
壱岐対馬、そして博多湾がまだ統一されておらず、
金属器入手が、中小規模のクニを通した交易レベルにとどまり、
大量入手ができなかった。
もう一つ、最大の理由は、若狭湾。
博多湾はまだ統一されておらず、
オオヤマツミは古代出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸を主な足場として東方展開をめざしたことになる。
よって、オオヤマツミは大規模な水軍を維持する港を持たないのに対して、
八岐大蛇は若狭湾に水軍を維持できるから、
制海権は八岐大蛇の側にあったわけだ。
吉武高木王が筑紫を統一して、壱岐対馬も支配下におさめる事で、
朝鮮半島から鉄原料青銅原料を国家として一括大量入手できるようになった。
そして博多湾を統一したことで、大規模な国家水軍を維持できるようになった。
吉武高木王族の東征将軍スサノオが、先に東へ向かっていたオオヤマツミ一族の女性を娶り、
博多湾水軍は宗像田熊遺跡を足場に東征した。 文明的にはある程度優位だったはずのオオヤマツミでさえ、
若狭湾の石剣部族八岐大蛇には苦戦したわけで、
古代日本海沿岸の制海権においては、博多湾と若狭湾というのは決定的に重要な場所だった。
吉武高木王族の東征将軍スサノオが若狭湾を攻め落としたことで、
博多湾と若狭湾の双方を領有する吉武高木王は、
日本海沿岸を支配するアマテラスとなったわけである。
邪馬台国の時代に、四隅突出型墳丘墓が日本海沿岸に分布することをもって、
あたかも日本海沿岸に出雲国家があったとする説があるが、これは違うことが明らか。
四隅突出型墳丘墓は、若狭湾を越えて富山まで分布するのに、
肝心要の若狭湾は、丹後半島に方形墓を主とする大田南古墳群が支配している。
大田南古墳群は、1号墓を筆頭に、鉄剣鉄刀が大量に副葬される将軍墓であり、
つまりは邪馬台国時代の日本海沿岸は、
伊都平原の方形周溝墓(筑紫博多湾)と、
丹後半島大田南古墳群の方形墓(若狭湾)によって、
相変わらず制海権を支配されていたわけである。
平原1号女王墓と大田南古墳群1号将軍墓とは、方形墓+木棺という墓制が共通しており、
大田南古墳群1号将軍こそが平原1号女王墓の近親者、おそらく父親でないかと思われる。
魏志倭人伝に記された一大率の、丹後若狭湾長官であろう。
また大田南古墳群5号墓からは、青龍三年銘の方格規矩四神鏡が出土しており、
青龍三年銘鏡と同じ特徴を持つ大量の方格規矩四神鏡が副葬された
平原1号女王から親族へ下賜されたものであろう。 開拓最前線(フロンティア)の環濠集落に銅鐸(Jアラート)を配備して、
収穫期の略奪者に備える、
というシステムは、オオヤマツミが考え出したものだろう。
日本海沿岸の制海権は若狭湾八岐大蛇に握られており、
収穫期のたびに襲われていた。
フロンティアに孤立した集落では、場合によっては防ぎきれず、女性を差し出して略奪を免れる、
といった場面もあったことだろう。
当然瀬戸内海にも進出し、これも畿内に近づくにつれて非倭人との接触が増え、
銅鐸配備が必要となっていく。 倭人倭種の中で、古代出雲=宗像〜門司の北部九州沿岸を本拠とし、
早期から東方展開していたオオヤマツミの視点で考えてみる。
@紀元前3世紀までは、若狭湾八岐大蛇に悩まされていたが、
博多湾を統一した鉄器吉武高木王によって日本海沿岸が統一され、
しかも吉武高木王族の東征将軍スサノオに妃を送りこむことに成功し、
日本海沿岸には(倭人にとっての)平和が訪れる。
一方の、瀬戸内海にても東征していくが、大阪湾石剣部族群との軋轢が生じ、
瀬戸内海でも銅鐸配備が必要となる。
大阪湾から少し離れた播磨に拠点を築き、少しずつ勢力圏を拡大していった。
石剣部族というのは、
北部九州倭人のような比較的同一文化のまとまった部族を指すのではなく、
金属器を持たない未開勢力=石剣で戦う部族、の総称である。 A紀元前1世紀頃に、中枢の筑紫において、須久岡本政権が主導権を握り、
日本海沿岸各地の主要豪族と縁組していく。
オオヤマツミはこれと敵対してしまい、戦争状態となる。
須久岡本王は銅矛祭祀を開始して、オオヤマツミが開拓した瀬戸内海沿岸を奪っていく。
出陣式で日本の銅矛を飾って祭り、一本を出陣式後に九州の大地に埋納。
もう一本を指揮官の船に載せて出陣し、遠征先で勝利して土地を占領すると、
領有宣言として、勝利儀式の後に、占領地の大地に埋納。
オオヤマツミも銅剣祭祀を行い、必死に防戦するが、
結局は、筑紫を領有して金属器の供給源を支配する須久岡本王には勝てない。
中広型銅矛が淡路島南あわじ市に到達=須久岡本王が瀬戸内海制海権を制圧
したことで、オオヤマツミは降伏し、
大量の銅剣=武装解除
各地に配備していた銅鐸=部族丸ごと降伏
の調印式を、日本海沿岸における古くからのオオヤマツミ拠点であった、島根荒神谷遺跡にて執り行った。 B57年金印授与イベントで漢使がやって来た。
須久岡本王から、瀬戸内沿岸から大量の木材を供出するよう命令されたが、
従うふりをして、もちろん極力拒否。
その結果、須久岡本王は金印授与イベント直前になって、
奴国を中心とする筑紫の木材を緊急大量伐採せざるをえなくなり、
57年もしくは58年の那珂川流域大洪水、疫病発生、
国譲りイベントへと繋がっていく。
須久岡本王の裏で通じていた、
オオヤマツミと吉武高木王家が相談して、
ニニギ王家にコノハナサクヤヒメを送りこむ大金星。
その兄で東征将軍スサノオに就任したニギハヤヒに協力して、
今度は瀬戸内海の先、大阪湾上陸作戦の成功に貢献する。
紀元前3世紀、オオヤマツミ+スサノオ 対 若狭湾八岐大蛇(無金属石剣)
紀元1世紀、オオヤマツミ+ニギハヤヒ 対 大阪湾(無金属石剣) 銅剣祭祀は、
ある程度瀬戸内海沿岸に展開した時期になって、
北部九州から中広型銅矛祭祀王が追撃して来たから、
それに対抗するために開始したのだろうな。
だから急に瀬戸内海中東部に広がっていく。
筑紫と敵対したから青銅器の供給も断たれ、
降伏直前には平型石剣で代用せざるをえなくなった。 C瀬戸内海沿岸に高地性集落を建設して木材から炭を作り、
淡路島鉄工所に運び込んで、鉄器大量生産。
鉄原料は朝鮮半島から伊都王が大量入手して、淡路島鉄工所へ運び込み、
作られた大量の鉄器は、これまた北部九州へと持ち帰っていく。
多少の鉄器は貰えるものの、その格差に、
オオヤマツミと、ニギハヤヒの畿内子孫、の鬱憤がたまっていく。
倭国大乱は基本的には九州倭国内での、
伊都邪馬台国vs筑後狗奴国の王統争い、であるが、
九州外の各地もそれに巻き込まれ、
倭国大乱の開始時は、
伊都邪馬台国 壱岐対馬肥前(佐賀長崎)豊前、日本海沿岸越前まで、備前紀伊
筑後狗奴国 肥後豊後、越後、瀬戸内海沿岸
という色分けで、取ったり取られたりしながらも、
次第に邪馬台国側が制圧していく。 @´
扇谷遺跡が長期間運営されていたことによって、
壱岐対馬〜博多湾〜若狭湾が、吉武高木王によって長期間安定支配されていたことが分かる。
スサノオは鉄器を伴って、日本海沿岸をさらに越後へと攻め込んでいく。
では、日本海沿岸がアマテラスのものとなり、
オオヤマツミが新規展開したのは瀬戸内海だけだったのか?
若狭湾から南下すると、日本最大の湖である琵琶湖がある。
オオヤマツミは琵琶湖を南下し、
南東岸に超巨大環濠集落「下之郷遺跡」を建設していた。 三重環濠集落である下之郷遺跡は、銅剣を保有しており、
石剣石鏃相手に激しく戦った跡が残っている。
スサノオがやって来たのなら鉄器を伴うはずだが、
基本的には石器中心であることから、
オオヤマツミだろう。 A´オオヤマツミが瀬戸内海で須久岡本王と戦争を開始すると、
下之郷遺跡を維持できなくなり、一旦放棄する。
B´ニギハヤヒ倭国軍と共に畿内復帰を果たしたオオヤマツミは、
琵琶湖再開発を始める。
普通の集落であれば、墓域と住居と倉庫が、区画別とはいえ、
一つの集落の中にまとまって存在する。
しかし、琵琶湖の遺跡群は、
指導者の墓域、一般人の集落、収穫物の貯蔵倉庫
が、別々の遺跡としてバラバラに存在する。
というのが一つ目の謎。
もう一つの謎が、
玉作工房が多数存在し、しかも複数の遺跡に存在する。
まるで琵琶湖周囲が丸ごと玉作生産地帯だったかのようである。 オオヤマツミ(+銅戈ニギハヤヒ)が何をやっていたかというと、
人件費の安い海外で、農場経営や工房経営をしていた。
倭人集落だと、
鉄器は揃えないといけないし、
着物も揃えないといけないし、
北部九州における倭国生活水準を用意しなくてはならない。
だが、鉄器の普及していない畿内人であれば、
鉄器も鏡も何も必要なく、
畿内地元水準よりもちょっと良い環境を用意するだけで、
周囲の集落から続々と就職志願者が押し寄せてくる。 玉作工房にしても、
そもそも玉原料の産出地は琵琶湖にはないわけだし、
完成品の玉製品は、畿内はおろか琵琶湖周辺の墓からもほとんど見つからず、
北部九州から大量に出土する。
また玉作の方法も妙で、
北部九州の城野遺跡など玉作工房では、大量の鉄製工具が出土しているのだが、
琵琶湖では鉄無しで作成している。
原料も完成品も琵琶湖には無いのに、
琵琶湖で鉄器なしで玉作に励んでいたわけだ。
現代企業がそのようなことをする理由を考えてみたらわかる。
人件費の安い海外に生産移転して、安く大量生産して、
本国へ逆輸入していたわけである。 オオヤマツミとは、弥生時代の総合商社なわけである。
現代の島国日本の商社が、
海外から石油や天然ガスなどの資源を買い付けて、
人件費の安い海外労働力を使って、海外農場や海外工場を運営するのと同じで、
弥生の島国九州倭国のオオヤマツミは、
海外(九州の外)から高地性集落で森林から炭燃料を大量生産して、
人件費の安い畿内労働力を使って、大規模農場や海外玉作工房群、
そして淡路島鉄工所を運営していた。 つまり生口を集めていたわけだが、
ではその募集方法はどのようなものだったか?
かなり紳士的に扱っていたことが分かる。
一つには、ニギハヤヒが大阪湾に上陸して以降、
中国史に生口が登場する。
これはつまり、畿内にて募集した労働者のことである。
もし生口を過酷な条件で使役していたのであれば、
そのような集団を中国に送ると、
逃亡したり反抗したり倭国の悪口ばかり吹聴したりで、
怖くてとても贈れない。
生口達が、有能かつ従順だからこそ、贈ったわけである。 もう一つは、
オオヤマツミとニギハヤヒは、鉄器を大量には持ち込んでいない。
(ここから逆に、彼らは倭王ではないこともわかる)
敵地の中に、鉄器をあまり持ち込まずに、
琵琶湖周辺の農場や工房を維持しており、
特に農場は、畿内でも突出した収穫量を誇るようになることから、
大量の生口が集まってきたことになる。
(3世紀の話なので気を悪くしないように)
北部九州の生活水準よりはだいぶ落ちるが、
畿内の地元集落よりはだいぶ良い。
そして北部九州直達の農業技術によって、収穫量が多く、
食べるのには困らない。
という労働環境を整えることによって、
畿内全域の若者が続々と琵琶湖に集まって来たのだろう。
そして生口にとっての夢は、真面目に働いて成績優秀者に選ばれ、
北部九州倭国で働く資格を得る事だった。 吉武高木は他よりダントツに古いだろう。
年代観がおかしいよ。
やり直し。 伊勢遺跡の倉庫群がサークル状に並ぶ理由もこれでわかる。
そして2世紀半ばの倭国乱にて、
オオヤマツミは狗奴国側についたわけだ。
邪馬台国側の軍事拠点の一つである丹後若狭湾一大率から琵琶湖で繋がる地域は
超危険地帯となり、
大田南古墳群1号将軍、つまり卑弥呼の父に攻め込まれたか、
賢ければ開戦と同時にさっさと撤収するだろう。
開戦初期は丹後若狭湾一大率は、本国伊都の救援に向かわねばならず、
ある程度の時間的余裕はあったと思われる。
あるいは越後と共に、東と南から若狭湾を挟撃していた時期もあるかもしれない。 男生口は外で農作業に、
女生口は内で玉作り。
月間トップの成績を収めたら夢の北部九州倭国生活。
超エリートは漢魏へ移住。 卑弥呼の勝利がほぼ決定的になると、
邪馬台国は丹後若狭湾一大率から睨みの効く、
琵琶湖北岸に、稲部遺跡鉄工所を新設したわけだ。
紀元前3世紀から倭人が支配していた日本海沿岸は
倭種地域として、北部九州倭国本国と同じくらい重要な地域となっており、
その森林を伐採することはできない。
琵琶湖沿岸〜川沿い。
敵対していた越後。
に、高地性集落を新設して、稲部遺跡に炭を運び込んで運営した。 >>842
紀元前3世紀の
吉武高木王アマテラス
東征将軍スサノオ
が、日本最古にして最も正確な歴史書である記紀に残っている。
であれば、
吉武高木王の系譜は当然のことながら残っていたわけであり、
一見すると、筑紫のあちこちに権力が移動しているように見えるが、
実のところは、
吉武高木王家の宮殿に皆が詣でていたわけである。 吉武高木は古すぎる。
イザナギくらいがいいところ。
アマテラスはニニギによる伊都国建国の直前なので、紀元前後くらい。
あと、アマテラスは九州本当にはいなかった可能性もある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています