邪馬台国纏向説
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>>562 仕方ないよ、、、、 囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、 畿内説者のレベルの低いあの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。 岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 >>562 仕方ないよ、、、、 囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、 畿内説者のレベルの低いあの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。 岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 >>537 弥生時代、近江が九州の影響下にあったことは間違いありません。 でも、近江が、古墳出現期の纏向に影響を与えたことは、布留式以降の割竹形木棺や、鉄、水銀朱の使用で、合理的に説明できます。 また時代が少し遡りますが。近くの唐子鍵でも近江式土器が出ていたと思いますよ。 どちらにしても、考古学的には、纏向も近江も邪馬台国では有り得ません。 230年代以前の文字の痕跡がありませんからね。 もう一つは、卑弥呼の好物で説明できますね。 曹叡が卑弥呼の好物と認識したものが絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。 だから、邪馬台国には230年代以前からこれらの好物があったのです。 考古学的には、230年代以前の纏向で発見されたものは、なさそうですね。絹は布留式期の可能性が高いですからね。 桃のアルコール発酵のアイデアは、面白いですね。 傍の掘立建物で、消費したなら、発掘された地層は、庄内式期なのでしょうかね。残念ながら、卑弥呼の好物ではありませんがね。 倭人の好んだ酒も、中国人が一般的に酒と認識していた米酒でしょうからね。 甑があれば、発酵しやすい状態に米を蒸せますよ。逆に、甑がなければ、1次発酵に手間取ったでしょうね。 じゃあ、ここは岡上隔離スレで!! 阿波隔離スレもよそにあるし、キウス隔離スレとかも作れるといいな 偽スレは有効活用しなくっちゃ! >>565 >。。。 と、、、 が付いてたら岡上って習ったよ そんなこと書くから、意識して付けなくなっちゃったじゃないかww >>570 >阿波隔離スレもよそにあるし よそってどこ? @阿波 >>572 >よそってどこ? 邪馬台国畿内説 Part327 っていう偽スレ >>565 岡上が句読点を間違えたのは記憶にない。 岡上と孝霊はまともな文章を書く。 >>566 徐々に九州北部の影響が畿内に浸透していっただけじゃん。 畿内が音頭を取ったわけではなく、畿内はただの後進地域。 >>574 自演? >岡上が句読点を間違えたのは記憶にない。 句読点を間違えたなんて言ってないだろ? 文末に「、、、」「。。。」を付けるのが岡上の特徴って話だ >>575 >徐々に九州北部の影響が畿内に浸透していっただけじゃん。 逆 畿内第V様式土器の頃から、順番にきっちり北部九州で畿内様式甕が出ていて 庄内式の頃には、北部九州でも庄内式土器を作るようになり 布留式土器の時代には、九州様式の土器はまったく作られなくなる 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010) 明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf >>573 >邪馬台国畿内説 Part327 っていう偽スレ 今読んだらそのスレ、進呈してくれるってことになってるね。 要らないんだけどw 適当にどこにでも行くから。 そのスレ、話の成り行きで投稿が多かっただけだから。 @阿波 >>577 >畿内第V様式土器の頃から、順番にきっちり北部九州で畿内様式甕が出ていて 庄内式の頃には、北部九州でも庄内式土器を作るようになり 布留式土器の時代には、九州様式の土器はまったく作られなくなる 畿内第V様式土器=東阿波型土器様式のことですね。 筑紫忌部たちが、北部九州で東阿波型土器の工法で土器を作っただけのことを そんなに大層に言わなくともw @阿波 >>578 >適当にどこにでも行くから。 いやいや、出てこなくていいって 他の人に干渉されずに、存分に阿波説を展開してくれればいいから! >>580 >いやいや、出てこなくていいって どこへ行こうが別にどうってことないでしょ。 所詮、学者が避けて通ってる説なんだから。 @阿波 × 学者が避けて通ってる説 ○ 学者がスルーしている説 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。 >>582 どっちでも同じ。 深入りしたくないから、スルーしている。 @阿波 畿内説を論破されたキナイコシが、発狂して、新しい重複偽スレッドを自分で埋めた挙句、僕たちと同一視している岡上氏に罪を擦り付けることにしたようだね、、、 また畿内説邪馬台国Part331の投稿の転写保存 331の>>245 >邪馬台国≠ヤマト王政説です< 邪馬台国なんて存在しません。 331の>>249 >伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。< 魏志記載の里数表示や、倭人伝の行程記載や、 書紀や風土記の「伊都国は怡土の地」などの記載と合わないから、×。 331の>>251 >要は、倭国=「阿波」 日本=倭国(阿波)から遷都した「大和」 と言ってるんでしょ。 @阿波 < 「南≠東」だから、×。 331の>>254 >ただ、手間をかけた逆茂木を持つ環濠集落や高地性集落が近畿以西の 広い範囲に見られることから、かなり広域の緊張状態がそれなりに長い期間 続いたことは想定してよいと思います でなければ、高地性集落を作る理由がないですから < 倭國乱は、高地性集落期間ほど長期には続きません。 おそらく、倭国の持続的な東征があった事が原因です。 331の>>274 >関の向こう側に追いやられていた尾張の勢力が中心となって、 ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。< 大和は朝廷ではないから、×。 331の>>276 >>宋明清代の校勘学者に校勘された文字< >ではそれがどの部分か明記しない限りは、卑彌呼の同時代文書かどうか分からないねww 宋・明・清代にも、間違いがあると思われてた訳だ < 全部で三国志全体で校勘対象になったのは4000字余りであって、 倭人伝は2000字余りであったから、倭人伝の中の文字では、2字位の文字が校勘対象であった事になり、 確か、「都支國と郡支國」と、「黄幢と黄憧」だったと思うよ。 だから、方向や里数や「邪馬壹國」や「壹與」や「二年」や「東治」などは、校勘対象にはなっておらず、 間違いとはされなかった訳だ。 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。 269日本@名無史さん2018/02/22(木) 14:07:17.92 纏向が邪馬台国ではないという理由は、すでに何点も提示しましたが、有効な御反論を頂けなかったのは残念です。 >古墳は墳形の規格が埋葬者の出身家系を 意味するという。 先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが 蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。 このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。 @阿波 [石井町/曽我氏神社古墳群] http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2 このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、謎の優れた考古学者たちが現れて、邪馬台国纏向説を叩き潰してしまったようだね。。。 「樋口遺跡」 弥生時代終末期の集落遺跡 眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。 竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。 そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。 樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。 @阿波 樋口遺跡 http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7 「水銀朱の精製工房跡か」「加茂宮ノ前遺跡 石器や辰砂出土」 徳島新聞 2017年2月23日 徳島県教委と県埋蔵文化財センターは22日、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で見つかった弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(1〜3世紀)の竪穴住居跡の内外から、 古代の赤色顔料の水銀朱が付いた石器15点と水銀朱の原料の辰砂原石10点が出土したと発表した。 遺跡の南西約5キロには辰砂の採掘遺跡として全国で唯一確認されている若杉山遺跡があり、同遺跡に関連する水銀朱の精製工房跡とみている。 辰砂は硫化水銀の鉱石で、これを原石から取り出して精製した水銀朱は、古墳時代初期を中心に棺内部や死者の体に塗るなどして使われた。 防腐剤としての役目のほか、死者の魂を鎮める目的もあったとされる。 出土した石器のうち、石杵8点(全長約10〜23センチ)は辰砂を砕く際に使われ、磨石2点(10センチ四方)は擂りつぶすときに用いられた。石臼1点(縦20センチ、横17センチ)はその土台だったとみられる。 それぞれに水銀朱が付着している。辰砂原石は全長2〜5センチ。石器と原石は5棟ある竪穴住居跡のうち3棟の内部や周辺で見つかった。一部が埋まった状態で、捨てられたとみられる。 精製に伴って出る石片などがないため工房は特定できないが、工房があった集落と断定した。 弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。 水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。 @阿波 1、はじめに 芝遺跡は四国、徳島県南部海岸沿いの海部郡海陽町(旧海部町)芝・野江に所在する。 阿南室戸国定公園内の海岸沿いに位置し、高知県との県境に近い。 芝遺跡は、現在の海岸線より約2キロメートル程内陸に入り、海部川の右岸、母川とに挟まれた沖積平野の微高地および尾根の先端付近に位置する。 海部川の河口では砂堆が発達し、ラグーンを形成していたと考えられ、郡内一の沖積平野を形成している。(海部町史1971、寺戸1995) 2、調査成果 芝遺跡では3面の遺構面を確認した(3)。 第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。 このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。 第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。 旧河道からは外来系土器が多数出土している。 第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃以降の遺構と遺物を検出した。 中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、 時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。 この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、 結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。 この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。 また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。 そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。 この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている。 したがって、竪穴住居では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。 @阿波 阿波咋は畿内を征伐して大和朝廷を作った中心勢力の一つ。 関東東北の先住民を征伐した主力でもある。 戦犯として責任をとれよ。 >>602 全国の国土開拓に多大な貢献こそすれ、戦犯とは何事か。 ご先祖に対し、無礼であろう。 つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。 >>601 3、旧河道出土資料について 旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。 報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、遺物の取り上げを行った。 特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。 下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。 図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。 この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。 実測総数196個体に対して、 阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。 約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。 讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。 @阿波 >>605 芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、 特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。 弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、 普遍化した出土状況は見られない。 古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる ようになる。 以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、 吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。 吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。 第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、 なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。 朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。 @阿波 >>606 4、周辺の遺跡の様相 本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において 若干の土器が採集されている。 東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。 時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、 この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992) この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに 限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 @阿波 >>607 5、まとめ 芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。 県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、 本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。 また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、 出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。 土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。 本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、 大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、 本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。 芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、 海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。 @阿波 僕たちが愛してやまなかった邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、どうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 岡上ってびっくりするほど意味のあること書かないよね 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。 犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、 土器の伝播というのは、実物であれ、製法であれ、人間の移動の証拠であることは間違いありません。 しかしながら、部族集団の大入植や侵略、奴隷の大量移送があったのか、商集団の最小ロットや、家族単位の移動だったのかは、殆ど見分けがつかないのですね。 極論をいえば、土器づくりの工人が一人いて、需要が見込める地域にサンプルとして、土器を数点持ち込み、熱効率や使いかって等の機能性、または洒落たデザインがその地でウケが良ければ、しばらく居ついて、需要がつきたり、地元民に上手に模倣されるまで生産するわけです。 そんなことが、例えばですが、庄内式土器の最初のころ河内湖沿岸→纏向→姫路(→博多?)という経路で行われていたかもしれませんね。 弥生後期までは、墓形の企画も同じことがいえますよ。墓づくりの技術集団が、各地の求めに応じて、渡り歩いたとも言えますからね。円形、方形周溝墓、ホタテ型とか、それぞれの技術集団がいただけかもしれません。 前方後円墳体制というような政治体制ができていたとしても、それは、定型化が始まる布留式期以降からです。卑弥呼の時代とは無関係です。 四隅突出だけは、私の予感でしかありませんが、同一部族のような気はしますがね。 部族集団の入植や、政治体制への参加を論ずるには、レガリアの模倣の観点で見直す必要がありますね。具体的にいえば、やはり王墓の副葬品であり、弥生後期から古墳出現期では、鉄製品、勾玉、鏡、耳飾りになる訳ですね。 庄内式期、纏向の唯一の王墓である纏向石塚の副葬品は、全くの不明です。でも、この時期の層の出土状況からは、鉄製品、勾玉、鏡、耳飾りがあるような集落とは全く程遠い状況だったわけです。 むしろ、布留傾向の土器がでるころ、つまり、早くても250年以降ですが、近江を通じて、北部九州を模倣したレガリアでの副葬が始まっています。卑弥呼を共立した倭国体制への参画が始まった証拠でしょうね。 纏向が邪馬台国の可能性は、全くありませんよ。 つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。 >>618 その人がここに一人で書いているのだね? 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 >>622 邪馬台国熊本説は九州説の中でも異端だろ? 詳しく語ってごらんよ >>620 >私の予感でしかありませんが じゃあ無意味だな 予感は科学じゃない 西暦240年も隋の時代も都は変わらない 隋書?国伝 倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。 山の多い島に居住している。 魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。 夷人は里数を知らない。 ただ日を以って計算している。 その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。 地勢は東が高く西が低い。 邪靡堆を都にする。 すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。 >>626 >> 魏志倭人伝に道のりが示されているのね。。。 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。 官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。 女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。 (帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、 その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、 その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、 その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、 その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、 その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、 その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。 これが女王の境界が尽きるところである。。。 その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。 その官には狗古智卑狗がある、、 女王に服属していない、、、 邪馬台国纏向説とは、大和朝廷が東遷して、纏向に邪馬台国を作成したという説ですね。。。 その通りです、、、 しかし、5年前の大規模調査で、完全に破綻してしまいました。。。 確かに、墳形の分布に政治体制や血縁を認めることは、科学的態度ではありませんし、四隅突出墓自体は、スレの趣旨から離れてしまいまいそうですね。 でも、もう少しだけ言わせてもらいますと、北陸にこの墳形が伝播し作られていた期間、この地域で言う法仏式から白江式までは、畿内で言う庄内式期です。 そして、その直後に、加賀で布留傾向甕が誕生した可能性があるのですよね。そして、布留傾向甕は過去に例をみないような短期間に広域に拡散しています。 四隅突出墓体制なるものがあったとして、それが終焉した時期にその地から全国に一斉に波及したのが、布留傾向甕なのです。卑弥呼の死からは、少し経った時期ですね。纏向が倭国の片田舎から、ようやく鉄器時代に入る直前の西暦250年以降ですね。 纏向が邪馬台国だった訳はありません。 【庄内式土器】 1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。 2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。 3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。 4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。 5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。 6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。 7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。 8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。 9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。 10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。 >>634 >10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 したがって、日本各地に散見する布留式土器は倭国(阿波)の東阿波型土器の工法が拡散したのである。 @阿波、 >>634 >10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 手直し したがって、日本各地に散見する布留式土器は倭国(阿波)の忌部一族によって、東阿波型土器の進化工法が拡散したのである。 @阿波 岡上、またクズスレ立てたのか_・・・ 心の病気か? >>634 その情報は、米田さんの胎土研究が元になっているのですか。確かに、庄内式は姫路が初源でしたね。 河内と勘違いしていました。先日お示した、土器づくりの工人の辿ったルートも手直ししなければいけないですね。>>619 胎土分析を突き詰めると、確か、畿内から九州に庄内式の現物が搬入されたと言い切れるものは、筑後川下流域の河内型だけでしたね。 三雲から出た大和型は、砂礫構成での花崗岩質の含有の具合から福岡市の土を使用した可能性も高いのですよ。 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 比較的、卑弥呼の死の年代に近いとされる箸中山の大王墓は、無鉄器時代の纏向を築造の直前に侵略した、鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた功績者のものの可能性が高いですよ。 少なくても、死の前後まで、三国に分裂していた中国に干渉されるような乱中にあった共立王のものではありません。 墳形が在地の首長墓である纏向石塚と似たのは、畿内付近の墳丘技術者集団のデザインというだけです。 だいたいの纏向と邪馬台国への見解はこのスレで、数点お示ししました。大和の東南部が、邪馬台国の首都である考古学的な根拠は絶無であることが、ご理解いただけたと思います。 要は、卑弥呼と曹魏が交渉を始めてから20年ほどは経っている布留傾向が出る時代より前に、朝鮮南部や博多からは纏向に文物が一切入っていないのです。纏向が邪馬台国の可能性は、全くありません。 >>646 この妄想がやめられないんだねww 単に、始めて考古学者が箸中山古墳の墳丘上を歩いて観察することが許されただけ 妄想の大規模調査ww >>647 >無鉄器時代の纏向 そんなものはないww >>647 >鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた功績者のものの可能性が高いですよ 編年無視だといろいろな妄想ができますね 纏向の建設開始は庄内0式土器の時代の3世紀初頭で、卑弥呼の遣使よりも前 ちょうど卑弥呼の共立に伴って新しい都を築き始めたと見ればよい つまり、そこ纏向が女王之所都=邪馬台国で、畿内説そのままだよ >>630 >その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。 これが捏造 そんな読み方は誤読・曲解以外にはない 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 誤読された方がいらっしゃるようですので、加筆修文致します。夜間使用するプラウザの都合でSAGEづらいのでご容赦下さい。荒らし行為ではありません。 纏向遺跡では、布留傾向土器が出る地層より、下層には、鉄器が出ません。掘立小屋や纏向石塚築造時を示すと予想される遺物はありますが、鉄器がでない層です。在地の集落規模の首長の時代です。 箸中山の大王墓の被葬者は、古墳築造の直前に、掘立小屋を建てた在地の集落規模の首長時代の纏向を侵略したのですよ。鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた大王自身か、功績者である可能性が高いですね。 少なくても、箸中山の大王墓の被葬者は、死の前後まで、三国に分裂していた中国に干渉されるような乱中にあった共立王のものではありません。 箸中山の大王墓の墳形が纏向石塚と似たのは、畿内付近の墳丘技術者集団のデザインというだけです。 西暦200年前後に纏向に最初に入った勢力は、掘立建物を作り、纏向石塚を作りましたが、無鉄器勢力です。鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)も持ちません。 鉄器をもった別勢力が、布留傾向土器が作られ始める250年以降に侵入し、箸中山やホケノを作ったのです。掘立建物勢力は鉄器をもった別勢力によって、制圧されたのでしょうね。 布留傾向の前の時代の大和東南部が、邪馬台国の首都である考古学的な根拠は絶無です。 要は、卑弥呼と曹魏が交渉を始めてから20年ほどは経っている布留傾向が出る時代より前に、朝鮮南部や博多からは纏向に文物が一切入っていないのです。特に、鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)が出ないのは畿内説にとって致命的です。 纏向が邪馬台国の可能性は、全くありません。 >>654 >掘立建物 これは、掘立柱の建物のことか? 結構な大規模建築も掘立柱で作られているのは知ってるよな? 掘立柱の建物はけして文化レベルの低い集落ではない 掘っ立て小屋に近い語感の単語を意図して使っているだろう? それから、鉄器用の砥石も出ているし、石庖丁が消えるのも奈良盆地は比較的早い 奈良盆地で鉄器が不足していたと考える理由はない 鉄器が「ない」ではなく、「見つからない」理由を考えた方が真実に近づける >>651 >ちょうど卑弥呼の共立に伴って新しい都を築き始めたと見ればよい >つまり、そこ纏向が女王之所都=邪馬台国で、畿内説そのままだよ 開拓の最前線が王都にはならない。 >>656 >開拓の最前線が王都にはならない。 開拓の最前線じゃなくて、纏向は計画都市だよ 纏向編年が、纏向大溝の土器一括資料がもとになってるのは知ってるだろう 最初に物流のために運河的な大溝の開削から始めて、計画的に 祭祀空間を作っているんだよ 開拓ではない理由は、九州説がよく言う「纏向遺跡には田畑がない」こと からも分かる >>660 その福岡の大溝とやらは、どこにあるんだい? 環濠集落の環濠も、確かに溝ではあるが、あれは目的が違うぞ 大宰府政庁跡のほぼ正面から 大溝跡らしいものが発掘されてる。 ただし、すでに人口が多いところには 条坊都市を作るのは難しかったのか 西側には部分的にしか都市の痕跡はなく 不完全なものだった。 完全形態は近江大津京を経て 藤原京が完全条坊都市らしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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