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邪馬台国纏向説
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0001日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 12:44:33.40
破綻しました、、、、
0652日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 13:42:41.09
>>630
>その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。

これが捏造
そんな読み方は誤読・曲解以外にはない
0653日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 14:31:17.21
邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。
0654日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 18:54:27.19
誤読された方がいらっしゃるようですので、加筆修文致します。夜間使用するプラウザの都合でSAGEづらいのでご容赦下さい。荒らし行為ではありません。

纏向遺跡では、布留傾向土器が出る地層より、下層には、鉄器が出ません。掘立小屋や纏向石塚築造時を示すと予想される遺物はありますが、鉄器がでない層です。在地の集落規模の首長の時代です。
箸中山の大王墓の被葬者は、古墳築造の直前に、掘立小屋を建てた在地の集落規模の首長時代の纏向を侵略したのですよ。鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた大王自身か、功績者である可能性が高いですね。
少なくても、箸中山の大王墓の被葬者は、死の前後まで、三国に分裂していた中国に干渉されるような乱中にあった共立王のものではありません。
箸中山の大王墓の墳形が纏向石塚と似たのは、畿内付近の墳丘技術者集団のデザインというだけです。
西暦200年前後に纏向に最初に入った勢力は、掘立建物を作り、纏向石塚を作りましたが、無鉄器勢力です。鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)も持ちません。
鉄器をもった別勢力が、布留傾向土器が作られ始める250年以降に侵入し、箸中山やホケノを作ったのです。掘立建物勢力は鉄器をもった別勢力によって、制圧されたのでしょうね。
布留傾向の前の時代の大和東南部が、邪馬台国の首都である考古学的な根拠は絶無です。
要は、卑弥呼と曹魏が交渉を始めてから20年ほどは経っている布留傾向が出る時代より前に、朝鮮南部や博多からは纏向に文物が一切入っていないのです。特に、鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)が出ないのは畿内説にとって致命的です。
纏向が邪馬台国の可能性は、全くありません。
0655日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 19:05:49.76
>>654
>掘立建物

これは、掘立柱の建物のことか?
結構な大規模建築も掘立柱で作られているのは知ってるよな?
掘立柱の建物はけして文化レベルの低い集落ではない

掘っ立て小屋に近い語感の単語を意図して使っているだろう?

それから、鉄器用の砥石も出ているし、石庖丁が消えるのも奈良盆地は比較的早い
奈良盆地で鉄器が不足していたと考える理由はない
鉄器が「ない」ではなく、「見つからない」理由を考えた方が真実に近づける
0656日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 20:31:13.86
>>651
>ちょうど卑弥呼の共立に伴って新しい都を築き始めたと見ればよい
>つまり、そこ纏向が女王之所都=邪馬台国で、畿内説そのままだよ

開拓の最前線が王都にはならない。
0657日本@名無史さん
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2018/03/15(木) 20:35:59.19
>>656
>開拓の最前線が王都にはならない。

開拓の最前線じゃなくて、纏向は計画都市だよ
纏向編年が、纏向大溝の土器一括資料がもとになってるのは知ってるだろう
最初に物流のために運河的な大溝の開削から始めて、計画的に
祭祀空間を作っているんだよ

開拓ではない理由は、九州説がよく言う「纏向遺跡には田畑がない」こと
からも分かる
0659日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 00:08:43.16
>>657
サッポロだな
王都じゃない
0660日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 00:10:32.26
大溝は福岡のコピーだろ
0661日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 05:46:07.62
>>660
その福岡の大溝とやらは、どこにあるんだい?
環濠集落の環濠も、確かに溝ではあるが、あれは目的が違うぞ
0662日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 07:37:51.13
大宰府政庁跡のほぼ正面から
大溝跡らしいものが発掘されてる。

ただし、すでに人口が多いところには
条坊都市を作るのは難しかったのか
西側には部分的にしか都市の痕跡はなく
不完全なものだった。

完全形態は近江大津京を経て
藤原京が完全条坊都市らしい。
0663日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 09:52:30.82
>>662
>大宰府政庁跡のほぼ正面から
>大溝跡らしいものが発掘されてる。

それ時代いつ頃?

>条坊都市を作るのは難しかったのか

これだったら何百年も後だぞ
0664日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 10:20:51.80
ただの環濠集落の溝や古墳の周溝なら
日本中にあるだろ。

大溝という言葉は条坊都市の区画を分ける
水路のことを指すことが多い。
0665日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 11:11:26.76
ググると、那珂遺跡、藤崎遺跡、井尻遺跡などで弥生時代の大溝が見つかっていたようだけど。
0666日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 11:12:01.26
畿内説は軍国主義史観
日本の3000年の歴史などとプロパカンダした戦前の大日本帝国思想の残滓に過ぎない

その証拠に畿内説支持者には歴史修正主義・日本第一主義など所謂エスノセントリズムの信奉者が多い
日本は歴史的に世界の辺境後進地帯であり韓半島や中国大陸から先進文化を下賜されてきた。

その視点から考えれば邪馬壹国は九州に他ならない
0667日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 11:20:32.31
そりゃ大きい溝はみんな大溝だろうが、纏向にあるような運河みたいな水路とは別物って話よ
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 11:22:47.95
那珂遺跡は弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していたらしいけど、纒向と何が違うのかな?
纒向纒向と言う人は井の中の蛙なのではないかな?
0670日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 11:56:02.94
>>668
>弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していた「らしい」

「確認できるようなソース」や「根拠」を挙げてくれるかな?

668がそうだというつもりはないけれど、九州説の人で
嘘・捏造が当たり前で、根拠なしのでたらめを言う人がいるからさ
0672日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 12:12:42.82
>>668
>那珂遺跡は弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していたらしいけど、

「確認できるようなソース」は?
0673日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 12:38:49.56
gglks
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 13:25:41.19
申しわけない。イメージで掘立小屋とタイプしてしまってますね。正確には、高床式建物と思われる建築物でしたね。
もっとも、漢魏洛陽城宮城と比較するわけではありませんが、 辻地区の庄内期の建築群は、決して大王の宮室と確定しうる大きさではありません。例えば三内丸山の柱なんて、縄文中期のものですから、もっと大きな建築物が出てきたって不思議じゃないわけです。
でも、私は何処そこが邪馬台国だとは主張していませんから、弥生末にもっと大きな建築物が何処にあったのか?、と尋ねられても、わかりません、と答えるしかありません。
鉄器に関しては、布留傾向以後は出てるのですから、やはりその時期に大きな転機があったと考えるべきです。砥石は須恵器の層以外にあったことは、知りませんでしたね。庄内期なのですか?
いずれにしろ、鉄よりも庄内〜布留1式を通じて文字使用の痕跡が全く見られないことの方が、纏向説にとって致命的です。
纏向周辺の発掘調査率は日本有数ですから、文物が出ないことの言い訳にはなりえませんよ。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 14:51:19.72
このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしてしまったようだね。。。
せっかくだから、溝や掘立柱が珍しくないことを、初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521001812/
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 19:05:36.60
さいきんキナイコシが本格的におかしい
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 19:17:53.90
さて、このスレも残り300ちょいか
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 20:51:13.26
「起源」に
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:01:36.98
いうことは
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 09:20:33.11
また、荒れ気味のスレ進行になってきましたね。
「いやなら、見るな」が5chへの正しい対処ですよ。

纏向遺跡は布留傾向期の前後で、個人的には2期に分けて考えたい遺跡です。
仮に前者を纏向庄内遺跡、後者を纏向布留傾向以後遺跡と呼称しましょうか。下層が纏向庄内遺跡で上層が纏向布留傾向以後遺跡です。すると、纏向布留傾向以後遺跡は纏向庄内遺跡に覆いかぶさるだけでなく、箸中山やホケノあたりまでの範囲に南限を広げていますね。
纏向庄内遺跡の範囲に関しては、柵付き高床建築群が中心の位置で良いと思いますよ。纒向矢塚古墳の編年が難しいですが、位置的にはここか纏向石塚が西限でしょうね。集落の端に墓をつくったのですね。中心と一端が想定できるわけですから、範囲の全容も想像できます。
西限近くに纏向勝山もありますが、纏向布留傾向以後遺跡です。他の3つの前方後円墳も纏向布留傾向以後遺跡です。
纏向庄内遺跡は、どんなに言いつくろっても、辻地区を中心に数百m四方で、発掘調査が100回位は繰り返されたわけです。
その上で、朝鮮半島で採取した鉄も、国交に不可欠な文字の痕跡も、曹叡が卑弥呼の好物と認識した絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹も出ないわけです。絹(?)が出た層は布留傾向以後ですからね。
つまり、考古学的に、纏向庄内遺跡が邪馬台国であった訳がありません。可能性は絶無です。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 09:38:45.68
>>747
御忠告ありがとうございます。
専門外ですので、インターネットで発信するしかないのが実情なのですよ。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 11:49:36.35
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 12:08:43.75
畿内説は軍国主義史観
日本の3000年の歴史などとプロパカンダした戦前の大日本帝国思想の残滓に過ぎない

その証拠に畿内説支持者には歴史修正主義・日本第一主義など所謂エスノセントリズムの信奉者が多い
日本は歴史的に世界の辺境後進地帯であり韓半島や中国大陸から先進文化を下賜されてきた。

その視点から考えれば邪馬壹国は九州に他ならない
畿内説はネトウヨのような存在だ
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