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邪馬台国纏向説
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 12:44:33.40
破綻しました、、、、
0670日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 11:56:02.94
>>668
>弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していた「らしい」

「確認できるようなソース」や「根拠」を挙げてくれるかな?

668がそうだというつもりはないけれど、九州説の人で
嘘・捏造が当たり前で、根拠なしのでたらめを言う人がいるからさ
0672日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 12:12:42.82
>>668
>那珂遺跡は弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していたらしいけど、

「確認できるようなソース」は?
0673日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 12:38:49.56
gglks
0675日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 13:25:41.19
申しわけない。イメージで掘立小屋とタイプしてしまってますね。正確には、高床式建物と思われる建築物でしたね。
もっとも、漢魏洛陽城宮城と比較するわけではありませんが、 辻地区の庄内期の建築群は、決して大王の宮室と確定しうる大きさではありません。例えば三内丸山の柱なんて、縄文中期のものですから、もっと大きな建築物が出てきたって不思議じゃないわけです。
でも、私は何処そこが邪馬台国だとは主張していませんから、弥生末にもっと大きな建築物が何処にあったのか?、と尋ねられても、わかりません、と答えるしかありません。
鉄器に関しては、布留傾向以後は出てるのですから、やはりその時期に大きな転機があったと考えるべきです。砥石は須恵器の層以外にあったことは、知りませんでしたね。庄内期なのですか?
いずれにしろ、鉄よりも庄内〜布留1式を通じて文字使用の痕跡が全く見られないことの方が、纏向説にとって致命的です。
纏向周辺の発掘調査率は日本有数ですから、文物が出ないことの言い訳にはなりえませんよ。
0678日本@名無史さん
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2018/03/16(金) 14:51:19.72
このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしてしまったようだね。。。
せっかくだから、溝や掘立柱が珍しくないことを、初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521001812/
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 19:05:36.60
さいきんキナイコシが本格的におかしい
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 19:17:53.90
さて、このスレも残り300ちょいか
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 20:51:13.26
「起源」に
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:01:36.98
いうことは
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 09:20:33.11
また、荒れ気味のスレ進行になってきましたね。
「いやなら、見るな」が5chへの正しい対処ですよ。

纏向遺跡は布留傾向期の前後で、個人的には2期に分けて考えたい遺跡です。
仮に前者を纏向庄内遺跡、後者を纏向布留傾向以後遺跡と呼称しましょうか。下層が纏向庄内遺跡で上層が纏向布留傾向以後遺跡です。すると、纏向布留傾向以後遺跡は纏向庄内遺跡に覆いかぶさるだけでなく、箸中山やホケノあたりまでの範囲に南限を広げていますね。
纏向庄内遺跡の範囲に関しては、柵付き高床建築群が中心の位置で良いと思いますよ。纒向矢塚古墳の編年が難しいですが、位置的にはここか纏向石塚が西限でしょうね。集落の端に墓をつくったのですね。中心と一端が想定できるわけですから、範囲の全容も想像できます。
西限近くに纏向勝山もありますが、纏向布留傾向以後遺跡です。他の3つの前方後円墳も纏向布留傾向以後遺跡です。
纏向庄内遺跡は、どんなに言いつくろっても、辻地区を中心に数百m四方で、発掘調査が100回位は繰り返されたわけです。
その上で、朝鮮半島で採取した鉄も、国交に不可欠な文字の痕跡も、曹叡が卑弥呼の好物と認識した絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹も出ないわけです。絹(?)が出た層は布留傾向以後ですからね。
つまり、考古学的に、纏向庄内遺跡が邪馬台国であった訳がありません。可能性は絶無です。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 09:38:45.68
>>747
御忠告ありがとうございます。
専門外ですので、インターネットで発信するしかないのが実情なのですよ。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 11:49:36.35
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 12:08:43.75
畿内説は軍国主義史観
日本の3000年の歴史などとプロパカンダした戦前の大日本帝国思想の残滓に過ぎない

その証拠に畿内説支持者には歴史修正主義・日本第一主義など所謂エスノセントリズムの信奉者が多い
日本は歴史的に世界の辺境後進地帯であり韓半島や中国大陸から先進文化を下賜されてきた。

その視点から考えれば邪馬壹国は九州に他ならない
畿内説はネトウヨのような存在だ
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