邪馬台国畿内説 Part322
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517670670/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられ ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 それで、
成り済ましは何がしたいんだ?
あれは家の写真なんだけど ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 同じようなところにホクロがある?
ような事を言っている人がいたり
写真に写っている子供、
あごの辺り
昔の、おかっぱ、のような頭の子供 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 他のスレに貼り付けた事があるので、
見た人もいるだろう
あご、右のほうにホクロがある
女の子なのかな、おかっぱ頭、
椅子に座っている女性に、抱かれている子供 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし 葱の華が写っていて、
椅子に座っている母親がいて、
抱かれている子供
どのスレに貼り付けたんだったかな 写真の左のほうにキュウリの葉が写っていて、
それが父親だと言っているよ
寺院に通っていたとか
父親と手を繋いでいるのも、
その家の子供 『山王院 山王宮』
昔、この辺りに住んでいたと言う話 テンプレ書くまで待ってる辺りこの呟き荒らしのファッション基地外ぶりが笑える 関連する言葉、このようなのが出てこない?
『河童に水練』 そろそろ、
消えたほうが良いんじゃないのか
閲覧のみ、
書き込みなどはしないけど、
気づいている人々は気づいている
お前のような人間は相手にされていない >>77
>お前のような人間は相手にされていない
意味不明な呟きカキコしてるガイキチさんのことですね 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、
実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw ◆CSZ6G0yP9Q ◆QkRJTXcpFI
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることもある。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻る卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違ったことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である そんな話をしているわけではい、
相手にされていないでしょ
という話
いい加減に、気づかないの? ここで説明しなくても知っていると思う、
家は芥川という名前じゃないよ 誰からも相手にされてないのって独り言キチの方じゃんか >>92
自分ではすごいこと書いてると思ってるんだぜw 『聖化 日神 日霊 津』
こういう話も、なぜ知っているんだろう
天帝 河伯(日本では河童)の関係など 日神を降ろし・・・初めて・・・云々
このような事が書いてあったり ・・・・・・遠い親戚なのかな、
浅野セメントの関連企業で働いていたと言っていたし
数年前の事になるんだけど
「奴隷にされたんだろw」
という謎のレスがあったり、かなーり下のほうの存在にされたとか? 『もののけ姫』神殺し
悪く言うわけではないんだけど、
アサノというキャラクター(人物)が出てきて・・・そういう話になっているし 『天津 浅野』
こういう作品も同じようなコンセプト 河童に猿・・・シシ神 猿神
調べてみるとわかる『シシ神 猿』 『2ch サルタヒコ』
神殺し、犯人はアサノというのも、
制作者が勝手に考えているだけなのかな
そのような話に、
持って行こうとしている 印象操作、印象操作
『印象操作』
と言ってる人がいたり、刷り込み(洗脳?)のようなもの 老婆の話によると
代(社長)が変わってから、凄い人になったんだよ
と言っているから
神殺しの犯人は、
浅野氏(セメント)というのは嘘だろう
調べてみると、
かなり凄い人になっているし サルタというスレを読んでみた?
この話をしているのかな
『細野晴臣 広瀬座』 本当に、あの写真(キュウリの葉。葱の華。)だよ、
むかーし、そこ(広瀬座)の近所に住んでいたと言っているんだよな〜 そこの民家園
稲田の保存されている家があるでしょ、
親戚の家なのか、もれ(仮)の家なのか?ホオズキがあったり
いま住んでいるところは川崎区 もれ「なぜ、家の親戚とは付き合いが無いんだろ」
親「知らないよ」
としか言わないんだよな、
老婆は自分の家の親戚のほうに、ばかり行っていたり。
親戚付き合い。 ヒミコもトヨもいる2世紀末から4世紀の系図
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 何があったんだろう
熱い、お湯が好きなんだよ
と
よく言っていた・・・、
あまり冷まさず、そのまま飲んでいたり
お年寄り(老婆)だからなのかな ・臥子(意味を調べてみて)
・お水取り
雪が降っても何やら?
『姥清水』の話、水を汲んで飲んでいたり 何かの家だったのかな?
よくわからないけど、むかーし、その近所に住んでいたと言う話 『姥清水』ググると
デスラー帝国、海底国の画像が出て来たり >>719
証拠も出せない。
理由も言えない。
具体的なこと言えない。
大和説が亡んだのは当然だな。
w >>735
このように「南→東」などの嘘吐き騙しの素人の勝手な妄想を、
事実であるかのように触れ回る。
そんな大和説が、亡んだのは当然だな。 『Thank God for the Bomb 訳詞』
電電太鼓? 原典となる文献にはもともと里程しかなかった
日程は陳寿が加えた追加情報
北部九州説によって完璧に解明されている
対抗したければそれに匹敵する対案を示してみろ 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg >>736
>ベニバナは植えられていたのではなく花粉だけが大量に見つかっていることから染料の原料として輸入されたと物と考えられる
一時的な輸入品であって日本のベニバナの植生史と特に対立するものではない<
文身國の出雲と大漢國の越を経由した文化と、筑紫倭国からの東征や市から伝来を想定すればよい。
>倭人伝にも卑弥呼からの献上品の中に赤い絹織物が含まれており関連が想定される
この献上された絹織物は密度の高い「絳青けん」と呼ばれる高度な技術を用いた織物である
もともと畿内では目の細かい布を織る技術が弥生時代から存在しており、これがそのまま絹織物に採用されたと言う技術的な流れが分かる
下池山古墳から見つかる絹糸は高密度な織物の技術と、倭文と呼ばれる古い染色技術を用いていることが分かっておりこの系譜上にあるのが見て取れる
このように高度な織物の技術と、染色の技術を持つ畿内に質の高い絹織物が存在しており倭人伝の記載とも合致する <
これは、弥生や下池山の年代の詐術論法だな。
>逆に、九州から見つかる絹は粗雑で目の粗い物ばかりの上、染められてもおらず絳青けんと考えられるものは何もない
また、最盛期の光武帝への遣使ですらも奴隷の献上が主体で自慢の絹とやらがとても献上できるようなものでなかった事が分かる
絹の話は九州にとって不利になるばかりの話でしかない<
倭国の東征支配と「市」での搬入上納で説明出来てしまう事。 >>737
紅花なんて些細な事。
九州説の根拠のほんの一部であり、東征と市で説明が出来てしまう事。
そういう突っ込みしかできない大和説が哀れ。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg >>738
大和説:史料事実の否定や曲解に拠る「皇国史観に狂った学者「」たちの」詐術
vs
九州説::史料批判と史料事実に拠る帰納的確率的推論
って構図は動かないな。 >>739
>単なる知識不足だよ、巻向からは海魚の骨が多く発見されてるけどな<
「市」があった、という事で説明出来てしまう事ばかりだな。 >>740
大和説は、360度まるまる包囲されてんだから、
「東征と市」の存在を隠して、
どっかから抜け出したいのは、人情なんだろ?。 >>743
>それは大陸からの技術が直接伊勢遺跡に入ってきた証拠なんだが。<
出雲の文身國と、越の大漢國と、筑紫倭国の東征と市の存在で、
全て説明出来てしまう話。
>北部九州にもないのに巻向以前に伊勢遺跡が重視されていた事になる。<
纏向や伊勢遺跡を、邪馬壹國女王之所都に想定する詐術は、
「南≠東」に拠って×。」 畿内説の研究者はさっぱりわからない
畿内説ありきなのか真実を知りたいのか >>746
大和説←皇国史観という結論先にありきの似非学者の、史料実態の否定曲解の産物
九州説←人類の常識や史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論やで、国民の過半数の支持 >>749
この大和説男も、昔うまれてたら、絶対、
ふたことめには国賊、って他人を罵って、
国粋皇国史観での人種差別的殺し合い戦争に、
国民を強制しよう、としてた。 >>133
真実の探求だよ
いわんや公務員の研究者は偏った研究はしないし、確信なしに公表はしない >>751
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のあんたも、
本気で、
刑務所か精神科へか入れて貰う事をお奨めするわ。 >>758
>◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の
首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。<
「南≠東」だし、文身國や大漢國の存在や、東征と市の存在で、
全て説明が出来てしまうから、×ね。 『姥清水』
観音、菩薩のような画像も出てくるでしょ、
寺院に通っていたと言っていたから・・・確実に関係している? 『一本の葱』
家の先祖の写真なんだけど、
他の家の写真だと思っている人がいるのかな ヒミコもトヨもいる2世紀末から4世紀の系図
ヒミコもトヨも住んだのは葛城。
卑弥呼直結の唯一の遺物、天理市東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀は和邇氏が受け継いでいた。
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) かなり前だったかな
もれ(仮)の家が、
人殺し一家のような報道をしていたり、
そのようなドラマとか
その後、地震が起きたり どのスレッドだったかな
宮様の写真じゃないの?というレスがあった
詳しいことは、わからないけど、何々宮と言うの?
でも、そういう名前じゃないんだけど >>136
畿内説の学者はもはや真実を追い求める研究者には見えない。 >>761
>テンプレ読まずに畿内説罵っても天に唾<
議論には直接参加せず、「南→東」の嘘つき騙しの・・・・説を張り付けて、
本人はこっそり逃げて隠れる大和説スレ主は、
天に唾。 確実に『伊達郡 菅野氏』
川俣町という掲示板でも、
同じような事を言っているし
でも、家は「すげの」ではない >>766
>兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「淡路島に大規模な鉄器工場群があったことが示された」と指摘し、
「纒向遺跡(奈良県桜井市)を中心とする邪馬台国が大和にあり、淡路は西日本に及ぶ政治連合の一翼を担い、
魏志倭人伝に記された『三十国』の一つだったのではないか」と話す<
こりゃ、石野も×人間だな。
勿論、「南→東」の嘘つき騙しだし、
肝心の大和に鉄がでないし、
年代が全くクルっているし、
大中遺跡の兵庫県立考古博物館の「鏡片」の出土分布は筑紫が圧倒的だ、
という事などの説明も付けられないまま。 >>767
>淡路島(北部)は畿内邪馬台国説の範疇 鳴門海峡はムリだが明石海峡は使者が通っている
<
「南≠東」だから×。
筑紫倭國の東征の通り道。
>南海道の一部は邪馬台国と見なししていいと思う 広げ過ぎかな????ようわからが
遺跡はある <
淡路は、菱環鈕式銅鐸に拠って、元は、銅鐸中心であった出雲の支配地域。 広瀬座?
稲、田があったり、機織り担当の家?
写真の後ろのほうに写っているのは、
イモ類の葉だよと言っていたり、穀物? 『広瀬座』
稲田、鬼灯などが供えられている家があるでしょ
『年神』同じような気がしない? >>774
>上で書いたように九州は粗雑な織物を作る技術しかなく邪馬台国が献上したような高度な絹織物を作る能力を持たないのが分かる<
関係がない。
「南≠東」に拠って、倭國王らは筑紫にいた事が確定しており、
魏への「上獻」の生口、倭錦、絳青糸兼、緜衣、帛布、丹木、hu、短弓は、
筑紫倭國内の自慢のものとして献上されている。
>ご自慢の絹とやらは最盛期ですら皇帝に献上できるようなものではなく、
九州と言う土地は外交でも技術でもメインストリームにいないのが分かる<
文身国や越や毛人蝦夷らの寒い地域の、倭國の東征地域では、
緻密な絹の技術があった可能性があるんだな?、という事が推定されるだけ。
>更に言うと技術的な系譜から見ても畿内との連続性を見いだせず東遷も東征もないと明確になる
言えば言うほど九州説は自滅してるが気が付いてないのが滑稽<
出雲の文身国や越の大漢國が、箕氏が朝鮮に田蚕を伝授した事の影響を受けた、
という事や意味も分からないらしいこの男の、脳が滑稽。 『年神』画像を検索。
『広瀬座』⇒「菅野」という家。 >>777
「南≠東」という意味も分からず、
何も見つからない大和説で、見当違いの事を喚いて、
更に自滅する様を見てるともはや哀れみしか出てこない。 >>780
「南→東」などの嘘つき騙しのバカはバカなりに黙ってればいいのに、
バカなのに口開くから更にバカ晒すことになる。
まさにバカの大和説にピッタリだな。
まぁバカだからそれも気が付かないんだろうけど。
バカだから仕方ないね。 これは、かなり前の話。
とあるワードをググった結果、おかしな劇画が出て来た。
舞台は現代、
ビルやマンションなどが建ち並んでいて、
そこに、このような人物が現れる
首に数珠?ビーズのようなものを巻いていて・・・・ 「わーはっはっは」
このような事を言っているシーンの画像
その作品自体、1960年代?19070年代のものだと思う >>785
こりゃまた貼り付けだね。じゃ貼り付けでお返し。
「南→東」などの嘘つき騙しのバカはバカなりに黙ってればいいのに、
バカなのに口開くから更にバカ晒すことになる。
まさにバカの大和説にピッタリだな。
まぁバカだからそれも気が付かないんだろうけど。
バカだから仕方ないね。 なぜか
セイントセイヤに出てくる、ヒドラのような頭(髪)、
そこまで長くはない、着ている服も現代的?
正確には現代的ではない、
1960年代〜1970年代の頃に流行ったりしたものだと思う >>791
>それ間違い 関西の大学出の研究者と訂正せよ
また 義理人情があるから、師も嘘は言わず正しい事を伝えられるのだ。<
それは間違い。
「師」の方が「南→東」の嘘つき騙しをしているから、
そんな人間の義理人情なんて、益は全くなく、
害ばっかり。 >>792
>太い柱が好きな人は、三内丸山遺跡がいいよ
穴は直径約2メートル、深さ約2メーャgル、間隔が4.2メートル、
中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。<
成程。 それにしても同じような名前ばかり出てくる、
関連人物というか・・・
ワタナベという名前に・・・ >>799
>石野の生き残り策じゃねーの(兵庫県教委にも恩があるし)
兵庫県の振出は教委出身で橿原考古学研究所に身を置いた地方公務員出だし
バリバリの畿内説論者
所詮関学出身の地方公務員 銭とポストのためにはなんでもやる人間と判断してるがね<
石野は、「祇園山=卑弥呼の墓」の可能性を認めていたから、
おそらく、「倭国=九州から近畿」の広域説だよ。 wiki『年神』
>鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝わる年神は、トシドンとよばれる
確か、
あの写真の後ろのほうに写っているのは、
イモ類の葉だと言っていた 専門家じゃないから、わからないけど
『イモ類の葉』画像を検索 >>805
>畿内の「邪馬台国以前」と「邪馬台国後」の0からいきなり100に増えるようなサルでもわかるあからさまな画期に
何も感じないバカだから九州説なんて恥をさらして平気なんだろうよ<
「0からいきなり100に増える」という事が、そもそも在地だけでは全く不可能なのであり、
東征のような他の部族の支配下になった場合や、
大陸などからの新規の流民などの参入でもなければ有り得ないんだよ。
>そして九州の鏡とやらも畿内から配られる三角縁神獣鏡を少数同伴させて有難がってる属国ぶりを見て歓喜してるんだからな<
三角縁神獣鏡も、筑紫の先行。
>土器も、宗教も、宝物もぜーんぶ畿内に塗りつぶされてるざまを見て
「ぼくちゃんたちが支配者なんだ!」とか間抜けなことを喚いてると
流石は脳みそが足りないサルだけのことはある <
庄内も筑紫先行。
この男も、流石に、脳みその足りないサルだけの存在でしかない。 >>806
>池上曽根遺跡にも鉄工房があるし、淡路島以外にも鉄工房くらいあるだろう。<
肝心の大和に鉄鏃すらないんだから、大和説は×。
曽根池上も淡路も、筑紫倭國の東征で説明が付いてしまう。 >>808
九州には
径100歩の墓もある
丹もある
入れ墨もある
上質の絹もある
骨占もある
宮殿もある
大きな祭祀の遺跡もある
多くの国をまとめ上げた中心の弥生銀座もある
畿内の土器の上納もある、
墓制も前方後円墳の始まりもある、
宝物は極めて一杯ある。
ここの基地外どもは、何を見て大和説とかほざいてるのかサッパリ分からんわ。 >>170
皆から笑いものになった、あの安本の珍説を
九州論者だと信じちゃうんだなあ、これが。
笑) >>815
「南→東」などの嘘つき騙しの高校史観の大和説者にとっての纏向は、
脳内のどこかにあるユートピア幻覚なんだろうよ。
まぁ夢の話がしたいなら、どっかに穴でも掘って、
蓋をして貰って、一人でしゃべってろ。 >>172
九州には
径100歩の墓もある ←ウソ 数字詐欺
丹もある ←ウソ 採った形跡なし
入れ墨もある ←申し訳程度 熊本
上質の絹もある ←ウソ 質が悪い
骨占もある ←ウソ 壱岐対馬だけ
宮殿もある ←ウソ 時代が違う
大きな祭祀の遺跡もある ←ウソ 小さい
多くの国をまとめ上げた
中心の弥生銀座もある ←ウソ 小さい
畿内の土器の上納もある ←ウソ 支配階層
墓制も前方後円墳の始まりもある ←ウソ 畿内から来た
宝物は極めて一杯ある。 ←昔の遺産細々
>>820
「南→東」などの嘘つき騙しを、
理由もなく言い張る大和説。 @九州からは畿内の土器がたくさん出土するが
畿内からは九州土器の出土は少ない
A畿内からは東海の土器がたくさん出土するが
東海から出土する畿内の土器は相対的に少ない
昔から不思議に思っていたが、これは何を意味しているのだろう
特にAは不思議だ >>177
それもテンプレに書いてあんじゃねーの? >>177
みんな都会には出てくるが田舎に行く人は少ない
九州が今の東京で、幾内が大阪だったんだろ 昔、結婚した家があって・・・
香野という家だと言っていて
伊達郡に住んでいる、住んでいた?
香野(建設)?という家も、遠い親戚なのかな
ググった結果
貯金が減ってきて・・・、
という謎の書類のようなものが出て来たり
昔、蚕を飼っていて、
機織りをしていた家だと言っていたし
貯金なども、誰かに盗まれたのかな 謎の埼玉 名字辞典
・浄誓寺 門徒総代 香野と書いてあったり >>179
九州人は外様なので入京制限があったんだろう 『戦国時代 皇族』
本願寺が何やらと言う話が出て来たり >>821
>方形周溝墓? は? 古墳の発展の歴史も知らないサルはこれだから<
平原があるから、瀬戸内〜近畿のは、やはり、倭国の東征に拠る筑紫の阿毎氏の墓制の伝播だろうなあ。
>大型墳墓なんて全く発展しなかったのに畿内の大型墳墓に塗りつぶされた雑魚がなんだって?<
箸墓は、那珂八幡などの模倣伝播。
>鏡? 畿内から配られた三角縁を数枚だけ貰って平伏し拝んで有難がってる属国がなんだって?
自分達のシンボルを奪われた挙句に
それまでの九州に存在しない畿内から現れた秩序に組み込まれた属国の証明がなんだって<
三角縁神獣鏡も、筑紫が早い。
>支配? 弥生時代を通じて一度も九州と四国西部よりも先に影響がなかった田舎がなんだって?
肝心の邪馬台国の頃に畿内の文化に全部塗りつぶされて弥生400年の歴史をすべて失った被支配地がなんだって?<
筑紫倭國は、自昔から、東征し、市を造って支配を拡大して行った。
「南→東」などの嘘つき騙しが、笑わせんな。 理由も言わず、まいにち真っ赤なウソをなぐり書くザラコク >>825
またも「南→東」などの嘘つき騙しの、理由を言わない大和説。 >>828
大和説とか言うバカは、
何一つ考えない上に、「南→東」などの嘘つき騙しだからな。
まぁ恥かくのはバカの勝手だから好きにすればいい 。 >>831
>石野さんも君と同じ人の子 生活もある野心もあるのは当然
いろいろあるのは分かってやって欲しい 学説はともかく犯罪は犯してない キリッ <
「南→東」などの嘘つき騙しをした時点で、既に「犯罪者」的だよ。キリッ。 >>833
>方形周溝墓や遠賀川式土器のような普遍的な文化の移動を支配だとか言い出すアホが九州説<
土器は、利便性が求められる生活用品であるから、文化の伝播でよいが、
墓の形態は、その部族の誇りでもあるから、非常に保守的であり、
伝播よりも部族の直接的な移動があった、
という可能性が高い。
>しかも時間軸が数百年軽くずれてるけどお構いなし<
部族の移動であれば、数百年の差異が幾らでも発生し得る。 >>838
大和説者は、
現実を突きつけられると何も見えない聞こえなくなる脳の病気だから、
仕方ないね。 >>194
で?
あなた、一体どんな「現実」を突きつけたことがあるの?
w >>839
「南→東」などの嘘つき騙しの脳の病気の、低能の大和説者に、
授業してやるスレじゃないからな。 >>189
誰も歓迎してないよ
馬鹿が嵐みたいに書き込まなければ
穏やかなスレになる >>201
同じことばかり何度も繰り返すだけの九州老人対応には、それでいい >>847
>前 安倍が九州説は沖縄の基地反対の連中と一緒に一掃されるかもとか言ってたし <
ふーん?。
安部がそんな事を言っていたのか。」 だいたいテンプレで言い尽くされてんじゃないの?
三角縁をあまり語ってない不満がないわけじゃないけど >>201
ザラコクとやらを始末してくれ
ゆっくり話も出来ない >>201
畿内説には九州説の誰も反論できてないから、畿内説の誰がどう書いても片道切符になる。 >>204
なら閉めた方が良い
ザラコク退治のため テンプレは糞。
邪馬台国は五畿を想定する。
勝手に他の畿内を縁起の悪い邪馬台国に混ぜるな。
死なば諸共みたいな考えが嫌らしい。
邪馬台国はヤマト国。 >>207
ザラコクは
九州説がいかにアホかという
広告塔だよ
重宝だ >>211
また妄想かい?
だから九州説は知能が低いと言われる。 >>216
いつも簡単に論破されて、すぐ罵倒しか出来なくなるなる男がいました
ゴキブリみたいですね >>211
テンプレ読んで無いが
五畿は明らかに誤記だな >>177
畿内は上納していただけ。
東海はさらに九州に上納している。
九州では西日本全域からの土器が出る。
誰が支配者であったかは明白。 アンカ先に何もないレスって基地外が呟いてるようにしか見えんな >>223
しっ! 言っちゃいけませんホントのことは >>222
それがトンデモ嘘な理由は
しっかりテンプレに書いてあったけどね
w ザラコクはもうやる気がねえな
畿内説説は嘘つきダマシとか自分でもそう思ってない南≠東とか適当に書いてるだけ
どうやら何でも反畿内説的な事書けば一文字いくらでどっかから小遣いが出るらしい >>224
畿内説で無く
大和及び其の周辺説が正しいのだろう >>230
大和説では七万戸は説明できないから
畿内説にしたんじゃなかろうか? ちゃんと読んでなかったな。
邪馬台国は、2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
根拠がない。
2世紀に同じ様式の土器が分布していたら同じ国という根拠がない。
更に仮に2世紀末まで同じ勢力圏でも、それ以降も同じ勢力圏だったという根拠が全くない。 九州で今後大規模な遺構が見つかる可能性があるのかな >>235
神のみぞ知る
吉野ヶ里があるから、大小関係無く類似の物が
見つかる可能性はあると見るのが一般的 >>851
>テンプレはおおむね畿内説の論旨を反映しています。
論として一読ください。邪馬台国論争の一助として
畿内説論者の中でもいろいろ有り、主は学者じゃないので継ぎはぎは仕方ありませんが
一読ください 主は主なりの努力はしています <
もう3回も読んで、反論して上げてあるから、嫌だ。
「南≠東」という直接的な問題から逃げて、
根拠にもならないような些細な状況の論点ばかりで大和説をでっちあげてから、
それを根拠にして、「南→東」などの嘘吐き騙しを正当化しているから、
詐欺師と同じであり、一種の・・・・だ。 >>234
「近畿第V様式分布域」って根拠が書いてあるでしょ >>237
反論したって証拠は?
理由も言わず、嘘吐き騙し嘘吐き騙しって叫んだだけじゃねーの?
www >>234
「それ以降も同じ勢力圏だったという根拠」も書いてあるから探してみな。 2世紀後半から3世紀初頭には各地で環濠が消滅していく
この時期に、西日本から東海、関東にかけて
政治的状況が大きく変わったことを示すものとして考えられている
吉野ヶ里は弥生時代の終末期になると、内壕、外環壕とも埋没し、
一帯の竪穴建物や高床倉庫群は存在しなくなる
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c209.html >>240
私見としては長いのがたまにキズ
中身は議論芬芬で盛り上げるには良い
しかし、長い >>854
>九州説とくにザラコクの行動の理屈は反皇国史観、戦前の天皇制にしないためだけど
あくまでそれは建前で実際は日本の歴史を嘘で目茶目茶にしたいだけだ<
いや、
文献考古の史料事実や憲法を、思想宗教的な詐術に拠って否定曲解し、
日本をまた、戦前と同じように、
「人種差別的殺し合い戦争」の国家にしようとしている、
という事が、黙過し難いだけだ。
美智子さんとは会釈した(当時の皇太子は向こうを向いておられた)事があり、
天皇家自体には、好感を持っているだけであり、
それをまた「戦争責任者」に仕立てよう、とするキョクウ勢力が、黙過し難いだけだ。 論争には推理がつきものだが
推理は推理
推理を確定と称するのは洗脳
戯言失礼 >>246
時の権力者が歴史を捻じ曲げるのは仕方ないと思う >>247
推理でも判決が確定して人が死刑になるよ >>855
>私は畿内説支持ですが<
その時点で、キミは、「南→東」などの嘘吐き騙しの犯罪者的人種です。
>瀬戸内ルートで無く黒潮ルート指示です
行きはいいが帰りはムリと言う方がいますが帰りは瀬戸内でもいいと思ってます
行きの行程しか倭人伝には記述無いのですから <
「行き」も、「安全最短」という人類の常識に反しており、
キミは、やはり・・・・です。 >>248
問題なのは、なんの力もない九州説が
歴史を必死で捻じ曲げようと
無駄な努力をすることだな >>245
キウスの頭だと容量オーバーでパンクするんだろ なんか気持ち悪いのがジ〜ッと見てるから
美智子様は目を伏せたんだろ
不審者がいたときの護衛官への合図だな >>866
バカの大和説は、本当に、
何一つまともな推論論理をしゃべらないな。 論理的な推理と論理のない妄想の区別のつかないじいさんのなんと多いことか >>249
その結果が誤認逮捕や冤罪に繋がる
恐ろしいことですね >>250
ザラコク・・・
なんでも俺の言うことが常識だという
生きた傲慢 >>869
もしかして大和説者って、なんか話してるつもりになってるのかね?。
「南→東」などの嘘吐き騙しのサルが、
人間の真似して訳の分からん奇声あげてるけど
対等だと思ってるんだとしたら、お笑いだな。 >>884
バカの大和説は、
いつまでたっても根拠も何もないアホ。
行程の勝手な読み替えと妄想を喚くばかりだな。 >>258
学者がみんな認めて、一部素人老人が拒否してる論理
それが、畿内説 >>886
>(孝霊)私は畿内説でも狗奴国熊本から四国南部にかけての勢力説だが?<
四国南部には、
江戸時代まで足摺の西方沖の沖の島に小人人種がいた、
という記録があるから、狗奴國は無理だな。
>狗奴国勢力が卑弥呼の死後に台与を擁立したという説だな、以前にも書き込みしたが。<
単なる「説」ではダメであり、
きちんとした史料事実に拠る推論でなければ、ダメだな。 論争って互いの主張の論理の正しさを確認する場なんだよ
だから論理のない主張に基づいた発言は論争に参加しているとはみなされない 反論の反論そしてまた反論
しばらく出口は見えない邪馬台国 つまりザラコクもキウスも岡上もハナホジも泡バカも論争に参加しているのではなく難癖をつけているだけだなw >>266
本来ならかくあるべきだよね
論より争いだから互いに認め合わないのが現状では 自分の主張の論理を理解していないバカは論破されたことにも気がつかない
バカ最強説 >>269
実際には論理性のない発言しかできないレベルのバカが
学者たちの論理に納得できないと騒いでいるだけ >>177
畿内は巨大墳墓築造のため大量の労働力が欲しかったはずだが、九州から労働力の移動はない。
むしろ反対に、多数の畿内の住民たちは九州に移動した。
なぜか畿内は地域の労働力が不足する中でも九州には労働力を提供している。
見方を変えれば、九州へ大量の労働力を供してしまったため、
主に伊勢東海などの周辺地域から労働力を補うほかなかったのかもしれない。
三角縁の件などと併せて言えるのは「畿内への中国文化の急速な浸透と九州への人の移動」だが
これは韓国併合時の半島と日本の関係に似ている。
つまり朝鮮半島の急速な近代化と半島から日本への労働力としての人の流入。 今は (だろう )(かもしれない)が主流ジャン
論理的って烏滸がましい 長いテンプレはいらない!
と主張してキウスが立てたスレはどうなってる?
バカは現実を正しく認識できないし
歴史や経験から学ぶこともできない 研究成果に基づいた「だろう」と
ジジイの作り話は違う >>267
九州説は畿内説に反論していない
根拠なく自己主張しているだけ >>273
可能性を絞り込むのも論理のお仕事
印象と先入観だけの九州説には無縁の話だ >>273
その「だろう」「らしい」は学問的成果の積み重ねで構築されている
構築される間に多数の研究者により検証され、結果を受け入れられたもの
そうした学説と自分の感覚を同レベルのものだと思っている時点で学問の素養はないと断言できる テンプレぐらいの根拠で良かったら、以下のストーリーでも全く問題ない。
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。
倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、
彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。
根拠は記紀や各地の伝承です。 >>892
>あなたは紳士です
いろんな孝霊厨いろんなが居ますが良い孝霊厨でしょう
私は阿波も含め四国南部だと思います。淡路島は邪馬台国の属国で良いでしょう
以前は紀伊南部が有力と思いましたが物証的にイマイチで・・<
あなたも、孝霊と同じく、「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師であり、
悪いひとです。 >>895
>畿内説の主流はおかしい <
おなたも、大和説の主流と同じく、おかしい。
>簡単な事なんだけど 不弥国から南に向かい投馬国(宮崎)<
簡単な事なんだけど、萬二千余里は、不彌國でほぼ終わっており、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にしかならない。
投馬國は、途中移動をした記載がないから、側副傍線行程記載。
>投馬国から南に向かい黒潮で紀伊半島南部 陸行でヤマトの地
行きで瀬戸内ルートはどうも(帰りは別・・畿内邪馬台国に従った航路を行けばよい 外交)<
魏使らは、人類の「安全最短のコース選択の原則」という常識に従って、
「黒潮漂流」のような危険を冒さない。 >>897
>テンプレがおかしくなったのは(スレ主には責任が無い・・研究者じゃ無いから受け売り)
投馬国の比定地を瀬戸内にしたことが畿内説の最大の汚点
纒向は現段階では畿内説の有力候補、今後確定を期待するとしか言いようがない <
「南≠東」に拠って、瀬戸内も纏向も全く×。 >>898
>投馬国は高松 <
これも「南≠東」に拠って、✖。 >>903
>迷惑かけて無いから良しとすべきですね 彼も人の子<
彼は、
憲法に違反して、朝鮮人への排他的人種差別のヘイトスピーチ者であり、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者であるから、
✖とすべきです。
彼は、人の子でも人間でもない。 >>908
書き込みをしない人々がいるでしょ?、
大和説者らのほうが意味不明だと思われているはず。
彼らは「南→東」などの史料事実の否定曲解をして、
わけのわからない呪文を唱える、
皇国史観宗教の・・・・人種。 >>936
>南≠東だけじゃ誰も説得できんぞ <
そりゃ、国民の3割位の大和説などの・・・・が納得しないだけ。
国民の過半数〜7割は、納得している。 珍寿は倭国大乱で分裂して生まれた奴国と狗奴国の位置関係を、奴国の南側に狗奴国があるとしか知らず、どちらも東西に細長いとは知らなかった。
だから九州北部に上陸してそこが奴国の支配地なのなら狗奴国の都、邪馬台国へは南に進んだのに違いないと早合点して、南へ進んだと推量で勝手に補足してしまったのだろう。 >>939
大和説者には、相手と議論する気などサラサラない。
ただ、安部文部省や、右翼マスコミや、
学会教育界の教祖さまの教えを広めようとしているだけなのだ。
とても成功しているとは言えないが。 >>943
>そりゃあ九州北部から東に船出すれば畿内の大和だからな<
「東」ではなく「南」と書かれている。
>南に船出しても何もないからそこの記述派違ってんだろ <
不彌國で萬二千余里が殆ど消化してしまっているのだから、
南至邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にあることになる。
投馬國は、出発記載と到着記載の間に途中の移動を示す文言がないから、魏使らは移動しておらず、
側副傍線行程の記載。 ザラコクのセリフからどういう思想の持ち主なのか丸わかり >>945
>九州北部から東に船出すれば豪雪の日本海沿岸 または瀬戸内海だろ<
不彌國で、萬二千余里がほぼ消費されてしまっているし、
南至邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にあることになるから、
「東に船出」しない。 >>947
もう、瀬戸内や出雲や四国や近畿や東海ってあるだけで、
「南≠東」に拠って、
書いてること全部が胡散臭くなる。 >>949
>その先は畿内じゃないか 計30日も船旅するんぞ<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているんだから、
「計30日も船旅」ない。 >>950
南至邪馬壹國女王之所都に関しての、
瀬戸内や出雲や四国や近畿や東海の書き込みは、
「南≠東」に拠って、
すっ飛ばすのが吉。 >>953
「南→東」などの嘘つき騙しの、
能無し大和説のぼくちゃんの妄想行程なんかに、
理由があるわけねーだろ。
いちいち聞くなよ。 >>954
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
倫理を語るか?w。 南=南でも少なくとも邪馬台国は九州北部にならんのだぞ? >>308
嘘でない証拠は 誤認・誤写?中国と掛け合ってくれ 誤写 誤認なんて日本国内で騒いでもしょうがない
他国の正史に文句つけるなら 他国と交渉すれば良い
他国が納得したら 南を東とすれば良いだけ >>310
禿同
畿内説は九州説等を相手にするより中国を相手にした方がいい
井の中で騒いでるのは嫌われるだけ 日数表記=里数を書き直したものと嘘つきダマシの九州説 >>959
絶対だ確実だ言うくせに、大和からは何も出てこない。
絶対だ確実だ言うくせに、阿波から東海?の間でならどこでもいいとばかりに、
違う場所を喚き散らす。
絶対だ確実だ言うくせに全員が違う行程を叫ぶ。
絶対確実なのは、こいつら大和説が全員、「南→東」などの嘘つき騙しのバカだ、
と言うことだけだな。 別に表記変える必要ないし
畿内説は魏志倭人伝に書いてる距離方位はアテにしないから
魏志倭人伝に出てくる距離がどこ指してようが邪馬台国は畿内 >>307
それ言っちゃダメだよ、皆知らんぷりしてるだけだからなw 考古学を志すものや研究者で韓国に留学・派遣した人は良く聞くが
中国は聞かない
誰かいるなら教えて欲しい
いたらその方が倭人伝についてどのような学習をしてきたのか教えて欲しい >>960
どうみても大和説者は、
人種差別殺し合い戦争狂の、安部文部省や右翼マスコミやキョクウ学会教育界の、
皇国史観集団のアシストに しかみえないからな。
天皇家の意向にも逆らっている事も、マイナス要因だし。 邪馬台国畿内説は迷惑。
大阪は大和朝廷を作った勢力の最初のターゲット。やられた側なんです。勝手に混ぜるなと言いたい。
明治維新で各地の伝承や謂れが失われ、事実を知らない人が増えた。
昨今大阪叩きが酷いのは、大阪が大和朝廷に加担したという誤解が原因。
叩かれるべきは、卑弥呼を共立し大和朝廷を作り全国を征伐して回った勢力。 邪馬台国ヤマト説でも、南は南。
瀬戸内海や大阪湾、若狭〜琵琶湖北部が敵の襲撃を受けることなく、移動できた根拠はない。 邪馬台国がどこにあってもいいんじゃねーの
貢献するとしたら観光ぐらいだけじゃねーの
税金つぎ込む必要はないんじゃねーの
あっと驚く遺物ならよいけど・・例えば3世紀にひらがなが存在したとか
それで苦悶してる研究者は税金でもいいが、何説が正しい、間違いなんて言ってる公務員研究者は首だよ >>313
こういうウソが平気でつけるから
九州説は、ゴミだって知れ渡ることになった >>324
お言葉ですが 公務員(大学関係者も含め・・助成金が出てるから)誰も
畿内説が正解と断言していない・・と思慮するは良いのですよ
畿内説の文献を読めば良いと思う 公職についている方の文献は断言していない >>318
岡村秀典は北京大学歴史系考古専業に留学している >>327
そんな「断言」するなら
証拠出せや
藁 >>322
妄想の奴に妄想と言われても返答しないと思うよ
お人よしはいるかもね 東北の黒塚伝説。
イワテという鬼婆の話。
奈良の黒塚古墳も別の鬼婆の話かもしれない。
殉葬の習慣を持つ勢力なら、鬼と認識されても仕方がないだろう。
若草山山頂古墳。元々は牛塚と呼ばれていた。
牛鬼伝説と関係あるのか。
墓なのに人目に晒され踏みつけられ毎年火に焼かれる。よっぽど業の深い人物の墓か。 >>321
意味深ですね
ヤマト王権=大和朝廷にも疑義が残ってますね >>964
>致命的な視点漏れがあるぞ 邪馬台国に行くには九州北部から南に船出すると書いているんだから<
いや、不彌國で萬二千余里がほぼ消費されているんだから、「九州北部から船出」しない。
また、投馬國は移動したとは書かれていないから、側副傍線行程の説明であり、行っておらず、
邪馬壹國は、不彌國のすぐ南にある。
>書いた人間も当然邪馬台国は九州南部と思い込んでる<
書いた人も、投馬國は「南方にある」と書いているんだから、九州南部と思っている。
>よって邪馬台国が九州南部にあったと思っているから<
間違い。邪馬壹國は不彌國のすぐ南だから北部九州であり、投馬國は南九州。
>末羅国や奴国が女王国より北部の国々という事なり そこを一大卒の置かれた伊都が監視してたとそういった記述だ
そうなると書いた人は邪馬台国が九州北部と思って書いてなかったという事だし<
間違い。不彌國のすぐ南だ、と認識している。
>九州南部は狗奴国だから<
狗奴國は、邪馬壹國の女王之所都地域のすぐ南にある、という記述であるから、大体肥後。
>南に船出するという記述が間違いで 邪馬台国は畿内という事になる <
南に船出するという記述が不彌國から海岸沿いの大回りで南へ行く、という事だから、間違いではなく、
「 邪馬台国は畿内」というのは、「南≠東」に拠って始めから間違いだ、という事になる。 >>328
あんたのカキコミは畿内説の足を引っ張る九州説の刺客 >>320
いいえ歴史系学者のほぼ100%が支持するれっきとした学問です
支持する学者のいない九州説は単なるヨタ話という事になる >>965
>よっしゃいいぞ じゃあ畿内と遺跡や出土物比べだな <
大和は、「南≠東」に拠って、始めから×。 邪馬台国論叢が盛り上がる理由は結論が出ないから
結論が出たら職を失うとは言わんがお払い箱
引っ張るだけ引っ張った方よし 家族のために >>335
ヤマト王権=大和朝廷
って、誰が主張したの?
??? 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
畝火ををしとはどういう勢力か?
耳とは何なのか?
耳なしとはどういう勢力なのか? >>343
結論でてるから九州で卑弥呼饅頭が売れないんだよ
アホ >>337
その説は投馬国が九州南部と言っている時点で破綻だな
比定地はどこ、さらに邪馬台国はそれより南に水行10日陸行一月だから
九州最南端に設定しなければ辻褄が合わないそしてそこにはそれらしい遺跡なし
ついでに九州北部の端まで1万700里だから少なくてもそこからは
1300里ほど船出と陸行しなくてはならない 邪馬台国で飯食ってる奴がいるとしたら、確実に九州説の奴だな アンケートはアンケートとして
畿内説支持者が少ないのは国民が感心を持って無いからだと思うな
圧倒的に畿内説支持の学者が多いのに、
邪馬台国に無関心な奴が多い=結論がアンケート
関西で畿内説より九州説が多いのも気になるが無関心だと思う >>970
>陳寿は九州北部が邪馬台国じゃないとわかってたから倭人からの伝聞を付け加えたんだろ
そもそも原典とは魏略の事だろうけどそれは伊都国までしか書いてないからな <
魏使らの記録は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
魏使らは、邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある、と知っており、
陳寿も、魏志を書いた本人であるから、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある、と考えている。
そして、「水行十日陸行一月」は、
その前に書かれた「女王之所都」の説明であるから、
「從郡至倭」から「女王之所都」までの日数になり、
陳寿は魏使らの記録を見なければ書けないから、
(倭人からの伝聞ではなく)、魏使らの記録を元にして書かれた。 昔みたいに邪馬台国本が売れてた時代じゃないからな
ほとんど関心はなくなっただろ
むしろゲームその他で三国志そのもの(曹操や劉備、孔明など)
のほうがはるかに人気が高い >>352
1万2千里が九州北部でほぼ終わりというのは論破済み >>350
定年爺さんにトンデモ邪馬台国本自費出版させて、マージン取ってる業界ゴロだな >>353
爺さんが目を閉じて空想すれば
その世界では九州説の勝ちだのな 九州説がいたずらに話複雑にして小難しいイメージ植えつけたからだな
事実なんざ単純だしその頃がわかれば神武東征の話とかすごくイメージしやすくなるのに >>351
じゃなくて、ヒマでオツムの軽い老人が九州説なだけ 日教組のお陰で古墳時代がぼんやりし過ぎなんだよ
歴史的にも面白い時代なのに >>981
>邪馬台国が九州北部なら別に付け加えなくていいじゃん
強調しなければならん意味もわかんないし <
郡から女王之所都までの所要日数は、後で女王之所都への遣使を派遣する時の、
業務上の特に必要な情報であるから、
魏使らも記録した。 一般の国民はゲームや映画で周瑜や鳳雛は知ってても
張政や梯儁なんて誰も知らねえよ アンケートなんかに答えてるのが
どういう人々か考えれば
答えは明らか
>>363
ほかに日数表記で記述している箇所があれば魏志の中から引っ張って来てみな
そうしたらその話は信用してやる >>365
それでも、女王の都を遺跡ごとにアンケートとれば、纏向がダントツに来ると思うんだけどね >>359
人気投票 中には博識もいると思うが大半は人気 >>998
1000なら?、
邪馬壹國女王之所都は筑紫に確定。
大和説信者、悶死。 >>367
どんな疑義か答えられないらしい
作り話だったわけだな Jタウンネットはあなたの街の情報サイトだから
読者は旅行とかお店に興味がある読者層だろ >>366
お前には説明要らんだろ?
まあソント(声戦)とは韓国の古来からの競技?で
お互い嘘でもデタラメでもわめき散らし黙らせた方が勝ちという反理論性反理性性を養う競技
>>292 >>293の辺りのレスからザラコクがどういう人間かわかる
つまりはそういう事 まだ言っているの?
>>364
日本名:トシドン関係になった
という人物もいるんじゃないの? >>370
そうかもな
畿内説の研究者は税金が多いのかも
九州説の研究者は自費が多いのかも
反感の結果 情で九州か
吉野ケ里のインパクトが強い 纏向はもっとPRすべき 初めは『王』を名乗っていた
という人物がいるでしょ、
それとも氏や姓という意味の王ではないの?
統治者、君主的な意味での王? >>377
纏向はPR不足でなく材料が不足が現状かと
今後の調査いかんで、どう転ぶかはわからないですが パトラの衣装を着ていた芸能人がいるでしょ、
関係するような家?
王(須)を名乗っていて、津、 >>315
>畿内説は魏志倭人伝に書いてる距離方位はアテにしないから
畿内は魏志倭人伝にある邪馬台国ではないと言うことだろw >>382
魏志倭人伝の記述通りの距離だと邪馬台国はニュージーランド辺りになるそうだけど
あんた邪馬台国ニュージーランド説の人? >>383
九州北部から南に船出しても何も無いから
九州北部から南じゃなくて東に行けば畿内の大和
じゃあ南に船出するってのは東に船出するの間違いって事じゃん >>384
ニュージーランドになんかならないよ。
魏志倭人伝のままなら九州北部。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 老婆が言うには
相撲の話をしていたこともあった
遠い親戚にいたとか、
いないとか
相撲をやっていたひと 素人で済まないが
方位は狂わないと思う
距離はルートや感覚で違う
上りだと距離は長くなる感覚 下りだ短い
よく経験することだが
知らない道を行くときは長く感ずる 帰りはなんだ近いと思う >>387
1里=400mだからね
帯方郡より1万2千里はソウル付近より4800km
これは赤道を越えるそうだ
あと九州北部の端っこの不弥国まで足し算すれば1万700里
少なくともそっから1300里船出しなければ邪馬台国には着かないという事 『広瀬座 菅野』という名前の家
『年神』(画像)同じじゃない? >>389
邪馬台国までの記録残した人は現地まで行かず伊都国で留まり
そっからの行程は国防上の理由から倭人にウソの距離方位を教えられた(日数の部分) >>390
魏志倭人伝では一里は100メートル弱。
対馬海峡が3千里だからね。 >>392
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>393
魏で使われた距離は1里=約400mという事しか記録にないね
またインド方面の記録は1里=約200mだそうな
これは計測がいい加減だったという証拠であり1里=100mだったという事にはならない >>394
距離は正確な物とは残念ながら言えない
よって邪馬台国の位置特定には使えない まだカミとか言ってるのw
と言ってる人もいなかった? >>131
>畿内説は説としては良いが研究者の利害が?? <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
「畿内説」は、
旧小国にはならないから×であり、
説としても、「南≠東」に拠っても×であり、
大和説者は、その利害に関わらず、全員×人種。 またまた登場
オカルトカキコミ
誰だったかいいネーミングつけたが思い出せない
うんざり ザラコクのほうがマシ >>133
>畿内説の研究者はさっぱりわからない 畿内説ありきなのか真実を知りたいのか<
大和説研究者は、始めから「南→東」などの嘘つき騙しをやっているから、
全員×人種。 日本の戦国時代で、
かなり有名な島津氏?
秦氏となっていない >>396
魏志倭人伝を読んでごらん。
それが資料だよ。 >>136
>真実の探求だよ
いわんや公務員の研究者は偏った研究はしないし、確信なしに公表はしない <
安部も大和説らしいし、文部省は皇国史観だから始めから大和説だし、
学会教育界の指導教官が全て大和説であるらしいんだから、
だから、公務員の研究者は、「皇国史観という結論先にありき」にしかならず、
殆ど全て始めから、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。 探偵eyeというドラマ観たことない?
主人公「りん、りん」と言っているでしょ 他のスレにも書いたんだけど、
妹の子供の名前「りん」 川俣町という掲示板、読んでみた?
むかーし、伊達郡の川俣町というところに住んでいた事があって、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川崎区に住んでいる 陰謀スレではないけど
ロス氏の映像(動画)が貼り付けられていた事があったり、
秦氏=ユダヤ説?
探偵eye?
よくわからないけど、
探偵eye関係の人物(芸能人)と一緒に出ていたような
ロケット(シャトル)の話をしていたり ロケット(シャトル)を作りたい
そのような動画だったような >>389
九州北部までは距離は正しいと思う(漢書地理志他)
それ以降は距離について曖昧ですね >>173
>皆から笑いものになった、あの安本の珍説を九州論者だと信じちゃうんだなあ、
これが。 笑)<
半分×書の記紀であっても、殆ど完全×の人種の大和説者であっても、
ついうっかり、自説に矛盾したり都合が悪くなってしまう事を書いてしまう事がある。
安本も同じ。
反古田や反大和説を唱えようとしていても、ついうっかり、
桐原詐欺師からの電話受け嬢の記録を公開してしまった、
というようなアホな事をしてしまった事もあり、
そういう「ついうっかり」行為には、信頼性や確率が高い事もある。 たしか
あなたは、何をしに、日本に来たの?
みたいな動画だった >>416
単里は難しいが根拠としては成り立つ
>>410
素人だよ 玄人に成りたいとも思わん
染まりたくないから >>175
九州には
径100歩の墓もある
丹もある
入れ墨もある
上質の絹もある
骨占もある
宮殿もある
大きな祭祀の遺跡もある
多くの国をまとめ上げた中心の弥生銀座もある
畿内の土器の上納もある
墓制も前方後円墳の始まりもある
宝物は極めて一杯ある。
これらは、いずれも史料事実や史料実態。 ロトの子供 子孫 末裔
このような人物(一族)がいるでしょ 『年神』
>各家にやってくる来方神
あなたは、何しに、日本に、来たの?
たしか、このような動画だった >>422
しつこいな 最後
水行は水の道 海・川・湖
日数は天候条件や疲れ具合や所用(食物調達等)で変わる
サラバ スレチ御免
北部九州説はクダラン
平原は卑弥呼の墓までは理解せんでもないが(死んだあとはどこに埋めようがかって)
邪馬台国は北部九州とするには無理がある(倭人伝の行程と違う) >>428
>(死んだあとはどこに埋めようがかって)<の根拠は >>177
>@九州からは畿内の土器がたくさん出土するが 畿内からは九州土器の出土は少ない<
大和からは筑紫の土器は出土しない。
>A畿内からは東海の土器がたくさん出土するが 東海から出土する畿内の土器は相対的に少ない
昔から不思議に思っていたが、これは何を意味しているのだろう 特にAは不思議だ <
私がYahooで投稿を開始した頃は、
東大出で東大京大を股にかけた事を自慢していた天誅という人物らが、
「大和に西日本からの土器などが集積していたから、大和が西日本の権力中心だ」
という論を主張していたが、
私は、直ぐに、それなら、
筑紫の土器が大和へは運ばれず、大和の土器が筑紫に大量に運ばれており、
それ以外にも半島から西日本全域から筑紫に物品が搬入されているんだから、
筑紫が西日本から半島の間に盟主であり、都であった、という事になる、
と言って上げたら、その後天誅は、
大和が搬入中心の都である、とは言わなくなった。
そして、それから、私は、
大和は、倭國の東征に拠って出来た地方の市を監督する大倭職の国であって、
その地方の交易中心であったのであり、
筑紫は、西日本から半島の交易搬入の中心であり、都であった、という説明をし続けて来た。 >>181
大和説者は、天誅らと同じく、
筑紫から纏向への土器搬入が全くない、
という事の意味も判らず、
無知無脳まるだしだな。 >>183
>九州人は外様なので入京制限があったんだろう <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の阿毎氏であるんだから、
外様ではなく、同じ阿毎氏の親族なの。 >>433
ザラコクが勝手に考案した意味など
他人には解らない >>195
>で? あなた、一体どんな「現実」を突きつけたことがあるの? w<
大体、人類の常識的事実や、史料事実や史料実態などの「現実」からの、
帰納的な確率の高い推論しか言っていないよ。 >>437
一例だが以下の陵墓の所在地調べよ
天津日高彦火瓊瓊杵尊
天津日高彦火火出見尊
天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
大吉備津彦命
日子坐命 >>422
帯方郡から伊都までの里程を、日程で表示しなおしただけ。 >>440
じゃ、どうして邪馬台国までの里程が書いてないんだ?
ナンセンスだな >>439
調べるも無い
畿内説はアンチとは言わないが宮内庁の比定は信じて無いから
畿内説の始まりは旧皇族を刺激しない九州説
右往左往したが旧皇族に反旗を翻した畿内説(真実を探求する畿内説) >>198
>誰も歓迎してないよ 馬鹿が嵐みたいに書き込まなければ 穏やかなスレになる <
大和説のアホが、
憲法違反の「人種差別的ヘイトスピーチ」や、
「南→東」などのような史料事実を否定曲解する嘘つき騙しなどをしなければ、
黙過し難くなくなり、
穏やかなスレになる。 『漢國神社』
お菓子の話をしていた事があったり、
あと川俣町という掲示板
本人、本物が住んでいるんじゃないの?
自称などではなく
何かの本当の子孫や末裔 >>428
行程に合わないのは畿内説だよ。
魏志倭人伝の元ネタは卑弥呼と同時代の魏略。
魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
これだけ。
日程は、陳寿がその里程にかかる日程を丁寧に追加情報として追記しただけ。
それを畿内説が畿内に結びつけようとして繋げて読んでしまった。 >>201]
>頑張れ畿内説<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
国民がこれ以上騙されてはいけないから、
スレをたたんで、立ち去れ。 >>434
卑弥呼は倭の女王だよ。
記紀にある神々も倭の王たちだ。
同じ国の一連の王なんだから、同じところに葬られているよ。 >>442
いずれにせよ行程では
畿内で無いのは確かだよ >>444
ようするに、畿内様にいやがらせしに来る、と言っているな。 相変わらず九州説のアホは「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」の話だけか
何一つ見つからない田舎に何を妄想してんだか 後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>211
>邪馬台国はヤマト国<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「邪馬壹國女王之所都」なら、「南≠東」に拠って、大和は×。 使者は方向音痴だったのだ
自分で笑った
何度も邪馬台国と魏国は行き来してるから方位は南だよ >>214
また妄想かい?。
だから大和説は、知能が低いし、顔も醜いと言われる。 アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。 相変わらず畿内説のアホは「ぼくちゃんのかんがえたすごい3世紀中葉の古墳時代」の話だけか
何一つ見つからない田舎に何を妄想してんだか >>459
正論だと思うよ
倭人伝の南は正しいと理解するのが正論
だから、その後の交易もあんたの言う南だよ
間違えてたら倭人伝では南と記述しない
倭人伝の表記を否定するなら邪馬台国も否定してもいいと思うが各説そうはいかんだろ
距離はいずれの説も難題 やや九州に有利かな
径100歩の墓もない
丹もない
質の高い絹もない
入れ墨もない
骨占もない
宮殿もない
大きな祭祀の遺跡もない
多くの国をまとめ上げた中心もない
多くの国をまとめ上げたような影響力もない
見つかるのは畿内の土器、墓制、祭祀、宝物ばかり
自分達の文化をすべて塗りつぶされて自我を失う属国の姿しか見つからない
おお、哀れ哀れ 何度もくるな論じろ
463日本@名無史さん2018/02/07(水) 22:05:28.26
>>462
九州説老人はこんな夢を見て死んでいく 畿内説にいちゃもんを付けるのは5ちゃんだから良し
だが、南≠東連呼に反論すべき材料が畿内説には無いのも確か
南を東にするには中国を説得しないといけない(これは誰かの受け売り) >>230
>畿内説で無く 大和及び其の周辺説が正しいのだろう<
「大和及び其の周辺説」でも、「南≠東」に拠って、✖。 >>234
>ちゃんと読んでなかったな。
邪馬台国は、2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
根拠がない。
2世紀に同じ様式の土器が分布していたら同じ国という根拠がない。
更に仮に2世紀末まで同じ勢力圏でも、それ以降も同じ勢力圏だったという根拠が全くない。<
成程。 >>235
>九州で今後大規模な遺構が見つかる可能性があるのかな<
弥生銀座は、もう殆ど市街地だから、難しいだろうねえ。
また太宰府は、もう大分発掘されて来たし、
後、久留米付近のこうやの宮や古宮遺跡付近や、安徳台は、
もっと発掘して欲しいね。 何か間違えている?
菅原道真とか、
同じような名前の人物がいたでしょ 何一つ提示できないけど「ある!」と言い張るだけの九州説
それが反論だと思い込んでるアホぞろい
おお、無様無様 >>471
こうやの宮だと高田町(今のみやま市)
でしょうか。
岩戸山古墳の八女より南側になりますね。 >>248
>時の権力者が歴史を捻じ曲げるのは仕方ないと思う<
誰であろうと、事実を否定曲解して捻じ曲げる事は、国民のためにならず、
むしろ害になるだけであり、
それも、時の権力者にだけ利益になり、
国民の大多数にとってはむしろ殺し合い戦争になるだけの物は、
黙過し難い。 筑紫はあっちこっち歴代の王宮が建てられまくったからな。 天神?信仰
後世になり、そういう偽書を広めた
と言っている人がいたり 謎のチェーンソーのゲーム
主人公「うるせー、勘違いやろー」
敵の台詞「渡来人どもめ〜」と言っているでしょ >>251
問題なのは、
なんの正当性もなく、国民のためにもならない、嘘つき騙しの大和説が、
国粋皇国史観のために、歴史を必死で捻じ曲げて国民を騙して、
近隣諸国民への殺し合い戦争を鼓舞扇動して、戦争させ、
暴力団の親分や浅原や宗教教祖らと同じように、
自分らは命令する側になって、栄耀栄華にふけようとしている事だな。
無駄な努力をすることだな 数年前のkpopスレなんだけど
チェッカーズが何やら〜と言ってる人がいたり、
かなり詳しい人がいたのかな チェッカーズの曲(不明)と、
何やらと言う日本のバンド
似ている曲があるんだよなとか 家は力夫氏の親戚ではないんだけど、
直の親戚ではないと言う意味
家の先祖の写真を貼り付けた後、
それ宮様じゃないの?というレスがあったり
あの謎の写真、キュウリの葉、葱の華・・・・。 >>262
学会教育界の殆どの学者が認めて、国民の7割が拒否してる論理。
それが、大和説。 >>263
大和説の、ヘイトスピーチ的な街宣罵声に、論理なし。 >>464
魏志倭人伝の距離も方位もあてにならない
万単位の距離を正確に計れるなんて古代の計測がそんな正確なもんか
物証から見れば畿内が邪馬台国でもう決まり >>267
>反論の反論そしてまた反論 しばらく出口は見えない邪馬台国<
いや、議論のスタートの入り口での「南≠東」問題で、
大和説者は、全く反論も出来ずに逃げたから、出口は見えている。
それに、「邪馬台国」なんて史料に存在しない文言を使用するキミも、
おそらく大和説者と同じように、
「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘つき騙しをする、
同じ穴のムジナ。 しかし九州はビックリするくらい何もないな
これで邪馬台国とか言い張る奴とかまさかいるわけないよなぁ 謎の写真の家
そんな人、どこにいるんだよw
と思うかもしれないけど
兄 弟(書き込みをしている、もれ) 妹 >>467
メンド臭いからわざわざ反論しないだけだが
一応言っとくと南に水行…と出てくる所はいわゆる日数で距離を表した部分
魏志倭人伝に倭人は里数を知らず日数で距離を表す…とあるから
この部分は倭人からの情報という事がわかる
なので南に水行は不正確な情報か
国防上の理由で邪馬台国のある方向とは違う方位を教えられたのか
いずれにしても九州北部から南に水行してもそれらしい遺跡がないし
東に水行すれば大和があるから南は東の間違いの可能性が高いという事
そもそも南=南とすれば邪馬台国は九州最南端辺りという事になるけど
九州説はそれでいいんだろうか >>269
>本来ならかくあるべきだよね
論より争いだから互いに認め合わないのが現状では<
本来は、「南→東」などのような、
史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説者の方が、犯罪者的であり、
黙過したり、対等に扱っては、いけないんだよ。 『菅野力夫』
ググると出て来る写真があるでしょ、ほとんど共通している
馬の乗り。
謎の刀。
芝居小屋があり・・・好きで、よく観に行っていた。
寺院に通っていた。 >>493
九州説は南=南として邪馬台国をどこに設定する積もり? 謎の刀と言うのは、
家(部屋)の中に飾ってあったと言っている >>271
実際には、
「南→東」などの嘘吐き騙しの、論理性のない発言しかできないレベルの、
バカ大和説学者らが、国民の3割にしか賛成して貰えず、
逆に、国民の7割が「大和説の論理に納得できないの」と騒いでいる、
という事。 >>275
大和説バカは、国民の7割に反対されている、という現実を正しく認識できないし、
歴史や経験から学ぶこともできないで、国粋皇国史観での殺し合い戦争に憧れている。 飾ってあった凄い刀、謎の刀の話
近所の人にあげたのか、盗まれたのか・・・、
畳、床下の土まで掘り起こされていて
そういう話
何だったんだろう 100人が100人とも違う場所を喚き散らす
100人が100人とも違う行程を喚き散らす
でも絶対確実に九州だと喚き散らす
バカの標本だな九州説は 銀▢という親戚がいて・・・。
銀▢という人は、確実に親戚 旧唐書日本国伝を読む その1 〜 倭国と日本国が別の国である決定的な証拠!
前回は、旧唐書倭国伝を見ました。今回は、それと対比の関係となっている旧唐書日本国伝を見ていきます。
【現代訳】
日本国は倭国の別種である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。あるいは、
「倭国では、倭国という名が雅美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ。」
とも言われるし、また
「日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した。」
とも言われる。
日本人で唐に入朝した者の多くは、自分たちの国土が広いと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問に答えようとはしない。だから中国では、彼らの言うことがどこまで真実を伝えているのか疑わしい、と思っている。また
「その国境は、東西・南北数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって境界をつくっている。その向こう側が、毛深い人の住む国なのである。」
とも言う。 チェッカーズ『ギザギザハートの子守唄』=『日本昔話』
あと、これは数年前のkpopスレ、
もれ(仮)が書き込みをした後の書き込み
うだうだ、うだうだ〜・・・、
『うだうだ』という漫画のキャラクターなのかな
老婆の言う、銀▢というのと、同じようなキャラクター? いまだに旧唐書とか持ち出してドヤ顔してるアホの鼻の穴の膨らんだ面を想像するだけで笑える
こういうバカってバカだから一生自分のバカさに気が付かないで恥かいたまま死ぬんだろうなぁ
九州説って生きてるだけで恥なのによく生きていられるな 邪馬台国の会とかのバカサイトの影響でこうやってアホな話を鵜呑みにして
「我こそが古代史の謎を解き明かした!」
とか浮かれた能無しがこうやって量産されるんだろうなぁ お金などを持っている家の人を、
脅して、金品を盗もうとしたり
丁重に奉れば(迎えれば)・・・
福が・・・という話なのかな
川俣町というところに住んでいた頃・・・、
盗まれたと言っていたような 古事記
高千穂・日向というと、現在の大隅・薩摩など九州東南部の宮崎・鹿児島を指しています。
しかし日向は「日が向く」という程度の意味、高千穂は「高い場所」という程度の意味合いで、
特定の地を指しているわけではない―――と書いたのですが、ここではこの筑紫に行く以上は九州南部を明らかに指しています。
日向(ひむか) ひみこ
高い場所 (邪馬)台国 確か
伊達郡と言うところに、
広瀬川という川があって・・・芝居小屋 311の被災地
むかーし住んでいたという
ところの周辺? したきりすずめ〜浦島太郎(白髪)
『ウダウダ』銀▢というキャラクター? 数年前、このような謎のレスがあったり
・そのとおりでございます
・私が間違っていました 『もののけ姫』
神殺し?テンノウ、アサノが何やらと言っているような、そういう台詞
それと、どのスレだったかな
「また言ってもいない事を・・・・・・」と言っている人がいたり 『言挙げ』
印象操作?
殺せ(殺す)と言ったとか、言わないとか このスレにも、いたような気がする
・さすが天皇だな、自分だけは助かろうと
とか、本当に嫌っている人々がいるのかな >>276
大和説学者らの「南→東」などのような、
基本的な事実を「始めから否定曲解した嘘つき騙し」に基づいての、
「だろう」という研究成果は、
九州説者らの史料事実自体からの帰納的確率的な推論とは、
根本的に、価値も確率も違う。 >>278
九州説は、始めから、
「南→東」などの史料事実を否定曲解した嘘つき騙しの大和説を、
反論否認しており、
大和説者は、根拠なく。
分裂幻覚妄想の自己主張をしているだけ。 >>279
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
可能性をや確率を絞り込むのも、学問や科学のお仕事。
印象や史料事実を否定曲解の先入観だけの大和説者には、無縁の話だ。 >>280
その自然や歴史における不可知部分への「だろう」「らしい」などという帰納的確率的な推論は、
観察観測実験事実からの科学的学問的成果の積み重ねで構築されている。
構築される間に多数の研究者により批判検証され、結果を受け入れられたもの。
そうした学説と、始めから自分の思想宗教的な「結論先にありき」での結論とを、
同レベルのものだと思っている時点で、
大和説者には、学問の素養はないと断言できる。 >>282
>だろうはだろう、確定では無い<」
自然や歴史においては、殆どが不可知部分であるから、「100%絶対確定」はない。 >>285
>テンプレぐらいの根拠で良かったら、以下のストーリーでも全く問題ない。
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。<
「南≠東」は、99.9%以上成立しているから、✖です。 >>288
>あなたは下種です<
あなたは、孝霊と同じく「南→東」の史料事実の否定曲解を肯定しているようだから、
✖であり、下種の仲間です。 >>295
>珍寿は倭国大乱で分裂して生まれた奴国と狗奴国の位置関係を、奴国の南側に狗奴国があるとしか知らず、どちらも東西に細長いとは知らなかった。<
陳寿は、倭地へ来ていないのだから、
実際に見聞して記録した魏使らの記録を元にした記載をし、
その結果「計其道里、當在會稽東治之東」という推定をした。
>だから九州北部に上陸してそこが奴国の支配地なのなら
狗奴国の都、邪馬台国へは南に進んだのに違いないと早合点して、
南へ進んだと推量で勝手に補足してしまったのだろう。<
この男も、魏使らの記録を、勝手に否定曲解する嘘つき騙しの人種であるんだろう。 >>298
>ザラコクのセリフからどういう思想の持ち主なのか丸わかり<
思想というのなら、
観察実験計測事実からの帰納的確率的推論思想であり、
日本国憲法に従っての、
戦争放棄の平和主義と、
国民主権や、
個人の自由や基本的人権の尊重や、
諸国民との「平和協調共存」思想。 >>300
つまり大和説は、学問でなく、
人種差別殺し合い戦争の国粋皇国史観の宗教的思想だった。 >>487
物証と思い込んでいるものが何の物証にもなっていないよ。 >>492
>そもそも南=南とすれば邪馬台国は九州最南端辺りという事になるけど
>九州説はそれでいいんだろうか
魏志倭人伝は一里が100メートル弱なので、九州北部におさまるよ。 >>509
なんで筑紫とあるのに九州南部なんだよ。
福岡県だろ。 >>307
>南=南でも少なくとも邪馬台国は九州北部にならんのだぞ?<
投馬國へは、側副傍線行程説明であり、
「水行十日陸行一月」は、
「女王之所都」の目的地への説明であるから「從郡至倭〜女王之所都」の日数説明であるから、
不彌國のすぐ南になるから、北部九州内になる。 >>308
>嘘だって証拠は? <
古代中国人は、周髀算経や礼記に拠って、東西南北の簡易計測法を知っているし、
魏使らや郡役人らも倭人も当然知っているし、
南と東は字形も意味も全く違って区別対象であるし、
(日本の大和説者以外には)中国でも、
誰も「南と東の間違い?」の校勘もしていないから。 日向の地は日が向かうところ。
日の本にはなれないんだな。 瀬戸内海の東の縁辺りの小国が、西日本にまたがる倭国を飲み込んだんだろう。 >>312
>日数表記=里数を書き直したものと嘘つきダマシの九州説<
里数は、殆ど(倭人ではなく)魏使らの直接的計測記録であるが、
日数は、倭人も魏使らも、どちらもが計測できる情報であるから、
日数記録があれば、どちらの情報であるのか?の史料批判が必要である、
という事が判らないらしいアホの大和説者。 >>534
そんな計測法を使ってたら
会稽よりずっと北だと判っちゃうよ
つまり太陽や北極星を使った計測はしてないってことだ
なんの証拠もないのに嘘と決めつけてるわけだね >>314
>中国では南だよ 東冶だから福州市あたりの東<
「中国では南」はいいが、
「東冶」ではなく「東治」だな。 >>315
>別に表記変える必要ないし
畿内説は魏志倭人伝に書いてる距離方位はアテにしないから
魏志倭人伝に出てくる距離がどこ指してようが邪馬台国は畿内 <
要するに、この男も、
魏志の記載や学問などどうでもよく、
国粋皇国史観という宗教的に「結論先にありき」だから、大和だ、
というように、
・・・・と同じだな。 >>321
>叩かれるべきは、卑弥呼を共立し大和朝廷を作り全国を征伐して回った勢力。<
叩かれるべきは、「南→東」などの嘘つき騙しをして、
「卑弥呼を共立し大和朝廷を作り」というような嘘つき騙しを、
全国に宣伝して回った勢力。 >>323
>邪馬台国ヤマト説でも、南は南。
瀬戸内海や大阪湾、若狭〜琵琶湖北部が、
敵の襲撃を受けることなく、移動できた根拠はない。<
倭王武の上表文の「自昔・・・東征毛人五十五国」の東征路。 >>324
>邪馬台国がどこにあってもいいんじゃねーの ・・・
それで苦悶してる研究者は税金でもいいが、
何説が正しい、間違いなんて言ってる公務員研究者は首だよ<
「邪馬台国」なんて存在しない嘘つき騙しだし、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解をする公務員は、
犯罪者的であるから、首にすべきだよ。 >>325
「南→東」などのような、
こういうウソが平気でつけるから
大和説は、ゴミだって知れ渡ることになった。 >>542
>「東冶」ではなく「東治」だな。
「東治」だって
「東冶」だって
会稽より南なのは確定だから
九州説は、✖です。
方位の誤認は無い
あるとすれば誤写
倭人伝では
魏から、邪馬台国へきたのは1度じゃ無い >>551
方位の誤認が無かったら、どうして
「会稽東治之東」
になるんだ?
ありえない 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 漢の時代に会稽へ東方からやって来た国が有ったという記録が残ってた。
でも漢の時代にやって来たのは100国を従えてたが、帯方郡へやってきたのは30国の連合国家だったという。
で、呉や公孫氏の記録も調べた結果、元は100国だった倭国が大乱で分裂したことが解って、帯方郡へやって来たのはその片割れで間違いなかろう、ってことが書いてあるんだよ。 >>563
恥ずかしく無いですか
同じ穴のムジナと思われるますよ >>565
そんな中傷しか出来ない九州説と
一緒にされたら
誰でもイヤ >>568
ほら、また中傷
絶対に証拠を出さない九州説は
恥ずかしいな 神武の従属国家脱出は推古以前が春秋紀として、紀元前100年頃
本州は中国に従属しなかった
大乱も九州の王族脱出後
卑弥呼は従属王で、天皇家は自治国家の王 推古以前が春秋紀なら、天皇家も倭人出身だから、
倭人の上に長年君臨した卑弥呼を祀った崇神の年代も合ってくる
崇神即位が卑弥呼死去と同じ248年だから >>327
>お言葉ですが 公務員(大学関係者も含め・・助成金が出てるから)誰も
畿内説が正解と断言していない・・と思慮するは良いのですよ
畿内説の文献を読めば良いと思う 公職についている方の文献は断言していない<
お言葉ですが、
「公職についている方の文献」は、大体皆、
倭国の中心や邪馬壹國女王之所都を、(九州にあったとは全くせず)、
巧妙に、大和にあった、という事を前提にした史料解釈や説明をしており、
世間の人々を騙して大和説に誘導しよう、としているように見えるんですよ。 >>328
大和説は、また「結論先にありき」であり、思考停止ですか?。 >>339
>いいえ歴史系学者のほぼ100%が支持するれっきとした学問です<
凄いね。
「歴史系学者のほぼ100%」が、
国民の7割位の「大和説への不支持者」がいるのに、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしている、
という事ね。
>支持する学者のいない九州説は単なるヨタ話という事になる<
国民の7割もの不支持者のいる大和説は、単なる与太話だろう、
という事になる。
皆さま、子供や孫が歴史系学者になりたい、とでも言われたら、
反対した方が、よいでしょうね。 >>341
>どんな疑義が? ??? <
大和王権が「朝廷」になったのは、701年からだ、
という疑義。 >>572
ナマズなら、肥国の方が可能性がある。
肥前も肥後もナマズがトーテムだし、中国大陸に近い。 >>573
>巧妙に、大和にあった、という事を前提にした史料解釈や説明をしており、
>世間の人々を騙して大和説に誘導しよう、としているように見えるんですよ。
同意します。 >>348
>その説は投馬国が九州南部と言っている時点で破綻だな 比定地はどこ<
南九州。
>さらに邪馬台国はそれより南に水行10日陸行一月だから
九州最南端に設定しなければ辻褄が合わないそしてそこにはそれらしい遺跡なし<
投馬國への説明は、側副傍線行程説明であり、魏使らは行っておらず、
だから、本行程は、不彌國から(殆ど距離無しに)南至邪馬壹國女王之所都になり、
「水行十日陸行一月」は目的地の「女王之所都」への所要日数の説明になるから、
郡からの日数。
>ついでに九州北部の端まで1万700里だから<
いや、對海國と一大國を魏使らが陸行移動をしており、
奴國へも出発と到着の間に移動をした記載がないから、魏使らは、通っておらず
だから、不彌國でほぼ萬二千里を消化している事になる。
>と少なくてもそこからは 1300里ほど船出と陸行しなくてはならない<
ならない。 >>348
>比定地はどこ、さらに邪馬台国はそれより南に水行10日陸行一月だから
そんなことは書いてない。
畿内説はでっち上げばかりだな。 >>583
ほら、このように
九州説は結論連呼ばかりで
なにも理由を言わない
だから学説ではいられなくなった >>351
>圧倒的に畿内説支持の学者が多いのに<
大和説学者は、国民の7割に否定されており、
おそらく「嘘つきだ」と思われている。 >>585
畿内説は中傷ばかりで世間の支持を失ったよ。
全然、説としての根拠もなく、テンプレは妄想ズブズブ。 >>587
旧唐書にあるとおり、名前を奪ったからね。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。 >>584
九州説はまた、中傷か・・・
でっち上げだという証拠は? 卑弥呼の称号は倭王。
その倭が後漢時代の倭奴国(福岡)と同じということは、卑弥呼がいたのは福岡。 >>355
「1万2千里が九州北部でほぼ終わり」ではない、
というのは、論破済み。 >>591
>あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
つまり、同じ国だと言ってるね。 >>595
どう論破された?
朝鮮半島南岸までで七千里、対馬海峡で三千里。
残り二千里では九州北部どころか福岡県をでないよ。 >>595
いつ、誰が?
また、ウソをついているな >>601
このように
証拠も出さずに中傷オンリーなのが、九州説 会稽郡や江南からは、朝鮮半島を経由しないで九州西岸にたどり着くルートがあったのだろう。
呉の太白の末などの伝承も関連するのだろう。
彼らは肥国王家として筑紫王家とともに倭国の経営に参加した。
卑弥呼は肥国女王から倭王に共立された。 >>602
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 中身を吟味出来ずにレッテル否定しか出来ない窮州説、憐れよのう >>607
吟味して解釈して見せてよ。
中傷は読み飽きたよ。
畿内説の本気を見せてみろよ。 >>607
ほれ、吟味してみろ。
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 ついでに、畿内説による後漢書の解釈も聴きたいなあ。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>608
俺は畿内説では無いし
窮州説なんてもっての他だけどなw >>613
なんの解釈を?
あなたの言動に統合性が無い
あたまのオカシい人? >>613
突然なんの脈絡もなく
論破とか解釈とか言い出して・・・
発狂してるのかな 倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通其國居無城郭以木為柵以草為屋四面小島五十餘國皆附屬焉
窮州説でこの >>606
どうみても倭国の説明なので邪馬台国ではないな。
大倭王がいたのが邪馬台国、すなわち大和の事で確定だろ。 >>619
倭奴国は無視?
それに卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく倭国の女王だよ。
魏からの称号は親魏倭王。 >>622
後漢の頃の表記が倭奴国、魏の頃の表記が伊都国。
考古学的にはどちらも糸島平野に三種の神器がある方形周溝墓が作られていた時代。 >>618
原典はこちら。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。 >>625
>>>621
>それ、倭国じゃないから
は?
倭國者古倭奴國也
はどう解釈しているの? >>626
旧唐書を出してきたのは窮州説のバカなんだぜw >>628
倭国は、むかし倭奴国のあった場所をいま支配してる国である
と >>627
それは何語での話?
北京語?上海語?潮州語?客家語?その他? >>629
旧習説は後代文献に頼る悪習があったので、今でもすぐ偽書に頼ったりする非学問だ >>358
大和説学者が、
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
いたずらに話を複雑にして小難しいイメージ植えつけたからだな。
「南=南」のように、
事実なんざ単純だし・・・。 >>621
別に無視してないけど。
大体唐書が書かれた時代は既に日本書記を経てるから邪馬台国の資料としてあまり意味はない。 >>634
窮州説では倭国は対馬海峡を越えられないw >>633
>>>628
>倭国は、むかし倭奴国のあった場所をいま支配してる国である
>と
畿内説による、歴史に残る迷訳だ。 >>650
他の都合の悪い史書は焼いちゃっただろ。 >>649
窮州説単位系で長安から一萬四千里ってどこら辺よ?w >>633
>>>628
>倭国は、むかし倭奴国のあった場所をいま支配してる国である
>と
えー、皆さま、
この訳についての評価をお願いいます。
倭國者古倭奴國也 >>653
日本書紀より後の文献はあてにならないそうです。 長安から一万四千里で帯方から一万二千里の場所を探そうぜ >>655
後漢書との整合性からみて唯一の解答だね。 >>658
×日本書紀より後の文献はあてにならない
○中国人の書いた文献はあてにならない
萬二千里も実際は京からの距離だろうし、南と書いてあるのも実際は東の間違いだろう。 >>659
長安から奈良まで2500キロなので、それが一万四千里だと、一里が178メートル?
畿内説ダメじゃん。 >>666
あれもこれも間違いなんだ〜!
と叫び続ける畿内説。 >>633
>>>628
>倭国は、むかし倭奴国のあった場所をいま支配してる国である
>と
えー、次の方、
この訳についての評価をお願いいます。
倭國者古倭奴國也 >>368
>ほかに日数表記で記述している箇所があれば魏志の中から引っ張って来てみな
そうしたらその話は信用してやる <
何だ?、またないものねだりか。
魏志の中に、(倭地以外に)使節が遠い外国まで派遣された話など、知らんよ。
「日数」記載なら、倭人伝に「又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」がある。 >>670
あてんならんモノばかり集めて説を立てた結果
九州説は
・・・死んだ
吉備はモモソの国だったから女王国だよ、
結局モモソの産まれた邪馬台国が大和。
もう結論は出てる。 漢文が読めないと、テンプレみたいな詐欺にひっかかかる。 畿内説の単位系だと邪馬台国はハワイあたりじゃないの? >>676
魏志倭人伝もあてにならないなら、邪馬台国なんてなかったと言って畿内説をたためよ。 九州説が自分の投げたブーメランが突き刺さって死んだのワロタ >>674
お前なーそんな事言って恥ずかしくないのか?
インド方面の大月氏に金印与えたりとか魏志に出てくるんだよ >>679
伊都や奴国までの解釈では
畿内説は九州説と何も変わらないのにw >>384
>魏志倭人伝の記述通りの距離だと邪馬台国はニュージーランド辺りになるそうだけど<
魏使らは、郡〜狗邪韓國を七千余里、と記載し、
3海峡をそれぞれ千余里と記載している、などという事は、
その使用尺度では、邪馬壹國女王之所都は、ニージーランドには全く行かない、という事だよ。
つまり、魏使らも、陳寿も、お前が使用した尺度を使っていない、という事だ。 >>386
>九州北部から南に船出しても何も無いから
九州北部から南じゃなくて東に行けば畿内の大和
じゃあ南に船出するってのは東に船出するの間違いって事じゃん <
不彌國で萬二千余里をほぼ消化してしまっているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にあることになり、
「南へ船出」などしないよ。 萬二千里と一万四千里の違いって、長安と洛陽の距離が二千里ってことなのかな? >>390
>1里=400mだからね<
魏使らや陳寿は、郡〜狗邪韓國まで7千余里と記載し、
3海峡をそれぞれ千余里と記載いるんだから、
それは、1里50〜70mで書かれていた、という事の証拠。
>帯方郡より1万2千里はソウル付近より4800km これは赤道を越えるそうだ<
魏使らや陳寿は、1里=50〜70mで書いている事になるから、赤道を超えない。
>あと九州北部の端っこの不弥国まで足し算すれば1万700里
少なくともそっから1300里船出しなければ邪馬台国には着かないという事<
對海國と一大國の国内見聞移動の記載があるから、
合計700〜1400里位の里数を加算しなければならず、
だから、不彌國で萬二千余里はほぼ使い切ってしまっており。
「1300里船出」なんて、する必要がないよ。 >>392
>邪馬台国までの記録残した人は現地まで行かず伊都国で留まり
そっからの行程は国防上の理由から倭人にウソの距離方位を教えられた(日数の部分) <
魏使らは、女王に詔書や金印や大量の下賜品を手渡さなくてはならないんだから、
邪馬壹國女王之所都まで行っているから、
勿論「ウソの距離方位を教えられた」ことにもならない。 >>688
長安から帯方郡。
ここは長里。
よくわかんないでつなげちゃったんだよ。
日本書紀より後の文献は信用ならない。 >>396
>魏で使われた距離は1里=約400mという事しか記録にないね<
魏志に書かれた里数記録は、殆ど1里=約70m位ばかり。
>またインド方面の記録は1里=約200mだそうな<
魏朝が採用した里単位であり、インドの里記録とは関係がない。
>これは計測がいい加減だったという証拠であり1里=100mだったという事にはならない <
魏使らや郡などの役人の計測が、いい加減であった筈がない。 >>397
>距離は正確な物とは残念ながら言えない<
いや、有効数字1桁の概数としては、かなり正確。
>よって邪馬台国の位置特定には使えない<
合計距離と、部分行程の合計とがほぼ一致しているから、位置特定に十分使える。 >>416
>九州北部までは距離は正しいと思う(漢書地理志他)
それ以降は距離について曖昧ですね <
「それ以降の距離」も、
簡易三角測量や、
記里車や、
歩測や
「日数からの換算」が出来るから、
有効数字1桁概数なら可能。 >>527
>>528
たった1レスで矛盾していく
色々カッコつけてるけど単に日本の歴史を憎悪してるだけ 陳寿は呉と公孫氏の記録からも引用してるわけで、そっちの単位系も無視しちゃダメだよ どうやら陳寿は優秀な人間ではなくて、自分を優秀だと見せ掛ける術に長けた人間っぽい >>698
ここのテンプレの方がもっとひどいけどな。 >>425
>水行は水の道 海・川・湖
日数は天候条件や疲れ具合や所用(食物調達等)で変わる<
倭人の「水行二十日」や「船行一年」は、
距離を所要日数で示すから、当然平均的な日数。
魏使らの「水行十日陸行一月」は、
当然記録を残しているから、所要実日数が記載されており、
それを後に遣使の参考に使用するんだから、それも考慮した近似の所要日数。 それよりも、
あの謎のチェーンソーのゲーム
なぜ渡来人(後に帰化人した人??)なんだろう >>428
>北部九州説はクダラン <
大和説はクダランが、
北部九州説は、史料実態そのもの。
>平原は卑弥呼の墓までは理解せんでもないが(死んだあとはどこに埋めようがかって)
邪馬台国は北部九州とするには無理がある(倭人伝の行程と違う)<
倭人伝の行程説明では、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にある。 このような事を言っている人がいたり
『ここに いたこと』
『死んだ 遺作』
本当は力夫氏関係の話なのかな >>531
里数では収まっても邪馬台国まではそこからさらに水行計30日陸行1月
つまり里数で収まる所に邪馬台国はないという事よ >>533
不弥国のすぐ南ならなぜ不弥国から南OO里と魏志倭人伝に書いてないんだろうね
九州説はこれにどんなこじつけをするのかな >>539
魏は里を使い倭人は日数を使うと魏志倭人伝にある
資料批判もクソもない
資料批判という言葉を使いたかっただけのクソバカザラコク九州説 >>430
>>(死んだあとはどこに埋めようがかって)<の根拠は<
人類の常識としては、
日頃の生存地域から遠く離れた地で事故的に亡くなった場合は、その没地付近に埋葬される事があるが、
生存地域で普通に亡くなった場合には、遺言があれば、その遺言地に、
遺言がなければ、遺族は、
故人が出身した生まれ故郷か?、故人が最も活躍した地か、故人が没した地、
などが選択するもの。 >>705
つまり邪馬台国は女王国じゃないということだよね 昭和になって九州説のために九州説の人が発明した珍訳を採用しないと、九州説は成り立たない
ということかね
つまり、九州説をとる条件は
漢文が読めないってことだな 『菅野力夫』
画像をググると、徳永という人物の画像が出て来たり
ドラクエ? >>710
ザラコクが勝手に考えても、それは常識じゃない。 どうなっているんだと思う
家も、力夫氏と同じ?ような名前の家なんだけど、
銀▢という名前の親戚がいたり >>710
イザナミは複葬文化圏の人間で、イザナギはそれに拒否反応を示して逃げ帰ってきた >>450
>卑弥呼は倭の女王だよ。 記紀にある神々も倭の王たちだ。
同じ国の一連の王なんだから、同じところに葬られているよ<
阿毎氏と姫氏は、委奴の地で合同した事があったようだが、
卑弥呼は、その合同から別れて大野に移ったた姫氏の出であり、
「記紀にある神々」は一応阿毎氏であり、
「同じ国」にはならないよ。 >>454
相変わらず大和説のアホは、
「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」の話だけか。
何一つ見つからない田舎の大和に、
何を妄想してんだか。 >>543
魏志倭人伝に出てくる距離を正確無比なものと夢見るオカルト脳みそ九州説
インド大月氏方面に行った魏使の里の記録でも実際より2倍は違う
だから魏志に出てくる距離は不正確jなものでアテにならない
こういう事実を突きつけられても短里ガー1万2千里ガー >>720
もしかして、こいつ
ザラコクより頭悪いか?
九州説は底が深いな 老婆の話と
ググると出てくる写真など、
ほとんど合致(符合)している >>575
説の根拠が国民のアンケート結果しかない九州説
哀れだね >>474
[邪馬壹國女王之所都」の根拠を、何一つ提示できないけど、
「ある!」と言い張るだけの大和説。
それが反論だと思い込んでるアホぞろい 。
おお、無様無様。 >>575
皆さま、子供や孫が九州説になりたい、とでも言われたら、
ひっぱたいてザラコクのレスをみせこうなりたいのと言った方が、よいでしょうね。 何かの漫画、アニメ?
芝居小屋があって・・・その辺りで産まれた
というキャラがいたり
広瀬座? 日本が『姫氏国』と呼ばれているとの逸話が載ってた日本私記丁本って信頼出来る書物なの? >>723
>インド大月氏方面に行った魏使の里の記録
どこにあるの? >>707
不弥国が卑弥呼の王宮でいいんじゃない? 近所に小手子の像
というものが建てれていたり
泥棒のようなものに入られた?
そのような事も言っているし >>709
漢人風に表現すると一万二千里、倭人風に表現すると水行陸行。 >>733
魏書列伝第九十のあたり
大月氏の都は洛陽より西約一万六千里(約6400km)と出てくる
実際は3100kmほどだそう >>719
>阿毎氏と姫氏は、委奴の地で合同した事があったようだが、
>卑弥呼は、その合同から別れて大野に移ったた姫氏の出であり、
>「記紀にある神々」は一応阿毎氏であり、
>「同じ国」にはならないよ。
それは筑紫と肥国の違いであり、卑弥呼は姫氏であるが倭王となったことで伊都に葬られる資格を得た。 九州説には理由を言う習慣がない。
学問じゃないから。 >>743
テンプレ読んでから言えよ。
畿内説なんて妄想しかない。 >>476
>こうやの宮だと高田町(今のみやま市) でしょうか。 岩戸山古墳の八女より南側になりますね。<
瀬高町だった、と思いますが、
八女や瀬高にも(久留米と同じように)高良大社があるそうで、
久留米と八女や瀬高は、一体的に見られていたようで、
古田さんも、30〜40年位前に、
卑弥呼は八女付近の出身だろう、という推定を書いておられました。 >>744
いつも証拠の出せない九州説は、追及を受けると
いつもこのようにトボケて誤魔化そうとする
つける薬がない >>583
邪馬台国に行くには投馬国を経過しなければならないのであり、
それが南九州にあったら邪馬台国は沖縄辺りにある事になる
あと魏志倭人伝にない距離を勝手に創設してはいけない
>>584
>>734
南至投馬國 水行二十日…
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月…
((不弥国より)南、投馬国に至る。水行二十日…
南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月…)
すぐバレるウソをつくのはやめようね >>746
こんなふうに
悪口雑言専門になるのは
みじめな敗者な証拠 『BLOOD+』
この辺りの作品も同じだろ〜、
確か、あったような
芝居小屋・・・その周辺で産まれた >>487
>魏志倭人伝の距離も方位もあてにならない <
距離も方位も、大体の近似的計測であろうが、十分にあてになる。
>万単位の距離を正確に計れるなんて古代の計測がそんな正確なもんか <
一寸千里に拠る有効数字1桁の概数的な計測値。
>物証から見れば畿内が邪馬台国でもう決まり<
物証から見ても、弥生銀座付近が邪馬壹國女王之所都であった事は、もう決まり。 >>595
1万2千里はあてにならない適当な数字
当時使われてた単位1里約400mで計算すれば
赤道越えてニュージーランド
そんなの頼りにしようとする方が間違っている >>641
九州説学者が、
「南=南」などの嘘つき騙しのように、
いたずらに話を複雑にして小難しいイメージ植えつけたからだな。
「南→東」のように、
事実なんざ単純だし・・・。 >>490
しかし大和はビックリするくらい何もないなあ。
これで邪馬壹國女王之所都とか言い張る奴とか、まさかいるわけないよなぁ。 >>753
>物証から見ても、弥生銀座付近が邪馬壹國女王之所都であった事は、もう決まり。
そこは奴国だろ それと探偵eyeというドラマ
かなり前の話になるんだけど、
信オンというゲーム内に作成したキャラがいて・・・
天草銀というキャラクターと同じような >>685
魏の時代の距離測定が正確なものじゃないと成り立たない理屈
今もう誰も魏志倭人伝の距離の記述が正確だと思ってないから
どんな尺度使ってようがそれを元に邪馬台国の位置特定しようとするのはトンマのやる事 >>757
キウスには、都合の悪いものが見えない。 >>687
不弥国までで1万700里で消化してないし
そこから水行30日陸行1月しないと邪馬台国に着かない >>689
1里70mだかで書いてないよ
1里400mの単位しか当時存在した証拠がないから
単に距離の記述が不正確だっただけ >>690
手渡した、という記述がない以上そうじゃない事も考えられる
使者は伊都国で留まったという記述があるから特に そのドラマの主人公がいたでしょ
最初のほうを観てみて、
自転車に乗って現れたりしなかった?
自転車に赤いハタが立っていたり、それとも朝日の旗だった? >>692
インドに里はないインド方面の魏志の記録という事 >>693
1里50mもあれば100mの所もある
倍は違うのに有効数字1ケタで正確とな >>735
不弥国が邪馬台国ね
九州説はそれでいいんだね 『失われた日本古代皇帝の謎』
それとも中華という意味なのかな、赤い旗? >>492
>メンド臭いからわざわざ反論しないだけだが
一応言っとくと南に水行…と出てくる所はいわゆる日数で距離を表した部分
魏志倭人伝に倭人は里数を知らず日数で距離を表す…とあるから この部分は倭人からの情報という事がわかる<
ダメだな。 「日数」記載情報は、魏使らも記録を残しているんだから、
倭人情報である場合と、魏使らの記録から大体の日数を計算した場合の、両方の可能性がある。
>なので南に水行は不正確な情報か<
倭人情報は、おそらく経験則的な記録であろうが、魏使らの記録は、かなり信頼出来る。
そして、投馬國は、側副傍線行程説明であり、魏使らは通っておらず、
だから、邪馬壹國女王之所都が、不彌國の(移動距離ほぼ0の)南にあることになる。
>国防上の理由で邪馬台国のある方向とは違う方位を教えられたのか <
魏使らの記録であるから、×。
>いずれにしても九州北部から南に水行してもそれらしい遺跡がないし<
投馬國なら、宮崎や、鹿児島の上野原遺跡がある。
>東に水行すれば大和があるから南は東の間違いの可能性が高いという事<
「南≠東」であるから、×。
>そもそも南=南とすれば邪馬台国は九州最南端辺りという事になるけど九州説はそれでいいんだろうか<
ならない。 邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南になるから、キミの脳が×。 >>737
ほー
そんなら里数の所に出なかった投馬国が何で日数の所で急に出てくるのかな 主人公「りん、りん」
と言っていたりするから、妹関係の話だと思う >>753
あてにする方がどうかしてる
邪馬台国を九州にしたいがための循環論法的解釈 >>495
>九州説は南=南として邪馬台国をどこに設定する積もり?<
不彌國のすぐ南になるから、
福岡平野〜筑紫平野及びその周辺丘陵地。 >>774
魏が日数表記を使って距離を現したと新たなトンデモ説が飛び出しました
魏志倭人伝には倭人が日数表記で距離を表したと書いてるのに このような話があったり
『失われた日本古代皇帝の謎 赤い旗』 >>779
それだとどうして魏志倭人伝に邪馬台国は不弥国の南OO里と書かれてないの >>500
100人が100人とも、近畿やその周辺の違う場所を、喚き散らす。
100人が100人とも、違う行程を喚き散らす。
でも絶対確実に、近畿やその周辺だ、と「南→東」のウソをついて喚き散らす。
バカの標本だな大和説は。 >>774
魏使らの記録であろうとも大元の情報が間違っていたらそのまま記載される
何の反論でもない >>784
おいおいw
無知でも何でもいいからちゃんと示せよ 支那朝鮮と倭国の都を結ぶ道程は4通り有った。
漢⇔倭国のもの
呉⇔倭国のもの
公孫氏⇔倭国のもの
帯方郡⇔倭国のもの
この意味解るかな?
魏志倭人伝には何通り記述されてるのかな? >>505
旧唐書を持ち出されると、いまだに何の反論も出来なくて、
ドヤ顔してるアホの鼻の穴の膨らんだ面を、想像するだけで笑える。
こういうバカってバカだから、
一生自分のバカさに気が付かないで恥かいたまま死ぬんだろうなぁ。
大和説者って、生きてるだけで恥なのに、よく生きていられるなあ。 >>788
旧唐書を持ち出して来たのは九州説狂信者なんだぜ。
笑っちゃうだろw >>506
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説者は、
次は、新唐書の筑紫城とか倭奴國とか阿毎氏とかも否定する、とか言い出すんだろうなあ。
バカだから。 >>793
お前単に自分で勘違いして意地になってるだけじゃないの >>507
学会教育界や公的研究所とかの「南→東」などの嘘つき騙しの論文やバカサイトの影響で、
こうやって、嘘つき騙しのアホな話を鵜呑みにして、
「我こそが古代史の謎を解き明かした!」
とか浮かれた能無しが、
こうやって量産されるんだろうなぁ。 それにしても、おかしいんだよな、
あのキュウリの葉、葱の華などの写真
むかーし、泥棒のようなものに入られ・・・、
蚕を飼い、機織りなどをしたり、寺院に通っていた? 昔、住んでいた事があるんだよ、
というところがあり、
その近所に小手子の像 >>509
>古事記
高千穂・日向というと、現在の大隅・薩摩など九州東南部の宮崎・鹿児島を指しています。・・・<
古事記も、書紀と同じく、大和日本国内の天皇家の伝承を元にして、
筑紫にあった倭國の存在や歴史を抹殺盗用した半分×史書であり、
「王年代記」の筆者に拠って、大和天皇家が、
「筑紫城の倭奴國の阿毎氏」から別れた分家であった事を証言されてしまって、
半分偽書であったことが、バレています。 >>794
だから、最初から間違ってましたと言えば許してやるよ どのスレッドだったかな、
これも数年前の話になるんだけど
まさか、ここまで落ちぶれて・・・、
このような事を言っている人がいたり、
力夫氏関係の話?同じような名前の人物がいるでしょ、善光 九州説狂信者は畿内はあり得なかったから邪馬台国は九州に違いないと言う。
畿内説狂信者は九州はあり得なかったから邪馬台国は畿内に違いないと言う。
しかしちょと待て。
九州でも畿内でもあり得ないのなら、何故他の場所に有ったんだと考えない?
九州説も畿内もとんでもない阿呆の集まりだなwww >>794
やっと分かったよ
北魏書じゃねーか、時代が違うわ >>540
>直接的計測記録とか なんの根拠もない <
簡単な方向計測法は、周髀算経や礼記に書いてある。
視界内の近距離は、簡易三角測量や、記里車や、歩測や、一日陸行距離からの換算で求められる。
視界が届かない海や遠距離では、一寸千里に拠る計測や、
やはり一日陸行距離や水行距離からの換算で概算出来る。 ジョジョと言う作品があるでしょ?
ディオ、大統領とか
このような事を言っていたり
落ちぶれても 誇りを持ち
ウダウダという作品も同じような話? 誰かの家の本名なのかな、
▢▢力夫氏のような名前の家 >>541
>そんな計測法を使ってたら 会稽よりずっと北だと判っちゃうよ <
?。何を言いたいの?。
九州は、会稽東治の「東〜東北東」方向であり、
「之東」で、陳寿の推定は、間違っていないよ。
>つまり太陽や北極星を使った計測はしてないってことだ<
周髀算経は、太陽に拠る南北距離計測は書いているが、
北極星を使った直接的緯度差計測は、やっていないよ。
>なんの証拠もないのに嘘と決めつけてるわけだね<
?。何を言いたいの?。
魏使らの里数記録は、有効数字1桁概数として、大体合っており、
「嘘」にはなっていないよ。」 >>787
公孫氏と帯方郡は同じ。
そしてそれは漢や魏への道への一部だ。 ディエゴ(まらd−な)
兄と同じ、10月・・・生まれ?
智▢という名前
妹、5月15日生まれ、
知▢
偶然にしては、かなり詳しいような気がするんだけど >>548
>>「東冶」ではなく「東治」だな。<
>「東治」だって 「東冶」だって 会稽より南なのは確定だから 九州説は、✖です。<
また意味不明だな。
会稽東治は、大体会稽と同緯度だ。
(宮内庁書陵部の「東治」例は、明治以後の宮内庁学者の書き換えのようであったんだよ)
また、会稽東冶は、半分×人間の范曄の曲解の分裂幻覚的な妄想だから、×であり、
大和説も、せっかく(長里ではなく)短里を使った事になるが、結局は×だよ。 確か寺院に通っていた・・・、
お菓子(黒い飴、黒糖?)など作っている家があって
何やらと言っている
超時空にしても、出来すぎている 確実に親戚の話
飴などを作っている家に、
嫁に行ったんじゃなかったかな?
川俣町 二本松のほうにある 黒い飴? >>811
>会稽東治は、大体会稽と同緯度だ。
根拠まったく無し
というか、インチキすぎ
会稽と会稽東治の北緯が同じなら
会稽之東と書けばいいだけ
そう書かなかったのは
東治が会稽よりずっと南だからだ 九州説狂信者は畿内はあり得なかったから邪馬台国は九州に違いないと言う。
畿内説狂信者は九州はあり得なかったから邪馬台国は畿内に違いないと言う。
しかしちょと待て。
九州でも畿内でもあり得ないのなら、何故他の場所に有ったんだと考えない?
九州説も畿内もとんでもない阿呆の集まりだなwww >>807
周髀算経を読んだことないザラコクが
またデマを流しているな >>816
考古学的にも史学的にも九州だよ。
別に消去法で決めているわけではない。 >>553
>方位の誤認が無かったら、どうして 「会稽東治之東」 になるんだ?
ありえない <
また変な事を書いている。
「会稽東治之東」は、陳寿の地の文だから、陳寿の推定なのであり、
九州は、会稽東治の「東〜東北東」方向だから、会稽東治の之東なのであり、
陳寿の推定は合っていたのであり、
だから、方位の誤認もなかったんだよ。 >>820
じゃ、なぜ文献学者も考古学者も
畿内説ばかりなの? >>821
>九州は、会稽東治の「東〜東北東」方向だから
証拠でも、あるのか?
??? >>558
>会稽より南だよね 違うとでも?<
またこの男も、意味不明なアホを言っているようだが、
九州は、会稽東治の「東〜東北東」だから、
陳寿の推定は合っていたんだよ。 >>559
>中国では東治ではなく東冶だよ<
いや、陳寿は「東治」と書いた。
そして、「東冶」は、後代の5世紀の後漢書の范曄の「書き換え」の失敗だ。 >>560
>どっちにしても会稽より南だよなな<
嘘を付くな。
九州は、会稽東治の「東〜東北東」であり、「之東」でほぼ合っている。 もしソウルから朝鮮半島南端まで7000余里を認めるとすれば、あとの5000里で行き着ける場所は九州をでないことになる。
朝鮮半島下端から対馬が100km、対馬から壱岐が85km、壱岐から唐津が70kmなので平均85km、
これが1000里に等しいとすると1里は約0.085km(85m)ということになる。
一里が0.085kmとすると12000余里が1020kmとなり、ソウル−宮崎間経路の長さとほぼ一致した。
またソウルから朝鮮半島南端まで7000余里も経路実測625kmだったので、625÷0.085=7353里でほぼ一致した。 >>561
>漢の時代に会稽へ東方からやって来た国が有ったという記録が残ってた。<
「会稽」なんて、どこに書いてあるんだい?。
>でも漢の時代にやって来たのは100国を従えてたが、
帯方郡へやってきたのは30国の連合国家だったという。 で、呉や公孫氏の記録も調べた結果、<
呉なんてどこに書いてある?。
>元は100国だった倭国が大乱で分裂したことが解って、<
「大乱」なんてなかったし、
「分裂」してっ国数が増えたのではなく、30国に減ったんだよ、
>帯方郡へやって来たのはその片割れで間違いなかろう、ってことが書いてあるんだよ。<
どこに書いてある?。 >>563
大和説は、だいたい、嘘つき騙しのデマで出来ている。
これ、真理。 ヤマシロというのがあって、
何やらとも言っていた
そこの城に通っていたんだよ
とか、山城ではない?
超時空設定? >>826
古代史や考古学のことを何も知らないくせに、どうしてそんなに思い上がれるのか 会稽東治之東のひとことは、倭人伝の行程をたどると倭国がどれほど南にあるか判るーそれは中国でいえば、どのあたりか、という文脈で書かれている
だから中国南方の風俗と比較対照しているのだ
角度の誤差などを言い訳にして倭国を北にズラす言い訳は、まったく意味がない >>567
そんな中傷しか出来ない説と
一緒にされたら
誰でもイヤ >>829
古代にそんな長距離正確に計る技術ないよ
一致したならほぼそこは間違いと思っていい >>567
そんな「南→東」の嘘つき騙しや、中傷しか出来ない大和説と一緒にされたら 、
誰でもイヤ。 >>829
距離の平均求めたって意味ない数値しか出ないし >>569
絶対に「南→東」などの嘘吐き騙しの証拠を出さないの大和説は、
恥ずかしいな、。 トンデモの根源は
・古今東西の誰よりも俺さまは偉い
・俺さまは誰も知らない/口に出せない真実を知っている
という思い上がり 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日 当時そんなに正解に計測できるなら東アジアの地図位残ってるのにな。
現実は中世ですらまともな地図はない。
そんな常識すら理解できないのが九州説。 >>845
今更そんな行程パズルは頭悪そうに見えるだけだぞ。 かなり前の話になるんだけど
親戚でも殺されたのか?
と言ってる(書き込み)人がいたり >>846
使いは点と線で移動するので地図は書けない。
しかし、距離は概ね測ることができると魏志倭人伝にわざわざ書いてある。
それを屁理屈こねて信じられないと喚いているのが畿内説。
そんなに魏志倭人伝が信用できないなら、邪馬台国論争から手を引くといいよ。 >>842
そういうウソばかりついているから
九州説は地に墜ちた
>>850
そんな計算もできないあなたの方が頭悪そうですね。 >>852
間違いだ、という立証に何も反論できないくせ
言い張っても九州説が困るだけだよ >>844
いや本当
A〜Bの間が10km
B〜Cの間が30kmでこれまでの平均20km
ではC〜D間はいくら?っても今までの平均からじゃ出せないから 親も言っているよ、
ヤマシロだったかヤマジロ
親も、
老婆から聞いた話だと言っていたり >>854
いつもどおり
なにも反論できず
悪口ばかりになったな >>570
>神武の従属国家脱出は推古以前が春秋紀として、紀元前100年頃<
また意味不明。
>本州は中国に従属しなかった<
本州は、筑紫倭国の「自昔・・・東征毛人・・・五十五國」された。
>大乱も九州の王族脱出後<
意味不明。年代が全く狂っている?。
>卑弥呼は従属王で、天皇家は自治国家の王<
卑弥呼は親魏倭王で、大和は、筑紫倭国の別種の旧小国。 >>852
じゃ日数間違いとか、戸数が北部九州に14万戸以上なんて
有り得ないのに都合のいい解釈もするなよw
それに地図が残ってない理由にはならないぞ。
そもそも当時距離でも海を渡る計測は無理だから。 >>845
邪馬台国は投馬国の次に出てくる国だから
記述の通りだと宮崎から水行10日陸行1月しないとダメなんじゃないの >>858
おまえ、前もそんなことを言って、数学ができないと馬鹿にされたろ。 九州バカは死ぬまでパズルしてんだろうな。
それしか生き甲斐がないのだから
ある意味可哀想な連中だよ。 >>862
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 魏史倭人伝に出てくる“等”って、both A and B のbothとしてしか読み取れない >>864
理解できない方がバカだけど?
言ってることわかんないなら黙ってろ >>865
勝手に混ぜて滅茶苦茶な解釈する方が論外だな。
だから北部九州説なんて有り得ない話になる。 >>571
>推古以前が春秋紀なら、天皇家も倭人出身だから、
倭人の上に長年君臨した卑弥呼を祀った崇神の年代も合ってくる
崇神即位が卑弥呼死去と同じ248年だから<
この意味不明な投稿は、ssnだったのか?。」 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg >>872
里程と日程を勝手に混ぜて滅茶苦茶なことを言っているのは畿内説だよ。 >>868
君はまず論理的思考の意味を勉強すれば?
ご都合主義は論理的ではないぞw >>874
畿内説が勝手なルールを作っているよ。
漢人は里程、倭人は日程を使った。
それを両方とも収載しただけ。 >>878
畿内説が結論ありきでご都合主義の読み方をしているように見えるけど。 >>876
日程と里程を分ければ邪馬台国が九州になるから
日程と里程は分けて読むんだ←循環論法 >>572
>東鯷人ってのは綿津見、つまり伊都国のことか<
違うと思う。
東鯷人は、会稽を起点にしての会稽海外であり、
倭人は、帶方を起点にして、東南大海之中にして、だと、
はっきり区別して、書き分けられている。 里程が九州北部で終わっている。
伊都に使いが滞在すると書いてある。
しかし日程が追記してあるから、つなげてしまおう!
これが畿内説。 魏志倭人伝の元ネタの魏略には、里程しか書いてない。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。 >>876
伊都までは解釈が同じなのに交ぜる訳がないだろう。
大体倭人は里数を知らず日数で図ると倭国伝に記述がある。
つまり投馬以降の日数表記は倭人の情報にすぎない。 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。 >>879
魏志倭人伝の原本魏略には伊都までしか載ってない
陳寿はそこが邪馬台国じゃないことを知っていたから倭人からの情報を載せた
だから里数と日数が混在した
別に日数部分は里数を書き直したものではない 日程の部分は、魏志倭人伝だけの特ダネ情報だったんだよ。
里程は九州北部で終わり。
そこが邪馬台国。 >>891
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。 >>879
アホ、戸数が重複するのに、投馬国と邪馬台国がダブっちゃダメだろ。 >>891
それは勝手な解釈。
こじつけ。
根拠なし。
妄想。 >>885
何か悪い事のように書いてるけどだから何
実際魏志倭人伝にはそういう風に載ってるんだが >>896
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>896
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>887
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>893
それが行程パズル、何処でも邪馬台国に出来るわw >>885
自女王國以北其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳
女王国より北については情報を得ることが出来たので簡単に書いておいた、それ以外の国については情報が無くて詳しくは解らなかった、ってはっきり書いてあるやん >>884
ナマズといえば肥国王家のトーテムだよ! >>893
数字はアテにならない
1万2千里は1里400mで換算すると赤道付近になる
そんな数値が指す場所は確実に邪馬台国じゃなし 城は昔はキと発音していたらしい。
京都の地は、元はやましろ山背、山の向こう側(山の後ろ)。
平安時代にやましろ山背に山城を当てるようになり、
城をしろと発音するようになったとか。
城、キを当てたとこを見ると、古代はキの国だった可能性はあるな。 >>903
もしソウルから朝鮮半島南端まで7000余里を認めるとすれば、あとの5000里で行き着ける場所は九州をでないことになる。
朝鮮半島下端から対馬が100km、対馬から壱岐が85km、壱岐から唐津が70kmなので平均85km、
これが1000里に等しいとすると1里は約0.085km(85m)ということになる。
一里が0.085kmとすると12000余里が1020kmとなり、ソウル−宮崎間経路の長さとほぼ一致した。
またソウルから朝鮮半島南端まで7000余里も経路実測625kmだったので、625÷0.085=7353里でほぼ一致した。 >>900
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 大倭王は邪馬台国にいる、大倭はヤマトなんだから
答えなんてとっくに出てるよな。
ヤマトは古の邪馬台国、そう倭国伝に書いてあるじゃん、
文献無視するなよw >>895
魏略も実際に伊都国までしか記載がないし
使者はそこに留まるらしいし
魏志倭人伝には倭人は距離を日数で表すとあるから当然の推論
どこがこじつけになるのか具体的に言えや 膳臣(かしわでのおみ)
『菅野 大膳』大膳職?
どういう事なんだと思う? >>907
つまり女王国が山口県辺りからで問題ないな。
モモソの伝承範囲ともピッタリだろw >>908
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 >>911
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 >>908
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>912
倭国の都までは一万四千里って書いてあることはなぜ無視するの?
自説に都合が悪いからなの? 自分の家で、
落雁のようなものも作っていたんだよ
と言っていたり
食べるものではなくて供えるもの、
食べることも出来るけど、上手くない
とか 歴代の史書は九州北部を倭、すなわち邪馬台国としている。 >>918
畿内説の長里だとハワイ?
畿内を通過してしまうねw >>913
魏の時代なら倭の都は邪馬台国だろ
>>915
全然具体的じゃねーじゃねーか >>921
長安から九州説単位系で一万四千里だと大陸内で完結してしまうでしょ、バカなの? 畿内説は既にモモソという候補もいて、箸墓という王に相応しい規模を
誇る古墳も比定済みだからな。
またモモソは畿内から讃岐辺りまでを活動範囲にしてるから、
女王国までの距離も問題無し。
また補佐する吉備津彦という弟も確定済み。
また巻向背後には正真正銘の丹山鉱山も確認済み。
この状態で九州説とか精神的にドMとしかw 家も大膳?
というか、そういう名前の家なんだけど
家にあったモノなんかを売ってしまったり、
何やらと言っていたよ
掛け軸、壺・・・刀とか 狗奴国が帯方郡に使者を送った時代は、まだ大和の国作り前の時代で大和盆地は未開発だった。 いまは川崎区に住んでいるんだけど、
あの松の木(もみ?)の立てられていた写真があったでしょ、
その家だよ
なぜか詳しい 浅野セメントの話をしていたり、
そこの関連会社で仕事をしていたとか >>928
年代比定の詐欺。
百襲なんて女王の器ではないし。 東鯷人の鯷
魚篇に是(コレ)
惟宗(コレムネ)氏って秦氏系の海人だよな >>937
でも九州説も有り得ないんだよ、そこんとこ解ってる? wiki『浅野セメント』
>宮内省にセメントを納め
このような事が書いてあったり 浅野は麻生が訛ったものだろう。
麻生セメントこそ大正義、その本貫地が邪馬台国で間違いない。 誰か、近所に住んでいたのかな、
むかーし伊達郡というところに住んでいた事があって
どこの炭鉱のなのかわからないけど、
炭鉱の話もしていた 家は川俣町だと言っていた、
むか〜し住んでいたところw
近所に小手子の像 家は伊達郡の川俣町、
東だったか西福沢というところがあって・・・・
住所も、そうなっている 川俣町という掲示板などがあるでしょ?
我田引水のようなやり方、書き込み?
家は書いたりしていないし どのスレだったかな
誰々って川崎に住んでいるんじゃないの
という書き込み
川崎市の川崎区のこと? 伊達郡川俣町の掲示板を読んでみるとわかる
『スサノオ』
と名乗る人がいたり、読んでみないとわからない サルタというスレも読んでみて
『猿田彦』と名乗っている人がいたり 説明不要
『祇園 胡瓜』『天王』
あの写真の話だと思うんだけど、
ストーカーがいるとしか思えない >>579
>(東鯷人)ナマズなら、肥国の方が可能性がある。
肥前も肥後もナマズがトーテムだし、中国大陸に近い。<
成程。 >>580
>>(公職についている方の文献)巧妙に、大和にあった、という事を前提にした史料解釈や説明をしており、
世間の人々を騙して大和説に誘導しよう、としているように見えるんですよ。<
>同意します。<
有難うございます。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118887/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>585
ほら、このように大和説は、結論連呼ばかりでなにも理由を言わない。
だから。国民の7割から支持を失い、学説ではいられなくなった。 >>928
モモソは女王じゃないだろ
孝霊も孝元もいたし
その時代なら女王国なんて記述はしないし
そもそもモモソは共立された女王なのか?
もう十回倭人伝読んで来い >>594
>卑弥呼の称号は倭王。
その倭が後漢時代の倭奴国(福岡)と同じということは、卑弥呼がいたのは福岡。<
賛成です。 >>597
>>あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。<
>つまり、同じ国だと言ってるね。<
いや、言っていない。
先に倭国伝を説明し、
次に日本国伝の冒頭で、日本国は倭国から別れた別種の別の國にある事を説明しているんだから、
「倭國自悪其名不雅、改爲日本」の「倭國」とは、日本國とは別の国。
実際、釈日本紀は、晋の惠帝の東夷の朝貢の時に、
(筑紫の)倭國が日本國と名乗った、という事を、ついうっかり記載してしまっている。 >>601
>畿内説がまた嘘をついたのか。<
そうですね。
大和説者の嘘は、「南→東」などもしていますから、
やはり精神病的な病気なんでしょうね。 >>603
このように、
証拠も出さずに中傷オンリーなのが、精神的な病気の大和説者。 >>607
中身を吟味出来ずに、「南→東」などの嘘吐き騙しをして、
レッテル否定しか出来ず、国民の7割からも否認されているされている大和説、
憐れよのう。 >>619
>>倭國者古倭奴國也
去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居
東西五月行南北三月行
世與中國通
其國居無城郭以木為柵以草為屋四面小島五十餘國皆附屬焉 <
>どうみても倭国の説明なので邪馬台国ではないな。
大倭王がいたのが邪馬台国、すなわち大和の事で確定だろ。<
どう見ても、筑紫の倭奴國の倭國の説明であり、
大和の日本国伝とも書き分けており、
大和の説明ではないな。 >>620
>窮州説はこの一萬四千里を説明出来るのかな?<
当然、倭奴國の地だから、
漢書注の旧帯方の地からの萬里と、京師〜帯方の地の四千里の合計、
という旧唐書の推計。
それで、大和説は、この一萬四千里を説明出来るのかな?。 >>629
>旧唐書を出してきたのは窮州説のバカなんだぜw <」
筑紫倭國と大和日本国とを書き分けている旧唐書は、
大和説にとっては致命的なんだぜ。 >>637
また、自説の大和説での解釈や説明が出来ず、
中傷オンリーなのが、大和説の・・・・。 >>640
大和説は、後代の半分偽書文献に頼る悪習があったので、
今でも、すぐ偽書に頼ったりする非学問だ。 >>645
大和説では、
倭国は、太平洋のハワイ位まで行ってしまうw。 >>651
大和説者は、文献にも考古にも脳も弱いから。 >>653
大和の説者の単位系で、
長安から一萬四千里ってどこら辺よ?w。
アメリカなの?。 >>662
>400mちょいね <
それなら、萬四千里は、5600km余りであり、地球の4分の1周近くであり、
ハワイも超えてしまいそうね。 >>666
〇日本書紀より後の文献はあてにならない
✖中国人の書いた文献はあてにならない
魏使らや裴清や郭務ソウらのように、実際に倭地にまで来た使節の記録は、あてになる。 >>676
あてんならんモノばかり集めて説を立てた結果、
大和説は、
・・・死んだ。 >>677
>吉備はモモソの国だったから女王国だよ、
結局モモソの産まれた邪馬台国が大和。
もう結論は出てる。<
いや、大和日本国は、倭國から別れた別種の旧小国。
もう結論は出ていた。 >>681
大和説が、
自分の投げたブーメランが突き刺さって死んだの。
ワロタ。 >>695
大和説者は、たった1レスで矛盾していく。
色々カッコつけてるけど、
単に、記紀と同じく、倭國の存在や歴史を憎悪してるだけ。 >>698
どうやら大和説学者やその家来の大和説者は、
優秀な人間ではなくて、自分を優秀だと見せ掛ける術に長けた人間っぽい。 >>705
>里数では収まっても邪馬台国まではそこからさらに水行計30日陸行1月
つまり里数で収まる所に邪馬台国はないという事よ<
違うね。
「水行十日陸行一月」は、その直前文言の「女王之所都」の説明になるから、
「從郡至倭〜目的地の女王之所都」の日数説明。 >>979
うまい言い回し
彼らのクオリティは低い ●その基点もはっきりしている。それは末廬国である。何故なら、末廬国以降に「渡海」の文字が無いからである。
つまり、末廬国以降の27国は陸続きであることが判る。これが「魏志倭人伝」の記録である。誰が何時読んでもこうなる。
【南九州三国】 ・投馬国・邪馬台国・狗奴国
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1257763.html
天皇記・国記は春秋紀と仮定
10代|崇神天皇|-97|68|34|261.5 ←崇神天皇は「天照大神」に豊鍬入姫命をつけて、笠縫邑(かさぬいのむら)に祀る ←卑弥呼崩御(248年)
11代|垂仁天皇|-29|100|50|295.5
12代|景行天皇| 71|60|30|345.5
13代|成務天皇|131|61|30.5|375.5
14代|仲哀天皇|192|78|39|406
15代|応神天皇|270|43|21.5|445
16代|仁徳天皇|313|87|43.5|466.5
17代|履中天皇|400| 6| 3|510
18代|反正天皇|406| 6| 3|513
19代|允恭天皇|412|41|20.5|516
20代|安康天皇|453| 3|1.5|536.5
21代|雄略天皇|456|24|12|538
22代|清寧天皇|480| 5|2.5|550
23代|顯宗天皇|485| 3|1.5|552.5
24代|仁賢天皇|488|10| 5|554
25代|武烈天皇|498| 9|4.5|559
26代|継体天皇|507|24|12|563.5
27代|安閑天皇|531| 4| 2|575.5
28代|宣化天皇|535| 4| 2|577.5
29代|欽明天皇|539|33|16.5|579.5
30代|敏達天皇|572|13|6.5|596
31代|用明天皇|585| 2| 1|602.5
32代|崇峻天皇|587| 5|2.5|603.5
33代|推古天皇|592|28|14|606
*****|天 皇 記 |620|**|**|620 天皇記・国記は、620年成立。厩戸皇子が蘇我馬子と共に編集。 >>706
大和説者って、オームの上祐らみたいな人だったんだな。 >>707
>不弥国のすぐ南ならなぜ不弥国から南OO里と魏志倭人伝に書いてないんだろうね
九州説はこれにどんなこじつけをするのかな <
おそらく、不彌國の外縁部と接して邪馬壹國の入り口があった、
という事になるんだから。 畿内説なんて利権のために維持されているだけ。
学問ではない。 >>709
>魏は里を使い倭人は日数を使うと魏志倭人伝にある
資料批判もクソもない
資料批判という言葉を使いたかっただけのクソバカザラコク九州説<
「魏は里を使い倭人は日数を使う」なんて、魏志倭人伝に書いていない。
大和説者は、史料批判もクソもない。
史料批判という言葉を使いたかっただけの、
「南→東」の史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
クソバカ詐欺師の・・・・大和説者。 >>712
>つまり邪馬台国は女王国じゃないということだよね <
「邪馬壹國女王之所都」。
気を付けましょうね。
大和説の・・・・詐欺師がうごめいていますから。 >>713
昭和になって、
大和説のために大和説の人が発明した珍訳を採用しないと、
大和説は成り立たない、ということかね?。
つまり、大和説学者に弟子入りする条件は、
漢文が読めないってことだな。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118699/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 次のスレッドからは、破綻した畿内説の原因を究明します、、、 >>723
>魏志倭人伝に出てくる距離を正確無比なものと夢見るオカルト脳みそ九州説 <
中国からの初めての倭地訪問の使者だから、
後の訪問のためにも、里程も所要日数も記録した。
>インド大月氏方面に行った魏使の里の記録でも実際より2倍は違う
だから魏志に出てくる距離は不正確jなものでアテにならない
こういう事実を突きつけられても短里ガー1万2千里ガー<
確か、魏代以前に、既に張騫の「訪問記録」がある筈だから、
当然その記録をプラスアルファーに参考にして記録された筈。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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