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邪馬台国畿内説 Part323
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/02/09(金) 04:41:27.08
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517932645/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0200日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:16:50.24
バカ九州説の毎度のバカ晒し

「弥生時代を通じて」
0201日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:24:04.43
邪馬台国は宮崎県にあった。

宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。

なぜか?

邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。

そこで、大和朝廷は、卑弥呼と壱与の事績を天照大御神一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
天照大御神は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だからそれは女性である必要があった。

そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向と呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。

卑弥呼や壱与が天照大御神であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。

このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。
0202日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:25:36.19
応神は伊都国王家の血の可能性はあるからな。
魏志倭人伝当時も伊都国は細々と存続している。
漢に冊封され、各国の使者の目もあり、滅亡させられずに済んだのかもしれない。
0203日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:29:15.19
>>192
そんなもん来た形跡ないわ

w
0204日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:29:36.91
何一つ見つからない九州説は妄想を垂れ流すしかやる事がない
0205日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:33:22.97
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
0206日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:36:39.81
はい、九州説毎度の旧唐書と筑紫城が入りました

バカの古田信者はいつまでもいつまでも同じバカ話を平気で繰り返す

どうせ旧唐書なんて見たこともないんだからな
バカだから仕方ないね
0207日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:37:33.30
>>205
怪しげで使えない情報ってことだね
0208日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:37:43.72
>>205
怪しげで使えない情報ってことだね
0209日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:41:02.10
新唐書には
筑紫にいたころは王じゃなかったと
書いてあるわけだが
0210日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:41:05.77
131 | 神武 | 初代
151 | 綏靖 | 2代
159 | 安寧 | 3代
169 | 懿徳 | 4代
178 | 孝昭 | 5代
199 | 孝安 | 6代
225 | 孝霊 | 7代
244 | 孝元 | 8代
258 | 開化 | 9代
274 | 崇神 | 10代
291 | 垂仁 | 11代
316 | 景行 | 12代
331 | 成務 | 13代
347 | 仲哀 | 14代
367 | 応神 | 15代
378 | 仁徳 | 16代
400 | 履中 | 17代
0211日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 21:47:05.71
旧唐書も新唐書もどうせ見たことないでバカサイトの書き込み見て毎度こうやって浮かれて突撃してきてるんだろ

何百回指摘されても同じことを言い続ける低能だから九州説なんて信仰できるんだろうよ
0212日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:00:56.89
新唐書のは入宋した東大寺の坊さんが持って来た本のコピペだからね
当然ながら筑紫日向高千穂宮というのは宮崎県の高千穂であって倭奴国とは関係ない

九州説の人って、無学だよね
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 22:02:16.23
魏志倭人伝に描かれ邪馬台国への行程記事は、倭国を訪れた事のない人物が、報告書あるいは紀行紀を基に地理像を描いたのである。そのため極めて不正確な地理像となっている。
この不正確な地理像をたよりに、邪馬台国の場所を確定しようとしても、所詮無理な試みなのである。
これが邪馬台国の場所探しが混乱した理由である。
もうそろそろ、このような不正確な地理像に基づく立論の馬鹿らしさに、気付いても良さそうなものである。

私はまったく異なる観点から、邪馬台国の王都の場所を突き止めた。
それは系図の研究からである。系図の研究から卑弥呼を補佐した男弟が、六代孝安天皇であることを知った。
記紀によれば孝安の宮は秋津島宮であり、秋津島宮の伝承地は、現在の奈良県御所市室である。
邪馬台国の王都はここと考えている。
そしてそのことを立証するのが、秋津島宮伝承地から、北東1.5kmの玉手山に、卑弥呼の墓とおぼしき、径百余歩の円墳を見ることである。
またここ玉手山は、孝安が葬られたとする伝承の場所でもある。

http://livedoor.blogimg.jp/buccyake_kojiki/imgs/c/1/c1b050bd.jpg
0214日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:02:45.11
>>202
伊都国は肥国姫氏の卑弥呼に乗っ取られたんだよ。
0215日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:04:16.40
>>209
王は代々筑紫にいたと明記されているよ。
唐の時代には大和に移っていたみたいだけど。
0216日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:04:38.36
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
0217日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:06:13.03
>>212
>当然ながら筑紫日向高千穂宮というのは宮崎県の高千穂であって倭奴国とは関係ない

宮崎県が日向国が命名されたのは景行天皇のとき。
当然、それよりはるかに早い邇邇芸や神武の時代は、筑紫とあるから福岡県。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 22:06:57.57
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。
0219日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:11:44.26
>>217
いくら言い張っても
東大寺の坊さんが持ってた記紀ダイジェスト本には、筑紫日向高千穂宮は宮崎県としてしか書かれてないよ
0220日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:12:59.50
>>216
使えない情報ってことだね
0221日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:13:23.01
>>219
妄想?
0222日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:14:04.04
>>217
アホウ

北京まだ無くても北京原人って言うだろ。
0223日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:16:13.16
それとは別だろ。
0224日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:20:34.87
>>223
同じことさ
0225日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:22:31.95
平原方形周溝墓出土品>福岡県前原市大字曽根
 伊都国王の墳墓とされる。

北東が東南になるのは、地図が南を向いているのを置いて書いたからなのだ
0226日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:23:19.26
平安中期の日本文献に
神武天皇は福岡出身でーす、とか
書いてあったと思ってる人は
たいへんおめでたい
0227日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:32:45.59
神武は宮崎の人物がモデル。
イワレ系、天武も同じ。九州南部の石神。岩割。
海人隼人を討伐した勢力。
天武の時に隼人の乱が起こったのは必然。

応神仁徳は伊都国系倭人だろうな。
0228日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:43:44.96
>>952
>陳寿の勘違い <

「南→東」などの嘘吐き騙しと同じように、
都合の悪い話は、「何でも間違いだ」とする大和説詐欺師の捏造。
0229日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:50:14.33
>>227
磐余は大和の地名だ。
畿内説はどこまで無知なんだ。
0230日本@名無史さん
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2018/02/09(金) 22:51:52.45
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。

倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。

倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 22:53:15.28
宇那比も天豊姫も丹波の系譜に登場するが、その父親は葛城すなわち現在の奈良県御所市を本拠地とする、尾張氏の当主である。したがって生まれは奈良県御所市であろう。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 22:55:57.20
建諸隅命のまたの名が、由碁理で、丹波(旦波)の大縣主なのである。そしてこの建諸隅命の子、竹野媛(竹野比賣)が開化の妃である。この竹野媛の本来の名は天豊姫である。

建諸隅命は、私が卑弥呼とする宇那比姫の甥(おい)である。したがって、天豊姫命と呼ばれるこの人は卑弥呼を出した一族の女、すなわち宗女である。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 22:56:11.13
その内に、肥前名護屋城も九州のが本家で尾張のは肥前から行った人が作ったものだとか言い出しそう
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 22:58:19.11
>>232
卑弥呼からどれだけ後の人物を持ち出すんだよ。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:00:59.88
宮崎の石神神社。高千穂。
国常立神。牛神大明神。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:04:33.31
博多伊都国の倭人系vs九州南部遠賀川の石神縄文系

畿内も同じ構図
倭人系vs縄文系
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:05:17.21
『後漢書』倭伝は「安帝永初元年(西暦107年)、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見」として西暦107年に倭国の朝貢が在った事を伝える。
この倭国朝貢の年次あたりが倭国の始まりである。私はこの倭国王こそ、大和朝廷成立直後の王、すなわち神武であろうと考える。倭国すなわち後の大和朝廷は西暦107年の直前に成立したと考える。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:08:48.86
神武は卑弥呼と同世代。
2世紀末以前に九州の勢力が畿内で主導権をとった形跡はない。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:11:10.82
大和朝廷の首謀者は尾張と出雲などの山陰の縄文系勢力。

まぁこんな縁起悪いものになりたいなら、好きにしたらいいが。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:12:07.59
266年西晋に朝貢した倭国女王は台与で、台与を尾張氏の天豊姫とする。天豊姫は開化の妃竹野媛でもある。したがって開化の実年代を266年頃とする。
したがって崇神の没年干支戌寅は318年である。
更に尾張氏の宇那比姫を卑弥呼として、卑弥呼の政治を補佐した男弟は、義理の弟である孝安とした。したがって孝安の活躍した年代は、卑弥呼の年代でおおよそ三世紀前半である。
そして宇那比姫の三世代前が神武の時代である。それはおおよそ二世紀初頭となろう。したがって後漢書倭伝が伝える107年に朝貢した倭国王とは神武に他ならないと考える。大和朝廷はこの107年の直前に成立したのである。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:12:34.18
石に関するところは、牛だらけだな。
牛鬼伝説は真実かもしれない。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:12:51.63
オルドス→出雲→青谷上寺地→上御殿という経路での侵攻は有ったけど九州は関係ないしな
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:34:00.89
うすうす感じていたのだが

ザ ラ コ ク は な ぜ 

テ ン プ レ へ の 攻 撃 は し な い の だ ろ う か
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 23:35:59.81
新唐書の記述はそのまんま日本書紀の丸写しだ
アホか
神代から日向三代の事だって見てわからないとかどんだけバカなんだろうな九州説って

まぁバカだから仕方ないが
死んでも治らないだろうな
お前の墓碑銘に「筑紫城」って書いておいてやるよ
0246孝霊厨
垢版 |
2018/02/10(土) 00:43:54.70
倭国王師升が誰に該当するのか、というのは
卑弥呼と同様長く謎のままですが、
まあ私は綏靖天皇説をとりますね。

葛城を本拠地にしていますし、スイゼイなら
大体読みも近い。また師木(磯城)関係の人物も周辺に多く存在する。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 00:48:05.20
平原王墓からナ国、つまり博多も東南と言ってるんだよな

これも混一図通り
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 01:16:16.82
ヤマトは磯城県、答えは出てるね。
倭国王は一世紀にはヤマトにいて北部九州には
既に支配権を確保していたという事だな。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 05:38:38.45
>>244
俺も
ザラコクは畿内説じゃないか
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:19:12.89
>>74
>邪馬台国はヤマト国。葛城山系以東の奈良盆地一帯です。
邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。・・・<

いくら講釈しても、
出発点で、
「邪馬壹國→邪馬台国」や「南→東」や「市を監督する大倭職→朝廷」などの、
嘘吐き騙しをしてしまっていては、
キミの話は、全て信頼性がありません。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:24:38.31
>>237
根拠なし
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:24:39.07
>>75
>邪馬台国の怪は半島の工作機関だな<

大和説者は、
安部自民公明政府や、人種差別殺し合い戦争狂マスコミや、皇国史観学会教育界の、
工作機関だな?。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:25:25.38
>>239
神武は九州生まれで畿内に東征したんだけど?
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:27:21.31
>>244
めちゃくちゃ批判しているよ。
スレ主が批判を無視して厚顔無恥を晒しているだけ。
ザラコクがそれを始めると数十レスはあっという間に消費する。
テンプレ一つ一つに反論するからね。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:27:40.05
奴国は遠賀川流域一帯、飯塚市辺り
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:28:07.66
>>246
妄想
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:29:03.64
ただし、倭奴国は伊都国。
奴国から倭奴国に巧妙なすり替えをしているんだよ。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:29:06.06
猪塚
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:35:53.27
>>88
>不彌國からから水行陸行が二ヶ月あるわけだが <

ない。
不彌國で萬二千余里はほぼ消化されてしまっており、
投馬國説明は移動した説明がないから、側副傍線行程であり、
主線行程の「南至邪馬壹國」は、途中移動の動詞がないから、
移動せずに邪馬壹國に至った事になり、
不彌國の南の外縁部に邪馬壹國の外縁部の入り口の門があった事なり、
ほぼ接していた、という事になる。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:38:15.47
>>92
>じゃ、陳寿は何を見て倭人伝に里数を書いたんだ?<

魏使らの記録。
0263日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 07:41:25.98
ザラコクは皇国史観がどうとか意うけど結局単に嫌がらせしたいだけだ
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:42:49.47
>>93
>>90>>91が自己矛盾している件について<

>>90>>91は、
あくまで、史料事実や史料実態を根拠にして、それからの帰納的推論であるから、
自己矛盾していない件について。
0266日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 07:50:43.00
>>94
>南、南、女王以北つまり九州は大方おさえてるが、九州南端まで1ヶ月もある
と帝国の勢力圏を誇張している <

また、「帝国」なんて、書かれてもいない変な文言を使う、
分裂幻覚妄想の、変な男。
投馬國は、不彌國から南方向に、水行二十日の位置にある、と説明されているのが、
史料事実。

>東南アジアでも一年もかからない
つまり岩戸後の邪馬台高千穂勢力が九州の豪族を束ねて岡山に向かったに過ぎない<

神武らの東征は、邪馬壹國時代ではない。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:52:57.35
>>265
途中に余りの記述があるよ。
0269日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 07:59:20.74
>>268
畿内説は長里を主張するならこれくらい書いて欲しいね。
0271日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 08:01:16.95
>>267
それならますます1万2千里で邪馬台国の位置を判別するのが難しくなるな
いっそ1万2千里は邪馬台国を正確に示してるという考えは改めるべきじゃ
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:02:17.09
>>95
>南行とは陸地沿いに水行<

不彌國→投馬國なら、陸地沿い水行や、循海岸水行になる。

>渡ると書かれているのは隔絶の地<

いや、沖合洋上航行でも使っている。

>つまりワシュは四国で、<

倭種は、出雲文身國や足摺付近の侏儒國が梁代まで残っていた記録があるから、
倭国の東征の中心地域や倭種は、瀬戸内沿岸方面。

>コビトは種子島<

江戸時代まで足摺西方沖の沖之島に低身長部族がいた、という記録があったから、
足摺付近。

>五千里は琉球諸島<

郡からの里数の「比率」が合わないし、
おそらく東テイ人の地域。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:04:45.53
>>271
伊都国〜不弥国でほぼ一万二千里が尽きるんだよ。
ザラコクは間違い。
倭女王卑弥呼の都は伊都。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:05:09.42
>>273
都合が悪いからだろw
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:08:04.09
>>254
こんな事言ってるからザラコクは左翼的思想の持ち主で
畿内説に嫌がらせするためだけに出鱈目並べてるとバレる
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:11:22.92
>>275
畿内説と九州説は伊都や奴国まで同じだぞw
単に日数表記の解釈が違うだけで。
プラス戸数も考慮すると北部九州なんて絶対不可能、無理だから。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:12:45.58
>>275
もしろ九州説の方に都合悪いと思うけど
ありもしない短里とか創設してるとバレたとき一気に信頼無くすぞ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:12:48.54
狗奴国とは陸(くが)国である。玖賀国とも表記される。その親玉は陸耳御笠(くがみみのみかさ)である。
陸国とは現在の北陸にあった国で、古くは北陸地方の事を、陸(くが)と呼んだ。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:22:15.80
神武天皇の東征にあたっては、九州から安芸を経て、吉備・高島宮で3年滞在し、船舶・兵器・食糧を蓄えた後、畿内へ向かったと書かれている。吉備の国が東征に大きな役割を果たしたことを物語っている。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:23:30.40
畿内説は1万2千里を当時魏で使われていた事が確実にはっきりしてる
1里400mで換算し、それが赤道付近になるという事が判明したら
1万2千里は邪馬台国を指してる数字とは判断しない

一方九州説はどこにも史料なしの短里を創作し
無理やり九州に当てはめた
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:35:48.76
>>1
何度 言ったらわかるの 「深酒は止めなさい」と
併存するスレの一つを閉めなさい
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:38:26.83
>>277
戸数は畿内説が勝手に重複して加算している。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:38:38.72
妄想偽スレ立て>>1晒し上げ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:39:06.57
>>256
嘘つけ 
なんも無いよテンプレ以外の畿内説の奴らにイチャモンつけてるだけ
2人ザラコクが居て、一人は>>1
0290日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:39:50.10
?投馬国は玉野市玉と考えられる

?吉備国の戸数などを遠望して確認した可能性がある
玉の北側の丘陵地からであれば、吉備の様子が一望できるかもしれません。
そうすれば吉備の戸数を(概算ですが伝聞でなく実測で)記すことも可能です。

?吉備国中心部はこの時代の直前まで邪馬台国の首都だった可能性があるほどの主要な土地
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:39:58.19
基地外による乱立スレ晒し上げ
0292日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 08:40:14.05
>>278
魏志倭人伝と地図を付き合わせるだけで簡単に計算できる。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:40:41.56
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:42:04.55
九州の中心地は伊都国だろ、昔は奴国だった

本州の中心も吉備(神武東征時も滞在)から大和(邪馬台)に移動した
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:42:05.50
>>289
正解
ザラコク1=九州説支持
ザラコク2=>>1で嫉妬深いから、自分と違う畿内説に嫉妬
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:42:18.93
もしソウルから朝鮮半島南端まで7000余里を認めるとすれば、あとの5000里で行き着ける場所は九州をでないことになる。

朝鮮半島下端から対馬が100km、対馬から壱岐が85km、壱岐から唐津が70kmなので平均85km、

これが1000里に等しいとすると1里は約0.085km(85m)ということになる。

一里が0.085kmとすると12000余里が1020kmとなり、ソウル−宮崎間経路の長さとほぼ一致した。

またソウルから朝鮮半島南端まで7000余里も経路実測625kmだったので、625÷0.085=7353里でほぼ一致した。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:43:07.84
列島の覇者は出雲から筑紫に移動した。
0298日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 08:44:15.58
>>1
テメーの責任で片方のスレのカキコミをすべて張り付けるべきだ
0299日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 08:46:02.70
>>292
その計算多分間違ってるよ
史料から魏で使われた里は1里400mとはっきりしてるんだから
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