X



邪馬台国畿内説 Part323

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/02/09(金) 04:41:27.08
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517932645/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:03:11.57
纒向が邪馬台国の中心でいいよ。

どの勢力が邪馬台国を作ったかだな。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:07:15.74
九州がまさに邪馬台国の時代に纏向を中心とする影響力の拡大に飲み込まれてると言う現実をミエナイキコエナイでありもしない妄想を続ける異常者
それが九州説

ただのカルト宗教だから仕方ないね
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:07:44.19
スレ主=仮想ザラコクで大半埋めんなよ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:12:59.48
九州のどこに邪馬台国があるの?
と聞いても全員違うことを言う

行程は絶対確実なの?
と聞いても全員違うことを言う

何が確定してんだよサルが
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:17:30.24
>>570
傍国20カ国は遠すぎてよくわからないと書いてある
邪馬台国が九州北部連合で計7万個になるはずだから
傍国20カ国は合計4万戸になるはずだというのは
這い出ましたね
九州説お得意の循環論法ですね
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:22:17.22
九州は最盛期ですらも北部九州と四国西北部から外に出てない
肝心の邪馬台国の時代となればその勢力さえも崩壊して中心もなくなってる

ご自慢の鉄とやらがそんなに凄いならとっくのとうに日本征服してんじゃねぇのか?
弥生時代の400年くらいを九州から出ることも出来ずに逆に東部は出雲や四国や瀬戸内海の影響を受けまくってる
アホが

こんな基本も知らんで「支配した!」「東征だ!」とかバカ丸出しのことを喚いて思考停止する九州説
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:25:11.83
>>213
>魏志倭人伝に描かれ邪馬台国への行程記事は、
倭国を訪れた事のない人物が、報告書あるいは紀行紀を基に地理像を描いたのである。
そのため極めて不正確な地理像となっている。 <

いや、陳寿は、
梯儁等と張政等の二つの魏使集団の記録を見ており、
十分に正確である。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:27:39.88
>>585
アホの九州説に言わせると古墳の鉄はカウントしないんだとさ
でも九州がいつも喚き散らしてる鏡も古墳から出てんだけどな

あいつらの都合のいいダブルスタンダードぶりは笑えるわ
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:32:21.58
>>219
>いくら言い張っても 東大寺の坊さんが持ってた記紀ダイジェスト本には、
筑紫日向高千穂宮は宮崎県としてしか書かれてないよ<

筑紫日向高千穂宮情報が、宮崎の事であるとは限らず、
新唐書は、それにも関わらず、倭奴國の筑紫城の事だ、と断定して書き換えている。」
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:34:31.38
最初から九州説なんて何一つ根拠も証拠もないただのバカ話だから
誰も相手してない
アホを相手に笑いものにするのが面白いから遊んでるだけ
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:35:51.14
>>220
>使えない情報ってことだね <

「南→東」などの嘘つき騙しの前科のある大和説者らの、
「旧唐書などや新唐書」の全面的否定情報は、
信用ならない、って事だな。」
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:43:00.63
>>225
>北東が東南になるのは、地図が南を向いているのを置いて書いたからなのだ <

陳寿は、地図を作ったのか?は不明であり、
地図がなくても、
梯儁等の記録と、
梯儁等の記録に拠って女王國之所都へ行った張政等の記録の、
二つの魏使集団の記録を見ており、
方向を間違える筈がない。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:43:58.09
>>591
それも一種の循環論法だなぁ

w
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:44:43.30
焦るスレ主 
追い打ち岡上
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:46:45.73
>>226
>平安中期の日本文献に 神武天皇は福岡出身でーす、とか 書いてあったと思ってる人は
たいへんおめでたい <

新唐書が、王年代紀を100%信用して丸写しした、
と思っている人は、大変おめでたい。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:52:19.80
>>233
建諸隅命のまたの名が、由碁理で、丹波(旦波)の大縣主なのである。
そしてこの建諸隅命の子、竹野媛(竹野比賣)が開化の妃である。
この竹野媛の本来の名は天豊姫である。
建諸隅命は、私が卑弥呼とする宇那比姫の甥(おい)である。
したがって、天豊姫命と呼ばれるこの人は卑弥呼を出した一族の女、すなわち宗女である。<

後半は、 「南≠東」に拠って、×ね。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 18:56:28.86
>>237
>『後漢書』倭伝は
「安帝永初元年(西暦107年)、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見」
として西暦107年に倭国の朝貢が在った事を伝える。
この倭国朝貢の年次あたりが倭国の始まりである。
私はこの倭国王こそ、大和朝廷成立直後の王、すなわち神武であろうと考える。
倭国すなわち後の大和朝廷は西暦107年の直前に成立したと考える。<

これも「私は〜」以下の部分が、「南≠東」に拠って×。
0600孝霊厨
垢版 |
2018/02/10(土) 18:56:46.46
>>586
三世紀の地勢感で正確かどうかなんて
判断出来る状況ではないですよ。

ましてや地球が球体とも、地動説でもありませんから。当時の基本認識は神仙思想です。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:02:05.94
>>239
>神武は卑弥呼と同世代。<

二中歴の二倍年歴記載に拠って神武測位元年は、紀元前91年頃になるから、×。

>2世紀末以前に九州の勢力が畿内で主導権をとった形跡はない。<

神武以前の国生み神話時代に、筑紫が淡路島に東征植民した、という可能性があるし、
神武東征も紀元前1世紀頃であるから、×ね。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:05:54.00
>>241
>・・・したがって後漢書倭伝が伝える107年に朝貢した倭国王とは神武に他ならないと考える。
大和朝廷はこの107年の直前に成立したのである。<

神武測位元年は、ニ中歴に拠って、紀元前91年頃になるから、×ね。
0603孝霊厨
垢版 |
2018/02/10(土) 19:10:21.98
神武東征的な話なら紀元前か一世紀辺りだな。
師升を葛城に本拠をもつ綏靖天皇辺りに比定するならね。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:14:28.12
梁書に「漢の霊帝の光和年間(178〜183)、倭国は乱れ、戦いあって年月を経た」とある
これが神武東征かも知れないね
0605日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:16:12.52
バカに何度言っても無駄だろうが

弥生時代の前期の稲作の伝播以外に九州から西日本に広がる影響など何もない
東征も東遷もあり得ない

バカに何度言っても理解できないだろうが
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:19:01.09
>>244
>うすうす感じていたのだが ザ ラ コ ク は な ぜ 
テ ン プ レ へ の 攻 撃 は し な い の だ ろ う か <

2chから5chで、3回も「全部反論」を投稿したが、
ちょっと議論があっただけで、スレ主は引っ込んで逃げてしまい、
だから、現在は、
スレ主は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの件や、
「伽耶の「有槨」墓が何故発生したのか」の理由説明が出来ていない事の指摘や、
平原の21枚の「尚方作」鏡の存在を全く触れない事や、
「景初4年」が「景初3年の後十二月であって、景初四年としたのではなかった」という事の指摘などでの、
返事待ちの状態であり、
正直、・・・・は議論しても無駄であるから、放置もしている状態。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:23:06.67
>>607
なに言ってんだかワガンネ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:23:10.19
俺は畿内説だけど東征あったかも知れない派だ
西暦60年頃は九州が中心だったのは金印やら鏡やら後漢書の記述で確からしいからな
そこから100年後にその勢力が東に向けて出軍し
記紀にあるように苦しい戦いを経て畿内に連合国家を打ち立てたと
そう考えてる
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:29:41.88
>>607
尚方作鏡には景初3年とか入ってないからなあ
三角縁神獣鏡に比べたらどうしても格が落ちる
0611日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:31:21.21
>>609
ま、それはそれでいいんじゃね?
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:33:02.82
>>609
畿内に侵攻した勢力は有ったが、それは九州勢力ではなくて、畿内勢力の要塞、青谷上寺地を撃ち破って上御殿にオルドス式を持ち込んだ出雲勢力だ。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:33:22.39
尚方作鏡なんてニセモノは腐るほどあるしなあ
そんな銘文、なんの根拠でもないよなー
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:34:11.32
年代の見当つくと記紀が具体的になったみたいに感じて面白いぞ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:35:32.84
>>612
根拠ねぇなぁ


 
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:38:10.81
>>614
世の中には時系列の概念を理解できない奴らもいるんだよ。
朝鮮民族なんてのはその典型な訳で。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:40:21.81
出雲の遠征なんてものも起こってない

アホはどうしてこう事実も何も知らないままバカ丸出しの妄想して平気なんだろうな
己の無知さを少しは恥じろよ基地外
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:40:53.51
本当よな
九州説とくにザラコクはどうにもそんな人物に思えてならない
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:41:17.38
>>618
ないな
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:44:30.81
2世紀のこともっと具体的にわかるようにならんかな
神話の宝庫なのに皇国史観がどうちゃらでうるさく言ってくる連中がいるんだろうな
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:45:38.92
弥生時代後期に入って出雲の勢力が拡大するに応じて吉備、大和から出雲への祭祀の参加がみられる
ただ両地域とも自分達の文化を維持したままで同盟国として出雲の祭祀に参加してる物と思われる
その後に大和、吉備ともに出雲とは別の文化を更に進化させて後の邪馬台国、大和朝廷へとつながる体制を確立する
出雲との関係は見受けられるが遠征だのなんだのを示すようなものはない
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:46:04.09
>>245
>新唐書の記述はそのまんま日本書紀の丸写しだ アホか<

アホか。
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」などというような、
書紀の記載を全く否定した事になる情報も書かれているのが判らないの?。
0624孝霊厨
垢版 |
2018/02/10(土) 19:47:23.63
>>604
霊帝の諱はそのまま孝霊天皇に充てたと
思われるけどな。意味は滅びはしないが
国が乱れる等の意味がある。
欠史の名前は大体同時代、大陸との関連性のある諱が付いている。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:47:31.96
>>623
誤読でトンデモ書いてるよね
ある意味、海外史料の限界
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:48:29.64
>>621
文字資料はないけど大きな流れみたいなのは大体見えてる
言うほど謎だらけでも何でもない
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:50:05.63
>>246
>倭国王師升が誰に該当するのか、というのは 卑弥呼と同様長く謎のままですが、
まあ私は綏靖天皇説をとりますね。<

何だ?、まだ、
「南→東」の嘘つき騙しの分裂幻覚の妄想患者の孝霊が生きていたのか?。
「南≠東」だから、×だよ。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:52:37.38
>>621
簡単に説明してあげるね。

まず、方形周溝墓を墓制とし絵画土器を威信財とした勢力が有り、日本の広範囲を勢力下に治めてた。

そこへ大陸・半島から金属器が入って来てパワーバランスが崩れて。

これが倭国大乱の始まり。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:56:03.16
>>623
また何も知らないパーが現れた
記紀の記述と自分達の資料を合わせて書いてるのも理解できないアホだな
どうせお前アホサイトの記事読んだだけだろ?w

そのタリシヒコは用明天皇の事だとして記紀の記載を採用してる
そしてその時代に遣隋使が来た中国側の記録と双方の記事を合わせて中国は記事を書いてる

日本書紀の遣隋使の最初の部分が不自然なのは以前から指摘されてる
日本側が意図的に(おそらく中国皇帝から叱責されたことなどの屈辱を隠すため)削除したと考えられている

そしてアホの九州説は「用明天皇とその後の桓武天皇まで」を同一の系統と中国が理解してることをよく見ておけw
「日本が倭滅ぼした別の国」だとか言うボケた話が成り立たない事がこれで分かる
そして隋書の「ヤマト=邪馬台国」の記事もその系譜の確認で「確定」すんだよw

バカが
ドヤ顔して盛大に自滅してんだよ
能無し猿が
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:56:12.87
>>247
>平原王墓からナ国、つまり博多も東南と言ってるんだよな <

「東南陸行五百里、到伊都國」の「東南」は、
末盧國からの出発の説明であり、出発方向記載。

>これも混一図通り<

はるか後代の、
「実際にに倭地に来て実見」していない「知的退化」をした人間の書いた地図など、
信頼性が全くなく、
何の根拠にもならない。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 19:58:46.99
>>248
>ヤマトは磯城県、答えは出てるね。
倭国王は一世紀にはヤマトにいて
北部九州には 既に支配権を確保していたという事だな。<

「大和日本国は、倭國から別れた別種の旧小国」であったんだから、×。
0635孝霊厨
垢版 |
2018/02/10(土) 20:00:43.61
具体的に出雲において海を渡ってきた月支国の
船団と戦ったり、半島と山比べしたなんて
伝承を持っているのは
孝霊天皇だけだからな。勿論瀬戸内海や吉備
でも成敗伝承が多く、倭国乱れたとするなら
具体的な内容を伴う唯一の存在。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:03:25.65
方形周溝墓の拡大に政治的な背景など見られない
土器も祭器も祭祀も在地の物を維持している事から文化的な伝播でしかない
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:06:25.93
>>265
>不弥国までで1万700里であと1300里残ってるぞ <

方可四百余里の對海國と、方可三百里の一大國の、
国内見聞移動があった事が書かれているから、そこで700〜1400里を使っており、
だから、それだけでも、後は殆ど残っていない。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:06:34.18
記録に残るのは57年の奴国王、107年の倭国王

故に建国は107年と考える
建国と言ってもどこか別の国に知られなければ意味が無い
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:06:37.79
平原一号は二世紀末
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:06:59.29
方形周溝墓は単なる文化として拡大したのち、各地域で独自の発展を見せている
それが各地で別物の独自性を持つようになる
この伝播に中心的な勢力による意図などは見いだせない
0643日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:07:40.54
>>638
平原の時代とは九州の平原が栄えてた時代?なら
後漢書に倭の奴国が建武中元二年(57)に使いを遣したとあるからね
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:08:47.15
>>268
>投馬国は多磨(東京)、狗奴国は桑名市多度(三重)<

「南≠東」だから、×。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:08:50.97
邪馬台国の時代をもってしても独自に中国に使節を送る国が30くらいはいたと言う
だからまだまだ集権的な勢力など成立してないのがわかる
緩やかな連合体とみるのが自然
「建国」と呼べるような状態にはない
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:09:21.49
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。

古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。

久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:10:44.27
中国が最初認識していた倭国と言うのは北部九州の福岡を中心とした勢力だろう

奴国の金印や、師升の遣使などを行ったのはここと考えるのが自然
このころから畿内にそのような勢力を見出すのは困難
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:10:57.05
鳥取に孝霊の伝承があるし、山陰に赴いていた可能性はあるな。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:11:04.10
九州が出ると、とたんにレベルが下がるぜ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:11:10.80
>>639
方300里とか書かれてるだけで行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないけどいいの
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:12:26.64
>>647
最初じゃないから、おk
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:13:53.00
>>650
そういうチェリピクが古田説の特徴
0654孝霊厨
垢版 |
2018/02/10(土) 20:14:29.88
方形周溝墓は弥生前期北部九州発祥して
中期にはすでに東海や畿内中心に多くなって
いるからな。
銅鐸も同じ動きなので、東征的な動きは
弥生中期に既に終わっている。
なので弥生後期の平原の物は東国勢力から
派遣された人物の物。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:15:48.67
黒塚古墳は、かなり重要な古墳と思うんだが。

誰の墓なんだろう。

安達ヶ原の黒塚伝説と関係あるのかな。
イワテという鬼婆の話。
生駒の助の嫁を殺すが、自分の娘だったという悲しい話。

なぜ東北の話に生駒が出てくるのか?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:19:25.80
書いてる内容見てるとザラコクは古田史学会のメンバーなのかもな
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:20:07.51
方形周溝墓は在地の文化を変化させていない
むしろ各土地で独自の発展を遂げている

東征などは起こってない
ただの文化的な移動
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:21:33.16
>>270
>方角については混一図参照・・・
伊都国(平原王墓)も奴国(博多)も東南へとなっている
北海道が描かれていないので、東にまた国があった、という言い方になっており、
倭種なりとされている <

後代に、実地に倭地を見聞しに来ていない人物の描いた地図は、当然「知的退化」をしている可能性が非常に高く、
信頼性が全くなく、根拠にならない。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:23:37.16
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。

ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:24:17.41
>>270
しかし、おかしいねえ。
「混一図」に対する反論は、ついさっき書いた筈なので、探したが、見つからなかった。

ひょっとしたら、(5chに?)削除された?。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:25:22.42
銅鐸も最初は10以上の系統があって各地で独自の発展を遂げてる

勘違いしてる人が多いが何かの主体的な勢力が広めているわけじゃない
これも文化的な移動によって成立した文化とみるのが自然
むしろ弥生時代の後期くらいから中心地が統合されて独自性が出てくる
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:29:50.09
飛騨の口碑。
飛騨辺りの勢力が出雲を作り、大和朝廷を作ったとある。

日本書紀の飛騨の顔が二つ、胴が一つの怪物を討つ話。
畿内の政権交代の話じゃないかな。

5世紀の、若草山山頂の古墳。
かつて牛塚と呼ばれていた。
山頂の目立つ位置最高の立地。何か関係あるのか?
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:31:35.57
>>658
前方後方墳は在地の文化を変化させていない
むしろ各土地で独自の発展を遂げている

東征などは起こってない
ただの文化的な移動
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:33:14.76
>>271
>それならますます1万2千里で邪馬台国の位置を判別するのが難しくなるな<

途中移動の里数の合計が大体「萬二千余里」になるから、
そのまま受け止めればよいのであり、
難しくならない。

>いっそ1万2千里は邪馬台国を正確に示してるという考えは改めるべきじゃ<

この男も、二組の魏使団の大体の記録や、陳寿の大体の説明に「絶対断定」を要求し、
「絶対でないから駄目だ」と勝手に決めて、
それで、(大和説にとっては)都合の悪い)記載を否定抹殺しようとする、
犯罪者的な・・・・大和説者であった、という事になる。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:33:15.55
別に不思議でも何でもない
弥生時代末ごろに畿内と吉備を中心とした地域に全国的な影響力を持つ邪馬台国が誕生する
そしてその勢力がそのまま大和朝廷になるだけの話
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:37:54.49
>>273
>畿内説は正確かどうか怪しい魏志倭人伝記載の距離は根拠にしないよ <

この男も、二組の魏使らが確認した「大体」の記録や、それに拠って陳寿が説明した大体の説明を、
「100%絶対ではない」といういう事で、全部間違いだ、という嘘つき騙しの犯罪者であった訳で。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:39:28.83
>>666
>そのまま受け止めればよいのであり、

史料批判拒否
前近代
 
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:40:01.76
>>664
弥生前期の稲作などの移動と、邪馬台国の全国的な文化の拡大は全く違う物

弥生時代後期になると各地域にかなり強い独自の王権や文化の個性の確立が起こる
しかし、弥生時代末期の邪馬台国時代前後になると、その確立した文化の壁を突き破って畿内の文化が広まりそれ一色に変わる

各地の変化は中心の動きと連動していて独自性は限定的で明らかな中心点が存在しているのが分かる
その動きはどんどん強くなり各地の個性を完全に塗りつぶしていく

これらの動きから弥生時代末期の変化は政治的で中心の存在する意図的なものであるのが分かる
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:46:19.16
>>276
>こんな事言ってるからザラコクは左翼的思想の持ち主で
畿内説に嫌がらせするためだけに出鱈目並べてるとバレる<

私は、憲法の精神に従った平和共存の中道であり、
左右のどちらであっても、
組織化が、個人の自由や基本的人権を否定して、
極論化して殺し合い戦争をもたらす事になるから、嫌いであり、
特に、現在日本政府らが、憲法を否定して殺し合い戦争への突き進んでいる事が、
黙過し難いだけ。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています