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邪馬台国畿内説 Part323
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2018/02/09(金) 04:41:27.08
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517932645/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0639日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:06:25.93
>>265
>不弥国までで1万700里であと1300里残ってるぞ <

方可四百余里の對海國と、方可三百里の一大國の、
国内見聞移動があった事が書かれているから、そこで700〜1400里を使っており、
だから、それだけでも、後は殆ど残っていない。
0640日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:06:34.18
記録に残るのは57年の奴国王、107年の倭国王

故に建国は107年と考える
建国と言ってもどこか別の国に知られなければ意味が無い
0641日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:06:37.79
平原一号は二世紀末
0642日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:06:59.29
方形周溝墓は単なる文化として拡大したのち、各地域で独自の発展を見せている
それが各地で別物の独自性を持つようになる
この伝播に中心的な勢力による意図などは見いだせない
0643日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:07:40.54
>>638
平原の時代とは九州の平原が栄えてた時代?なら
後漢書に倭の奴国が建武中元二年(57)に使いを遣したとあるからね
0644日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:08:47.15
>>268
>投馬国は多磨(東京)、狗奴国は桑名市多度(三重)<

「南≠東」だから、×。
0645日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:08:50.97
邪馬台国の時代をもってしても独自に中国に使節を送る国が30くらいはいたと言う
だからまだまだ集権的な勢力など成立してないのがわかる
緩やかな連合体とみるのが自然
「建国」と呼べるような状態にはない
0646日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:09:21.49
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。

古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。

久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。
0647日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:10:44.27
中国が最初認識していた倭国と言うのは北部九州の福岡を中心とした勢力だろう

奴国の金印や、師升の遣使などを行ったのはここと考えるのが自然
このころから畿内にそのような勢力を見出すのは困難
0648日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:10:57.05
鳥取に孝霊の伝承があるし、山陰に赴いていた可能性はあるな。
0649日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:11:04.10
九州が出ると、とたんにレベルが下がるぜ
0650日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:11:10.80
>>639
方300里とか書かれてるだけで行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないけどいいの
0651日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:12:26.64
>>647
最初じゃないから、おk
0652日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:13:53.00
>>650
そういうチェリピクが古田説の特徴
0654孝霊厨
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2018/02/10(土) 20:14:29.88
方形周溝墓は弥生前期北部九州発祥して
中期にはすでに東海や畿内中心に多くなって
いるからな。
銅鐸も同じ動きなので、東征的な動きは
弥生中期に既に終わっている。
なので弥生後期の平原の物は東国勢力から
派遣された人物の物。
0656日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:15:48.67
黒塚古墳は、かなり重要な古墳と思うんだが。

誰の墓なんだろう。

安達ヶ原の黒塚伝説と関係あるのかな。
イワテという鬼婆の話。
生駒の助の嫁を殺すが、自分の娘だったという悲しい話。

なぜ東北の話に生駒が出てくるのか?
0657日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:19:25.80
書いてる内容見てるとザラコクは古田史学会のメンバーなのかもな
0658日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:20:07.51
方形周溝墓は在地の文化を変化させていない
むしろ各土地で独自の発展を遂げている

東征などは起こってない
ただの文化的な移動
0659日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:21:33.16
>>270
>方角については混一図参照・・・
伊都国(平原王墓)も奴国(博多)も東南へとなっている
北海道が描かれていないので、東にまた国があった、という言い方になっており、
倭種なりとされている <

後代に、実地に倭地を見聞しに来ていない人物の描いた地図は、当然「知的退化」をしている可能性が非常に高く、
信頼性が全くなく、根拠にならない。
0660日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:23:37.16
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。

ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
0661日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:24:17.41
>>270
しかし、おかしいねえ。
「混一図」に対する反論は、ついさっき書いた筈なので、探したが、見つからなかった。

ひょっとしたら、(5chに?)削除された?。
0662日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:25:22.42
銅鐸も最初は10以上の系統があって各地で独自の発展を遂げてる

勘違いしてる人が多いが何かの主体的な勢力が広めているわけじゃない
これも文化的な移動によって成立した文化とみるのが自然
むしろ弥生時代の後期くらいから中心地が統合されて独自性が出てくる
0663日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:29:50.09
飛騨の口碑。
飛騨辺りの勢力が出雲を作り、大和朝廷を作ったとある。

日本書紀の飛騨の顔が二つ、胴が一つの怪物を討つ話。
畿内の政権交代の話じゃないかな。

5世紀の、若草山山頂の古墳。
かつて牛塚と呼ばれていた。
山頂の目立つ位置最高の立地。何か関係あるのか?
0664日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:31:35.57
>>658
前方後方墳は在地の文化を変化させていない
むしろ各土地で独自の発展を遂げている

東征などは起こってない
ただの文化的な移動
0666日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:33:14.76
>>271
>それならますます1万2千里で邪馬台国の位置を判別するのが難しくなるな<

途中移動の里数の合計が大体「萬二千余里」になるから、
そのまま受け止めればよいのであり、
難しくならない。

>いっそ1万2千里は邪馬台国を正確に示してるという考えは改めるべきじゃ<

この男も、二組の魏使団の大体の記録や、陳寿の大体の説明に「絶対断定」を要求し、
「絶対でないから駄目だ」と勝手に決めて、
それで、(大和説にとっては)都合の悪い)記載を否定抹殺しようとする、
犯罪者的な・・・・大和説者であった、という事になる。
0667日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:33:15.55
別に不思議でも何でもない
弥生時代末ごろに畿内と吉備を中心とした地域に全国的な影響力を持つ邪馬台国が誕生する
そしてその勢力がそのまま大和朝廷になるだけの話
0668日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:37:54.49
>>273
>畿内説は正確かどうか怪しい魏志倭人伝記載の距離は根拠にしないよ <

この男も、二組の魏使らが確認した「大体」の記録や、それに拠って陳寿が説明した大体の説明を、
「100%絶対ではない」といういう事で、全部間違いだ、という嘘つき騙しの犯罪者であった訳で。
0670日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:39:28.83
>>666
>そのまま受け止めればよいのであり、

史料批判拒否
前近代
 
0671日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:40:01.76
>>664
弥生前期の稲作などの移動と、邪馬台国の全国的な文化の拡大は全く違う物

弥生時代後期になると各地域にかなり強い独自の王権や文化の個性の確立が起こる
しかし、弥生時代末期の邪馬台国時代前後になると、その確立した文化の壁を突き破って畿内の文化が広まりそれ一色に変わる

各地の変化は中心の動きと連動していて独自性は限定的で明らかな中心点が存在しているのが分かる
その動きはどんどん強くなり各地の個性を完全に塗りつぶしていく

これらの動きから弥生時代末期の変化は政治的で中心の存在する意図的なものであるのが分かる
0675日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:46:19.16
>>276
>こんな事言ってるからザラコクは左翼的思想の持ち主で
畿内説に嫌がらせするためだけに出鱈目並べてるとバレる<

私は、憲法の精神に従った平和共存の中道であり、
左右のどちらであっても、
組織化が、個人の自由や基本的人権を否定して、
極論化して殺し合い戦争をもたらす事になるから、嫌いであり、
特に、現在日本政府らが、憲法を否定して殺し合い戦争への突き進んでいる事が、
黙過し難いだけ。
0676日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:46:29.51
もはやザラコクは畿内説の飼い猫だな
0677日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:47:47.28
吉備津彦。
温羅の鬼退治伝説。

かつては仲間だった海神を討つ話じゃないかな。
石神が海神を乗っ取る話。

丹波道主命の丹後半島派遣。
これも同じ。石神がかつては仲間だった丹後半島の海神を乗っ取る話。征伐され、丹後半島で古墳作りをさせられたんだろうな。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:50:39.29
>>277
>畿内説と九州説は伊都や奴国まで同じだぞw 単に日数表記の解釈が違うだけで。<

大和説は、「南→東」の嘘つき騙しをしているから、×。

>プラス戸数も考慮すると北部九州なんて絶対不可能、無理だから。<

馬韓と九州が同じ位の広さ同士であるから、戸数も十分可能。
0679日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:53:37.14
>>278
>もしろ九州説の方に都合悪いと思うけど
ありもしない短里とか創設してるとバレたとき一気に信頼無くすぞ<

もしろ、「里数」でも大和説の方に都合悪いと思うけど、
ありもしない「南→東」とか創設してるとバレたとき、
一気に信頼無くすぞ 。
0681日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:55:02.98
尾張出雲の火神石神の荒ぶり方は、度を超えてエゲツない。かつての仲間も関係なし。

殉葬の習慣、生贄。泣き叫ぶ犠牲者が日本書紀にリアルに描写されている。

尾張なんか江戸時代まで旅人拐い、人身御供の習慣があった。
0682日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:55:11.20
>>279
>狗奴国とは陸(くが)国である。玖賀国とも表記される。その親玉は陸耳御笠(くがみみのみかさ)である。
陸国とは現在の北陸にあった国で、古くは北陸地方の事を、陸(くが)と呼んだ。 <

「南≠東」で×。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:55:36.60
基本的に方形周溝墓も前方後円墳も
文化の伝搬の結果であって
支配がどうとかというものではない。

五世紀に各地に定形型前方後円墳が作られるが
その近所に近い時代の大型円墳や
バチ型、手鏡型古墳があったりして
型式を強制されたようなものではないからね。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:56:30.16
古代史の流れを見てると基本的に「対九州」という図式が見えるな

先行して王権と国と呼べる領域を確立した北部九州に対して周辺地域がその拡大を阻止する形で発展してる
その流れの中で九州を上回るほどの大勢力となった出雲が登場する
0685日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:56:32.05
>>281
>綏靖天皇が師升は正解、生口160人を調達する人物<

「南≠東」で×。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:58:04.13
>>282
>投馬国は吉備であろう 出雲だと九州寄り過ぎる <

「南≠東」で、どちらも×。
0688日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:59:50.87
>>666
1万2千里をそのまま受け止めるなら
邪馬台国はパプアニューギニアにある事になるんだが

>>668
1%もありもしない事をわめくお前こそ嘘つき騙しだろ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:00:49.01
>>283
>神武天皇の東征にあたっては、
九州から安芸を経て、吉備・高島宮で3年滞在し、
船舶・兵器・食糧を蓄えた後、畿内へ向かったと書かれている。
吉備の国が東征に大きな役割を果たしたことを物語っている。 <

国生み神話時代に、吉備にも植民洲を造っていたから。
0690日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:01:06.43
考古学だけでは、歴史は語れない。
方形周溝墓も文化の伝播のエリアもあるし、征伐の結果のもある。

天孫降臨でも従わないナマコの口を切ったとある。
生口にされたのか、征伐されたのか。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:02:57.86
九州vs畿内などない。

あるのは先住民系vs弥生時代前期末以降の渡来人系
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:03:21.55
弥生中期から後期にかけて世襲の権力者と呼べるような存在が現れ独自の権力基盤のシンボルである祭祀や墓制を確立する
この動きは強い個性と排他性を見せて独自の勢力の基盤としているのが分かる

ところがそれが弥生時代末期になると一気に畿内の方式に塗り替えられる
変化は常に中心の動きと連動しており独自性は殆どなくなる

世襲権力や広域連合の象徴として機能していた祭祀、墓制、祭器のシステムの一本化は、
かなり明確な政治的な意図によるものであると考えるのが自然

「前時代に確立した各地の勢力の基盤がある特定の地域の方式にいきなり塗り替えられた」
と言う点が全時代の文化のみの移動とは大きく違う
これを「何の意味もない流行」などと言う事は相当無理がある
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:03:23.27
邪馬壱・・・山陰〜丹波

女王・・・天橋立

邪馬・・・奈良

狗奴・・・桃太郎 の話が示しているように敵対していたのは当時の大勢力「吉備」

裸国などは能登半島と一年も離れていると、さげすんでいる

http://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/2013/12/12/image.jpg

籠神社(宮津市)の極秘伝によると、この「海部氏勘注系図」に登場する二人の日女命はそれぞれ卑弥呼与台与であるという。彼女たちはともに海部氏だったのである。

 海部氏の祖神は天火明命である。正式名は「天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギ速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)」と言い、ニギ速日尊(にぎはやしのみこと)は物部氏の祖神ニギハヤヒ命の事である。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:04:40.05
>>691
稲作などの弥生文化の拡大は縄文人自身が主体となって広めているのが分かっている
その後も大陸にも半島jにもない独自の文化を発展させ維持している

外国人による侵略など起こっていない
0696日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:06:51.56
古墳を過小評価すれば九州説が成り立つとか思ってる馬鹿には毎度笑える
言い出すことがいつもいつも間抜けで笑いしか出ない

いわく「ただの開発の残土だ」
いわく「何の意味もない流行だ」
いわく「ただの偶然だ」

呆れるばかりだな
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:09:03.03
>>284
>畿内説は1万2千里を当時魏で使われていた事が確実にはっきりしてる
1里400mで換算し、それが赤道付近になるという事が判明したら
1万2千里は邪馬台国を指してる数字とは判断しない
一方九州説はどこにも史料なしの短里を創作し 無理やり九州に当てはめた<

二組の魏使らが確認しており、
韓の「方四千里」や、
「郡〜狗邪韓國」の七千余里や、
三海峡の各幅の千余里などの、比率がほぼ合っており、
それを使って「計其道里、當在會稽東治之東」と推定した陳寿の解釈もほぼ一致しており、
これらは、
魏朝は、(長里ではなく)短里を使っていた、という証拠になる。
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:10:01.51
広める中心もなく
各地域で勝手に変化し
独自性を維持したまま

広がるものと

広める中心があり
各地域のそれまでの強い個性はほとんどなくなり
独自性を失う

つつ広まるものが

「同じ」だとかどこに見つけてんだろうな
まぁケチつけたいだけのバカだから仕方ないか
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:10:21.51
>>285
史料事実に則する九州説。
デタラメばかりの大和説。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:10:39.85
纒向から大分辺りの外来系土器も出てるからな。文献に照らし合わせても、
大和朝廷に九州の勢力も噛んでいるのは間違いない。
首謀者は尾張出雲阿波だが、九州の勢力の責任も明確にしないといけないあ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:12:58.01
神武東征は、大和に属さなかった地域との抗争を神話的に描いたものである

だから、日向や筑紫(境界つきるところの先)や吉備や難波が出てくる
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:13:30.53
>>290
>?投馬国は玉野市玉と考えられる
?吉備国の戸数などを遠望して確認した可能性がある
玉の北側の丘陵地からであれば、吉備の様子が一望できるかもしれません。
そうすれば吉備の戸数を(概算ですが伝聞でなく実測で)記すことも可能です。
?吉備国中心部はこの時代の直前まで邪馬台国の首都だった可能性があるほどの主要な土地<

「南≠東」だから、×。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:14:34.48
神武東征の宇佐も大和に属していない

宇佐は渡来人のムラだとされる

応神、神功の時代になって平定した
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:15:27.04
>>294
>九州の中心地は伊都国だろ、昔は奴国だった
本州の中心も吉備(神武東征時も滞在)から大和(邪馬台)に移動した<

「大和(邪馬台)」は、「南≠東」だから、×。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:15:36.03
>>702
纒向には吉備も大分の外来系土器も出てるからな。
吉備も神武のモデルもヤマト征伐に加担している。
奈良盆地南部、紀ノ川沿いは神武東征の逸話だらけ
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:16:58.33
出雲の四隅突出型
九州の財宝を埋納した地下式の小規模墳
東海の前方後方墳

これらの独自の墓制がいきなりそれまでと全く違う形式に変化している
しかも墓形、規模、副葬品にかなり明確な規格と中央と地方の差が現れている

独自性を失い、「中央」に従う方に主体などあるわけがない
0710日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:17:11.29
纒向の初期の外来系土器、尾張>出雲など山陰>吉備じゃなかったかな。
0711日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:18:49.54
>>299
>その計算多分間違ってるよ
史料から魏で使われた里は1里400mとはっきりしてるんだから <

郡役人や二組の魏使らも陳寿も「短里」を使っている事になるから、×。
0712日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:19:10.55
墓制だけでは語れんよ。
畿内も前方後円墳だけじゃないからな。

出雲は、大和朝廷の首謀者の一つ。
0713日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:21:25.68
石、火、牛、鬼、黒。
大和朝廷の首謀者の尾張出雲系のキーワードか。
0714日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:22:12.81
>>502
>5ちゃんなのだ なんでもいいのだ
解決策は主が両方とも今日中に埋めて次スレをたてればよいのだ<

5chからも、これまでに何度も何度も「投稿拒否」をされて来たから、
5chも信用して出来ないのだ。
0715日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:23:05.85
むしろ出雲を語るなら墓制を欠かせない

出雲こそが「大型墳墓による地位と同盟のシンボル化」という方式を作り出した
そしてそれを広範囲に広める中心だった
ところがそのオリジナルの方法を全く違う方式に「変更させられ」「新たな中央に従う」ことになっている

神話ではないが、かなりハッキリとした畿内勢力への屈伏の表れとみることができる
0716日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:23:35.10
>>698
何組の魏使らが確認してようとも
比率がほぼ合っていようとも
1万2千里を魏で使われていた事が確実にわかってる1里400mに当てはめると
赤道を越えた場所になる事実だけで全て台無し
1里400m以外の単位があったと主張するならきちんと確認できる資料を出せば
それで解決するのにしない
なぜならそんな物は存在しないからだ
0717日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:26:16.34
>>711
1里400mは律暦志、正始弩尺の史料事実で証明できる
短里はそういう史料事実があんの
0718日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:29:54.68
>>306
>年貢米の量とかで、倭人は自分の国を把握していた。
たが、傍国には魏の使いは行かなかったから、距離などは分からない。<

「其餘旁國遠絶、不可得詳」と「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とを、
完全に書き分けている事と、
「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」
として、狗奴國以北が女王の支配地であることを示しているから、

大体、狗奴國以北の中北部九州である、という事は判る。
0720日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:33:42.47
>>307
>不正確な計測だったんだねってだけだよ
なら1万2千里は邪馬台国を指しているか怪しいね<

二組の魏使らが確認した事であり、
張政らは、梯儁等の記録に拠ってやって来れた事になるから、
かなり正確な計測。
0721日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:40:05.32
魏の里で合わないのは明白なんだから
魏の里は使っていないってことだよ。

短里は倭人伝の里の記載とい根拠から導き出したものだからね。
しかも隋書や漢伝にも、短里らしい記述が見られるし
周髀算経でも実際の距離を計算してみれば
短里だったんだから。
0722日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:40:31.01
>>720
案内されて来たんだろうから距離が正確とか関係ないだろうよ
アメリカまでの距離知らなくても飛行機乗ってりゃ着くだろ
0725日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:44:14.20
>>309
>律歴史や正始弩尺から当時の魏の1里は400mと判明している <

「尺」定規そのものの寸法は変わっておらず、
「里歩」系の寸法が、
文帝の即位の詔書での度量衡の統一指示と、
重心たちの「周制への復古」の上表で、周髀算経の度量衡が採用され、
一寸千里の法の使用や、「1歩≒1尺」に変わったのであり、
二組の魏使らの記録や、陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の推定の正しさに拠って、
魏西晋朝が「短里を使用した」という事は確実である。
0726日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:44:44.44
出雲まで水行十日、天橋立まで陸行一月

ご存知の通り数字は誇張が入っている
0727日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:46:39.03
>>308
>距離の平均なんて出したってしょうもないから とっくに論破済み<

「比率のほぼ一致」で、短里の使用が確認されて、とっくに論破済み。
0728日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:48:05.94
尾張なども東海系のS字土器や前方後方墳を失う立場

ただこの土地は少し関係が特殊で弥生時代を通じて畿内と密接な交流を見せている
後にも前方後円墳と前方後方墳が同時期の同じ場所に存在しているなど、独自性の消滅の対象とはなってない
土器の移動などを見ても敵対と言うよりも関係の近い同盟国と言う図式が想定される

ただ文化主体となるのが畿内であることと、墓の規模が常に前方後円墳が上回ることなどから主体は畿内にあると思われる
邪馬台国の前後くらいに合併吸収されていく事になる
0729日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:48:23.70
>>721
岸倭人伝に短里が使われてるという事を
魏志倭人伝を使って証明するのは循環論法
0730日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:51:53.60
>>725
そんなごたくを並べんでも
短里の存在を明確に示す短律暦志と短正始度尺でも持ってくればそれで解決する話
まあそんな物存在しないけど
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:53:21.31
>>310
>そもそも帯方郡はソウルじゃないから >>296の計算が 根本的に間違いなのだな<

そもそも、三国志や東夷伝でも、
国や地域間距離記載には、双方の最短「居住外縁部」間 の距離で記録する、
という事が確認されているから、
郡治からではなく出発外縁部からの距離であった可能性があり、
ソウルを起点にしても、否定抹殺するほどの間違いにはならない。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:55:04.93
>>727
比率なんぞ一致してないな
ある所では50m別の所では100m
比率が一致?嘘をつくな
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:55:21.84
>>311
>当時は海峡の幅が測れない
三千里を計算根拠にするのはナンセンス <

一寸千里の法で簡単に近似計測できるから、
ナンセンスではない。」
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:55:44.43
タンリとかほざいて無理やり九州のどこに持ってこようと邪馬台国などどこにもない

九州には何もない
あるのは400年の独自文化を失い畿内の文化に塗りつぶされる属国の姿だけ

行程を屁理屈こねてどこにしようが結果は同じ

能無しの九州説はそもそも何も知らないアホだからタンリとか喚いてれば九州に邪馬台国が出てくると思ってる低能
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:58:20.89
投馬を玉(たま) とよむと、「玉」は山口県の山陰側の地名である。 田万川町、玉江川(萩市)、矢玉、湯玉 。
「馬」の字より、野生馬がいたのは下関市山陰側の吉母の御崎だから、投馬国は厚母 (あつも)・室津・湯玉・矢玉だろう。吉母の御崎は古くは室津の内だった。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 21:58:43.98
>>312
>>あくまで、史料事実や史料実態を根拠にして、それからの帰納的推論であるから、
自己矛盾していない件について。<

>何が根拠だって、推論が間違ってりゃ自己矛盾こくぞ <

推論が間違っておらず、
計測値も有効数字1桁程度の概数であるから、矛盾は発生しない。
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