邪馬台国畿内説 Part323
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517932645/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>873
糞をいくら非難しても自分の衛生が向上するわけじゃない >>839
>「混一」作者は、実際に倭地に来ていないから、
>「混一」の方が、半分×地図。
実際に倭地に来ていない陳寿の著書は? 御真津比売命(170?〜) 崇神天皇(169?〜)の妹。異母兄弟に彦坐王がいる。
倭姫命 景行天皇(237?〜)の妹。天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社、檜原神社比定)に神籬を立てて、垂仁天皇25年3月(241)、伊勢の地に祀った(現・伊勢神宮) >>356
1里≒76.5mや「南」の史料事実を否定曲解してまでも大和説に執着するのは、
トンマのやる事。 >>356
>この木之本は、北陸に対する軍事上の要衝の地である。
すなわち北陸地方にあった、敵対国から守る為にである。
私は、その敵対国こそ、『魏志倭人伝』が邪馬台国と戦っていた狗奴国と考える。<
せっかく面白い情報を書いていたのに、
「南→東」の嘘つきを書いてしまったら、✖ね。 >>358
「方可四百余里」や「方三百里」という国の大きさを書いた上で、
国を巡った事が書かれているのが、
魏志倭人伝の 史料事実であり史料実態である。 >>359
>100歳まで生きるとか、<
「魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」。
>東南アジアまで一年とか数字はいい加減だぞ <
東南アジアではなく、太平洋を渡って、縄文土器があった南米。
一年は、二倍年歴でであるから、半年。 少々早いですが、また
一両日留守をしますので
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/
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畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
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重複スレは削除申請が出ていますので、使用はお控えください >>361
>魏で使われていた里は律暦志、<
魏朝が実際に使った里ではなく、単なる後代史家の考えでは根拠にならない。
>正始弩尺から1里400m <
尺寸系の寸法は、殆ど変わっていない。
1里≒75mという事が史料事実。 >>362
>それ単に100里500里とかキリのいい数字しか出てこないって事なんじゃないの <
魏使らは、当然「計測値が大体の概数」である事を知っていた。 >>364
>不弥国と邪馬台国の間には水行20日で投馬国<
側副傍線行程の説明。
>次に水行10日陸行1月の記述がはさまってるぞ <
はさまっていない。「(郡から)女王之所都」への所要日数説明。 >>364
>不弥国と邪馬台国の間には水行20日で投馬国<
側副傍線行程の説明。
>次に水行10日陸行1月の記述がはさまってるぞ <
はさまっていない。「(郡から)女王之所都」への所要日数説明。 >>366
>だが方角や位置関係が滅茶苦茶なのはこれだけではないからな。<
後代の・・・・アホは知らんが、
魏使らや陳寿は、大体正確。 >>367
>二代目の綏靖だろう、朝貢とみられるから消されたんだよ。<
大和は、「南≠東」に拠って、✖。 >>368
>何れにしても大和朝廷(現在の皇朝)の成立は107年<
何れにしても、大和は倭國の別種の旧小国であり、
「朝廷」でもなく「皇朝」でもなかった。
>57年の奴国王(博多)は無関係というのが結論
神代三代は九州東南部だからね、奴国とは全然違う<
大和自体が、「南≠東」で✖。 >>369
>それなら邪馬台国が不弥国のすぐ南なんて言えない事になるな<
途中の移動がなかった、という記載だから、「すぐ南」という意味。 >>370
>邪馬台国は7万戸
九州北部が連合して邪馬台国と言うなら国々の戸数の合計が合わない<
邪馬壹國だけの戸数。 >>371
>不弥国、津屋崎説(現在の福津市)を最初に唱えたのは、大正から昭和にかけて、
徳島県の脇町中学校漢文教師であった笠井新也である。<
伊都国の東百里になって、記載された「里の比率」と合わないから、
笠井もアホの✖人種ね。 >>373
>倭国について書かれた書なんて
後漢書隋書北史梁書…と山ほどあってその中で
大和日本国は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国、
なんて書かれてるのは旧唐書だけ <
「使節が渡来して来てきちんと計測記録した」情報よりも、
それをきちんと渡来確認せずに、後代に勝手な解釈をした高慢な史書は、
当然論拠にはならない半分×史書。
旧唐書や唐会要や新唐書は、裴清や郭務ソウらの情報や遣唐使らの説明の記録を知っている。
それを持ち出して周りを騙くらかそうとする悪質な詐欺集団九州説 >>382
>史料歪曲はいかんということ<
史料の客観性や信頼性の確認の、史料批判無しには、
史料歪曲はいかんということ。 >>383
>伊都国や弥生銀座にないんだよな<
吉武高木は、伊都国と弥生銀座の真ん中だよ。
また、天誅は、伊都国の宮殿を発掘中、と言っていたし、
弥生銀座には「大道」が数本以上あったから、当然「都としての建築物」はあったんだろうし、
安徳台も、もっと発掘されたら、おそらく宮殿が見つかる。 >>384
大和説者は、大和に持っていきたいだけで何の根拠もないからな。 >>386
>かけた瞬間トンデモ説の出来上がり<
賛成です。
計測区間の距離を、5〜6倍の巨大距離に解釈した瞬間に、トンデモ説の出来上がり。 >>389
>「倭國の南境を極むや」つまり「倭国が南の境界まで(支配範囲または軍勢を)極めたとき」となる。
なお、魏志ごろの中国からの地理観では、倭国は北から南に向かって伸びていた。
従って「南界」は、実質的に倭国の勢力圏の東の境界であると考えられる。<
「南→東」の嘘つき騙しをした瞬間に、この投稿も、✖。 >>881
1里≒76.5mのどこが史料事実だ?このトンマが >>905
史料事実ってコトバだけ知ってて
意味は知らないで喋ってるんだよ
ザラコクはな >>883
島を巡ったなんてどこにも書かれてない
九州説の言う所じゃ行とか至の途中移動の動詞がないから
これが史料事実であり史料実態である 度量衡で定義された丈尺寸分は固定だが
それ以外は各地の定義を尊重する。
魏の里は435m
東夷には東夷の里があり、
倭人伝によると70〜90mと推測される。
倭は日を持って量るということで
不弥国以降は里ではなく日で書かれている。
日本の奈良時代で1里は533m
戦国時代から約4km
中国と大幅に違うが、現地の慣習に従い
中国からも日本国内からも
中国に合わせろという議論は聞いた事がない。
里とは、そんなもん、だったということである。 >>908
中国がそんな単位使うかよ
皇帝権威の否定だろ 東夷倭国、及び日本国では、
使用する里の定義において、
過去から一度も
中国里に合わせたことがない
といってよいだろう。 >>908
>倭人伝によると70〜90mと推測される。
誰が、どうやって推測したんだ?
w 現在の中国では1里が500mとなったが、
いろいろと不便だったのか、
公里1里が1km、
欧里1里が1マイル。
要は里というのは距離の単位を表している以外は
時代や地域に合わせて変わるものなのである。 >>886
律暦志と正始弩尺から換算して魏の時代の1里は400m
これが文字通りの史料事実
1里≒75mは何の史料もないがな >>913
1里≒75mが使われていた音を示す史料は何も無いけどね >>913
そんな里数を魏晋の宮廷で聞いて、誰が理解できるんだ? >>889
魏志倭人伝見れば不弥国と邪馬台国の間に水行20日…と出てくるよ 要するに、九州説は邪馬台国の位置を
いいかげんな方法で決める
ということですな 倭人伝では一里400mを使っていないのは明白だからねえ 数値が不正確なのを、未知の単位があるんだって考えるのが
逆転の発想
九州説は逆転しすぎで根拠レス 伊都国から奴国の100里って、たぶん1里=約400m使ってるよな 初代天皇である神武天皇は、紀元前660年2月11日に即位され、
前585年4月3日に享年127歳で亡くなられた.
「前660年2月11日」は、日本書紀に記されている即位年月日の太陰暦「辛酉年春正月庚辰朔」(前660年1月1日)を太陽暦に換算したものである.
神武天皇の即位月日「2月11日」が祝日法で規定された祝日「建国記念の日」であり、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日である. 【鬼道と神道】
伊都国にあたる平原遺跡からは最大の銅鏡である八咫の鏡5枚を含む史上最多の40枚の銅鏡と、太刀と約2000個の玉、鉄器などが出土しており、三種の神器に相当する副葬品(鏡、剣、玉)が揃って出土している。
3世紀で最大の倭国の王位を象徴する八咫の鏡を用いた国家規模の祭祀に倭国の女王である卑弥呼が関わらなかったわけはない。
周囲には鳥居や御柱の跡も残っており、古代神道の形式が整っていたことがわかる。
これは3世紀においてすでに倭国には神道があったことを意味している。
ならば卑弥呼の用いた鬼道とは、中国人から見た神道そのものだったはず。
邪馬壹国は鬼道などの言葉の印象が強いため後進国のように思われがちだが、中国人から見た鬼道とは、神道の儀式を指していたと考えられる。
そして、その祭祀は畿内ではなく伊都で行われていた。
平原遺跡から出土した八咫の鏡の形式である内行花文鏡は、もともと紀元前から博多湾岸では多く出土し、漢の皇帝から王侯に冊封された証である威信材として用いられていたと考えられる。
内行花文鏡の文様は太陽を形取っていることから、天つ神としての太陽信仰の象徴として最適であったと考えられる。
漢の滅亡後に作られた平原遺跡では八咫の鏡を含めほとんどが国産の鏡となっており、漢から下賜された鏡よりも大きな内行花文鏡を完成させることで王権の象徴となったと考えられる。
後世においては、八咫の鏡を継承することが天皇位の証とされ、今日でも伊勢神宮と皇居で1枚ずつ祭られている。 >>928
東夷伝全体で一里は100メートル未満。 >>918
だから気になって日程を併記したんだろう。 >>912
自分で地図と見比べて計算しろ。
小学生でもできる。 奴国の南の狗奴国って明らかに宇佐とかあのへんの渡来人の村だよな >>935
ほら、説明できない
無能者のホラが露見した 宋版「大平御覧」の「倭人伝」では、投馬が於投馬(エツモ)と書かれている。 今日、出雲の人は出雲を「エヅモ」となまって言うから、 この時代もそうで、中国人はそれを聞き取ったのかもしれない。
また、投馬国の官名が異彩をはなっているのも注目だ。彌彌(ミミ)と彌彌那利(ミミナリ)である。実は、この「ミミ」がつく名称は、記紀では、出雲系や神代系に多く登場する名前である。
これらの理由から、投馬国=出雲国だと思われる。
出雲神話は、日本神話の中での比重が高かったりし、古代から日本海航路の重要な港として栄えた地である。人口が5万余戸や、中世以降の諸侯の勢力範囲から想像して、
魏志倭人伝の時代の出雲の勢力は、出雲、石見、伯耆、因幡などの山陰地方の大半を勢力圏としていたのかもしれない。 改めてみても九州説なんて支離滅裂な解釈しかしてないよな。
理屈も自画自賛的なもので根拠が皆無だし。 >>940
あらゆる分野の少数説を集めて
我流解釈を加えたのが
九州説 >>941
読み替えられた瞬間終了する九州説
読み替えなくても平気の畿内説
勝負あったな >>895
前は邪馬台国は九州北部の国々の連合で
伊都国が中心だなんて言ってたのにコロコロ変わるんだな >>903
魏志倭人伝の里は実際存在した里より5分の一の根拠が
魏志倭人伝がそう書かれてるからというのは
循環論法に当たります >>908
里とはそんなもんだっただろうけど
記録を残したのは魏だから書いたものは当然魏の里で書かれてる >>946
多分
邪馬台国(北部九州連合)=7万戸の意味でしょ
その中での京が伊都国
投馬国5万戸は別国(別連合?)
自分的には邪馬台国は北部九州で、投馬国は日本海側の出雲連合説に一票 >>953
原文を読んでない奴が畿内説
いい加減な訳本しか読んでない。 >>939
神武系もミミ。
投馬国は、宮崎鹿児島。
日本海ルート、瀬戸内海ルートは、敵対勢力の攻撃を受けずに安全に移動できた根拠がない。 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
古代からミミとミミ無しの争い。
縄文系vs渡来人系 >>955
漢文のプロが訳した本に準拠したら
九州説なりたちません
笑) >>949
それがどうかしたのか
当時の計測は不正確だったという事実が明らかになるのみ 大和朝廷はミミ系縄文系の政権。
関東東北を含め全国を征伐して回ったのは彼らですよ。 >>951
九州北部連合だと戸数の合計が8万戸になるよ
投馬国抜きなら3万戸
不明な国々の合計が4万戸なんて都合のいい数字創設するなよ >>955
お前達の原文は邪馬台国の怪編纂本じゃないの? >>951
典型的なご都合主義、呆れて物が言えないぞ。
行程パズルにも程があるなw 邪馬台国が九州北部連合なら
邪馬台国は7万戸なんてわざわざ書かん >>961
魏の里使ってる根拠がなくなるよ。
実際、文献では日本が魏の里を使ったことはないし。 倭女王の都がある国が邪馬台国なのだと
倭人伝に書いてあるのにね
九州説の史料無視ぶりは
実にひどいな >>967
どうして根拠がなくなるの?
魏の時代に魏の人が行った場所のことを
晋の人が書いているのに くもにそびゆるたかちほのろっこーおろしにくさもきもーなびきふしけんなんたらかんたらーたのしけれ♪(うろおぼえ
じじいども今日くらいは旭日昇天の旗かかげれ(ひのまるでも可
んで邪馬壱の場所きまったんかー? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。