邪馬台国は九州にあった78
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>>195
>筑紫王朝とか、筑紫倭国でいいだろう。
で、その筑紫王朝やら筑紫倭国とやらは、倭の五王の時代まで存続したのかね? 当然だね。
九州王朝年号695年の大化までは残ってる。
701年の大宝からが大和朝廷だ。 九州王朝年号と思われる歴は、
二中歴という各種の歴を集めた書物や、
各地の古文献二千箇所以上に残っている。
記紀にも数か所残っていて、
古い書物からの引用部分で消し切れなかったらしい。
白鳳時代の白鳳も大和朝廷の年号にない
九州王朝年号のものである。 郡評論争ってのがあって
大和朝廷以前の政権が決めた地名が評。
大和朝廷が決めた地名が郡。
やはり、700年以前の戸籍などの地名がわかる
文献は評、
それ以降は郡で表記されている。
これで戸籍古文献が大和朝廷以前か以後かの
指標になっているんだよ。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 隋書に倭国は遂絶と書かれているからね。
そして唐の時代に日本国となるが
倭国と日本国は別の項目に分けられている。
後は日本国のみの記述になるから
当時の中国は、倭国と日本国は別の政権と
見ていたんだろうね。 >>209
>倭国と日本国は別の項目に分けられている。
そりゃ、当然のこと。
倭国(阿波)は遷都する前。
日本国(奈良大和)は8世紀遷都以降の国名なんだから。 @阿波 >>211
>阿波の起源は半島南部だよ。
邪馬台国=倭国(阿波)なんだから、半島南部だろうと、東南アジアだろうと、ミクロネシアだろうと、どこでも結構。 @阿波
日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎」、「始如」、「椽磨」、「久麻伎」、「都羅」、「宇麻」等の名が知られてる。 >>203
>記紀にも数か所残っていて、
>古い書物からの引用部分で消し切れなかったらしい。
どれ?
具体的に教えてよ? 卑弥呼の痕跡といえば、即、古墳、と思っていた。
畿内大和説、九州各説、、、、いずれの論者もそうだとおもう。
でも、それが迷路の入り口かもしれないね。
古代において死者を葬り祀る方法は、古墳だけでなく、現在いうところの神社方式もあった。
卑弥呼の墓(冢)は、しかるべき神社のご神体として今に伝えられているのではないか。 そういうこと、
宇佐神宮は全国数万社の八幡神社の総元締めだからね
古墳祭祀とは別系統の全国統合祭祀システムなのではないか 卑弥呼の墓(冢)は、
しかるべき神社のご神体として護られているのではないか >>217
>宇佐神社な
ご神体「比売大神」。 眉唾物のご神体だね。
宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)。
『国府町井戸 八幡神社』
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修....」 以下略
御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)
※大分の宇佐神宮の開基は725年。
※大分の宇佐神宮より遡ること、白鳳二年(674年)にこの『国府町井戸 八幡神社』 は「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
※よって、大分の宇佐神宮も、『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたのであろう。 @阿波 >>219
>卑弥呼の墓(冢)は、
>しかるべき神社のご神体として護られているのではないか
その観点からは、上津天満宮豊姫宮が有力。 何も発見出来ないで
何を議論してるの?
妄想の議論?
誰が一番面白い妄想かww 古事記に宮崎って書いてあるのに何で論争になるんだ?
字が読めない馬鹿なの? 海の正倉院こと沖ノ島には、九州王朝が畿内王朝に滅ぼされる前にその存在を示す証拠物品がたくさんある
だから、立ち入ることを厳格にしている >>224
宮崎は日向のことだと好意的に解釈するとして、そこに書かれているのは日向三代のこと
邪馬台国のやの字も出てこない >>226
>だから、立ち入ることを厳格にしている
また適当なことをw
宗教的な聖地が禁足地になっているのはいくらでもあるだろうが
>海の正倉院こと沖ノ島には、九州王朝が畿内王朝に滅ぼされる前にその存在を示す証拠物品がたくさんある
いい加減なことを言ってるなw
むしろ、ヤマト王権が沖ノ島祭祀を主催していたことを示す遺物がてんこ盛りなんですが? >>227
でも九州説は、日向三代は伊都にいた卑弥呼の前の男王で、だから北部九州が邪馬台国って言ってるんだぜww >>228
沖ノ島の位置を考えれば、大和がその主体とはなりにくい。
なぜ大和が筑紫まで出かけてきて祭祀を行うのか?
ここに出入りしている畿内説が言うように淡路島から国生みが始まったのなら、淡路島でやればいいではないか。
沖ノ島はおそらく高天原になぞらえて、筑紫がその祖先神を祭ったのだろう。
分家である大和も末席に参加させてもらっていたのを、後世の畿内説が誇大に宣伝しているだけだろう。 >>229
魏志倭人伝も記紀も同じ倭国の歴史なんだよ。
どこかに接点がないとおかしい。
それが伊都であり筑紫の日向。
これが倭国の都。 >>223
>その粟の宇狭にウサツヒコはいますか?
「宇佐八幡宮」 https://sueyasumas.exblog.jp/9787790/ @阿波
【「雲早(くもそう)山」の山麓より流れ出て、神通滝の流れを合わせ、「宇狭(うさ)」を通って「鮎喰川」となっていますが、「宇狭」とは川をはさんで「北宇井」「宇井」の地名が記されている所です。
宇狭とは両岸まで南北の峯尾がせまり川幅がおしせまっている場所の形容からきた地名ですが、「雲早山」を中心として祀られた「豊雲(とよくも)大神(女神)のお社が「龍の宮」と呼ばれていました。】 >>231
倭国の歴史を捻じ曲げて見てはいけないよ。 @阿波 >>232
そういうのはいいから
日本書紀の
菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉の菟狹津彥はいるのかを聞いている
古事記では
宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗 >>230
そういうこと言うのは沖ノ島からどういうものが出土してるか確認してからにしようや >>230
私は九州説なんだが宇佐、沖ノ島はヤマト王権の息がかかってると考えてます
時代はもう少し後ですが
2,3世紀に後発のヤマトの勢力が大陸及び半島と係りを持つ為には対馬壱岐ルートすなわち奴国や伊都を通さなければならなかったはずで
彼らにしてみれば独自ルートを開拓する必要があったと
後のヤマト王権や朝廷との関係を考えると宇佐とは近かったのではないか、或いは血縁があったのではないかと考えてます
宇佐沖ノ島ルートが当時ヤマトの勢力が開拓したものならば弥生後期〜古墳時代には北部九州と畿内は別の勢力だったと考えられるのではないかと思ってます 纒向には対外交渉の痕跡がないので、半島とのルートは伊都の大率が管轄するルートに一本化されていただろう。
それ以外のルートは抜け荷同様に取り締まられたはず。
記紀は宗像と筑紫の強い結びつきを示唆しているので、沖ノ島ルートも筑紫伊都の管理下だったはず。
大和が独自に外交しようとしても、筑紫が地理的に優位であり続けたはずで、それを打開するために衝突が継体天皇の時代の筑紫の君との対立だが、この時も大和側は対外ルートの確保に成功したようには見えない。 >>239
>宇佐沖ノ島ルートが当時ヤマトの勢力が開拓したものならば弥生後期〜古墳時代には北部九州と畿内は別の勢力だったと考えられるのではないかと思ってます
その当時の奈良にそんな勢力があったと考えること自体が、そもそものトンデモの始まり。 @阿波 仲哀天皇がそもそも九州人なので、筑紫倭国内の抗争に過ぎないよ。 畿内政権の歴史書である記紀には中国との国交の記事がほとんどない。 >>245
>畿内政権の歴史書である記紀には中国との国交の記事がほとんどない。
基本的に、記紀は倭国(阿波)国内での記録だからね。 @阿波 どういうことだろうか。。。
仲哀天皇は、倭国の者だったということだろうか。。。
243日本@名無史さん2018/08/06(月) 08:29:35.02
仲哀天皇がそもそも九州人なので、筑紫倭国内の抗争に過ぎないよ。 纏向遺跡時代の天皇が、倭国王の仲哀天皇の子孫に、とって代わられて、日本国が発生した可能性が高いな。 各天皇の事跡は、
仲哀天皇が北九州
神功皇后が博多湾沿岸
景行天皇が久留米高良大社の
筑紫平野ですね。 これらの九州の古豪族の事跡が
記紀編纂時に組み込まれたのでしょう。 記紀を信じれば、景行天皇が熊襲を征伐し
熊本を巡幸して、戦闘が起こってないことから
九州を統一したと言って良いでしょう。
九州が倭国なら景行天皇が初代倭国王ですね。 初代倭王ははるか前の漢代だろ。
しかも同時代に八咫の鏡を持つ筑紫の梟帥、すなわち倭国女王神夏磯姫がちゃんと記載されている。
まあ、孫の仲哀天皇まで、九州北部を治めた倭国王を勤めただろうけどね。
仲哀天皇とその皇子が神功皇后と武内宿禰に倒されて滅んでしまう。
次の応神朝からは新しい倭国王家となる。
倭国王統は何度も入れ替わっているようだ。 >>253
>八咫の鏡を持つ筑紫の梟帥、すなわち倭国女王神夏磯姫
八咫鏡を持ってたら倭王とかガバガバすぎ
大事なのは皇統の八咫鏡だけ
普通名詞としての八咫鏡も日本書紀に普通に出てくる
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないし、当然倭王でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
「八咫鏡」を持ってたら倭王、なんてことはない なるほど、
朝貢外交の倭王卑弥呼の身代わりとして、
のちの倭国王家の仲哀天皇〜神功皇后あたりの半島進攻物語を
120年ほど繰り上げて、記紀の天皇歴に挿入したってことかな。。。。 そうだよねえ。
大和王権の王を繰り上げたのではなく、
九州倭国の数人の王たちをつまみ食いして、卑弥呼の時代に合うよう繰り上げ、(朝貢外交の責任をとらせた)のではないかと思ったわけ。
同様に、
景行天皇も倭国王朝の王であり、
当時、(台与以後の肥国勢力の東遷で)混とんとしていた九州地方を再統一した・・・、と考えるとわかりやすいわ。 神功皇后が120年繰り上げてあるのを修正すると、景行天皇は卑弥呼の没後わずか半世紀後に九州で暴れまわったことになる。
さて、景行天皇は筑紫の梟帥(帥は率と同義)である神夏磯姫が名指しした敵を排除するが、その中には耳垂などの邪馬台国の官の名前が含まれていた。
つまり、卑弥呼や壹與の後継である神夏磯姫の求心力が低下したところで外部からの景行天皇の軍事力を借りて、九州の再統合をはかったと考えられる。 そもそも帥(率)とは何か。
古くは倭王帥升、卑弥呼時代の大率、筑紫の梟帥、太宰の帥など、福岡を治める者の呼称だろう。
筑紫倭国にあっては王またはその直属の権力者(卑弥呼はその上の神格化された存在?)だろう。
7世紀に倭国が滅亡してからは、畿内政権が任命する官だが、9世紀以降は多くは皇族が指名された(帥宮)。
太宰の帥は明治2年に廃止された。 >古くは倭王帥升、卑弥呼時代の大率、筑紫の梟帥、太宰の帥など、福岡を治める者の呼称だろう。
あー、師升はまるきり人名かと思ってたわ。帥(率)を意味してるんだねえ
太宰の師・率も、倭国千年の歴史があったわけか 景行天皇の皇子のヤマトヲグナが倒したクマソタケルは、亡くなる時にその名をヤマトヲグナに与えた。
ヤマトタケルである。
クマソタケルは河上タケルとなり、肥前一宮の河上神社付近に墓がある。
さて、河上神社の今の名は與止日女神社といい、その祭神は淀姫である。
おそらくは卑弥呼の次の女王の壹與その人である。
クマソタケルを熊襲梟帥と書けば、帥すなわち倭王であり、壹與と同宮の同族である。
熊襲というと南九州の印象があるが、南にいたのは日向国(投馬国)に起源を持つ隼人である。
熊襲は九州北部、肥国(有明海沿岸)の王家であり、卑弥呼以後は筑紫も勢力下に置いていたと考えられる。
筑紫に天孫系の支配が再確立されるのは、神功皇后または応神天皇を待たなくてはいけない。
(景行天皇と神夏磯姫は連立政権であったため) 伊達郡の川俣町という掲示板のほうが詳しい
亀戸(仮)に行ってきたという書き込みをしている人がいたでしょ、
老婆が生まれるよりも前の話なんだけど、家の老婆も同じようなことを言っていたし、
実際に住んでいるところは川崎区
ちなみに「菅野力夫」このような名前の家 壹與と熊襲が同じ肥国王家なら、卑弥呼も肥国王家である。
狗奴国が肥後なら、その王である卑弥弓呼もやはり同族である。
肥国王家が倭国の主導権を握り、伊都も卑弥呼が即位したなら、邇邇芸に始まる先代の男王達(日向王家)はどうしたのか。
一部は魏志倭人伝に伊都の官として禰宜の名がある。
また一部は、筑紫の日向を出て大和の饒速日を頼って東征したのだろう。
また、ある者は邪馬台国より南の投馬国(後の日向国)に逃れたのだろう。
日向国の末裔の隼人は天孫系の末裔であり、天皇家の忠実な部下とされていた。
そして、肥国王家の倭王は、記紀には倭王としては登場しない。
神夏磯姫、與止姫、田油津姫、熊襲梟帥、羽白熊鷲など、筑紫から筑後、肥前、筑豊を治めた天孫族ではない倭王達である。 まあ、ここは九州説スレだから、九州説の考え方を思いっきり書いてもらえばいいよw 記紀の編者も、妙なところで嘘がつけない。
批判などを恐れて、ギリギリの表現を探ったのだろうか。
帥を九州北部にいた倭王の称号と読むと、ちゃんと筋が通るようにできている。 >>266
そう思うね
今と違い、当時の記紀の編者たちは古代王家に連なる重臣たちの顔色をうかがいながら、忖度的編集を行ったであろうから、
ねじ込まれても、何とか夫々の顔が立つよう、工夫したんだろね
要は、我々の読み方も重要ってわけだ。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 >>268
>この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
グーグルMAPで見ると、
佐嘉川の西方、高速道路の北側にある大巌寺廃寺+五社大明神を中心に、東西1q、南北200mほどの古い集落・小道跡が見て取れる。
形をたとえれば、大判小判のような細長い楕円状の整然とした造りで、外周の小道も良く残されている。
西端にある広いため池が特徴で、見ようによっては、古代の環濠集落的な感じを受ける。
なお、この集落のさらに西には、北部九州では最大規模の舩塚古墳がある。この塚は、この地が、古代における重要な都市集落(川上地区)であったことを物語っている。
思うに、倭人伝の方角・里数・立地から見て、この一帯こそ伊都国の中心地区だったのではないか・・・、 そこは熊襲、肥国の中心国邑でしょ。
むしろ狗奴国かも。 >>270
正解とのご評価をいただいて恐縮です。
なお、千数百年に及ぶ開発で、辺り一面破壊されつくしているのではと思いましたが、
グーグルストリートで路上撮影の様子を見ると、
意外や、畑のなかに農家や一般住宅がパラパラっと立ち並んでいる感じなので、
発掘が進めば、古代の伊都国跡が出現する可能性は大と思いました。
これは、吉野ヶ里をはるかに上回る、古代都市大発見になるのではないでしょうか。
佐賀県教育委員会?の手腕に期待してます。 まぼろしの伊都国は、
佐賀市大和町内「伝説の川上地区」にあった!! 邪馬台国佐賀川上説だろ。
まあ、壹與の都だと思うけどね。 邪馬台国の卑弥呼女王之所都は、阿蘇高千穂だな
しかし、跡を継いだのは宗女の壹與だったというから、
その都は、大和は大和でも、佐賀市大和町の伊都国・川上だったというのは有りうるね >>275
>邪馬台国の卑弥呼女王之所都は、阿蘇高千穂だな
みなみ狗奴国が宙ぶらりんになる。 倭人伝の世界では、
南の狗奴国は、(肥後高千穂の)卑弥呼を脅かす男王の強国として描かれている
その後の動きは不明だが、
台与以後の倭国再統一にかかわったか、
或は景行天皇の故事にあるように恭順したか、もしくは東遷した肥国勢力の後釜として肥後に入ったか、いろいろなケースが考えられるな。 >>277
>その後の動きは不明だが、
答えは記紀に書いてある。
いわゆる、「出雲の国譲り」
狗奴国とは、倭国(阿波)の長国(県南部)のこと。 長国=出雲地方 @阿波 高千穂は筑紫日向の高千穂だよ。
それが佐賀だというのは少し無理がある。
あと、景行天皇の記事を恭順と読むのは少し先入観を持ちすぎ。
景行天皇の武力を恐れたことは事実だろうけれど、三種の神器を掲げて神威を誇示したとも取れる。
実際、その後は景行天皇が神夏磯姫の言いなりに倭国内の敵対勢力を掃討している。 >>277
どうも、そこは編集時の勘違いくさい。
男の王が当たり前の時代に、文章で
いちいち男王なんて断る必要はない。
断るとしたら女王との対比だ。
倭人伝で男王といちいち記述されてるのは
卑弥呼のライバルの男王と狗奴国の男王しかいない。
つまり、両者は同一人物と見るべきだ。
そもそも他国である狗奴国と
争いになってるなら戦争状態だし。
もっと緊迫してるはずだ。
魏に調停してもらっても、
狗奴国が別個に魏と交渉してなければ、
さしたる効果はない。魏が海を越えて
軍隊を送り込んでくるとか不可能だからな。
しかし、邪馬台国内での女王と男王の権力争い程度の話なら
魏に調停してもらうのに効果がある。
おそらく、狗奴国と言う単語付近の記述がミスなんだろう。
クニと言う単語を別個の他国と勘違いしたかして。
(東京と江戸を別個の地域に勘違いしたような感じで。
現代だって、その手の勘違いは珍しい事じゃない) それこそ、「男王は、我が国の南にいる」と言ったのを
「国内の南(の地域)」でなく、
「国外の南(の別の国)」と受け取ったのかも知れない。
その上で、さらに
「クニの男王」を「狗奴(国)の男王」に聞き違えて。 >>この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
>グーグルMAPで見ると、
>佐嘉川の西方、高速道路の北側にある大巌寺廃寺+五社大明神を中心に、
>東西1q、南北200mほどの古い集落・小道跡が見て取れる。
>形をたとえれば、大判小判のような細長い楕円状の整然とした造りで、外周の小道も良く残されている。
東西1q、南北200mほどの古集落・小道跡というとかなりの規模だな
それが、点在する農家・人家以外、ほとんど手つかずというのは貴重な存在だ。 >>280
だから
いわゆる、「出雲の国譲り」
狗奴国とは、倭国(阿波)の長国(県南部)のこと。 長国=出雲地方 @阿波 >東西1q、南北200mほどの古い集落・小道跡が見て取れる。
グーグル空撮見たけど、でかい、
箸墓古墳を10個くらい並べた大きさだからな、大和の上をいく大和だわ >>283
そんな宗教的な話じゃないよ
仮にそうだったなら、
その神話で魏はどこに出てくるのかと >>285
>そんな宗教的な話じゃないよ
どこが宗教なんだい? これは辰砂や海洋利権の争奪戦なんだよ。
>その神話で魏はどこに出てくるのかと
記紀は倭国(阿波)国内の出来事記事。 「魏」など出てこないよ。 @阿波 >>286
いや、国譲りの国って地上世界って意味で
天上から来た神が
地上世界を譲ってもらったって宗教的な話だよ
魏志倭人伝の話は、少なくとも歴史の話だし 高天原が天上ではなく海上の国だと考えればいい。
アマテラスは「海を照らす王」だ。
対馬海峡を本貫とする天孫族が出雲に武装解除させ、筑紫を占領した。
そうしてできたのが伊都国だろう。 >>287
>天上から来た神が
>地上世界を譲ってもらったって宗教的な話だよ
何言ってんの? あたま大丈夫かね?
その「天上」とは、北の「粟国」 「地上世界」とは、南の「長国」を指しているんだよ。 @阿波 >>280
>そもそも他国である狗奴国と
>争いになってるなら戦争状態だし。
>おそらく、狗奴国と言う単語付近の記述がミスなんだろう。
>クニと言う単語を別個の他国と勘違いしたかして。
狗奴国は、国家ではなく国邑だろうね。
独立した勢力は並列で書かれている邪馬台国と投馬国なんだろう。 >>289
いや、だから、それ宗教だよね?
大陸で史実として刻まれてる事が
どうして宗教になってるの?
そもそも、古事記は漢文の表記も微妙だけど。
もし卑弥呼の時代に魏と接触してたなら
もっと漢文が達者だったろうね。 いやいや、本来は宗教ではなく歴史記事なんだよ。
海を天と雅に言い換えているだけ。
そう考えると全て無理なく繋がる。 古代の神、すなわち王家には大きく分けて天つ神(天神)と国つ神(地祇)の分類がある。
天つ神はアマテラス(天照大神)の家系の神であり、海を越えてやってくる渡来人系の人々である。
天つ神のアマは、本来は海人の意味であったという説があり、確かにそのような読み替えは古事記などの記事を、超越的な存在を用いることなく、うまく説明することができる。
国つ神は天つ神以外の神々のことであるが、古来からの縄文系の人々や、アマテラスの直系ではない神々である。
国つ神を代表するのは全国のクニをまとめていた大国主であり、スサノヲの末裔であるといわれる。
稲の収穫を終えた神無月には神々が出雲の大国主のもとに集ったとされており、部族長が集まり祭祀を行っていたことを意味していると考えられる。
マテラスの名前は、天上を照らす太陽神の意味ではなく、本来は海洋を支配する王「海照らす」の意味であり、対馬海峡の漁撈と交易により成立した海洋国である倭国の王にふさわしい諡である。 倭国は海洋部(アマ)と陸上部(クニ)がしばしば分割統治されていたが、出雲の大国主を倒した後に海上と陸上をあわせた王となったのは、アマテラスから十種の神宝を継承した孫のニギハヤヒである。
ニギハヤヒの末裔である物部氏の伝記である先代旧事本紀における名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテルヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、海洋と陸上を統治する王である。
その弟のニニギは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト)と表記され、やはり倭国の陸海にまたがって君臨する王である。
ニニギの称号はアマテラスから海上部、オオクニヌシまたはヤマツミから陸上部の支配権を継承したことによるものである。
古代においては兄弟相続が一般的であり、ニギハヤヒの後をニニギが継いだが、ニニギの王統が最終的に天皇家につながると考えられたために後世ではニギハヤヒが重要視されなくなったのかもしれない。
サルタヒコは海上と陸上を支配する(照らす)神として紹介されており、博多湾岸を支配者していたが、イザナギとイザナミの子の一人であるヤマツミ(山祇、大山津見神)の下の官であったため、争うこと無く協力関係が成立したのだろう。
高祖山クシフル山日向峠の麓にある伊都の高祖宮の祭神はニニギの子であるヒコホホデミである。
ニニギのもう一人の子であるホオリ(火遠理命)はワダツミ(海神、綿津見神)の娘である豊玉姫を后とし、その子のヒコナギサウガヤフキアエズ(彦渚鵜草葺不合命)は豊玉姫の妹の玉依姫を后としている。
ヤマツミとワダツミは九州北部の二大勢力であったが、天孫族がその間を取り持つ形で早くから姻戚関係を結び、長らく倭国王家として栄えたと考えられる。
オオヤマツミには和多志大神の別名もあり、海神としての性格も併せ持つため、ニニギより前に海洋と陸上をあわせて支配した王であるが、男系では王位を継承しなかったために歴史上はニギハヤヒやスサノヲと同様に傍系として忘れ去られようとしてしまっている。
海神と山祇の関係は、天神と地祇の関係の類型でもある。 >>291
>大陸で史実として刻まれてる事が
「大陸で史実として刻まれてる」のは、魏志倭人伝など
記紀は倭国(阿波))国内の出来事記事っていってるでしょ。 倭人伝と記紀を混同してはいけないよ。 @阿波 >>296
>これ以上は平行線かなぁ・・・・
考古学を連動させると繋がるんだがね・・・・ @阿波 まあでも倭はゥワィくらいだとおもえばアワと聞こえなくもない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています