邪馬台国は九州にあった78
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>>77その鏡は国産品なんだよ
本当に価値のある鏡は中国からもらった鏡
当時交流のあった証
志賀島の金印も有名だか
親魏倭王の銅印も興味深い
中国にあるんだよな 親魏倭王の銅印は中国にあるよ
役目を終えたら金印銀印を返すのが本来の通例だよ
なぜか親魏倭王の銅印は福岡の博物館で展示されてた
興味ある人は検索してみ 〇これまでのまとめ
卑弥呼・台与の一族が後の王権に繋がる(日本の神話に登場)
女王のシャーマニズムの名残が後の天皇家の宮中祭祀(後漢書:鬼神道能以妖惑衆)
邪馬台はヤマトと読み中国人の当て字 (日本人がmachineをミシンと呼ぶように)
邪馬台国はヤマト王権の前身(いきなりヤマト王権が登場するのは不可能、アメリカも13州からスタートした)
邪馬台国の連合国政権は近畿、出雲〜九州北部の広域を版図とした(近畿〜九州北部かけて物証がある)
https://i.imgur.com/kSa35lq.jpg
邪馬台国発見(邪馬台国連合は次第にヤマト王権へ変貌していった、卑弥呼の出身部族のヤマトの名称が引き継がれた)
https://www.youtube.com/watch?v=lCefJ4319b8 倭の最初に記録された人名は筑紫にいた帥升、卑弥呼の時代は筑紫伊都に大率(率は帥と同じ)、景行天皇の時代に筑紫の梟師、その後は筑紫太宰の帥。 クリスタルセイント?
誰だったかな、師匠だと言っていたり ヒドラの市?キングギドラの話なのかな、
むかーし発電、電気を起こしていたという話 >>84
正確に言えば人名ではなく役職名かもね。
しかし、一般的には人名だと思われている。 それと、あのパトラの画像、
白蛇のような飾りとか
何か知っている人がいるのかな ヒドラ、ヒュドラーのwikiなどを読んでみて
>松明の炎で・・・・・と書いてあったり
松(もみ)の木? 対馬から壱岐が約千里
壱岐から東松浦半島に寄り上陸せずに(末盧国)沿岸を進み糸島半島の付け根まで行くと約千里
そこから上陸して福岡平野に出て太宰府付近(伊都国の中心)まで約五百里
そこから東南に約百里進み(奴国の東端)
さらに東に約百里進むと筑後川の支流に当たる(不弥国)
そこから筑後川に出て水行し、さらに有明海に出た後で上陸して陸行すること合わせて約千三百里で熊本に着く(邪馬台国)
方角が南とあるのは奴国から見てのことで、奴国は筑後平野の北側を広く治めており
奴国+伊都国はかつて後漢時代に金印を貰った委奴国であった
投馬国は筑後平野の南側、狗奴国は鹿児島〜宮崎南部あたり
一里が何キロとかあまり考えずに比率だけで考えた
あと水行陸行の日数は無視したw >>94
>太宰府付近(伊都国の中心)
これだけでもう、無理だろ? >>94
短里で伊都(糸島市)から残り千里余りを陸行すれば太宰府なんだが。 >>97
>短里で伊都(糸島市)から残り千里余りを陸行すれば太宰府なんだが。
短里なんてないけどな >>97
>短里で伊都(糸島市)から残り千里余りを陸行すれば太宰府なんだが。
「水行」さんのことも忘れないで上げてください! >>99、>>100
>残り千里余りを陸行すれば太宰府
短里なんて言い出すから、大宰府まで1月もかかるとかいうバカな話になる そこは1日の誤り。
魏志倭人伝で唯一の書き間違い。 >>103
>そこは1日の誤り。
>魏志倭人伝で唯一の書き間違い。
本当に都合がいいな、おいww
その前に、伊都国は糸島平野でいいんだろ?
だったら、末慮国をどこにおいても、どうやっても
「東南」陸行にはならないぞ
月が日の間違いで、たった一つの唯一の間違いって言っても、
実際他にも、現実に合わない部分がある
投馬国はどこなんだい?
卑弥呼の墓はどれ? 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。 関係ないから、
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ
卑弥呼(後に何という名前になるの?例えば名字)
というのは、どこに住んでいるの? 例えば
戦国時代の武将などがいるでしょ、
某氏の末裔
いま(現在)どこに住んでいるの?
みたいな話
その人(家の末裔)の談こそが真実、
家の系図、偽造、嘘などを付いていなければの話 呟きが畿内説の荒らしであることがよくわかるレスでした。 >>108
>考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
と言いながら、倭国に相応しい弥生集落遺跡群が博多湾沿岸に無いという落ち。 @阿波 考古学は遺蹟から検証するしか
ないんだろうけど、実際どの時代においても
人が生活しやすい場所は共通するだろうし、
たとえば邪馬台国の都があった場所に
ずっと人が住み続けてるとしたら
今はどこかの大都市な訳で、
遺跡も破壊というか
後世の開発されてたら何にもない
というか発掘できないなと
素人の俺が思うにその辺はどうしてるんですか?
素朴な疑問です。 九州説スレで聞いても誰もまともに答えられんと思うが >>113
福岡のことですね、わかります。
奈良のように、もともと交通の弁が悪かったので今では寂れているので200回も掘ったけど、めぼしいものが何も出なかった纒向遺跡のような例もありますが。 >>113
>たとえば邪馬台国の都があった場所に
>ずっと人が住み続けてるとしたら
>今はどこかの大都市な訳で、
今でもずっと邪馬台国のあったところで住み続けているけれど
奈良へ遷都したからね。 だから、残念ながら大都市じゃない。
もっとも、奈良も京都も遷都したから今は大都市じゃないでしょ。 @阿波 しかしまあ、本命とも言える平原遺跡がちゃんと発見できたのは運が良かった。
他の王墓の中には、須玖岡本遺跡のように宅地開発に飲み込まれたものとかもあるからね。 博多遺跡群や比恵、那珂遺跡群も
ものすごい出土量ですね。
弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡なので
出土遺物は万を超えます。
それでもほとんどはまだ埋設保存のままだとか。 建設工事の基礎を作る部分だけ発掘し
それ以外はそのまままた土をかぶせて
舗装したそうです。 >>118
>考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
と言いながら、倭国に相応しい弥生集落遺跡群が博多湾沿岸に無いという落ち。 @阿波 博多は奴国です
これは確定してます
今後博多からどんなに凄いものが出土しても、そこは奴国であって邪馬台国ではありません 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>123
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。 @阿波 >>121
七万戸の国邑が国内にない以上、邪馬台国は複数の国邑を含む地域の総称だよ。 >>125
>七万戸の国邑が国内にない以上、邪馬台国は複数の国邑を含む地域の総称だよ。
そうだね。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 >>125
その通り
でも邪馬台国の中に伊都国や奴国があるとかいうトンデモはなし その通り
鉄器の普及していない毛人地域が邪馬台国に含まれるというトンデモはなし 日本の国が鉄器が普及してなかった奈良から統一されたことを知らないやついるのかよ
小学校で習ったはずなんだが 日本の国が鉄器が普及した後の奈良から統一されたことを知らないやついるのかよ
小学校で習ったはずなんだが 記紀を読んだか?
筑紫から大和に鉄鏃の弓矢を持ち込んだんだよ(天羽羽矢)。 >>135
ヤマト王権は3世紀前半には誕生している
教科書くらい読め >>137
3世紀前半の畿内に何かあったか?
しょぼい遺跡があっても、邪馬台国とは関係ないぞ? だいたい、カタカナ言葉を持ち出すときは、詐欺に気をつけないといけない。
言葉巧みに嘘を捻じ曲げて通そうとしている時だ。 だれかが下記のようにおっしゃってたな
これこそ、2〜3世紀九州の原国家・原勢力地図だったのだろう。
ここから倭人伝の世界は始まった。言い換えれば、日本神話は始まったのだ。
伊邪那岐 →伊都・邪馬台・奴(那)・岐(壱岐)、
伊邪那美 →同上+不彌(美) とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
JBD 九州説の人は、こういう九州説スレで議論すればいいのに
めちゃくちゃ過疎ってるけどさ 奴国は博多湾側と有明海側と二つの国が合併したか分裂したのだろう。
全盛期には玄界灘と有明海を支配していたのだろうが、
魏志倭人伝の邪馬台国には有明海側の奴国(筑後)が出ている。 帥升王の氾濫によって、奴国は博多湾側と有明海側と二つの国に分裂したのだろう。
全盛期には玄界灘と有明海を支配していたのだろうが、
魏志倭人伝には有明海側の奴国(肥前 女王國を構成する国)
と博多湾側の奴国(筑前 其余傍国である1世紀の倭奴国)が出ている。 博多湾側の国が筑紫、有明海側の国が肥国ですね。
後漢書では博多湾の奴国が倭国の最南端ですが、魏志倭人伝では南側に肥国の狗奴国(熊本)が登場するので、倭国が拡大しています。
その混乱が倭国大乱でしょう。
筑紫の天孫族がいなくなった後に卑弥呼政権が樹立されるので、卑弥呼は肥国の出身でしょう。 >>153
>博多湾側の国が筑紫、有明海側の国が肥国ですね。
そのように考えると、
1〜3世紀ころの激動する倭国の模様が時系列的に読み取れるような気がする。
そして、新興の卑弥呼・肥国勢力は、魏王朝の誰かと何らかのえにしで結ばれていたの
ではないか
であればこそ「親魏倭王」として、優遇されたのであろう。?? 魏ではないでしょう。
魏は卑弥呼王権の正統性を当初は疑っていたように見える。
可能性があるとしたら、呉など南方でしょう。
そもそも倭人は後の末裔を名乗っていたこともあるし、北方民族(扶余、百済)と関係していた筑紫に対して、呉を起源とする肥国が勢力争いしていたら?
筑紫王権の末裔である天皇家の史書から、卑弥呼を含む肥国王家が抹消されたと考えるのは自然なことです。
さらに、伊都に行き倭国全体の女王となった卑弥呼と、肥後熊本にいた卑弥弓呼が「素より不和」というのは、もともと同じ一族で家督争いをしたからでしょう。
倭国大乱の複雑な構造が見えてきますね。 卑弥呼の次の女王である壹與が肥前河上神社の淀姫なら、筑紫と肥国の両方を統合する女王だったでしょう。
さらに次の女王であった神夏磯姫は、景行天皇の協力を得て豊国も平定しています。
その後に神功皇后と愛人の武内宿禰が、肥国の田湯津姫、豊国の仲哀とその息子たち、筑紫の羽白熊鷲を倒して、九州北部を再統一して応神朝が成立したのです。 話題にする人は少ないようだが、
卑弥呼時代の倭国は、帯方郡との関係でとらえる必要を感じる
そおそも魏代の倭人伝は、帯方郡治下の東夷倭国を描いているのだからね その通りです。
楽浪帯方の土器が出ない地域(例えば纒向)は邪馬台国ではありません。
考古学的にも邪馬台国は九州で間違いありません。 >>158
>考古学的にも邪馬台国は九州で間違いありません。
考古学(集落遺跡群)的にも邪馬台国は九州でありません。 @阿波 遼東・公孫氏の歴史・・・帯方郡を置いて韓・倭を支配
189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命され、朝鮮半島の北端である楽浪郡や、山東半島まで勢力を伸張した。
204年には、嫡子の公孫康が楽浪郡の南に「帯方郡」を設置し、韓や倭を勢力下に置くに至る(『魏志韓伝』)。
半独立を果たした公孫氏一族も、曹操により再び後漢の勢力が強まったため、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。後継には弟の公孫恭が立った。
228年には公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。
当時は後漢が崩壊し、魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていた。公孫淵は隣接する魏に臣従を装いながら、一方では呉と密かに同盟・独立を謀っていた。
236年、公孫淵は魏に反旗を翻して、燕王を称し、翌年には、魏との軍事衝突となった。公孫淵は一度は魏の幽州刺史の軍勢を退けた。
しかし238年、太尉司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲されて降伏し、消滅した。 倭国における卑弥呼の共立は、
新たに帯方郡を開いた公孫康の、初仕事であり、
倭国における傀儡政権の樹立とでもいうべき政治工作たのではないか、、、 倭国の成立に、大陸や半島を絡めなくてもいいだろ
卑弥呼の共立がきっかけと考えられる祭祀の統一⇒前方後円墳の広範囲の築造開始からみて、
前方後円墳が倭国オリジナルである以上、帯方郡の傀儡とかは考えなくていいよ >卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
卑弥呼の墓は「冢」であり、「冢」とは韓伝統のとんがりぼうしのごとき素朴な住居のことである。
数々の副施設を伴う華麗な「墳」ではない。
さらに、形状が複雑進化して大和で発展した大規模前方後円墳でも、もちろんない。
なお殉葬は、古来、東夷族の風習であったという。
、 >>162
帯方郡との関係なくして説明できるわけがない。
畿内はまだ3世紀には半島や大陸との密な交流がなく、邪馬台国とは関係ない地域だよ。 倭人伝中の「邪馬台国」は1か所だけだ。
しかし、「郡」および「郡関係者」の登場は10か所〜もある。
これは、明らかに郡と倭国の関係を事細かく記述し、後世に残そうとしたものなのである。
・在帯方東南大海之中、
・従郡至倭、
・自郡至女王国万二千余里。
・詣郡、求詣天子朝献
・帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、
・装封付帯方太守假授。
・正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国
・其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
・其八年、太守王頎到官。
・烏越等詣郡説相攻擊状 >>165
>これは、明らかに郡と倭国の関係を事細かく記述し、後世に残そうとしたものなのである。
おいおい、魏志倭人伝って書かれることが多いけれど、三国志魏書(魏志)の一部であって、
三国志は大陸の正史だ
大陸の出先(帯方郡)や、大陸の役人のことが書いてあるのが当然
何を寝ぼけたことを言ってるんだかw
それに邪馬台国は1ヶ所だが、女王、女王国、倭国はいっぱい書いてあるじゃないか >>166
そのとおりだ
その当然なことを、読みも理解もしないで、
あーだ、こーだ、帯方郡は関係ない・・・、などという輩が少なくないからなww
ひでーのになると、倭人伝は、記紀・風土記と共に、大和朝廷が編纂監修したみたいに思ってるトンカチがいるし・・・。 ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。
そうでないのが、畿内だ、大和だ、桜井だ、アワワ・・・、
などと喚き散らすのだろう。 >>168
>ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。
ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから倭国(阿波)になるわな。
なんせ、「カネガ谷遺跡」
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。
特に、注目される遺物として朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した。
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%CC%C4%CC%E7%BB%D4%2F%A5%AB%A5%CD%A5%AC%C3%AB%B0%E4%C0%D7
なんで辺鄙でど田舎の阿波に「朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した」んだろうね??? @阿波 >>168
>ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。
なんで辺鄙でど田舎の阿波に大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を大々的に実施し、中国鏡・中国産朱も渡来しているんだろうね??? @阿波 >>168
>ま、帯方郡との関係性を直視・重視すれば、自ずから九州説になるわな。
ならないけどねw
漢土の辺境が帯方郡ってだけで、その先の記述をするのに帯方郡が起点になっているだけ
水行の起点は帯方郡じゃないよw おい、アワワ
その程度のものは、九州にはなんぼでもある、鉄斧もだ。
調査の手が回りかねて、手つかず、あるいは埋め戻した十数ヘクタール規模の遺跡まである。 >>172
>おい、アワワ
>その程度のものは、九州にはなんぼでもある、鉄斧もだ。
じゃ、こんな遺跡は九州のどこにあるのかな? 不思議と、辺鄙でど田舎の阿波にはあるんだけど。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 おい、アワワ
読売新聞のオンラインニュースかなんかで読んだわ
大字田舎字辺鄙にしては、良くできとる
まさに、帯方郡の政治軍事経済支援を受けた邪馬台国文化が、じわじわ東進した証じゃろうな >>174
>まさに、帯方郡の政治軍事経済支援を受けた邪馬台国文化が、じわじわ東進した証じゃろうな
倭国(阿波)に邪馬台国文化が、じわじわ東進したときには、まさに北部九州は廃れた只の経由地だったとさ。 @阿波 おい、あわわ
阿波ですごい遺跡が出たということは、
九州邪馬台国説にとっては、まことにありがたいことだ。
天気と文化は、西から東へ、ニギハヤヒも神武も西から東へ・・・、
その道すがらのどこかに邪馬台国があったことは間違いない。
これからは、阿波にも敬意を表しつつ、カキコすることにしよう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています