邪馬台国畿内説 Part500
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邪馬台国畿内説のスレです。
※前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1511633822/l50
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
他説も歓迎です カキコミは自由に語ってください
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なお個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい
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できれば前スレを埋めてから書き込んでください。 邪馬台国は、畿内説、九州説どちらが有力なんですか。
畿内説、九州説、出雲説?関東説、北陸説?、東北説などもあるようです。
関東説、北陸説、東北説は、あまり唱えている人は少ないようです。
オラが町から、という気持ちもあるのでしょうか。
畿内説と九州説のどちらかに絞られるのでしょうか。
三角縁神獣鏡などの銅鏡が沢山出土したりしている地域が可能性が高いのでしょうか。
確か、宮崎の西都周辺も銅鏡が沢山出土しているようですが。
畿内には、三角縁神獣鏡は沢山出土しています。
封泥という、中国からの贈り物を封じた泥の封印が出てくれば、そこが邪馬台国であるといえる大きな材料になるのですか。 >>4
前スレがPart333なのに、どうしてここは500なんですか? >>9
おまえキウスだろ?
ということは荒らしてる本人じゃないか。
言うに事欠いて畿内説側のせいにするナスリツケか。 >5
魏の使者が、船で、今のソウル近くの帯方郡から→沿岸を南へ少し東へ→対馬→壱岐→松浦半島→伊都(糸島半島)まで、細かくかつ正確に行程を記述しているのに、さぁそこから先の行程が途端にわけが分からなくなる、ということはどういうことなのか。
つまり、それは、伊都まで記述して示せば、もうそこから先は何も言わなくても卑弥呼女王の邪馬台国の都の場所は明らかだったから、ではないのでしょうか。伊都まで来れば、もう邪馬台国の中心部のすぐそばだったから、もうそこから先の行程は言う必要もなかった、のでは。
とするならば、邪馬台国の卑弥呼女王の都(王宮)の場所は、伊都から少し先の福岡市の南隣の「春日市」の須玖岡本遺跡のあたりではないでしょうか。「春日」とは天照大御神の別名と言われます。 >>14
でたらめ やり直し
水行 陸行 どうすんだよ >>15
水行や陸行は
各説 説明がつかないでしょ
方位、日数、1万2千里
不弥国まで1万里でしょ
つまり、それは、伊都まで記述して示せば、もうそこから先は何も言わなくても卑弥呼女王の邪馬台国の都の場所は明らかだったから
だから >>19
ニセでもなんでも構わないよ
まともに議論出来れば
ところで君は何説支持? >>17
大平洋ルートで畿内なら説明つく
不弥国から南で投馬国(宮崎)
投馬国から南に向かい黒潮で南紀
南紀から陸行で畿内邪馬台国
水行(特に黒潮)は距離にするには測定不能故1万2千里に入れない >>21
議論の場を選ぶほど私は偉くないので
あなたが嫌ならあなたがこなくていいのでは >>23
ニセスレを盛り立てたい人か
そうかそうか 三角縁神獣鏡について
畿内説が最近トーンダウンしているのは何故 本スレを荒らす奴
ニセスレを擁護する奴
連携とれてるなー >>25
嘘を垂れ流すな トーンダウンしてない
立派な根拠として確立してるからね
内行花文八葉鏡よりずっと説得力がある三角縁神獣鏡 >>29
正義の押し付け?
貫きたいなら裁判でもしたらいかがか
正義感が強いんでしょ
5ちゃんで叫んでも正義は貫けないよ
そんなちっぽけな正義何て捨てた方が良いよ 三角縁神獣鏡なんか
日本に掃いて捨てるほどある 国産 >>34
ワリーナ
九州じゃ掃いても捨てるほど出てないな >>33
あんたが不正の仲間と判ればいいんじゃない? 邪馬台国= 畿内 で、弥生時代から繁栄していたのを日向(現在の宮崎)出身の大勢力の首領、神武天皇(あるいはそのモデルとなった不特定多数の人物)が東征を行い、邪馬台国を乗っ取り。
って認識なんだけどどう? >>37
正気じゃないね 九州が玄関口なら▲少ない
>>38
東征は記紀頼み
出雲経由で畿内は可能ですよ 福岡は三角縁以外にもたくさん出るからね。
銅器全般だと奈良の6倍ほど。 邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 九州は✖
1、九州には、径百余歩(150メートル)とされる卑弥呼の墓に匹敵する規模の墓がない
2、皇帝からの贈り物は、内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡やらなんやらを、とりまぜてバラバラに贈ることはない。三角縁神獣鏡のように統一して贈り物とした。
3、「混一彊歴代国都乃図」の地図は日本を南北に描いており、九州が上で本州が下(南)になっている。当時の中国人は九州から「南する」と大和と考えていた 。 九州は✖ 長文になったので分断
4、使者が日本に上陸後、不弥国から投馬国までが「水行二十日」、投馬国から邪馬台国までが「水行十日、陸行一月」とある。
これだけの日数がかかる場所は、九州域内に求めるのは無理。
南の方向へ進めば、遠く南方海上にまで行ってしまうので 方向を修正して、大和に向かうと考えるのが妥当である。 5、当時の北部九州の人口はそれほど多いものではない。
九州説では、北部九州の全人口の半分を、邪馬台国の人口が占めることになってしまう。
九州地方には3世紀当時7万戸を擁するような場所はない。
山門郡にしても宇佐にしても狭小な所で、とても邪馬台国があったところとは認めがたい。 6、記紀の神話は、6世紀ごろに、天皇家の由緒を権威づけるために創作されたもので、
歴史的事実を含んでいない(津田左右吉)。
記紀を頼りに歴史を描こうとするのは無意味である。 7、九州には考古学上の遺跡が少ない。特に三種の神器の一つである鏡は近畿地方から多く出土し、
九州からの出土は少ない。卑弥呼は、魏から銅鏡100枚をもらったとあるが、その多くは大和を中心に広く分布したものと見るべきである。
それ故に、同範鏡(同じ鋳型から作られた兄弟鏡)が近畿の各地から出るのであって、
邪馬台国が九州なら、九州からもっと鏡が出土するはずである。(小林行雄) 8、反政治・反政府・反東京・反独占資本の気風が、現在の九州説の背景を為している。
現在の政治への批判が、古代の政治の中心が終始畿内にあったとする歴史観の批判という屈折した形をとって現れているのが九州説である。
九州説の論者には案外保守的な人が多い。簡単に九州説を神武天皇の東征に結びつけ、天皇中心の記紀史観から一歩も抜け出ていない学説が目に付く。(直木孝次郎)
参考 http://yamatai.cside.com/tousennsetu/ky-hanron.htm >>47
だらだらすんな
暇が無いから
先ず
>1、九州には、径百余歩(150メートル)とされる卑弥呼の墓に匹敵する規模の墓がない <
卑弥呼の墓が直径150メートルの根拠は無いし、箸墓は円墳では無い 畿内説はどこで間違ったか?
この内省なきままでは何も前に進まない >>47の2
>2、皇帝からの贈り物は、内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡やらなんやらを、
とりまぜてバラバラに贈ることはない。三角縁神獣鏡のように統一して贈り物とした。<
三角縁神獣鏡の出土地もバラバラ、枚数が多すぎ、中國の学者も「これは中国の物でないと」言ってる >>58
むつかしい質問だな
現状
急ぎ過ぎた感はある
慎重さを欠けた面は認める >>47
>3、「混一彊歴代国都乃図」
これ時代錯誤だよ 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力、阿波、宮崎や遠賀川の石神など、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。 九州暴れてるようだが
伊都国は邪馬台国では無いのだよ
F先生は距離を全く無視だよな
ブーメランの行程論は✖ >>63
OK
伊都国が倭人伝に記された理由もわからん九州説
伊都国≠邪馬台国 >>41
じゃあ何で天孫降臨の地が宮崎なの?巨大勢力のあった出雲や畿内と比べれば言ってしまえばど辺境である宮崎に天孫が降臨したって記されてるのはそういう事実があったからとしか思えない。 海幸山幸は隼人族とヤマト族(ここでは神武天皇、あるいはそのモデルになった不特定多数の人物の所属する部族としての使用)の服属の話という説がある上、隼人が天皇家の近習を務めたり隼人舞が奉納されてた記録があるあたり天皇家は日向に縁のある一族なのは確定的だろ。 >>65
天孫族は不明
東征としたら九州邪馬台国で無く、その亜流か次期政権の九州勢力
宮崎なら邪馬台国の亜流勢力が東征です
日向は地は重要拠点に間違いないでしょう
四国・本州へ渡る拠点となります
私見ですが、出雲と九州と渡来人の連合体がヤマト王権を築いたと思います
寝支度しますので、またいずれ >>66
海幸山幸
神話の世界だが神話も突如創作していないから根拠があるんだろうな
その根拠を明確にしなければ考古学では無い 記紀は危機
現体制下では記紀の清濁を論じられないな
現憲法の天皇はそれなりにわかるが
深入りする歴史を論ずることはできないな 応神が生まれて喜ぶのはスクナヒコナ。
戦後の籠神社の宮司の話によると、籠神社には隠してある主祭神があるとか。同じく出雲大神宮の祭神の中央は空位とのこと。
火明命でもなく大国主でもない主祭神。
クナトの大神だろうと言われている。
クナトの大神、スクナヒコナのことかな。 九州は倭国の玄関
奥の院は畿内邪馬台国で決まり
奥の院は武装は必用ないので鉄器なんて必要ない
纏向 平和な地が王都
全国の物流の地、祭事を行った地は纏向以外の候補地なし >>65
天孫降臨は筑紫の日向、すなわち伊都国や奴国のあたり。
紀元前からずっとここに三種の神器を持つ王墓が作られていた。
その一つが平原遺跡。
ここが卑弥呼のいた倭国の王都。 海幸山幸は倭国の邇邇芸王家の伝承。
山幸の本名は彦火火出見であり、筑紫の日向の高祖宮(高千穂宮)の祭神。
日向三代が卑弥呼の前の男王達であり、伊都国王家。 >>69
南洋には秘録「釣針喪失談」という海幸山幸と同じ構成のストーリーの神話が分布している。
そして隼人族は南洋系であり、この話は隼人族に伝わっていたの考えるのは必定。神話の方に話を戻すと山幸に服属した兄、海幸は阿多隼人の君の先祖と史料に記されている。つまり天皇家と阿多隼人は親戚。
天皇家の近習を務め、官位に隼人の名が残っているあたり南洋系の隼人と天皇家はかなり近い関係にあった。 天孫降臨の道中にサルタヒコに出会うんだろ。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
畿内から博多湾に降臨したんだろうな。
高天原は何処かだな。
何処か分からないが、なにわかもしれないぞ。 九州には、筑紫、肥国、豊国、熊襲の4つの国しかなかったとされています。
今の宮崎県が日向の国と命名されたのは、景行天皇の時です。
それ以前の、伊奘諾が禊をしたり、邇邇芸が豊葦原中国の王となった筑紫の日向とは、博多湾沿岸のことです。
考古学的にはここに三種の神器を持つ弥生王墓が集中するのです。
稲作文明伝来の地、大陸や半島との交渉に最適で、帯方楽浪から一万二千里、金印により倭王が冊封された倭国の中心地です。
女王卑弥呼の時、魏からの使いはここを目指してやってきました。 天武系は磐余系神武系だろうが、最終的に自滅したからね。
天武と天智天皇は全く別の血筋だろうし。
大津皇子が天武の子かどうかも怪しい。
大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。 猿田彦は博多湾沿岸の陸海を治めていた将軍。
猿田彦の導きで天孫邇邇芸は志賀島に上陸し、天橋立(海ノ中道)を渡り、福岡平野を横切って高祖山において即位しました。
邇邇芸の国読みの詔は、ここは東西がひらけて朝日がよくあたり(東は福岡平野)夕日も照り(西は糸島平野)、韓国にまっすぐ道が通っている(博多湾は対馬海峡に面している)、良い国であると。
邇邇芸の持っていたとされる神宝が、高祖山の麓の平原遺跡から出土した八咫の鏡。
糸島平野の三雲南小路遺跡は倭王と王妃の墓だが、そこを祭る細石神社の祭神が木花佐久夜毘売であることから、この遺跡が天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売の墓であると推測される。
邇邇芸から始まる日向三代が倭奴国の名前で後漢から倭王に冊封され、漢委奴国王印を授かった。
この金印は江戸時代まで、細石神社が保管していたと言われる。 聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
壬申の乱で天武に敗れたなにわは、奈良時代は寂れていたんだね。
この歌からは、芦原中津國、食国であるのが伺える。
もう一つのなにわの枕詞。
葦が散る
かつては大坂城の地にあった生國魂神社の謂れ。
神武東征の折に、生島神と足島神を鎮魂したとある。なにわは倭国大乱でも敗れたんだな。 卑弥呼の即位前夜の倭国大乱において、天孫族は伊都国(筑紫の日向)を出て、東征した。
それ以後の卑弥呼政権については、天孫族の歴史書である記紀には記述がない。
欠史八代に記録が乏しいのは、倭王ではなかったから。
崇神天皇を畿内に迎えたのち、天孫族が筑紫の倭王に返り咲くのは景行天皇の時。
ただし魏志倭人伝に天孫族の痕跡は残されており、それが伊都国の官である禰宜である。
おそらく邇邇芸の末裔であり、神武らについて行かなかった天孫族の一部である。 八十島祭は興味深い。
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 南海に広く分布する「釣針喪失談」が天皇家の先祖の逸話として残り、天皇家の親戚を自称した隼人は南洋系 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 隼人と天孫族には密接な繋がりが認められ、 隼人と天孫族は近隣に友好的、敵対的な関係で存在した。 南海に広く分布する「釣針喪失談」が天皇家の先祖の逸話として残り、天皇家の親戚を自称した隼人は南洋系である=隼人と天孫族には密接な繋がりが認められ、 隼人と天孫族は近隣に友好的、敵対的な関係で存在した。 >>87
そして隼人の勢力範囲である鹿児島近隣で天孫降臨の逸話の残る日向・宮崎が天孫降臨、天孫族の住地であったのは疑いようがない。 邇邇芸や山幸(彦火火出見)らが王都としていた筑紫の日向は、魏志倭人伝の伊都国のこと。
高祖宮は、筑紫伊都の防衛の要である高祖山日向峠に設けられた山城である高祖城のこと。
山城であるがゆえ、記紀においては高千穂宮と呼ばれた。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた渡来人系の出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、縄文人のオオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸。
https://goo.gl/HVTW1n 同じ紀元前後の時代。
渡来人系の丹後半島の王族ヤマタノオロチ族。
丹後半島に侵攻したカグツチ(ホアカリ系、記紀でいうスサノオ)に王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びる。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた大阪湾の渡来人に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。 畿内に逃れてきた出雲の王族サルタヒコ一族、丹後半島のヤマタノオロチ族、環大阪湾にいたイザナギ(クナト)一派が、1世紀半ば近畿一円に国を作る。
クナ。クニの語源。対外的には倭国。
二世紀半ば〜倭国大乱で、縄文人に滅ぼされた国。
出雲族の姫、幸神と、イザナギ(クナト)一派の彦、クナトの神の子がサルタヒコ。
出雲族とイザナギ一派の同盟の証。
サルタヒコは暦の神。一年に一回伊勢遺跡で暦を作り首長達に伝えていたんだな。
サルタヒコは、月夜見にして大国主、卑弥弓呼。
イザナギ(クナト)一派の王が、スクナヒコナ。 サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、卑弥弓呼。日見彦。暦の一子相伝者。
倭国大乱で殺されて、日本列島から暦が無くなる。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北が浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。 宮崎県にあったのは天孫族の分家があった投馬国。
その中心は西都市妻の都萬神社。
官のミミ、ミミナリは、九州の権力者によく見られる称号である。
神武の息子らも耳とつくが、これは神武が九州の出身であるからである。 大中臣氏の歌
たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9)
【通釈】鶴の棲む沢辺の蘆の地下の根に張っていた氷が解け、汀(みぎわ)がいっせいに芽吹く春はやって来たのだ。
平安時代、汀(上町台地〜泉北丘陵)に春がやってきた。桓武天皇で天智系に戻ったからかな。 九州北部のね、イザナギ系の勢力住吉三神など。
2世紀後半の倭国大乱で遠賀川上流の石器を作っていた縄文系勢力(カグツチの血、石筒之男)やと、西瀬戸内海の海賊などに征伐されたんだな。
伊都国もイザナギ系なんだけど、
伊都国は漢に冊封され、又各国使者の目もあったために滅亡だけは免れた。
平原辺りに追いやられ、実権は奪われながらも存続。
代わりに博多には一大卒が置かれたんだな。九州北部統治の為の兵の駐屯地。 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力、阿波、宮崎や遠賀川の石神など、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。
更に四道将軍で関東東北の先住民を征伐したのもこれらの勢力です。 魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川に見られる。
生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。
焼畑と何か関係あるのかな。
焼畑の遺跡の分布も気になるところ。
古い海神。BC1000年頃水稲栽培をもたらした勢力か?陶塤と関係あるのかな。 陶塤は、宗像以東、周防出雲丹後半島など日本海側中心に分布。
水稲栽培が伝わった時期、緯度を考えると殷からの難民がもたらしたのか。
殷に纏わるもの、亀ト、河伯信仰、生贄など。
カミイクスビ、イノヒメ
クマノクスビ
クスビは奇し火かな。
クマは篭った、奥まったという意味か。
イノクマ、生馬、生駒、伊熊、猪熊と何か関係あるのか。イン+クマ? 大和朝廷に虐げられていた畿内や九州の渡来人系勢力と関東東北の縄文系勢力が手を結び、初期の大和朝廷の中心勢力は、神功皇后応神住吉明神鹿島明神に倒されるんだぞ。
邪馬台国、大和朝廷側じゃない方がいいぞ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています