邪馬台国畿内説 Part334
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1520609781/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力、阿波、宮崎や遠賀川の石神など、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。 魏志倭人伝には狗奴国は邪馬台国(or女王国)の南とある。
魏志倭人伝当時の狗奴国の版図は、和泉と河内。
狗古智卑狗は河内彦。 魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川に見られる。
生駒は火の神。 生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。 焼畑と何か関係あるのかな。
古い海神。BC1000年頃水稲栽培をもたらした勢力か?陶塤と関係あるのかな。
陶塤は、宗像以東、周防出雲丹後半島など日本海側中心に分布。
水稲栽培が伝わった時期、緯度を考えると殷からの難民がもたらしたのか。
殷(イン、イノ)に纏わるもの、亀ト、河伯信仰、生贄など。
カミイクスビ、イノヒメ
クマノクスビ
クスビは奇し火かな。
イノクマ、生馬、生駒、伊熊、猪熊と何か関係あるのか。 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。
キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。
ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族
サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな 660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm
664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005
668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003 674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm
>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。 331の>>755
>倭の五王のうち、少なくとも倭王武の比定は鉄板で
「畿内に本拠を置き畿内から九州までを包含する政治秩序の中心にいる首長」の
「おおはつせわかたけるのみこと」なのは明確だよな<
大和は、白村江の後まで筑紫の倭国の別種の旧小国であったのであり、
大和の雄略は、倭王武と名前も年代も事績も一致せず、×。
>埼玉の稲荷山古墳の金錯銘鉄剣銘や、熊本の江田船山古墳の銀象嵌鉄刀銘に
「獲加多支鹵大王」と固有名詞が刻まれていて、埼玉から熊本の範囲で
「おおはつせわかたけるのみこと」の勢力圏が存在したのは明確だし
この時期に九州王朝が存在する余地はないな<
稲荷山のは、主葬の横の陪葬者の鉄剣銘文であり、
江田船山のも、陪臣を示す銀象嵌であるから、×。 331の>>756
>洛陽晋墓の内行花文鏡や方格規矩鏡って
伝世品なのがハッキリしてるから 入れたら大 失敗でしょ<
故人の生存中のの愛用物であったんだから、当然魏晋代の鏡であった事になり、
この男も詐欺師。 331の>>763
>>「景初二年六月」が正しい、としか言いようがない、<
>「言いようがない」ww
要するに「根拠」はなくて、言い張るだけだってことだね!<
いや、史料事実のままでよい。
それを間違いだとする大和説者は、・・・・詐欺師だ、という事。 331の>>764
>>洛陽晋墓の関する柳田の鑑定があった、という記憶がありません。<
>洛陽晋墓の鑑定依頼は、日本の学者には来ないだろ? <
それじゃ、柳田鑑定は、不完全な×鑑定であった事になり、没。 331の>>785
>會稽東冶之東に在るということ
>つまり九州ではあり得ない 終了<
「治→冶」は、
高慢な後代史家の范曄の「自己解釈に拠る内容説明的な書き変え」の嘘吐き、
という事で終了。 331の>>786
>>西岸と南岸の「循海岸水行」は、全く不可能であり、
「歴韓國乍南乍東」は陸行でなければ出来ないから、×ね。<
>捏造、乙
水行と明記されているのを陸行だと言い張るのは、本当に人としての理性を疑う<
捏造、乙。
陳寿が、「循海岸水行≒波打ち際的水行」と特記しているのを、「水行」とだけ書いて、
「郡から全水行であった」かのようなインチキ騙しを言い張るこの男らの、
人間としての理性を疑う。 331の>>793
>>「南≠東に拠って×。<
>「大陸の史書が方角を間違うはずがない」という主張は 論理学的に「偽」だ <
日の出日の入りでの東西方向の決め方や、
日時計方式で東西南北の決め方を知っている人類が、「方角を間違うはずだ」
という主張は、
論理学的に「偽」だ。 >>76
>稲荷山のは、主葬の横の陪葬者の鉄剣銘文であり、
なんであれが陪葬なんだ
>江田船山のも、陪臣を示す銀象嵌であるから
銀象嵌だと、なんで陪臣なんだ? >>77
>故人の生存中のの愛用物であったんだから
なんで故人の生存中の愛用物なんだ?
いつものようにzarakokuが
なんとなーくそう思って
「決まってる」と決めたのか? >>79
>それじゃ、柳田鑑定は、不完全な×鑑定であった事になり
なんで柳田の判断が不完全だってことになるんだ?
理由は? >それとズビニ鉤虫とバルディビア土器を鑑みて縄文人南米入植説が有力なんだよ
バルディビア遺跡
エクアドル中部海岸にある初期採集漁労民文化の遺跡 (前 3000〜2400頃) 。
ここから発見された粗製の土器はアンデス文明最古の一つに数えられ,
また日本の縄文土器との類似性が指摘されているが,
直接の関係については疑問視する見解が強い。 ブリタニカ国際大百科事典
ズビニ鉤虫の分布はインド、中国、日本、地中海地方
主に幼虫の付着した野菜等を介した経口感染 331の>>815
>萬二千里は「女王国」までのざっくりした距離
もともとが、東方之極までの観念的な距離だから、その世界の東の果ての
近くにある「女王国=倭国」までの距離の符牒だよ<
そんなことは誰も言っていない 。
皇帝の命令に実行した魏使らの実地の計測記録である。
この・・・・男は、またまた、捏造乙。 331の>>816
>>那珂八幡古墳は、晋代であるので、魏の薄葬令の強制力が半減していた。<
>ザラコクが卑弥呼の墓候補に推していた祇園山古墳だって、魏武帝の墓と
同等の大きさがあるぞ? <
同じ大きさではないから、×。 >>81
「循海岸水行」が、なんで「波打ち際的水行」とやらになるんだ?
>「水行」とだけ書いて、 「郡から全水行であった」かのようなインチキ騙しを
なにを言っているのか意味がわからない
「従郡至倭」と描き始めて「循海岸水行」とあれば、郡から水行だろう
その後、狗邪韓国に到るでの間、陸行に変わったような記述は無い
「歴韓國乍南乍東」は陸行ではなくて、水行だ >>82
>日の出日の入りでの東西方向の決め方や、
>日時計方式で東西南北の決め方を知っている人類が、「方角を間違うはずだ」
>という主張は、
誰がそんな変な主張をしたんだ?
日の出日の入りでの東西方向の決め方や、
日時計方式で東西南北の決め方を知っていようが、いまいが
人類は「方角を間違うことがある」
という主張なら、皆がしているが >>87
>皇帝の命令に実行した魏使らの実地の計測記録である。
日本語がおかしい
皇帝がなにを命令した?
魏使らが実地の計測記録を付けたという根拠は? >>88
同じ大きさではないと
一体なにが否定できるんだ?
論理がないぞ 331の>>819
>>しかも、墳裾の62個の殉葬墓が露出していなかった位であるから、<
>前にザラコクが提示していた、宝賀寿男氏のウェブページの論考にも
公式報告書の引用として、
「同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること、」
って書いてあるのに、「露出していなかった」もなにももないだろうに<
墳頂の箱式石棺が盗掘されているんだから、墳裾の殉葬墓が全部露出していたら、
当然盗掘されてしまうだろうに。
だから、墳裾の殉葬墓の「上面カット」とは、完全カットではなかったのであり、
単に、殉葬墓群の上面を出来るだけ平らな面にするためのカットであった、
という事だよ。
それを発掘報告者は、おそらく「地山削り」とか「段築」とかの間違い判断をしたんだよ。 331の>>820
>「経由」しているんだから 「都斯麻國」を通ってる <
寄港上陸していたら、隋使や隋書は「至」とはっきり書き分けているから、
「經」で書かれたら、寄港上陸していない。 西暦240年も隋の時代も都は変わらない
隋書?国伝
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
夷人は里数を知らない。
ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
地勢は東が高く西が低い。
邪靡堆を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。 >>86
残念でした、大間違い
「ズビニ鉤虫はヨーロッパ、地中海周 辺、南米西岸、北インド、中国北部、日本など温帯地方や高地に多く、(以下略)」
平成22年度『食品により媒介される感染症等に関する文献調査報告書』(内閣府食品安全委員会)
>>94
漢文は同じ文字の連続を嫌い同義語を振り分けて使うことが多い
「はっきり書き分けている」という根拠はない
もちろん「経」に寄港上陸していないという意味もない ズビニ鉤虫か いよいよ取り上げるものがなくなったな 331の>>829
>唐津の遺跡なら古くは唐津駅付近の潟港であって、西唐津にある現在の唐津港はなにも無い
卑弥呼の時代には潟港が埋まって使えなくなっていて、唐津駅あたりの遺跡も廃絶した
中心的な遺跡は松浦川の奥の方、いまの競艇場より南に移動している<
菜畑があって、現在まで現唐津市街が存在している、という事は、
現唐津市街が存続していた、という事。
おそらく、市街地であるから、遺跡の発掘が困難であったんだろう。 他人への罵詈雑言がテンプレと一体化している。
悪意に満ちたスレだな。 分布や感染経路からしてズビニ鉤虫というのは
縄文人南米入植説の根拠にはならないね
エヴァンス、メガーズ教授の65年の説は日本でもまったく指示されてない 331の>>849
>尚、狗奴国は戸数の記載が無いのは、アルプス山脈で隔絶された女王以南(つまり東日本)だからであろう。
「女王以南」が南九州の事なら、遠絶などという表現を使うはずが無い。
四国も中国地方もすぐ近くなのだから。<
「南≠東」に拠って、始めから×。 331の>>854
>「唐津の遺跡なら古くは唐津駅付近の潟港であって、西唐津にある現在の唐津港はなにも無い」
のだから、ザラコクの言い分を認めて海岸沿いの出発方向としても「東南にはならない」<
西唐津駅付近も唐津駅付近も、古代からの市街地が繋がっている事になり、
どちらでも、東南方向に出発になるよ。 >>103
九州王朝などない
拠って、始めから×。 >>100
妄想で文献や考古学を否定するのが九州説か・・・
w >>104
西唐津駅付近が、古代からの市街地が繋がっている
なんて根拠はなにもない
ただの妄想
それが九州説 >>101
他人への罵詈雑言なんかテンプレにひとことも書いてないぞ。
悪意に満ちたウソだな。 >>103
「南≠東」は論証されていない
拠って、始めから×。 九州説は自分たちが馬鹿にされたり嫌われたりで当然な、悪いことばかりしてる現実を見ろよ >>104
西唐津駅付近に古代の市街地などない
拠って、始めから× ズビニ鉤虫が日本固有ならともかく
エクアドルへのズビニ鉤虫の侵入年代も、侵入経路も未解明な状態で
よくもまあ、縄文人到着説とか言えるものだ 現地を調べるどころか地図も見なかった古田が
ウッカリ現代の唐津港を魏使の上陸地点だと思い込んじゃっただけだろ >>76
3世紀以降筑紫の倭国などない
拠って始めから× >>77
故人の生前の愛用物だと論証されていない
拠って始めから× >>79
不完全な×鑑定などない
拠って始めから× >>80
「自己解釈に拠る内容説明的な書き変え」などない
拠って始めから× >>81
「循海岸水行≒波打ち際的水行」などという解釈はない
拠って始めから× >>87
実地の計測記録などは論証されていない
拠って始めから× >>94
>寄港上陸していたら、隋使や隋書は「至」とはっきり書き分けて
そんな事実はない
拠って始めから× >>100
>現唐津市街が存続していた
そんな事実はない
拠って始めから× >>103
「南≠東」は論証されていない
拠って始めから× 現唐津市街が弥生時代から存続してるってのは・・・
さすがに、なあ・・ 松浦郡の郡衙がどこかとか、考えたこともないんだろうな 331の>>865
>昔のこの手の地図はどれも北海道が記載されていない
中国からあまりに離れているから故意に外したのか、
東南の一年かかる裸国や黒歯国と一致する<
一致しない。 331の>>866
>大陸史書の地理・旅程記事は、基本的に出発点から目的地までの
「直線の方角」+距離で表される(ザラコクのいうところの位置説明)<
位置説明は「起点から方向と距離」でよいが、
旅程説明の人類の原則は「出発説明+途中説明+到着説明」の順。 331の>>866
>(循海岸水行)つか、以下でいう水行は川じゃないってことで明記したんでしょ<
沖合洋上航海なら、「水行」や「渡海」や「船行」という文言を使うのであり、
循海岸水行は、明らかに、そのような沖合洋上航海と区別している。 >>131
そうやって何でも「zarakokuの法則」を発明し続けてるけど・・・
理由が何もないその場の思いつきなんでしょ?
聞けばまた「人類の常識だ」とか言い張るんでしょ?
言い張るだけでは、文字通り話にならない >>133
>沖合洋上航海なら、「水行」や「渡海」や「船行」という文言を使うのであり、
これも、たった今発明した「zarakokuの法則」だよね? 331の>>874
>記録者は正しい方位を書いたのかもしれない。
ただ、編纂者が地図を隣に置いて、方位を書き換えたと考えられるのである。
日本列島を故意に南(下)へ向けて描いているのである。
当て字の卑劣さと言い、蔑んでいるのである。<
陳寿が、女王國や倭人を蔑む理由が全くないから、
この投稿者は、全て、分裂幻覚の妄想であり、×人間。 >>133
ていうかさ、
>「水行」や「渡海」や「船行」という文言を使うのであり、
だから循海岸「水行」という文言を使ってあるのに何がご不満?
しかもそれを「陸行に決まってる」とか言い張ってるし
ザラコクは本当に・・・・だよな >>136
ザラコクが「分裂幻覚の妄想であり」と蔑む理由はない
拠って始めから× 331の>>876
>邪馬台国と書いてヤマト国だから<
「邪馬台国」なんて存在しないから、この投稿子も嘘つき騙しの×人間。 331の>>877
まあ、「邪馬台国」とかヤマト国とか畿内とか天皇とかとか言ってるやつは馬鹿のきわみだな。 ほらね
結局、ザラコクにできるのは罵ることだけなんだよ 331の>>886
>三国志が0.5%くらい間違ってるなら
倭人伝2000字の中で10文字くらい怪しいんだろ<
何種類もある写本版本系統の全体で発生している文字差異であり、
例えば、写本版本系統数が10系統あれば、
一系統の写本版本の間違い文字数は、10分の1になって、
倭人伝2000字の中でなら、1字位怪しい、という事になる。 331の>>888
大和説はいつまで経っても、「尿入り一升瓶」や、、「桐原詐欺師」や、、
半分偽書の記紀頼り。
w >>141
こいつも中傷屋か・・・
まったく九州説ときたら、毎日これかよ >>143
ザラコクさん、またインチキ計算ですか?
もう飽き飽きなんですが >>144
ザラコクさん、また嘘つくんですか?
畿内説の論拠は考古学が中心で、ほとんで記紀を使ってないんですが 邪馬台国はヤマト国ですよ。
色付けしていくには、魏志倭人伝各地の伝承記紀は必要。
そうしないと名無しで中身のない歴史になるからね。 331の>>890
そんな4世紀の箸墓くらいしか卑弥呼の墓に想定できそうな墓すらない時点で、
大和説は終わってるんだよ。 331の>>900
>魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。<
「邪馬台国」なんて存在しない。
>伊支馬は生駒<
「南≠東」に拠って×。 >>144
「尿入り一升瓶」って古田派が使ってる偽書を作るのに使ったって聞いたけどな
桐原って人は安本の仲間でしょ?
どれも畿内説と関係ないのにデマ流さないでほしいな 331の>>901
>伊支馬 をイキマと読んで、イクメイリヒコ=垂仁天皇に当てる説が好き
まあ、好き嫌いのレベルで、特に根拠があるものではないけどね<
大和には天皇はいなかったから、×。 事実は、大阪側は大和朝廷の最初の被害者と言える。(実際は、奈良もそうだが)
でも多くの人が誤解しているんだな。
大和朝廷に加担したと思っている人が多い。
ここのテンプレも邪馬台国畿内説みたいな意地汚い表現を使って、意図的に誤解を広めている。
大和朝廷を作ったのは、畿内以外の勢力、尾張三河など東海、出雲など山陰、吉備、阿波、九州南部、遠賀川の勢力等ですよ。
TVやネット等で大阪ネガティヴキャンペーンが目に余るのは、誤解があるからです。
叩かれるべきは、倭国大乱を引き起こした卑弥呼を共立した勢力のはず。 >>148を書いたのは岡上だな
ナリスマシ常習者は困ったもんだ 奥村が他スレを荒らしているのだが、畿内説の責任でなんとかしろよ。 >>156
また証拠もなく中傷か
これだから九州説は民度が低いと言われるんだよ キウスや岡上に比べるとザラコクがマシに見えてくる不思議 >>156
「奥村が他スレを荒らしている」ってのはお前の妄想だけど
お前がこのスレ荒らしたのは現実だから
それ、忘れんなよ >>152
>大和には天皇はいなかったから、×。
それは結論ありきでしょ、しかも珍説の。 「寺山3号墳は弥生の墳丘墓 邪馬台国期の特徴備える/徳島」
4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、
県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。
邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。
寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、79年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅した。
菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期〜終末期の県内墳丘墓と比較した。
その結果、寺山3号墳(直径約12メートル)は規模は小さいものの、萩原墳丘墓(約20メートル)と同じ円丘で ▽頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある
▽墳丘の表面を積石で覆っている ▽徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した−など七つの共通点を確認。「弥生墳丘墓と理解すべきであろう」と結論付けた。
破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。
「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。
兵庫県立考古博物館(同県播磨町)の石野博信名誉館長(81)=奈良県橿原市=は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が徳島県南部にあったとは驚きだ。
近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない」と話している。 @阿波 なんでお前らいつまでも位置論争なんてしてる馬鹿の相手し続けるんだ?
スレが汚れるからいい加減にしろよ >>86
おー、知ったかぶってきたことをちゃんと調べて来たんだ!偉い偉い。
でもズビニ鈎虫も含めて2、3おかしな点があるぞ。
海洋民族南米入植説について調べたらすぐ分かることだ。まだまだサーチ力低いなアンタ。 なんて言うか主張が乱立しすぎてて畿内説の中が一枚岩じゃなさそうだからあえて聞くが、ここのスレの住人は卑弥呼と天皇家は繋がってると考えてるの? 卑弥呼=倭国(阿波)の女王
天皇家=倭国(阿波)が本貫地
∴卑弥呼➡天皇家 >>165
系譜の連続なんて証明しようがない
ただ畿内に成立した邪馬台国と後の大和政権は細かい差異はあるが連続線上にあると考えて差し支えない
そう考えると実在が確定してる雄略天皇以後の系譜的な繋がりにはそれなりの史実性があるとみてもおかしくはない 弥生末期から古墳時代にかけての畿内勢力は基本的に強化拡大の方向で動いていて断絶を見てない
だから仮に卑弥呼と言う人物がその中枢にいたとするなら、その後の畿内勢力の中心人物と血縁的関係を持っていても特に不思議とは思わないな >>167
畿内の邪馬台国が南九州出身の神武天皇(又はそのモデルとなった単数、あるいは複数の人物)の率いる一党に乗っ取られたというのが1番真理に近い筋書きだと思う。 問題とするならこの卑弥呼ってのがどこの誰かってことだな
邪馬台国が弥生時代の畿内勢力の一直線上に無いのは分かってる
そうなるとこの代表者が畿内出身であると言う保証はない事になる
畿内の王じゃなくてどっかからか連れて来た人物と言う可能性の方が高い >>168
弥生末期から古墳時代にかけての畿内勢力=忌部一族のこと @阿波 >>169
>畿内の邪馬台国が南九州出身の神武天皇(又はそのモデルとなった単数、あるいは複数の人物)の率いる一党に乗っ取られたというのが1番真理に近い筋書きだと思う。
遥々そんな遠方から、なにが嬉しくて、不便な内陸の、しかも湿地帯にやってくると信じるの? 理解できない。 @阿波 >>169
邪馬台国の鏡の副葬などは九州の文化の移植で九州が成立に関わってるのは見えている
ただ、纏向での九州土器の出土のなさや、その後も含めて九州が主導的な立場にない事を見ると九州は主要な構成員ではなかったとみるのが自然
しかし、畿内の代表者の地位を固めるために九州の人間も婿なり妃なりとして迎え入れている可能性は十分にあるだろうな
神武伝説の実質が婿入りなことを考えるとその方向はあり得る >>172
「バナナ型神話」と並んで南海に広く伝わる 「釣針喪失談」が「海幸山幸」という形で天皇家の先祖の逸話として残っている。
そして天皇の兄の子孫を自称し、天皇の近習を代々務めた「阿多隼人」は南洋系の海洋民族
あとは分かるな? 私は神武の実在説を採る
ただし、奈良盆地の一角の磐余の王程度の小勢力として始まるものと考える
それが、葛城や磯城の王たちと姻戚関係を結ぶことで土着化し、
崇神天皇の頃に姉の倭迹迹日百襲姫命が祭祀王として共立され、
彼女の死に際して、共立倭王にふさわしい各地の王墓の特徴を統合した
定式化した前方後円墳が作られた
てなストーリーを考えている
もちろん、妄想混じりだから強くは主張しない
共立された背景に、神武が持ち込んだ九州の血筋が
神輿としての正統性の一部となったかもしれない
崇神と倭迹迹日百襲姫命の姉弟関係を認めるのは
神武から欠史八代は、大王位の継承順であって直系父子関係ではないと考えるため
古系譜の研究者は、神武から崇神までを5世代と考えているので、それを採用する
考霊、考元は兄弟とみなし、開化と崇神は従兄弟と考える
開化が考元の子供で、崇神を考霊のこと考えれば、
崇神と倭迹迹日百襲姫命は姉弟となる 畿内は本当に邪馬台国の時代になるまで邪馬台国的な要素がほとんど皆無だからな
畿内から成長した勢力が作り上げた国とみるのはほぼ不可能
周辺の国々の持ち寄った様々な要素をまとめて畿内に成立した勢力が邪馬台国
なので色々な地域で邪馬台国的要素を見出すことができるのは当然 邪馬台国の卑弥呼により九州を追い出されたのが神武だよ。
畿内への九州文化の流入により、結果的に畿内が3世紀から急速に発展することになる。 >>176
反対すべきところがあまりないのだが、卑弥呼が出てこないね。
やはり卑弥呼は畿内ではなく九州なんだよ。 >>179
>邪馬台国の卑弥呼により九州を追い出されたのが神武だよ。
卑弥呼と神武は時代が合わないんだよ
纏向遺跡が邪馬台国であろうとなかろうと、建設開始が3世紀始めで
そこに宮を置いたのが、崇神、垂仁、景行の三代
このあたりが卑弥呼の時代
神武が初代で、崇神が10代だから、世代がかなり離れている >>179
>畿内への九州文化の流入により、結果的に畿内が3世紀から急速に発展することになる。
残念ながら、それは妄想の域を出ない
3世紀の北部九州は、十分な王墓を作れない、地域王権の発達の
点で出遅れた地方になっている
そして、九州が畿内様式甕で統一されるのに対し、九州から東方への
影響はほとんど見出せない 神功皇后ご4世紀末、景行天皇が4世紀初頭。
神武が2世紀中頃の倭国大乱なら合う。
卑弥呼の治世が長すぎるから、どこに合わせるかで話が変わる。
あと、畿内説の葛城スレではやはり神武が卑弥呼と同時代という計算を披露していたな。 >>180
>卑弥呼が出てこないね。
あれ、通じなかったか
通説どおり、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だって書いたつもりだったんだけどな >>143
>卑弥呼の治世が長すぎるから、どこに合わせるかで話が変わる。
私は、卑弥呼の共立を2世紀末まで上げるのに賛成じゃないんだ
弥生時代の平均寿命からして、50年も倭王でいたとは考えにくい
桓霊の間とか、光和中とかいうのは、大陸王朝が乱れたから東夷も
乱れただろうという中華思想からあてがわれただけの年代と考えている >>176
隼人というファクターを通して考えると神武、天皇家のルーツは日向・現在の宮崎県にあったと証明できるんだよ。 >>182
九州説でも、卑弥呼の王党が4世紀にかけて弱体化したと考えているので、その反論は無効。
3世紀以降の畿内の成長を容認してしまえば、九州説でも問題ない。
畿内説は、卑弥呼の時代くらいから畿内が発展するから畿内が邪馬台国としているけど、卑弥呼が2世紀末に即位したなら、畿内には九州をまとめられるくらいの大きな勢力はまだないよ。
まして、卑弥呼の即位前夜の2世紀前半までの帥升らの倭王は殆どの歴史家が九州北部と見ているわけだし。 >>182
当時の九州を一括りに語るのは近畿・四国・関東・東北を本州という一括りで語るのと同等。 >>186
遥々そんな遠方から、なにが嬉しくて、不便な内陸の、しかも湿地帯にやってくると信じるの? 理解できない。 @阿波 >>185
>弥生時代の平均寿命からして、50年も倭王でいたとは考えにくい
>桓霊の間とか、光和中とかいうのは、大陸王朝が乱れたから東夷も
>乱れただろうという中華思想からあてがわれただけの年代と考えている
また畿内説は都合の悪い記事は無視かい。
卑弥呼が100年生きたなら何かの誤りだとは思うが、50年ならぎりぎりあり得なくはない。 弥生時代の倭王の王墓がそもそも博多湾沿岸にしかないのですよ。
王墓とは、大きさではなく、副葬品で決まるのですよ。 >>190
>50年ならぎりぎりあり得なくはない。
共立時に「年已長大、無夫壻」なので、20前後を想定すると、
70歳になってしまうんだ
共立時に0歳という訳にもいかないし、2世紀の共立は難しいと思う >>187
>卑弥呼の王党が4世紀にかけて弱体化したと考えているので
北部九州の退潮は、1世紀末頃から見られるよ
4世紀まで倭王を保つのは、考古学的に見てまず無理 神武らは、何も嬉しくて大和に来たわけではない。
王都である筑紫の日向に卑弥呼政権が出来て将来を悲観して、饒速日を頼って東征した。 >>195
>70歳になってしまうんだ
大変ぎりぎりだが、あり得るんだよ。 >>187
>畿内には九州をまとめられるくらいの大きな勢力はまだないよ
畿内説でも、畿内がイニシアティブをとってまとめ上げたと
考える人は少数だと思う
それ以前の奈良盆地の大和社会とは、断絶がある
そして、その断絶の結果建設されたのが、纏向遺跡だと考える訳だ >>196
少なくとも、平原遺跡には退潮は見られない。
むしろ鏡を国産化して、技術力と国力の強化、漢に依存しない権威の確立を見るね。
周囲が衰退しているように見えるなら、それは卑弥呼への権力の集中と色眼鏡だね。 >>188
>当時の九州を一括りに語る
個別に語ってくれてもいいが、「九州のどこにも」
王がいたと考えるに足る集積が見られないと思う >>194
>弥生時代の倭王の王墓がそもそも博多湾沿岸にしかない
その博多湾岸の王墓が、2世紀にはもうないんですよ >>203
紀元前から連綿と中国語交流し鏡をもらい、倭として記録されて来た。
王墓は三種の神器で明確に示されている。 平原1号墓について
耳璫の型式
この耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
ttps://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」 「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。
金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、
その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工法も同様であると考えられた。」 これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる
またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた。
しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」 とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる
古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている 現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている 現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になっているのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる 平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている 周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない
耳飾りからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない と、平原1号墓の編年について、少しまとまった量を連投させてもらったが、
冷静に考えて「1号墓の周溝からの弥生後期前半の土器片」に合わせるのが
妥当だと思う
そうなると、1世紀半ば〜2世紀初め頃になる
方格規矩鏡の仿製鏡の編年から考えても、このあたりが妥当ではないだろうか
この年代では、卑弥呼の墓という主張は難しいが >>197
>王都である筑紫の日向に卑弥呼政権が出来て将来を悲観して、饒速日を頼って東征した。
だから、なんでよりによって「奈良盆地」へ来たのかと聞いてるんだけど? @阿波 331の>>934
>>他書である後代史書などでの「後代解釈に拠る内容説明的書き変え」のある書は、根拠にはならない、
という事だ。
>旧唐書を盛んに持ち出して根拠にしようとしてるのは、誰?<
旧唐書は、書き換えが殆どないから信頼性が高い、という事だ。 >>202
>少なくとも、平原遺跡には退潮は見られない。
よく九州説の人は、「平原遺跡」という言い方をしますが、平原2号墓が
平原1号墓とほぼ同時の築造で、大きさもほぼ同じで、まったく威信財を
欠いているのをご存知ですか?
平原2号墓はどう見ても、王墓ではないですが、それとペアで
平原1号墓は作られています
また、平原遺跡という場合6号墓までの弥生墳墓を含むのですが、
どれも1号墓2号墓よりさらに小さくて、ごくありふれた
家族墓地のように見えます
少なくとも、累代の王墓の地ではない
累代的に方形周溝墓を作り続けているのに、庶民の
家族墓の隣にペアで王墓が作られることがあるでしょうか?
平原1号墓ではなく「平原遺跡」というなら2号墓から6号墓までをも
トータルで語ってください >>220
新唐書が全面的に書き換えた
信頼性がない >>222
そもそも、墳墓だけで邪馬台国の比定は無理ですよ。 弥生集落遺跡も伴わないと。 @阿波 331の>>934
>「邪馬壹國」は11世紀以降の史料にしか出てこない<
裴松之も、宋明清代の校勘学者も、誰も「邪馬壹國」の考証校勘をしていない、
という事は、
写本版本は全て「邪馬壹國」であったのであり、
という事は、陳寿原本も「邪馬壹國」であった、という事。 331の>>947
大和説は、だいたいニセ情報で出来ている。 >>202
>少なくとも、平原遺跡には退潮は見られない。
輸入した威信財を以前みたいに配分できなくなってますよね?
退潮ですよ
>むしろ鏡を国産化して、技術力と国力の強化、漢に依存しない権威の確立を見るね。
その国産化した鏡も配分できてないですね?
退潮ですよ
>周囲が衰退しているように見えるなら、それは卑弥呼への権力の集中と色眼鏡だね。
あなたがかけているのが色眼鏡ですよ
伊都国は昔みたいに近隣に影響力を及ぼしてませんね?
退潮です >>222
>平原2号墓はどう見ても、王墓ではないですが、それとペアで
>平原1号墓は作られています
>累代的に方形周溝墓を作り続けているのに、庶民の
>家族墓の隣にペアで王墓が作られることがあるでしょうか?
2号墓は卑弥呼の弟だと思うよ。
ペアの王墓としては同じ伊都国の三雲南小路遺跡がある。
平原遺跡3号墓以下も、卑弥呼の係累の墓だろう。
むしろ状況的にはこれこそ倭王の墓だね。
あと、ガラス耳璫は魏晋の時代に中国で流行った様式だとか。
国内だけ見て編年を考えても無理があるが、中国も含めて考えれば卑弥呼の墓だよ。 331の>>954
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
荒らしに忙しくて反論もできないという醜態。 >>227
>輸入した威信財を以前みたいに配分できなくなってますよね?
漢が滅亡したから、その必要がない。
>その国産化した鏡も配分できてないですね?
卑弥呼への集権化の結果。 >共立時に「年已長大、無夫壻」なので、20前後を想定すると
共立時じゃないだろ
伊勢神宮の大物忌は童女
物忌は、伊勢神宮、賀茂・春日・平野・松尾・香取・鹿島などの大社に仕えた童女・童男
ネパールではクマリ(童女現人神)と呼ばれる2歳から6歳くらいの童女が選ばれ国王もひれ伏す >>225
>裴松之も、宋明清代の校勘学者も、誰も「邪馬壹國」の考証校勘をしていない
そして、11世紀よりも前に、魏志倭人伝をネタ本にして成立した他の史書が
すべて邪馬臺國と記していて、それらの多くの刊本の考証校勘の結果、
邪馬臺國と認められているのですから、当然に原典の魏志倭人伝も
邪馬臺國だったと認められますね
長年の考証校勘は信頼できるそうですから そもそも平原遺跡に副葬されなかった八咫の鏡の残りが今日まで皇位の象徴となっていると思われるので、後世への影響は甚大だね。
卑弥呼以降、少なくとも王権を示す内行花文鏡はバラマキには使われなくなる。
かわりに三角縁が量産さればら撒かれる。
倭国の体制、祭祀に大きな変化があったのが卑弥呼の時代であり、それを示すのが平原遺跡。 >>228
>あと、ガラス耳璫は魏晋の時代に中国で流行った様式だとか。
あれだけ丁寧に書いたのに、都合の悪い土坑墓は無視ですか?
この土坑墓を原田大六氏が殉葬と見たのが、卑弥呼の墓説のきっかけなのですが >>233
>そもそも平原遺跡に副葬されなかった八咫の鏡の残りが今日まで皇位の象徴と
あなたが一人で言ってるだけでは? 九大の調査参加を頑なに拒んだ原田先生は、
人がいないときを見計らってこっそり一人で掘ったりしていた 331の>>955
>曹操の墓より大きいのは良くないな。<
曹操の墓は、薄葬令を出した文帝らが指揮した事になるから、
サイズは小さくて当たり前。
しかし、洛陽の地以外の(明帝後の)卑弥呼や楽浪太守の墓では、
少し薄葬令の強制力が落ちて当たり前。
>まして100m越えとか、 魏に喧嘩を売っているんだろ<
魏代には、列島では、100mを越えるような墓はなかった筈。 >>228
>平原遺跡3号墓以下も、卑弥呼の係累の墓だろう。
>むしろ状況的にはこれこそ倭王の墓だね。
係累の墓が、まったく王家の威信を示さない
それこそ、北部九州の退潮を如実に示していることになりますよ
まあ、私は最初から、平原1号墓は王墓ではないという立場ですが
平原1号墓が王墓だとしたら、平原遺跡では方形周溝墓が累代的に築かれて
いるのに、王家の代々の墓なのに、王墓が一つだけっておかしくないですか?
王家は、王位を世襲するから王家なんですよ? >>331
倭国に薄葬令なんてないんだよ
拠って始めから× >>230
証拠がないのが証拠だぁ式のデタラメ論理 331の>>958
「南→東」などの嘘つき騙ししか脳がない、大和説と阿波説。 >>237
>魏代には、列島では、100mを越えるような墓はなかった筈。
纏向の東田大塚古墳は、魏代の築造だが墳丘長120メートルあるぞ >>234
>この土坑墓を原田大六氏が殉葬と見たのが、卑弥呼の墓説のきっかけなのですが
別にそんなのは関係なく自論を持っているので、関係ない。
原田だろうが古田だろうが、気にしない。 >>237
誰も納得しないザラコク式「当たり前」
なにも理由ないザラコク式「筈」 >>241
嘘つき騙しは、嘘つきに擬態している「嘘をつかない」人という意味
まあ、ザラコクに嘘をつかない人と認定されてもうれしくないけどな >>238
>係累の墓が、まったく王家の威信を示さない
>それこそ、北部九州の退潮を如実に示していることになりますよ
卑弥呼への集権化。
おわり。
>いるのに、王家の代々の墓なのに、王墓が一つだけっておかしくないですか?
??
伊都国に方形周溝墓の王墓はいくつもあるよね?
イミフ >>242
>纏向の東田大塚古墳は、魏代の築造だが墳丘長120メートルあるぞ
纒向は魏と交流がなかった証拠。 >>243
>関係なく自論を持っているので、関係ない
ああ、他人と話のできない人ですね
構ってすみませんでした
以後、無視します
無視しやすいように、コテハンを付けてもらえるとうれしいです 331の>>965
「南≠東」の嘘つき騙しがバレれば、
何がどう転んでも、四国の阿波には、辿り着かない。 >>246
序列が見出せないないなら
集権化じゃなくて、単に異質な存在だ 331の>>967
大和説が一人負けしすぎたんだよ。 卑弥呼はその前の男王との間に倭国大乱があるから直系ではないだろう。
また、夫や子供はいなかったとある。
しかし平原遺跡は三種の神器を副葬された方形周溝墓という様式は継承している。
継続性がないという主張はむしろわけがわからない。 >>246
>伊都国に方形周溝墓の王墓はいくつもあるよね?
どこにある、なんという遺跡? 331の>>971
「南→東」などのウソを付いて、相手を罵倒すれば、
「史料を無視」や「否定曲解」できると思ったら大間違い。 >>246
集権化じゃ誤魔化せないよ
他者に影響を与えてない 331の>>973
「南→東」などの嘘つき騙しの理由のも言えず、
「明らかに・・・・アホ」なのが、大和説。 >>260
>「明らかに・・・・アホ」
ひどいこと書いてるなぁ
ひどい侮蔑の言葉だ
よくそんなの罵倒語が使えるね
あなた、ひどい人だね
「・・・・」=「ザラコク」だろ? 331の>>979
>理由もなく「邪馬台国の時代」って言い張ってるだけ <
「邪馬台国」なんて、存在しない。」
>歴史学者は誰も認めてない<
日本の古代史の「南→東などの嘘つき騙しの大和説歴史学者」は、
始めから信用出来ない。 >>260他
「南→東」などの嘘、という論証がない
拠って始めから× いろんな意味で平原一号は孤立しすぎだね
広域国の女王墓というには無理がある 331の>>993
>北部九州から東に二千里いけば、<
「南≠東」だから、東に行かない。
>そこは畿内<
畿内なんてなかった。 >>265
>平原一号は孤立しすぎ
同意
せめて、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、端山古墳、築山古墳と同じ平面にあれば
伊都国王墓としては理解しやすくなるんだけど >>267
「南≠東」は論証されていない
拠って始めから× 331の>>995
大和説が終わってることは、もう皆の知るところだ。
新スレの荒らされぶりを見ろ。 >>267
現在畿内と呼ばれる地域がある以上
「畿内がない」というのは通らない
拠って始めから× >>270
九州説が終わってるから、荒らすしかできないんだぞ
証拠も論理も全て負けていて、ムキーってなってるんだよ
お仲間だろ? 332の>>77
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
論破され尽くして、嫌がらせしかできない大和説。 331の>>98
「大和は倭國の別種の旧小国」や「南≠東」などの論争に負けた大和説は、
もう嫌がらせしかできない、。
w 332の>>107
「邪馬台国はなかった」論争に負けた大和説は、
もう荒らししか出来ない 。w 332の>>111
「南→東」などの史料事実を否定曲解する大和説学者は、
おそらく・・・・なんだろう。 332の>>117
「南≠東」などの嘘つき騙しの大和説は学説として終わってる。
大和説支持者は、人間として終わってる。 332の>>125
「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった」大和説は、
論争に負けて、もう嫌がらせしかできないんだな。 >>268
平原は三雲と1,2キロしか離れていないんだよ。
王族を出した"家"が違う程度だろうね。
ちょうど卑弥呼共立の時事に合うね。
2号墓は"男子一人"か次の男王か、かな。
そしてイヨはまた別の家になるのかな。
今わかっている古墳で探すなら、
ちょうど3世紀末頃の御道具山古墳でいいんじゃね。
箸墓と同じ頃の前方後円墳。
平原は偶然発見されてるから、イヨの墓も同規模だったらなかなか発見されないだろうね。 332の>>136
こんな荒らしをやられてれば、
大和説が徹底的に論破されましたって、 自白してるようなものなのにね。 >>280
>平原は三雲と1,2キロしか離れていないんだよ。
距離じゃないんだよ
伊都国王墓の地とは、「立地」が違う
>2号墓は"男子一人"か次の男王か、かな。
2号墓が王墓だと思えるなら、もう何も言う必要はないや
他人の話を聞く気がないなら、書き込みしなくていいよ 距離の問題じゃないんだよな
曽根丘陵の西側斜面だから >>251
異質なだけじゃ説明できない副葬品類。
ガラスや鏡などの最新の技術力と大陸流行のジトウ、瑪瑙の管玉は朝鮮半島の物。
中国朱、そして素環頭大刀。
つまり大陸への海運を押さえていた人物だということは容易に創造できる。
問題は墓の時期だけ。
瑪瑙の管玉が朝鮮で3〜4世紀の遺跡から出土してるらしいが、まだ研究報告待ち。 >>280
なんで連続した墓群のひとつを卑弥呼の墓だといって、壱与の墓をその墓群の外だと思うんだ?
しかも前方後円墳だとまで言いだす
支離滅裂だろう >>285
事実を指摘してあんまり畿内厨をいじめるなよ。ウンコ漏らされて困るだろう。
汚い厨の自作自演の荒らしも飽きたし。 >>282
なぜ同じ地域になきゃダメなの?
その理由は?
ただの思い込みだよ、それは。
墓域は時代ごとに移動しても何らおかしくない。
とくに卑弥呼共立は状況的に特殊だし。 >>285
>つまり大陸への海運を押さえていた人物だということ
入り口で押さえたまま他人に渡さないのは只のゴウツク婆
女王じゃないな 平原遺跡出土品の異質さは、銅鏡が一枚も棺内に納められてなくて
大型鏡にも方格規矩鏡にも製作工程途中で
銅の錆の緑青色が着色されていることだね
糸島市教委でもその方法も目的も不明としている
顔料は検出されなかったということだから染料か何かだろうな >>288
倭人伝に「卑弥呼宗女壱与」ってあるの、知らないの? >>287
すまん、平原について無茶苦茶だからつい…
もう黙るわ >>288
じゃあ平原1号と同じ墓域にある古墳時代初期の周溝墓はどうなるんだ? 倭王は他に移動して
旧都には親族が残っただけだろ。
伊都の地理的には海外交易上重要なままなんだから。
否定のための否定してるからキミ苦しすぎ。 >>287と>>292が逃亡のための自演で、このスレを荒らしてた人だってことか
だんだん見えて来たな 東遷説のみなさん
遥々そんな遠方から、なにが嬉しくて、不便な内陸の、しかも湿地帯にやってくると信じるの? ご教示ください。 @阿波 >>295
倭王と王でない親族と、墓の大きさがおなじなの? >>296
いや、>>287は脱糞厨だからキウスで、>>292が岡上だろ
荒らし仲間だ >>295
いや、無理筋に苦しい言い訳を重ねてて大変だなーと 平原一号が倭国女王の墓だっていう根拠が皆無なうえ、時代ズラシが無理すぎる 平原1号墓だけでなく、平原遺跡の他の墳丘墓もきちんと情報を見ていけば
見れば見るほど、王墓とするのがつらくなるのが平原1号墓だよ >>295
>伊都の地理的には海外交易上重要なままなんだから。
博多湾貿易に移行してるよ
重要性は激しく下落 >>288
>なぜ同じ地域になきゃダメなの?
端山古墳も築山古墳も三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡と同じ立地にあるからだよ
時代の断絶はあるが、ずっと伊都国王墓は三雲遺跡群の中に作られてきている
井原鑓溝遺跡から端山古墳の間の王墓は、小さすぎて見つかっていないのだろう >>280
>ちょうど3世紀末頃の御道具山古墳でいいんじゃね。
>箸墓と同じ頃の前方後円墳。
その箸墓よりはるかに小さな墓に眠るイヨの立場って、なに? 東遷説のみなさん これって、聞いてはいけない事なんだろうか?
遥々そんな遠方から、なにが嬉しくて、不便な内陸の、しかも湿地帯にやってくると信じるの? ご教示ください。 @阿波 >>265
>いろんな意味で平原一号は孤立しすぎだね
>広域国の女王墓というには無理がある
広域だなんて誰が決めた?
九州北部説では邪馬台国は福岡県、佐賀県、長崎県だよ。 >>268
倭国大乱における政権交代を象徴しているんだろう。 >>271
現在では東京都があるが、1000年前にはなかったよ。 >>282
>距離じゃないんだよ
>伊都国王墓の地とは、「立地」が違う
そんなことを言ったら、畿内の前方後円墳なんてもっとバラバラだよ。 >>282
>2号墓が王墓だと思えるなら、もう何も言う必要はないや
だから王ではなく弟だってば。 >>286
大型内行花文鏡をみれば、平原遺跡が漢より後であることは明らか。
他の糸島平野の王墓が後漢代なのとは一線を画す。
それこそ、魏代の卑弥呼の墓である証だよ。 >>315
常識的に考えればその通りなのだが
認めるイコール敗北だから認めるわけにはいかないようです。 >>310
>現在では東京都があるが、1000年前にはなかったよ。
ある場所を表現するのに、「今の地名を使う」のは普通のことだし
むしろ標準的なこと
「今の地名と違うから、なかった」で逃げるのは、ただの思考停止か
答える能力がないことをごまかしている卑怯者の所業 >>308
>九州北部説では邪馬台国は福岡県、佐賀県、長崎県だよ。
十分広域だろ?
単なる伊都国王の三雲南小路遺跡30メートル四方の墳丘墓
単なる奴国王の 須玖岡本遺跡D地点30メートル四方の墳丘墓
よりも小さな、広域倭王の墓って、言ってて空しくならないか?
明らかに退潮傾向が見られるよな? >>289
>入り口で押さえたまま他人に渡さないのは只のゴウツク婆
畿内よりはるかに権力を持っていたということだよ。
畿内説による、一大率は出先の支配機関説は成り立たない。 >>293
>>>288
>じゃあ平原1号と同じ墓域にある古墳時代初期の周溝墓はどうなるんだ?
具体的に言って。 >>313
>畿内の前方後円墳なんてもっとバラバラだよ
初期の墓域は、大和・柳本古墳群に集約されてるよ
ちゃんと調べてから文句言いなよ >>298
>>>295
>倭王と王でない親族と、墓の大きさがおなじなの?
副葬品の格が違いすぎ。 >>303
博多港も当然倭国の港なのだから、何か問題が? >>304
>井原鑓溝遺跡から端山古墳の間の王墓は、小さすぎて見つかっていないのだろう
伊都国王家が日向三代なら、あと数個しか必要ない。 >>305
>その箸墓よりはるかに小さな墓に眠るイヨの立場って、なに?
九州北部の筑紫倭国の女王だからいいんじゃない? >>314
>だから王ではなく弟だってば。
誰がそんなことを決めたの?ww
妄想・捏造乙
そして、それが正しかったとして「佐治國」の王弟が、
威信材の一つも持たないちっぽけな墳丘墓に葬られるってことはないと思うぞ
大和では大王家ではない、豪族の古墳でもそれなりのものが出ている
無理筋の主張を繰り返して空しくないか?
って、>>243か
相手をしてごめんなさい >>318
単なる伊都国王ってなんだかなあ。
すべて倭王だろ。
漢が冊封した証として璧や内行花文鏡を授けているんだから。 >>321
>>>313
>>畿内の前方後円墳なんてもっとバラバラだよ
>
>初期の墓域は、大和・柳本古墳群に集約されてるよ
>ちゃんと調べてから文句言いなよ
つまり奈良盆地から出られず、周りに影響をその時点では及ぼしていない。 >>322
>副葬品の格が違いすぎ
そうなんだよ、王佐の王弟の墓だとしたら副葬品が「なさ過ぎる」
ということで、妄想でしたってオチだね >>326
>大和では大王家ではない、豪族の古墳でもそれなりのものが出ている
それはあくまでも畿内の風習だよね。
九州に当てはめるなよ。
九州は集権化が進んでいたんだよ。 >>330
名前も伝わっていない権力のない人物だよ。
なんでそんなに持ち上げるんだ? >>329
>つまり奈良盆地から出られず、周りに影響をその時点では及ぼしていない。
少しは自分で勉強してから書き込めばいいのに
周りどころが、日本中で前方後円墳(前方後方墳も可)を作り始めているじゃないか
これが、畿内政権の影響力そのものだよ >>332
>名前も伝わっていない権力のない人物だよ。
敢えて訊くけど、日本人かい?
日本の義務教育受けてる?
日本では、極端な個人崇拝はめったに起こらないし、
権力中心の近くの人物は、みな権力者なんだよ
実際、三雲南小路遺跡では、王墓の1号甕棺だけでなく、2号甕棺にも
しっかり副葬品が入れられてただろ?
平原2号墓にまったく副葬品がないところを見ると、
まったく権能を持たなかった人だと想定することになる
その2号墓と、周溝を共有する程度の「隔絶した権力の集中」があるなどと
いうのは、普通の日本の教育を受けてたら考えにくいはずだぞ >>332の>>158
こんな荒らしをされて?、
大和説への国民の批判が、よほど強いのかね ?。 魏志倭人伝の旅程は、卑弥呼の時代のものじゃないと思うよ
末慮国による必要がないもの 九州説の学者がいないのに、伊都説は素人九州説にも2人くらいだろ? 332の>>165
大和説は終わった、ってことのようだね。 大体、伊都国・奴国と、邪馬台国が別々に書かれているのに
同じ場所にあったって主張できるのが不思議だわ
しかも奴国から(不彌国でもいいけど)2ヶ月もかけて
行く遠いところだってのに、それを無視して北部九州にあるっていうんだから
面の皮の厚さがすごいわ 332の>>181
大和説は、よほど醜いのかなあ?。 伊都国は重要だよ。
神功皇后、応神との関係性。
記紀にある通り、紀ノ川で兵を整え関東の軍と合流し大和朝廷を討つエピソード。
紀ノ川に伊都の地名。応神、天児屋根大神の足跡あり。 332の>>200
大和説はもうダメだな、人間として・・・
sigh 332の>>211
こんな荒らし?ばっかり?されて、
大和説はもうダメだよ、人間として・・・ 332の>>219
>邪馬台国の話しをな <
「邪馬台国」なんて存在しないよ。 332の>>224
要するに、邪馬壹國女王之所都論争で九州説に負けたから?、
腹いせに嫌がらせをしてるんでしょうか?。
大和説はタチが悪いな。 332の>>235
要するに、女王國之所都論争で九州説に負けたから?、
腹いせに嫌がらせをしてるんでしょう?。
大和説も東遷説も、タチが悪いの?。 332の>>242
大和説はもうダメだな、人間として・・・。
sigh 。 332の>>251
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、イヤガラセしか出来ない?。 332の>>257
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しと、イヤガラセしか出来ない。 332の>>264
「南→東」などの嘘つき騙しで、大和説の負けで結論が出てるから、
敗残者が荒らしてるんだろ?。
状況を見ろって!。 ザラコクが人と話ができないのは
ザラコクが・・・・だからなんだろうな 332の>>265
>>大和は、他に影響を余り及ぼさない凡庸な、
一地方の「市」を監督する大倭職に過ぎない<
>大倭職って、それ、後漢書でいう倭国の王様ww 後漢書 其「大倭」王居邪馬臺國<
後漢書は、「自己解釈に拠る誇大な書き換え」をする高慢な半分×書であり、
だから「倭国乱→倭国大乱」と同じように、
「倭王→大倭王」の書き換えをしたもの。 332の>>266
>旧唐書の
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
に関して、ザラコクが間違っているのは、
起点が陽苴棟驕i大理)なのに、揚子江を持ち出すこと
揚子江は、成都から先の話で、大理から成都に行くのに揚子江は
最初から最後まで関係がない<
珠江でもよかったが、珠江では「如至成都」が不必要になってしまい、
何としても説明が付かない。
だから、「まるで成都に至るが如く通水陸行する」と解した。 >>174
日向王朝だよ
敵対していない
熊襲征伐の時も薩摩隼人は親天皇家だった
海幸彦の末裔だからね 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 >>176
天皇位が2度空位になったというのがリアルだ
記紀は少なくとも2度の空位の期間を隠蔽している
「新唐書」<日本伝>11世紀前半成立
「日本は古いにしえの倭奴である。都から14,000里、新羅から東南の方角の海の中にある」
「みな尊を以って号となし、筑紫城に居る。
彦瀲なぎさの子神武立ち、さらに天皇を以って号となし、移りて大和州に治す。
ある古書に曰く、神武天皇即位前壬子年(112)、日向一族筑紫を越え、
邪馬台国(畿内にあった饒速日ニギハヤヒ、安日彦アビヒコ、長髄彦ナガスネヒコらの国)を東征せんと兵を挙す。
甲寅年(114)、邪馬台国王安日彦、長髄彦と摂津に戦うも、日向一族敗れて退き、
南海道に兵を募り、戌午年(118)、再び東征せしも、日向族の彦五瀬命ヒコイツセノミコトは和泉に討たれ、
弟なる彦稻飯命ヒコイナイノミコトは難波に討たれ、第三皇子なる若御毛沼命ワケミケヌノミコトは行方不明と相成る。
已未年(119)、第四皇子なる若御毛沼命は日向一族を統率し、さらに南海道、韓兵、
淡路等の兵合わせて邪馬台国を攻めるに、長髄彦は重き傷を受けて東国に退き、安日彦もまた越に退き、
奥州会津にて合軍し、さらに奥州東日流つがるに移り安住し、ここに荒吐族アラハハギゾクの祖となりぬ。
神武帝の乙亥年(135)、荒吐五王一挙して故地邪馬台国を攻め、日向族を誅滅ちゅうめつし、
天皇を空位ならしめたるも、荒吐族の手研耳タギシミミ敗れたるによりて奥州に退く。
荒吐族の大和への遠征は爾来じらい、歴代の帝位に必ずや攻防を繰り返す。
徳帝の在位時も、荒吐族五王軍は大挙して邪馬台国を攻めるにより亦天皇を空位とあいなす。
のち日向族と和交すと」 >>359
毎日、日没の時間に、熊本城の方向に土下座して、奈良の土を味わえば良いのではないのかな、、、 332の>>267
>新唐書では同じルートが逆向きに書かれている
新唐書卷四十三下 志第三十三下 地理七下 羈縻州 嶺南道 諸蠻 峯州都督府
「安南經交趾太平,百餘里至峯州。又經南田,百三十里至恩樓縣,
乃水行四十里至忠城州。又二百里至多利州,
又三百里至朱貴州,又四百里至丹棠州,皆生獠也。
又四百五十里至古湧步, 水路距安南凡千五百五十里」・・・
川があっても川沿いに道をつけて陸路で行くのが大陸の人間の行動原理
なので、川沿いルートで、陸行と水行と合わせて二千四百里(=如至成都)と
いう書き方になってるんだよ<
これは、安南→古湧步の水行の「水路距安南凡千五百五十里」の説明。
旧唐書の「陽苴棟驕C南去太和城十餘里, 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
と何の関係もない。 平原の2号墓は殉葬された高位の人かもなぁ
ほぼ同時だし 332の>>269
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の負けで結論が出てるから、
敗残者が荒らしてるんだろ?。
状況を見ろって!。 >>281
「南→東」などの嘘つき騙しを徹底的に論破され尽くしたので、
こんな嫌がらせしかできないを大和説。 >>363
土壙墓は2号の周囲に配置されているので、
生前も同じように奴婢を率いて1号卑弥呼に仕えていた高位のお付きの人でしょうね。 332の>>288
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説さん、
負けたから腹いせに荒らしをしては、いけないことだよ 。 >>342
色々な解釈があるからねぇ
文献的に色んな説が出尽くした感はあるが、
正しい読み方なんか誰も知らないよ?
2ヶ月…それはあなたの解釈なだけで、それが正解かどうかはわからないのだよ
実際、南に2ヶ月でどこに比定するんだい? 他のスレにも書いている事なんだけど、
お前たちの言う天皇というのは何なんだ?
テレビなどに出てくる人? 332の>>298
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説さん、
負けたから腹いせに荒らししてるんだよね?。
醜い真似はやめなさい。 皆の衆、落ち着いてW
まだ決まっていない
奈良かもしれない
可能性はないがW 332の>>306
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説くんの、行状が異常?。 天皇
もれ(仮)の家の老婆が言うには
死んだ人間か何かだと言っていた
仏教とか?
寺院に通ったり、
落雁などを作り、供えていたとか、
そういう話 332の>>313
まったく・・・。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のやることといったら、
異常者のそれ以外の何モノでもないな。 >>370
>正しい読み方なんか誰も知らないよ?
どれが明らかに間違った読み方かは判るけどな 332の>>316
こんな荒らしばかりしてる大和説信者は、どう見ても異常だね 。 伊達郡の川俣町が何やらとか、
そういう話をしている。
東、西福沢というところがあり、
機織りをしている家・・・。 332の>>334
そして大和説者にとっては、テンプレが最も恥であり、目の上の瘤。
w ザラコク・・・
どんな育ちかたをしたら、こんなにウソばかりつく人間が出来上がるんだろう 332の>>349
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説やテンプレは、
そんなに九州説が怖いの?。 dead endという音楽家がいるでしょ、
とある曲を聴いてみて
真の紛いモノ と言っていたり 332の>>363
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が負けたことを素直に認めていて、
素直でよろしい 。
w 332の>>371
政府文部省や右翼マスコミや、Yahooや5chや、右翼学会教育界の助けで、
力づくで言論を封殺しようとする大和説って最低だ。 >>368
>土壙墓は2号の周囲に配置されているので
そこにもあるけど、1号墓の周辺にもあるよ
一度きちんと調べてみたらいいと思う
そうしたら殉葬なんてことは言わなくなるから これも本当の話
家は『松傾』のような名前の家、
伊達郡に川俣町というところがあって・・・
むかーし、その辺りに住んでいた事があるんだよ
その福沢町というところだよ、
それと飯野町というところに・・・誰々が住んでいて、家の・・・結婚したんだよ
とか >>358
わかった!
伊都国が山幸彦の国で、投馬国が海幸彦の国だ。 332の>>377
これが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の品格。
笑うべし。 322の>>390
前スレでもの九州説圧勝で、大和説は「南≠東」などのウソを重ねるだけの」などの、
防戦一方だった。
荒らしに走るのも無理はないかもね。 >>390
>Yahoo
Yahooで出禁になるなんて、よほどたちの悪い、悪質な行為を何度も繰り返すような
まともな人間とは言えないようなやつくらいしか、あり得ないんだけどね
ザラコクはYahoo出禁なんだって?
素直に軽蔑してるよ 322の>>400
学説も死んだが、人間性も死んでる、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の醜態。 ストーカーがいるのか、有名人なのかな・・・?
伊達郡の川俣町というスレを読んでいても
あれは家の話でしょ 332の>>413
平日のにコレだぜ。
大和説じいさん、どんだけ異常者なんだ?。 >>335
あんたこそ、どこの国の人?
三雲南小路の被葬者は、天孫ニニギとコノハナサクヤヒメ。
コノハナサクヤヒメは父が大山祇という、、こらまた倭王の血筋。
ところが、おそらく卑弥呼は出自が皇統から遠いのだろう。
だから共立された本人は権力があったが、弟にはなかった。
また、卑弥呼は神に仕える巫女女王であったから子もなかった。
それを外側から見ると、卑弥呼の後は意図が衰退したように見えるんだよ。
だから、長い在位中は強大な権力をあつめたが、死後は別の人物が実権を握ろうとして争いとなり、最終的に卑弥呼の血筋の別の巫女女王として壹與が共立された。
巫女女王はそれぞれ権力が一代限りなので、しばらくの我慢ということで各勢力が妥協した。 332の>>419
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の男は、
平気でこんなウソつく。 『猫稲荷』
蚕や機織り、二人の夫人が・・・書かれている画とか、
家の写真、二人の女性が写っているでしょ、
蚕を飼い、機織りなんかをしていた家だと言っていた >>358
伊都国にいた倭国王家が皇祖である日向三代。
三種の神器がそれを証明している。
伊都国の高祖宮が彦火火出見の宮(現在でも祭神である)。
九州には筑紫、豊国、肥国、熊襲の4カ国しかなかった。
景行天皇のときにはじめて今の宮崎県が日向と名付けられた。
記紀の筑紫の日向は伊都国から奴国の間の高祖山周辺。
ニニギのさらに前、イザナギが禊をしたのも、筑紫の日向の小戸。
ここが紀元前から倭国の王都。 >>363
>平原の2号墓は殉葬された高位の人かもなぁ
>ほぼ同時だし
弟だよ。
卑弥呼が死んだら用なし。 猫の神を求めて・・・。
その筆者、このスレなどを観ていないのかな。
家の話をしているような気がするんだけど 二本松、霊山、松川町・・・など
おそらく『旧広瀬座』に繋がる >>406
これを読んで解釈してみろ。
これが宮崎県か?
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
この禊を記念して建てられたのが博多住吉だからな。
福岡に決まっているだろ。 福岡こそ倭国建国の地、稲作伝来の地、高祖の王都、三種の神器がある筑紫の日向。 縄文人の平均寿命30歳説が最近見直されてて、
人骨の調査で65歳以上が全体の3割以上を占めていたことが判ったそうだ
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011130129.html
平均寿命が30歳前後とされ、「過酷な生活環境のため、早死にする人が多かった」と考えられてきた縄文時代の人たち。しかし、出土人骨の年齢推定に関する最新の研究で、実は65歳以上とみられる個体が全体の3割以上を占める――という結論がこのほど提示された。
卑弥呼が70歳代まで君臨していてもおかしくはない。
卑弥呼の即位は2世紀末、纒向集落はまだ成立していない。 >まるで韓国起源説
総数2名の伊都説では倭国の1/3が半島だからね 植松(植える松)?というのは
松(もみ?)の木の立てられている、
あの写真の話の事だと思う >>357
>何としても説明が付かない。
その下の部分も、まったく説明はついてないよ
相変わらず地図を一切見てないだろ
漢文は読めない、地図は見ないで
正しい理解にたどり着くことはないよ
どこまで行ってもザラコクは間違ってるし
旧唐書のこの部分の東は何をどうごねても間違ってるよ 「大木戸」
ポケモンの話をしているのかな
『大木戸博士』 >>410
>人骨の調査で65歳以上が全体の3割以上を占めていたことが判ったそうだ
分かってないよ
そういう発表をした人がいるだけ
検証はまだ受けていない状態
自分に都合のいいことにはすぐ飛びつくねえ
ズビニ鉤虫も同じだよ >>404
>卑弥呼が死んだら用なし。
こういう考え方も日本人の価値観と相容れないねぇ
別に日本国籍持ってなくても、日本の歴史に興味を持って構わないけど
やっぱり考え方が日本人からずれてるんだよなぁ >>400
>あんたこそ、どこの国の人?
書き込み見てて分からないのかい?
そして、>>400は自分が日本人だというのに抵抗を感じるみたいだね >>400
>共立された本人は権力があったが、弟にはなかった。
ここも分かってない
卑弥呼は共立された王だが、基本は祭祀王であり、王となった後はほとんど人と合っていない
つまり権威はあるが権力は行使していない状態だ
そして政務王として実際に国務を司り、権力行使していたのが佐治國と記された男弟だよ
間違った認識で思いつきを振り回しても、妄想にしかならないよ 実りが十分でなく人が飢えることが多くなったので、土地開墾の指導を求めて瓊瓊杵尊が中央からやってきた。
瓊瓊杵尊は日本全国を巡り土地を開墾する技術を伝えていた。
この霧島高千穂の峰からほど近い場所に初代霧島神宮地がある。
もともと霧島山一帯が霧島神宮の社地であったそうだ。
『ホツマツタヱ』によれば、瓊瓊杵尊は高千穂で神上がり(崩御)している。
神となった瓊瓊杵尊を祀ったのが霧島神宮だったと考えられる。
日本の天神が、九州に拠点を置くようになった初めが、
瓊瓊杵尊ニニギノミコトが降り立った高千穂峰近くの霧島神宮であったということが『ホツマツタヱ』を読めばよくわかる。 >>419
偽書とされている、我田引水物語でしょ
実際は通用しない、無法(国家)のような話 >>403
>三種の神器
これ、普通の豪族墓にもこのセットで入ってるんだよな
皇統の専有物ではないんだよ
こういうところを見ても、さっきから「人と話のできない」九州説が振り回してる
平原1号墓の王は「権力が集中してた」っていうのが、思い違いだって分かる訳だ 軍神・神武天皇を祀る格式高い宮崎神宮は、歴代選手とも縁が深い。
「長嶋茂雄元監督は日本神話に登場する『おがたまの木』(下写真)を好み、勝機を呼び寄せるとして、神宮に贈呈していました。
ミスターは信心深く、行事がなくても訪れていました。
1998年までは節分祭で長嶋、王らG戦士が豆まきに参加して数千人が集まった。
OBからは『参道を通ると今年も始まったと身が引き締まる』という声をいただくことが多い」
(神宮関係者)
http://image02.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/577d08bbc3e08bd1.jpg >>360
途中からっていうか、ほとんど最初から新唐書じゃなくて偽書じゃん その神武というのは、何と言う名前なの?
わかりやすく言うと名字のようなものがあるはず
それともダンス・ウィズ・ウルブスのような話? そのような話があり・・・
刑務所に行くか、自殺でもしたほうが良いぞ
と言っているんだよ
言っている意味が、わからない? >>426
>偽書と言うなら何でも偽書で否定出来る
おいおい「新唐書日本伝」って書きだしで、勝手に別の話を同じカギカッコの中で
続けるようなごまかし体質の者が何を言うww
アラハバキが出てくる偽書じゃない古書は、日本には伝わってないんだよ >>418
卑弥呼は王として君臨して、外交などを専任。
国内行政は大率が担当。
ちなみに大率は官職名だから。 >>419
>『ホツマツタヱ』によれば、瓊瓊杵尊は高千穂で神上がり(崩御)している。
秀真伝なんて典型的な偽書だろ。
高千穂があったのは筑紫の日向、つまり福岡県の中でもまさに伊都国だよ。
倭王として金印を下賜されたのがニニギ、金印を伝えてきたのが細石神社、ニニギの墓は三雲南小路。 >>421
>これ、普通の豪族墓にもこのセットで入ってるんだよな
例をあげてよ。
実は天皇陵なんじゃないの? >>423
宮崎を日向と呼ぶようになったのは景行天皇の御代 秀真伝に頼るようでは、畿内説もおしまいだな。
マジで呆れたよ。 他のスレにも書いていることなんだけど
兄:
弟:書き込みをしている、もれ(仮)
妹:5月15日生まれ
え?となるでしょ
偶然にしては、おかしい、出来すぎていると >>436
いやホツマツタエを出してきたのは畿内説じゃないだろ >>433
今20秒ググったくらいで、赤妻古墳ってのが出てきたよ
自分で調べようと思わないのかね キュウリような葉、葱の華・・・
などの写っている写真。
イモ類の葉も写っていて、
白い制服のようなものを着ている子供。
帰農、農家になったのかな? 葱の華・・・『葱華輦』
このような話が出て来たり、
妹:5月15日生まれ >>421
>>三種の神器
>皇統の専有物ではないんだよ
どこの国の人ですか? 写真の当時の親?
軍人や警官ではないと言っていた
役所などに聞いたり、
調べてみても、いないと思う
寺院に通っていた・・・ >>406
これを読んで解釈してみろ。
これが宮崎県か?
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
この禊を記念して建てられたのが博多住吉だからな。
筑紫は福岡県に決まっているだろ。 筑紫>日向>橘>小戸>阿波岐原
こういう地名の内包のされた方をする地域が宮崎県以外にあるの? ・俺はこいつと旅に出る
・出家をしたりした家なのかな
びーいんぐ? 住吉神社は底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、表筒男神(うわつつのおのかみ)の住吉三神を祭神としています。
御出現は、伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされたときにお生まれになったと「古事記」に記されています。
相殿(あいどの)には天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)を配祀し、これを併せて住吉五所大神とも呼ばれています。
住吉神社の御神徳は、ミソギハラヘの御出現の由来から、「心身の清浄」を以てすべての災から身を護る神として古より広く信仰されています。
また、つつのお(筒男)の「つつ」には星の意味があると云われ、航海・海上の守護神としても厚い崇敬があります。 社記(筑前国住吉大明神御縁起)では、この住吉神社が鎮座する地を住吉神の生まれた阿波岐原(あはきはら、檍原)の古跡に比定する[5]。
これをもって『住吉神社略誌』では上古よりの鎮座として「住吉本社」または「日本第一の住吉宮」であるとし[3]、全国2千数百社ある住吉神社の始源であるとしている[5][7][8]。 記紀は天武の頃だからね。
天武が神武系なんだろう。
系図など途中は何でもいいんだな。
始まりだけが問題。
神武はイザナギ系じゃないと思うが、天武の時代にイザナギの子孫とした。
桓武天皇にとっては、それで問題なかったんだろうな。
始まりがイザナギで、応神を経てスクナヒコナが喜び、桓武に繋がると。 つまり福岡がイザナギによる倭国創建の地、倭国の王都。
オノコロ島は能古島。 福岡は天沼矛で知られる銅矛文化の中心地だし。
まさに国生みの地。 >>443
>>440参照
もの知らずが言いがかりをつけても恥をかくだけだぞ
皇統は日本の総本家だ 伊達郡というところに
住んでいた頃の話なのかな
家にあったものなんかも、
売ってしまったのかな、近所の人にあげちゃったのか、
誰かが持っていっちゃったのかな
と言っていた(老婆談)
こっちに来るときなんかも、
いままで、お世話になりましたと、
挨拶をして回ったんだよとか >>454
>天沼矛で
どこかのトンデモで、天沼矛から滴った泥でできた淤能碁呂島は
河内湖が干上がっていく途中に出てきた島で、今では大阪平野になってるから
いくら島を探しても見つからないって書いてあった
福岡よりは信憑性があるな >>434 九州の地理に少しでも通じてて 阿多隼人と神話というファクターを通じて考えれば天孫族の勢力地が日向・宮崎であったことは必定。
そして確かに「ひゅうが」と呼ばれるようになったのは景徳天皇の治世だが、「ひむか」呼称だったのはかなり前から。 >>332も>>400も、自分は生粋の日本人だって言わないなぁ
期待してたのにww >>458
そういう謂れの地が現在どうなっているか見たら、真実がわかるだろう。 大祓詞は中臣家に伝わってきた祭文で
邪馬台国の時代ほど古くないだろ >>460 陸の孤島舐めんな。天孫降臨の時代から全然変わってないゾ。
そして現在と過去の状況は比例しない。ギリシャやモンゴルを見てもわかることだ。
そんなことも分からないのか。 記紀が書かれたと同時期の養老2年(718)創建と伝わる
宮崎の百済の里と言われる東臼杵郡南郷村の神門神社に
6世紀後半の馬具や東大寺大仏台座下出土鏡の同范鏡など
西の正倉院と呼ばれるほどの大量の宝物を収めているからな >>460うはwwww 現在と過去を一緒くたに語るアホwwww 歴史板から出てけよwww 『福島 民家園』
とある家を調べてみて『茅の輪』のようなモノがあるでしょ その家の話だよ
家に凄い刀が飾ってあって、
本や書も沢山並んでいた
誰か近所の人に、あげちゃったのかな〜
老婆談 この謎の民話風オカルトも、九州説が行き詰まると湧いて出るよなぁ
九州説のごまかし方の変種か何か? 出家したのか何なのか知らないけど、
寺院に通っていたと言っているし
罪穢れ?話的にも合致していない? 以前から書いていることなんだけど
・真の紛いもの
・洗脳
実際は仏教関係の話 詳しいことは、わからないけど
wiki『チベット仏教』
【近現代の情勢と動向】
>ドイツではカール・ハウスホーファーらがアジア神秘主義を研究し、
>ナチスに影響を与えた。 『河童バビィ』
キンタロウ、鋼鉄郎ではなくても良い
>キンタロウが人間であると知っても
>あくまで神託を実行しようと河童に改造しようとしたが
>結局キンタロウは奪還され、
>置き去りにされた鋼鉄郎を新たな指導者に改造。
>その様子はナチスドイツを彷彿させるものとなった(しかし次回には鋼鉄郎が人間としてそのまま登場している) わんず?びーいんぐ?
特別だと勘違いした、何やら〜という曲
本当の聖徳太子()なら、同じことをいうはず 『穢れ』wikiにも書いてあるはず
【神道との関連】
>上記のように、
>穢れは元々仏教により日本にもたらされた観念であるが、
>次第に天皇を神聖視する神道の考えと結びつき これも書いているはず
騙り、成り済ましのような人間がいるみたいなんだけど、
何がしたいんだ
家を騙っている人というの?
何度も書いているんだけど、
キュウリの葉、葱の華・・・などの写っている写真、あれは家の先祖の あの謎の311大震災なども、なぜ起きたのか
何か知っている人は、いないのかな? だから川崎に住んでいると言ってるんだよ、
神奈川県の川崎市川崎区
言ってる意味が、わからない? 332の>>435
>>>宋代の学者が大幅に書き直した物だよ<
>>何種類もの版本の系列本が存在する、という事は、
それぞれの系列版本は、別々の写本をそれぞれ書き直さずに版刻した、
という事になるんだよ。<
>それ、定説と正反対<
それじゃ、定説学者が、
「史料事実が示す史料実態を、否定曲解した」嘘つき騙しの、
詐欺をしている、という事にになる訳だ。 332の>>450
定説派の大和説狂人の荒らしがひどいな。 332の>>450
定説派の大和説狂人の荒らしがひどいな。 332の>>466
>邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。<
「邪馬台国」なんて存在しません。
>邪馬台は単なる地名です。<
「邪馬台」なんて地名も存在しません。
>ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。<
「南≠東」に拠って、×です。 332の>>467
>魏志倭人伝 邪馬台国の官<
「邪馬台国」なんて存在しません。
>官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神<
その官は、筑紫倭国の官であり、「南≠東」に拠って、生駒は×。 >>478
自分は素人で史料も読んでないけど正しいのだー
学者は間違っているのだー
って、アレだろ 332の>>468
敗れたの大和説の恨みがこもった暗い情熱か・・・。
おそろしいな。
この掲示板のようなシステムは、Yahooでもそうであったが、
いずれこのように、
思想宗教にクルった・・・・のような人物の落書きばかりに占領されてしまう。 332の>>482
議論に負けた「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説人種は、
イヤガラセの貼り付けが好き。 332の>>497
こんなの貼り付けの嫌がらせの悪事ばかりを働くようになっちゃ、
大和説はもう終わりだね。 332の>>512
>(後漢書の李賢注の「邪摩惟」)つまり、国内史書による「根拠」は無いんだな?<
太宰府付近での国内呼称があったから、郭務ソウが報告出来たんだよ。 332の>>559
こんなことだからの大和説が消えたんだな。 332の>>986
>九州説は卑怯者<
大和説者は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの・・・・詐欺師。 >>484
>この掲示板のようなシステムは、Yahooでもそうであったが、
>いずれこのように、
>思想宗教にクルった・・・・のような人物の落書きばかりに占領されてしまう。
ザラコクの自己紹介
333の>>70
>魏志倭人伝 邪馬台国の官<
「邪馬台国」なんて存在しません。
>官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
魏志倭人伝の倭地は九州付近の話であり、
「南≠東」によって×。 隋書?国伝
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
夷人は里数を知らない。
ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
地勢は東が高く西が低い。
邪靡堆を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。
古には、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、?耳に近いと言われていた。
明くる年、お上は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。
百済へ渡り、竹島に至る。
南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にある都斯麻国を経て、また東の一支国へ至る。
また竹斯国へ至り、また東の秦王国に至る。
その人は華夏(漢民族)と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。
また十余国を経て海岸に到達する。
竹斯国以東はみな倭に付属している。
倭王は小徳の阿輩臺を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。
十日後、また大礼の哥多?を派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れを労った。
既にこの国の都に到達した。 国権の最高機関である国会に改ざん文書を提出はありえない
民衆主義の根幹を揺るがす大問題である >>477
>神奈川県の川崎市川崎区
つまり日本人ではない、と 元伊勢が天橋立だからな
天照大神も畿内の人で、ニニギも畿内、ホホデミも琵琶湖の近く生まれ、フキアエズは宮崎の鵜戸生まれであっても、神武は中央生まれで宮崎市内即位
現在、京の紫宸殿に高御座があり、有史以来、畿内が日本の中心である事は揺らぎない 「天照大神の子が高千穂に降り立って179万2470年余りたったのに、まだ自分たちは西のはずれにいる。全土を制覇して大和を都にしよう」
宮崎(高千穂)
→ 大分(宇佐)
→ 福岡(筑紫)
→ 広島(安芸)
→ 岡山(吉備)
→ 大阪(浪速、白肩津しらかたのつ)
→ 和歌山(紀国、男之水門おのみなと) 頭の病院に行くか、刑務所(死刑)・・・か、自殺か
それしかないだろ かなーり前に書いた
三重、伊勢だか知らないけど、
誰が住んでいるんだ? 日本書紀(崇神天皇)
天皇は神淺茅原かむあさじはら(奈良県桜井市茅原)に行って、八十萬神ヤソヨロズノカミに占いで問いました。
このときに神明憑倭迹々日百襲姫命カミヤマトトトヒモモソヒメノミコト(孝霊天皇の娘)が憑かかりして言いました。
「天皇よ。どうして国が治まらないことを憂うのか?もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
崇神天皇は問いました。
「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」
神は答えました。
「私は倭国やまとのくにの域内さかいのうちにいる神、大物主神オオモノヌシノカミという」 他のスレを読んでいないのか?
いちいち反論なんてしないほうが良いぞ >>462
>そして現在と過去の状況は比例しない。ギリシャやモンゴルを見てもわかることだ。
>そんなことも分からないのか。
筑紫の日向、糸島が倭国の王都でいいな。 それと出雲というのも同じ、
誰が住んでいるんだ?
神主のような人がいるようだけど、
何かの末裔なのか >>467
>この謎の民話風オカルトも、九州説が行き詰まると湧いて出るよなぁ
>九州説のごまかし方の変種か何か?
はあ?
畿内説だろ、そいつ。
一緒にするなよ。 「>>」
このようにレスをするなと言われたことがあるでしょ これも書いた
専門学校か、どこかへ通い、勉強をして覚えたことなのか?
どこかで習ったの?
そういう三流の学校があると書いてない?
神道学園? 南を東と改竄したり、この国は昔からやっていたんだな。 >>499
饒速日が天照のいた高天原から天岩船で畿内に降臨したのに、天照がいたのが畿内なわけないな。 >>501
行程に矛盾があるだろ。
宮崎から奈良に行くのに、なぜ関門海峡を2度も通って筑紫によるんだ? 333の>>75
>昨今、畿内などの渡来人勢力が大和朝廷を作り各地を征伐した
みたいな誤解が広がっている。<
「畿内」もなかったし、「朝廷」もなかった。
大和は、筑紫倭國の別種の旧小国。 >>522
などと、理由も言わず
ただ結論ありきを言い張るだけなのが
九州勢 333の>>118
>「東南陸行」で北東にある伊都国に行くもだと言い張る方が
よっぽど嘘つき騙しじゃないか w<
「東南:出発方向」、
「陸行五百里:途中の説明」、
「到伊都國:到着説明」を否定する方が、
よっぽど嘘つき騙しじゃないか w。 333の>>121
>狂った東遷厨が白昼に無差別殺人とかやらかさないだけマシだろ<
極右のクルった皇国史観大和説者は、
いずれ、人種差別的殺戮戦争とかをやらかして、
国民を殺そうとしてしまう・・・・だから、困るんだよな。 333の>>127
大和説者は全員、所詮負け組 。
荒らすしか生き甲斐がないのさ w 。 333の>>131
古田読みでは、部分里程がそれぞれの境界までの距離だとしたから、
その部分里程の合計が萬二千余里になったぼぴったりになった、
という結果になって、、正しかったのは明らかなのだが。 だからなんでイチイチ位置論争なんて喚いてる馬鹿に構うんだよ
スレが無駄になるからほっとけよ >>528
部分里程がそれぞれの境界までの距離だとしたら
国内を通過する距離が計算に入ってないから
合計が12000余里になったら
おかしいね >>525
「東南:出発方向」
→ 出発方向に何里行ったかは書かず
「陸行五百里:途中の説明」
→ 途中どの方向に行ったかは書かず
「到伊都國:到着説明」
なんて説明したら、確実にアタマ変でしょ
333の>>132
「大和は倭國の別種の旧小国」などを否定する大和説者って頭が狂ってるね。
狂ってなきゃ、こんなことしない。 333の>>142
頭がおかしくなるのも、大和説が論争に負けてるせいだろ?。
人生の最後になって、長年信奉してきた大和説がオシャカになったわけだから。 333の>>148
大和説者は、
老人性痴呆で、理性による抑制が働かなくなったケースなんじゃないの?。
人間として終了ってやつ。 333の>>170
もう大和説は、荒らすしか出来なくなったか?。 333の>>187
まあ荒らすなら荒らさしておけばいい。
大和説が何の反論も出来なくなった、
と周りに宣伝してるようなもんだから。 333の>>189
ある意味、人種差別殺戮大和戦争極右の皇国史観大和説者が、
何の反論もできなくなって逃避というか議論放棄に走り、
老人性痴呆も進行して善悪の判断もおぼろげになり、
強迫観念が嵩じて被害妄想を爆発させ、
戦争や犯罪行為に走る、 という、典型的な転落コースだよな。
街中の人混みでで登山ナイフ振り回したりしなかっただけでも喜ばねば、な。
今後も第二第三の発狂大和説老人が出てくるだろうが、
掲示板で発散させてやろう 。
国民の平和と安全や、社会のためだ。 333の>>197
大和者の人種差別的殺戮戦争の皇国史観病が進行したら、
遺跡の損壊や街中で幼児への障害もやるんじゃないか?。
家族が早めに施設に入れてくれるといいんだが 。 333の>>198
ある意味、大和説者が何の反論もできなくなって逃避というか議論放棄に走り 、
←この辺で、人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観病が進行
老人性痴呆も進行して善悪の判断もおぼろげになり 強迫観念が嵩じて被害妄想を爆発させ
←この辺で発作、破壊衝動爆発
犯罪行為に走る。
←イマココ
という、典型的な転落コースだよな 。
やれやれ、痴呆老人の世話も大変だ。 九州説というか・・・
ひたすら嘘をつき続けるザラコクの異常さが凄い 333の>>222
人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観の大和説者の、破産して発狂した老人が、
荒らし続けているよ。かわいそうだね。 333の>>224
人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観の大和説の話を、国民に絶対に聞きたいぞ、
という、歪んだ自己防衛本能の異常な攻撃性の暴走、 あるいは幼児化の、
無残な老な。 >>521
>>>520
>用事があれば行くだろう
>矛盾ではない
なんの用事だ?
筑紫の倭王に挨拶? >>530
境界までは七千里。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>545
あ、違うか。
国の中の移動がないと?
普通は国邑(環濠集落や都城)の門までを想定するのだけれど、そうでない場合はどうなのかな。
島の大きさを考慮するのは古田説なんだが、個人的には反対。
中国人にそういう発想はない。 333の>>225
会稽東治の東がほぼ九州だ、って指摘されたのが決め手かもしれないね。
「南→東」や「長里」位しか拠り所のなかった大和説が、
唯一の支えを失ったんだから。 ぼくちゃんの考えたすごい行程とか相手すんなよいい加減
だから調子こいて居座って荒らし続けるんだよ 333の>>227
>会稽東治も会稽東冶も同じ場所だよ 台湾あたりだ<
陳寿執筆時点の会稽東治は、会稽郡の中の東の「治」地域であるが、
「東冶」は、会稽郡ではなく、はるか南の建安郡にあったんだよ。 333の>>242
はいはい。
悪い都合の史料は、何でも「ウソだ間違いだ」と理由もなく言いはり、
相手が、幾ら史料根拠を説明しても知らん振りして、
「言っていないから説明せよ」と言い張らないと
大和説は即死だもんねー 。
・・・・は、仕方ないよねー 。 333の>>250
>>不彌國で萬二千余里がほぼ消費されてしまっているので<
>不彌國で消費されてしまっているなら 不彌國が女王の都になっちゃうでしょ
めちゃくちゃ言ってる 、
ならない。
「主行程」記載は、不彌國から「南至邪馬壹國、女王之所都」であるから、
不彌國から殆ど移動距離無しにに、すぐ南に、邪馬壹國の入り口がある事になる。 333の>>265
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が破産して、
発狂した老人やガキらが荒らし続けているよ。
かわいそうだね。 333の>>283
「筑紫倭国から別れた別種の旧小国」の大和説が破産して、
発狂したガキや老人が、嫌がらせに荒らしを続けているよ。
異常な行動だね。 333の>>286
>>高慢な書き換え屋の後漢書の「東冶」に拠って騙されて、
ヘンテコな地図を書いてしまった、というだけだ。<
>そんな悪口で史料をけなしたって、史料事実は史料事実でしょ?<
後漢書や混一のような、
後代に実地に確認もしないで、自己解釈に拠っての内容説明をした記載や地図は、
半分×文献であり、
史料事実にならないんだよ。 >>406
これを読んで解釈してみろ。
これが宮崎県か?
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
この禊を記念して建てられたのが博多住吉だからな。
筑紫は福岡県に決まっているだろ。 >>458
>そして確かに「ひゅうが」と呼ばれるようになったのは景徳天皇の治世だが、「ひむか」呼称だったのはかなり前から。
ソースは? 社記(筑前国住吉大明神御縁起)では、この住吉神社が鎮座する地を住吉神の生まれた阿波岐原(あはきはら、檍原)の古跡に比定する[5]。
これをもって『住吉神社略誌』では上古よりの鎮座として「住吉本社」または「日本第一の住吉宮」であるとし[3]、全国2千数百社ある住吉神社の始源であるとしている[5][7][8]。 333の>>290
>「出発方向」だけ説明して、その後にどっちの方向に行くか説明しないとか
そんな変な説明を真に受けたら
道に迷って、簡単に野垂れ死にになってしまう。<
当然、案内人や道標や道なり道に従って進むから、道に迷わないし、
紀行文には、途中の特徴などの説明が書かれていればよい。 333の>>291
>証拠でもあるの?
またウソついてる? 九州説はこれだから・・・<
大和説が論破された証拠なら、もう数え切れない位書いて来ているんだが、
彼らは、常に知らん振りして、聞いていない、と言い張って、
同じ事をまた質問したり、「証拠でもあるの? またウソついてる?」などとたり言い出して、
世間の人々を騙そう、とするんだから・・・。
大和説者は、これだから・・・。 333の>>295
「知らん振りして、同じことを繰り返し質問し続ける」というような、
荒らししか出来なくなった時点で、
大和説者のまけだよ 。 333の>>315
論争したら必ず負けるから荒らす、イヤガラセする、
の大和説者は、惨めすぎる。 333の>>316
「南≠東」などの嘘吐き騙しの、
人種差別殺戮戦争狂の、国粋皇国史観の大和説者や、
安部内閣や右翼マスコミや右翼学会教育界の大和説者らは、
もう人間としてもダメだろ。
哀 333の>>330
頭を使うって事が、もう大和説にはできないんだね。
もうっていうか、前からだけれど 。 畿内に邪馬台国が成立したのは確実だがその邪馬台国が現れる直前まで畿内の卓越性みたいなものは見いだせない
文化的にも近畿北部の方が近畿南部よりも多くの面で優越性がみられる
また、邪馬台国前後で文化の連続性も希薄
別の国になったと言っていいほどの断絶が見える
まさに邪馬台国の時代に邪馬台国が畿内に突如として現れたように見受けられる
この成立過程がむしろ重要な部分 333の>>344
大和説は、議論しても勝てないって認めてるんだね。
スレ主みたいに何を言われても聞かない、というのすら放棄して、
ただ脳を使わないコピペのみを続ける。
まあ、勝ち目がないのは数十年前からなんだが、
勝ち負け以前に現実を見た方がいいよ。 333の>>345
誰が犯人かバレていないのに、
白々しく九州説者のせいにするから、犯罪者予備軍と言われるんだ。
大和説者は、醜いな。
老い先短いからって、人生の旅の恥をかき捨てるなよ。 >>569
>また、邪馬台国前後で文化の連続性も希薄
>別の国になったと言っていいほどの断絶が見える
>まさに邪馬台国の時代に邪馬台国が畿内に突如として現れたように見受けられる
畿内だと考えるからおかしいわけで。
畿内じゃないってことだよ。 333の>>356
頭おかしいだけじゃ区別つなないね。
大和説には何人もいるもの。 333の>>403
>とっくに示されてるだろ、かなり詳しく<
内行花文鏡は少し述べていたが、平原とに対比ではなかった筈だし、
問題の方格規矩鏡に関しては、知らんよ。 何もかもが畿内から始まったと考えるのは様々な発見から考えて無理がある
畿内は広域連合である邪馬台国の中心地に「選ばれた」場所で畿内が成長して邪馬台国になったのではないな >>576
そう畿内説のテンプレに書いてあると思うんだがね >>573
現に纒向遺跡は畿内に突如として現れているわけだが?
現実が見えないのは、おかしいことだよ。 >>563
>当然、案内人や道標や道なり道に従って進むから、道に迷わないし、
じゃ、出発の方角も書く必要ないし、突然なぜか途中からの距離を書くことも、なにも必要ないな
なんで、そんなこと書いてある? 確かに吉備は庄内式なども吉備の技術が土台にあるし、古墳の形や弧文や埴輪と言う大きな影響を与えてるからな
邪馬台国が吉備政権だったと言われてもそれなりの説得力がある 纒向遺跡の外来系土器で一番多いのは東海、次に山陰だろう。
東海西征が中心だろう。 飛騨の口碑は結構真実を含んでいるんじゃないかな。
中部の勢力が出雲を作り、大和朝廷を作ったと。
東海山陰の勢力を無視し過ぎ。 >>553
>「主行程」記載は、不彌國から「南至邪馬壹國、女王之所都」であるから、
なら、水行10日陸行1月が帯方郡からの日程だというのは、真っ赤なウソだな 333の>>404
>邪馬壹國は誤字 病遅刻は仕方ない<
裴松之も、宋明清代にも考証校勘されていないし、
倭人伝内でさえも、「壹と臺」とは書き分けられているし、
後代の「書き換え魔」史家の主張など、根拠にならない。 >>582
纏向が成立した後は関係ない
東海地方は遅れて参入した地域で邪馬台国の主体じゃない
あくまでも邪馬台国成立前の主体となった勢力は吉備 >>585
「壹と臺」が書き分けられている
という根拠なし
それは単なる主観 333の>>407
>誤魔化すなよ 戦前は東大にいっぱいいたろ<
戦前も、明治憲法の前提たるの大和皇国史観の原則は守られており、
卑弥呼や?倭の五王やタリシホコや白村江も、大和の歴史だ、
という立場を崩していなかった。 333の>>408
>国公立に人寄せパンダは要らないからねー<
国公立は、文部省がほぼ完全管理しているからね。 近江、東海の勢力は邪馬台国成立前は独自の広域連合のようなものを作っていた様子が見える
邪馬台国成立に際してこの構成員として参入して発展的に解消して取り込まれた流れと思われる
その流れの中で多少の小競り合いがあってそれが狗奴国との戦いとして残されているんだろう 333の>>410
>倭人伝に四至説明なんて書かれてませんが?<
この男は、また、既に説明してある事を知らん振りする・・・・詐欺師。
「倭人在帶方東南大海之中」と、
「南至投馬國水行二十日」と、
「南至邪馬壹國、女王之所都」が、
四至説明(=位置説明)になっている。 畿内はX式の頃に侵入を防ぐかのような高地性集落が出来ている
これが対外なのか、それとも内部的な統一の流れの話なのか
寺澤氏は安定した農耕社会の畿内での劇的な変化は強力な外圧のようなものを想定してるな 333の>>412
>>「南至投馬國」には、「方向と四至説明しか書かれていない」から、
魏使らは「移動していない」。
「水行二十日」は、所要日数で距離を示しているだけ。<
>それが正しいとすると、
「南至邪馬壹國」も「方向と四至説明しか書かれていないから、
魏志は「移動していないんだよな」ww<
目的地の「邪馬壹國女王之所都」への主(線)行程になっており、
不彌國から実質的な移動里数無しに、邪馬壹國の外縁部の入り口に至った事になる。
>そして、「水行十日、陸行一月」は、所要日数で距離を示していることになるから
ザラコク説の不彌国起点の考え方だと、北部九州の不彌国から
南へは水行できないんだが?ww<
これも間違い。
「水行十日陸行一月」は、その直前文言の「女王之所都」の説明になるから、
〜行程記載全体の「從郡至倭〜女王之所都」の日数説明になる。 333の>>415
>>文部省が直接関与出来るのは、当然国公立の大学。<
>バカだなぁ
私学こそ、文部科学省からの私学助成金がもらえなくなるのは死活問題なんだぞ?<
それが間接的関与。私学の経営中心は授業料など。
>それに、私学なら問題ないというのであれば
「今現在、九州説を唱える現役の教授が私立大学も含めて一人もいない」のが
「文部科学省に睨まれるから」という理由はまったく成り立たないってことだなww
これ、自分で言ってたんじゃなかったっけ?<
お前も天誅らも、「一人もいない」筈だ、と言っていたぞ。
>Part331の>363で
「文部省や、大学の経営者や支配者は、(南→東を否定する)大和説の否定者だ、
と分かれば、 絶対に大学教授にする事を認めない、と思うぞ。」<
その通りなんだろ?。 333の>>424
「南→東」などの嘘吐き騙しで負けた、
敗者大和説者、がんばるなあ。
w 畿内はW式の頃までは拠点集落も安定して存在していて大きな変動がないがX式になるとみてわかるような変化が起こる
この時期の急激な変動は何らかの強い力が働いたとみるしかないな
この辺は色々な学者の意見が一致してる >>590
纒向遺跡の初期の外来系土器は東海が主体だぞ。
邪馬台国の母体は東海の勢力だよ。
狗奴国と東海は全く関係ない 333の>>429
>煽るなまたやるから
貼り付けの原本の出どころは畿内説の跳ね返りのバカなんだよ
纒向は有力候補に違いは無い 肉付けをしよう<
纒向は、「南≠東」に拠って、始めから×だよ。 >>599
だから「外来系」でしょ
纏向の主体じゃなくてあくまでも客体 333の>>437
せっかくの食糧の桃を、頭から「全部土坑祭祀だけだ」と決めつけているド素人か い?。
大和説のレベルがわかるわ。 333の>>438
>>纒向は有力候補に違いは無い
>「候補」じゃないと思うけどな
当時の倭国の中心として新たに作られた祭祀目的の計画都市なんだから<
「南≠東」に拠って×。
大和は、倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭国の地方の市を監督する「大倭」職の国の一つ。 そもそも東海の土器の分布を見れば東海に邪馬台国の主体がないのは明瞭
あくまでも吉備、畿内の土器がその主体 333の>>473
>テンプレは普通に正論だと思うけどな<
テンプレも、「南≠東」問題から逃げた嘘つき騙しの・・・・詐欺。 333の>>490
>大理から「大体東」方向に向かったら安南に行ける?
地図すら見ないのか? <
「大理?」が、成都の西南2400里だ、と書いているから。 >>605
テンプレは「南」が「東」の間違いだと
論拠をあげて主張してるんだから
「南≠東」問題から逃げたと言うのは
真っ赤な嘘でしょう
ザラコクの言うことは、どれもこれも
嘘つき騙しの・・・・詐欺。 333の>>502
>>そして、「鏡片」があるから、
筑紫倭國の東征で、筑紫倭国の支配下になった、というだけ。<
>「鏡片」があると筑紫倭国の支配下?
筑紫倭国とやらは、弥生時代に埼玉県まで支配してたの? 新説だね。<
「鏡片」は、筑紫付近に集中的に沢山分布していて、
他に単発的に、半島や播磨や、(徳島?や)、北陸東北方面に出土し、
筑紫倭国支配者から、(地方の豪族王へ、ではなく)、
親愛なる部下へのペンダント的な下賜品であったようで、
祇園山の墳裾の殉葬の甕棺の(高級女官と思われる)成人女性が付けていたので、
卑弥呼が、直属の部下や地方へ派遣した将軍らに下賜した、という可能性が非常に高く、
埼玉から出土したんなら、卑弥呼の東征派遣将軍の一人が所持していたものであった、
という可能性が非常に高い。 >>609
>親愛なる部下へのペンダント的な下賜品であったようで、
ザラコク独特の思いつきだね
根拠も皆無だし
w >>609の追記。
「鏡片の分布」は、女王之所都が筑紫であった事に証拠になり、
九州説のほぼ絶対的な証拠になる。 333の>>508
>(鏡片の関東での出土)弥生時代に?<
いや、ペンダントのようなものは、女性が好むものだから、
おそらく、卑弥呼か壹與の部下の、
「東征将軍」の所持品。 いちいち相手すんなよ
基地外がまともなこと言う訳ねぇだろ
そもそも位置論争なんてする場所じゃねぇんだよ >>613
そんな憶測が、どうして絶対的証拠なんだ? 333の>>512
>うむ。 ついでに銅鐸も倭人だよ。倭種かもしれんが。<
それは、少し難しい。
銅鐸の始めは、出雲が中心であった事は、否定し難く、
出雲は、梁書にまで、「文身國」と記録され、独立的に存続していた国。
そして、記紀に拠れば、確かに海峡から筑紫の天孫族との 血族関係はあったようで、
倭種であった、とは言えなくもない。
だから、瀬戸内〜近畿〜東海の銅鐸祭祀部族は、
元は出雲系(毛人?)であったようで、そこへ、倭國の東征の毛人55国が起きたので、
双方の混合時代があったんだろう、という事になる。 333の>>546
>>「自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,
青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里」
は、魏志とは全く違うし、 「裸國民」や「?齒民」も、魏志とは全く違うから、
魏志は淮南子を底本にしていない。<
>底本て言葉の意味分かってるか?
丸写しじゃないから底本じゃないって、何を言ってるんだかww
底本は、情報源って意味だぞ
裸国、黒歯国の情報が倭国や帯方郡からの情報にあったと考える方がおかしい<
「裸国、黒歯国の情報」は、魏使らの、「倭人や侏儒國人からの伝聞情報」であり、
陳寿がそれを引用したのであり、
「帯方郡からの情報であった」とかを考える方がおかしい。 >>512 自分に都合が悪くなった途端現代の宮崎を貶めて論点をずらそうとするしょっぼい男w
九州の地理に少しでも通じてる人間なら北九州部に阿多隼人と近しい関係にあった天皇家が住めたわけがないと気づくはずなのにw 333の>>549
>>「南≠東」だから、<
>大陸の史書が方位を間違うはずがない、というのは、 論理学的に「偽」だ<
お前も、その「偽だ」という論証をしていない。
それは「偽」そのものだ。
>論証抜きの『「南≠東」だから、 』には一切なんの意味もない <
周髀算経や礼記などの東西南北の決め方の記載がある事は、何度も説明してあり、
お前は、それを知らん振りしている。 333の>>552
>>仮に一本の桃の木に20個の実が付く、とすれば、
桃の木が100本あれば、一年で2000個貯まる計算になる。<
>20個ということはない。
100個くらいはつく。
20本も植えてあれば一年分くらいに過ぎない。<
成程。 333の>>555
結局、大和説のヤツって、全員荒らしじゃないか?。 333の>>562
荒らしがコピペするのも、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、意味のない戯れ言を書き散らすのも、
何の役にも立たないという点では、まったく同じだな。 333の>>564
>バレないでしょ<」
梯儁等らと、張政等らの、二組の複数の遣使が来ているし、
郡役人たちの記録もあるから、
インチキ造作報告を書けば、他方の遣使らの報告との差異に拠って、
魏帝や魏の高官らにバレて、首が飛ぶの。
魏の 333の>>565
>大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国
なんて史料事実、ないよな<
後漢書や隋書や通典にも関連情報があるが、
旧唐書や唐会要や新唐書が記録している。 >>619
天皇家が隼人と関係するというのが妄想だし、南九州の田舎に天皇家がいたわけがない。 >>626
はい海幸山幸・釣針喪失談。
詳しくは上のレスを嫁、不学者。
あと南九州を田舎呼ばわりするとは天照大御神の怒りに触れる覚悟は出来ておろうな?w 333の>>566
>ツクシ=九州全土・・・に対して、日向国は宮崎<
ツクシは大和側の後代の造作呼称。
筑紫では、「チクシ」であり、
古事記が、福岡県の「筑紫伝承」を、「宮崎の神武ら伝承に合わせる」ために、
「竺紫」と書き換えて、九州全体を意味させる騙しをし、
書紀もそのインチキを踏襲して、「筑紫」を九州全体を意味させるインチキをした。
元々の「日向」は、筑紫の日向峠地域の地名呼称。
だから、宮崎は、筑紫の倭奴國や伊都国の阿毎氏や、神武東征の大和の阿毎氏と同じ阿毎氏であったようで、
同じような文化を継承していた。
そして、タリシホコも阿毎氏であり、(倭の五王の東海姫氏國の姫氏系ではなく)、
伊都国系の阿毎氏系。 333の>>567
>ある古書に曰く
神武天皇即位前壬子年、日向一族筑紫を越え、邪馬台国(畿内にあったニギハヤヒ.安日彦.長髄彦らの国)を東征せんと兵を挙す。
甲寅年、邪馬台国王アビヒコ.ナガスネヒコと摂津に戦うも、日向一族敗れて退き、南海道に兵を募り、戌午年、再び東征せしも、
日向族のヒコイツセノミコトは和泉に討たれ、弟なるヒコイナイノミコトは難波に討たれ、第三皇子なるワケミケヌノミコトは行方不明と相成る。
已未年、第四皇子なるワケミケヌノミコトは日向一族ヲ統率し、サラニ南海道、韓兵、淡路等の兵合わせて邪馬台国を攻めるに、
ナガスネヒコは重き傷を受けて東国に退き、ツガルアビヒコもまた越に退き、奥州会津にて合軍し、
さらに奥州東日流に移りアラハハギゾクて安住し、ここに荒吐族の祖となりぬ。神武帝の乙亥年、
荒吐五王一挙して故地邪馬台国を攻め、日向族を誅滅し、天皇を空位ならしめたるも、
荒吐族のタギシミミ敗れたるによりて奥州に退く。荒吐族の大和への遠征は爾来、歴代の帝位に必ずや攻防を繰り返す。
徳帝の在位時も、荒吐族五王軍は大挙して邪馬台国を攻めるにより亦天皇を空位とあいなす。のち日向族と和交す と。<
成程。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 333の>>585
>日向さえも北九州だったと言い出すトンデモ九州説<
ウガヤフキアエズ自体ですら、
王名というよりは「鵜や茅?の葺く身分」のような呼称であり、
筑紫の阿毎氏王家の末席の人物であったようなのであり、
当然、筑紫の日向峠付近の出であるから、宮崎を故地の「日向」と名付けた、
という可能性が十分にある、 宮崎を故地の「日向」と名付けたのは海幸彦でしょ。
末子相続で山幸彦が日向を相続したから、海幸彦は宮崎などへ領土拡大へ。
末子の邇邇芸が日向を相続して、饒速日が畿内へ領土拡大したのと同じ。 >>632
筑紫>日向>橘>小戸>阿波岐原
こういう地名の内包のされた方をする地域が宮崎県以外にあるの?ああ? 333の>>602
>九州で墳長が120メートルを超える前方後円墳は全部で12基。
律令制に基づく国別でみると、現在の宮崎県と鹿児島県の大隅半島地域を含む日向国が8基と圧倒的に多い。
これは畿内王権と深いつながりがあったことの証しと受け止められている。<
元々、筑紫の阿毎氏の分家同士の関係。
大和も宮崎も、母国の筑紫の那珂八幡などを模倣踏襲拡大した。
>なぜ畿内王権が日向と深い関係をもったのか。謎を解くカギの一つが「后(きさき)」だ。
古事記と日本書紀には12代の景行天皇、15代の応神天皇、16代の仁徳天皇がそれぞれ日向出身の后を迎え、皇子や皇女をもうけたと記す。
古事記では3人で、日本書紀では4人の日向出身の后が登場する。
天皇に仕えた女性は古事記全体で計85人。このうち畿外出身とみられるのは21人。
内訳は近江5人、丹後3人、吉備2人、尾張2人、伊勢2人など。日向は圧倒的に離れている。<
その「日向」伝承の日向は、宮崎の日向出身者と、福岡の日向出身者の両方に可能性がある事になる。 333の>>603
>博多住吉神社自体が大同元年(806年)に「住吉神」に神封36戸が筑前国から充てられて
天安3年(859年)に神階が無位から従五位下に昇叙された程度の歴史だから <
勿論、倭國の歴史を抹殺して盗用した大和政権の「建前」での記録は、根拠にならず、
住吉神社は、
筑紫で生まれて海峡の支配者で、
出雲のN0.2であった天照の子?である「 底筒男命・中筒男命・表筒男命」が本来の?伝承。 >>633
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇だよ。
あと、山幸彦こと彦火火出見の宮は筑紫の日向すなわち伊都国の高祖宮(高祖神社の祭神)。 >>635
>しかも阿多と近くなきゃダメなんだよ
根拠は? >>634
福岡県の筑紫の日向の小戸だろ。
橘は岬のこと。 頭でも狂ってるのか?
天皇が日向から后を迎えるのに、
金銀財宝が大量に出土している筑紫日向から迎えずに、
なんで宮崎から迎えるんだよ?
地理的にも朝鮮半島や中国大陸へ向かう要所にある筑紫日向と
宮崎と
どっちと結婚した方が得か
常識で考えればわかる話。 >>639 >>174
コレで分からないなら後から言ってな。 >>641
その天皇家の出身地が日向・宮崎なんですが >>643
出身地が、
筑紫日向なのか、宮崎日向なのか、
という議論をしている時に、
宮崎日向だということを根拠にしてくる
これが畿内説のいつもの常套手段 >>644
で?脇から失礼するが、>>174への弁論は? >>646
ニニギ王家の血を引く、例えば海幸彦などが、
さらなる領土拡大を求めて、
九州の僻地である宮崎に渋々攻め込んだ、
というだけのことだが。
なにか? >>646
妄想に対する弁論って、何を言えばいいの? >>649うはwwwコイツ >>646が言いたいこととその根拠全くわかってねえwwwアホは歴史板から出てけよwww >>649
イザナギが禊をしたのは筑紫の日向の小戸(住吉神社)
ニニギが即位したのは筑紫の日向の高千穂(高祖山)
彦火火出見(山幸彦)の宮は筑紫の日向の高千穂宮(高祖神社)
で? 神話っていう考古学的マーカーがあるのにバカは「妄想」の一言で片付けwwwww歴史を語る資格無しwwwww 妄想でも騙ってろwwwww 神話がマーカーなら
北部九州や出雲などが日本発祥の地で問題ないわけだ。 八咫の鏡があった伊都国すなわち筑紫の日向が倭国の王都だろJK >>654
うはwwwコイツマジでボケてんじゃないのwww神話がマーカーになるってのはwww
「神話体系」の話だろバーカーwwwwww >>657
横レスで悪いが、ブーメランだし反論になってないぞ。
歴史板住人なら理論で反論しろよ 恥ずかしい。 >>659
今って邪馬台国じゃなくて天皇家の話ですよ。 スレタイとは脱線してますが。
天皇家と阿多隼人、山幸彦と海幸彦、南洋と天皇家・隼人の成り立ちの神話の共通。
これら全てが宮崎に天皇家のルーツがあることに繋がっているように上のレスを見て私は感じました。
あなたは論理的に上記全てを論破しないと反論になりませんよ。 すべて筑紫の日向、伊都国が都という話でまとめられますよ。
魏志倭人伝と記紀神話は矛盾しない。
金印と八咫の鏡を保有していた伊都の倭王がそのまま天皇家の祖先。 >>661
神話は神話。
解釈の仕方でどうとでも変わる。
あんたの解釈は、宮崎=南洋=天皇家・隼人
九州説さんの解釈は、筑紫日向=古代最先端地域=伊都王家
で、考古学的には伊都王家が主流。 南洋系というが、
奈良は宮崎系というよりは、
熊本系。
同じ九州でも、福岡・肥前、長崎、豊国、肥後、宮崎、鹿児島、
地理も文化も
まーーーったくちがう。
神話をもとに宮崎を持ち出す時点で、
九州説からみたら失笑するしかないのだよ。
これは別に宮崎を見くだしているわけでは無くて、
まったく違うから。
福岡とかと違うとかじゃなくって、奈良など畿内ともまったく違う。
それもわからずに南洋系とか宮崎日向とか主張するのが滑稽。
烏骨鶏。 畿内の集落はこうやって筑紫日向からやって来た神武に統一されていったのだろうなあ 筑紫伊都と畿内は銅鏡、銅矛などの文化でつながっており、特に内行花文鏡を奉じるという特徴が共通している。
記紀の筑紫の日向を宮崎県と読むのは誤読に過ぎず、筑紫とあれば福岡県のこと。
筑紫の日向が倭国の王都。 >>670
畿内は福岡系。
考古学的には銅鏡、銅矛文化を継承している。
三種の神器などもその一部。 畿内を北部九州から奪い取ったのが神武東征
以降、玉突き的に東に押し出された北部九州は関東と関係を持つ。
北部九州グループ(+関東) :彩色古墳
南部九州グループ(+瀬戸内、畿内):線刻古墳 >>674
>畿内を北部九州から奪い取ったのが神武東征
日本語がおかしいだろ。
畿内を奪った九州北部の尖兵が神武 考古学者で畿内が福岡系だなんて主張してるのはいない 333の>>632
「南→東」などの嘘吐き騙しの、人種差別殺戮戦争狂の、国粋皇国史観の大和説は、
異常者の人材にだけはこと欠かないな。
頭いい奴も知識あるやつもいないけど。(笑 333の>>644
語れば、「南→東」などの嘘吐き騙しをする、
人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観を鼓舞扇動する、
論理はメチャクチャ、知識は皆無、論破されれば罵倒か荒らしで返す。
気に入らないものは暴力で潰そうとする。
それが・・・・大和説者。 333の>>649
語れば論理はメチャクチャ、知識は皆無、論破されれば罵倒か荒らしで返す。
無能なので簡単に論破され、論破されても勉強する意思を持たない。
ただ相手を恨み、気に入らないものは暴力で潰そうとする。
それが「安部や文部省や右翼マスコミや右翼学会教育界」にお気に入りの大和説者。 333の>>654
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
安部や文部省や戦争右翼マスコミや戦争学会教育界らにお気に入りの、
大和説男らの行動に意味はない。
歪んだ欲望と怨恨怨嗟があるのみら。 333の>>707
>伊都国だけが「蔑む当て字」ではないのである。<
これ、「一大國」があるから、×ね。
それに「邪馬壹國」も、
「邪馬」は、弁辰にも「邪馬」の文字が入る国もあるし、
「壹」は「二心なく」という「華字」であるから、「蔑み当て字」とは言えない。
倭地にも「邪馬國」があるから、「蔑む当て字」だとは言えないし、
>これは、魏に近く常日頃から通じていたため、漢字を知っており筆談が出来たと考えられる。
女王の都である邪馬台国でさえ知らない漢字を伊都国は知っていたのだ。
邪馬台国の人が漢字を知らないのは、<
「邪馬台国」なんて、存在しないし。
>伊都国に通商や交易を一任していたためというよりも、
同じ北九州ではあり得ない事であろう<
この男もどうやら、「南→東」の嘘吐き騙しの詐欺師であるようだから、
×ね。 333の>>709
>身近に通訳のいる伊都国が自分の国だけ嘉字で名乗った線が強い
つまり、邪馬台国に力で押さえつけられた伊都国が面従背腹って状況下<
卑弥呼らは、詔書が読め、上表文も書けたんだから、
この・・・・大和説男の「伊都国だけ」説は、×。 333の>>711
>伊都国が庄内式を拒絶してるシチュと合ってる <
糸島地域にも庄内があった筈だから、×。 333の>>729
>畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、
畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できるそうだ<
畿内からの搬入土器(広義)は、特に奴国、伊都国の領域で多く見つかり、
奴国の比恵・那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるし、
伊都国の三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料では三雲遺跡内でも突出して早期から
畿内系土器(庄内大和型甕)が出土しており、このあたりに「一大率」の居館があったのかもしれない<
米田は、搬入土器は播磨や河内のものは殆どで、大和は殆どない、と言っており、
また柳田は、那珂八幡付近よりも三雲の方が古い、と言っている。
いずれにしても、佐々木論考は、始めから、
三雲の庄内の技法が那珂八幡へも、近畿へも伝達したのではないか?、
という視点からの考察をしている様子がない、×論考。 いちゃもんはつけるけど意見は持てない空っぽの畿内説。 333の>>734
常識というなら、簡単に示してくれればいいのに・・・。
それじゃあ、まるで「根拠を示せない」大和説だよ。 最低限、前のスレへのレスはやめろ。
こっちは批判するときも同じスレの中で収まるようにちゃんとこまめにチェックしているんだ。
あまり時間差をつけても、相手は読んでいないぞ。 >>692
ザラコクは完全にスルーすればいいだけ 独り言と思え 333の>>745
>だからそこが大和の出先の一大率なんじゃないの?<
「南≠東」や「大和は倭國の別種の旧小国」であるから、×。
>奴国の方が人口が多いから、土器の需要も多くて奴国で畿内様式甕の生産が始まるから
伊都国の方が広がりは遅れるけど、特に拒否しているようには見えないな<
「奴国で畿内様式甕の生産が始まる」という表現が×。
大和は、倭國の別種の旧小国であるし、
高温焼成の技術は、半島を通して筑紫に伝来した、という事が避けられないから、
大和などが三雲や弥生銀座の土器や庄内の模倣をして、
播磨や河内が筑紫に搬入上納をした。 333の>>757
>邪馬台国はヤマト国だな。 生駒葛城山系の東側<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「南≠東」でも、×。 333の>>758
>畿内で決まりですが何か? <
「畿内」なんてなかったし、
「南≠東」でも×ですが、何か?。 333の>>760
>邪馬台国はヤマト国ですよ。<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「南≠東」に拠って、×。 333の>>766
>会稽東治が揚子江河口の南岸って 妄想だから、×<
会稽の東方地域で 、一番東海岸になるのは、揚子江河口の南岸。 333の>>783
>山幸彦(穂穂手見)は琵琶湖近くの中央でご生誕された。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(宮崎市)
皇子である神倭伊波礼毘古命カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)も中央で誕生して育ち、
波限建鵜葺草葺不合命が崩御するときはじめて九州宮崎に赴き、そこで皇位を継承したという。<
記紀神話は、倭国の存在や歴史を抹殺して盗用造作した半分×史書であり、
大和天皇家一元列島支配教という宗教の分裂幻覚妄想で書かれたものだから、
半分×であり、きちんとした史料批判なしには、根拠にならない。 >>698
すごい妄想に驚愕
現実世界の地理とまったく違ってるんですけど >>620
>お前も、その「偽だ」という論証をしていない。
いいえ、完璧に論証されてるよ
ザラコクさんの脳みそでは理解できないってだけ
結局さ、まともな根拠もないし、きちんとして論理構成の論証もできないから
「南≠東」でごまかしてるだけじゃん
本当に能力が低過ぎ
末盧国がどこにあるか、きちんとぐぐってみなよ
自分がどんなにバカか分かるぞ
大理と、成都と安南の位置を地図で確認するなんて、
2分もあればできるのにそれすらせずに、漢文も読めないじいさんが
グチャグチャと間違った妄想だけ書き散らしている
他人と討論ができない人間だと自覚して、自らの妄想の中だけで
暮らすことをお勧めするよ
ザラコクは・・・・ 333の>>786
「南≠東」などで論破された大和説の奴が、
意趣返しで変質者みたいにしつこい荒らしをしてる・・・。
こんな嫌がらせをやるくらいなら「学を積んで」一矢報いようと努力すればいいのに。
それができない大和説のガキらは、
もう歳くって老いさらばえて枯れて死んで行くしか未来がないんだよ。
つまりゴミ。 思い込みに凝り固まって頑固に思考停止をしてる
典型的なボケ老人だなあ 333の>>811
>俺は神武は卑彌弓呼だと思ってる
神武率いる狗奴国側が邪馬台国を滅ぼし吸収し <
年代が全く合わない説は、一種の分裂幻覚の妄想であり、×。 >>699
抹殺してないだろ
歴代天皇の名前に「倭」が何度も登場するんだから 333の>>819
>>九州に丹があったから、この・・・・人種差別大和説男は×。<
>同位体分析です九州には国産の丹は一切使われていないのが確認されているし
九州の水銀鉱脈は、飛鳥時代まで見つかっていないと
何度教えてやっても理解しないよな <
大体「丹山や丹木や朱丹」を全て「水銀朱」だ、と断定している同位体分析など、
何の価値もない「欠陥分析」。
松浦川上流の丹山の確認も必要。
勿論「ベンガラや鉛丹」も混在していた可能性もある。 >>699
それなら、霧島、宮アの高千穂が出て来なくて、最初から大和と言えばいいだけ
隠してるのは畿内(中央)生まれ人物という事で、記紀は宮アから勇猛に畿内に東征した事になっているのは脚色 >>704
神武の末裔の孝霊(卑弥呼の父)が吉備王となった
つまり、西日本統一の第一歩
末裔とあるから、神武は119年即位説しかあり得ない
推奨107年より後との事だから
神武後に少なくとも2度天皇位が空位になっている
記紀が隠してるというか触れてないのはこのへん >>708
なんの意図があってそんな脚色をしたの?
脚色というのがあなたの妄想ではなくて? 333の>>825
>經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
は「対馬を経由して東へ進み壱岐に至りさらに東に進むと筑紫に至る」
以外には読めないぞ<
隋書は、「至」と「經」とを区別している、としか読めない。
>魏志倭人伝「末慮国ー伊都国間」東南が北東の間違い<
「末慮国ー伊都国間」東南、が間違い。
>隋書「対馬から壱岐、筑紫まで」東が南の間違い <
竹島沖から壱岐は東。壱岐から糸島半島もほぼ東。
>旧唐書「大理から安南」東が南東の間違い<
成都の西南2400里の地点から、「如至成都通水陸行」という移動の指示で、
ほぼ「東」で合っている。 333の>>828
>>「東南」は、末盧國の出発方向の説明であり、
出発時点での出発方向を記録しているだけ。<
>出発方向だけ示したらたどり着けないと何度言っても理解しない・・・・<
案内人、道標、道なり、を何度言って上げても理解できない・・・・。
>そして出発位置が唐津港だと言っているが、弥生時代の末慮の港は松浦川河口付近の潟湖<
菜畑があった位なんだから、その後が人が住めなくなった、という筈もない。 333の>>829
>それから、前から聞きたかったんだが、邪馬壹國は九州説では結局何処なんだ?
魏志倭人伝では、伊都国も奴国も、邪馬壹国とは別の国として書かれているんだが?<
福岡平野中央部〜筑紫平野、およびその周辺丘陵地。 >>712
西南からほぼ「東」で合っている
って、雑にごまかしすぎ
北東だろ 333の>>836
>だから卑弥呼の頃の早良平野の中心は野中遺跡に移ってるんだってば<
同じ奴國地域。
>吉武高木遺跡付近には卑弥呼の頃には集落はない<
陶器が出ている。
>室見川銘板ってww 清朝の制作物で弥生時代を語るとか、本当に・・・・だな <
金石文の年代記載は、製作年代である事は動かせない。 1 神武 119 已未年、邪馬台国を攻め、長髄彦、安日彦が退く
2 綏靖 -581 32 32 140 奈良県御所市
3 安寧 -549 39 -60 -21 172
4 懿徳 -510 35 -60 -25 151
5 孝昭 -475 83 -60 23 126 奈良県御所市
6 孝安 -392 102 -60 42 149 奈良県御所市
7 孝霊 -290 76 -60 16 191 吉備国に入り王となる
8 孝元 -214 56 56 207 卑弥呼の男弟
210 孝霊の娘・卑弥呼女王擁立
248 女王として台与を共立
9 開化 -158 61 -60 1 263 卑弥呼の男弟
10 崇神 -97 68 -60 8 264 卑弥呼の男弟、弥馬獲支、大王即位
11 垂仁 -29 99 -60 39 272 邪馬台国の長官・伊支馬
垂仁妃・迦具夜比売命(かぐや姫)?
12 景行 71 60 -60 0 311
13 成務 131 61 -60 1 311
14 仲哀 192 9 9 312
神功 201 69 -60 9 321 仲哀妃、三韓征伐
15 応神 270 43 43 330
16 仁徳 313 87 -60 27 373 世界最大の陵墓(大阪府堺市)
17 履中 400 6 6 400 それで河伯(河童)というのは何なの?
むかーしから日本にいたんでしょ
神武以前 文明を受け入れる玄関口・九州からの政治勢力の東への移動は、幾たびもあった。
神武天皇の移動のターゲットは大和・宇陀の水銀。
2世紀後半、後漢王朝が黄巾こうきんの乱などで衰退し、後漢から威信財の供給を受けていた倭国王師升等の後裔の権威も失墜。
更に鉄材の配分にも乱れが生じてきたのを期に群雄割拠の時代となった。
戦争にかかわる遺跡・遺物は北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲に分布し、環濠集落、矢尻、殺傷人骨、武器などとして出ている。
そこで各国は卑弥呼として呪術能力の際立った巫女を共立し、新生倭国連合の発足となった。
卑弥呼は吉備の巫女みこ王であった。
大和国は吉備と連合するべく、吉備の王女を倭女王として推戴した。
この頃、丹後や出雲も大和・吉備サイドに立った。
筑紫国も合流し、西日本はまとまってきた。
黥面げいめんの土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布。
(『魏志倭人伝の考古学』佐原真から) 北九州の奴国→竹斯国(筑紫国)
畿内の邪馬臺→邪靡堆(大倭、大和) >>723
中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>723
途中まで良かったのに、根拠なく吉備とか大和が出てくるあたりでシオシオ >>724
大倭は九州北部だよ。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>727
吉備とか大和が出てくるのは理由あるから、×。 333の>>841
よほどテンプレのスレ主にとっては、九州説が目障りらしいなww。
まあ、素人がこれだけまとまった投稿を読めば、
素直に九州説で十分だと判断できるんだから、
ちゃんと名乗って議論に参加して、論拠を挙げて反論すればいいのに。
できないんだろうな、それだけのことが。 毎日毎日、日課のように嘘をつくのがz
arakokuの生きがいか 333の>>876
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
このように卑劣にふるまう。 >>731
ザラコクの投稿まとめて読むと馬鹿がうつるぞ >>733
「このように」って、どのように?
??? 333の>>886
>隼人の勢力範囲である鹿児島、大隅一帯近隣で天孫降臨の逸話が残る日向・宮崎こそが
天皇家ゆかりの地であることは疑いようがない。
そこから東征した神武天皇(あるいはそのモデルになった不特定多数の人物)と、
その郎党が畿内にあったヤマト=ヤマタイ の王朝を乗っ取ったと考えるのは必定。<
根本的に、「大和は筑紫倭國から別れた別種の旧小国」。
>邪馬台国の場所も自ずと見えてくるわな。<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「南≠東」でも×。 333の>>888
>邪馬台国北部九州王のお墓が畿内に密集してるのはなんで?<
邪馬台国や畿内なんて存在しなかったし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、
「倭國の附庸國」の旧小国であったのであり、
倭国の「東征毛人55国」の一か所。 333の>>889
>魏志倭人伝で南としていた方向が、<
對海國→一大國の出航方向が「南」であり、狗邪韓國→末盧國がほぼ南。
>正確に東と認識されるようになった。<
記載対象が違う。竹島→壱岐が東。
>しかし、壱岐や筑紫は南で合っていたのに、すべてが東に改められている
秦王国は宇佐の国東王国じゃないか、つまり狗奴国 <
この大和説男も、・・・・アホのように、分裂幻覚妄想をしている。 >>738
>竹島→壱岐が東
対馬を経てるのに?
九州説は史料を歪曲するんだね 333の>>936
>Part328の373で 「お椀を伏せたような半球体。」って ばっちり
ザラコクさん 本人が 書いてるよね?<
「墳」は、全体〜頂上が「 お椀を伏せたような半球体」に見える形。
「冢」は、全体〜頂上が、「錐体の台」のように見える形。 >>741
今そんなzarakoku語を作っても、古代中国人は知らないよ 333の>>944
>スミソニアン博物館にあるかどうかではなく、
これが、「縄文人がエクアドルまでいって作った土器」だというのが妄想で<
いや、縄文土器は、南洋の島々でも発見されており、
当然、長距離航海の時の、「水貯め」用であり、往復でも使った。
水は、砂漠や航海では絶対必須。
瓢箪を幾つも腰に付けた倭人が新羅へ行った話もあるし、
「月の砂漠」の歌の王子様とお姫様も持っていた甕も、おそらく水貯め用。
>しかも、そこからもう一度人が戻ってこないと、「侏儒國人からの伝聞」
なんて話にはならないだろ? <
当然、戻って来た人がいたから、方向や日数が判った。 333の>>949
>エクアドルには、海洋民族(ポリネシア系もメラネシア系も)はたどり着いていないぞ
北米南米とも、アリューシャン列島周りのグレートジャーニーでたどり着いた民族だ<
Yahooでの議論でも、mutouha氏という人物が、遺伝子学的にも考古的にも、
南洋海洋部族の南米との移住や往復の証拠を挙げておられたよ。 ずびにこうちゅうの件があるから
アリューシャン アラスカの線はないよ。顔洗って出直してこい。 >>745
誰も知らないネット上のトンデモ爺さんのハンネ出して
なんか意味あるつもり? 九州王朝説は、いろんな分野のトンデモ説をかき集めて出来ているんだなあ おい、zarakoku爺さん76歳!
自分にお礼を言うほど耄碌しちゃイカンぞ
下は大丈夫か? 333の>>973
>>その引用が正確であったとすれば、<
>正確であったとすればじゃなくて、
「ザラコクが紹介した記事」なんだから、正確かどうかは自分で確かめられるだろ?
何を言ってるんだ? そして引用も何も「コピペ」なんだから一字一句そのままだぞ <
これまでも、この男の引用が、
自説に都合がよくなるように切り取った「騙しの引用」をしている、
のを一杯経験しているし、「南→東」などの嘘つき騙しも見ているから、
宝賀氏の論考からの「部分引用」そのものが信用ならないし、
今忙しいから、宝賀氏の論考を探し回る暇もないから、
記憶している範囲で、推定しておくだけ。 「ザラコクが紹介した記事」は
自説に都合がよくなるように切り取った「騙しの引用」をしている
ってことで、いいのね? 333の>>982
>当時畿内と呼ばれていたかどうかは問題じゃないんだから
それは単なる逃げ口上でしかないんだが <
国民に、
「邪馬台国」とか「畿内」とか「天皇」とか「皇后」とかが、大和に存在した、
かのような、
嘘つき騙しの「刷り込み」宣伝をしている、
という事が、黙過し難い。 333の>>989
>倭の五王の時代の話をしてるんだぞ?
既に大和朝廷の勢力圏は汎列島的なまとまりになってるだろ?<
なっていない。
唐は、武徳中になって初めて大和の「日本国」呼称を承認したのであり、
白村江の対戦相手を「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と記録しているんだから、
大和が筑紫の倭國を併合の九州継承したのは、白村江の後だ。 >>755
じゃあ、「奈良県」ってのも「大和」ってのも
どうして
嘘つき騙しの「刷り込み」宣伝
じゃないんだ? >>757
戦争中は敵国を蔑称で呼んで普通じゃないか 333の>>992
>飛鳥時代以前に九州では丹(水銀朱)の鉱山は知られておらず、<
おそらく、大和の記録にないだけ。
それに、「其山有丹」の丹が、水銀朱だけだ、という保証もない。
>弥生時代の西日本各地の水銀朱の微量元素・鉛の同位体分析により、
九州では国産(九州産を含む)の水銀朱の使用例がないことが確認されている<
いいから、松浦側上流の水銀が検査されているのか?のデータを見せてくれ。
>九州には弥生時代には丹がないので、倭国を九州限定で考える限り(九州説の倭国の範囲内では)
「其山有丹」は間違った記述ということになる<
「水銀朱」に限定したって、×だよ。 333の>>994
>>「邪馬壹國女王之所都」までの里数だよ <
>だからザラコクは魏志倭人伝が読めてないんだよ
魏志倭人伝の萬二千里の記述は「自郡至女王國萬二千餘里」の一カ所しかない
女王国まで=倭国までで、倭国が遠いところにあるというざっくりした表現なんだよ<
「女王國=女王之所都」だよ。 333の>>998
>じゃあさ、ザラコクの頭の中では「大和朝廷」っていう文字列を
「現代において畿内と呼ばれている地域に本拠を置く汎列島的な政治秩序の中心にいる首長」って読み替えればいいよ<
ダメだよ。
「大和朝廷」そのものが存在しなかったんだよ。
>では、稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土鉄剣について、
「現代において畿内と呼ばれている地域に本拠を置く汎列島的な政治秩序の中心にいる首長」
以外の名前であることを別途証明してくれ<
大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
白村江の後の701年に初めて朝廷になったのであり、
稲荷山も江田船山も、まだ支配していなかったから。 >>764
お前の思想は、立証しないと他人には通用しない 九州と言えば日本の史書では北部九州を決して身内としては扱ってないな
降伏して来た地方豪族か、まさに伊都国の人間なんか外来扱いさえしてるな
皇室が身近に扱ってるのは東南部
宮崎や隼人などの人々
畿内、吉備の勢力が瀬戸内海を通じて九州に進出する際に橋頭堡になった地域を重視してるのが見えるな 333の>>1000
「南→東」や、
「大和は筑紫倭国の別種の旧小国」や、
「大和が朝廷になったのは白村江の後」などで、
大和説は破綻している。 >>62
>邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。<
「邪馬台国」なんて存在しませんし、
「邪馬壹國女王之所都」も、「南≠東」に拠って大和は×です。 九州は那珂八幡のように纏向型のかなり早い段階で前方後円墳を作成するような状況にあるのに、邪馬台国の中心地である纏向からその土器を見いだせない
邪馬台国連合の共同の祭祀の場である纏向に参加できないと言うことからして、九州は倭人伝にあるように隷属的な地位に置かれていたと考えた方が良いだろう
初期古墳も畿内の人間の出先機関、一大卒などと関わるものであると考えると辻褄があう
那珂八幡の第二主体の1枚のみの三角縁副葬品などを見てもここの被葬者が決して地位が高くないことが分かる 九州説のアホはともかくとして初期の邪馬台国における九州の扱いは中々難しいところがあるな
最初期からの参加が見えるのに、纏向に来てない
支配や征服と言うほどの状況も見えないが、九州自身の自立性は薄いと
どう判断していいのか意外と難しい >>770
すこしも難しいことではないんですよ。
阿波から、纏向や九州への展開とすれば、簡単に説明が附く話です。
もういい加減に現実に目を向ける時が来ていますよ。 考古学は着々と真実を示し始めています。 @阿波 前方後円墳の枠組みにどの地域よりも早く参加してるのに纏向祭祀にいないっていうギャップが解釈を難しくしてるんだよな
半分自立的な自由が認められてるのか、ハブられてると考えるか、纏向の祭祀への参加は絶対条件ではないのか >>773
>前方後円墳の枠組みにどの地域よりも早く参加してるのに
だからそれは、阿波➡九州 阿波➡纏向で説明が附く話。 九州と纏向とは直接の繋がりはありません。 @阿波 【静かな拡散】
弥生中期から後期まで続いた瀬戸内海を舞台にした長く激しい争い。
それとは対照的に弥生終末期の畿内系土器の急速な、しかし静かな拡散。
この2つの間に西日本で何が起きたのだろうか。
平和的に畿内系の土器が拡散したのは、そのとき既に西日本全体がある統制の下に
置かれていたからだろう。
統制の開始は、瀬戸内以西に限って言えば、弥生中期にさかのぼる可能性もある。
そのころ早くも九州では、瀬戸内から多くの土器の移動現象が確認できるのだ。
畿内系土器の拡散は、この現象の延長線上にあると思われる。
【市(いち)】
なぜ畿内の土器だったのか。
それは要衝ゆえ、その地に畿内と周辺地域を後背地とする市(いち)が立ったためだろう。
つまり、弥生中期の瀬戸内海の侵略戦争が発端となり、やがて弥生終末期の畿内で、
モノや人の取引をする大規模な市場が出来上がったのだ。人の取引、要は奴隷売買である。
考古学的に見える畿内系土器の拡散は、畿内を供給地とする奴隷の広域取引の痕跡であったと思われる。
そうして、多くの畿内出身の労働者が、列島の広い地域で各地の生産活動の一翼を担うようになった。
これが列島にとって効果的な労働力供給手段となった。
それに伴い、吉備・山陰の大型墳丘墓から少し遅れて、九州を含めた全国の広い地域で、
ほぼ同時に多くの古墳築造が可能となった。
その意味において、古墳時代が畿内から始まるというのは、あながち間違いではないのかもしれない。
ただ、この畿内の奴隷売買は外部勢力による搾取・略奪という性格のものではない。
畿内のそれが、先駆の瀬戸内のものと決定的に違った点は、畿内の現地勢力自身が、
取引の主導的立場を担ったことだろう。全国的な土器の拡散はそのためと思われる。
ただし、いずれも後背地の人的資源の急激な枯渇により、取引自体はそう長くは続かなかっただろうと考えられる。
おそらく、これが纏向の隆盛と衰退の原因だろう。
ともあれ、畿内は奴隷取引により多くの財を得て、列島内での存在感を高めていくこととなる。 畿内スレは位置論争とかバカ話する場所じゃなくて畿内の邪馬台国成立や在り方を考える場所 >>770
それは、最初期からの参加が見えたというのに、一種の錯覚があるからでしょう。
畿内地域からの移民が九州の奴国地域で有力者階級になった結果、纏向で目だった活動をしているのは畿内系奴国人であり、彼らが使用しているのが筑前型庄内甕であるため、一見しただけでは北部九州人が纏向に来てないように見えるだけでしょう。 >>83
>>稲荷山のは、主葬の横の陪葬者の鉄剣銘文であり、<
>なんであれが陪葬なんだ <
中心線上で方墳部に正対している粘土槨の主葬に対して、
少し斜め後ろの横で「造り出し」方向に正対している礫床だから。
>>江田船山のも、陪臣を示す銀象嵌であるから<
>銀象嵌だと、なんで陪臣なんだ?<
卑弥呼らの時代から、倭王に対しては金印で、
陪臣の大夫で率善中郎將に対しては銀印であった、という公式伝統があるから。 >>84
>>(洛陽晋墓の副葬の鏡)故人の生存中の愛用物であったんだから <
>なんで故人の生存中の愛用物なんだ? いつものようにzarakokuが
なんとなーくそう思って 「決まってる」と決めたのか?<
人類の常識だから。 >>85
>>それじゃ、柳田鑑定は、不完全な×鑑定であった事になり<
>なんで柳田の判断が不完全だってことになるんだ? 理由は?<
洛陽晋墓の鏡を考慮に入れないで「平原ので鏡の年代」を決めたから。 >>774
>九州と纏向とは直接の繋がりはありません。
それを無理やり繋げようとするから、どうしても妄想が必要となる。 @阿波 >>86
>バルディビア遺跡
エクアドル中部海岸にある初期採集漁労民文化の遺跡 (前 3000〜2400頃) 。
ここから発見された粗製の土器はアンデス文明最古の一つに数えられ,
また日本の縄文土器との類似性が指摘されている
ズビニ鉤虫の分布はインド、中国、日本、地中海地方
主に幼虫の付着した野菜等を介した経口感染 <
ズビニ鉤虫は、摂氏21度以上では生存出来ず、
シベリア〜アラスカの何年もの移動では、
長期に渡って摂氏21度以下の時期が続いてしまうので、
経口摂取される事がなくなって、全滅してしまうから。 >>782
そんなもん考慮する必要があるって理由は?
する理由ないことする必要なし >>784
科学に非科学で対抗するのが九州説ってことね
笑) 九州説爺さんたちも
21度以下にしたら死ぬんだったっら
どんなに良かったか >>89
>「循海岸水行」が、なんで「波打ち際的水行」とやらになるんだ?<
普通の「水行=沖合洋上航行」とは違って、
陳寿は「循海岸水行」という特異な移動があった、という事を特記したから。
>>「水行」とだけ書いて、 「郡から全水行であった」かのようなインチキ騙しを<
>なにを言っているのか意味がわからない
「従郡至倭」と描き始めて「循海岸水行」とあれば、郡から水行だろう <
陳寿の行程説明の「出発+途中+到着」の、「出発」の説明。
>その後、狗邪韓国に到るでの間、陸行に変わったような記述は無い
「歴韓國乍南乍東」は陸行ではなくて、水行だ<
「歴韓國乍南乍東」は陸行でなら可能であり、
「循海岸水行」のような水行では、全く不可能だ。 >>90
>>日の出日の入りでの東西方向の決め方や、
日時計方式で東西南北の決め方を知っている人類が、
「方角を間違うはずだ」 という主張は、<
>誰がそんな変な主張をしたんだ?<
「南→東」などの嘘吐き騙しの、ここの大和説者らの全員。
>日の出日の入りでの東西方向の決め方や、
日時計方式で東西南北の決め方を知っていようが、いまいが
人類は「方角を間違うことがある」という主張なら、皆がしているが <
実地の計測をしないでの伝聞などからの推定では、少し間違う事や、
8区分方向位の間違いがあっても、
実地に計測された方向では間違う事は、ほぼない。 >>91
>>皇帝の命令で実行した魏使らの実地の計測記録である。<
>皇帝がなにを命令した?<
到着までの途中の「行程移動の記録」もして置く事。
>魏使らが実地の計測記録を付けたという根拠は?<
倭地へは行った事もない陳寿が、魏志に転写引用記載出来たから。 >>98
>漢文は同じ文字の連続を嫌い同義語を振り分けて使うことが多い
「はっきり書き分けている」という根拠はない
もちろん「経」に寄港上陸していないという意味もない<
隋書は、「至」と「經=至らない」とをはっきり書き分けている。 >>102
>分布や感染経路からしてズビニ鉤虫というのは
縄文人南米入植説の根拠にはならないね <
シベリア〜アラスカの「何年もの摂氏21度以上の移動」説が、否定された。
>エヴァンス、メガーズ教授の65年の説は日本でもまったく指示されてない<
日本の文部省や右翼学会教育界や右翼マスコミが、皇国史観否定になりそうだったから、
古田さんの文献的分析からの「倭人は太平洋を渡った」説を拒絶した。
そして、古田さんとは別個に、
エヴァンス、メガーズ教授らが、エクアドルの縄文土器を報告した。 >>105
大和朝廷など、始めからない。
拠って、始めから×。 >>106
妄想で、文献や考古学を否定するのが大和説か・・・
w >>107
西唐津駅付近が、古代からの「半島や唐への渡航の起点」の町であったから、
国鉄は唐津駅から延伸した。
唐津の地名譚の全面否定なんて、根拠はなにもない ただの妄想 。
それが大和説 。 >>109
>「南≠東」は論証されていない 拠って、始めから×<
「南≠東」は史料事実。
拠って、「南→東」は始めから×。 >>110
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
自分たちが馬鹿にされたり嫌われたりが当然な、
悪いことばかりしてる現実を見ろよ。 >>778
>畿内スレは位置論争とかバカ話する場所じゃなくて畿内の邪馬台国成立や在り方を考える場所
ろくに考えてないだろ。 ザラコク氏のレスをあぽーんしたら、全然筋が通らなくなった。
みなさん、けっこう相手にしているんですね。 ザラコクなんて、ただの古田説の聞きかじりの壊れたレコードで
何も考えずに、固定コメ書くだけだから、きちんと話を追って返事させれば、
すぐに破綻するんだよね
ただ、本人は破綻してないっていい続ける辺りが、論理的な討論の
やり方とはまったく違うので、結局無視するよりしょうがないんだよな 181 日本@名無史さん[sage] 2018/03/14(水) 10:46:28.89
纏向の土器が
東海と吉備というのは、共立という文言からだと
持ち寄ったと想像されるかも知れんが
先住が東海系の部族で
吉備系の人員が纏向から東海銅鐸人を追い出した
ということにはならんのだろうか?
土器や銅鐸の編年とかよう知らんけど。 >>111
>西唐津駅付近に古代の市街地などない 拠って、始めから× <
勿論「市街地」は現在の話。
古代においては、菜畑の地域であったし、半島や唐への渡航基地の町でもあった。 >>802
じゃあ、何かネタ出ししてよ
おもしろいネタ出ししてくれれば、それに沿って話が弾むだろ? >>112
>ズビニ鉤虫が日本固有ならともかく
エクアドルへのズビニ鉤虫の侵入年代も、侵入経路も未解明な状態で
よくもまあ、縄文人到着説とか言えるものだ<
魏志の、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
の記録と、
縄文土器が列島と南洋の島々とエクアドルに見つかる事と、
縄文土器が長距離航海に必須である、という事。 畿内説にネタがないのが根本的な問題。
畿内説は空っぽで、すでに崩壊したように見える。 >>113
>殉葬墓などない 拠って、始めから× <
お前らの仲間の?大和説者が、
祇園山では、墳裾の62個の墓の上面を地削りをして、
その上に冢を造成したような話をしたから、
その通りであれば、
発掘報告の、墳裾の62個の墓は、祇園山の墳頂の主体の埋葬の50年位後までの、集合墓であった、
という説明が×になった、という事を示すんだぞ。 >>115
大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
白村江で戦ったのも、唐から「倭國」や「倭衆」や「倭賊」とから記録されているんだから、
3世紀以降も筑紫倭国は白村江以後まで存続していた事になり、
拠って始めから×。 >>810
>発掘報告の、墳裾の62個の墓は、祇園山の墳頂の主体の埋葬の50年位後までの、集合墓であった、
そんなこと言ってるやつ、一人もいないだろww
甕棺墓と段築葺き石ありの古墳では、何百年単位で時間差があるぞ
拠ってザラコクは始めから× >>116
>故人の生前の愛用物だと論証されていない 拠って始めから×<
墓には、頭部付近に故人の生前の身分や地位を示すものを置き、
その他の副葬品としては、故人の好きなものや愛着品を置いて上げるのが、
人類の常識。
よって、この大和説男も、人類の常識知らずの・・・・であり、×人間。 >>117
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王・・・」
が史料事実であるから、この・・・・大和説者も×。 >>118
柳田は、洛陽晋墓の考察をしていないから、不完全鑑定。
拠って、この・・・・大和説者も、始めから×人間。 >>811
残念ながら・・・
金石文じや敵は日本だよ >>119
魏志よりも後代の史書の魏志の内容紹介は、
「自己解釈に拠る内容説明的な書き変え」になっているのが史料事実であるから、
拠って始めから×。 >>120
陳寿は、「水行」とだけ書くのではなく、
はっきり「循海岸」という説明を付けたのであるから、
「循海岸水行≒波打ち際的水行」などという水行を意図している、
という事が史料事実であり、
拠って、この・・・・大和説男は、始めから×人間。 >>121
大和説者やら、学会教育界や、、安部文部省や、、右翼マスコミらの脳内は、
論理学的に「偽」だ 。 >>821
>論理学的に「偽」だ 。
意味も分からずに、でも使ってみたかったんだなww
3歳児くらいがよくやるよねw >>122
実地の計測がなければ、魏使らは、皇帝に報告することが出来ない、
という事が史料実態であり、
拠って、この・・・・大和説詐欺師も、始めから×人種。 >>820
>「循海岸水行≒波打ち際的水行」などという水行を意図している、
>という事が史料事実であり、
本当にデタラメ爺だなぁ
循海岸というのは、大雑把な地図での循海岸だ
そして、それが史料事実だったら、ザラコクの言う「韓は陸行」っていう
戯言が成り立つ余地を自分で否定してるってまだ気づかないかねぇ
前にも教えてやったんだが、その場その場で思い付きを書く以上の
ことができないから、いつでも矛盾だらけ
拠ってザラコクは・・・・だから始めから「偽」だ >>823
実態じゃなくて素人じいさんの妄想だろ?
いつも根拠提示がないもの >>123
魏の武帝の墓は、薄葬令を出した文帝らの命令で造ったのだから、
最も薄葬令を順守して当然。
それに対して、祇園山や那珂八幡は、ずっと後の海外の親魏倭王の程度であるから、
魏の武帝の墓ほどは、薄葬令の強制力は減って当然。
拠って、この・・・・大和説のいちゃもんも×。 >>822
ザラコクは史料事実という言葉の意味も知らないよ >>124
>>寄港上陸していたら、隋使や隋書は「至」とはっきり書き分けて <
>そんな事実はない 拠って始めから×<
隋書は、「至」と「經」とをはっきり書き分けている事が史料事実であるから、
この・・・・大和説者は、×。 >>125
>>現唐津市街が存続していた<
>そんな事実はない 拠って始めから×<
現在、唐津市街が存続している事が事実であるから、
また、この・・・・大和説男が×。 >>828
寄港上陸していたら、隋使や隋書は「至」とはっきり書き分けてる、なんて
「史料事実」は
いったいどこにあるの?
またウソ? >>126
>「南≠東」は論証されていない 拠って始めから×<
「南」は史料事実。
拠ってこの・・・・大和説男は、始めから×。 >>127
>現唐津市街が弥生時代から存続してるってのは・・・ さすがに、なあ・・
>>128
>松浦郡の郡衙がどこかとか、考えたこともないんだろうな<
伊都国が、怡土の地であるんだから、
それより「陸行五百里」手前は、魏志の記載通りの短里で、唐津付近になり、
弥生時代に町があった事になる。 >>132
>旅程説明などない 拠って始めから×<
魏使らの行程は、始めから旅程。
拠って、この・・・・大和説男が×。 >>835
松浦郡の郡衙がどこかとか、考えたこともなかったんだな
嘲笑) ザラコクに限らず、九州説って
「俺様の結論」をワメくだけだよね
なんで理由を言わないのかな >>137
>>(海上航行は)「水行」や「渡海」や「船行」という文言を使うのであり、<
>だから循海岸「水行」という文言を使ってあるのに何がご不満?<
「水行」に「循海岸」と いう限定を敢えて付けているんだから、
普通の海上航行ではなく、「海岸縁に沿った航行」を主張している事になる。
>しかもそれを「陸行に決まってる」とか言い張ってるし<
ありゃ?、この男も、嘘つき騙しの・・・・人種。
私は、そんな事は言わない。
郡出発から韓国までが「循海岸水行」であり、
韓から狗邪韓國の間は、「歴韓國乍南乍東」説。 >>145
こいつも中傷屋か・・・。
まったく大和説者ときたら、毎日これかよ。 >>843
またオウムか 返しか
嘘ばっかりつく異常者って評価が定着するぞ >>147
大和説男さん、また嘘つくんですか?。
>畿内説の論拠は考古学が中心で、ほとんで記紀を使ってないんですが<
「畿内」としゃべった瞬間に、考古ではなく、記紀を使ってしまっているんですが。 >>148
>邪馬台国はヤマト国ですよ。
色付けしていくには、魏志倭人伝各地の伝承記紀は必要。
そうしないと名無しで中身のない歴史になるからね。<
「邪馬台国」なんて史料に存在しないし、
「大和」も、「南≠東」で×であるし、
「記紀」も、倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分×書です。 尾張、三河、美濃、紀伊、熊野、伊勢、近江南部、丹波、丹後、美作、石見、出雲、安芸、周防、伊予、豊前、筑豊、日向、薩摩、阿波、 >>151
>「尿入り一升瓶」って古田派が使ってる偽書を作るのに使ったって聞いたけどな
桐原って人は安本の仲間でしょ?
どれも畿内説と関係ないのにデマ流さないでほしいな <
いや、Yahooでもそうであったが、2chや5chでも、
大和説者の何人もが、安本派や右翼学会や右翼マスコミの仲間になって、
古田九州王朝説を攻撃していたから、
同じ穴のムジナ。 >>154
>事実は、大阪側は大和朝廷の最初の被害者と言える。(実際は、奈良もそうだが)<
「大和朝廷」など存在していなかったから、×。 和田 「古田 俺を裏切るなよ」
古田 「はい、和田先生 どこまでもついていきます」 >>157
また証拠もなく中傷か。
これだから大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しの巣窟だ、と言われるんだよ。 地獄の鬼 「こりゃ古田、捏造しやがって 舌を抜いてやる」
古田武彦 「あううう、お許しくだせえっ 和田さんを裏切るなんてできなかったんです ぐあああああああ」 地獄の鬼 「どうだ、この捏造野郎!」
古田武彦 「うげええっ、おぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃああああ」 >>166
>卑弥呼=倭国(阿波)の女王 天皇家=倭国(阿波)が本貫地 ∴卑弥呼➡天皇家 <
「南≠東」であるから、倭国(阿波)が×であるし、
「天皇」がまだ存在しないから×。 >>167
>ただ畿内に成立した邪馬台国と後の大和政権は
細かい差異はあるが連続線上にあると考えて差し支えない <
大和は、筑紫倭国の別種の旧小国であったし、
「畿内」も「邪馬台国」なんても、存在していなかったから、×。
>そう考えると実在が確定してる雄略天皇以後の系譜的な繋がりには
それなりの史実性があるとみてもおかしくはない<
雄略が天皇であったのか?も、確定していないから、×。 >>786
何言ってんのお前。精子から人生やり直せよ。
どっかのバルディビア土器の存在すら知らずに知ったかぶってたボケは、
「縄文人も含めた全ての海洋民族はアメリカ大陸に到達していない」
ってドヤ顔で言ってたけど、どう反論してくれるのかなぁ??? 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥山氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」 >>168
>弥生末期から古墳時代にかけての畿内勢力は基本的に強化拡大の方向で動いていて断絶を見てない <
「畿内」という事はそもそも存在せず、
河内と大和とも、相互に独立的であったから、×。
>だから仮に卑弥呼と言う人物がその中枢にいたとするなら、
その後の畿内勢力の中心人物と血縁的関係を持っていても特に不思議とは思わないな<
卑弥呼は、「南≠東」に拠って大和などの中枢にはいなかったから、×。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>169
>畿内の邪馬台国が
南九州出身の神武天皇(又はそのモデルとなった単数、あるいは複数の人物)の率いる一党に乗っ取られたというのが
1番真理に近い筋書きだと思う。<
畿内も邪馬台国も存在していないんだから、始めから×。 >>170
>問題とするならこの卑弥呼ってのがどこの誰かってことだな
邪馬台国が弥生時代の畿内勢力の一直線上に無いのは分かってる
そうなるとこの代表者が畿内出身であると言う保証はない事になる
畿内の王じゃなくてどっかからか連れて来た人物と言う可能性の方が高い<
「邪馬台国」も「畿内」も存在していなかったんだから、
始めから×。 >>176
>崇神天皇の頃に姉の倭迹迹日百襲姫命が祭祀王として共立され、<
「共立」という文言を敢えて使った、という事だけで、
この投稿子が卑弥呼か壹與を意図している事になり、
「南≠東」の嘘つき騙しに拠って×。」 >>177
>周辺の国々の持ち寄った様々な要素をまとめて畿内に成立した勢力が邪馬台国<
邪馬台国も畿内も存在していないし、
大和を意図しているから、「南≠東」に拠って×。 >>179
>邪馬台国の卑弥呼により九州を追い出されたのが神武だよ<
記紀の神武の年代主張と、卑弥呼の年代とが余りにもかけ離れているから、×。 >>182
>3世紀の北部九州は、十分な王墓を作れない、地域王権の発達の
点で出遅れた地方になっている<
なっていない。
王墓に関しては、魏の文帝の薄葬令の制約があっただけで、
北部九州には王墓にふさわしい墓が沢山あるが、
大和のは、3世紀末以後。
>そして、九州が畿内様式甕で統一されるのに対し、<
「市」を介しての生活用品持参での搬入移住や上納があっただけ。
庄内も、三雲が始まり。
>九州から東方への 影響はほとんど見出せない<
倭國の東征毛人五十五國があって、
その東征将軍らの支配や墓形態に、影響が見いだせる。 >>183
>神功皇后ご4世紀末、景行天皇が4世紀初頭。
神武が2世紀中頃の倭国大乱なら合う。<
「2世紀中頃」では、記紀の記載とも、二中歴の計算とも全く合わず、×。
また「倭国大乱」も存在しない。
>卑弥呼の治世が長すぎるから、どこに合わせるかで話が変わる。<
卑弥呼は、240年頃の魏使らの認識では「年已長大(30〜35歳)」であって、
248年頃に亡くなっているから、
「治世」は長過ぎない。
>あと、畿内説の葛城スレではやはり神武が卑弥呼と同時代という計算を披露していたな。<
葛城スレ主は、「人種差別的竹島戦争」鼓舞扇動の極右の・・・・であって信用出来ず、
記紀の示す神武の年代と、卑弥呼の年代とが余りにも乖離しているから、
信頼性が全くない。 >>184
>通説どおり、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だって書いたつもりだったんだけどな<
「南≠東」に拠って、通説も×。 >>186
>隼人というファクターを通して考えると<
隼人は、後漢最末に後漢に朝貢した20国の「東テイ人」という可能性が否定し得ない。
>神武、天皇家のルーツは日向・現在の宮崎県にあったと証明できるんだよ<
これも、王年代紀や新唐書などに拠って、
神武は、筑紫城に倭奴國の(天孫族の)阿毎氏から別れた別種であった、
という事が避けられず、
宮崎は、神武の父のウガヤフキアエズの赴任先であった、という事になる。 飛騨の口碑だよ。
尾張三河美濃の勢力が伊勢→紀伊→阿波→土佐→宮崎ルートで九州に進出したのかもしれない。
尾張→丹後半島→出雲
飛騨辺りの勢力が出雲を作り、大和朝廷を作ったとあるしな。
纒向も東海山陰が中心。
東海山陰は根が同じかもね。
それと西瀬戸内海の勢力、美作丹波などの勢力。 >>187
>九州説でも、卑弥呼の王党が4世紀にかけて弱体化したと考えているので、
その反論は無効。<
弱体化していない。
宗女の(阿毎氏系の)壹與の後も、
ずっと弥生銀座〜糸島地域にいて、南朝に遣使を継続しており、
317年頃から、久留米〜八女付近に遷宮し、
「東海姫氏國」として倭の五王らが南朝に朝貢していた。
>3世紀以降の畿内の成長を容認してしまえば、九州説でも問題ない。<
大和が筑紫倭国内での地位が上がったのは、継体磐井戦争で勝利してからであり、
それから、大和は、倭國の王家の一員になれた。 >>196
>北部九州の退潮は、1世紀末頃から見られるよ<
見られない。
白村江の大敗まで、北部九州が盟主として栄えていた。
>4世紀まで倭王を保つのは、考古学的に見てまず無理<
関係がない。
筑紫倭國は、白村江後まで存続していた。
大和や近畿の巨大墓は、薄葬令を守る必要がなく、
東征毛人55国のお手伝いで、大量の墓守り人を獲得できたから。 >>203
>個別に語ってくれてもいいが、「九州のどこにも」
王がいたと考えるに足る集積が見られないと思う<
弥生銀座があり、糸島の繁栄があり、久留米〜八女の繁栄があり、太宰府の繁栄があった。
そして、「市」を監督した大倭職の大和の巨大古墳は、3世紀末以後であり、
倭国の東征毛人55国のおかげであった。 >>869
>卑弥呼は、240年頃の魏使らの認識では「年已長大(30〜35歳)」であって、
じゃあ卑弥呼は3世紀生まれってことだな
2世紀末の共立は無理だ >>204
>纒向こそ崇神天皇の大和入りの結果じゃないか?<
ないね。
崇神も、倭国の東征毛人の三道将軍のお手伝いをして、大量の墓守り人を獲得した方。 >>872
その、東テイ人とやらが隼人と同一の存在であったというソースは?
文化的共通点があるの?風俗が同じとか???
否定しえない、じゃないんだよ。そうだという証拠を出せ。 >>205
>弥生時代の倭王の王墓がそもそも博多湾沿岸にしかない
その博多湾岸の王墓が、2世紀にはもうないんですよ<
変な男。
何故、祇園山や平原や那珂八幡や津古生掛や原口や銚子塚や端山などを、
隠蔽するんだろうかねえ?。 >>221
「南→東」の嘘つき騙しの大和説のアホは、
お呼びじゃないから出てくんな。 >>222
>よく九州説の人は、「平原遺跡」という言い方をしますが、平原2号墓が
平原1号墓とほぼ同時の築造で、大きさもほぼ同じで、まったく威信財を
欠いているのをご存知ですか? 平原2号墓はどう見ても、王墓ではないですが、それとペアで
平原1号墓は作られています また、平原遺跡という場合6号墓までの弥生墳墓を含むのですが、
どれも1号墓2号墓よりさらに小さくて、ごくありふれた 家族墓地のように見えます<
何故、1号〜6号の年代順を考察しないだい?。
少なくとも、累代の王墓の地ではない
>累代的に方形周溝墓を作り続けているのに、<
累代的な方形周溝墓であれば、家族墓地レベルではなく、ある程度の身分の家系だよ。
>庶民の家族墓の隣にペアで王墓が作られることがあるでしょうか?<
共立女王であれば、1号墳に埋葬され、その後の倭王は、また自分の郷里や活躍地に葬られる事など幾らでも起こり得る。
>平原1号墓ではなく「平原遺跡」というなら2号墓から6号墓までをも
トータルで語ってください<
1号墳の埋葬形態や状況が最も問題になるんだよ。 >>880
>祇園山や平原や那珂八幡や津古生掛や原口や銚子塚や端山
ザラコクは古墳時代すら認識していないからなぁ
日本史板は学問板で、歴史というのは人文「科学」なんだが
科学と関係のないざらこくがいるだけで本当に迷惑だしジャマ >>882
>1号墳
ザラコクは平原1号墓は、墳じゃなくて冢だって言ってなかったっけ?
自分に設定すら覚えていない、その場しのぎの言いっ放し >>221
>この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる
古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている<
この男は、本当に・・・・アホじゃないのかい?。
同じ古墳からの出土物なら、「最も新しいものの年代」でもいいが、
古墳が違えば、例えば平原から後代の古墳に技術伝搬があった、とも、考えるべきではないか。 >>885
>古墳が違えば
平原1号墓が古墳だというなら、その時点で卑弥呼の墓の確率は0だな
そういうのは一切理解してないんだよな、ザラコクは >>212
>現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、周溝から出た土器の編年に頼っている <
ここでまたこの・・・・男が、変な事を書いている。
副葬「出土鏡」の方が、周溝の土器よりも圧倒的に編年価値が高く、
「国産」説も、「尚方作」鏡という明帝鏡の可能性を全く考慮していないし、
洛陽晋墓出土鏡との比較もおろそかになっている。
>1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、
2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、
1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている<
土器編年の「絶対性」など、元々全くなく、
庄内にしても、大和の編年よりも50年位早くなる、という事も考慮されておらず、
勿論、周溝では、墓内の副葬品などと比べて、参考程度の価値しかない。 >>214
>平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、
現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている<
誰が、どんな理由で、原田の殉葬を否定して、「土壙墓は周溝が埋没した後」と判定したんだい?。 >>214
>平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、
現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている<
誰が、どんな理由で、原田の殉葬を否定して、「土壙墓は周溝が埋没した後」と判定したんだい?。 鉤虫などの寄生線虫が寄生性を獲得したのは人類誕生よりはるか以前の
2億数千年前で、宿主と共進化により進化した寄生線虫が
人類が移動した先でヒトに宿主転換した
人類の移動ルートとは関係ない >>215
>周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している <
何だか、鉄武具や鉄用品の男性を思わせるような出土で、
祇園山のような「女性や奴婢」を思わせるものではないな。
>この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、
先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する<
またちょっと曖昧になって来たが、
「土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末」の根拠は何で、
「庄内併行期の土器片」とは何なんだい?。 >>216
>となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、
1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない <
元々、土器編年そのものが、絶対性がなかったんだから、
1号墳の棺や副葬品の年代論拠にはなり難い。 >>217
>と、平原1号墓の編年について、少しまとまった量を連投させてもらったが、
冷静に考えて「1号墓の周溝からの弥生後期前半の土器片」に合わせるのが
妥当だと思う そうなると、1世紀半ば〜2世紀初め頃になる<
ダメだな。
周溝の土器片では、
どんな土器がどれほどの期間使用されて周溝に入ったのか?に関しての、
絶対性が全くなく、1号墳の年代の絶対根拠になり難い。
>方格規矩鏡の仿製鏡の編年から考えても、このあたりが妥当ではないだろうか <
やはり、1号墳の棺内や副葬品の年代推定を優先すべき。
>この年代では、卑弥呼の墓という主張は難しいが <
「尚方作」鏡の存在や玉の年代の方が、はるかに根拠になり、
それからは、卑弥呼か壹與の墓であった可能性が高い。 >>223
>新唐書が全面的に書き換えた 信頼性がない<
新唐書も、中国記録と大和日本国記録を、出来るだけ踏襲しようとしただけであり、
信頼性が非常に高い。 >>227
>>少なくとも、平原遺跡には退潮は見られない<
>輸入した威信財を<
何だ?、内行花文鏡や方格規矩鏡の事か?。
>以前みたいに配分できなくなってますよね?<
破砕の状況が判らないから、
配分予定であったのか?、配分しないまま残ったのか?は、不明だよ。
退潮ですよ >>228
>2号墓は卑弥呼の弟だと思うよ。
ペアの王墓としては同じ伊都国の三雲南小路遺跡がある。
平原遺跡3号墓以下も、卑弥呼の係累の墓だろう。
むしろ状況的にはこれこそ倭王の墓だね。
あと、ガラス耳璫は魏晋の時代に中国で流行った様式だとか。
国内だけ見て編年を考えても無理があるが、中国も含めて考えれば卑弥呼の墓だよ。<
成程。 >>231
>共立時じゃないだろ 伊勢神宮の大物忌は童女
物忌は、伊勢神宮、賀茂・春日・平野・松尾・香取・鹿島などの大社に仕えた童女・童男
ネパールではクマリ(童女現人神)と呼ばれる2歳から6歳くらいの童女が選ばれ国王もひれ伏す<
壹與は13歳であって、共立年齢が特記された。
という事は、卑弥呼が普通の成人年齢であった可能性が高い。 >>232
>>裴松之も、宋明清代の校勘学者も、誰も「邪馬壹國」の考証校勘をしていない <
>そして、11世紀よりも前に、魏志倭人伝をネタ本にして成立した他の史書が
すべて邪馬臺國と記していて、それらの多くの刊本の考証校勘の結果、
邪馬臺國と認められているのですから、当然に原典の魏志倭人伝も
邪馬臺國だったと認められますね 長年の考証校勘は信頼できるそうですから<
中国の考証校勘学者は、写本版本における「邪馬壹國」がそれで正しい、と考えており、
他の後代史書の「内容説明での邪馬臺國」記載は、
考証校勘の不要な×情報だ、として、
校勘資料にも挙げていない。 >>890
うはwwwバカだwww古今無双のwww 共進化www Wikipediaでま〜た上辺だけ調べてきたんですかwww???知ったか太郎くんwww
移動した先で宿主転換ってwww
人類の移動は繋がってるんだよ???移動した各地で各々の地域の別々の種類の寄生虫が人間という新たな宿主に適応したという馬鹿な話を信じるならユーラシアに生息する鉤虫とアメリカ大陸の鉤虫の形態がほぼ100%共通してるわけないだろwww >>899
>考証校勘の不要な×情報だ、として、
>校勘資料にも挙げていない。
つまり魏志倭人伝の邪馬壹國は、新しい写本しかない「考証校勘の不要な×情報だ、として、
校勘資料にも挙げていない。」訳だ
成程 >>620 あんた恥ずかしくないの?論理的に反論しろよ。 老人の勘違い
ネットで遊んでいても趣味程度が良い 社会との断絶は生きる屍
四六時中 ここにいるのは???????????????????? すれ主とザラコク
老人の勘違い
ネットで遊んでいても趣味程度が良い 社会との断絶は生きる屍
四六時中 ここにいるのは???????????????????? >>900
都合のいいところは何でも鵜呑みにする
ズビニ鉤虫の南米への侵入時期と侵入経路も分からないのに、
適当な推測を鵜呑みにしても意味ないよ 両鉤虫(アメリカ鉤虫とズビニ鉤虫)はアフリカ、アジア、アメリカ大陸の湿度と気温の高い地域でみられます。ズビニ鉤虫は中東、北アフリカ、南欧でみられます。 ズビニ鉤虫が縄文人が南米に到着した根拠なら、
縄文人はアフリカ、アジア、アメリカの熱帯地域
及び中東、北アフリカ、南欧にも進出していたんだなww
縄文人、すげえww >>234
>>あと、ガラス耳璫は魏晋の時代に中国で流行った様式だとか。<
>あれだけ丁寧に書いたのに、都合の悪い土坑墓は無視ですか?
この土坑墓を原田大六氏が殉葬と見たのが、卑弥呼の墓説のきっかけなのですが<
根本的に、ガラス耳璫は、1号墳の棺の被葬者が付けていたものだから、直接的根拠になるが、
土坑墓は、周溝にあって、1号墳との時期関係が不詳(どちらかと言えば新しい?)な、
間接的なもの。 鉤虫のような土壌蠕虫類は糞便に虫卵が排出され、
その虫卵が土壌のなかでの発育が必要
人体内での寿命は1−2年で体内では増殖しないので
その期間中に新たに土壌から感染幼虫を体内に取り込み続けなければ
体内からは消滅する >>238
>>平原遺跡3号墓以下も、卑弥呼の係累の墓だろう。
むしろ状況的にはこれこそ倭王の墓だね。<
>係累の墓が、まったく王家の威信を示さない
それこそ、北部九州の退潮を如実に示していることになりますよ<
示さないよ。那珂八幡以後も王家クラスの墓が弥生銀座〜筑紫平野部や糸島地域に沢山築かれているし、
317年頃の久留米〜八女への遷都で、筑後地域に王墓の中心が移った。
>まあ、私は最初から、平原1号墓は王墓ではないという立場ですが
平原1号墓が王墓だとしたら、平原遺跡では方形周溝墓が累代的に築かれて
いるのに、王家の代々の墓なのに、王墓が一つだけっておかしくないですか?
王家は、王位を世襲するから王家なんですよ?<
問題は、(姫氏の)卑弥呼の宗女になった(阿毎氏系の)壹與や、
その後継一族の地位なんだろうな。
壹與も、(卑弥呼と同じように)一代きりの共立女王で
壹與の後は、伊都国系の天孫族の、別の氏族の王(那珂八幡の王?)が倭王を継いだ、
というように見え、更に糸島系が後継を繋いで行き、
また姫氏系が倭王を継いで、317年の久留米〜八女への遷宮になったように見える。
だから、平原1号墳の後継は、元王家という立場の存在で、方形周溝墓に埋葬された。 >>242
>>魏代には、列島では、100mを越えるような墓はなかった筈。<
>纏向の東田大塚古墳は、魏代の築造だが墳丘長120メートルあるぞ <
石塚が(壹與の後の)那珂八幡の模倣にしかならなくて3世紀末なんだから、
東田大塚古墳も3世紀末以後にしかならず、
だから、魏代ではなく、晋代。 >>251
>序列が見出せないないなら
集権化じゃなくて、単に異質な存在だ <
共立そのものが、集権化の完成ではなく、死後はどうなるのか不明であり、
共立国の中での後継争いで決着を付けるか?、共立女王の親族や家臣が後継するか?、
という事になるだけだ。 >>255
>どこの誰から継承している?<
壹與は、「イ」氏の「與」という一字姓と一字名になるから、
やはり、倭奴國の阿毎(アマのイ)氏系の方形周溝墓の一族であったんだろうなあ。 >>256
>どうして証拠になるの? 理由は?<
大和は、筑紫の倭国から別れた別種の旧小国で、
市や倭国東征のお手伝いで儲けた、田舎のご大尽であったから、
薄葬令には全く関係がなかった。 >>259
>集権化じゃ誤魔化せないよ 他者に影響を与えてない<
「共立」は、
どちらかと言えば集権化や専制化が未完成なんだから、むしろ民主的であり、
逆に、民衆みんなの創意工夫で文化文明が発展して、都合がよいんだよ。 >>265
>いろんな意味で平原一号は孤立しすぎだね
広域国の女王墓というには無理がある<
いや、「共立女王」墓。 >>266
>皆はお前を信用してない<
国民の7割は、「南→東」の嘘吐き騙しの大和説者を信用していない。
国民は、
どうしても「南→東」の嘘を認めない大和説者や大和説学者らは、
「・・・・なんだろう」、と推定している。 >>268]
>>平原一号は孤立しすぎ<
>同意
せめて、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、端山古墳、築山古墳と同じ平面にあれば
伊都国王墓としては理解しやすくなるんだけど <
おそらく、一代切りの共立女王。 >>271
>現在畿内と呼ばれる地域がある以上
「畿内がない」というのは通らない 拠って始めから× <
だから、始めから「畿内なんて存在しなかった」と過去形にしておいた。
だから、この大和説男も、言葉尻への「口先嘘つき騙しの・・・・詐欺師」。 >>272
大和説が終わってるから、荒らすしかできないんだぞ。
証拠も論理も全て負けていて、ムキーってなってるんだよ。
お仲間だろ?。 倭奴国(北九州一帯)は倭国の極南界である。
日本(南九州の天皇家、但し神武は中央=畿内生誕)は、古くは小国であったが、その後倭国(大和・吉備・出雲・奴国など西日本)の地を併合した >>780
成程。銀は大王の証ではないな。納得した。有難う。 >>806
成程。ようやく理解できた。縄文人がエクアドルを往復していたということだな。有難う。 >>293
>じゃあ平原1号と同じ墓域にある古墳時代初期の周溝墓はどうなるんだ?<
壹與と同じ天孫族の阿毎氏系一族の墓なんだろ?。 >>298
>倭王と王でない親族と、墓の大きさがおなじなの?<
共立倭王であれば、一代限りだった、という事は幾らでも起こり得るし、
その部族の後続の在野の子孫は、副葬は踏襲出来なくても、
墓の形や大きさを踏襲する事も幾らでも起こり得る。 エヴァンズらが一部のバルディビア土器片との文様の類似を
発表したのは阿高式土器なので
ズビニ鉤虫を九州人の移動根拠にするのであれば
ズビニ鉤虫がなぜか九州人にだけ寄生が始まり
感染した九州人が短期間に直接各地で排便して土壌を汚染してまわり
他の民族よりも不衛生な食習慣により体内に成虫を寄生させ続け
さらに南米やヨーロッパまで移動していったということになる >>929
畿内説だが横から忠告・・・
もっと、学を積んでください
畿内説の恥をさらしています >>301
「平原一号が倭国女王の墓ではない」っていう根拠が皆無なうえ、
時代ズラシが無理すぎる。 >>930
>もっと、学を積んでください
そのままお返しします。 >>932
縄文時代に九州人とかいるわけなかろう。
今でも九州人いうても各県で文化が違うのに。 >>302
平原1号墓だけでなく、平原遺跡の他の墳丘墓もきちんと情報を見ていけば
見れば見るほど、「一代限りの共立女王」の王墓としてぴったりなのが、
平原1号墓だよ。 九州の中期を代表する土器とされるのが,
熊本県城南町の阿高貝塚出土の土器を標式とする阿高式土器です。
九州の中期と言えばすぐ阿高式土器と型式名が出てくるくらい,
九州の中期を代表する土器として,その位置付けは確立されています。 >>303
>>伊都の地理的には海外交易上重要なままなんだから。<
>博多湾貿易に移行してるよ 重要性は激しく下落<
一大率がいて、「臨津搜露」した限り、公的な海外国交の中心であり続けた、
と言わざるを得ないだろうなあ。 >>306
平原が、共立倭国女王の墓ではない、と言う人の顔が見たいな。 >>927
確かに、共立なのだから一代限りだな。納得できる。有難う。 >>927
自分で誉めないと誰も誉めてくれないから、キウスは自演するんだね
「 嘘をつく理由」
https://nihonsinwa.com/page/860.html >>917
>「・・・・なんだろう」
このスレでは「・・・・」=「ザラコク」だよ
ひどい侮辱をするよな(笑) >>317
ある場所を表現するのに、
「邪馬台国」のような全く存在しない思想宗教的文言にすり替えたり、
「臺與」や「東冶」や「三年」などのように後代の書き換え文言にすり替えたり、
「天皇」や「皇后」や「畿内」などのような、
全く存在しない思想宗教的な文言で修飾された地域名を冠する事など、
嘘つき騙しのそのものであり、
「今の地名と違うから、なかった」などで逃げるのも、
ただの思考停止か 答える能力がないことをごまかしている卑怯者の所業。 >>318
>単なる伊都国王の三雲南小路遺跡30メートル四方の墳丘墓
単なる奴国王の 須玖岡本遺跡D地点30メートル四方の墳丘墓
よりも小さな、広域倭王の墓って、言ってて空しくならないか?
明らかに退潮傾向が見られるよな?<
いや、卑弥呼やその宗女の壹與のような単なる共立女王であった事と、
魏の薄葬令に従わなければならなかった、という立場の問題であり、
その後に幾らでも、中程度の大きさの墓が続いているんだから、
退潮傾向というほどの事もない。 >>333
>>つまり奈良盆地から出られず、周りに影響をその時点では及ぼしていない。<
>少しは自分で勉強してから書き込めばいいのに
周りどころが、日本中で前方後円墳(前方後方墳も可)を作り始めているじゃないか<
少しは自分で勉強してから書き込めばいいのに。
国内の前方後円墳の始まりは筑紫の那珂八幡などであり、
大和はそれの模倣であるし、
その他の日本中の前方後円墳は、筑紫の倭國の「東征毛人55国」の結果だよ。
>これが、畿内政権の影響力そのものだよ <
「畿内」なんて、存在していなかったんだよ。 >>943
成程。邪馬台国も畿内もなかったのか。ならば、邪馬台国畿内説など存在できないな。
痛快、痛快。有難う。 >>335
>日本の義務教育受けてる?
>・・・などというのは、普通の日本の教育を受けてたら考えにくいはずだぞ<
この大和説男も、
安部自民公明政府や右翼マスコミや右翼学会教育界と全く同じような、
「人種差別的国粋皇国史観」を国民に煽って騙して、
国民を殺戮戦争狂にしてしまおう、とする・・・・極右のようだなあ。 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力、阿波、宮崎や遠賀川の石神など、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。 >>342
>しかも奴国から(不彌国でもいいけど)2ヶ月もかけて
行く遠いところだってのに、それを無視して北部九州にあるっていうんだから
面の皮の厚さがすごいわ<
魏使らの記録や陳寿らは、不彌國で萬二千余里が殆ど終わってしまっているように書いている、
という事を無視して、
不彌國から「2ヶ月もかけて行く遠いところだ」なんて嘘つき騙しの論を、
シャーシャーと言えるなんて、
大和説者の面の皮の厚さがすごいわ。 >413
>旧唐書のこの部分の東は何をどうごねても間違ってるよ <
いや、成都の西南2400里の場所から安南方向であれば、
「東方向に(成都に至るが如く)通水陸行する」ってのは、
大体合っている。 旧唐書
皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C
南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,
東至安南如至成都,通水陸行
皋は遂に巡官崔佐時に命じて牟尋の都する所、陽苴棟驍ノ至らしむ
南へ去ること太和城へ「十餘里」
東北へ成都に至るに「二千四百里」
東へ安南に至るに「成都に至るが如し」、水陸行を通ず
皋は唐代の西川節度使、韋皋のこと 吐蕃(チベット)攻略の功あり
崔佐時は唐代の節度巡官、韋皋の部下
牟尋は南詔国の第三代国王の異牟尋 都を太和城から北方の陽苴棟驍ノ遷都した
陽苴棟驍ヘ今の大理
南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,
東至安南如至成都,通水陸行
の部分は、陽苴棟驍フ位置の説明で、
『方角、地名、「距離」』がワンセットで示されている
方角、距離は、直線方向で直線距離
「成都に至るが如し」は安南への「距離」を示す
でなければ、安南との位置関係が分からなくなる
そして、安南は大理の「南東」だから「東」は間違い
通水陸行は、安南への行程にしかかからない >>416
>こういう考え方も日本人の価値観と相容れないねぇ
別に日本国籍持ってなくても、日本の歴史に興味を持って構わないけど
やっぱり考え方が日本人からずれてるんだよなぁ <
おや?、この大和説男が、また、奇妙な事をしゃべっている。
安部自民公明政府や右翼マスコミや右翼学会教育界と全く同じような、
「人種差別的国粋皇国史観」を国民に煽って騙して、
国民を殺戮戦争狂にしてしまおう、とする・・・・極右のようだなあ。 >>947
>不彌國で萬二千余里が殆ど終わってしまっているように書いている
これが既にごまかし
不彌国からまだ千三百里余っている
「島巡り仮説」など、大陸のどんな史書をひっくり返しても、
そんな書き方の例は一つもない「捏造」の読み方
大理から成都ほどの距離があっても2400里、千三百里はその半分より長い
九州では収まらないよ 大理から安南の一部は、ソンホン川の「水行」が新唐書に記されているが、
大陸正史の地理・旅程記事では、ソンホン川とガンジス川の2例(3ヶ所)以外
「水行」の語が「川での移動」に使われている例はない
物資の運搬についての漕運記事では、黄河や渭水でも見られるが、これも大河
長さが20キロ程度の小河川に「水行」の語が使われることはない 邪馬台国伊都国説の連中も、福岡平野から南へ水行はしないっていう立場だから、
魏志倭人伝の「水行」は「川の水行」ではないことには同意するよな? 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521083390/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 そういうコピペはいいから、自分の言葉で
>>953-955に答えてごらん >>959
>倭と書いてヤマトと読む。
これは和訓であって、大陸の上古音でも中古音でもそんな読み方はない
>つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
つまり、これが妄想で、倭国の中の女王の都が置かれた場所の地名が
邪馬台国=ヤマト国で、のちにこのヤマトが倭国全体を代表する地名に
なったため、和訓では倭と書いて「ヤマト」と読むようになった、
というのが正しい順番
今の大和の字は、大倭から字を改めたもので、
ヤマト(もとの大和言葉、音のみで字はない)
↓
邪馬台国(大陸王朝の音訳による当て字)
↓
倭国と書いてヤマト国と読む(邪馬台国で倭国を代表するようになる)
↓
大倭国(ヤマト国)
↓
大和国(ヤマト国、文字を改める)
の順番だよ
すっきりしてるだろ >>961の補足
さらに、日本という国号を創始した後の日本書紀では、
「日本」と書いて「ヤマト」と読ませている
邪馬台国(ヤマト国)以来、漢字表記は変わっても、ずっとヤマトなんだよ >>961は倭国→大倭国への変化を説明していない。
ヤマト(もとの大和言葉、音のみで字はない?)
↓
邪馬台国(大陸王朝の音訳による当て字?)
↓
倭国(阿波)と書いてヤマト国と読む(邪馬台国で倭国を代表するようになる)
↓
8世紀に奈良遷都 大倭国(ヤマト国)
↓
大和国(ヤマト国、文字を改める)
の順番だよ
すっきりしてるだろ @阿波 >>907
馬鹿なの?死ぬの?
南米へのズビニ鉤虫流入に縄文人という南洋系の海洋民族が関わっていたってだけでしょ。
人類の移動ルートを考えれば極東の海の民が知ったか太郎くんが挙げた各地域に辿り着いた訳ないって分かるでしょ?
>>909 の人が言ってることを読め 知ったか太郎
都合のいいことだけ鵜呑みにすんなよww >>929 横レスですが、人類の移動ルートを考えたらどうですか? >>966 知ったか太郎レス早すぎwwwストーカーかよwww >>965
>南米へのズビニ鉤虫流入に縄文人という南洋系の海洋民族が関わっていたってだけでしょ。
別に縄文人じゃなくてもそれ以外にも、ズビニ鉤虫を媒介できる民族がたくさんいるんだよ?
この状態で、どうしてズビニ鉤虫が縄文人の移動の証拠になるんだい?
ズビニ鉤虫がいるところが縄文人の移動の証拠なら、
縄文人はアフリカ、アジア、アメリカの熱帯地域
及び中東、北アフリカ、南欧にも進出していた、ことになるよな?
論理が分かっていない人は、ガバガバの穴だらけの話を
自分に都合がいいってだけですぐダボハゼみたいに喰いつく >>969
だーかーらー、初めてズビニ鉤虫の宿主化したホモ・サピエンスが縄文人ってなんで決めつけてんの?
一繋ぎの人類移動を考えろよ >>970
>だーかーらー、初めてズビニ鉤虫の宿主化したホモ・サピエンスが縄文人ってなんで決めつけてんの?
じゃあ、当然になんたら土器も、作ったホモ・サピエンスが縄文人って決めつける必要ないし
決め付けられないよなww
エクアドルに縄文土器があるっていうのは、そういうことを言った「人がいる」だけだよ >>970
>だーかーらー、初めてズビニ鉤虫の宿主化したホモ・サピエンスが縄文人
ああごめん、勘違いしてた
970は「『初めて』ズビニ鉤虫の宿主化したホモ・サピエンス」なんてことを考えてたんだww
思いもしなかったよ
こっちが言ってるのは「初めて」かどうかは関係なく、蔓延地がたくさんあるのに
どうして「南米への持込」に縄文人を想定するのかって話 九州北部から南に「川の水行」はないっていうのは、いいかな? >>965=>>970で
神奈川県の川崎市川崎区 在住の人? >>972
いいか、順序立てて説明するよ。
エクアドルはバルディビアで発見された土器が専門家による研究の結果、南九州の阿高式土器と25種類に及ぶ紋様の共通点を有していた。
南日本の縄文人はスンダランダーの流れを汲む海洋民族である。(事実朝鮮半島との交易路を有している)
そしてユーラシア大陸とアメリカ大陸には形態・生態が極めて酷似した寄生虫が生息している
>>781 の理由によって人類を宿主とする寄生虫がベーリング海峡からの移動によって新大陸に持ち込まれる前に死滅する。
よって温暖な太平洋を渡って新大陸に到達した海洋民族こそがその寄生虫の宿主であったと考えられる。
寄生虫の伝搬と同様の南九州の先住民族渡海の根拠として 成人T細胞白血球病にも中南米・南九州での隔たったキャリアー分布がある。
>>970 俺は関東の田舎者ではない。 >>975
訂正
>>784 の理由によって人類を〜 寄生線虫が寄生性を獲得する前の祖先は自由生活生物だから
元から世界中にいるんだよ
ユーラシア大陸とアメリカ大陸で形態・生態が極めて酷似しているといっても
ヒトを最終宿主として進化したらヒトの体内の環境は同じだから
スンダランド(または九州)でしかヒトへの宿主転換をしなかったという根拠がない 母乳感染のHTLV‐1ウイルス(ATL)のキャリアは、
アイヌやアラスカ、カナダの先住民のイヌイットにも多い >>975
>ユーラシア大陸とアメリカ大陸には形態・生態が極めて酷似した寄生虫
何度も書いているが、ズビニ鉤虫は
「アフリカ、アジア、アメリカの熱帯地域及び中東、北アフリカ、南欧」にいるんだよ
これらは「形態・生態が極めて酷似した寄生虫」というより、一つの分類群だな
しかも、南米分が縄文時代からいると限ったものじゃないだろ?
比較的近年になって、アフリカあたりから到達したのかもしれない
遺伝子調べて統計処理して系統樹を描いた結果、日本の群とエクアドルの群が
きわめて近いという結果が出たならともかく、ズビニ鉤虫からは何も言えないよ >>975
>25種類に及ぶ紋様の共通点
これ、画像で検索してごらん
土器を作るときには、どこで作ってもできそうな文様ばかりだぞ
火炎型土器が出たとか言うなら、間違いなく縄文土器だが
そこまで特徴的な文様ではない 繰り返すが
九州北部から南に「川の水行」はないっていうのは、いいかな? >>523
・・・などと、理由も言わず
ただ「大和皇国史観」の結論ありきを言い張るだけなのが大和説。 >>524
「南→東」などの嘘つき騙しを、言い張るだけが大和説
w >>983
>「南→東」などの嘘つき騙し
ザラコクさんは、儒教道徳の体現者ですよね! >>530
>部分里程がそれぞれの境界までの距離だとしたら
国内を通過する距離が計算に入ってないから
合計が12000余里になったら おかしいね<
魏使らは陳寿の記載里数の最小記載は「百里」だから、
「概算で百里となる距離」以下の距離は記載されていない事になり、
という事は、近似的に百里になるのは50里〜150里だから、
50里以下の距離の区間は記載されていない事になり、
「国内を通過する距離」も、50里以下の場所は里数を記載していない、
という事になり、
合計の萬二千余里の「余」の中に含まれている事になる。。 >>541
「南→東」などの嘘つき騙し説というか・・・
ひたすら嘘をつき続ける大和説者や大和説学者らの異常さが凄い 。 >>985
>50里以下の場所は里数を記載していない
例えば高句麗は都の丸都が方可二千里、戶三萬と書いてある
二万余戸の奴国の国内移動が50里以下なんてことにはなるまい? >>546
>あ、違うか。
国の中の移動がないと?
普通は国邑(環濠集落や都城)の門までを想定するのだけれど、そうでない場合はどうなのかな。
島の大きさを考慮するのは古田説なんだが、個人的には反対。
中国人にそういう発想はない<
居住外縁部間の距離、というのが人類の常識。 >>987
>南→東」などの嘘つき騙し説
漢文が読めないザラコクさんのために
旧唐書の大理ー安南間の、全解釈を>>950に書いておいたよ
大陸の史書は、方角を間違うときは間違う
「間違うはずがない」というのは論理学的に「偽」なんだよ
まあ、ザラコクさんは儒教道徳に従って、間違いを認めることができず
説の創始者である古田氏の考えを、改善することすらできず
壊れたレコードよろしく、まったく同じことをコピペし続けるだけの
哀れな老人ってことなんだけどな >>989
>居住外縁部間の距離、というのが人類の常識。
その常識と「島巡り仮説」はどういう関係になるんだ?
矛盾しているのは理解できるか? >>550
大和説者は、「南→東」のような、
こういうウソを平気でつく。
w >>557
白村江で唐と戦ったのは、(大和日本国ではなく)筑紫の倭国であったのに、
隋の時代も都は大和だった、
と言い張るトンデモ大和説 。 >>569
>畿内に邪馬台国が成立したのは確実だが<
「南≠東」だから×だし、
「畿内」も「邪馬台国」も存在しなかった。 >>993
>白村江で唐と戦ったのは、(大和日本国ではなく)筑紫の倭国
白村江どころか、倭の五王の遣使も
現在の奈良盆地と呼ばれる場所に存在した、稲荷山古墳から江田船山古墳に至る
範囲を勢力圏に収めた現皇統につながるオオハツセワカタケルの遣使だよ
本当に、歴史を科学として論じることのできない、九州説の儒教道徳主義者は
価値観が違うわ >>576
>畿内は広域連合である邪馬台国の中心地に「選ばれた」場所<
大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国であったし、
「畿内」や「邪馬台国」は存在していなかったし、
「南≠東」でも、×。 >>578
>そう畿内説のテンプレに書いてあると思うんだがね<
テンプレは、結局「南→東」の 嘘つき騙しをしていたから、×。 ザラコクは「南≠東」が書けなくなったら
何も書けなくなるから、必死なんだよな
しかも旧唐書は、日本は倭の別種って書いてあるからインチキ×書にできないし、
大理安南間の方角の間違いは致命傷なんだよww >>579
>現に纒向遺跡は畿内に突如として現れているわけだが?
現実が見えないのは、おかしいことだよ。<
そもそも、「畿内」なんて存在しなかったんだから、×。 嘘つき騙しって言葉は、日本では「嘘をついていない人」に使うんだって、
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