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司馬遼太郎 Part13
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0114日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 20:52:07.03
倒幕維新の達成には、桐野のような男の力も必要であったが、新政権を成立させるためには、桐野は無益なばかりか有害ですらあった。
0115日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 20:56:26.40
新政府の要人を手形の記載事項の分類にたとえると、
必要的記載事項……大久保利通
有益的記載事項……木戸孝允
無益的記載事項……西郷隆盛
有害的記載事項……桐野利秋
0116日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:02:29.58
桐野はチャンバラ活劇の人であって、政論の人じゃないからな。
戊辰戦争で死んでいれば、土方歳三クラスのヒーローになれたかもしれないのに、10年長生きしたばっかりに嫌われ者になった。
0117日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:08:35.37
バカは思いっきりバカじゃないと人気者になれない。
中途半端なバカは嫌われる。バカに陸軍少将という高い身分が加わると、なおさら。
0119日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:30:48.48
実像とはほど遠い誤ったイメージを持たれた敗者は多い。桐野利秋などは、その典型だろう。
今日に至るまで、桐野が誤解されている第一の原因は、「人斬り半次郎」という異名を世間から賜ったことにほかならない。これにより、志士や軍人というよりも殺し屋という印象が強くなり、さらに出自が低く、さして学問も修めていなかったことから、野蛮な男と目された。
その極め付きとして、「西郷隆盛を西南戦争に駆り立て、死に追い込んだ男」という評価が定着したわけである。
0120日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:34:08.41
▼同時代人による桐野評
◇高島鞆之助〔>>71
「竹を割ったような正直で剥き出しな性質」「男らしく潔白で豪放」「さっぱりした快濶な男」
◇佐土原藩の富田通信(みちのぶ)
「功に奢らず謙遜なる人」「至って勇猛にして敵ならば鬼を挫く勢いでありながら、また至って愛情深き人」
0121日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:36:10.01
◇肝付兼行
「実に磊落な淡泊な性質の人で、何人に対しても障壁を設けることをしなかった。上下貴賤の差別なしに誰が来ても同じ部屋に通し、遠慮なしに話をするのが常だった」
◇西郷隆盛
「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾々の及ぶ所にあらず」
0122日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:43:13.63
>>116
土方歳三がヒーローになったのは、司馬の『燃えよ剣』からだよ。
それ以前の映画、あるいは、それ以後もだが、ヒーローは近藤勇で、土方は冷血漢の扱いだった。
近藤をヒーローにするために、新撰組の都合の悪いところは、すべて土方が裏でこそこそやっていたことにされていた。
0123日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:53:13.16
西郷の無瑕性を強調するために、桐野は土方歳三と同じように、泥をかぶっているわけだな。
0124日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 21:54:39.46
無瑕性という言葉を見ると、刑訴の違法収集証拠排除法則を思い出すな。
0126日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:06:23.27
征韓論争も西南の役も、「西欧近代国家を見てしまった新帰朝組と、それを見たことのないドメスティックな人々の争い」の一行で片付くんだけどな。こんな長い小説を書かなくても。
0127日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:12:53.10
★別府晋介

▽陸軍少佐
part11〔655-657〕に書いた。この小説は登場人物が多数なため、一度登場しても、次に出てくるまで長いお休みがある。
重複は避けたいが、ポイントだけは、再登場のたびに記しておく。
弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第二子として生まれる。母方の従兄の桐野利秋とは実の兄弟以上に仲が良かった。
0128日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:15:56.93
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊の小隊長となった。明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。
明治5年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村長兵衛・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、韓服を着て韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。
※晋介は左。右は桐野。
https://kagoshimayokamon.com/wp-content/uploads/2017/01/ghfdjj-e1485531500815.jpg
0130日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:37:30.88
晋介は天性無欲なうえに平等思想をもち、たとえば部下に対し、俸給さえ平等にした。かれは部下の士官や下士官の俸給を自分の俸給とコミにして平等に分配するのである。
0131日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:41:14.17
晋介は西南戦争のときに官軍が民家を銃撃するのをみて、
「これが官である。虐政を事としている。われらは国家のために百政を改革して人民を水火のなかより救うがために戦うのだ」
と、自分の部下に演説した。
0132日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:44:52.70
西郷党の性格は、外部からの印象としては、「かれらは封建制を復活しようとしている」というものであった。
しかし西郷の思想のなかには本質の部分に民権思想が濃厚であり、単なる不平家にすぎない者の多かったのちの自由民権運動者よりも確かなものがあった。
0133日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:49:41.35
▽大塩平八郎
寛政5年(1793年)- 天保8年(1837年)。江戸時代後期の儒学者。
大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。
学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾・洗心洞で子弟を指導した。
0134日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:51:42.04
天保の大飢饉は、全国的には天保4年(1833年)秋から同5年夏にかけてと天保7年(1836年)秋から同8年夏にかけてが特にひどかった。
蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。
0135日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:52:48.12
跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年(1837年)2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考えた。
天保8年2月19日(1837年)に大塩は門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。
http://r-ijin.com/wp-content/uploads/2016/09/oosio.jpg
0136日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 22:55:06.34
大塩平八郎は、西郷隆盛が尊敬する人物として、その名が挙がっている。
大塩のように自らを犠牲にして人民の側に立った人物は、明治・大正の民権家や社会主義者にもいない。
0137日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 23:15:32.39
★竹橋兵営

▽近衛兵司令部
明治6年当時は近衛歩兵連隊であり、近衛師団と改称されたのは明治24年である。なお、明治24年には鎮台も師団と改称されている。
地下鉄「九段下駅」「竹橋駅」から徒歩10分、北の丸公園内にある東京国立近代美術館工芸館は、もともと近衛師団の司令部庁舎として使われていた建物である。
ただし完成したのは、明治43年(1910)。関東大震災や第二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/5d/c88adf972c42e40735b1ecf39e3902c8.jpg
0139日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 23:43:22.50
大坂の陣の大坂方の牢人には親近感が持てるのだが、同じく敗軍の将で非業の最期を遂げた西南の役の桐野や別府には親しみが湧かないんだわな。
理由の一つは、後者は時代が近すぎてリアルな人間として立ち現れるからだと思う。真田や後藤は大昔の人なので浪漫をたっぷり注入できるのに対して、写真まで残っている明治の人には浪漫注入量が制限されてくる。
0140日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 23:51:05.45
もうひとつの理由は、大坂の陣の牢人は幼児期に知った。筆者は立川文庫の時代の人間ではないが、筆者が幼少期に読んだ漫画や小説の作者が子供の頃に立川文庫の愛読者たちであった(司馬遼太郎もそのうちのひとり)。
幼少期に知ったヒーローには、幼馴染に再会するようななつかしさがあって、大人になっても応援したくなる気持ちに変化はない。
これに対して、桐野や別府の名は20歳前後に『翔ぶが如く』を読んで知った。大人になって短い間知人であった人々と違いがないんだわ。生きていようが死んでいようが、別にどっちでもいい。
0141日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 23:53:13.52
>>139
>写真まで残っている明治の人には浪漫注入量が制限されてくる。

同感。写真を見なければ、桐野や別府を好きになっていたかもしれない。
この二人、人相が悪い。
0142日本@名無史さん
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2018/03/23(金) 23:57:02.96
>>140
幼馴染はくだらない大人になっていることもあるが、幼少期に知ったヒーローは、いつでもヒーローだもんな。
0143日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 00:21:02.80
>>139
征韓論争の参議たちは、高校日本史で散々覚えさせられた馴染みのある名前というのもあるな。
彼らが一挙に退場して、薩軍のなじみのない将校たちの名前が大量に出てくると、各将校の個性の差別化ができなくて、つまらなくなってくるというのもある。
0146日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 00:44:54.75
▽文治主義
李朝国家の政治システムは、中国歴代の制度に由来するもので、頂点に絶対権力者としての王をいただき、その下に文官・武官の両官僚群が合議で政務をとり行う高麗朝の儒教的な官僚体制を踏襲したものだった。ただ、文治主義と中央集権制が極度に徹底されていた点に大きな特徴があった。
官僚には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれた。しかし李朝は極端な文治主義をとっており、武官は文官に対してはるかに劣位な状態におかれていた。全軍の指揮権を司る責任機関の長にも、地域方面軍の指揮将官たちにも高級文官が就任し、その他の高位の武官職もことごとく高級文官によって兼任されていた。
0147日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 00:47:01.10
李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官には事実上政府要人への道が閉ざされていた。そして儒教的な文治主義の立場から、外国との間に生じる諸問題の解決は、可能な限り政治的な外交によって処理することがよしとされ、国土の防衛は宗主国である中国に頼る方向で考える傾向を強めた。
そのため、軍人の間の不満は慢性化していたが、軍事クーデターに対しては徹底した予防措置がとられた。わずかでも不穏な動きがあれば、そのたびに軍人を弾圧し、未然の鎮圧が周到に行われた。
0148日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 00:48:14.93
こうした極端な文官独裁の文治主義政治によって軍事が軽視され続けた結果、無残なばかりの軍部弱体化を招来させてしまったのである。
兵役は常民階級に課せられていたが、賄賂による兵役のがれが広がり、また兵農分離がうまく進行しなかった。しかも財政難のために志願兵を集めることもままならず、兵員確保にこと欠く状態が長らく続き、兵力は急速に下降線をたどっていった。
そして19世紀に入った頃には、もはや外国の脅威に対して有効な抵抗をする力をまるでもたず、宗主国の中国に頼るしかない国家となっていたのである。
0149日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 00:52:49.46
Part11〔657〕に書いたように、晋介は帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より「鶏林八道を蹂躙するは、我二三箇中隊にして足れり」と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。
先に『翔ぶが如く』では、桐野の言葉のように書かれていたが、実は別府晋介の言葉であった。このことも、以前どこかで述べた。
0150日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 00:58:08.73
★湯島切通坂

▽幸吉
桐野の邸が湯島切通坂にある旧榊原家であることは、既述した〔>>95〕。
幸吉は桐野の下僕で、薩摩国吉野村の百姓の次男坊である。
幸吉は西南戦争で桐野と死を倶にする。
0152日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 01:08:52.47
「俺も帰りもす」
晋介がいうと、桐野は軽く、しかも無言でうなずいた。かれらはこれだけでその運命を決めた。
自己の生死に関するような重大な運命の決定はごく軽い調子で決めるのが、薩摩人の伝統的なダンディズムというものであった。
「晋介どん、黙々力を蓄えて天の時を待つ。こいしかなかど。天の時が来ねば俺は百姓で朽ちる」
0153日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 01:13:11.52
親に食わせてもらっている学生なら、この薩摩人のダンディズムをかっこいいと思うかもしれないな。
妻子を養っている大人なら、何の共感ももてないだろう。
「かっこつけんな、阿呆」になると思うね。
0154日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 14:52:50.46
桐野は第二維新を10年後にやる、というか世間が第二維新を渇望し西郷に期待を寄せると言っている。
0155日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:06:31.29
★おきよ

▽清子
奥並継は実在の人物だから、その妻清子も実在したと思うが、調べてみると奥の妻の名は千賀子である。
創作でもかまわないと思うのだが、他人の妻を元愛人と書くからには、相当な根拠はあるのではなかろうか。
それ以上のことは、調べてみたが分からなかった。
0156日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:08:52.68
伊藤痴遊の文章に「妾の居付かぬ桐野利秋」がある。ここでの桐野の妾は、お秋になっている。
0157日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:09:45.93
半次郎が桐野利秋になり、身分も陸軍少将となって、湯島にあった旗本の家を買い取って住んでいたが、来客が非常に多いため、妾を抱えて酒食の世話をさせていた。
ところが、この妾が長く居付かない。早いので一晩、三晩はもっても四晩とはもたないと云う。あるとき、お秋と云う妾が来たが、このお秋だけは逃げ出すことなく、桐野と仲むつまじく暮らしている。
0158日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:11:13.00
桐野が戦死した後、お秋が桐野の秘密を語ったので、妾が長居しなかった理由が明らかになった。
文久から慶応にかけての京阪時代に桐野は数え切れないくらいの人殺しをやった。そして、桐野が殺した男たちが毎夜、桐野の枕元に座っており、それに桐野がうなされるのを見て、妾たちが震え上がって出て行くのだ。
ただ、このお秋だけは気性の勝った女性だったらしく、出て行くことはしなかった。
0159日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:17:52.62
▽奥並継〈なみつぐ〉
文政7年(1824年) - 明治27年(1894年)
明治維新のとき44歳であるが、司馬さんは書生としている。ずいぶん老けた書生ですことw
豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮詞官漆島姓の奥氏の養嗣子なる。
文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。ちょうど三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや憤慨し、直ちに宇佐に帰り、豊前国・豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟・時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/9/9a/Oku_namitugu.JPG/1200px-Oku_namitugu.JPG
0160日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:23:05.67
明治3年、神祇少史に任られ、神祇権大史に遷り、陸軍省(佐賀の乱、台湾出兵に従軍)、東京府、開拓使官吏(屯田兵の長として西南戦争に参加、開拓使廃止まで開拓事業推進に従事)、大蔵省(開拓会計残務整理委員)、修史局四等編修官(北海道史及びアイヌ研究の著書をまとめる)を歴任し、正七位に叙せられ、明治19年に官吏を勇退する。
この奥並継が桐野が払い下げた清子を妻としたと司馬さんは述べられる。奥並継の年齢からすると、ウソくさい話である。
また、奥の妻が千賀子であることは〔>>155〕で述べた。
0161日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:24:40.85
司馬さんは、「おきよ」あるいは「おちよ」と書いているよ。
「おちよ」だったら千賀子と音が似ている。
0162日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:35:54.83
末弘厳太郎の妹・松枝が小学1年の頃に、奥清子という美しいお婆さんを見たと司馬さんは書かれているが、これもあやしい。
奥並継と千賀子の長女は、大審院判事・末弘厳石に嫁ぎ、法学者・末弘厳太郎と那賀(池田克夫人)の母となる。
つまり、末弘厳太郎の妹は、松枝ではなく那賀である。厳太郎と那賀にとって千賀子(清子)は母方の祖母である。
0163日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:41:56.21
▽末弘厳太郎〈いずたろう〉
明治21年 - 昭和26年:東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。研究対象は、民法、労働法、法社会学。
末弘は、ドイツ民法学全盛の時代の日本の民法学説を概念法学であるとして徹底的に批判し、民法学の転回をもたらした革命児である。
しかし、司馬遼太郎の文章によると、桐野利秋に弄ばれ奥並継に払い下げられた妾の孫ということになる。
https://pbs.twimg.com/profile_images/344513261574283296/6d24795b5be3122aa0e4f2d96e7d6e62_400x400.jpeg
0164日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:46:07.03
なお、末弘厳太郎の妻・冬子は、菊池大麓の三女で、鳩山秀夫(鳩山一郎の弟、我妻栄の恩師)の妻・千代子の姉である。
0165日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 15:47:29.89
話をややこしくして申し訳ないがが、鳩山秀夫の妻が「おちよ」なんだな〔>>161〕。
0168日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 16:11:59.89
▽野分〈のわき〉
台風の古称。二百十日の頃、野の草を吹き分ける強い風。 秋から初冬にかけて吹き荒ぶ台風。秋の季語。
「二百十日」も「野分」も、夏目漱石の小説の題名になっている。
0169翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/03/24(土) 17:17:08.05
第19章 退去

〔五〕篠原国幹
――桐野はあれで人心を得ている。
と、かつて西郷は弟の従道にそういったが、しかし陸軍部内で人心を得ているという点では桐野以上の存在がいた。
陸軍少将篠原国幹である。
桐野と篠原とは、ひょっとすると比較しがたいかもしれないが、表面的にはいかにも対照的であった。
篠原国幹は藩校造士館でぬきんでた秀才であった。さらに、桐野が郷士身分の出身であるのにひきかえ、篠原は父が記録奉行をつとめたほどの門地の出身であることである。挙措、品がよく、かれが座敷にすわれば一座が自然にしずまるといわれた。
0170日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 17:24:31.63
▽篠原国幹
前スレ〔363-364〕で述べた。天保7年(1837年)- 明治10年。
少年時代に藩校・造士館に入って和漢学を修め、ついで藩校の句読師となり、長じてからも和漢の典籍を読むことを好んだ。
剣術ははじめ薬丸兼義に薬丸自顕流を、次いで和田源太兵衛に常陸流を学ぶ。江戸に出て練兵館で神道無念流を学んだ。また馬術・鎗術・弓術も極め、文武両道を兼ねていた。
0172日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 17:34:33.03
          || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
          ||  天皇陛下      ∧_∧  みんなで一緒に読んで。
          ||          \ (゚Д゚,,)
          ||________⊂⊂ |
  ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧    | ̄ ̄ ̄ ̄|
  (  ∧ ∧ (   ∧ ∧ (  ∧ ∧ |      |
〜(_(  ∧ ∧ __(  ∧ ∧__(   ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
  〜(_(  ∧ ∧_(  ∧ ∧_(   ∧ ∧  は〜い、先生。「天皇かいか」
    〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
      〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ
0173日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 17:38:11.21
      人
     (__)
    (__)  
    (`・ω・´)   ∬  階も陛も草書にすれば似たようなものではないか
   .ノ^ y ´~ フ━● 
   ヽ,,ノ==l ̄     
    /  l |     
"""~""""""~"""~"""~"
0174日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 17:46:39.34
▽造士館
薩摩藩第八代藩主・島津重豪は安永2年(1773年)、鹿児島城二ノ丸御門前に約3,400坪の敷地を確保し、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。
初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命された。モデルになったのは江戸幕府の湯島聖堂(昌平坂学問所)である。隣接する4,139坪の敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。
※旧制第七高等学校造士館
http://www.korezo.jp/cms/wp-content/uploads/2014/05/72PP-0017-72.jpg
0176日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 18:03:17.36
篠原は極端に無口で、征韓論についてもどのような考えを持っているのか、誰も知らなかった。
桐野が篠原に質すと、反対はしなかった。
しかし篠原自ら征韓論をぶつことがなかったため、大久保利通でさえ篠原は反征韓派だと思っていた。
0178日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 19:28:06.44
▽種田政明
天保8年(1837年)- 明治9年。Part11〔423-424〕で述べた。「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」の人。
明治6年11月、陸軍少将となった。東京鎮台司令長官を経て、明治9年9月、熊本鎮台司令長官に就任した。
陸軍薩摩閥の中では大将の西郷隆盛に次ぎ、同じく少将の桐野利秋、篠原国幹と並ぶ人物であった。桐野等と異なり官僚としての力量もあり、明治六年政変で西郷等が下野した後は必然的に陸軍薩摩閥を束ねる地位にあった。
0179日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 19:29:44.41
反征韓派の種田政明は、「桐野など、むしろ去ったほうがよい。篠原さえいれば兵隊は鎮静する」と楽観していた。
0180日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 19:42:57.39
▽飮馬麹]果何日  馬を 麹]に飮(みづかふ)は 果はたして何れの日ぞ
  一朝事去壯圖差  一朝 事 去りて 壯圖(さうと)差(たが)ふ
  此闥N解英雄恨  此の閨iかん)誰か解せん 英雄の恨
  袖手春風詠落花  手を袖にして 春風 落花を詠ず
0181日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 19:43:17.20
故郷に帰った篠原国幹は、失意と日本の将来を憂え、日々悶々としていたが、この詩はその頃に詠んだものである。
0182日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 19:45:44.21
篠原は大久保が自分を説得することを考えると、それを受けることが煩わしく、(このさい、姿を隠すよりない)と、意を決した。
0183日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 19:56:08.67
★竹橋兵営

▽10月25日
西郷と桐野の辞職を知ったある若い大尉の行動は、ドラマ『田原坂』で使われていた。
桐野も別府も篠原も全員竹橋兵営に集合して、近衛の帽子を投げ捨てていたようだった。
0184日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 20:34:47.48
▽黒田清隆
黒田は大久保に命ぜられて、篠原を慰留するよう説得に赴いた。
「了介どん、うぜらしか」
「政府革命之時節、到来歟」
0185日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 20:59:46.04
★赤坂仮御所

▽10月25日夕刻
既述したところであるが、明治6年5月5日の宮城火災から、明治21年の明治宮殿完成までの15年間、赤坂の元紀州藩屋敷跡に明治天皇の仮御所が置かれていた。
大久保はこの赤坂仮御所に大量辞職が続いていた近衛将校団を召集し、天皇の権威を利用して辞職を思いとどめさせようとした。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/cc/92ccc0c738a90ec282b8d0ef02eb1b53.jpg
0186日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 21:04:09.83
▽徳大寺実則〈さねつね〉
天保10年(1840年)- 大正8年
尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年(文久2年)国事御用掛、翌年議奏となったが、1863年(文久3年)に起こった八月十八日の政変に関与し謹慎となった。
1871年宮内省に入り、侍従長・宮内卿と兼任に至った。1891年内大臣兼侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。明治天皇の政治関与には強く反対し、元田永孚らが侍補制度を定めて天皇親政運動を行った折にはその阻止に動いた。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201508/29/92/a0287992_15191683.jpg
0188日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 21:08:25.77
▽軍人勅諭
明治15年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という。西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。
下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、明治11年10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
0189日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 21:15:49.30
▽10月29日
ふたたび天皇が近衛の佐官以上を召した。参列した者は、140人ばかりいた。
しかし肝心の近衛司令長官篠原国幹の姿は見えなかった。
篠原ら近衛士官たちが、再三にわたって天皇みずからが慰撫したにもかかわらずそれを無視し官爵を蹴って東京を去ったというのは、黒田のいうように政論の対立というだけで、不忠の誹りを受けることはなく、天皇の権威はまだこれに介入できなかった。
0190翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/03/24(土) 22:02:54.13
第20章 陸軍卿

〔一〕山県有朋
「予は征韓論が起こったとき、東京にいなかった」
と、三十六歳の陸軍卿山県有朋はいう。
山県は保身については狡猾なほどに鋭敏な感覚があるが、かれがもし東京にいれば深刻な苦痛を味わったに違いない。
かれは幕末以来、長州人ながらも西郷を敬愛する気持ちが厚く、さらに山城屋事件という彼にとって致命的な汚職容疑で官外に追放されるところを、西郷によってからくも救われた。山県は、西郷から私恩を受けた。
0191日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 22:08:11.29
西郷のあとを追って辞めてゆく薩摩系の近衛将校たちは、山城屋事件のときに山県を罵り、
「貪官汚吏の山県を殺す」
とまで息まき、ようやく西郷になだめられた。近衛将校たちは東京を去るについて、行きがけの駄賃で山県を斬るという危険も十分に予測できた。
0192日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 22:15:36.87
▽徴兵制
板垣退助……義勇兵制で足りる。陸地が国境の西欧では互いに大軍を養って相警戒しあう必要があるが、四囲が海である日本で大軍を養う必要はない。
西郷隆盛……士族兵
長州……奇兵隊の精強という体験があるため、国民皆兵制以外の制度を考えていなかった。
0193日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 22:18:36.30
しかし、山県の構想した鎮台制も、外征目的の軍備ではなかった。
「内は以て草賊を鎮圧し、外は以て対峙の勢を張る」
0194日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 22:32:36.35
★熊本

▽チンダイ
この言葉は兵隊の同義語であったが、痛烈な蔑称でもあった。

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   ,--、_ノ:: `ー'::   、ミー---‐,,l     o゚((●)) ((●))゚o    プギャアアアアアアアアアアアアアア チンダイ
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ヽ  :l::::   ト:;;;;;;;;;/-/__...........  /                   ̄`ー‐---‐‐´
0195日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 22:35:12.26
「長州奇兵隊をみよ」
「奇兵隊と申せば、百姓・町人が主力とはいえ、義勇兵制度だったではありませんか」
0196日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 22:37:07.67
「戊辰のとき、東北諸藩の武士は奇兵隊と戦うのを嫌がったそうですな」
「百姓に首を授けるのは恥辱だ」
0198日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 23:23:32.90
★箱根

▽10月25日
東京の変報を携えた陸軍大輔西郷従道の使者とは、静岡ですれちがった。
使者は早駕籠で山県を追いかけた。山県とは箱根の山中で会った。
手紙の日付は、10月19日であった。天皇が三条実美を見舞う前日である。
0200日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 23:38:47.77
▽「長の陸軍」
西郷南洲の征韓論にやぶれて、廟堂と陸軍大将の冠を挫けて故山に隠棲した際、薩州出身の武人ほとんどが西郷と進退を共にした。
薩摩が陸軍において勢を失ふべき運命はこの時にきまった。然れども大山巌、野津道貫、高島鞆之助、黒田清隆、川上操六等ありて漸く長に桔抗し、明治18年内閣制度実施より日清戦争後に至るまで陸軍大臣の椅子は薩人によって独占せられ山県といえどもこれを如何ともできなかった。
0201日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 23:42:26.33
ところが、黒田清隆、川上操六、大寺安純等が相次いで逝き、このあとには野津道貫を失ひ、高島鞆之助は失脚して枢密院に葬らると共に陸軍より全然その存在を忘れらた。薩の陸軍の勢力は歳と共に衰退し、山県の第二次内閣より陸軍の実権はすべて長に帰して薩人は長人に仰ぐようになった。
薩の陸軍に取って最も大なる打撃は黒田、野津、高島よりも川上操六の死であった。参謀本部の設置に関しては山県の力が大きいが、これを今日の如く完全なる作戦計室の府にしたのは川上で、日清戦争の根本計画は殆んど彼の頭脳より出でたものだった。
https://stat.ameba.jp/user_images/20150511/01/tank-2012/f7/65/j/o0200025213303393883.jpg
0202日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 23:45:48.15
司馬さんはもう少し『坂の上の雲』を読んだほうがいい。
0203日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 23:51:04.12
▽三浦梧楼
前スレ〔775〕で述べた。前回の登場では、山城屋和助事件への関与を疑われていた。
弘化3年(1847年)- 大正15年
明治7年には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山を陥落させた。明治11年に陸軍中将となり、西部監軍部長。
長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。
https://jpreki.com/wp-content/uploads/2015/08/miura-ro.jpg
0204日本@名無史さん
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2018/03/24(土) 23:53:42.08
本章の三浦梧楼は、帰京した山県邸に集まった一人として登場している。まだ仲はよかったようだ。
薩摩系の将校が大量辞職したことにより、ポストに空きができたことで気分は高揚し、山県に軽口をたたいている。
0205日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:07:26.08
▽木戸孝允
翌朝、麹町富士見町の山県邸へ木戸さんが訪ねてきた。
「西郷と、近衛のことで来たのです。これでは国が亡びる。……昨夜は眠れなかった」
木戸さんは、あいかわらず不眠症の様子である。
0206日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:14:09.70
▽正院
明治4年の廃藩置県後に発布された太政官職制の最高機関である。 それまでの太政官を正院、左院、右院の三つに分け、左右両院の上に立つ。政務を執る正院は従来の太政官に相当し、太政大臣、納言、参議、枢密正権大少史等で構成される。
その後、明治6年に、その権限はさらに強まり、天皇輔弼の責任が明確にされた。明治8年に左右両院が廃止されたが、正院は引き続き存置される。明治10年廃止。
0207日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:19:05.70
▼左院
明治初期の立法府。明治5年4月「立国憲議」を出し、国憲の制定計画を示し、さらに同年5月には「下議院ヲ設ルノ議」を出し、一種の議会制度の構想を示した。明治8年の元老院設置にともない廃止された。
江藤新平は、明治4年8月から明治5年4月まで、左院副議長を務めている。
0208日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:22:12.97
▼右院
各省庁の政策の連絡調整を担う行政機関。各省の長官である卿と次官である大輔で構成されている。右院の決定事項は正院の裁決事項として位置づけられるなど、正院に比してその権限は弱かった。事務次官会議のようなもの。
0209日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:26:39.99
▼近代日本の官制
◇三職制:慶応3年12月9日 - 慶応4年閏4月21日
総裁・議定・参与の三職
徴士・貢士の制度
五箇条の御誓文
0210日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:28:47.99
◇政体書:慶応4年閏4月21日 - 明治2年7月8日
太政官の権力を立法・行法・司法の三権に分け、それぞれ議政官・行政官・刑法官に担当させる。
明治2年2月24日、太政官を東京に移した。
0211日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:41:04.55
◇二官六省制:版籍奉還から廃藩置県まで
二官 神祇官・太政官 →左大臣・右大臣 →大納言 →参議
六省 大蔵省・兵部省・宮内省・刑部省・外務省・民部省
※政体書の内容が進歩的であったため、神祇官を太政官の上位におく祭政一致の原則で保守回帰した。
0212日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:45:02.43
◇三院制:廃藩置県から大阪会議まで〔>>206-208
◇明治8年官制:明治8年4月14日 - 明治18年12月22日
0213日本@名無史さん
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2018/03/25(日) 09:50:56.52
▽山県有朋
軍人を辞めて文官になり、正院へやってもらいたいと木戸に談じ込む。
伊藤博文が参議兼工部卿となったことを知り、自分も参議になりたい旨を木戸に伝えた。
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