司馬遼太郎 Part13
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。 現在「翔ぶが如く」が進行中です。 前スレ 司馬遼太郎 Part12 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516287702/ ▽徴兵制 板垣退助……義勇兵制で足りる。陸地が国境の西欧では互いに大軍を養って相警戒しあう必要があるが、四囲が海である日本で大軍を養う必要はない。 西郷隆盛……士族兵 長州……奇兵隊の精強という体験があるため、国民皆兵制以外の制度を考えていなかった。 しかし、山県の構想した鎮台制も、外征目的の軍備ではなかった。 「内は以て草賊を鎮圧し、外は以て対峙の勢を張る」 ★熊本 ▽チンダイ この言葉は兵隊の同義語であったが、痛烈な蔑称でもあった。 / ̄ ̄^ヽ l l ____ _ ,--、l ノ . /_ノ ヽ、_\ ,--、_ノ:: `ー':: 、ミー---‐,,l o゚((●)) ((●))゚o プギャアアアアアアアアアアアアアア チンダイ ,/ ::: i ̄ ̄ | . /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ / l::: l::: ll | |r┬-| | (⌒) l l . l !:: |::: l | | | | | ノ ~.レ-r┐、 | l l |:: l: l . | | | | | ノ__ | .| | | | l . } l:::::,r----- l. \ `ー'´ ./ 〈 ̄ `-Lλ_レレ ヽ :l:::: ト:;;;;;;;;;/-/__........... /  ̄`ー‐---‐‐´ 「長州奇兵隊をみよ」 「奇兵隊と申せば、百姓・町人が主力とはいえ、義勇兵制度だったではありませんか」 「戊辰のとき、東北諸藩の武士は奇兵隊と戦うのを嫌がったそうですな」 「百姓に首を授けるのは恥辱だ」 ★名古屋 ▽瘧〈おこり〉 間欠的に発熱し、悪感や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。 隔日また周期的に「起こる」が語源である。 ※マラリアはハマダラ蚊によって感染する。 https://www.malaysia-borneo.com/assets/images/sick/malaria2.jpg ★箱根 ▽10月25日 東京の変報を携えた陸軍大輔西郷従道の使者とは、静岡ですれちがった。 使者は早駕籠で山県を追いかけた。山県とは箱根の山中で会った。 手紙の日付は、10月19日であった。天皇が三条実美を見舞う前日である。 ★麹町富士見町 ▽山県邸 前スレ〔258〕に書いた。 現在は三番町共用会議所になっている旧山縣有朋邸は、明治18年に建築された。 http://www.maff.go.jp/j/use/attach/img/kaigisyo_koukai29-5.jpg ▽「長の陸軍」 西郷南洲の征韓論にやぶれて、廟堂と陸軍大将の冠を挫けて故山に隠棲した際、薩州出身の武人ほとんどが西郷と進退を共にした。 薩摩が陸軍において勢を失ふべき運命はこの時にきまった。然れども大山巌、野津道貫、高島鞆之助、黒田清隆、川上操六等ありて漸く長に桔抗し、明治18年内閣制度実施より日清戦争後に至るまで陸軍大臣の椅子は薩人によって独占せられ山県といえどもこれを如何ともできなかった。 ところが、黒田清隆、川上操六、大寺安純等が相次いで逝き、このあとには野津道貫を失ひ、高島鞆之助は失脚して枢密院に葬らると共に陸軍より全然その存在を忘れらた。薩の陸軍の勢力は歳と共に衰退し、山県の第二次内閣より陸軍の実権はすべて長に帰して薩人は長人に仰ぐようになった。 薩の陸軍に取って最も大なる打撃は黒田、野津、高島よりも川上操六の死であった。参謀本部の設置に関しては山県の力が大きいが、これを今日の如く完全なる作戦計室の府にしたのは川上で、日清戦争の根本計画は殆んど彼の頭脳より出でたものだった。 https://stat.ameba.jp/user_images/20150511/01/tank-2012/f7/65/j/o0200025213303393883.jpg 司馬さんはもう少し『坂の上の雲』を読んだほうがいい。 ▽三浦梧楼 前スレ〔775〕で述べた。前回の登場では、山城屋和助事件への関与を疑われていた。 弘化3年(1847年)- 大正15年 明治7年には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山を陥落させた。明治11年に陸軍中将となり、西部監軍部長。 長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。 https://jpreki.com/wp-content/uploads/2015/08/miura-ro.jpg 本章の三浦梧楼は、帰京した山県邸に集まった一人として登場している。まだ仲はよかったようだ。 薩摩系の将校が大量辞職したことにより、ポストに空きができたことで気分は高揚し、山県に軽口をたたいている。 ▽木戸孝允 翌朝、麹町富士見町の山県邸へ木戸さんが訪ねてきた。 「西郷と、近衛のことで来たのです。これでは国が亡びる。……昨夜は眠れなかった」 木戸さんは、あいかわらず不眠症の様子である。 ▽正院 明治4年の廃藩置県後に発布された太政官職制の最高機関である。 それまでの太政官を正院、左院、右院の三つに分け、左右両院の上に立つ。政務を執る正院は従来の太政官に相当し、太政大臣、納言、参議、枢密正権大少史等で構成される。 その後、明治6年に、その権限はさらに強まり、天皇輔弼の責任が明確にされた。明治8年に左右両院が廃止されたが、正院は引き続き存置される。明治10年廃止。 ▼左院 明治初期の立法府。明治5年4月「立国憲議」を出し、国憲の制定計画を示し、さらに同年5月には「下議院ヲ設ルノ議」を出し、一種の議会制度の構想を示した。明治8年の元老院設置にともない廃止された。 江藤新平は、明治4年8月から明治5年4月まで、左院副議長を務めている。 ▼右院 各省庁の政策の連絡調整を担う行政機関。各省の長官である卿と次官である大輔で構成されている。右院の決定事項は正院の裁決事項として位置づけられるなど、正院に比してその権限は弱かった。事務次官会議のようなもの。 ▼近代日本の官制 ◇三職制:慶応3年12月9日 - 慶応4年閏4月21日 総裁・議定・参与の三職 徴士・貢士の制度 五箇条の御誓文 ◇政体書:慶応4年閏4月21日 - 明治2年7月8日 太政官の権力を立法・行法・司法の三権に分け、それぞれ議政官・行政官・刑法官に担当させる。 明治2年2月24日、太政官を東京に移した。 ◇二官六省制:版籍奉還から廃藩置県まで 二官 神祇官・太政官 →左大臣・右大臣 →大納言 →参議 六省 大蔵省・兵部省・宮内省・刑部省・外務省・民部省 ※政体書の内容が進歩的であったため、神祇官を太政官の上位におく祭政一致の原則で保守回帰した。 ◇三院制:廃藩置県から大阪会議まで〔>>206-208 〕 ◇明治8年官制:明治8年4月14日 - 明治18年12月22日 ▽山県有朋 軍人を辞めて文官になり、正院へやってもらいたいと木戸に談じ込む。 伊藤博文が参議兼工部卿となったことを知り、自分も参議になりたい旨を木戸に伝えた。 ▽大村益次郎 西郷の乱を予言した人物として神格化されている。まあ、好きだからいいけど。 明治2年9月4日、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。 死亡したのは、同年11月5日。享年46。 ▽西園寺公望 西園寺は、大村益次郎を私淑していて、大村が暗殺された日に、大村と会う約束していたが、道で友人とばったりあって、そのまま祇園に遊びに行き、大村のところに行かなかった。それで難を逃れたそうだが、運のいい男だと思う。 「足利尊氏のごとき者が声望に乗じて九州で乱を起こす」という大村の言葉を聞いたのが西園寺公望です。 https://stat.ameba.jp/user_images/20140627/21/mumumyouzin/04/ae/j/o0320047612986145680.jpg ▽宇治火薬庫 大村卿は西国での士族の反乱を警戒し、大阪に大阪造兵司(後の大阪砲兵工廠)、兵學寮(後の陸軍士官學校)を設置するなど近代軍制建設を指導します。 8月13日、大村卿は軍事施設、及び建設予定地の視察のため京阪方面に出張、伏見練兵場の検閲、宇治の火薬庫予定地を検分し、20日、大阪城内の施設、天保山の海軍基地を検分、9月5日、京都に戻った際、元長州藩士等に襲撃され重傷を負い、11月5日、大阪において死去してしまいます。 http://kyoto-tabiya.com/wp-content/uploads/16ce19dc7bed1993943c596b3ef8d139.jpg ▽大阪陸海軍練兵所 〔>>216 〕で建設予定であった「大阪城内の施設、天保山の海軍基地」のこと。 大村在世当時の練兵場は、まだ伏見にあった。伏見区深草大亀谷万帖敷町。 ▽船越衛 天保11年(1840年)- 大正2年(1913年) 父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆。広島藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)で学び後に教授となる。 大村益次郎の死後は山縣有朋と結んで兵制改革にあたり(後に船越の長男・光之丞は山縣の娘婿となる)、明治3年に兵部大丞となるが、兵部省改組により陸軍省に移籍する。 ところが、陸軍大丞兼会計局長の時に山城屋事件に連座して退官に追い込まれて軍人生命は終わりを告げる。その後、明治7年に戸籍権頭を務め、内務省成立後は内務官僚としての道を歩んだ。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b8/FUNAKOSHI_Mamoru.jpg/200px-FUNAKOSHI_Mamoru.jpg 船越は大村から四斤山砲をたくさん作って大阪に貯えておけと命ぜられたが、たくさん作る前に山城屋事件に連座して軍人生命が終わっていた。 / ̄| . 人 | |. (__) 船越! | |. (__) 終わったな! ,― \( ・∀・) | ___) | ノ | ___) |)_) | ___) | ヽ__)_/ 山県はこれはかれの生涯の特徴だが、およそ他人を批評したり、他の勢力について非難がましいことを口にしたことがない。 大久保ら日本国を外から見る経験を持った者たちは世界における日本像をけし粒のように小さいと思っているが、内国にいた連中はいまなお戦国期の豪傑たちと同様、日本六十余州こそ天下という感覚から抜けきらずにいる。 芥子は「けし」とも読むし「からし」とも読む。 芥子という表記は本来カラシナを指す言葉であるが、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、室町時代中期に誤用されて定着したものであるとされる。バカが日本語を豊かにしている例である。 カラシナの種子はからし(和からし)の原料となりオリエンタルマスタードとも呼ばれる。 マスタード(洋からし)の原料として利用されるシロガラシは、同じアブラナ科の別種である。 「君は陸軍卿としてまた陸軍中将として、篠原をあくまでも踏みとどまらせることはできないのか」 出来るものではなかった。政府といい、陸軍といっても、薩長の寄合所帯にすぎず、陸軍卿山県有朋の力は篠原にとても行きとどかず、篠原はあくまで西郷に属している。 「これは政府ではない」 木戸は悲鳴をあげるように言った。 >>191 司馬さんのように山県有朋が大嫌いな人は、山県が東京から逃げていたと考えるのだろうな。 しかし、近衛崩れが起こるような状況になれば、地方の鎮台や分営でも同様の辞職騒ぎが起こるかもしれないし、官に属さない不平士族の乱が地方から狼煙を上げる可能性もある。現に翌年には佐賀の乱を起きるわけだ。 それらに備えて出来たばかりの鎮台の視察を陸軍卿が行うのは当然ともいえるよね。 熊本鎮台が襲われたと言われても、実際に熊本鎮台を見たことがなければ、具体的なイメージがわかない。 対策もピンボケのものになる。陸軍卿は現地視察をしておかなければならないね。 高校生の頃に司馬作品を読んだときは、山県有朋の悪口を書いてあるところは痛快だったけどな。 山県は権力者だったし、顔も好きじゃなかったから。 歳を取って読み直すと、山県のことなら何でも悪く書けばいい態度が鼻について嫌だな。 いまでも別に山県が好きなわけじゃないけど、何でも色眼鏡で見るというのは良くない。 >>225 大久保が天皇の権威を使い、木戸と山県が額を寄せ合うようにして篠原を慰留させる手立てを考えているシーンを読んで、篠原国幹ってどれほどの人物なんだろうと期待したよな。 しばらくすると、司馬さんによってボロクソに言われ出します。 >>219 連座辞職仲間に山県有朋がいたために、船越と山県は親戚になって、最終的には船越衛は勝ち組になったよ(・∀・)ニヤニヤ >>222 むかしから不思議に思っていたのだが、アンパンの上のツブツブは芥子の原料なのに、ちっとも辛くないんだよね。 >>168 「二百十日」と「野分」は、文庫で一冊にまとめれているな。 「二百十日」は会話しかでてこない変な小説だったけど、「野分」は良かったな。 内容はまったく覚えていないが、それを読んだ時間を思い出すと気分がいいから、きっと面白い小説だったんだわ。 第20章 陸軍卿 〔二〕鳥尾小弥太 山県にとってこの日の木戸家への訪問は欲と二人連れであった。 やがて近衛都督についての用件が不調におわったとき、鳥尾小弥太が、 「では、私は陸軍を辞めます」 と、木戸に噛みつくように言った。この二十代の陸軍少将はもともと圭角の多い男である上に、まだ年若く、感情が先に立った。火の粉をかぶろうとしない木戸に腹を立てたのである。 鳥尾が辞職について山県より先に発言したことは、山県にとって思う壺だった。山県は自分が先にそれを言いだすことは木戸に肚を見すかされるようでまずいと思っていた。 ★文民統制 ▼civilian control of the military 木戸のいう「軍人たる者はポリチックに喙を容れてはいけない」は、欧米の文民統制と同じ。 政治・政事という言葉は幕末期以来しきりに使われたが、古義における政治とは、天に仕えて民を牧するという皇帝や王の職分というニュアンスがあって、政治活動・政治状況といった風に使われる場合、どこか即しないという言語感覚が木戸にあって、わざと外来語をそのまま使っていた。 ▼日本国憲法66条2項 「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」 自衛の為の軍隊の保持が想定されたことにより、いわゆる芦田修正によって導入された。 現職の自衛官は文民ではないが、退官した自衛官は文民にあたる。 ★鳥尾小弥太 ▽鳥尾小弥太 弘化4年(1848年)- 明治38年。Part12〔259-260〕に書いた。 鳥尾が陸軍少将に任命されたのは24歳のとき。現在26歳。 鳥尾小弥太は戊辰戦争後に和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に戊営副都督次席として参与している。 この経験が基礎となって、薩摩藩出身の実力者たちが廃藩置県に慎重な姿勢を見せていた状況に対する危機感に駆られ、野村靖とともに山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。 http://yugetuan.net/wp-content/uploads/2016/12/20140316_643017-192x300.png 明治14年政変は、開拓使官有物払下げ事件を契機に、これを糾弾した大隈重信が失脚した事件として有名であるが、失脚したのは、大隈重信ばかりではない。 陸軍部内の反主流派である鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城・曾我祐準も払下げ反対の建白書を上奏し、結局、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷されている。 ▽中村宇右衛門敬義 萩城下川島村で長州藩士。鳥尾小弥太の父。 小弥太ははじめ中村百太郎あるいは鳳輔と称しており、諱は照光、のち敬高。 乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を改めた。 ▽鳥尾隊 鳥尾が長州の壮丁20人をかき集めて組織した諸隊のひとつ。 鳥尾は健武隊参謀としても、戊辰戦争に参加している。 明治20年以降の鳥尾は、国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた。 晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った。明治38年、静岡県熱海の別邸にて肺患のため死去した。享年58。 ▽乃木希典 明治4年、23歳でいきなり陸軍少佐になる。洋式軍隊の教育は、2ヵ月しか受けていない。 乃木の栄達は、従兄の御堀耕助(太田市之進)が、死の直前に山県と黒田に頼んでいたからである。 現在は名古屋鎮台勤務、目下金沢分営に出張中。 乃木希典は、この時代の士官が、士官の制服を着せ辞令さえ出せば誰でも士官になれた例として挙げられている。 近衛の前身は御親兵であるため、薩長土肥以外の四藩以外の兵はいない。 その中でも、薩摩が最も多かった。警察も海軍も、薩摩が握っている。 山県は、大量辞職した薩摩系士官の補充は、すべて長州人で行おうと考えていた。 ▽近衛都督 明治5年2月に近衛条例が制定され、親兵が近衛と改称された。各地の鎮台が陸軍卿の権内におかれた政府軍であるのとちがい、近衛の総指揮官である近衛都督は天皇に直隷した。また近衛兵は壮兵つまり職業兵制をとることになった。 西郷隆盛の辞任により、近衛都督は空席になった。近衛軍の動揺を抑えるために、山県と鳥尾は木戸孝允を後任の近衛都督に就けようと考えた。 ★木戸邸 ▽千代田区九段北2-2-1 現在は九段中等教育学校が建っている。このことはPart12〔653〕で述べた。 山県と鳥尾は、木戸邸を訪ねた。 近衛都督は、お断りします ハハ (゚ω゚) / \ ((⊂ ) ノ\つ)) (_⌒ヽ ヽ ヘ | εニ三 ノノ J 軍人はポリチックに関与してはならない〔>>237 〕。 これは参議の兼任を求めている山県にとっては都合の悪い論であった。 留守内閣では、江藤新平が司法卿と参議を兼任し、大隈重信が大蔵総裁と参議を兼任していた。 明治6年政変後、伊藤博文が工部卿と参議を兼任している〔>>213 〕。 文民統制の原則を木戸が持ち出さねば、山県陸軍卿が参議を兼任してもおかしいことではなかった。 ▽明治六年政変 論争に敗れた征韓派の参議たちは一斉に下野した。西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平の5人である。 受験日本史の頻出事項。後藤象二郎に変えて大木喬任がひっかけで出題されることが多い。 大木喬任が含まれている肢は×です。 「私も、辞めます」 と、山県が言った。 (また例のくせがはじまったな) 木戸はうんざりした。 谷沢永一『人間性を象徴する政治の力学』(全集第35巻) 【一】立場と人格と意識のにおい 「ちなみに明治維新は無数の異分子の参加によって成立した革命であったが、生き残って権力の座についた大久保一個の意識ではこれは厳密な意味での革命ではなく、徳川政権が太政官政権に移行しただけのものであるというにおいがあった。 つまりは将軍が天皇に変わっただけのことであり、だから旧幕時代の官僚用語どおりに〈御評定〉などとこの人物はいう」 ▽服部之総〈しそう〉 明治34年 - 昭和31年。マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史。 島根県那賀郡旭村(現・浜田市)出身。 浄土宗正蓮寺に生れる。旧制浜田中学、第三高等学校卒業。1925年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍。 昭和3年、三・一五事件の共産党弾圧の際、検挙されるが釈放され、唯物史観の立場で維新を論じた「明治維新史」を刊行。昭和7年刊行開始の「日本資本主義発達史講座」において講座派の代表的論客となる。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Shiso_Hattori.JPG 司馬遼太郎は一貫して概念のもてあそびに、いささかの興味をも示さない。歴史の真実に近づく道は、その時期に生きたさまざまな人物の個別な視座にたちかえる想像力である。 つい安易な大上段の構えをとって、明治維新は革命ではなく政権の移行であったと高みから見おろして定義すると、その途端に大久保利通も西郷隆盛も、単純なあやつり人形に化してしまう。 歴史の波動にただよう一人ひとりの人物の限られた意識には、過去と現在しか与えられていない。かれらは未来から当時の自分を振り返り見る特権をもたない。 したがって意識と認定と模索と発想は、すべて試行錯誤のための断片にすぎない。 ▽陣僧 主に室町時代、軍陣に同道して、戦死者の供養をはじめ文書作成や敵方への使者を務めた僧。 いつの世でも観察者であるなら、結論をひねり出しては自己満足を楽しめよう。しかし渦中の当事者にあっては、傍観者的な結論は不要であるのみならず、次に打つべき手を考えるには、有害な手かせ足かせとなる。 行動する者は、概念を必要としない。 本稿の木戸孝允が、観察者の立場で、進歩的な思想を披歴するあたりは、陣僧に似たものがあるな。 西郷隆盛の征韓論も、しかり。自国の置かれた地位・立場をわきまえないと、すぐれた政策も愚策にしかならない。 >>232 アンパンの上のツブツブはカラシの実ではなくてケシの実だから、辛くないのではありませんか? >>233 さんも、>>232 に釣られていませんか? >>247 西郷辞任の後は近衛都督はしばらく空席になっていたが、結局、陸軍卿の山県が近衛都督を兼任することになる。 本章にも書かれている通り、西郷の前の近衛都督も山県だった。 『謎の円盤UFO』を観て思ったのだが、UFOと戦うためには、エロい躰のねえさんにエロいコスチュームを着せなければならないのか? 【二】革命ではない政権交代 ついでながら明治の大官の多くはじつに醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるようなものではなく、たとえば役所へ通うとき、書生と称する草履取りを連れている者が多かった。 政権を握った成功者は威張りかえった。だがもしそれだけであったなら、日本の近代化はいつまでも実現できなかったであろう。歴史の奇妙さはこの点をめぐって顕現するのだが、このじつに醜悪な明治の大官たちは、醜悪のままで同時に併行して、日本の国家形成を最も効果的に推進した。 ▽「革命」の二義 1.易姓革命……孟子らの儒教に基づく五行思想から王朝の交代を説明した理論。天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命が起きる。革命とは、天命を革めるの意味。 2.レボリューションの訳語 明治の初期は、革命とは「易姓革命」の意義に用いられるのが一般であった。これによると、明治維新は政権の交代という認識になる。 しかし、外圧によって変革へのエネルギーが生じた明治維新には、歴史の段階を縦に上に昇るという意味合いが内在していた。これを表現する語彙は、当時の日本にはなかった。 ▽「哲学辞彙」〈じい〉 哲学者のオナニーではない。明治14年に帝国大学が編纂刊行した哲学辞書。 この辞書は、レボリューションにふたつの訳語を付けた。革命と顛覆がそれである。 「按ズルニ、国ヲ興ス、之ヲ革命ト謂ヒ、国ヲ亡ボス、之ヲ顛覆ト謂フ」 明治維新は徳川政権を転覆したにとどまり(政権交代)、新たに国を興すという今後の課題にすぎなかった。 明治4年あたりまでの混沌とした状況を見ていると、まさにそのとおりだった。 前半生が極度の艱難にみちていた革命家は、かろうじて革命が一応の成就をみると、人間が変わったよいうに権勢欲のかたまりとなる。 明治維新においても、貪官?吏の集団が簇生した。 しかし彼らは醜悪さを保持しつつも、同時に新たな国家形成に邁進した。 革命家のもうひとつ類型は、清廉潔癖を保持しつつ、永久革命を目指して内外に惨禍をひきおこすタイプである。 西郷隆盛はこちらのタイプに近かった。 ▽リゴリズム〈rigorism〉 道徳的厳格主義のこと。何事も道徳的善悪の判断で考えようとする杓子定規な考えの持ち主をリゴリストとも言います。 近代哲学でいえばカントがそうでした。 日本でも明治の20年代に儒教教育が国民に徹底して教え込まれた結果、道徳的にうるさい厳格な父親がたくさん現れ、その子供たちの世代は恐ろしい父親の目を逃れようと必死でした。 政治を道徳で律するリゴリズムは、結果としては木を見て森を見ざるの幣におちいる。 ▽高橋亀吉 全集50巻の『ひとびとの跫音』の谷沢永一による解説「清冽で温柔な感情移入の極致」にも登場した。Part8〔959〕参照。 明治24年 - 昭和52年。経済評論家・経済史研究者。 石橋湛山と並ぶ日本の民間エコノミストの草分け的存在である。山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。 家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。 日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。 http://corp.toyokeizai.net/wp-content/themes/toyokeizai2014/press-room/award/index/images/takahashi_image.jpg 高橋亀吉は、日本が近代経済の本格的発達の基礎を築きえたのは、明治18年頃である『日本近代経済の育成』で述べている。 【三】革命の結果がもたらすもの 革命というのは元来、支配・被支配階級のいかんをとわず、遠い将来は知らず、さしあたっての勘定からいえば失う利益のほうが大きい。 革命はかならず国力および生活水準の全国的に大幅な低下をもたらす。明治維新もまたいささかも例外でなく、武士階級にのみ焦点を絞ってみても、維新で政府のやったことといえば士族を山野に棄てただけのことであった。 ・士族:既得権を奪われる ・農民:租税負担が重くなる。徴兵令により若い働き手を奪われる。 ▽阿片戦争 1800年頃になると日本周辺に西洋列強の船が現れ始める。幕府は異国船打ち払い令を出すが(1825年)、1840年のアヘン戦争で清朝が負けたことが大きな原因で打ち払い令に代わって薪水給与令を出した(1842年)。 モリソン号事件(1837年)において外国船を攻撃したことで清朝のようになることを当時の幕府は予測したわけであるから、アヘン戦争の結果は大きな衝撃だったのである。アヘン戦争により東洋よりも西洋の軍事力が圧倒的に優位だと幕府は悟った。 なお、天保の薪水給与令(1842年)の前に、文化の薪水給与令(1806年)というのがある。 しかし、この法令は、翌年の文化露寇を受けてロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された。 なお、大村益次郎が西郷の乱にそなえて「四斤山砲をたくさん作って大阪に貯えておけ」と命じた部下は、『翔ぶが如く』では船越衛になっているが〔>>219 〕、『花神』では山田顕義だった。 司馬さんは、もう少し『花神』を読んだほうがいい(・∀・) 【四】外交と内政の融合と混交 外交が常にただの外交におわることなく、かならず悪霊のような魔術性をもち、国内問題にむかって強烈な呪術力を発揮するという点で、日本はきわめて特異であり、世界の政治地理的分野のなかで特別な国であるとして見なければ、征韓論というものはわからない。 ▽遣韓大使 西郷は自分が遣韓大使として韓都にゆくことにより、あたかも幕末の日本でそれが起こったように、韓国でも在野世論が沸騰し、国論の形成によって李朝が亡びると考えていた。 しかし谷沢永一は、李朝の場合、在野世論が沸騰する基盤もなければ、政権が変質する可能性も絶無であったに違いないと述べている。 革命を成功させた指導者は、フランス革命においてもロシア革命においても例外なく、革命を他国に輸出したがる。それは覇権の拡張を意味し、制圧による属国化をもたらすことも例外がない。 ただし、西郷の場合、理想主義的な「革命の輸出」ではない〔>>271 〕。西郷の発想は、国内問題の現実判断を基礎にした外交論であった。 【五】政治を基底で動かすもの 征韓論は外交でもなく軍事でもなく、一挙にもっとも根の深い政治問題と化した。 政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人類の歴史ははるかに輝けるものであったろうと思われる。しかし政治においては論理という機械の作動する部分は不幸なことに僅かでしかない。 それよりも利害で動くということは大いにあるであろうが、維新早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していない。 かれらはむしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利害よりも遥かに大きいといえるかもしれない。 政治が感情で動くことの例証として、江藤新平と大久保利通が相互に憎悪しあっていたことが述べられている。 西郷はその才略や機鋒を、鈍重な肉質の外被で包みこんで露さないことを心掛けていた。政治は才略よりも人格であるという考え方をとったのである。 それゆえに西郷は結局は敗れる。通常の次元で評価するなら、もとより西郷は敗者であった。しかし敗者であるゆえに、かえって西郷は偉大であった。それは果たしてなにゆえであろうか。 司馬遼太郎『声明と木遣と演歌』 『この国のかたち』〈第6巻〉の随想集に収載されている。そこでやる。 粕谷一希『編集者としての春と秋に』 昭和33年から35年にかけて、私は中央公論社の出版部に籍があった。そこには、現在、紀行作家として活躍中の宮脇俊三氏や直木賞作家綱淵謙定氏など、多士済々の連中がトグロを巻いていて、皆、若かった。 ▽粕谷一希〈昭和5年 - 平成26年〉 日本の評論家、編集者、出版事業家。保守派の編集者として多くの書き手を送り出し、戦後日本の論壇に保守主義、現実主義の潮流を築いた。 東京雑司が谷に生まれる。東京府立第五中学校、一高を経て、東京大学法学部を卒業。昭和30年、中央公論社に入社。 http://books.bunshun.jp/mwimgs/e/6/-/img_e6cb2009bd462ee32bea02689c99aac3202065.jpg ▽宮脇俊三〈しゅんぞう〉 大正15年 - 平成15年。日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。 鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子がいる。 埼玉県川越市で7人兄弟の末子(三男)として生まれる。東京府青山師範学校附属小学校、旧制成蹊高等学校卒業後の昭和20年、東京帝国大学理学部地質学科に入学。昭和26年、中央公論社に入社。 http://mktabi.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/04/07/2459.jpg ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる