司馬遼太郎 Part13
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司馬遼太郎 Part12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516287702/ ☆ 高城七之丞
「タカギ」ではなく「タキ」と読む。
弘化4年(1847)生まれ。鹿児島に退隠した西郷隆盛らの動向を内偵していた政府の密偵を捕らえ西南戦争の発端をつくる。
西郷軍三番大隊三番小隊長として熊本城攻めに参加。明治10年9月24日城山で戦死。31歳。 >>448
見てきたように谷口登太の人格を断定的に規定してはならない。
私学校側は太政官憎しの先入主をもって谷口の言葉を聴く、太政官側も戦後の取調べであるから私学校憎しの感情で谷口の言葉を聴く。
感情が過熱していると、同じ言葉が正反対の意味に解釈されることはある。
俺は嫁と姑の喧嘩を二代にわたって60年間見続けてきたから、そのことがよくわかる。 世良の「奥羽皆敵」の手紙は会津による工作だった!!
会津藩より世良修蔵の偽手紙をこしらえて
大山格之助へ遣わす途中、仙台人が
この手紙を見たところ、仙台を滅ぼすとの
文字があった。仙台は藩を挙げて怒り
どうせ滅ぼされるなら、会津に与して滅ぼうと
ついに世良を殺して、奥羽諸藩と連合したのである。
世良の暗殺は、仙台藩が一向に本気で
会津攻めを行おうとしないことに
立腹した世良が、秋田に転戦していた
同役参謀大山格之助にあてた書簡に
「奥羽皆敵と見て」と書いたことを
仙台人が知り、怒って殺害したというのが通説
(『仙台戊辰史』など)である。
だが、この大村書簡によると
明治元年九月の時点で仙台藩は「世良書簡は偽造だった」と認めていた。大村は、仙台藩の
嘘(偽造を会津の手によるものとした)
とみて、憤慨したものらしい。
大村益次郎研究家 山本栄一郎 ☆ 草牟田陸軍火薬庫(そうむた)
明治10年1月、明治政府は武器弾薬を輸送船へと積み込もうと試みたが、私学校生徒が激怒する。
1月29日の夜に火薬庫の1棟を襲撃の上破壊して弾薬6万発を強奪。残った火薬庫も翌日に襲撃した。
http://www.kagoshima-kankou.com/db_img/cl_img/52551/3ADC90A9A9CC54F30ACFE9511F7CE363.jpg 刺客問題(真偽はさておき刺客と誤解される懼れは太政官に予測可能)といい、弾薬撤収問題といい、
太政官が薩摩私学校を挑発した事実に間違いはないな。
西南戦争を始めたのは太政官の方だ。 ☆ 汾陽光輝(かわみなみ)
草牟田火薬庫を襲撃した私学校党のリーダー。
日テレ「田原坂」では鈴木ヤスシ。
https://芸能人の子供まとめ.net/wp-content/uploads/2019/01/WS002463-300x283.jpg 草牟田火薬庫襲撃シーンに石井富子が出ていたね。
汾陽光輝の親族みたいな感じだったけど、そうなの? 石井富子さんの役は村田三介の妻・佐和子。
村田三介は植木の戦い乃木希典少佐の軍旗を奪った小隊長。 >>444
「自分は刺し違えてでも……」は、命懸けで説得するという意味の幕末の常套句だよ。
この言い回しが>>450が言うように、私学校側および太政官側で理解が異なったのだろうな。 >>459
西郷暗殺は私学校側が捏造した可能性が強い。
1月29日に草牟田火薬庫事件が起きている。
翌日、篠原以下が高城家に会合して、その対策に苦慮する。
東京獅子は西郷暗殺団であるとすれば戦の大義名分ができる。
谷口登太が中原尚雄からメンバーの氏名・止宿先を聞き出すのは、その後のことだ。 ☆ 菅野覚兵衛
天保13年(1842)土佐藩の庄屋千屋民五郎の三男として和食(わじき)に生まれる。
はじめ千屋寅之助の名で登場するが、いつから菅野姓になるのかは不明。
勝海舟の紹介で海軍省に入省し海軍少佐となる。
西南戦争勃発直前に海軍造船所次長として鹿児島県に赴任し、その発端となった『弾薬掠奪事件』に係わったため海軍の中での立場は不遇に終わる。
この事件では私学校徒らの襲撃・略奪を防ぐため弾薬を水に浸すなどの処置をし事態の収拾に奔走した。
まもなく造船所を閉鎖、官職を離れ同地を去り、のち明治17年(1884年)に辞職。
http://we.eek.jp/matome/wp-content/uploads/2017/11/kaientai_sugano_kakubei.jpg 警視庁帰郷組が暗殺団であったのか否かに興味はゆきがちですが、
西郷以下の私学校党を叛乱に追い込んだのは、政府の挑発に乗って火薬庫を襲撃した事件です。
西郷暗殺云々は私学校党が叛乱するための大義名分にすぎません。
つまり、いちばんの阿呆は汾陽光輝(>>454)。 とはいうものの「田原坂」で最高に愉快なシーンは、火薬庫襲撃シーンなんだわな。
鈴木ヤスシの汾陽光輝の姿が痛快。 母国での二度目の賜暇を終えたアーネスト・サトウは、横浜へは立ち寄らず、
上海から長崎を経て鹿児島へ直行した。鹿児島上陸は2月2日。
ウィリアム・ウィリスをためである。なんというタイミングの良さ。 西郷は高須から海路で鹿児島に向かう予定でいたが、あいにく海上が荒れていた。
やむなく陸路をとった。垂水・加治木を経て鹿児島庁下に入ったのは、2月3日夜である。 ☆ 大洲鉄然
浄土真宗本願寺派の僧。念仏停止が解禁されたので鹿児島に布教に来ていた。
中原尚雄らが逮捕された際、太政官の密偵と勘違いされ、ともに私学校党に逮捕された。
大洲鉄然は長州の勤王僧月性の弟子。
https://stat.ameba.jp/user_images/20140812/22/shimonose9m/f9/22/j/o0480064113032808699.jpg 中原逮捕は西郷の鹿児島帰郷と同日の2月3日。
この日から凄惨な拷問が始まる。 >>450
谷口登太は幕末の志士活動を経ていないから、「刺し違えてでも止める」=命懸けで説得する
という幕末に流行した常套句を知らなかったと思う。所詮薩摩の芋。しかも城下に住いのない田舎者。
谷口が中原はマジで西郷を刺すつもりと勘違いしたんだろうな。 ☆ 野村綱
弘化2年(1845)、砲術家野村好酔の子として鹿児島天神馬場に生まれる。
西南戦争勃発直前の明治10年2月、内務卿大久保利通の命により密偵として鹿児島に帰県したものの、県当局に拘束され、西郷隆盛暗殺計画への大久保の関与を匂わせる口供書を取られることになった。
明治27年3月、非職満期となり退官。宮崎の江平に移り、同月実施の第3回衆議院議員総選挙に宮崎県第一区から立候補したが次点で落選した。 ☆ 岩元基(はじめ)
密偵野村綱が鹿児島城下に潜入しようとした迎陽丸に乗り合わせ、野村から助けを求められたという場面で登場する。
野村綱の取り調べ調書に出てくるのだそうだ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~iamarock/iwamoto/familyhistory/album/motoi2.jpg
向井覚著『建築家・岩元禄』相模書房p34の写真 2月17日早朝に野村綱の口供書が大山綱良により西郷隆盛にもたらされる。
西郷は刺客問題は川路の先走りで大久保の関与せざるところと考えていた。
ところが、野村綱の口供により弾薬撤去問題が大久保の直接の命であることを知るに及ぶ。
西郷の心が開戦におおいに傾くのは、このときからである。 ☆ 鹿児島異人館
日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所の技術指導にあたったイギリス人技師の宿舎で、慶応3(1867)年に建てられた。
現在はウィリアム・ウィリスの公舎になっている。
http://www.meijiishin150countdown.com/meiji/wp-content/uploads/2014/09/iso3.jpg 2月5日
西郷が開戦を決意した日とされている。
菊次郎の記憶に、この日西郷が桐野あるいは篠原にむかって
「そいじゃ、おいの躰をおはんらにあげもっそう」と言うのが聞こえたという。 ここはおまえの日記帳じゃないぞ。
チラシの裏にでも書いて桶。 開戦が決定されたとたんに、西郷・桐野・篠原は愚物に描かれます。 2月7日
西郷 :作戦会議
サトウ:苗代川から鹿児島庁下へ帰る ☆ 川村純義
天保7年(1836年)川村与十郎の長男として生まれる。家格は御小姓組で最下級の藩士であった。
妻の春子は椎原国幹の娘であり、椎原国幹の妹は西郷隆盛の母糸子であった。川村は西郷から実弟のように可愛がられたという。
川村は海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切り、海軍創始期を担った。
西南戦争後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続したが、山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画した。
太政官制のもとでは枢要な地位を占めたが、内閣制度への移行と同時にその座を追われた。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201509/06/92/a0287992_1035477.jpg ☆ 中井弘
天保9年(1839年)鹿児島城下に藩士横山休左衛門の長子として生まれる。元服後、横山休之進。
鹿鳴館の名付け親である。
岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際に碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したり、宴席にて明治天皇の御前で西村茂樹をビール瓶で殴打するなど、奇行が多かった。
http://www.mfca.jp/harakei/wp-content/uploads/sites/7/2014/06/474b35a1c320ff959ef984f1e3731fd8.jpg 井上馨の妻の武子新田俊純の娘は、はじめ中井の妻であった。 >>462
鹿児島の異変を太政官が知ったのは2月3日だが、これを知らせたのが菅野覚兵衛というのは意外だった。 2月9日
川村純義を乗せた高雄丸、錦江湾に到着。
艦長は伊東祐之。 >>341
去年のNHK大河もトシヨシだったな。
良=ナガと読む例が他にないからな。 乱暴者でも、生きた時代が張飛や呂布ぐらい遥か昔なら好きになれるが、
百数十年の近さだと、辺見十郎太のようなキャラは好きになれないな。 客を殺して肉饅頭にしてしまうおばさんは好きになれるの? ☆ 樺山資綱
樺山資之=樺山三円は間違いないようだが、資之と資綱が同一人物であるかどうかは不明。
樺山資之は、「木戸孝允日記」明治7年2月27日付、黒田清隆あて書簡に登場します。
樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註:資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。
というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。 西南の役の本質を最も鋭く捉えていたのは、ハリー・パークスだな。
パークスの書簡を読んだ。脱帽した。 パークスが書簡を送った相手であるダービー外相は、第15代ダービー伯爵エドワード・スタンリーである。
オークスとダービーの創設者として高名なダービー伯爵は、第12代。 馬が走ってく 馬が走ってく
でっかい鼻の孔おっぴろげて 馬が走ってく ? パークスと比較すると勝海舟の頓珍漢ぶりには呆れかえる。
政府の発表した政府軍優勢報道を大本営発表のごとく「あれはウソ」と言い切っている。 まあバカは放っておけばいいけど、西南戦争に関する勝の談話は『氷川清話』には載っていない。
アーネスト・サトウの日記に書かれている。
広瀬靖子訳「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号 / 一九七〇年) サトウ日記の西南戦争関連は、萩原延寿の訳で単行本化されているな。
萩原延寿『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄一三−西南戦争』(朝日新聞社 / 二〇〇一年) ☆ 渋谷彦助
鹿児島県一等属。
坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。
どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。 海老原穆の逮捕は、川路書簡の中で1行触れられただけだな。 >>500
樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考え始めると、夜も眠れなくなるな。 木戸さんは樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考えすぎてノイローゼになったのかもしれん。 ☆ 山縣有朋
この頃になると、風格すら感じさせる山縣。
桐野・篠原はただの地五郎。
山縣の敵ではないな。 ☆ 蓑田長僖(49歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
明治21年に日本運輸会社(現在の日本通運)は暫定役員として蓑田長僖を選出している。
同一人物であろうか? ☆ 鎌田政直(51歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
なお、第六課の課長は渋谷彦助(>>510)。 私学校党蹶起の軍資金の提供は、島津久光の内命によるものだろうな。 軍資金を提供されたにもかかわらず、西郷が大山に対して冷淡な態度だったのは、
西郷は私学校のニセたちに乗せられただけでなく、久光にも乗せられたという思いがあったのだろう。 【部隊編成】
一番大隊 篠原国幹 西郷小兵衛
二番大隊 村田新八 松永清之丞
三番大隊 永山弥一郎 辺見十郎太
四番大隊 桐野利秋 堀新次郎
五番大隊 池上四郎 河野主一郎
独立大隊 別府晋介
独立第一大隊 越山休蔵 鮫島敬輔
独立第二大隊 児玉強之助 坂元敬介 ☆ 松永清之丞
明治10年1月29日、鹿児島市草牟田の火薬庫から、政府が弾薬を運び出します。
当夜、汾陽光輝家(>>454)で松永清之丞と堀新次郎が、火薬庫からの武器搬出を計画し、実行。
これが西南戦争に繋がります。 ☆ 堀新次郎
明治後、伊地知貞馨となる堀次郎と混同しないように。 ☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)、鹿児島高麗町で生まれる。諱名は高照、通称は直右衛門、後に群平という。
戊辰戦争では、山崎の戦いで重傷を負った。
次いで、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。
長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治10年、谷口登太が内偵した中原尚雄の西郷隆盛刺殺計画を聞いた高木七之丞邸の会合に出席していた淵辺はこれに憤激し、私学校本校で行われた大評議でも出兵に賛成した。出陣に際しては薩軍本営附護衛隊長となって、西郷を護衛しながら熊本に赴き、本営の軍議に参画した。 ☆ 仁礼景通
西南の役の最後に城山で捕縛されて銃殺された薩軍副官の仁礼景通ほか鹿児島城下に仁礼姓は多い。
仁礼景範と名が似ているが、親族ではなさそうである。 ☆ 2月14日
別府晋介の独立大隊(郷士軍)は、2月14日に加治木に集結し、横川→大口→水俣というコースを辿った。 ☆ 2月15日
一番大隊(篠原国幹隊)は、市来→川内→阿久根→米ノ津(出水市)…海路…佐敷(現在の芦北町の中心部と佐敷川流域)という西回りルートを辿った。
二番大隊(村田新八隊)は、別府晋介隊と同じく東回りコース。 ☆ 武の自宅
屋敷は明治2年薩摩藩の重臣二階堂氏から譲り受けたもので、敷地約3600u、高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年に西郷従道が再建した。いま屋敷跡は公園になっており、当時の井戸が残っている。
http://www.meijiishin150countdown.com/meiji/wp-content/uploads/2016/12/b34d0fe89b9b7b12d6287e69a5aeaf45-300x196.jpg ☆ 西郷松子
安政4年(1857)前後の生まれ、昭和18年3月6日没。父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉・国。
明治6年11月、西郷家の四男・西郷小兵衛と結婚し、西郷家に入る。小兵衛25歳、松15歳か16歳。いとこ婚。
名はマスであったが、西郷の次弟・吉二郎の先妻の旧名と同姓同名(有馬マス)であったため、呼び名をマツ(松子)と変えた。 ☆ 西郷寅太郎
明治17年に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。
明治35年父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任する。
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2018/08/t02120285_0212028511872790473.jpg ☆ 市来四郎
幕末は島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。明治以後は島津久光の側近となる。 ☆ 加治木
2010年、同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。
加治木という地名は、船の舵を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来する。
ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になった。
平安時代頃からこの地域を支配していたのは、大蔵氏の一族とされる加治木氏であった。
蒲生に本拠を置く蒲生氏、帖佐に本拠を置く平山氏などとともに、互いに同盟したり対立したりしながら、島津氏との勢力争いを繰り広げていた。
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https://cdn.jalan.jp/jalan/img/2/kuchikomi/3332/KXL/5d0cf_0003332641_1.jpg 平成の合併はむかつくわ。
わしは今でも昭和の地図帳を愛用している。 ☆ 東目街道
薩摩藩時代、現鹿児島県霧島市福山町を基点として、都城を経由し高城町の月山日和城を通り、高岡町に通ずる往還道として作られた「東目街道」は、薩摩藩西目街道に対して同藩東側を通るため「東目街道」と称されました。 ☆ 2月20日
西郷は積雪の加久藤越えを山駕籠に乗って肥後へ越えた。
桐野利秋が「熊本城は、この青竹(いらさぼう)で一叩きでごわす」と言ったのは、この時。
http://www1.bbiq.jp/hanjirou/horikiri3.jpg ☆ 人吉藩
藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。
その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。
明治4年に廃藩置県により人吉県となったのち、八代県、白川県を経て熊本県に編入された。
https://www.shirofan.com/files/shiro/kyusyu/hitoyoshi/VJ7Z1604.jpg
http://www.tougarashi-1ban.com/image/hitoyoshizyou/top.jpg ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています