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司馬遼太郎 Part13
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0461日本@名無史さん
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2019/03/04(月) 14:20:18.70
>>459
西郷暗殺は私学校側が捏造した可能性が強い。
1月29日に草牟田火薬庫事件が起きている。
翌日、篠原以下が高城家に会合して、その対策に苦慮する。
東京獅子は西郷暗殺団であるとすれば戦の大義名分ができる。
谷口登太が中原尚雄からメンバーの氏名・止宿先を聞き出すのは、その後のことだ。
0462日本@名無史さん
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2019/03/04(月) 14:36:15.13
☆ 菅野覚兵衛
天保13年(1842)土佐藩の庄屋千屋民五郎の三男として和食(わじき)に生まれる。
はじめ千屋寅之助の名で登場するが、いつから菅野姓になるのかは不明。
勝海舟の紹介で海軍省に入省し海軍少佐となる。
西南戦争勃発直前に海軍造船所次長として鹿児島県に赴任し、その発端となった『弾薬掠奪事件』に係わったため海軍の中での立場は不遇に終わる。
この事件では私学校徒らの襲撃・略奪を防ぐため弾薬を水に浸すなどの処置をし事態の収拾に奔走した。
まもなく造船所を閉鎖、官職を離れ同地を去り、のち明治17年(1884年)に辞職。
http://we.eek.jp/matome/wp-content/uploads/2017/11/kaientai_sugano_kakubei.jpg
0463西郷の下山 ◆GXoE1nlZK2
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2019/03/04(月) 16:08:16.62
警視庁帰郷組が暗殺団であったのか否かに興味はゆきがちですが、
西郷以下の私学校党を叛乱に追い込んだのは、政府の挑発に乗って火薬庫を襲撃した事件です。
西郷暗殺云々は私学校党が叛乱するための大義名分にすぎません。
つまり、いちばんの阿呆は汾陽光輝(>>454)。
0464日本@名無史さん
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2019/03/04(月) 21:57:04.74
とはいうものの「田原坂」で最高に愉快なシーンは、火薬庫襲撃シーンなんだわな。
鈴木ヤスシの汾陽光輝の姿が痛快。
0465日本@名無史さん
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2019/03/04(月) 22:02:23.67
母国での二度目の賜暇を終えたアーネスト・サトウは、横浜へは立ち寄らず、
上海から長崎を経て鹿児島へ直行した。鹿児島上陸は2月2日。
ウィリアム・ウィリスをためである。なんというタイミングの良さ。
0467日本@名無史さん
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2019/03/04(月) 22:28:00.45
西郷は高須から海路で鹿児島に向かう予定でいたが、あいにく海上が荒れていた。
やむなく陸路をとった。垂水・加治木を経て鹿児島庁下に入ったのは、2月3日夜である。
0471日本@名無史さん
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2019/03/04(月) 22:51:40.44
中原逮捕は西郷の鹿児島帰郷と同日の2月3日。
この日から凄惨な拷問が始まる。
0472日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 08:47:25.45
>>450
谷口登太は幕末の志士活動を経ていないから、「刺し違えてでも止める」=命懸けで説得する
という幕末に流行した常套句を知らなかったと思う。所詮薩摩の芋。しかも城下に住いのない田舎者。
谷口が中原はマジで西郷を刺すつもりと勘違いしたんだろうな。
0473日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 09:33:52.54
☆ 野村綱
弘化2年(1845)、砲術家野村好酔の子として鹿児島天神馬場に生まれる。
西南戦争勃発直前の明治10年2月、内務卿大久保利通の命により密偵として鹿児島に帰県したものの、県当局に拘束され、西郷隆盛暗殺計画への大久保の関与を匂わせる口供書を取られることになった。
明治27年3月、非職満期となり退官。宮崎の江平に移り、同月実施の第3回衆議院議員総選挙に宮崎県第一区から立候補したが次点で落選した。
0474日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 09:39:15.58
☆ 岩元基(はじめ)
密偵野村綱が鹿児島城下に潜入しようとした迎陽丸に乗り合わせ、野村から助けを求められたという場面で登場する。
野村綱の取り調べ調書に出てくるのだそうだ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~iamarock/iwamoto/familyhistory/album/motoi2.jpg
向井覚著『建築家・岩元禄』相模書房p34の写真
0477日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 10:31:02.33
2月17日早朝に野村綱の口供書が大山綱良により西郷隆盛にもたらされる。
西郷は刺客問題は川路の先走りで大久保の関与せざるところと考えていた。
ところが、野村綱の口供により弾薬撤去問題が大久保の直接の命であることを知るに及ぶ。
西郷の心が開戦におおいに傾くのは、このときからである。
0484日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 14:57:50.39
2月5日
西郷が開戦を決意した日とされている。
菊次郎の記憶に、この日西郷が桐野あるいは篠原にむかって
「そいじゃ、おいの躰をおはんらにあげもっそう」と言うのが聞こえたという。
0485日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 15:05:11.69
ここはおまえの日記帳じゃないぞ。
チラシの裏にでも書いて桶。
0487日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 16:38:50.92
開戦が決定されたとたんに、西郷・桐野・篠原は愚物に描かれます。
0488日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 18:06:27.47
2月7日
西郷 :作戦会議
サトウ:苗代川から鹿児島庁下へ帰る
0489高雄丸%sjsndh575lk
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2019/03/05(火) 21:29:35.79
☆ 川村純義
天保7年(1836年)川村与十郎の長男として生まれる。家格は御小姓組で最下級の藩士であった。
妻の春子は椎原国幹の娘であり、椎原国幹の妹は西郷隆盛の母糸子であった。川村は西郷から実弟のように可愛がられたという。
川村は海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切り、海軍創始期を担った。
西南戦争後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続したが、山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画した。
太政官制のもとでは枢要な地位を占めたが、内閣制度への移行と同時にその座を追われた。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201509/06/92/a0287992_1035477.jpg
0492日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 21:50:04.17
☆ 中井弘
天保9年(1839年)鹿児島城下に藩士横山休左衛門の長子として生まれる。元服後、横山休之進。
鹿鳴館の名付け親である。
岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際に碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したり、宴席にて明治天皇の御前で西村茂樹をビール瓶で殴打するなど、奇行が多かった。
http://www.mfca.jp/harakei/wp-content/uploads/sites/7/2014/06/474b35a1c320ff959ef984f1e3731fd8.jpg
0493日本@名無史さん
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2019/03/05(火) 23:56:11.59
井上馨の妻の武子新田俊純の娘は、はじめ中井の妻であった。
0494日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 00:12:25.33
>>462
鹿児島の異変を太政官が知ったのは2月3日だが、これを知らせたのが菅野覚兵衛というのは意外だった。
0495日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 00:17:48.10
2月9日
川村純義を乗せた高雄丸、錦江湾に到着。
艦長は伊東祐之。
0497日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 01:04:41.86
>>341
去年のNHK大河もトシヨシだったな。
良=ナガと読む例が他にないからな。
0498日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 01:08:47.80
乱暴者でも、生きた時代が張飛や呂布ぐらい遥か昔なら好きになれるが、
百数十年の近さだと、辺見十郎太のようなキャラは好きになれないな。
0499日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 01:14:01.19
客を殺して肉饅頭にしてしまうおばさんは好きになれるの?
0500人馬 ◆gmc8oQca6NVb
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2019/03/09(土) 21:12:54.66
☆ 樺山資綱
樺山資之=樺山三円は間違いないようだが、資之と資綱が同一人物であるかどうかは不明。
樺山資之は、「木戸孝允日記」明治7年2月27日付、黒田清隆あて書簡に登場します。
樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註:資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。
というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。
0502再び異人館 ◆XVejevC5AF.M
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2019/03/09(土) 22:54:14.73
西南の役の本質を最も鋭く捉えていたのは、ハリー・パークスだな。
パークスの書簡を読んだ。脱帽した。
0503日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 23:06:49.77
パークスが書簡を送った相手であるダービー外相は、第15代ダービー伯爵エドワード・スタンリーである。
オークスとダービーの創設者として高名なダービー伯爵は、第12代。
0504日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 23:16:06.29
馬が走ってく 馬が走ってく 
でっかい鼻の孔おっぴろげて 馬が走ってく ?
0505日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:12:23.16
パークスと比較すると勝海舟の頓珍漢ぶりには呆れかえる。
政府の発表した政府軍優勢報道を大本営発表のごとく「あれはウソ」と言い切っている。
0508日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:19:09.67
まあバカは放っておけばいいけど、西南戦争に関する勝の談話は『氷川清話』には載っていない。
アーネスト・サトウの日記に書かれている。
広瀬靖子訳「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号 / 一九七〇年)
0509日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:25:19.20
サトウ日記の西南戦争関連は、萩原延寿の訳で単行本化されているな。
萩原延寿『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄一三−西南戦争』(朝日新聞社 / 二〇〇一年)
0510東風動く ◆dExTdUkD48aX
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2019/03/10(日) 11:02:43.44
☆ 渋谷彦助
鹿児島県一等属。
坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。
どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。
0511日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 01:14:59.92
海老原穆の逮捕は、川路書簡の中で1行触れられただけだな。
0512日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 01:53:02.08
>>500
樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考え始めると、夜も眠れなくなるな。
0513日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 01:56:19.27
木戸さんは樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考えすぎてノイローゼになったのかもしれん。
0514日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 02:30:10.53
☆ 山縣有朋
この頃になると、風格すら感じさせる山縣。
桐野・篠原はただの地五郎。
山縣の敵ではないな。
0516宣戦 ◆PWLX8lcfBw
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2019/03/11(月) 20:16:42.51
☆ 蓑田長僖(49歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
明治21年に日本運輸会社(現在の日本通運)は暫定役員として蓑田長僖を選出している。
同一人物であろうか?
0517日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 20:25:07.08
☆ 鎌田政直(51歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
なお、第六課の課長は渋谷彦助(>>510)。
0519日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:02:18.04
私学校党蹶起の軍資金の提供は、島津久光の内命によるものだろうな。
0520日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:08:08.60
軍資金を提供されたにもかかわらず、西郷が大山に対して冷淡な態度だったのは、
西郷は私学校のニセたちに乗せられただけでなく、久光にも乗せられたという思いがあったのだろう。
0521日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:34:38.61
【部隊編成】
一番大隊 篠原国幹 西郷小兵衛
二番大隊 村田新八 松永清之丞
三番大隊 永山弥一郎 辺見十郎太
四番大隊 桐野利秋 堀新次郎
五番大隊 池上四郎 河野主一郎
独立大隊 別府晋介
独立第一大隊 越山休蔵 鮫島敬輔
独立第二大隊 児玉強之助 坂元敬介
0522日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:37:29.13
☆ 松永清之丞
明治10年1月29日、鹿児島市草牟田の火薬庫から、政府が弾薬を運び出します。
当夜、汾陽光輝家(>>454)で松永清之丞と堀新次郎が、火薬庫からの武器搬出を計画し、実行。
これが西南戦争に繋がります。
0523日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:44:34.12
☆ 堀新次郎
明治後、伊地知貞馨となる堀次郎と混同しないように。
0525日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 20:27:19.52
☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)、鹿児島高麗町で生まれる。諱名は高照、通称は直右衛門、後に群平という。
戊辰戦争では、山崎の戦いで重傷を負った。
次いで、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。
長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治10年、谷口登太が内偵した中原尚雄の西郷隆盛刺殺計画を聞いた高木七之丞邸の会合に出席していた淵辺はこれに憤激し、私学校本校で行われた大評議でも出兵に賛成した。出陣に際しては薩軍本営附護衛隊長となって、西郷を護衛しながら熊本に赴き、本営の軍議に参画した。
0526日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 20:33:29.12
☆ 仁礼景通
西南の役の最後に城山で捕縛されて銃殺された薩軍副官の仁礼景通ほか鹿児島城下に仁礼姓は多い。
仁礼景範と名が似ているが、親族ではなさそうである。
0527日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 20:52:05.46
☆ 2月14日
別府晋介の独立大隊(郷士軍)は、2月14日に加治木に集結し、横川→大口→水俣というコースを辿った。
0528日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 21:01:03.17
☆ 2月15日
一番大隊(篠原国幹隊)は、市来→川内→阿久根→米ノ津(出水市)…海路…佐敷(現在の芦北町の中心部と佐敷川流域)という西回りルートを辿った。
二番大隊(村田新八隊)は、別府晋介隊と同じく東回りコース。
0530日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 17:55:42.77
☆ 武の自宅
屋敷は明治2年薩摩藩の重臣二階堂氏から譲り受けたもので、敷地約3600u、高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年に西郷従道が再建した。いま屋敷跡は公園になっており、当時の井戸が残っている。
http://www.meijiishin150countdown.com/meiji/wp-content/uploads/2016/12/b34d0fe89b9b7b12d6287e69a5aeaf45-300x196.jpg
0531日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:00:07.40
☆ 西郷松子
安政4年(1857)前後の生まれ、昭和18年3月6日没。父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉・国。
明治6年11月、西郷家の四男・西郷小兵衛と結婚し、西郷家に入る。小兵衛25歳、松15歳か16歳。いとこ婚。
名はマスであったが、西郷の次弟・吉二郎の先妻の旧名と同姓同名(有馬マス)であったため、呼び名をマツ(松子)と変えた。
0532日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:04:18.58
☆ 西郷糸子
西郷隆盛の妻。
元治2年(1865年)、西郷隆盛と結婚する。隆盛は3回目、糸子は再婚。
隆盛との間に寅太郎・午次郎・酉三の子どもを産む。
また、隆盛の奄美大島における島妻である愛加那との子である菊次郎・菊を引き取り養育した。
https://bakumatsu.org/img/00336_l.jpg
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2017/12/110b997c79e4679ef6f0e88767df4532.png
https://pbs.twimg.com/media/Dui9aqTVAAAZ-1U.jpg
0533日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:07:24.48
☆ 西郷寅太郎
明治17年に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。
明治35年父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任する。
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2018/08/t02120285_0212028511872790473.jpg
0535日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:09:46.95
☆ 市来四郎
幕末は島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。明治以後は島津久光の側近となる。
0536日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:16:12.70
☆ 加治木
2010年、同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。
加治木という地名は、船の舵を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来する。
ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になった。
平安時代頃からこの地域を支配していたのは、大蔵氏の一族とされる加治木氏であった。
蒲生に本拠を置く蒲生氏、帖佐に本拠を置く平山氏などとともに、互いに同盟したり対立したりしながら、島津氏との勢力争いを繰り広げていた。
http://www.pref.kagoshima.jp/ah09/infra/port/minato/cruising/images/1714-115035-608.jpg
https://cdn.jalan.jp/jalan/img/2/kuchikomi/3332/KXL/5d0cf_0003332641_1.jpg
0538日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:34:20.58
平成の合併はむかつくわ。
わしは今でも昭和の地図帳を愛用している。
0540日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 20:23:25.34
☆ 東目街道
薩摩藩時代、現鹿児島県霧島市福山町を基点として、都城を経由し高城町の月山日和城を通り、高岡町に通ずる往還道として作られた「東目街道」は、薩摩藩西目街道に対して同藩東側を通るため「東目街道」と称されました。
0543日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 20:41:26.43
☆ 吉田温泉
宮崎県えびの市大字昌明寺にある「吉田温泉 鹿の湯」を訪問しました。
鹿の湯という名前の通り、傷ついた鹿がこちらの温泉に浸かって傷を癒したという言い伝えが残っています。
http://kagoshima-meijiishin150.com/wp-content/uploads/2018/01/20171209-700x394.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/20/onsendou2127/c0/62/j/o1600120014066898085.jpg
0548日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 21:39:53.06
☆ 人吉藩
藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。
その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。
明治4年に廃藩置県により人吉県となったのち、八代県、白川県を経て熊本県に編入された。
https://www.shirofan.com/files/shiro/kyusyu/hitoyoshi/VJ7Z1604.jpg
http://www.tougarashi-1ban.com/image/hitoyoshizyou/top.jpg
0549日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 21:45:39.56
☆ 永国寺
熊本県人吉市土手町にある曹洞宗の寺院。寺に伝わる幽霊の掛け軸から、幽霊寺の異名で知られる。
創建は応永15年(1408年)とも17年(1410年)ともいう。一径永就和尚を勧請開山とし、実底超真和尚が開山。
相良氏第9代相良前続(さきつぐ)の開基になり、相良氏代々の崇敬を受けた。
人吉における西郷の宿舎。
https://washimo-web.jp/Trip/Hitoyoshi02/ei01.jpg
https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/0d/4f/71/4b/dsc-0789-largejpg.jpg
0550日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 21:56:06.34
この先鋒の別府晋介隊は、小川、宇土を経て、熊本城から7q手前の川尻で宿営している。
☆ 小川……2005年、宇土郡三角町・不知火町および下益城郡松橋町・豊野町と合併し宇城市小川町となった。
☆ 宇土……小西行長の城下町である。中世から交通の要地であり、豪族たちがその支配をめぐって争いを続けてきた。
☆ 川尻……旧飽託郡川尻町。1940年熊本市に合併。
いずれも八代の北方。
0551日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 22:03:04.25
☆ 池辺吉十郎
天保9(1838) 年生まれ。幕長戦争の小倉の役(1866)に戦功あり、京都詰公用人、熊本藩少参事を歴任、帰郷して郷党の青少年を教育し学校党の勢力を養成した。
明治9年の神風連の乱では学校党の軽挙を抑えたが、翌10年薩摩西郷軍が蜂起して熊本に至るや、学校党を主力に同志700名余の熊本隊を率いて西郷軍に応じた。
寺田、立山に奮戦したが戦況利あらず、銃創を被り、10月政府軍に捕縛され、同月26日長崎で斬刑に処された。
明治時代の政論家池辺三山はその子息である。
https://www.city.tamana.lg.jp/pub/44428_filelib_a67a830d24a9241c9dfc1e3fb6864af2.JPG
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 22:13:31.10
☆ 佐々友房
嘉永7年(1854年)、現在の熊本市内坪井町に肥後熊本藩士佐々陸助の二男として生まれた。
戦国武将佐々成政の子孫という。
明治12年1月に出獄すると、熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立した。
後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。
http://tashiseisei.com/album/upl/19.jpg
0557日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 22:33:46.01
西郷のこの挙は、自分のかつての朋友たちを批判の広場に引きずり出し、勢いのおもむくところ、衆人の監視のなかで首を刎ねることになるかもしれない結末を、容易に想像させる。
西郷の人柄からいば勝った光景もまたうとましかった。
むろん、負けるとは夢にも思っていなかった。
0559日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 23:28:44.55
西郷の国民的人気と比較すると、谷干城の知名度の低さは気の毒になってくる。
西郷の人気は、力士の人気と同レベルのものだろう。
人気者の敵になってしまった谷干城の可哀そうなことよ。
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