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司馬遼太郎 Part13
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0554日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 22:13:31.10
☆ 佐々友房
嘉永7年(1854年)、現在の熊本市内坪井町に肥後熊本藩士佐々陸助の二男として生まれた。
戦国武将佐々成政の子孫という。
明治12年1月に出獄すると、熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立した。
後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。
http://tashiseisei.com/album/upl/19.jpg
0557日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 22:33:46.01
西郷のこの挙は、自分のかつての朋友たちを批判の広場に引きずり出し、勢いのおもむくところ、衆人の監視のなかで首を刎ねることになるかもしれない結末を、容易に想像させる。
西郷の人柄からいば勝った光景もまたうとましかった。
むろん、負けるとは夢にも思っていなかった。
0559日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 23:28:44.55
西郷の国民的人気と比較すると、谷干城の知名度の低さは気の毒になってくる。
西郷の人気は、力士の人気と同レベルのものだろう。
人気者の敵になってしまった谷干城の可哀そうなことよ。
0560熊本鎮台 ◆JcEWIDFG0Y
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2019/03/13(水) 23:44:54.12
☆ 谷干城
天保8年(1837年)、儒学者谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川(現在の高知県高岡郡四万十町)に生まれた。
幕末期は谷守部の名で知られる。戊辰戦争が始まると板垣と共に藩兵を率いて出動した。
熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。
明治44年に没する。
http://www.ehagaki.org/wp-content/uploads/2017/03/p063-%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E%E5%B0%86%E8%BB%8D.jpg
0562日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 23:49:56.79
☆ 樺山資紀中佐
明治5年より南清に出張、台湾出兵に従軍。
西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。
その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、明治16年に海軍大輔、同19年には海軍次官となる。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/13/92/a0287992_2341039.jpg
0563日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:06:19.57
☆ 与倉知実中佐(>>381
歩兵第13連隊連隊長。神風連の乱後も留任。
薩摩藩出身。
明治9年10月24日の神風連の乱では、自宅を中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。
その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。
しかし、明治10年の西南戦争「段山(だにやま)の戦い」で被弾した。同じ日、鶴子は女子を熊本城で出産したが、与倉は翌日死去した。
https://murakumo1868.web.fc2.com/img-02modern-03/1107.jpg
0564日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:11:00.93
☆ 川上操六少佐
薩摩藩士川上伝左衛門親徳の三男として生まれ、鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争に薩摩藩10番隊小頭として従軍する。
明治10年に始まった西南戦争では歩兵第13連隊長心得として従軍し功を立てる。
明治28年3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。
その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。
https://pbs.twimg.com/media/DxeswcwX0AAJuB0.jpg
0565日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:14:48.94
☆ 大迫尚敏(なおはる)大尉
薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。
明治10年西南戦争に出征し、熊本城篭城戦に参加。2月27日、草場学校制圧の指揮を取り、顔面を負傷する。
明治37年2月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為、8月に第7師団の動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。その後も奉天会戦に参戦し明治39年3月に帰国する。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/Major-General_Osako_Naotoshi.PNG/150px-Major-General_Osako_Naotoshi.PNG
0566日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:28:05.29
☆ 富岡敬明(よしあき)
肥前小城(おぎ)藩士神代次兵衛利温の次男として生まれる。
明治9年11月に熊本県権令となる。権令在任中に西南戦争に遭遇し、熊本城で司令長官谷干城少将、参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐等と54日間の籠城戦を耐え抜いた。
https://saga.ismcdn.jp/mwimgs/2/f/320m/img_2fa7272faf1c646aa36b5aab008b663824296.jpg
0567日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:52:17.12
熊本鎮台司令長官谷干城少将は、1月28日に小倉第14連隊の連隊長乃木希典に、一個中隊を長崎に移すよう命じた。
0568日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:55:38.99
谷干城少将は、2月14日(別府晋介の先鋒が加治木を出発した日)に、小倉と福岡(小倉連隊の分屯所)の兵力をすべて熊本籠城にまわすべく処置した。
山縣は、空になった小倉の留守を、広島鎮台に二個中隊に命じた。
0570籠城 ◆/BtAuHyeGc
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2019/03/17(日) 22:38:26.79
☆ 招魂祭
2月12日13日の両日、熊本城内で神風連ノ乱で戦死した鎮台兵の招魂祭が興行された。
0571日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 22:51:49.23
>>567
乃木が長崎へ一個中隊を派遣したのは2月6日。
乃木の隷下の小倉14連隊は、小倉に二個大隊、福岡に一個大隊が分屯していた。
乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。
0572日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 22:53:13.21
谷は、この時期は、薩軍が長崎の艦船を奪取して東上すると考えていたんだな。
0573日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 22:57:22.16
☆ 2月13日
熊本から小倉の乃木へ非常警備態勢の電報。
乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。
同二個中隊は16日に久留米到着。
0576日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 23:36:08.22
☆ 2月17日
薩軍が米ノ津湊に現れたとの情報を、熊本鎮台司令部が得る。
鹿児島県出水市米ノ津町。
0577日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 23:49:10.79
☆ 2月18日
谷干城、熊本市中に防衛措置を布く。
☆ 2月19日
大山県令の専使、富岡権令および樺山参謀長と会談。
この日、政府の征討令が出る。
0578日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 17:52:41.76
政府の征討令が出た2月19日、西郷は加久藤越え(>>542)手前の吉田温泉昌明寺宿に投宿していた(>>543)。
0582日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:07:59.20
☆ 放火説
薩軍のスパイもしくは薩軍に内応した鎮台兵が放火したとする説。
理論的には可能だとする専門家もいるが、放火だと決定づける明確な証拠は見つかっていない。
0584日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:11:47.45
☆ 失火説
計画的な自焼火災であれば、兵糧を運び出した上で火をつけるはずである。
火事で兵糧が焼けてしまった上に、兵器も慌てて移動させたとする日記の記述もあることから、自焼説はありえない。
0585日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:19:58.60
☆ 自焼説
天守閣は敵の攻撃の一番の目印となるため、それを防ぐために事前に燃やしたとする説。
熊本旧城下の9割が焼失しているが、城周辺の建造物は敵である寄せ手に利用されるため、籠城側がこれらを焼くのが兵法の常道である。
そもそも熊本県権令富岡敬明(よしあき)から政府への最初の電報は「本日十一時十分鎮台自焼セリ」であった。
天守閣には籠城戦のために必要不可欠な兵糧が集められていたが、焼けた米が発掘調査で出てこなかった。
つまり、鎮台が兵糧を運び出した上での計画的な火災であったため、炭化米も出てこなかったのである。
0586日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:24:17.49
記録に残っている火災発生後の弾薬搬出指揮をしたのが児玉源太郎少佐というのがどうもくさい。
天守閣周辺の弾薬も、おそらく事前に搬出していたものと思われる。
事前搬出の指揮をしたのが児玉源太郎少佐。
0588日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:34:05.97
失火説はないな。
政府の征討令が出た当日というタイミングを考慮すれば、自焼説が妥当であろう。
発掘調査で炭化米が出てこなかったという新事実が重い。
0589日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:37:41.65
500石の米すべてが焼失した後に、一両日で600石を集めたというのもくさい。
もとからあった500石に加えて、一両日で100石を集めたのであろう。
この観点からも、自焼説が妥当。
0590日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:58:13.34
☆ 戦力補強
2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。
2月20日、東京警視隊600人が、綿貫吉直少警視に率いられて入城。
0592肥後の野 ◆zaVQMzov1k
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2019/03/18(月) 23:28:19.63
☆ 薩軍
2月19日:別府晋介の独立大隊、益城郡小川宿に宿営(>>550>>553)。
2月20日:別府晋介の独立大隊、熊本平野の旧飽託郡川尻町で後発軍の来着を待つ。
※川尻
熊本市中心部の南方約8kmに位置する川尻地区。早くから海外との交易港として開け、江戸時代には緑川流域の物資の集散地として栄えた。
https://kumamoto-guide.jp/files/6ef274b8-cf1c-401e-94c8-c49633df14b8_l.jpg
0595日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 00:03:20.03
☆ 威力偵察
川尻の薩軍が宿営している民家に放火するのが目的。
参謀長樺山が薩軍に寝返らないという証のための出動。
0596日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 00:10:05.13
二個中隊500人の夜襲部隊。
指揮官は大迫尚敏(なおはる)大尉(>>565)。
中隊長隔岡大尉。
中隊長小島大尉 →岡本鋭威軍曹
0598日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 20:40:10.15
>>596
隔岡大尉は間違い。正しくは隈岡長道大尉。
明治17年から広島鎮台の歩兵第12連隊の連隊長に補されている。
0599日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 20:44:20.16
>>596
小島大尉は、小島政利大尉のこと。
明治24年に熊本第6師団の歩兵第24連隊(福岡連隊)の連隊長に補されている。
0601日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 20:48:54.49
☆ 川尻緒戦
薩摩軍の出鼻を一挙に挫くべき樺山参謀長の夜襲の作戦は失敗に終わった。初戦は官軍の敗軍に終わっている。
2月21日
川尻ノ賊営ヲ放火セシメント欲シ、午前第1時大尉隈岡長道、同小島政利ノ2中隊ヲ遣ル。
適適、賊ノ哨兵之ヲ知覚シ、先ツ銃ヲ発ス。我兵彼レノ備アルヲ知リ、且天已ニ明ルヲ以テ、戦ハスシテ退ク。
0602日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 21:10:44.10
☆ 2月21日
正午ごろ桐野利秋が川尻に到着。
午後になって村田新八の率いる二番大隊も川尻に到着。
この日、桐野と村田の名前で開戦の命令を出した。
0603日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 21:15:57.51
熊本鎮台は防戦どころか、通過にあたっては兵糧や弾薬を出してもてなしてくれるはずであるというつもりで
桐野はこのたびの東京ゆきの旅程を立案していた。
西南戦争の本質を突き詰めれば、地五郎の認識の甘さによって起こった戦いというべきであろうか。
0605日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 21:26:15.42
>>603
田舎で4年間百姓をしていた連中と草創期の近代国家の実務をこなしていた連中との認識の差だな。
0606日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 21:46:22.32
西郷は八代で川尻の戦況を聞く。
前線からの要請によって川尻に到着したのは、2月21日の夜中である。
宿舎は川尻下町の質屋布屋。
0607日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 21:52:34.99
☆ 2月22日
熊本城下に最初に到着したのは、川尻にもっとも遅く着いた池上四郎の五番大隊である。
0609日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 22:36:57.78
☆ 十字火
十字砲火のこと。
機関銃のような自動火器を使用した戦術のひとつで、2つの火器から放たれる火線が交差(Cross)するところから、クロスファイアと呼ばれる。
この戦法は、第一次世界大戦で登場したといわれているが、西南戦争の戦闘報告に既に表れている。
0610日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 22:42:59.01
☆ 片山屋敷の戦い
篠原国幹の率いる一番大隊の攻撃は熾烈を極めた。
片山屋敷を守備していた歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐は(>>563)、この戦いの最中に戦死した。
0611日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 22:50:22.51
片山屋敷の戦いではなく、「段山(だにやま)の戦い」と呼んだ方がよいようだ。
現在の藤崎八幡宮の位置を基準に考えると地理を誤解してしまうので注意が必要である。
西南戦争当時の藤崎神社は、段山の東南にある藤崎台にあったが、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、
現在の井川渕町に移転。明治11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営をみた。
https://murakumo1868.web.fc2.com/img-02modern-03/1101.jpg
0613日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 22:55:15.00
>>610
神風連ノ乱では活劇のような脱出劇で活躍した与倉連隊長。
あっけなく死んだな。
段山の戦いにおける篠原の指揮は、面目躍如たるものがあるな。
0614日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 22:56:42.04
もう寝ろよ、ネトウヨwww
それとも明日も仕事がないのかwww
0615二・二二の戦闘 ◆dA5jDqAalc
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2019/03/19(火) 23:24:41.56
☆ 学校党−熊本隊
池辺吉十郎(>>551)率いる学校党700名余も、2月22日の熊本城の戦いに参戦している。
池辺は薩軍主力が川尻に達したとき、旧城下の江津学校に同志を集めている。
0616日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 23:27:37.88
江津学校については、筆者にもよくわかりません。
熊本県立湧心館高等学校の前身は熊本県立江津高等学校なのですが、これと江津学校の関係は調べてもわかりませんでした。
0618日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 00:11:53.88
☆ 有馬源内
宮崎八郎と共に台湾に赴いた?権党の同志。
熊本藩士。東肥新聞社。
宅は熊本城下千反畑(せんだんばた)にあった。
0619日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 00:18:48.56
☆ 高田露(あきら)
嘉永7年(1854)肥後国託麻郡春日村(現在の熊本県熊本市西区)で熊本藩士の家に生まれる。
明治7年に台湾出兵に従軍した。帰国後は民権党を結成し、評論新聞記者・近事評論記者として自由民権を主張した。
明治10年に西南戦争が勃発すると、宮崎八郎らとともに協同隊を組織して西郷軍に加わった。
西郷軍の敗北とともに捕えられたが、やがて出獄を許された。
明治35年、第7回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/Takada_Akira.jpg/180px-Takada_Akira.jpg
大河ドラマ「翔ぶが如く」の高田露 https://1rin.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_203/1rin/tobu2-3202c.jpg
0622日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 00:51:51.78
名前ぐらいは正しく呼んであげたいな。
ネットのおかげで、日に2〜3人の名前読み間違いを発見できる。
死ぬまでに全部は無理だろうけど、できる限り読み間違いを是正してゆきたい。
0626日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 07:31:36.19
病を得たり!惣の介
@kimitstokoshiro
·
3月18日
返信先:
@tebasakitoriri
さん
司馬遼太郎氏の著作に「学生運動を熱心にやっていた為に企業から相手にされず やむを得ず実業の世界に入って経営者になった者が結構な人数で居て 運動でやり手と言われた人ほど 会社が危うくなった時 怜悧に人を切る」と言う趣旨の事が書いてありました。
仮にこういう愚策を実行して失敗し(続
0627日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 20:12:07.97
☆ 2月21日
宮崎八郎、川尻の薩軍先鋒の別府晋介と会談。
保田窪神社(>>620)に熊本協同隊が集結。約40名。
0628日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 20:09:29.23
☆ 中根正胤
熊本城に着いた熊本共同隊は、宮崎八郎と中根正胤の二人を篠原の元に派遣するわけです。
まあ、中根さんは、これ以前に別府晋介と会って同盟を約束して帰ったという人物なので、まあ、そういう経緯もあって、代表に選ばれたんでしょうね。
さて、この二人と篠原の会談ということになるわけですが、この篠原さん、薩人の中でも、とびきり無口だったそうですね。
まあ、薩摩というところは、無口でひょうかんな薩摩武士というのを理想的な武士のありかたとして、教育をしてきた国ですから、
まあ、ぼっけもんの典型というのが、この篠原さんだった、というところでしょう。
彼は、ほとんど無口で、宮崎ら二人の言葉を聞いていたようですが、最後に、
「これくらいの城ひとつを落とすのに何の戦策も戦略もいりません。一蹴して過ぎるのみです」
と、かつて別府晋介が言ったのと同じ言葉を吐いたそうです。
0629日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 21:43:13.81
☆ 平川惟一(のぶかず)
明治3年、藩命により有馬源内等とともに伏見の屯営(陸軍下士養成所)に入り、明治5年陸軍中尉となる。
明治6年、『征韓論』の破裂により野に下り、熊本県飽田郡百貫村に帰農した。
明治7年、佐賀の乱の後、有馬源内、宮崎八郎等と台湾出兵に志願し従軍するが、負傷して帰国。
明治8年4月、広田尚、宮崎八郎、有馬源内、松山守善、崎村常雄らと植木町に、変則熊本第五番中学校(通称:植木学校)を設立し校長兼舎監を務める。
『民約論』を中心とした様々な授業を行い、自由民権を唱え各地で集会を開き実践するが、急進すぎると県からの補助金を打ち切られ同年10月末で閉校する。
明治9年末、民権党同志の中で薩摩の桐野利秋や篠原国幹とかねて面識のあった有馬源内を通じて情勢を打診。
明治10年、鹿児島県で西郷隆盛の私学校が挙兵すると、植木学校出身者を中心とした民権党の同志と熊本協同隊を結成し、
2月21日に北上してきた薩軍に川尻で合流、四番大隊大隊長の桐野利秋のもとで協同隊を指揮し共に政府軍を相手に戦った。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/276/38/N000/000/033/148748996453668056178.jpg
0630日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 21:47:13.24
☆ 野間安親
兄弟(弟は野間富記)で西南戦争に出て真っ先にやられてしまった…
クールな批評家でありながら武術も重んじたい気持ちだけはある。
やたら選挙好き。(でも平川ひいき)
自由民権と征韓論をスマートに語ってみたい気持ちだけはある理想家。
理想家というのはいつも気持ちだけは満タンなんだ…
0632日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:10:45.14
前章の最後のところで述べられた熊本城攻撃の詳細が、くりかえし述べられている。
与倉連隊長戦死の場面では、岡本鋭威軍曹(>>596)の活躍が目覚ましい。
0633日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:28:28.39
2月22日午後、西郷がはじめて熊本旧城下に入る。
☆ 白川に架かる現代の代継橋
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/f/f6/Shirakawa-river_from_shin-yotsugi-bridge_1.jpg
☆ 西郷が休息した代継宮
本荘村にあった代継宮は、鎮西鎮台の本営や歩兵第23連隊の兵舎用地をへて現在は花畑公園となっている。
現在の代継宮は、熊本市北区龍田にある。
http://www.yotsugiguu.jp/index/101.jpg
0636日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:58:44.91
信じがたいほどのことだが、薩軍は補給の手当てどころか、この日の夕食をどうするかさえ決めていなかった。
ついでながら攻城の主力であるはずの砲兵は、この日まだ戦場に着いていなかった。
0637日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:59:52.82
「かあさん、晩御飯まだ?」
「なに食べようかしら。まだ決めていないのよ」
0638日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:03:25.78
熊本城攻撃に参戦した四番大隊(桐野隊)は800人で、半数以上は22日の夕刻に川尻に到着している。
>>608
>桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
間違いです。
0639日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:06:17.99
遅着した四番大隊の小隊長たち
一番小隊長 堀新次郎
三番小隊長 野村忍介
四番小隊長 川久保十次
五番小隊長 永山休二
0640日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:09:50.77
マジでイラサボー(青竹)一本で熊本城を落とせると思っていたんだな。
清正を舐めとるな。
0641日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:19:41.61
レイパー新井浩文に加藤清正役をやらせたNHKは、薩軍以上に清正をなめとる。
デスマスクみたいな顔をしたレイパー役者に、清正をやらせるんじゃねーよ。
あのドラマの頃から新井の目は死んでいた。
清正登場シーンだけ、糞つまらんかった。
0642日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:44:57.81
で、熊本城が手ごわいので、薩軍は方針変更します(*^-^*)ゞテヘヘ
0643日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:50:16.36
《強襲続行論》篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太
《小倉占拠論》野村忍介、西郷小兵衛、池上四郎
《折衷案》西郷隆盛
23日の熊本城強襲は中止し、熊本城の包囲は継続。
兵力の一部をもって植木に進出し、南下する政府軍に備える。
0644日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:55:06.91
しかし、山縣有朋の放った6,400名の先発梯団は、2月20日に神戸港を発し、22日には博多港に到着し南下の態勢をとりつつあった。
この時点で、野村忍介の小倉占拠論は、演習用の戦術にすぎなくなっていた。
第一旅団 野津鎮雄
第二旅団 三好重臣
0645日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:56:32.52
山縣有朋>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>桐野利秋
0646日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 00:01:10.19
結果論としては強襲続行が正しかったのだが、砲兵なしで攻城を続行するというところが大馬鹿。
0647日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 00:02:52.78
熊本鎮台は籠城策なのだから、熊本城をスルーして北上すればよかったのにね。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/22(金) 00:07:57.60
阿呆!野津・三好の梯団と熊本鎮台に挟撃されるだろう。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/22(金) 00:10:24.19
諸葛亮なら北上すると見せかけて、熊本鎮台が城外に出て薩軍を追尾する態勢をとったときに、魏延に熊本城を急襲させる。
0651日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 19:24:02.30
☆ 大江村九品寺
熊本隊(学校党)の本営。
寺は現存しないのであろうか、地名だけが残っている。
0652日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 19:46:13.18
☆ 熊本協同隊
篠原国幹隊とともに40名の熊本協同隊は行動した。
22日の戦闘で野間安親・富記兄弟は戦死。
0653日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 20:38:08.11
22日、乃木希典少佐の率いる小倉歩兵第14連隊が、山鹿街道を南下した。
薩軍五番大隊二番小隊長の村田三介は、熊本協同隊の高田露(あきら)を道案内にして、山鹿街道を北上して野戦に転じた。
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