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司馬遼太郎 Part13
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0632日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:10:45.14
前章の最後のところで述べられた熊本城攻撃の詳細が、くりかえし述べられている。
与倉連隊長戦死の場面では、岡本鋭威軍曹(>>596)の活躍が目覚ましい。
0633日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:28:28.39
2月22日午後、西郷がはじめて熊本旧城下に入る。
☆ 白川に架かる現代の代継橋
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/f/f6/Shirakawa-river_from_shin-yotsugi-bridge_1.jpg
☆ 西郷が休息した代継宮
本荘村にあった代継宮は、鎮西鎮台の本営や歩兵第23連隊の兵舎用地をへて現在は花畑公園となっている。
現在の代継宮は、熊本市北区龍田にある。
http://www.yotsugiguu.jp/index/101.jpg
0636日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:58:44.91
信じがたいほどのことだが、薩軍は補給の手当てどころか、この日の夕食をどうするかさえ決めていなかった。
ついでながら攻城の主力であるはずの砲兵は、この日まだ戦場に着いていなかった。
0637日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 22:59:52.82
「かあさん、晩御飯まだ?」
「なに食べようかしら。まだ決めていないのよ」
0638日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:03:25.78
熊本城攻撃に参戦した四番大隊(桐野隊)は800人で、半数以上は22日の夕刻に川尻に到着している。
>>608
>桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
間違いです。
0639日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:06:17.99
遅着した四番大隊の小隊長たち
一番小隊長 堀新次郎
三番小隊長 野村忍介
四番小隊長 川久保十次
五番小隊長 永山休二
0640日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:09:50.77
マジでイラサボー(青竹)一本で熊本城を落とせると思っていたんだな。
清正を舐めとるな。
0641日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:19:41.61
レイパー新井浩文に加藤清正役をやらせたNHKは、薩軍以上に清正をなめとる。
デスマスクみたいな顔をしたレイパー役者に、清正をやらせるんじゃねーよ。
あのドラマの頃から新井の目は死んでいた。
清正登場シーンだけ、糞つまらんかった。
0642日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:44:57.81
で、熊本城が手ごわいので、薩軍は方針変更します(*^-^*)ゞテヘヘ
0643日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:50:16.36
《強襲続行論》篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太
《小倉占拠論》野村忍介、西郷小兵衛、池上四郎
《折衷案》西郷隆盛
23日の熊本城強襲は中止し、熊本城の包囲は継続。
兵力の一部をもって植木に進出し、南下する政府軍に備える。
0644日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:55:06.91
しかし、山縣有朋の放った6,400名の先発梯団は、2月20日に神戸港を発し、22日には博多港に到着し南下の態勢をとりつつあった。
この時点で、野村忍介の小倉占拠論は、演習用の戦術にすぎなくなっていた。
第一旅団 野津鎮雄
第二旅団 三好重臣
0645日本@名無史さん
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2019/03/21(木) 23:56:32.52
山縣有朋>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>桐野利秋
0646日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 00:01:10.19
結果論としては強襲続行が正しかったのだが、砲兵なしで攻城を続行するというところが大馬鹿。
0647日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 00:02:52.78
熊本鎮台は籠城策なのだから、熊本城をスルーして北上すればよかったのにね。
0649日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 00:07:57.60
阿呆!野津・三好の梯団と熊本鎮台に挟撃されるだろう。
0650日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 00:10:24.19
諸葛亮なら北上すると見せかけて、熊本鎮台が城外に出て薩軍を追尾する態勢をとったときに、魏延に熊本城を急襲させる。
0651日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 19:24:02.30
☆ 大江村九品寺
熊本隊(学校党)の本営。
寺は現存しないのであろうか、地名だけが残っている。
0652日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 19:46:13.18
☆ 熊本協同隊
篠原国幹隊とともに40名の熊本協同隊は行動した。
22日の戦闘で野間安親・富記兄弟は戦死。
0653日本@名無史さん
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2019/03/22(金) 20:38:08.11
22日、乃木希典少佐の率いる小倉歩兵第14連隊が、山鹿街道を南下した。
薩軍五番大隊二番小隊長の村田三介は、熊本協同隊の高田露(あきら)を道案内にして、山鹿街道を北上して野戦に転じた。
0654日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 03:06:20.82
「第14連隊は、全員強行して入城すべし」
>>571 乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。
>>590 2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。
>>573 乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。同二個中隊は16日に久留米到着。
まだ熊本城に入城していない部隊が、小倉・福岡・長崎・久留米に分駐していた。
乃木自身も、久留米にいた。
0655日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 03:30:49.77
☆ 南関
乃木は河原林雄太少尉とともに21日午後4時に久留米を発ち、21日夜に熊本県南関で吉松少佐の第三大隊に追いついた。
村田三介が第14連隊南下の情報を得たというのは(>>653)、この吉松少佐の第三大隊のことである。
乃木が南関に到着したときは、薩軍はいまだ川尻にいる。
0657日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 04:00:31.12
戦略的にいえば乃木希典の第14連隊は面白みのある価値を生じつつあった。
城に入れなければむしろそれをあきらめて城外の遊撃軍として薩軍の背後を脅かしたり牽制することができたはずである。
しかも22日には政府の派遣した先遣軍が二個旅団も博多湾に上陸しているという形勢からみて、長期間続ける必要はなかった。
0658日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 04:08:16.45
☆ 高瀬
高瀬は、菊池氏が勢力をふるった南北朝時代から菊池川の水運を利用した港町・商人の町として賑わった。
江戸時代には、藩の五カ町(熊本、八代、川尻、高瀬、高橋)に数えられた。
昔からある酢屋、味噌屋、高瀬飴屋など、商店が立ち並ぶ通りに歴史の重みが残っている。
現在は玉名市高瀬。
http://matinami.o.oo7.jp/kyusyu-okinawa/tamana-takasetop.jpg
http://www.jaf.or.jp/jafnavi/driveguide/local/img/kumamoto_tamana/spot_01.jpg
https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1956/1956110018.jpg
https://i.ytimg.com/vi/xhcBCglHMuQ/maxresdefault.jpg
0659日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 04:16:06.47
☆ 吉松速之助少佐
弘化2年(1845)、高知城下本丁筋の土佐藩士吉松省平の長男に生まれた。
鳥羽・伏見の戦いには藩兵隊長として伏見を守る。その時の速之助の決断が官軍としての土佐藩の以後の行動を決定する。
さらに迅衝隊第八隊長として戊辰戦争に加わり、今市、日光、会津と転戦した。
会津戦争の折、大垣藩兵に捕らえられ凌辱のすえに生晒しにされた神保雪子(神保修理の妻)を見かけて放免を主張したものの、他藩の容喙は受け付けないと拒絶された。その後、密かに雪子の懇願を聞き届けて腰に据えた短刀を与え、その自刃を助けている。
0660日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 04:20:51.22
「おまん、名はなんぜよ?名ある武士の妻か。言うたら、夫の恥になるかえ?」
女性は吉松に対し、「せめて自害したいので、短刀を貸してほしい」と依頼します。
吉松はこれを受け入れ、その会津武士道を全うさせたと伝わっています。
この女性が会津藩の重役・神保修理の妻・雪子だったことが分かったのは、吉松の死後のことでした。
http://ryoma-hometown.com/wp-content/uploads/2019/01/essey44_7.jpg
凌辱された神保雪子
https://ogami-itto.com/wp-content/uploads/2018/10/ikegami_kimiko_svew2q-720x500.jpg
0661日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 04:23:46.14
明治4年、薩長土三藩の献兵によって御親兵が創立されたとき、陸軍大尉、中隊長となる。
明治9年、陸軍少佐に昇進。大隊長となり熊本鎮台福岡分営に屯した。この年に神風連の乱が起きたが、営内を鎮した。
明治10年に西南戦争が勃発すると歩兵第十四聯隊第三大隊を率いて福岡から出撃し、同郷で妻の伯父にあたる谷干城鎮台司令長官が守る熊本城救援を図った。
0663日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 04:32:43.23
南関、高瀬、木葉と進んだが、2月22日の植木の戦いで、上官である聯隊長代理乃木希典中佐が軍旗を喪失した。
その翌日、木葉で西郷軍と対峙した。二方向から攻撃されて苦戦に陥った吉松は、乃木に援軍を要請したが、乃木は司令部を離れてわざわざ吉松の元に自ら赴き、「今や我足下に分つべき余兵なし、たといまた之れ有らしむるも、乞ふ代りて之れに当たらん」と断った。
すると吉松は笑って「余力があればのこと。君は全軍を指揮する聯隊長である。ここに長く留まるべきでは無い」と応じた。
乃木が無事に去った後、最前線に踏みとどまった吉松はわずか20余名の部下とともに聯隊主力の退却を支えたが重傷を負い、その夜に息を引き取った。享年33であった。
0664日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 04:35:37.87
乃木は第三大隊の二個中隊から、行軍の疲労が残っていない60余名を選び、高瀬を発った。
0669日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:12:29.18
【植木の戦い】2月22日夜。
早朝から熊本城を包囲していた薩軍は、偵察から「植木に政府軍!」の報を受け、午後から
5番大隊・2番小隊(隊長・村田三介)、
4番大隊・9番小隊(隊長・伊東直二)、
4番大隊・5番小隊(隊長・永山休二)の3個小隊を向かわせている。
薩軍3個小隊は、植木の市街に進出すると山鹿・木葉の2方向から政府に挟み撃ちに遭う恐れがあるので、熊本寄りの向坂に布陣した。
http://seinan1877.zouri.jp/ueki/ueki.JPG
0670日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:19:59.17
☆ 植木町
かつては鹿本郡植木町。2010年(平成22年)熊本市に編入され全域熊本市北区となっている。
町内に西南戦争の最大の激戦地・田原坂がある。また、日本一のスイカの産地として知られる。
https://www.aeonlife-petsou.jp/reien/ueki/img/map_kumamoto.gif
http://www.yado.co.jp/hana/kumamoto/sasao/sasao01.jpg
https://www.michi-no-eki.jp/files/stationattach/pic_main01/991/thumb660_b946a8a41151cfd8ff75077ca86fdd7e.JPG
0673日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:37:00.71
>>671
小字は、郵便局がないとバス停として名が残るくらいだな。
コンビニの店名やアパート・マンション名として残る場合もあるが、田舎だとそれもない。
がんばれ全国のバス停。
0674日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:38:38.54
マンションに期待するな。
フランス語のマンション名を付けるのが流行になっている。
向坂荘では、誰も入居せん。
0677日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:46:14.51
黒岩重吾の奈良時代を描いた小説で、川の上に小屋をつくって、そこでうんこをしている描写があった。
厠の語源は、この川の小屋=川屋なのかどうかが知りたい。
0678日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:50:47.78
篠原国幹の統率術というのは、薩摩隼人のウィーク・ポイントである「死を恐れるのか?」を連呼するだけなんだな。
0679日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:55:50.15
ちなみに「植木の戦い」は、実戦経験のない乃木さんの初陣です。
0680日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 05:58:34.88
小学校の国語の教科書が、武将・軍人の話で埋め尽くされる日が待ち遠しいです。
乃木さんの植木の戦いなんて、むかしの日本人なら誰でも知っていた。
0681日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 06:01:34.45
偏頗するのはよくないけどな。
楠木正成は美化されすぎたために面白くない人物になってしまった。
実物はもっと面白い人物だと思う。
0682日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 08:42:11.92
☆ 村田三介
弘化2年(1845)生まれ。明治6年陸軍少佐を辞し、西南戦争では小隊長として西郷軍にくわわる。
熊本県北部の植木で政府軍をやぶり、乃木希典ひきいる第十四連隊の軍旗をうばう。
鍋田で明治10年3月11日戦死。33歳。
篠原国幹に「死を恐れるのか?」に言われるほどの頭脳派。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/13/1a83a9565e00762238acfbf24a659423.jpg
0684日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 08:50:08.76
なお村田三介が属する四番大隊の大隊長池上四郎の姓は「いけのうえ」と読む。
「いけがみ」と読んでいる人が多いと思うが。
0685日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 08:54:30.00
>>677
トイレ(toilet)のことを厠(かわや)と言いますが、その呼び名には、手水(ちょうず)、手水場(ちょうずば)、便所(べんじょ)、雪隠(せっちん)などがあり、川の流れに落とす川屋(かわや)からカワヤの名が出たとの説も広く知られています。
この他にも、昔から、はばかり、ご不浄(ごふじょう)、遠方(えんぽう)、東司(とうす)、後架(こうか)、高野山(こうやさん)、閑所(かんじょ)、装者所(よそものどころ)など、多くのトイレの呼び名があります。
0687日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 09:04:37.21
古代人の便所は水洗式だったことの証左となる歌が、「万葉集」巻十六に出ている。 
香塗(こうぬ)れる 塔になよりそ川くまの くそふな喰(は)める 痛き女(め)やっこ
あの人は人糞を食っているフナを食べている汚ならしい女だという相手の女をののしった歌です。
これは、川の上に便所を作っていた証拠と言えます。
世界の便所は、流すか、捨てるか、埋めるの三通りですが、川に流すのは南方系文化、便器を置くのは北方系文化と言われています。
溜桶をいけて便を貯めておくのは、農業用の肥料に使うところからきた日本独自の知恵。
http://konjaku-photo.com/m/pic/600/3215.jpg
http://file.qingdao.blog.shinobi.jp/koedame.jpg
0688日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 09:07:17.36
万葉集サイコー。ユーモアをも交えた自然主義文学だな。
古今、新古今ごときと並べて語ってはならない古代の最重要な文化遺産。
0690日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 09:12:58.08
>>687
わたくしは昭和40年代までの日本をこよなく愛する日本人ですが、
子供の頃遊んでいて肥溜めに嵌った屈辱の思い出があります。
肥溜めのことを考えると、あの時代に戻りたいとは思いません。
0691日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 13:04:52.28
>>669
加治木常樹の「薩南血涙史」によると、永山休二の小隊が植木に着いたのは、戦いが終わった後の2月23日ですよ。
加治木自身が永山小隊の押五(のちの伍長か)だったので間違いはない。
0695日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 13:35:57.79
頭の悪い人って、そんなことも知らないバカじゃありませんよアピールがウザいよね。
「知っていますよ」アピールをした瞬間に、相手にバカだと見透かされているのにね。
0697日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 13:45:51.60
乃木希典少佐が60余名の兵とともに植木に到着したのは、熊本城攻撃が終わった2月22日の夕刻。
たたちに第三大隊長吉松秀枝少佐に命じて、植木宿の西南の端に散兵を配置した。
その後、遅れてきた兵を含め200〜300の兵力にはなったようである。
0699日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 14:03:32.01
村田三介の小隊は、午後7時、乃木連隊吉松大隊に攻撃を開始する。
村田隊の弾薬が尽きた頃、伊東直二の4番大隊9番小隊が植木に到着した。
薩軍総勢400。
ここで村田小隊は白兵突撃に切り替える。
0701日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 14:28:23.40
第14連隊の連隊旗を薩軍に奪われた問題に関しては、発見者である高田露(あきら)、河原林雄太少尉に軍旗の扱いを命じた乃木少佐、河原林少尉を切り殺した薩軍の岩切正九郎押五の三者の証言が食い違っている。
司馬は、高田露の証言が正しいとしている。
乃木は命令を下したのみで、河原林少尉の命令後の行動は知らない。
しかし、おそらく嘘をついている。この嘘が乃木の心痛の種であり、乃木を殉死に追い込んだ動機のひとつであろうかと思われる。
岩切正九郎の証言は、収監中に政府が圧力をかけて偽証させたものであろう。
0702日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 14:51:27.02
☆ 河原林雄太少尉
河原林少尉の出身藩である豊前小倉藩(小笠原氏・十五万石)は慶応二年(1866)六月、第二次長州征伐の荒波に飲みこまれます。
その後の講和の結果小倉城を中心とする企救郡を長州藩に奪われ、明治になっても廃藩置県まで国の直轄地になってしまいます。
小笠原家は藩庁を豊津(現在の行橋市)に移し豊津藩と称しますが、藩祖忠真公以来の小倉の地を去った藩士達は佐幕藩の苦労を嫌というほど味わうのです。
河原林少尉は嘉永元年(1848)の生まれですから、第二次長州征伐の時点で数えの19歳、おそらくは若い藩士として苦労を味わったでしょう。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/276/38/N000/000/033/148809498358717368178_DSC04617.jpg
0703日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 14:57:08.46
>>701
河原林少尉に連隊旗を背負ったままで、しかもわずか10名の兵で、400忍の薩軍相手に殿軍をやれという乃木の命令には、明らかに矛盾がああるな。
こんなこと長反橋の張飛にしかできない。
0704日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 14:58:46.44
司馬も、乃木と河原林少尉の最後の別れは、高田露が見たという本営の民家ではないかと言っているな。
0705日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 15:00:54.13
植木の戦いは、2時間余りで終了する。
乃木が退却したのとほぼ同時刻に薩軍も退却している。
薩軍もまた長い行軍で疲労していた。
0706日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 15:02:03.33
ドラマや映画では、植木の戦いは昼間に撮影されているが、日没後の戦いである。
0708日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 15:10:42.61
乃木少佐は午後9時40分に植木から千本桜に退却。
前線の吉松秀枝少佐以下も全員無事に退却している。
取り残されたのは、河原林少尉以下の10人である。
0709日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 15:16:44.30
以下は筆者の推測であるが、高田露は乃木が本営としていた民家は「狼藉の跡は見苦しかった」と証言している。
おそらく岩切正九郎ら数名の薩兵は、乃木が本営としていた民家に斬り込んで闘争に及んだはずである。
河原林少尉は乃木を無事に退却させるために、自ら殿を引き受けたと思われる。
その後河原林も民家から脱出するが、追尾してきた岩切正五郎に斬殺された。享年32.
0712日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 15:53:38.93
鹿子木村まで退却した村田小隊・伊東小隊に、熊本から三小隊の援軍が来着する。
四番大隊六番小隊 小隊長:松下助四郎
四番大隊七番小隊 小隊長:石原市郎右衛門
四番大隊十番小隊 小隊長:橋口成一
0713日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 15:56:29.08
>>701
河原林少尉の遺体の背腰に巻かれた軍旗が差されていたというところが、岩切正九郎の偽証だな。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/23(土) 16:04:56.13
村田三介戦死後、兵站の責任者桂久武が、第14連隊の連隊旗は村田一代の武勇のしるしとして遺族に送った。
ここで村田の妻・佐和子(>>456>>457>>458)が登場する。
戦後、連隊旗の行方を捜索していた警察に、佐和子は連隊旗を渡してしまった。
捜索当時に乳児をかかえていた佐和子は、拘留されれば哺乳できないと考えたためである。
https://www.bvd.jp/WordPress/wp-content/uploads/2017/12/pickup08_01.png
0715日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 16:07:01.08
    _  ∩
  ( ゚∀゚)彡 おっぱい!おっぱい!
  (  ⊂彡
   |   | 
   し ⌒J
0717日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 16:16:20.69
>>691
河原林少尉の遺体の発見者は加治木常樹自身。
その加治木は市ヶ谷監獄に収監されるが、偶然にも岩切正九郎と同牢する。
加治木は岩切の話を聞いて、はじめて自分の発見した遺体が河原林少尉の遺体であることを知った。
数奇な話ですなあ。
0718二十三日の木葉 ◆adv/4RR..Q
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2019/03/23(土) 18:23:18.02
【木葉の戦い】(2月23日)
22日夜半、薩軍本営で作戦会議が開かれた(>>643)。熊本城攻撃をこのまま継続するかどうかを話しあい、
当初は篠原の強行策継続が決定したが、遅れてきた野村忍助が反対し、西郷小兵衛や池上四郎らも同調し、会議は紛糾してしまう。
桐野は西郷に決を求め、西郷は強行中止を決断。熊本城を包囲する一方、残りは北上して小倉を強襲することが決定する(>>643の折衷案を訂正)。
0719二十三日の木葉 ◆adv/4RR..Q
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2019/03/23(土) 18:23:53.27
23日に6個小隊が小倉へ向けて出発した。総勢1800名は二手に分かれて植木方面に進出するが、対する乃木の歩兵第14連隊は未だ兵力は完全に集結しておらず、手元には700名ほどしかなかった。
木葉で展開する歩兵第14連隊は8時30分頃より優勢な薩軍と交戦を開始し午後1時頃までは互角に戦っていたが、薩軍右翼の1隊が遠く南回りに回り込んで第14連隊の右翼を脅かした事で連隊は劣勢となる。
それでも夕刻まで持ちこたえた第14連隊は夜陰に乗じての撤退を開始するが、木葉山を大きく迂回してきた薩軍が側面を襲ったことで部隊は総崩れとなり、第14連隊は木葉川を越えて寺田山へと退却する。
この戦いで乃木は第三大隊長であった吉松秀枝少佐など多くの部下を失っている。
http://seinan1877.zouri.jp/ueki/koba.jpg
0720日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 19:07:00.32
司馬さんは、西郷の折衷案を華麗にスルーして、野村忍介の小倉占拠論があたかも22日夜の軍議で決まった内容だというように書かれている。
ちょっと呆れたぞ。
0721日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 19:08:04.12
もともと西郷の折衷案なるものは史実にないのではないか?
0723日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 20:39:55.54
☆ 津森秀実大尉
乃木の第14連隊第3大隊第3中隊長
植木へ将校斥候
0724日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 20:42:33.22
☆ 功力栄植大尉
木葉から高瀬への街道に置かれた中隊の中隊長
0725日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 21:26:05.59
☆ 七本(ななもと)
熊本市北区植木町轟七本
将校斥候と囮を兼ねた津本大尉の20余名は、七本という集落で、薩軍の松下助四郎小隊・石原市郎右衛門小隊・橋口成一小隊と遭遇する。
津本は木葉まで引き返した。木葉の戦闘は、このようにして始まった。
http://kumanago.jp/shugaku/files/ProgramImage/0/ProgramImage_626_image.jpg
※七本官軍墓地ー木葉の戦いで戦死した官軍兵士のみが埋葬されているわけではない。
0726日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 21:38:07.27
>>725
昨夜のうちに植木に着いた三小隊のうちの石原市郎右衛門小隊は、木葉の戦いには参加していないようである。
0727日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 21:46:21.38
上木葉に散兵していた吉松秀枝少佐が射撃を命じたときに最前線にいた薩軍は、いったん境木にまで後退した。
>>725で松下助四郎小隊・橋口成一小隊と書いているのは、司馬さんがそのように書いているからなのだが、
翌々日の連載では、その二小隊は華麗にスルーされて、園田武一小隊長・平野正介小隊長・国分寿助小隊長に替えられている。
境木に後退したときに、松下助四郎小隊・橋口成一小隊が植木から駆けて追いついたことに変えられている。
驚いた。
0729日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 22:40:36.31
>>726
参加しとるわ、あほ。
もう一度、>>719の配置図にしたがって整理してみる。
植木から山鹿にむかった3小隊が、神宮司助左衛門小隊・嶺崎半左衛門小隊・石原市郎右衛門小隊。
植木から木葉にむかった3小隊が、園田武一小隊・平野正介小隊・国分寿助小隊。
左翼の植木迂回隊というのが、松下助四郎小隊・橋口成一小隊の2隊。
総勢1,600。
0730日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 22:57:30.44
つづいて、山鹿3小隊の木葉への進行経路であるが、眠くなったので、また明日以降に。
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