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司馬遼太郎 Part13
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0713日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 15:56:29.08
>>701
河原林少尉の遺体の背腰に巻かれた軍旗が差されていたというところが、岩切正九郎の偽証だな。
0714日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 16:04:56.13
村田三介戦死後、兵站の責任者桂久武が、第14連隊の連隊旗は村田一代の武勇のしるしとして遺族に送った。
ここで村田の妻・佐和子(>>456>>457>>458)が登場する。
戦後、連隊旗の行方を捜索していた警察に、佐和子は連隊旗を渡してしまった。
捜索当時に乳児をかかえていた佐和子は、拘留されれば哺乳できないと考えたためである。
https://www.bvd.jp/WordPress/wp-content/uploads/2017/12/pickup08_01.png
0715日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 16:07:01.08
    _  ∩
  ( ゚∀゚)彡 おっぱい!おっぱい!
  (  ⊂彡
   |   | 
   し ⌒J
0717日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 16:16:20.69
>>691
河原林少尉の遺体の発見者は加治木常樹自身。
その加治木は市ヶ谷監獄に収監されるが、偶然にも岩切正九郎と同牢する。
加治木は岩切の話を聞いて、はじめて自分の発見した遺体が河原林少尉の遺体であることを知った。
数奇な話ですなあ。
0718二十三日の木葉 ◆adv/4RR..Q
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2019/03/23(土) 18:23:18.02
【木葉の戦い】(2月23日)
22日夜半、薩軍本営で作戦会議が開かれた(>>643)。熊本城攻撃をこのまま継続するかどうかを話しあい、
当初は篠原の強行策継続が決定したが、遅れてきた野村忍助が反対し、西郷小兵衛や池上四郎らも同調し、会議は紛糾してしまう。
桐野は西郷に決を求め、西郷は強行中止を決断。熊本城を包囲する一方、残りは北上して小倉を強襲することが決定する(>>643の折衷案を訂正)。
0719二十三日の木葉 ◆adv/4RR..Q
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2019/03/23(土) 18:23:53.27
23日に6個小隊が小倉へ向けて出発した。総勢1800名は二手に分かれて植木方面に進出するが、対する乃木の歩兵第14連隊は未だ兵力は完全に集結しておらず、手元には700名ほどしかなかった。
木葉で展開する歩兵第14連隊は8時30分頃より優勢な薩軍と交戦を開始し午後1時頃までは互角に戦っていたが、薩軍右翼の1隊が遠く南回りに回り込んで第14連隊の右翼を脅かした事で連隊は劣勢となる。
それでも夕刻まで持ちこたえた第14連隊は夜陰に乗じての撤退を開始するが、木葉山を大きく迂回してきた薩軍が側面を襲ったことで部隊は総崩れとなり、第14連隊は木葉川を越えて寺田山へと退却する。
この戦いで乃木は第三大隊長であった吉松秀枝少佐など多くの部下を失っている。
http://seinan1877.zouri.jp/ueki/koba.jpg
0720日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 19:07:00.32
司馬さんは、西郷の折衷案を華麗にスルーして、野村忍介の小倉占拠論があたかも22日夜の軍議で決まった内容だというように書かれている。
ちょっと呆れたぞ。
0721日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 19:08:04.12
もともと西郷の折衷案なるものは史実にないのではないか?
0723日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 20:39:55.54
☆ 津森秀実大尉
乃木の第14連隊第3大隊第3中隊長
植木へ将校斥候
0724日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 20:42:33.22
☆ 功力栄植大尉
木葉から高瀬への街道に置かれた中隊の中隊長
0725日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 21:26:05.59
☆ 七本(ななもと)
熊本市北区植木町轟七本
将校斥候と囮を兼ねた津本大尉の20余名は、七本という集落で、薩軍の松下助四郎小隊・石原市郎右衛門小隊・橋口成一小隊と遭遇する。
津本は木葉まで引き返した。木葉の戦闘は、このようにして始まった。
http://kumanago.jp/shugaku/files/ProgramImage/0/ProgramImage_626_image.jpg
※七本官軍墓地ー木葉の戦いで戦死した官軍兵士のみが埋葬されているわけではない。
0726日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 21:38:07.27
>>725
昨夜のうちに植木に着いた三小隊のうちの石原市郎右衛門小隊は、木葉の戦いには参加していないようである。
0727日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 21:46:21.38
上木葉に散兵していた吉松秀枝少佐が射撃を命じたときに最前線にいた薩軍は、いったん境木にまで後退した。
>>725で松下助四郎小隊・橋口成一小隊と書いているのは、司馬さんがそのように書いているからなのだが、
翌々日の連載では、その二小隊は華麗にスルーされて、園田武一小隊長・平野正介小隊長・国分寿助小隊長に替えられている。
境木に後退したときに、松下助四郎小隊・橋口成一小隊が植木から駆けて追いついたことに変えられている。
驚いた。
0729日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 22:40:36.31
>>726
参加しとるわ、あほ。
もう一度、>>719の配置図にしたがって整理してみる。
植木から山鹿にむかった3小隊が、神宮司助左衛門小隊・嶺崎半左衛門小隊・石原市郎右衛門小隊。
植木から木葉にむかった3小隊が、園田武一小隊・平野正介小隊・国分寿助小隊。
左翼の植木迂回隊というのが、松下助四郎小隊・橋口成一小隊の2隊。
総勢1,600。
0730日本@名無史さん
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2019/03/23(土) 22:57:30.44
つづいて、山鹿3小隊の木葉への進行経路であるが、眠くなったので、また明日以降に。
0735日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 19:35:21.92
山鹿三小隊が木葉村の背面に出現したのは、午後1時であった。
そのうちの石原小隊・嶺崎小隊は、大城寺の上の高地に回った。
そこから眼下に展開している官軍に銃弾の雨を注いだ。
0736日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 23:28:08.48
☆ 吉松秀枝少佐の戦死
「援兵の余裕などない。たとえあっても君に分かつべき兵はない。
君がもしここを守らないというなら、私が君に代わって守ろうじゃないか」
「私はただ君のほうに余力があるなら増援してもらいたいと思っただけだ。ここは私が守る。
……しかし言っておくが、足下はその職が連隊長である。宜しく大局を督すべし。久しく此処に留まるべからず」
享年33。
0737日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 23:31:40.76
連隊長が自ら最前線に伝令に走るなど、もはや軍人とはいえないな。
ド素人。
0739日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 23:40:04.09
長州閥がなければ、乃木の立身出世など有りえなかった。
軍人ではなく文官になってもらいたかった人だな。
0740日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 23:45:54.70
援兵の催促に感情的に反応して、最前線に自ら赴く。
器量が小さすぎる。
0745日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 02:13:38.27
乃木はわずか40数人の輜重班(軍人ではなく人夫)に大宮勝武中尉をつけて、全軍の殿軍とした。
0747日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 02:26:01.13
☆ 逃げ遅れた乃木連隊長を庇って戦死した人々
大橋伍長
摺沢静夫少尉試補
0749日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 02:31:04.11
連隊長みずから人夫40人に殿軍を命じるために前線から1q後方に来たバカ。
しかも前線指揮官の吉松少佐は、乃木が稲佐村に来た時点には既に戦死していた。
おまえは吉松に自分が代わって指揮を執ると大口を叩いていなかったか?
0750日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 02:40:37.12
阿呆な連隊長の下、木葉で戦った第14連隊の犠牲者
死者26名 負傷者50名
薩軍の死者 4名
0751浅き春 ◆X8uYhGAXx6
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2019/03/25(月) 10:42:58.45
【熊本協同隊】
☆ 出町学校
2月23日、熊本民権党は熊本城下の出町学校において隊名と隊長を決めた。
熊本市西区出町。
0752日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 10:48:36.27
隊長は平川惟一(のぶかず)
29歳で宮崎八郎より2歳年長であるし、100石取りの上士の家であるから、郷士出身の八郎が隊長になるわけがない。
詳しくは>>629に書いた。
0753日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 10:49:36.13
戦場に女を出入りさせていた八郎が隊長になれるわけがない。
0754日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 10:53:01.00
民権家の女癖が悪いのは、現代だけではなかったんですね(´・∀・`)ヘー
0755日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 10:58:26.29
☆ お浪
陣営に潜んでくる若い婦人というのは、宮崎八郎が熊本に出てくると常宿としていた高瀬屋という宿屋の娘お浪だったそうです。
「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」という美化されたキャッチ・フレーズは勘弁してほしいです。
ただの押しかけ従軍慰安婦です。軍の統制が紊乱するだけです。
「田原坂」では戸川京子。
http://nagomi-web.com/fuhou/fuhou_select/image_fuhou/78togawa_1.bmp
0757日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:01:21.96
民権家は他に褒めるところがないんだけれど、チンコだけはすごいらしいね。
0758日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:07:19.20
>>755
「田原坂」のナレーションも確か「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」みたいな感じだった。
セックスの際の体液の臭さを、花の香で中和しようとするんだろうな。
0759日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:24:13.02
☆ 江上アサ
熊本県出身で日本の元祖料理研究家と言われる江上トミを知っていますか?
昔のNHK「今日の料理」や日本テレビ「キユーピー3分クッキング」でお馴染みだった人です。
江上トミの母親アサは熊本県南関の惣庄屋江上安太の娘でした。
荒尾村の宮崎八郎の許婚者でありました。
0760日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:26:23.49
許婚者がいるにもかかわらず、専用従軍慰安婦(´・∀・`)ヘー
しかも許婚者は家格が上の隣村の惣庄屋の娘(´・∀・`)ヘー
0761日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:28:52.32
高田露(あきら)は、マジでお浪を斬ろうと思っていたらしいな。
0762日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:36:20.25
☆ 種子島彦之丞
西郷のいる本営の護衛隊長。
津本陽の「抜き、即、斬」の主人公。短篇集『人斬り剣奥儀』 (PHP文芸文庫) 所収。
鹿児島では明治になっても決闘がさかんにおこなわれた。
「抜き、即、斬」は、わずか11歳の稚児種子島彦之丞が仲間の稚児をいじめて殺した20歳の二才相良源左衛門に決闘を挑んだ話。
小さいとはいえ、彦之丞は自顕流の抜きの稽古をつんでいた。いじめっ子に敢然とたち向かう彦之丞の勇気がすばらしい。
0763日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:42:46.70
☆ 蒲生彦四郎
西郷本営の狙撃隊長。
薩摩琵琶が得意だった。
0764日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 11:45:14.29
☆ 森友諒
種子島士族で、西南戦争のときは西郷の護衛兵。
従軍記『戦塵録』を残す。
0765日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 12:08:50.88
八郎は一気に書き上げた挙兵趣意書を中根正胤(>>628)に読み聞かせた。
0766日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 14:13:11.40
【熊本攻城戦】
☆ 河東祐五郎
種子島西之表士族。西南戦争に17歳で従軍した。
田原坂の戦いの様子を詳細に記録した「丁丑弾雨日記」を著す。
2月27日に伊倉に退いた西郷軍側の河東祐五郎は、寺院に休泊した。
寝るときは、下に麦わらを敷き上に畳をのせてもぐり込んだが、「堅氷指を墜さんばかりの厳冬なれば苦寒肌に?して通宵眠り得ること能はさりき」。
0767日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 14:21:49.30
2月22日:12門の四斤山砲は攻城戦に未着
2月23日:永山弥一郎が占拠した花岡山(>>631)から砲撃したが射程距離が足りなかった。
http://img01.militaryblog.jp/usr/sat/020GTG.JPG
その後、20ポンド臼砲4門を鹿児島から運び安己橋に据えて砲撃した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/Gribeauval_12_inches_mortar_April_1789.jpg/200px-Gribeauval_12_inches_mortar_April_1789.jpg
0768日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 14:25:03.59
☆ 讃良清蔵
西南の役最後の戦いである城山において、薩摩軍の讃良清蔵という砲隊半隊長が「西郷先生だけでも何とか生き残って欲しい」と熱望しました。
0769日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 14:28:57.09
☆ 岩元平八郎恒成
弘化4年(1847)生まれ。もと近衛砲兵大尉で西南戦争のとき薩摩軍の砲隊長をつとめる。
西郷隆盛にしたがい、城山で明治10年9月24日戦死。31歳。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~iamarock/iwamoto/familyhistory/album/hei1.jpg
0771日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 15:14:00.64
【植木への退却】
23日の木葉の戦いに大勝した後、薩軍は乃木連隊を追撃することなく、驚くべきことだが植木に退却してしまう。
野村の小倉占拠論は、どうなってしまったのだろうか?
薩軍は戦略を立てる参謀なしで戦っている。
0772日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 15:17:39.37
戊辰戦争では進撃する先々で味方が増えた。
この体験が薩軍の戦略を甘いものにしてしまったのだろうな。
明治10年においても士族・農民ともに政府に不満をいだいている。
行く先々で味方が増えると思っていたかもしれない。
そもそも熊本鎮台が西郷に刃を向けるなど、薩軍幹部の誰もが予想していなったわけだし。
0773日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 15:22:33.76
お祭りの鬼が、子供を追っかけまわしているようなものだよ。
子供を追っ払えば、元の位置に戻ってしまう。
薩兵の強さを過信していたのだろうな。
たしかに強いが、戦略はない。戦略不要なまでに薩兵は強いと過信していた。
0774日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 18:12:27.31
戦う気がないのだから、戦略も何もないよ。
戦うことになるかもしれないと予想して、参謀に戦略案を練らせておかなかったのは落度だけどな。
0775日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 18:13:14.18
そんなことをしていたら、篠原に「死を恐れるか?」と睨まれる。
0776日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 19:54:26.28
【先発旅団】
第一旅団:野津鎮雄少将……東京歩兵第1連隊、大阪歩兵第8連隊 
第二旅団:三好重臣少将……参謀長野津道貫大佐、近衛連隊(士族兵)
両旅団とも2,000の兵力。その後、大幅に増員。
2月22日に博多上陸。23日に博多を進発。
0777日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 20:00:11.47
☆ 二日市
福岡県筑紫郡にあった町。現在の筑紫野市の中心部にあたる。「博多の奥座敷」と称される二日市温泉がある。
昭和30年:御笠村・筑紫村・山口村・山家村と合併して筑紫野町が発足。
昭和47年:市制施行により筑紫野市となる。
https://mapio.net/images-p/46247137.jpg
0779日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 20:22:53.44
☆ 彦坂為一大尉
第一旅団の東京鎮台歩兵第1連隊第3大隊第1中隊の中隊長。
24日午前、乃木の連絡将校である渡辺中尉と久留米近辺で出会う。
3月9日には戦死する。
0780日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 03:28:41.43
渡辺中尉から戦況報告を聞いた野津鎮雄少将は、高瀬を奪うことを決意した。
高瀬の会戦は、このようにして初動しはじめた。
なお、野津鎮雄は、明治13年、明治天皇の随行を命ぜられるが、出発前に病に倒れ死去。享年44。
0782日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 05:20:45.86
>>619
ジャパネット高田か?
0783菊池川 ◆gyMWRbq05E
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2019/03/26(火) 10:32:17.96
「西郷を擁し、遠く東京へ乗り込む」などと、地理感覚としても壮大であった彼らの構想は、
熊本城攻めのわずか第一日目の難戦だけでもって、ほとんど忘れられたようになった。
当面の現実――つまり敵という存在――が、彼らの思考を小さくした。
薩軍の思考は、目の前の熊本城にこだわらざるをえず、たとえば熊本城を突き放して遠く小倉方面へゆくという思考もできなくなった。
0784菊池川 ◆gyMWRbq05E
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2019/03/26(火) 10:39:42.36
さらには、政府軍の南下接近という敵状が、かれらの意識を拘束した。
二十二日夜、本営の議論が分裂したために西郷が裁定して決定したのは、一部をもって熊本城を抑え、一部をもって近郊に迫る政府軍を迎撃するということであった。
その地理的感覚は熊本近郊を出ず、思考の狭小化は、救いがたいほどのものになっている。
0785菊池川 ◆gyMWRbq05E
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2019/03/26(火) 10:48:51.30
当初、鹿児島を出るときの私学校の政略は西郷軍が東京に迫ることによって満天下の不平士族だけでなく各地の鎮台までが風をのぞみ、
あらそって軍旅に投じ、ゆくにつれて軍勢は雪だるまのように大きくなり、ついには東京を圧倒するに至るというものであった。
ただ、政略は存在したが、それを実現せしめる戦略を持たなかった。
政略はいわば気体のようなものであり、それを固体化するのが戦略であったが、
桐野・篠原らの感覚では、西郷その人こそそのまま戦略であるとしたむきが強かった。
西郷さえ持ち出せば、その圧倒的人気によって、戦略の機能を十分果たしうると思っていた。
0786菊池川 ◆gyMWRbq05E
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2019/03/26(火) 10:59:34.31
要するに、桐野・篠原らは西郷という世間的価値に、世間以前にまず自分たちがまばゆく眩んでしまったということであろう。
このために常識的な意味での政略も戦略も考えなかった。
そのため、眼前の戦術的対象にすぎない熊本城に捉われてしまったとき、政略も戦略も霧のように消えた。
せっかく木葉を占領しながら、さらに兵を進ませることなく慌てて植木まで撤退させたのも
薩軍がたんなる戦術部隊に堕ちてしまっている証拠であり、
さらには菊池川を渡って高瀬を占領しておくこともせず、結局は政府軍が高瀬を占領してからやっと兵を繰り出すという形になった。
0788日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 11:35:24.74
西南戦争を調べていると、薩軍の熊本城への拘泥の理由は、おれたちの頭でも何となくは理解できる。
しかしそれを文章化しようと思うと、プロの物書きにはかなわないなあ。
0789日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 11:47:10.25
【山鹿の戦い】
山鹿口における24日間の攻防
西南の役の主な戦場としては田原坂が有名であるが、その田原坂の戦闘と並行して山鹿でも2月26日から3月21日までの24日間、薩軍・官軍の激しい攻防が繰り広げられていた。
南下してきた官軍が田原坂に次ぐ第二のルートとして山鹿から熊本に抜ける豊前街道(小説では山鹿街道)を選んだことは当然であり、そこで行なわれた戦闘が激しかったことは容易に想像できる。
0790日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 11:53:47.76
☆ 山鹿
12世紀中頃、山鹿温泉の発見により、温泉町として発展を始める。
中世には菊池氏が地域一帯を支配するが、菊池氏の没落後、めまぐるしく変動する。
江戸時代には参勤交代の道となる「豊前街道」が整備され、熊本藩・人吉藩・薩摩藩がこの道を往来した。
市制施行は昭和29年。「ゴジラ」封切りの年である。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1475735115972/simple/161014101100_0.jpg
http://matinami.o.oo7.jp/kyusyu-okinawa/yamagasitop.JPG
0791日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 12:01:24.46
☆ 豊前街道
肥後熊本を起点として北上し、植木・山鹿から南関を経て豊前小倉に至る道を熊本では「豊前街道」と呼んでいます。
近世になってこの街道は参勤交代の道として栄え、大名行列の宿場町として土地固有の産業や文化が育ってきました。
昔から湯のまちであった山鹿は宿場町として栄え、重厚な貫禄が町並みに残っています。
https://lh3.googleusercontent.com/-ZY3zwLAcljY/WQ1igSfOD-I/AAAAAAABJcI/QBy7LhqoOTAwjokm0h7AQhMme-dWfiq7gCE0/s1024/IMG_20170506_143543.jpg
0792日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 12:10:09.05
兵力が分散していた乃木の第14連隊のうちの二個中隊の兵力は、木葉で乃木が戦っていた2月23日午後1時に山鹿に到着した。
率いていたのは第14連隊第1大隊の大隊長津下弘少佐。
0794日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 12:19:07.78
薩軍は山鹿の第14連隊二個中隊に対応するため、四番大隊から五個小隊(兵力1,000)を、
三番小隊長の野村忍介を臨時の指揮官にして山鹿に進発させた。
道案内は、平川惟一(>>629)の熊本協同隊。
戦場に女を連れ込んだ変態宮崎八郎も同行したようである。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 12:20:26.08
「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」
爆笑!!!
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 12:27:49.71
野村忍介の四番大隊が熊本を出発したのは、23日夜8時。
敗走した乃木が石貫村川床にたどりつこうとしていた頃である(>>778)。
0797日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 12:30:56.16
23日の夜は豪雨のため植木で一泊した。
24日行軍を再開し、山鹿に到着する。
そのとき津下弘少佐の部隊は、乃木のいる石貫まで退却していた。
0798日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 12:41:41.05
2月26日の戦闘は、山鹿口の戦いのうちの「第一次鍋田の戦い」と呼ばれる。
すでに南関を占拠した三好重臣の第二旅団が、第14連隊の津下弘少佐に三個中隊と砲兵を与えて、山鹿に進発させた。
結果は薩軍の圧勝。
政府軍の死者41名。薩軍の死者3名。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 13:11:46.28
鍋田の戦いの解説で、政府軍の指揮官を三浦梧楼少将とするものがやけに目に付く。
三浦梧楼は第三旅団長だろう。まだ九州に到着していないんじゃないの?
0800日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 13:44:37.22
【高瀬の会戦】
両軍主力が初の激突。
高瀬は菊池川西岸の街で菊池川を渡る高瀬大橋があり、南関から南下する政府軍にとって、高瀬経由で熊本へ進むルートは、山鹿経由に比べ起伏が緩やかで物資を運ぶには容易であり、高瀬大橋を確保することは必要不可欠であった。
この地を巡って両軍主力は初めて激突することになる。
高瀬の会戦は、2月25日、26日、27日の三日間にわたって行われた。
西南の役の事実上の天王山である。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 13:57:00.16
薩軍主力先鋒は熊本北部へ移動を開始。
24日、4番大隊3番小隊長・野村忍助は5個小隊を率いて山鹿制圧に進軍。
6番大隊長・越山休蔵は3個小隊を率いて植木経由で高瀬東の山部田へ進軍して植木への進路を封鎖。
さらに3番大隊7番小隊長・岩切喜次郎は3個小隊を率いて有明海沿いから小天経由で高瀬へ、
佐々友房ら熊本隊3小隊も吉次峠を越え伊倉へ進み高瀬へ進軍した。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 14:10:18.70
小説の上では退嬰的な薩軍とは対照的に、高瀬の占拠については熊本隊が積極的だったように書かれている。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 14:17:48.52
熊本隊の一番小隊長佐々友房(>>554)が高瀬の対岸の伊倉村に本営を設けたのは、2月24日朝である。
☆ 伊倉村
昭和29年に近隣町村と合併して玉名市となる。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 14:22:31.67
☆ 岩切喜次郎
薩軍3番大隊7番小隊長。
25日午後4時、伊倉にいた薩軍・岩切喜次郎隊が高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まる。これが第一次高瀬会戦である。
0805日本@名無史さん
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2019/03/26(火) 14:26:58.80
☆ 小天(おあま)
小天温泉は、熊本県玉名市天水町小天に位置する温泉である。
夏目漱石の小説『草枕』の舞台「那古井温泉」のモデルとして知られる。
明治29年から熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師として勤めていた漱石は、
翌年暮れ、当時熊本市街から最も近い温泉であったこの地で正月にかけて数日間保養した。
薩軍岩切喜次郎隊が、小天に進出していた。
https://suumo.jp/front/gazo/bukken/090/N010000/img/193/90478193/90478193_0001.jpg
0806高瀬の会戦 ◆5Q6qY7EVr6
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2019/03/26(火) 16:43:18.04
【熊本隊】
学校党。藩校時習館出身者。石取りの上士。
明快な反革命党。士農工商の世に戻せという思想。
2月22日、熊本県権令富岡敬明(よしあき)〔>>566〕に池辺吉十郎(>>551)が出した決起宣言書にその思想が濃厚に表れている。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 16:53:21.94
☆ 高橋長秋
安政5年(1858)生まれ。もと肥後熊本藩士。西南戦争では熊本隊にくわわり政府軍とたたかう。
明治12年同心学舎(現済々黌高)の創立に参加。
その後実業界にはいり、大阪百三十銀行副頭取、肥後銀行頭取などをへて熊本電気を創立した。
昭和4年7月3日死去。72歳。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 17:15:36.83
☆ 時習館
熊本藩第8代藩主細川重賢が宝暦5年(1755)に設立した藩校。
続いて宝暦6年(1756) 重賢は藩の医学校再春館も建てた。
両校とも明治3年に廃校になった。
熊本藩士族の文武両道、質実剛健の気風を育てたとされる。幕末期には横井小楠が時習館に学び塾頭も勤めたが、実学党に鞍替えした。
https://kumamoto.tabimook.com/images/tourism_images/651eca1444c75fb447d5dacf65ee6a80.jpeg
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 17:34:22.15
日本の旧制高校の校風や寮制は、明治19年に第一高等中学校が創設されたとき、
校長の古荘嘉門(ふるしょう かもん)、幹事の高橋長秋(>>807)、舎監の守田愿が、
いずれも熊本時習館の出身だったために、時習館の伝統が強く移植されたことによる。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/26(火) 17:37:28.18
司馬さんが脱線しているところまで詳述しなくていいんじゃないの?
はやく戦をやれよ。
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