司馬遼太郎 Part13
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前スレ
司馬遼太郎 Part12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516287702/ 鍋田の戦いの解説で、政府軍の指揮官を三浦梧楼少将とするものがやけに目に付く。
三浦梧楼は第三旅団長だろう。まだ九州に到着していないんじゃないの? 【高瀬の会戦】
両軍主力が初の激突。
高瀬は菊池川西岸の街で菊池川を渡る高瀬大橋があり、南関から南下する政府軍にとって、高瀬経由で熊本へ進むルートは、山鹿経由に比べ起伏が緩やかで物資を運ぶには容易であり、高瀬大橋を確保することは必要不可欠であった。
この地を巡って両軍主力は初めて激突することになる。
高瀬の会戦は、2月25日、26日、27日の三日間にわたって行われた。
西南の役の事実上の天王山である。 薩軍主力先鋒は熊本北部へ移動を開始。
24日、4番大隊3番小隊長・野村忍助は5個小隊を率いて山鹿制圧に進軍。
6番大隊長・越山休蔵は3個小隊を率いて植木経由で高瀬東の山部田へ進軍して植木への進路を封鎖。
さらに3番大隊7番小隊長・岩切喜次郎は3個小隊を率いて有明海沿いから小天経由で高瀬へ、
佐々友房ら熊本隊3小隊も吉次峠を越え伊倉へ進み高瀬へ進軍した。 小説の上では退嬰的な薩軍とは対照的に、高瀬の占拠については熊本隊が積極的だったように書かれている。 熊本隊の一番小隊長佐々友房(>>554)が高瀬の対岸の伊倉村に本営を設けたのは、2月24日朝である。
☆ 伊倉村
昭和29年に近隣町村と合併して玉名市となる。 ☆ 岩切喜次郎
薩軍3番大隊7番小隊長。
25日午後4時、伊倉にいた薩軍・岩切喜次郎隊が高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まる。これが第一次高瀬会戦である。 ☆ 小天(おあま)
小天温泉は、熊本県玉名市天水町小天に位置する温泉である。
夏目漱石の小説『草枕』の舞台「那古井温泉」のモデルとして知られる。
明治29年から熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師として勤めていた漱石は、
翌年暮れ、当時熊本市街から最も近い温泉であったこの地で正月にかけて数日間保養した。
薩軍岩切喜次郎隊が、小天に進出していた。
https://suumo.jp/front/gazo/bukken/090/N010000/img/193/90478193/90478193_0001.jpg 【熊本隊】
学校党。藩校時習館出身者。石取りの上士。
明快な反革命党。士農工商の世に戻せという思想。
2月22日、熊本県権令富岡敬明(よしあき)〔>>566〕に池辺吉十郎(>>551)が出した決起宣言書にその思想が濃厚に表れている。 ☆ 高橋長秋
安政5年(1858)生まれ。もと肥後熊本藩士。西南戦争では熊本隊にくわわり政府軍とたたかう。
明治12年同心学舎(現済々黌高)の創立に参加。
その後実業界にはいり、大阪百三十銀行副頭取、肥後銀行頭取などをへて熊本電気を創立した。
昭和4年7月3日死去。72歳。 ☆ 時習館
熊本藩第8代藩主細川重賢が宝暦5年(1755)に設立した藩校。
続いて宝暦6年(1756) 重賢は藩の医学校再春館も建てた。
両校とも明治3年に廃校になった。
熊本藩士族の文武両道、質実剛健の気風を育てたとされる。幕末期には横井小楠が時習館に学び塾頭も勤めたが、実学党に鞍替えした。
https://kumamoto.tabimook.com/images/tourism_images/651eca1444c75fb447d5dacf65ee6a80.jpeg ☆ 第一高等中学校
明治19年に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として創設された。
それ以前は大学予備門と呼ばれた。
明治27年以降、第一高等学校に改称された。
現在の東京大学教養学部の前身である。
https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_567515e181f3e8-thumb-autox808-35535.jpg 日本の旧制高校の校風や寮制は、明治19年に第一高等中学校が創設されたとき、
校長の古荘嘉門(ふるしょう かもん)、幹事の高橋長秋(>>807)、舎監の守田愿が、
いずれも熊本時習館の出身だったために、時習館の伝統が強く移植されたことによる。 司馬さんが脱線しているところまで詳述しなくていいんじゃないの?
はやく戦をやれよ。 ☆ 松崎迪(すすむ) / 高島義恭(よしたか)〔>>635〕
2月22日の初戦の後、熊本隊から二名の代表者を西郷の元へ挨拶に送った。
松崎迪(すすむ)は副大隊長。高島義恭(よしたか)は軍監である。 それがしは、
西郷吉之助でございまする
/ ̄ ̄ ̄ ̄~\
< Y三ヽ
/\___ / |へミ|
(へ___ ヽ/ ノ〜zノ
/ /| | <_
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_ノミ)
 ̄ ___
/ ノ '' ⌒\ 今夜、敬神党が抜刀して城内に突入します
/ ( ● ) (● )\
/ :::::⌒ 、_ ゝ⌒:::::\ (⌒)
| - | ノ ~.レ-r┐、
\ / ノ__ .| | | |
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/ __ ヽ |  ̄`ー‐---‐‐´
. 〃 ,. --ミ ヽ i |/ハ /
ji/  ̄` ヽ |
. {{ ' /  ̄ ̄ \
/ノ ヽ__ \ まぁ、なんとなく予想はついてたお。
/(―) (― ) \ 敬神党だと勘違いされてたんだお。
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\ `⌒ ´ ,/
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(_) (__ ノ l
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!、___!、_____つ
池辺吉十郎 >>802
薩人のことを書くと意気込んで執筆を始めたものの、西南の役の薩人には西郷を筆頭に魅力的な人物がいない。
新たなヒーローを求めて肥後人について書こうと思ったが、チンポ八郎にはがっかりしてしまう。
そこで目を付けたのが、佐々友房なんだろうな。 むしろ政府軍の側にヒーローが多い。
歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐(>>563)、
歩兵第14連隊第3大隊大隊長吉松秀枝少佐(>>736)等々。 >>817
「はじめに」で描かれた桐野利秋は颯爽としていたのにな。
しかし調べていくうちにバカだとわかったので、西南戦争が始まる頃には野村忍介を中心に書こうかという模索の跡が伺える。 【第一次高瀬会戦】(2/25)
午後4時、小天にいた薩軍・岩切喜次郎隊が(>>805)高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まった。
岩切隊は、迫間の乃木隊を圧倒して展開。熊本隊も伊倉(野部田山)から進んで菊池川を渡り、繁根木の乃木隊を攻めた。
乃木隊は後退したが、長谷川好道中佐の4個中隊が駆けつけて対抗。
増援の出現に熊本隊は迂回してこれを攻めようとしたが、察知され撃退されている。
戦闘は日没となって二時間あまりで終了。薩軍はは熊本隊は寺田山、岩切隊は伊倉へ撤退した。
http://seinan1877.zouri.jp/takase/takase1.JPG ☆ 岩切喜次郎
ネットよりも「翔ぶが如く」の方が詳細なので、小説から引用する。
はじめ近衛陸軍少尉であったが、ほどなく警視庁に転籍した。
明治6年の政変で警視庁を辞職し、鹿児島に帰って区長になった。37歳。
岩切四兄弟:喜之進→善次郎→勇之進→吉蔵 〈政府軍〉1,200
東京鎮台の歩兵第1連隊第3大隊 中隊長彦坂為一大尉(>>779・>>781)
木葉で大敗した小倉の歩兵第14連隊の敗残兵
〈肥薩軍〉
岩切隊600
佐々隊300 ☆ 千田の渡し
佐々隊が菊池川の渡河に使った千田の渡し。
画像は昭和41年のものであるから、昭和41年はまだ現役だった。
この手の渡し船は、昭和40年代にはほぼ消滅した。
わたしが戻りたいのは渡し船があった昭和40年代であって、肥溜めのあった昭和40年代ではない。
https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1966/1966090004.jpg 敗残の乃木連隊は、迫間と繁根木にいたようだ。
☆ 迫間
玉名市両迫間……高瀬大橋を渡り右にある →岩切隊に撃破される
☆ 繁根木(はねぎ)
玉名市繁根木……高瀬大橋を渡り左にある →佐々隊に撃破される >>823
乃木隊の渡辺中尉との邂逅場面では中隊長彦坂為一大尉しか登場しなかったが。
高瀬の会戦には、直属上官である大隊長長谷川好道中佐も来ているようだな。
☆ 長谷川好道
長州藩の支藩岩国藩の藩士の子。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などで善戦した。
明治37年に陸軍大将、同45年に参謀総長、大正5年に朝鮮総督に就任。
三・一独立運動を武力鎮圧した。
http://bunka.pref.yamaguchi.lg.jp/ishin/img/item_img/C02400342901J.jpg 政府軍は退却戦術をとった。自軍の長所である射撃戦に徹するためである。
☆ 立願寺村 玉名市立願寺
☆ 岩崎原(ばる)玉名市岩崎 戦いたけなわの頃、大阪第8連隊の二個中隊400が南関から高瀬に到着した。
葛原山から射撃を始めた。 佐々友房隊が八幡山を奪取しようと動いたときに、大阪の歩兵第8連隊に阻止され、肥薩軍は退却した。 ____
/ \
/ ─ ─\
/ (●) (●) \ 敗けてないじゃん、八連隊
| (__人__) |
/ ∩ノ ⊃ /
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ / 八連隊に敗けるようでは、佐々友房にもヒーローの資質はない。 >>827
小説では、翌日の第二次高瀬会戦のところで初めて名前が出てくる。
25日はいまだ南関にいるかのような書き方なんだが。 >>833
第二次高瀬会戦は、前日の面子で戦われている。
桐野・篠原や長谷川好道が登場する大会戦は、2月27日の第三次高瀬会戦。 25日・26日の戦いは前哨戦。
27日の戦闘が兵数・戦死者数からいって高瀬の会戦と呼ぶにふさわしい本戦。 ということで小説の流れとは離れてしまいますが、先に26日の第二次高瀬前哨戦について書きます。
小説の流れは、27日の第三次高瀬会戦の作戦計画について先に書いて、その途中に26日の第二戦を挟むという流れになっています。 【第二次高瀬会戦】(2/26)
26日早朝から政府軍の第2旅団は旅団本営を南関から高瀬の北の石貫まで移動し乃木隊を統合した。
さらに薩軍の展開が手薄とみて攻撃を決定し、約1,600の兵で菊池川を渡河する。
薩軍は川部田の越山休蔵隊(>>521・>>801の山部田・ここの川部田はともに玉名市にある地名)、
寺田山の佐々友房隊、伊倉の岩切喜次郎隊が迎え撃った。
http://seinan1877.zouri.jp/takase/takase2.JPG 迫間から菊池川を渡った乃木隊約500名は、薩軍・越山休蔵隊へ攻め込んだ。
越山隊は乃木隊のほかに知識中隊(近衛歩兵第1連隊第2大隊第2中隊の知識兼治大尉)の攻撃も受けて防ぎきれず、昼頃には木葉へ敗走する。 さらに第2旅団本隊から約1,000の兵が菊池川を渡河する。二手に別れ熊本隊(佐々隊)・岩切隊各隊を攻撃した。
両軍は初め拮抗した戦いを繰り広げたが、越山休蔵隊を駆逐した知識兼治中隊が、熊本隊側面を攻撃しはじめた頃から薩軍は戦線を維持できなくなり、植木・伊倉方面へ撤退した。
本文に書かれている池辺吉十郎の熊本隊主力1,000が吉次越をこえて白木村に達したときの戦況は、以上のようなものである。 乃木隊は越山休蔵隊を追撃して木葉を抜け田原坂まで攻めた。
乃木は田原坂は戦略上重要と考えて、田原坂確保のための増援を第2旅団本営へ要請したが、
司令長官三好重臣少将は撤退命令を発し、乃木隊はやむなく撤退し、他の部隊とさらなる敵の来襲に備えて高瀬の守りを固めた。 三好少将は薩軍主力が後方に控える中で、高瀬〜田原坂までの広い地域に兵を分散させるにはまだ体勢不足と判断したものであろう。
しかし、三好少将のこの判断ミスが、田原坂で壮絶な激戦を呼ぶことになり、征討軍に苦戦を強いることになった。 ___
/ \
/ \ 乃木希典は、やればできる子
/ ⌒ ⌒ \
| /// (__人__) /// |
. (⌒) (⌒)
./ i\ /i ヽ >>841
判断ミスは言い過ぎ。
政府軍が少ない兵力で田原坂を占拠していたら、乃木は翌日戦死していたはず。 ☆ 白木村
熊本県玉名郡玉東町白木
白木村は田原坂の西、木葉の南に位置する。
https://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/00000000000003226193/003226193-1/003226193-1_im.jpg
池辺吉十郎の熊本隊主力1,000は吉次越をこえたが、政府軍はすでに菊池川以東に進出しており、白木村より西には進軍できなかった。 ☆ 寺田山
玉名市に寺田という小字はあるが、寺田山は地図に載っていない。
地図をみると小さな丘陵らしきものはある。
画像に写っている山ではない。寺田のバス停の写真を貼りたかっただけだ。
http://pic4.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/2/0/4/2700000000000085402/0000003137/2700000000000085402_0000003137_8_s.jpg
寺田山は26日の戦闘前は、熊本佐々友房隊が陣地にしていたが、その日の午後には政府軍に奪われた。 おまえは玉名市民でも知らないようなローカルな小字の話をしているのがわかってんのか? ☆ 児玉強之助(>>521)
昨日の岩切喜次郎小隊長に代わって指揮を執る。
郷士隊である独立第二大隊の大隊長。
なお独立第一大隊の大隊長は越山休蔵(>>837)。 >>847
大字は知っていて当たり前です。
調べる快感があるのは、小字です。 覚える気持ちがまったくないのは、平成時代に合併してできた市町村です。 部隊編成は第二旅団を中心に行われた。
司令官:三好重臣少将
第一軍:高瀬→木葉→植木へ進出する主力軍
第二軍:玉名村で右折→川部田→木葉→植木
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e4/Miyoshi_Shigeomi.jpg 〈第一軍〉
前駆:乃木希典少佐……第14連隊のうちの4個中隊
中軍:迫田鉄五郎大尉(第3大隊大隊長心得)……東京第一連隊のうちの2個中隊
後軍:大迫大尉・知識兼治大尉……近衛第一連隊のうちの4個中隊 近衛第一連隊の名簿からは大迫大尉の名前を見つけ出せなかった。
熊本城籠城軍のなかに同階級の大迫尚敏(なおはる)大尉がいるが、負傷しているので別人(>>565)。 〈第二軍〉
指揮官:長谷川好道中佐(>>827)
近衛第一連隊の2個中隊
大阪第八連隊の2個中隊 〈山鹿方面守備隊〉
第14連隊の津下弘少佐は、2月26日に「第一次鍋田の戦い」で薩軍の野村忍介隊(5個小隊)に敗れている(>>794・>>798)。 乃木希典の第一軍前駆は、石貫で宿営していた。
2月26日午前4時に高瀬に進出し、第二次高瀬会戦を起きる(>>837)。 >>827
長谷川好道中佐は、南関にいたはずだ。
第一連隊第三大隊は、彦坂為一大尉が率いていた。 >>789
「山鹿の戦い」を高瀬の会戦より前に、しかも独立した戦闘と受け取られるような書き方をしたのは失敗だったな。
高瀬の会戦の一環として生起した戦いだからな。 初読のとき電車で地図なしで読んでいたから、山鹿と高瀬はものすごく離れた場所にあると勘違いしていた。
司馬さんの書き方だと、双方の戦いは無関係に起きたような誤解を与えるね。 先に薩軍の勝利をまとめて描いて、後で薩軍の敗北をまとめて描いたんだよ。
勝利の相手はいずれも乃木の第14連隊。
高瀬の第三戦の大敗北の相手は、近衛第1連隊が核になった政府軍の大軍だった。 【三面合撃】
26日夕刻、薩軍幹部が率いる3部隊が熊本を進発した。
中央隊篠原国幹、右翼隊桐野利秋、左翼隊村田新八の率いる選りすぐった精鋭総勢2,800。
3隊長は高瀬の政府軍を三面から攻撃することを打ち合わせ、桐野隊は山鹿経由で高瀬北側より攻め、篠原が植木経由で高瀬の西から、吉次峠から伊倉へ抜ける村田隊は高瀬の南より攻める手はずであった。
高瀬の第2旅団は南関から後続の部隊も到着し、近衛第1連隊や大阪第8連隊を中核として総勢約4,000。
船島(高瀬の北)に旅団本営を進め、薩軍の攻撃に備えていた。
http://seinan1877.zouri.jp/takase/takase3.JPG ☆ 大窪
26日午後6時に熊本城下の出町を出発した薩軍3隊は、一時間後の大窪村で大休止した。
上記の作戦は、そこで立てられたものである。
現在は熊本市北区大窪。
https://www.daikyo-anabuki.co.jp/image/o/buy/photo/OAE13197.jpg 【山縣有朋】
☆ スナイドル銃
イギリスのエンフィールド造兵廠(RSAF)が、前装式ライフル銃であるエンフィールド銃を改造した後装式小銃である。
日本では蘭語読みで「スナイドル」と呼ばれるが、英語読みでは「スナイダー」で、これは機関部を考案したジェイコブ・スナイダー (Jacob Snider) の名に由来する。
日本陸軍が草創期から三十年式歩兵銃を制式とするまで使用し続けた小銃としても有名である。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170210_970252.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170209_969998.jpg ☆ ミニエー銃
薩軍が主として用いた銃。
雷管式の前装式ライフル銃である。1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
スナイドル銃と比較すると15年ほど昔の銃と思えばよい。
https://pbs.twimg.com/media/DlhkzRaUYAAqL8e.jpg 明治10年における日本陸軍の常備兵力……32,000。
そこで士族を徴募して巡査にし、彼らを戦場へ送り込んだ。
その結果、西南戦争を通じての政府軍の総動員数……51,800。
ちなみに西南戦争を通じて政府軍が消費した小銃弾総数……34,893,500発。 ☆ 旅団
師団と連隊の中間にある部隊の単位。旧日本陸軍では、二個あるいは四個の連隊で組織され、歩兵旅団、騎兵旅団、野砲兵旅団、重砲兵旅団などがあった。
戦術単位としては最大の部隊。
西南戦争の時期に作られた新語であるが、所定の地域に駐屯していれば「鎮台」、それが移動中であれば「旅団」という感覚で、厳密に兵数が決まっていたわけではない。 【2月27日】
☆ 近衛師団
明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。
そのため明治4年、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。
この御親兵は、明治5年に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城の守護」という任務が課せられた。
https://pbs.twimg.com/media/CSA4rPVUwAEuqnn.jpg >>722
三好重臣は、玉名村から偵察隊を出して、木葉山に登らせた(>>722)。
国見山、金毘羅山(>>733)、木葉山の位置関係。上が北です。
▲
▲ 金比羅山 味取
国見山 五両
▲
木葉山 境木 田原坂
木葉 植木 三好重臣少将は、菊池川に架かる高瀬大橋を破壊し、堤防に沿って、
東京第一連隊の二個中隊
大阪第八連隊の一個中隊
小倉第14連隊の一部
近衛第一連隊の四個中隊を配置した(>>855)。 ☆ 加世田弥八郎
薩軍一番大隊二番小隊半隊長
薩軍の小隊は帝国陸軍の中隊に相当する。つまり歩兵四個小隊200名の兵力。
そこで「半隊長」という職を設け100名の兵を統率させている。 ☆ 迫間(>>820)
三好重臣は、高瀬の2q上流にある迫間に砲床を築かせ、同時にそこを総指揮所にした。
三好は最前線で指揮をする豪胆な将であった。
迫間の対岸が川部田(>>837)。 ☆ 坂元伸太郎(司馬は申太郎とする)
薩軍一番大隊四番小隊長。
川部田から迫間へ渡河しようと試みるが、逆に菊池川東岸に渡河した近衛第一連隊の知識兼治大尉(>>838・>>839・>>855)率いる中隊に敗れる。
坂元伸太郎は頭を撃ち抜かれて即死。 ☆ 知識兼治大尉
昨日の高瀬第二戦から引き続き大活躍の知識兼治大尉であるが、歴史家・小説家の注目度は低い。
知識大尉は薩軍坂元小隊との戦闘で敵弾が太腿を貫通し、この負傷を契機に菊池川を再び渡河し迫間に退却した。 ☆ 内田の渡し
熊本県玉名郡菊水町内田。
山鹿市にも上内田・下内田があるが、本文に書かれた高瀬から12qの上流というと、菊水町の内田である。
桐野隊は、内田で菊池川を渡河し、政府軍と激突する。
http://5.travel-way.net/~niemon/kumamoto/kikusuimati/dotyu/arch2.jpg
https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1961/1961110029.jpg ☆ 稲荷山
午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある征討軍の背後連絡線を攻撃した。
この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(第1旅団長の野津鎮雄少将の実弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。
この山を占領した征討軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。
稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている。 堀新次郎……四番大隊一番小隊小隊長 →敵の背後へ迂回
別府九郎……二番大隊(村田大隊)十番小隊長
重久雄七……二番大隊(村田大隊)三番小隊長 ☆ 遥拝宮(ようはいぐう)
玉名大神宮の別名。
菊池川右岸の玉名平野北側にあり、周辺は「元玉名」と呼ばれる。
天照大神、景行天皇、阿蘇の四神、玉依姫とその両親である菊池将監則隆夫妻を祭ってある。
日本書紀には、景行天皇が九州遠征の時に玉杵名の土蜘蛛を討伐した記事がある、社伝によると、その時地元勢力の中尾玉守が天皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられている。
https://www.city.tamana.lg.jp/pub/4147_filelib_5c0da8714d6af8e16f012fa564d22d0a.jpg 遥拝宮は乃木希典が守備していたが、桐野は別府九郎隊と重久雄七隊に遥拝宮を挟撃させ、乃木を敗走せしめた。 堀新次郎隊の敗北により、桐野右翼軍は戦術的機能を失い、戦場に漂うだけの存在に堕ちた。 ☆ 西郷小兵衛
西南戦争に参加して薩軍第一大隊第一小隊長を務める。明治10年2月27日、肥後国高瀬河南の戦いにて官軍の銃弾を受けて戦死した。享年31。
https://pbs.twimg.com/media/Dqw6rbiUwAEaDkB.jpg ☆ 浅江直之進
一番大隊三番小隊長
諱は真誠。木留で戦没する。享年30。 ☆ 相良吉之助
一番大隊六番小隊長
戊辰戦争では九番隊。九番隊は慶応四年五月六日朝に淀方面で有力な幕府軍と遭遇した。
激しい銃撃でたちまち一名が即死、四名が深傷を負わされた。
軍医高木兼寛は、これらの負傷者の応急手当をしながらも、指揮者の監軍「相良吉之助」と野崎平左衛門が少しもめげることなく兵を励まして突撃するのを眼にした。
隊員は銃砲火の中を番兵が追って進撃し、強力な砲台を占領することに成功した。
以上は、吉村昭著「白い航跡」から ☆ 岩崎原(ばる)
25日の高瀬第一戦で、政府軍が退却した地点名として登場した(>>828)。
玉名市岩崎
高瀬大橋を渡ると繁根木(はねぎ)の町がある(>>826)。
その西隣が岩崎原である。 ☆ 観音丘
岩崎原にある小さな丘らしい。
西郷小兵衛ら三小隊は、観音丘を占拠して攻撃拠点にした。 三好重臣は大阪第8連隊のうちの一個大隊を岩崎原方面に向かわせたが、小兵衛らの3小隊は、これを追い散らした。
第8連隊は、繁根木村と永徳寺村を焼き払って、北方の南関街道や葛原山(こうずばる)をめざして逃げた。
葛原山は25日の高瀬第一戦で第8連隊が射撃拠点にした場所である(>>829)。位置は>>864の地図を参照せよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています