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司馬遼太郎 Part13
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0855日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 12:57:03.38
〈第一軍〉
前駆:乃木希典少佐……第14連隊のうちの4個中隊
中軍:迫田鉄五郎大尉(第3大隊大隊長心得)……東京第一連隊のうちの2個中隊
後軍:大迫大尉・知識兼治大尉……近衛第一連隊のうちの4個中隊
0856日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 13:00:16.78
近衛第一連隊の名簿からは大迫大尉の名前を見つけ出せなかった。
熊本城籠城軍のなかに同階級の大迫尚敏(なおはる)大尉がいるが、負傷しているので別人(>>565)。
0857日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 13:03:11.47
〈第二軍〉
指揮官:長谷川好道中佐(>>827
近衛第一連隊の2個中隊
大阪第八連隊の2個中隊
0858日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 13:08:37.42
〈山鹿方面守備隊〉
第14連隊の津下弘少佐は、2月26日に「第一次鍋田の戦い」で薩軍の野村忍介隊(5個小隊)に敗れている(>>794>>798)。
0859日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 13:11:40.10
乃木希典の第一軍前駆は、石貫で宿営していた。
2月26日午前4時に高瀬に進出し、第二次高瀬会戦を起きる(>>837)。
0860日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 14:01:41.01
>>827
長谷川好道中佐は、南関にいたはずだ。
第一連隊第三大隊は、彦坂為一大尉が率いていた。
0861日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 14:11:35.68
>>789
「山鹿の戦い」を高瀬の会戦より前に、しかも独立した戦闘と受け取られるような書き方をしたのは失敗だったな。
高瀬の会戦の一環として生起した戦いだからな。
0862日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 14:14:20.65
初読のとき電車で地図なしで読んでいたから、山鹿と高瀬はものすごく離れた場所にあると勘違いしていた。
司馬さんの書き方だと、双方の戦いは無関係に起きたような誤解を与えるね。
0863日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 15:24:22.49
先に薩軍の勝利をまとめて描いて、後で薩軍の敗北をまとめて描いたんだよ。
勝利の相手はいずれも乃木の第14連隊。
高瀬の第三戦の大敗北の相手は、近衛第1連隊が核になった政府軍の大軍だった。
0864日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 15:32:26.91
【三面合撃】
26日夕刻、薩軍幹部が率いる3部隊が熊本を進発した。
中央隊篠原国幹、右翼隊桐野利秋、左翼隊村田新八の率いる選りすぐった精鋭総勢2,800。
3隊長は高瀬の政府軍を三面から攻撃することを打ち合わせ、桐野隊は山鹿経由で高瀬北側より攻め、篠原が植木経由で高瀬の西から、吉次峠から伊倉へ抜ける村田隊は高瀬の南より攻める手はずであった。
高瀬の第2旅団は南関から後続の部隊も到着し、近衛第1連隊や大阪第8連隊を中核として総勢約4,000。
船島(高瀬の北)に旅団本営を進め、薩軍の攻撃に備えていた。
http://seinan1877.zouri.jp/takase/takase3.JPG
0866日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 15:45:02.07
【山縣有朋】
☆ スナイドル銃
イギリスのエンフィールド造兵廠(RSAF)が、前装式ライフル銃であるエンフィールド銃を改造した後装式小銃である。
日本では蘭語読みで「スナイドル」と呼ばれるが、英語読みでは「スナイダー」で、これは機関部を考案したジェイコブ・スナイダー (Jacob Snider) の名に由来する。
日本陸軍が草創期から三十年式歩兵銃を制式とするまで使用し続けた小銃としても有名である。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170210_970252.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170209_969998.jpg
0867日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 15:49:41.21
☆ ミニエー銃
薩軍が主として用いた銃。
雷管式の前装式ライフル銃である。1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
スナイドル銃と比較すると15年ほど昔の銃と思えばよい。
https://pbs.twimg.com/media/DlhkzRaUYAAqL8e.jpg
0869日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 16:02:10.53
明治10年における日本陸軍の常備兵力……32,000。
そこで士族を徴募して巡査にし、彼らを戦場へ送り込んだ。
その結果、西南戦争を通じての政府軍の総動員数……51,800。
ちなみに西南戦争を通じて政府軍が消費した小銃弾総数……34,893,500発。
0872日本@名無史さん
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2019/03/29(金) 16:20:26.09
☆ 旅団
師団と連隊の中間にある部隊の単位。旧日本陸軍では、二個あるいは四個の連隊で組織され、歩兵旅団、騎兵旅団、野砲兵旅団、重砲兵旅団などがあった。
戦術単位としては最大の部隊。
西南戦争の時期に作られた新語であるが、所定の地域に駐屯していれば「鎮台」、それが移動中であれば「旅団」という感覚で、厳密に兵数が決まっていたわけではない。
0873日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 13:13:35.72
【2月27日】
☆ 近衛師団
明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。
そのため明治4年、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。
この御親兵は、明治5年に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城の守護」という任務が課せられた。
https://pbs.twimg.com/media/CSA4rPVUwAEuqnn.jpg
0874日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 13:32:11.71
>>722
三好重臣は、玉名村から偵察隊を出して、木葉山に登らせた(>>722)。
国見山、金毘羅山(>>733)、木葉山の位置関係。上が北です。
         ▲
 ▲     金比羅山   味取
国見山            五両

 ▲
木葉山  境木  田原坂   

 木葉            植木
0875日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 14:10:16.41
三好重臣少将は、菊池川に架かる高瀬大橋を破壊し、堤防に沿って、
東京第一連隊の二個中隊
大阪第八連隊の一個中隊
小倉第14連隊の一部
近衛第一連隊の四個中隊を配置した(>>855)。
0877日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 14:27:51.62
☆ 加世田弥八郎
薩軍一番大隊二番小隊半隊長
薩軍の小隊は帝国陸軍の中隊に相当する。つまり歩兵四個小隊200名の兵力。
そこで「半隊長」という職を設け100名の兵を統率させている。
0878日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 14:34:35.57
☆ 迫間(>>820
三好重臣は、高瀬の2q上流にある迫間に砲床を築かせ、同時にそこを総指揮所にした。
三好は最前線で指揮をする豪胆な将であった。
迫間の対岸が川部田(>>837)。
0879日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 14:44:32.52
☆ 坂元伸太郎(司馬は申太郎とする)
薩軍一番大隊四番小隊長。
川部田から迫間へ渡河しようと試みるが、逆に菊池川東岸に渡河した近衛第一連隊の知識兼治大尉(>>838>>839>>855)率いる中隊に敗れる。
坂元伸太郎は頭を撃ち抜かれて即死。
0880日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 14:49:26.63
☆ 知識兼治大尉
昨日の高瀬第二戦から引き続き大活躍の知識兼治大尉であるが、歴史家・小説家の注目度は低い。
知識大尉は薩軍坂元小隊との戦闘で敵弾が太腿を貫通し、この負傷を契機に菊池川を再び渡河し迫間に退却した。
0881日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 16:37:37.03
【桐野右翼隊】
薩軍の右翼隊は27日未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の征討軍左翼を攻撃した。
桐野は、山鹿に10小隊を残置して3小隊(兵600)のみ率いて戦った。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/18/58dbca20462334ade0b81be43bbedfd6.jpg
平川惟一(>>629)の協同隊は桐野隊の嚮導である。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/276/38/N000/000/033/148748996453668056178.jpg
0883日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 17:07:00.53
☆ 月田
熊本県玉名市月田
桐野隊は川沿いの道をそのまま南下して高瀬の戦場に向かった。
月田からは東西に山道が拓けていて、そこを進めば石貫村に出て、石貫村から南下すれば政府軍の背後を衝けた。
桐野は、その作戦をとらなかった。
※バス停月田三差路
http://pic3.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/8/8/3/2700000000000085388/0000003137/2700000000000085388_0000003137_7.jpg
http://pic1.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/8/8/3/2700000000000085388/0000003137/2700000000000085388_0000003137_6.jpg
0885日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 17:34:46.51
☆ 稲荷山
午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある征討軍の背後連絡線を攻撃した。
この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(第1旅団長の野津鎮雄少将の実弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。
この山を占領した征討軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。
稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 17:52:35.96
堀新次郎……四番大隊一番小隊小隊長 →敵の背後へ迂回
別府九郎……二番大隊(村田大隊)十番小隊長
重久雄七……二番大隊(村田大隊)三番小隊長
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 17:59:20.11
☆ 遥拝宮(ようはいぐう)
玉名大神宮の別名。
菊池川右岸の玉名平野北側にあり、周辺は「元玉名」と呼ばれる。
天照大神、景行天皇、阿蘇の四神、玉依姫とその両親である菊池将監則隆夫妻を祭ってある。
日本書紀には、景行天皇が九州遠征の時に玉杵名の土蜘蛛を討伐した記事がある、社伝によると、その時地元勢力の中尾玉守が天皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられている。
https://www.city.tamana.lg.jp/pub/4147_filelib_5c0da8714d6af8e16f012fa564d22d0a.jpg
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 18:02:05.55
遥拝宮は乃木希典が守備していたが、桐野は別府九郎隊と重久雄七隊に遥拝宮を挟撃させ、乃木を敗走せしめた。
0891日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 22:00:38.19
堀新次郎隊の敗北により、桐野右翼軍は戦術的機能を失い、戦場に漂うだけの存在に堕ちた。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 22:30:47.16
☆ 浅江直之進
一番大隊三番小隊長
諱は真誠。木留で戦没する。享年30。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 22:35:21.59
☆ 相良吉之助
一番大隊六番小隊長
戊辰戦争では九番隊。九番隊は慶応四年五月六日朝に淀方面で有力な幕府軍と遭遇した。
激しい銃撃でたちまち一名が即死、四名が深傷を負わされた。
軍医高木兼寛は、これらの負傷者の応急手当をしながらも、指揮者の監軍「相良吉之助」と野崎平左衛門が少しもめげることなく兵を励まして突撃するのを眼にした。
隊員は銃砲火の中を番兵が追って進撃し、強力な砲台を占領することに成功した。
以上は、吉村昭著「白い航跡」から
0896日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 22:39:28.50
これら3小隊は、村田の命により、高瀬大橋から3q下流の大浜津から菊池川を渡った。
☆ 大浜津
玉名市大浜町
https://4.bp.blogspot.com/-afRI_E3Ixn0/Wy3n4xprkTI/AAAAAAAAySo/ao9Apnk1Ph0UXy3opngA5h-6U3Frnie8wCLcBGAs/s1600/20180623-%25E7%258E%2589%25E5%2590%258D%25E5%25B8%2582%25E5%25A4%25A7%25E6%25B5%259C%25E7%2594%25BA%2B01.JPG
https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1954/1954100024.jpg
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 22:46:12.40
☆ 岩崎原(ばる)
25日の高瀬第一戦で、政府軍が退却した地点名として登場した(>>828)。
玉名市岩崎
高瀬大橋を渡ると繁根木(はねぎ)の町がある(>>826)。
その西隣が岩崎原である。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 22:51:16.46
☆ 観音丘
岩崎原にある小さな丘らしい。
西郷小兵衛ら三小隊は、観音丘を占拠して攻撃拠点にした。
0899日本@名無史さん
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2019/03/30(土) 23:03:26.87
三好重臣は大阪第8連隊のうちの一個大隊を岩崎原方面に向かわせたが、小兵衛らの3小隊は、これを追い散らした。
第8連隊は、繁根木村と永徳寺村を焼き払って、北方の南関街道や葛原山(こうずばる)をめざして逃げた。
葛原山は25日の高瀬第一戦で第8連隊が射撃拠点にした場所である(>>829)。位置は>>864の地図を参照せよ。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 23:10:32.04
☆ 永徳寺
西郷小兵衛は、熊本城の攻撃に参加したあと、2月27日の高瀬攻略に加わり、相良吉之助、浅江直之進の小隊とともに下流の大浜津へ迂回、渡河して岩崎原の第八連隊を攻撃、西郷は右翼から衝いた。
官軍は繁根木に放火して、立願寺村の葛原山(こうずばる)へ退く。しかし第一連隊や近衛兵が応援に駆けつける。
近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂へ出た西郷隊の背後の三池往還に官軍が突出し、西郷隊は退路が断たれた。
2連発の愛用のピストルで応戦中、銃弾が飛来して西郷の左胸に当たる。
永徳寺の堤防に退避、焼け残った民家橋本鶴松方の雨戸を1枚借り受け、桃田・吉次峠を経て、北岡の西郷隆盛の本営に運ぶが、途中で絶命した。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 23:17:21.57
近衛兵がいた繁根木八幡宮は、現在の熊本地方裁判所の南東にある。
http://img01.otemo-yan.net/usr/yumeko2/20100624_123053.jpg
すぐ傍に、いだてん大河ドラマ館がある。
https://beautiful-world-kyushu.com/wp-content/uploads/2019/01/idaten_taiga.jpg
https://www.city.tamana.lg.jp/pub/50828_filelib_7020e89e36c91abc75cdd8bb6a9fe884.JPG
https://www.city.tamana.lg.jp/pub/50839_filelib_b3c10690d4f45ce48593ff8c2a3ac83c.JPG
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 23:22:37.74
永徳寺村は、高瀬大橋の南を走る鹿児島本線の鉄橋の南、菊池川の川沿いの町である。
被弾した小兵衛をまず永徳寺に退避させたのであって、永徳寺で絶命したのではない。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 23:26:39.23
日テレ『田原坂』では西郷小兵衛の戦死場面を、乃木希典が双眼鏡で見ていた。
史実ではない。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 23:28:30.06
やりたくもない戦に駆り出されて、弟を殺されて、西郷も散々な目に遭っているな。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/30(土) 23:35:06.90
+    . .. :....    ..  .. .
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          .|: |
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       .(二二X二二O
            |: |    ..:+ ..
      ∧∧ |: |
      /⌒ヽ),_|; |,_,,    さようなら 西郷小兵衛
_,_,_,_,,〜(,,  );;;;:;:;;;;:::ヽ,、   君のことは忘れない・・・
   "" """""""",, ""/;      安らかに眠れ
  "" ,,,  """  ""/:;;
  ""   ,,""""" /;;;::;;
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/31(日) 00:00:37.67
【篠原中央隊】
六個小隊(1,200人)という最大兵力にもかかわらず、ついに菊池川を渡河できなかった。
高瀬大橋を政府軍が破壊することをまったく予想していなかったのが、こいつの阿呆なところ。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/31(日) 00:05:10.27
午後二時ごろになると、篠原の麾下1,200人が携帯していた銃弾がなくなった。
篠原はそれにより、自隊をまとめ、さっさと戦線を離脱してしまったのである。
この時期は、敵中に入りこんでいる桐野・村田両隊が、もっとも熾んに戦闘しているときだった。
彼らこそ、いい面の皮だった。敵中で置き去りにされてしまった。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/31(日) 00:07:47.65
         ________
       /             \
      /                \
    /   /・\     /・\   \
   /   /    \   /    \   \
  |      ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄     |
  |         (__人__)        |  弾がなくなったので 離脱しま〜す
  |            \    |         | ご冥福をお祈りしま〜す
   \          \   |       /
    \          \_|     /
          
          篠原国幹陸軍少将
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/31(日) 00:11:04.55
極端に無口な篠原は、思慮深い人物と勘違いされていたんだろうな。
実態は単なるバカだった。
司馬遼太郎は、「一種の愚人」と酷評している。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/31(日) 01:37:14.28
村田新八隊……政府軍に勝っていた。
篠原の退却により兵力と砲に余裕ができた政府軍は、村田隊を重囲。
村田隊は篠原隊に遅れること2時間半後の午後4時に伊倉へ退却した。
0911日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 01:40:27.24
桐野利秋隊……村田隊よりも退却が遅れた。
あやうく全滅の危機 →山鹿へ退却
0914日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 02:00:13.59
和水町(なごみまち)の風景というのは、文字通り和む。桃源郷のようだ。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/947/76/N000/000/020/uchidakawa08092601.jpg
https://www.satofull.jp/town-nagomi-kumamoto/static/town-nagomi-kumamoto/packages/default/images/town/main.jpg
http://ymg-aerialshoot.com/wp-content/uploads/2016/01/DJI00006.jpg
https://www.iju-join.jp/chiikiokoshi_report_cont/no56/img/img3_l.jpg
http://www.k-tourism.net/nagomi/img/top/kanakuri.jpg
0915日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 02:02:00.65
あのな、桐野隊はやっとのことで全滅を免れて敗走しているんだ。
なごんでいる場合じゃない。
0917日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 02:20:32.09
☆ 梯団
大兵団の移動などにあたり便宜上数個の部隊に分けた時の各部隊のこと
0918日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 02:30:00.85
無口で顔つきだけが知性的なバカには注意しようね。
そんな奴と一緒に戦にゆけば、死んでしまうよ。
0919日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 21:49:33.03
【田原坂・吉次越】
☆ 伊倉軍議
浅江直之進……再び高瀬を攻撃し小倉を占拠する説 →東京へ
篠原国幹……熊本城攻撃に絞り熊本城の武器弾薬と食糧を確保 →東京へ
村田新八……篠原の攻城・野戦二者択一論も現状では空論 →占領地を踏み固め補給を確実にする
0920日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 21:55:48.07
☆ 浅江直之進(>>894
近衛陸軍大尉だったが明治6年の政変で辞職。
鹿児島帰郷後は、鹿児島県警察の警部になり、中原尚雄(>>482)・高崎親章らを捕縛した。
0921日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 21:59:51.88
☆ 2月28日
桐野は山鹿で昨夜の伊倉軍議の顛末を知る。
各大隊長を熊本本営に集め、正午頃、桐野も熊本城下へ到着する。
0922日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 22:19:39.74
☆ 坪井の戦い(2月27日)
鎮台側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐・奥保鞏少佐・小川又次大尉・大迫尚敏大尉など、後年の大物軍人が参加していた。
高瀬第三戦が行われた2月27日に、籠城軍は初めて城門を開き、坪井方面へ威力偵察部隊200を出した。
指揮は大迫尚敏(なおはる)大尉(>>565)。
日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略のため、大迫尚敏中将の第7師団が乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。
0924日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 22:35:01.97
高瀬の会戦に参加しなかった薩軍の二つの大隊は何をしていたのですか?
0925日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 22:42:06.45
池上四郎の五番大隊2,000は、熊本城攻囲戦を担当していました。
永山弥一郎の三番大隊1,200は、海上から政府軍が上陸することに備えて、百貫湊(熊本市西区 / 熊本城の真西の海岸)を中心に配置されていました。
0926日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 22:52:59.84
西郷が本営としていた神主屋敷で軍議が始まった。
桐野はこの席上で薩軍の兵力不足と弾薬の不足が高瀬の敗因であることを認める。
桐野が鹿児島出発後はじめて述べた現実認識である。
西郷は後に桐野と口をきかなくなるが、桐野に対する悪感情はこの時に芽生えた。
それは桐野に対する憎悪というより、桐野に乗せられてしまった自分に対する嫌悪だったのかもしれない。
0927日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 22:55:54.08
篠原の主張する熊本攻城集中論は、高瀬まで政府軍が進出している現在、意味をなさない空論であった。
篠原が今日生きているとすれば、偏差値40程度の天然ボケであるとしか言いようがない。
0928日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 22:58:30.54
北上集中論も同様である。
北上経路は既に政府軍に押さえられている。
薩軍全軍で北上すれば、熊本籠城の鎮台兵が薩軍を追尾して挟撃されるだけである。
0929日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:06:13.61
結局、元の攻城守野という二段構えの方針に戻った。ただし守野といっても防御線は縮まった。
北は桐野が山鹿を守り、北西は篠原と村田が田原坂・吉次越の瞼に拠って、政府軍の内線への侵入を防ぐというものだった。
高瀬の会戦の結果、薩軍は大きく退嬰防禦の方針へ転換した。
このようにして3月1日から3月31日まで、田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられることになる。
0931日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:11:17.83
これより先の西南戦争は、無意味な殺戮と消耗にすぎません。
0932日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:15:24.42
西南の役は内乱であって国家間の戦争ではないですが、この段階で戦争終結にもってゆけない戦争指導者は、
兵にとっても庶民にとっても害悪としか言いようがないです。
0933日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:19:33.94
近代・現代の政治家の戦争の止め方の下手くそさ加減を見ていると、
近現代の人間よりも、中世の人間の方が賢いのではないかと思ってしまうな。
0934日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:23:14.88
戦の規模が中世と近代では大きく異なるだろう。
戦の規模が大きくなれば、組織で処理せざるを得なくなり、個人の意思が組織の意思に反映できなくなり、手詰まりになってしまうのよ。
0935日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:26:52.43
世界史の教科書などで「アメリカはこのように考え、ドイツはこのように考えていた」という類の文章を読むと、
具体的にいうと、それはいったい誰が考えていたのですか?と質問したくなるよな。
0936日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:28:04.01
「政府としてはこのように考えています」という類の発言も同様。
それはいったい誰が?と尋ねたくなる。
0938日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:46:12.50
>>929
田原坂・吉次峠の戦いと並行して行われた山鹿の戦いは、2月26日から3月21日までの24日間(>>789)。
0939日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:56:44.80
>>909
現代の戦術眼で篠原の行動を観察するから、そのような篠原評価になる。
高瀬の戦いに参加した薩軍の将兵の誰一人として篠原を非難していないところから考えると、
篠原の行動は少なくとも薩軍将兵にとっては常識的な行動だったのだろう。
0940日本@名無史さん
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2019/03/31(日) 23:58:52.10
「死を懼れる者は士に非ず」という倫理が厳然として存在していたのだ。
補給の観念は山縣が西欧から導入した新思想。
0941日本@名無史さん
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2019/04/01(月) 00:01:40.54
明治に導入された新思想は、昭和になると風化したがな。
0944日本@名無史さん
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2019/04/01(月) 13:05:44.46
薩軍には護民思想があったが、官軍には皆無だった。
官軍は民家が敵の砦になることを防ぐために、平然と民家に放火した。
知識兼治大尉(>>880)の中隊も、川部田から退却するときに民家に放火している。
0949日本@名無史さん
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2019/04/01(月) 13:28:14.36
【高瀬】
高瀬の会戦は終わったが、避難民は集落が焼野原になったため戻る場所がなかった。
それでも人々は薩兵をさほど恨まず、むしろ薩軍の勝利を願う者が多かった。
薩軍が勝てば年貢は無しになるという期待が一般にはあった。
0950日本@名無史さん
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2019/04/01(月) 17:33:22.25
【山鹿千軒】
☆ 岩野川
菊池川の支流で北から流れてきて山鹿で菊池川と合流する。
https://www.kumamoto-sskk.jp/water/img/28.jpg
岩野川に沿った南北の街道が豊前街道(山鹿街道)である(>>791)。現在の国道3号線。
なお菊池川沿いの東西の街道は、西へ行くと南関に通じている。今日の国道443号線である。
山鹿温泉については>>790に書いた。
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