結局、元の攻城守野という二段構えの方針に戻った。ただし守野といっても防御線は縮まった。
北は桐野が山鹿を守り、北西は篠原と村田が田原坂・吉次越の瞼に拠って、政府軍の内線への侵入を防ぐというものだった。
高瀬の会戦の結果、薩軍は大きく退嬰防禦の方針へ転換した。
このようにして3月1日から3月31日まで、田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられることになる。