纏向遺蹟とは何だったのか。。。
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
数秒で次々に作成できるスレッドを、キナイコシは数十時間かけて埋めるために、時間を無駄にしているのではないのかな。。。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。 しまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>1
数秒で次々に作成できるスレッドを、キナイコシは数十時間かけて埋めるために、また、時間を無駄にするのではないのかな。。。 それにしても、魏志倭人伝の一里とは、本当は何メートルなのだろうか。。。 東遷説と同義の畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシは荒らすしかないのではないのかな。。。 今、5年ぶりに覗いたけれど、5年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は何もないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。 奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、 かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 最有力の説は、粗末な土間の掘立小屋の遺蹟だね。。。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 キナイコシが連続句読点に過剰反応するのはなぜだろうか、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、連続句読点使用者の究明に、話を逸らしているな。。。 魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 連続句読点使用者の発する意見について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。 魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。 テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纒向遺跡に大乱の跡などないよ。
魏志倭人伝には兵士が鉄鏃などを用いたとあるけど、纒向にはないもんな。
超辺境だったんだよ。 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 >>573
>纒向遺跡に大乱の跡などないよ。
そりゃそうだろ?
寺澤先生の見解でも、纏向遺跡の建設は倭国乱の収拾のための
卑弥呼の共立を契機とするものであって、倭国乱の終結後の建設だもの
当たり前じゃん?
それが何か?ww 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 >>575
乱に関係がなかったのなら、卑弥呼共立に参加する必要がないよね。
寺澤というのは妄想家なの? 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 >>577
>乱に関係がなかったのなら、卑弥呼共立に参加する必要がないよね。
乱の当事国であっても、国中くまなく戦場になる訳でもあるまいにww
どんな想定をしているんだ?
近代国家の、国家総動員の総力戦と、古代の騒乱は訳が違うのは理解できるか?
例えば、記紀の崇神天皇代の武埴安彦命の乱や、垂仁天皇代の狭穂彦命の乱は
皇位を争う国家を二分する騒乱だったけれど、基本的には局地戦で決着がついている
乱の収拾後に、荒らされていない新天地に新しい王都を築くんだから、
乱の跡があると思う方がある意味おかしい
>寺澤というのは妄想家なの?
よくもまあ、そういう失礼なことがナチュラルに書けるよな
>>577より妄想のひどい人は、そうそうそこらにはいないと思われ 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 奈良盆地内の集落遺跡の消長を追うことで「拠点集落を核とする小共同体」と、
「水系単位でまとまる複数の小共同体からなる大共同体(クニ)」が抽出でき、
それが後の律令制での「郡」の単位とほぼ重なる そして、そうした大共同体が銅鐸祭祀などへの対応により、
「3つの大共同体群(国)」に分かれることが見て取れる その3つの国は
1.「平群」「層富下」「層富上」の大共同体群(クニグニ)からなる北部の「国」(仮称「ソフ(層富)」国)、
2.「山辺」「磯城上」「磯城下」「十市」「高市」の大共同体群(クニグニ)からなる東南部の国(仮称「ヤマト」国)、
3.「曽我」「葛城上」「葛城下」の大共同体(クニグニ)からなる西南部の国(仮称「カツラキ(葛城)」国) この2番目の、奈良盆地東南部の大共同体群が邪馬台国=ヤマト国だと考えるのが、
寺澤先生の持論
纏向遺跡は、この地域に作られた王都であって国(邪馬台国)ではない 「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式のうち、(中略) 突帯文様式の遺跡は一見して、菩提山川と大和川を結ぶ盆地の南部に 集中する様子がわかる。とくに突帯文様式単純の遺跡(J 型)は、 唯一、秋篠川上流の西隆寺下層を除けば、大和川本流(初瀬川水系)以南に ほぼ限られており、おそらくは朝鮮半島−玄界灘沿岸地域ルートで伝来し、 北部九州の穀物センターにおいて定着を果たして初期の不完全な農耕文化の 揺籃を開始した突帯文系様式は、瀬戸内海ルートで河内潟に入り 河内平野への入植を介して大和川を溯上して初瀬川をさらに遡上したことがわかる。」 カタカナ用語が出てきたときは眉唾なんだよ。
勝手な造語で適当に言いくるめる時の手法だからね。 そもそもからして、奈良盆地の集落は、河内平野への入植〜大和川を遡上〜初瀬川へ、と
河内の集団が奈良盆地へ伸張して行ったものと見られる
最初から本質的に同根・同祖だね
なぜ纏向遺跡では河内の土器が少ないとか訳の分からないことを言ってまで
別集団だと考えるのか?
一体で一つの邪馬台国だよ 「こうした突帯文様式の遺跡と遠賀川系の第T様式の遺跡のあり方には興味深い 関係がある。前期1段階の遺跡の分布は突帯文様式の遺跡分布よりも収斂されている。 奈良盆地における突帯文様式集団と新たな遠賀川様式集団との社会的諒解関係は、 決して対立的に領域を界した存在ではなく、親和的、双方開放的な関係であったものと >>579
>乱の収拾後に、荒らされていない新天地に新しい王都を築くんだから、
新天地といっても全く新しいところではなく、すでに両勢力の支配下の範囲だろ。
纒向の場合はそうではなく、直前まで筑紫にあった倭国の直接の支配下にあった気配がない大和を持ち上げているんだよ。
それはむしろ落ち武者が新天地に活路を求めたようなものだよ。
そしてそれらしき記述は神武東征として読み取ることができる。
その場合、直前まで対して発展していなかった地域に突然新しい勢力が生まれるシナリオを想定できるんだよ。 突帯文様式(土器)も北部九州の穀物センターが起源だし、
遠賀川系の畿内第T様式(土器)も九州の遠賀川(崗之水門)由来
畿内と九州に交流はないってずっと意地になって言い張ってる人がいるけど、
縄文末期〜弥生初期も、土器様式から九州と畿内の交流は見て取れるよね? >>596
>河内の集団が奈良盆地へ伸張して行ったものと見られる
だから考古学的根拠がないだろ。 >>603
何だかもうグタグタだな。
それなら畿内は九州北部の土器に塗り潰されただけだろ。 >>595
>カタカナ用語が出てきたときは眉唾なんだよ。
>勝手な造語で適当に言いくるめる時の手法だからね。
カタカナ用語って「ヤマト国」のことか?
まあ、ソフ、カツラギ、も含めてのことなのだろうけれど、これらは文書によって
いろんな漢字で書かれているから、典拠に合わせていちいち変えていたらかえって
分かりにくくなるだろ?
だから代表的な音をカタカナ表記しているだけで、別に新しい概念を提示している
訳ではないぞ?
素人は、層富と狭穂と添が同じ場所だって分からないだろ?
勝手な造語っていうのは言いがかりだな 「第V様式は、(中略)A–1 群の萩原は一分西畑からの分村と考えるべきであろうが、 一分西畑じたいが生駒西麓製土器の搬入の多さから、「河内」大地域の集団との 関連を考慮するのであれば、この時期での生駒西麓開発との関係を等閑視することも 寺澤先生の論文「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」では、
絶対年代は扱わず土器形式での編年だが、畿内第V様式は弥生中期1段階にあたる
その時期にも「河内」大地域集団が奈良盆地内に入植している可能性が見られる訳だ
繰り返しになるが、河内と大和を別勢力と考える理由はないよね? >>605
>何だかもうグタグタだな。
>それなら畿内は九州北部の土器に塗り潰されただけだろ。
編年って言葉知ってるか?
>>603で書いてあるのは、畿内第T様式について、だぞ?
要するに、弥生時代の始まりの頃の話
その頃には、稲作の受容=弥生化と合わせて、九州の土器が伝播しているってこと
その弥生の最初期から、九州と畿内の関係があるのに、弥生終末期には無関係って
言い張る神経がおかしい 「第W様式の集落は大部分が第V様式からの継続である。 つまり、この段階の弥生時代農耕集落は極めて安定した自然的、社会的環境のもとに 絵画土器が盛行し、とりわけ盆地南半部の拠点集落では大形の棟飾り付の高床建物や 楼閣 ・ 楼観風の建物を描いた絵画土器が伴う。拠点集落では中期1からの石器製作や 木器製作が常態化し、拠点集落では吉備から伊勢湾沿岸地域までの遠隔地の搬入土器が 纒向も無人だったわけではないから、どこからか人は入らないとねえ。
でも、その後に河内と直接の交流があった根拠がないんだよ。
「可能性」で誤魔化すなよ。
さらにマクロに見れば、弥生時代全体を通じて、九州北部に根付いた文化がひたすら東に伝播しているように見えるけどね。
河内から大和とか、吉備から大和とか言うけれど、吉備も河内も筑紫から大和への通過点だろ。 顕在化し、鉄製品、青銅製品(中国鏡片や銅剣)の流入も多くはこの時期であろう。」 第W様式の時点(弥生中期)の時点で
「吉備から伊勢湾沿岸地域までの遠隔地の搬入土器」や
「鉄製品、青銅製品(中国鏡片や銅剣)の流入」があるってさ
大和には何もないことにしたい人がいるみたいだけれど >>612
無関係というより、纒向が一方的に筑紫に搾取されていたのでは? >>621
筑紫の勢力が流入して畿内が筑紫の文化に塗りつぶされたんだね。
わかります。 >>619
>纒向も無人だったわけではないから、どこからか人は入らないとねえ。
>でも、その後に河内と直接の交流があった根拠がないんだよ。
逆だ
「直接の交流があった根拠がない」というのが、根拠なしのただの言いっぱなし
実際、纏向遺跡の祭祀遺構では、河内の土器も出ているし、直接の交流がないと
どの口がいうのか?っていうのが、本当のところだよ また、大和には宮殿がないから邪馬台国じゃないって言ってる人がいるけど、
「大形の棟飾り付の高床建物や楼閣 ・ 楼観風の建物」を描いた絵画土器が出てるって
まあ、ないことにしたい人は、絵じゃん、て言うんだろうけどさ
池上曽根遺跡の時点で、大建築があるんだし、それこそ縄文時代の三内丸山遺跡でも
臍組みの大建築が作られてるんだから、宮殿クラスを作る木造技術は普通にどこでもあったんだと思うよ
柱穴しか遺跡に残らないから、何が宮殿かってのは分からないし、分からないうちは
「畿内にないだろう」って言い続けられるけどね >>620
「この時期」の絶対年代が問題なんだよ。
卑弥呼の家来の侵入か、卑弥呼政権の消滅による流入で説明がついてしまうんだよ。
そうでなければ、その時代の変動の原動力がむしろ説明できない。
つまり、九州説を否定する根拠になってない。 >>622
>無関係というより、纒向が一方的に筑紫に搾取されていたのでは?
だ〜か〜ら〜、編年って知ってるか?
ここで話題にしているのは畿内第T様式の時代
弥生時代が始まったばかりで、人口の増加も富の蓄積もない頃に
搾取も何もないだろうが
この頃には纏向のあたりには縄文時代の古い祭祀跡くらいしかないぞ >>623
>筑紫の勢力が流入して畿内が筑紫の文化に塗りつぶされたんだね。
>わかります。
>>622と同じ人だと思うけど、時代の流れってものを考えなさい
バカ丸出しだぞ >>626
>「この時期」の絶対年代が問題なんだよ。
カギカッコの最初>>613に
「第W様式の集落は大部分が第V様式からの継続である。」
って書いてあるだろ?
この時期は、畿内第W様式の頃
まあ、弥生時代を大きく分けて、その第W期の畿内の土器が畿内第W様式ってことだから
九州には九州の第W様式期があるんだけれどね 弥生時代を細分する際に、純粋に土器の様式による区分として使うと
T期、U期、V期、W期、X期の五時期区分である。これによると全国を対象に
横のつながりに大きな違いが出ない。
弥生時代を「日本で食糧生産に基礎をおく生活」が開始された時期と定義すれば
(佐原 真 一九七五)、いままで縄文時代晩期とされていた最古の水田跡の時期として
早期、あるいは先T期が設定される。
二通りの区分の対応は前期=T期、中期=U、V、W期、後期=X期とする地域が多い。
実年代については、研究者により微妙な違いがあるが、ここでは、一例として
佐原真の説(佐原 真 一九九〇)をあげる。
すなわち、
先T期=紀元前(以下前と略す)三、四世紀、
T期=前二、三世紀、
U期=前二世紀、
V期=前一世紀、
W期=一世紀、
X期=二、三世紀である。 V期の後、庄内期に入り、研究者によっては庄内式土器の時代から、古墳時代に入れる >>626
>卑弥呼の家来の侵入か、卑弥呼政権の消滅による流入で説明がついてしまうんだよ。
この「卑弥呼の家来の侵入か、卑弥呼政権の消滅による流入」ってのが、
まったく根拠がない妄想なんだから、説明がつくもつかないもないだろうにw 再度「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」から引用
寺沢先生の考える、大和の時代区分は以下のとおり
(1)縄文晩期後半期(突帯文様式)〜第T様式前半期〔前期1〕
(2)第T様式後半期〔前期2〕
(3)第U様式〜第V様式期〔中期1〕
(4)第W様式期〔中期2〕
(5)第X様式期〔後期1〕
(6)第Y様式〔後期2〕
(7)庄内様式〜布留0様式期〔古墳初期〕
この中で、大きな画期が2回あって、
一つが(5)第X様式期〔後期1〕に入るところ、
もう一つが(7)庄内様式〜布留0様式期〔古墳初期〕で、
ここから古墳時代に入るというのが、寺沢先生の持論 (4)第W様式期〔中期2〕までは、各拠点集落は安定的に維持されており、
大きな社会変動はないように見られる
仮称「ヤマト国」の拠点母集落の「唐子・鍵遺跡」では、
「M–3群の唐古 ・ 鍵遺跡では銅鐸をはじめとする青銅器生産の痕跡が明らかであり、
銅鐸を保有する祭祀集団としての中核的な集落に成長していることが想定可能である。」 それが、
「中期2の最期には外縁付鈕銅鐸や扁平鈕式銅鐸の埋納が集中して行われたと
考えられる。さきに示した中期1後半以降の各群保有の銅鐸に加え、この時期には、
唐古 ・ 鍵遺跡(M–3群)でも扁平鈕式銅鐸の破砕片が出土していることや
多遺跡での深樋式銅剣切先の埋納を重視すれば、他の拠点集落を含め、この時期に
埋納行為があったことを否定できない。」
と、弥生中期の終わりと同時に、銅鐸祭祀に一つの画期があり、銅鐸の破砕が行われたようだ それが、(5)第X様式期〔後期1〕に入ると
「拠点集落のなかには、環濠の繞る位置や集落本体じたいの異同の認められる事例が
存在することである。」
「周辺小規模集落においても、以前に比べれば第W様式から第X様式への変遷には
変動が大きいことである。集落の消長は47 ヵ所におよび、新出例もほぼ同数の45 ヵ所に
およぶから、まさに集団の解体 ・ 分割(移動 ・ 分村)と統合(編入)が集落単位の
消長 ・ 新出という形で盛んに現象したことになる。」
「奈良盆地における高地性集落の初現であることである。」
と、倭国乱の影響が奈良盆地に及んだことが見てとれる 纏向遺跡に倭国乱の戦乱跡がないって言ってた人、読んでるかな? (6)第Y様式〔後期2〕の時期は、そうした高地性集落の多くは廃絶し
「これらの河川の下流部での集落の新出にも注意すべきである。
こうした上流の扇状地部や下流の低地部での集落の再盛傾向は、第X様式のはじめに
政治的状況の影響を受けて一端リセットされた集落構成が、再び本来の社会経済的
基本動向に沿って、新たな耕地拡大と整備をはかった結果として理解できるであろう。
こうして、大和弥生社会は再び安定した盛期を迎えたかのようである。」
ここまでが、奈良盆地において(1)縄文晩期後半期(突帯文様式)〜第T様式前半期〔前期1〕に集落形成が
始まってからの、盆地内での自生的な発展の過程 それが次の(7)庄内様式〜布留0様式期〔古墳初期〕で、
「弥生時代から古墳時代への変化は、集落と遺跡群(小地域)の動態上
じつに画期的である。」
「集落の消長と出現に見るギャップは極めて大きく、集落の後期2からの継続性は
ほとんどないといっても過言ではない」
「とりわけ重要なのは拠点集落の断絶性である。典型的な拠点集落17例中7例が
ほぼ廃絶に近く、10例が大幅な衰退と縮小を強いられている実態が明白(中略)
拠点集落は基本的に消長を遂げる」
「突線鈕式銅鐸が埋納されたのもこの頃である。(中略)小形長頸壷などから
第Y –2 様式から庄内0式の可能性が高く、埋納は庄内0式であったと考えられる。(中略)
「見る」銅鐸の埋納や破砕片の出土がこの時期に集中しており、弥生的青銅製祭器による
マツリが終焉を迎えたことを物語っている」
「高地性集落もまた消滅する。」
「さらに重大な画期的事態が突発する。纒向遺跡の出現である。」
「纒向遺跡の出現は、奈良盆地の弥生時代社会の終焉を宣言すると同時に、
古墳時代という全く新しい政治的状況の現出を記念すべき画期的な事件で
あったといえよう。」 要するに、寺澤先生は庄内期の始まり(庄内0期)に、
纏向遺跡が作られ始めることをもって「古墳時代の開始」と考えている
「九州だったらいいな説」の古墳時代は4世紀からという立場とは
相容れない認識だけどね
寺澤先生が「ヤマトの在地勢力がそのまま発展して大和王権になったのではない」と
強調するのは、この庄内0式期の画期が、奈良盆地内での自生的な発展ではないと
考えていることによる 再び、寺澤先生の論文の引用に戻る
「奈良盆地の初期農業共同体社会の内的発展の根底らの崩壊という現象は、
常識的に見れば、地域と共同体を荒廃させ、経済とその根幹にある人 ・ もの ・ 情報の
ネットワークを寸断 ・ 解体させることになりかねない。
そうした多大なリスクを払って実現された事態とは何か。盆地全域が崩壊ほどの
前代未聞の巨大な自然災害でもない限り、歴史に残るほどの大事件を想定せずおれないであろう。
それは、今までみてきた古い大和弥生社会が、新たなより巨大な歴史的運動によって
呑みこまれていくというストーリーでしかない。それはまた、緩慢な社会 ・ 経済的、
祭祀的結合を貫徹していた安定した農耕集落が、今まで経験したことのなかった
巨大な政治的権力の渦中に身を委ねることになったと考えることが最も合理的な
理解である。」 そして、結論として
「私は北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の言う「イト倭国」勢力)や
2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を
維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と
考えている。」 この政治的談合による倭国の再編成により、弥生以来の奈良盆地の体制は消滅し、
纏向遺跡に王都が建築された、というのが寺澤先生の所論であり、
纏向遺跡が置かれた「仮称ヤマト国(狭義のヤマト)」が邪馬台国だとしている 集落遺跡の消長を基礎にして、奈良盆地内の動向をつぶさに見ていった上での
結論であって、何が出るとか、何が出ないとか、「九州だったらいいな説」が
気にすることは基本的に論点に入っていない でもまあ、庄内0式が4世紀だとは「九州だったらいいな説」の人も言わないだろう その庄内0式の時期に、纏向遺跡の建設が始まったのが「新生倭国」の誕生であり、
そこからが古墳時代という新しい時代 そして、古墳時代に入った新生倭国の中心が置かれたのがヤマト国であり、
それが魏志倭人伝に「邪馬臺國、女王之所都」と書かれた、というのが
考古学者の見解ってことでいいでしょ 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 >>637
>纏向遺跡に倭国乱の戦乱跡がないって言ってた人、読んでるかな?
鉄器を用いた直接の戦闘の痕跡はない。
九州における激しい戦乱の余波に過ぎない。
落ち武者が流れて来て占領した程度の話。 >>640
>要するに、寺澤先生は庄内期の始まり(庄内0期)に、
>纏向遺跡が作られ始めることをもって「古墳時代の開始」と考えている
だからそれが邪馬台国と同関係するんだ?
それは畿内ローカルの発展史であり、全国のどこでも多かれ少なかれそういうストーリーは書ける。
それが卑弥呼より後の可能性や、九州の王権と並行していた可能性を何ら否定していない。 畿内説にあるのは、律令制以後にしか確認できないヤマトという言葉への憧憬だけ。 >>643
>この政治的談合による倭国の再編成により、弥生以来の奈良盆地の体制は消滅し、
妄想? >>640
>寺澤先生が「ヤマトの在地勢力がそのまま発展して大和王権になったのではない」と
>強調するのは、この庄内0式期の画期が、奈良盆地内での自生的な発展ではないと
>考えていることによる
誰がどこから纒向に侵入したんだ? 纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 >>651
>鉄器を用いた直接の戦闘の痕跡はない。
>九州における激しい戦乱の余波に過ぎない。
>落ち武者が流れて来て占領した程度の話。
妄想乙、としかw
九州の戦乱とかいうやつは、首のない「甕棺墓」死体とかだろ?
甕棺墓は時代が違うよ? >>652
>だからそれが邪馬台国と同関係するんだ?
だからそれ(纏向遺跡の建設開始:庄内0期)が、女王之所都の建設開始だろ?
関係するもしないも、そのままで邪馬台国の都そのものだよ
>それは畿内ローカルの発展史であり、全国のどこでも多かれ少なかれそういうストーリーは書ける。
>それが卑弥呼より後の可能性や、九州の王権と並行していた可能性を何ら否定していない。
それこそなんとでもいえるよね?「卑弥呼より後の可能性」とか言い出したら?
「後の可能性」ってやつを、きちんとした根拠を付けて論証して見せてくれ
話はそれからだ
「九州の王権と並行していた可能性」
これも可能性だねぇww
妄想は楽しいかい?
庄内期から、九州最大の拠点、奴国の比恵那珂遺跡群で、畿内様式甕の生産が
始まっているし、九州も畿内を中心とする秩序の中に位置づけられているよ
それをもって、寺澤先生は卑弥呼の共立を「談合」と呼んでいる
九州に畿内と並立する独立王権を想定するのは無理がある >>657
>甕棺墓は時代が違うよ?
甕棺墓は長期にわたって使われているけど? >>653
>畿内説にあるのは、律令制以後にしか確認できないヤマトという言葉への憧憬だけ。
残念ながら、古墳時代に汎列島的に作られ続ける前方後円墳が完成するのが
纏向遺跡の地なのは誰も否定できない
そこに、古墳時代の始まり、弥生時代終末期の中心があったんだよ
そして、弥生時代終末期=卑弥呼の時代だ
「やまと」の地名は、「かわち」とセットだよ
やまとの方は、倭、大倭、大和という変遷を経て当て字になっているけれどね
河内との対比で言えば、山外だろう
大和川水系の一体の勢力のうち、信貴山、二上山の外が山外:やまとで
その川の下流の開けた内側が河内:かわちなんだろう
その意味では、本拠地はもともと河内側だったんだろうね
地名が作られた当時は >>654
>妄想?
ちゃんと読みな
なんだったら、原本を読めばいい
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>658
>庄内期から、九州最大の拠点、奴国の比恵那珂遺跡群で、畿内様式甕の生産が
だからさ、それと卑弥呼の前後関係を明らかにしてないじゃん。
わかる?
畿内説はいつも年代をごまかして話をしている。 >>660
>残念ながら、古墳時代に汎列島的に作られ続ける前方後円墳が完成するのが
>纏向遺跡の地なのは誰も否定できない
邪馬台国と関係ないだろ。
>>660
>「やまと」の地名は、「かわち」とセットだよ
邪馬台国と関係ないだろ。 >>655
>誰がどこから纒向に侵入したんだ?
誰もどこからも纒向に侵入なんてしないよ
各地で巨大な墳丘墓を作るほどに成長した首長の連合体が、
寺澤先生の言葉では「談合」することで、卑弥呼を倭王に共立し、
その卑弥呼のための新しい都を纏向の地に新しく作ったんだよ
その際には、奈良盆地内の集落秩序がガラガラポンで、再編されている
そして、新しい王都に各地の人が集まって祭祀を行っていた
その祭祀の集大成が、前方後円墳祭祀であり、その祭祀用の供献土器が
布留式土器の精製器種三種ってこと >>663
>邪馬台国と関係ないだろ。
同じことをつぶやくだけになってるぞw
意味のある反論は不能ですか?
邪馬台国=やまと国と読むんだから、関係ないどころかそのものだよ >>662
>だからさ、それと卑弥呼の前後関係を明らかにしてないじゃん。
>わかる?
>畿内説はいつも年代をごまかして話をしている。
西新式土器とか、庄内並行期って言葉くらい聞いたことがあるだろ?
畿内説が年代をごまかしているんじゃなくて、編年研究の成果を
九州説が都合が悪いからという恣意的な理由だけで、
「あーあー見ない聞こえない」って言い続けているだけだよ >>659
>甕棺墓は長期にわたって使われているけど?
甕間編年も、しっかりしたのが作られてるよ
長く使われたけれど、卑弥呼の頃には100年単位で届かない
ザラコクさんみたいに、祇園山古墳が作られる頃まで、
甕棺墓制は続いていたって言うつもりかい? >>664
>>640
>寺澤先生が「ヤマトの在地勢力がそのまま発展して大和王権になったのではない」と
>強調するのは、この庄内0式期の画期が、奈良盆地内での自生的な発展ではないと
>考えていることによる
自生じゃなくて誰かが纒向にやってきたんでしょう? >>666
>畿内説が年代をごまかしているんじゃなくて、編年研究の成果を
だからね、卑弥呼との前後関係を明示してよ。 畿内説はスレを流して逃げているだけだな。
相手に理解させるのではなく、教条主義的なものを呟いているだけだ。 >>661
ざっと読んだがあなたは最後の結びのこの文章をどう読んだのか?
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそ れを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に 生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母 胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにい たった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、 社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生 成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの 疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」
寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、ここにいるキナイコシが纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。 畿内説に纒向学の第一人者が終止符を打ったから、もう畿内説は本当に終了だね。 >>756
>畿内説に纒向学の第一人者が終止符を打ったから、もう畿内説は本当に終了だね。
そして 寺沢氏の論文を読め。
畿内説は無理であることが示唆されている。 >>744
>大和弥生社会の自然的、 社会的、
>そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、
>いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生
>成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの
>疑問が終始脳裏を離れることがなかった。
だから、 寺沢氏は、箱庭的な纒向学の限界を理解している。
纒向の外からの、おそらくは筑紫の王権の外圧なくして纒向のような盆地に変化は訪れない。
そのことを明確に指摘しているのに、不肖の弟子が畿内説にしがみついて掲示板を荒らしているだけ。
おそらく彼は神武東征のモデルとなった筑紫から大和への侵攻も視野に入れているのだろう(直接の証拠がないので明言はしないだろうが)。 二万戸を擁する奴国を脅かした筑紫倭国の戦乱なら、西日本全体に大移動をもたらすに十分だろうね。 旧稿でも私はこのように書いた。
「従来、ともすれば 進化論的な継起的発展観によって、先験的にヤマト王権 の核となる政治的権力を大和(あるいは大和を中心とす る畿内南部)の弥生時代社会のなかに発見これ努める傾 向がなきにしもあらずであった。
たとえば、邪馬台国論 が畿内説と九州説で論議が二分されようとも、最終的に は畿内大和は勝利を手中に収めて「ヤマト王権」の面目 を保たねばならない先入観があったのである」と。
しか しこうした学界の傾向は37年を経た今でもさほどの転換 はない。
また、旧稿で最後に掲げた三つの課題、
(一)大和にとっ ての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であった か(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必 然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体につい ては、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意するこ とができた。 うむ、役に立った。
畿内説が終了したことを確認できた。 結局、九州説は、
編年の成果を認めない
魏志倭人伝の無理読み(短里、帯方郡起点の水行など)
だけなんだよな 九州説は、根拠なく、意味のないことをつぶやき続けるだけだな 根拠をいくら示されても、見ない聞こえないって言うだけw 寺沢氏は、大和にとっての外圧である筑紫と、筑紫による征服「東征」を明確に意識している。 「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
師の本心がわからぬか。 「権力中枢の系譜」
弥生文化上陸の地である筑紫に成立した倭国王権と、東征による権力の移動だろう。
それは内行花文鏡により明確に示されている。 大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆しているだろ? これにて畿内説は完全に終了だね。
纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。
それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。 寺澤さんはどこにも筑紫勢力が制圧したなんて書いてない いくら論文読めと勧められても
当人が誤読してるようじゃなぁ。 >>837
では大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったのか? しかし、征服など物理的強力を 前提とした「東征論」や 政治権力の直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。」 武力制服ではない方法で筑紫などから入植したんだよ。
記紀では親族であった饒速日を頼って神武が大和に入り、現地の姫を娶っている。 >>846
>武力制服ではない方法で筑紫などから入植したんだよ。
神話とは一線を引いて論じないと科学にならないと何度言えば >>846
>武力制服
かっこいいな、全身黒尽くめとかなのか?ww >>864
>神武は人皇だから神話時代ではないのだけれど。
日本書紀は、 >>887
>秩序とか曖昧な単語で誤魔化すのは詐欺
ごまかしてないよ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
MHM >>958
>ぼろ負けした畿内説の嫌がらせ?
いや? このスレ、タイトルはいいけど、テンプレが欲しいな。
次スレは誰が立てる? このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 97日 9時間 16分 17秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。