★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。
※考古学的根拠「国宝」中平銘鉄刀・和邇氏の系図は>>2 >>249
>三島溝杭は普通に大阪茨木市あたりにいて、東奈良遺跡も彼らのものであろう。
だからさ、あなたの言うヒメや鴨王は、筑紫からの開拓者の末裔に過ぎないと言うこと。
畿内の開拓者はきちんと京都でも大阪でも奈良でも祭られていて、あなたはその一部だけ取り上げていて、滑稽なんだよ。
田舎者が騒いでいると言う点では阿波君と同レベルだよ。 >>255
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、
木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 大麻の効能は猜疑心を緩め争いを疎ましくさせる。
大乱を鎮めるのには最適なのである。
しかし、副作用は怠惰な心に直結しやすく、古代からまさに取り扱いに注意した物と思われる。
しかし、@阿波氏の言うように古人たちにとって麻は身近で重宝していたのは事実、縄文土器の縄目、焼く前についたと言う底の布目は麻を撚り合わせた縄、麻を紡いだ布なのだから。(縄、布ともに麻製品が出土している) 更に、土器を野焼きする際には干した麻から燻される煙が縄文人(あくまで便宜上)の情緒を安定させ一万年も争いの無い暮らしを実現させたのであろう。
その効能と副作用は古人たちにとって諸刃の剣であったと思われる。 >>247
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよサギジジイ! >>247
で、ニギハヤヒが秦からの渡来人である事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、ニギハヤヒが秦からの渡来人だとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよサギジジイ! >>257
>だからさ、あなたの言うヒメや鴨王は、筑紫からの開拓者の末裔に過ぎないと言うこと。
何の根拠もない。
失せろ。 >>259
>大麻の効能は猜疑心を緩め争いを疎ましくさせる。
>大乱を鎮めるのには最適なのである。
麻が古来より神草とよばれて重宝されたのは確かだが、
乾燥させて吸ってたなんて話はないだろ。
麻酔いは知られていたようだが。
だいたい日本の麻は乾燥大麻としては成分が薄いと聞いた。 >>264
成分が薄いから大量に焚いたんだよ
キャンプファイヤーみたいにな
それで集団でトランス状態に入った
周りでは太鼓を叩き出す奴がいたりして
原始的な「お祭り」だわな まあ、縄文土器を野焼きする前に麻布を敷いた上でかなり陰干しをしたらしいが、それはヒビがいかない様にする為。
ひと月以上の陰干し→炉の干し草の火から離したところから時間をかけて徐々に火元へ近づけて焼く→そしていよいよ、、、。
土器が埋もれるほどの干し草に火をつけて焼く。
その大量の干し草のなかに麻が混じっていてもおかしくないわな。
また、相当な時間をそこで過ごしていたのは明らかである。
むしろ、その副作用の方に苦慮したのかも知れん。
忌部氏など古代豪族が管理?する麻の効能、副作用を知らなかった訳は無いと思うが。
爆発する芸術とまで言われる火焔土器などは大麻をキメていたからこそのサイケデリックなフォルムような気がするが。 崇神を4世紀初頭から前半の人物と仮定してみたら、
魏志倭人伝のトヨが崇神の数十年前にいるはずですから、
いわゆる「欠史8代」の時代の最高位の女性にトヨがいるかどうか探せばいいだけです。
トヨ津媛という女性がおります。しかも
金関 恕さんや和田萃さんの指摘していた中平銘鉄刀の和邇氏の祖・孝昭天皇の母に当たりますから、
トヨとはまずこの人で間違いないであろうと断言できる訳です。
そしてヒミコがその少し前のヒメ(踏鞴五十鈴)媛であれば、その100年前の倭国王帥升がスサノオであり、
記紀編纂の際に始祖王の土下座という屈辱的史実を書けなかったという理由が判明しますし、
なぜ神武東征紀で猛々しい男王国を強調してるのかも、実際には女王国であったことをごまかすためだと分かります。
学者さんたちは神話の人物が実在したなどとは言いにくいのでしょうが、
ハインリヒ・シュリーマンがギリシャ神話の世界を掘り出して見せたことを思い出していただきたい。
考古学の原点が神話の発掘であったわけです。
だからニギハヤヒも実在、纏向遺跡は彼以降の物部の遺跡だとすれば、
瀬戸内勢力を引き連れて来たニギハヤヒと、
寺沢さんの言う「筑備讃播」が合うし、
ニギハヤヒの子・ウマシマジが、物部神社社伝で東海、北陸を征してる記述と、
纏向遺跡の搬入土器の6割が東海、北陸である事が一致するわけです。
なにより纏向に宮を構えた崇神の母が物部であるわけですし、
ホケノ山古墳の横穴式石室の時期がツバイチを支配してた物部守屋の時代である事とも一致します。 >>268
>いわゆる「欠史8代」の時代の最高位の女性にトヨがいるかどうか探せばいいだけです。
違う地域の歴史だから、探しても無駄 >>268
>トヨとはまずこの人で間違いないであろうと断言できる訳です。
トヨとは、」「豊玉比賣命」
・二つの豊玉比賣神社(上)
http://goutara.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html?m=1
・二つの豊玉比賣神社(中)
http://goutara.blogspot.jp/2015/02/blog-post_2.html?m=1
・二つの豊玉比賣神社(下)
http://goutara.blogspot.jp/2015/02/blog-post_7.html?m=1
だからニギハヤヒも実在、纏向遺跡は彼以降の物部の遺跡だとすれば、
ニギハヤヒも物部もどの道、忌部の一員。
>ニギハヤヒの子・ウマシマジが、物部神社社伝で東海、北陸を征してる記述と、
纏向遺跡の搬入土器の6割が東海、北陸である事が一致するわけです。
忌部一族による東海、北陸の拓殖譚ですね。
>ホケノ山古墳の横穴式石室の時期がツバイチを支配してた物部守屋の時代である事とも一致します。
もちろん、ホケノ山古墳も忌部一族の豪族墓ですね。 @阿波 >>269
>違う地域の歴史だから、探しても無駄
同じ青銅器王国の範囲だよ。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/img2011/青銅器の分布%EF%BC%88紀元後二世紀%EF%BC%89.jpg
北部九州は防人さんの土地。
こんな所に王様はいない。
BC3世紀ころに出雲の銅鐸が畿内から中部に広がる。
出雲の王権も畿内に移動してたのであろう。
この大きな国の主は大国主。
その王権の場所は高天原(御所市高天)のある葛城だ。 魏志倭人伝は九州の話ばかり。
鏡は出てきても銅鐸の話など出ない。
畿内は邪馬台国に関係ない。 >>271
BC3世紀ころに出雲の銅鐸が畿内から中部に広がる。
いや実際は、倭国(阿波)の銅鐸が出雲や畿内、中部に広がった。
>この大きな国の主は大国主。
その、【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 推して知るべし。 @阿波 >>272
新興宗教にハマってる人と同じ。
少しも論理的な話ができてない。
もともとこの邪馬台国論争とは何であろうか。
「古代天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない(本居宣長)」
私は新井白石をはじめこれら江戸時代の国学者たちによって九州説なる
ものが意図的に創作されたと思っている。
彼らはそもそも邪馬台国が九州にあったとは思っていない、
ただ国学者としてのプライドで大和朝廷および古代天皇の朝貢を認めた
くなかったのだ。
彼らが九州説を創作、そして支持者が増え、論争してくれてるうちは古代
天皇の朝貢という辛く重い荷物を着地させずに済む。
その着地しない状況を永遠に創ろうとしたのだ。
つまり九州説とは世論誘導のための虚構である。 >>272
>鏡は出てきても銅鐸の話など出ない。
>畿内は邪馬台国に関係ない。
では鬼道とは何か?
中国人が中国発祥の鏡祭祀を鬼道とは言わないであろう。
卑弥呼の時代の2世紀末、鏡以外の祭器とは銅鐸しかないではないか。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、北陸、伊勢尾張からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。
問題は男王が何処にいたかだな
淡路島の鉄器を利用しやすい、本州沿岸部の高台が怪しいが 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた渡来人系の出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。 その時代の男王は出雲の大国主だろ。
伊勢遺跡は地方議会みたいなもの。
中央政府は出雲。 同じ紀元前後の時代。
渡来人系の丹後半島の王族ヤマタノオロチ族。
丹後半島に侵攻したカグツチ(ホアカリ系、記紀でいうスサノオ)に王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びる。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた大阪湾の渡来人に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。 >>271
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよバカジジイ! >>276
>1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。
倭国(阿波)を発った忌部一族の拓殖交流ですね。 @阿波 畿内に逃れてきた出雲の王族サルタヒコ一族、丹後半島のヤマタノオロチ族、環大阪湾にいた倭人(クナト)一派が、1世紀半ば近畿一円に国を作る。
クナ。クニの語源。対外的には倭国。
出雲族の姫、幸神と、クナトの神の子がサルタヒコ。
出雲族と倭人の同盟の証。
サルタヒコは暦の神。一年に一回伊勢遺跡で暦を作り首長達に伝えていたんだな。
サルタヒコは、月読にして大国主、魏志倭人伝でいう卑弥弓呼。 >>271
で、ニギハヤヒが秦からの渡来人である事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、ニギハヤヒが秦からの渡来人だとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよバカジジイ! サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、卑弥弓呼。日見彦。暦の一子相伝者。
倭国大乱で殺されて、日本列島から暦が無くなる。
猿田彦は界の神、堺にいたのかな?
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が消えるのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。 >>276
>面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。
多分、第2の都。
万が一の場合、王権が避難できるような。
白村江敗戦の後、落ち着かずそわそわした天智天皇が近江に遷都してるだろ。
天然の要塞である近江は弥生時代からそのように認識されてたのであろう。 >>277
>加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
加茂岩倉遺跡も含め、倭国(阿波)を発った忌部一族が各地へもたらしたものだよ。 @阿波 いやいや、実は伊勢遺跡みたいな拠点は本来はたくさん各地にあったんだよ。 朝貢、、、外交の贈答品を朝貢にしたかったのかも。
渡来人、、、古代中国江南から済州島含む半島南部の沿岸部にもたくさん点在
した倭族の拠点から倭人が列島へ来ただけのような気がする。
何から何でも大陸由来、半島経由の説に辟易する。朝貢、渡来人、など其の為の造語としか思えん。
かって学者センセイらの説いた稲作の伝来ルートが真逆のルートを示唆する縄文米などのオパール等の発見で感じさせられたのは、恣意的に語られた旧説は全く信用に足るものじゃ無いことである。
魏志倭人伝等も偽書だとは思わんが、あくまで他国の史書と言う事を念頭に置いておく必要は無いのか。 >>288
で、江南から倭族とやらが渡来定着して縄文稲作をもたらした事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と
土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、江南から直伝した中粒種の縄文米の証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
で、江南から倭族とやらが渡来定着して縄文稲作をもたらしたと
ウソブいている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
. 朝貢は東アジアにおける共通の制度であり、否定する理由は何もない。
大陸から誰かが稲作を持ち込まないと弥生時代は始まらない。
邪馬台国には絹があったので、桑と蚕も持ち込まれた。
もちろん、彼らは最初に九州に上陸したはずだ。
何もないところに文明は生まれない。 >>290
正解、正直に書いたほうが良いんだよ。
当時、着ていた服などもあるでしょ、
絹ではなかったとか、麻、獣の皮・・・その他。 東アジアという板(スレッド)だったかな
「文化は高いところから低いところに流れる」
このような書き込みを何度も見た おかしな教育を受けたり、
悪く言うと洗脳され、逆のことを言ってる人もいる
「」内の言葉を調べてみた?
日本は一番↓(下)だというのが本当の話、
それとも下だった? 日本昔話『天狗の羽うちわ』
天上人が〜と言っていたり、
橋などを架けているのが天上人、工事などをしている人々?
鉄、トンカチ(ハンマー)で・・・。 日本を下に置きたいヤカラが多いからねえ。「」内を誰が言ったのか…(アッ >>295
もれ(仮)が言ったんだけど、どこの池沼なんだ?
そろそろ頭の病院に行け どこの池沼なんだ?
精神科(施設??)というのがあるから、そこへ行け >>290
で、中国大陸から九州に上陸して稲作を持ち込んだ事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、中国大陸から九州に上陸して稲作を持ち込んだとウソブいている
頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
. >>288
で、江南から倭族とやらが渡来定着して縄文稲作をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、江南から直伝した中粒種のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
で、江南から倭族とやらが渡来定着して縄文稲作をもたらしたとウソブいている
頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
QJ3 畿内説スレ消えたな?
zarakokuをはじめ基地外に荒らされてたからな。 もうあのスレの存在価値はないだろう。
テンプレがまずクズだった。 かもせんせのスレ相変わらずハイクオリティー!(またこんど来ます(おやすみー >>307
お、ありがとう。
わしの説、けっこう信者が増えてきている。
反論できる人はいない。
ただ「黙殺」に廻る人がほとんど。 日本は侵略や征服された歴史がないので王権の痕跡は神社として残る。
4世紀前半の崇神ゆかりの大神神社、その前時代が台与や卑弥呼の時代だ。
つまり大神神社より古い名神大社がある場所こそ邪馬台国の王都である。
大神神社より古い名神大社は数社に限られる。
しかも一カ所に集中している。
高天彦神社、葛木御歳神社、高鴨神社、葛木水分神社とその下の長柄神社。
邪馬台国とは葛城なのだ。
このように名神大社だけを見ても邪馬台国の場所がはっきりわかるのである。
邪馬台国の都が纏向などにあるものか、バカが。 >>309
>邪馬台国の都が纏向などにあるものか、バカが。
そうだね、邪馬台国の都は阿波にあるから。 @阿波 >>311
>いやぁそんなことはない @葛城
葛城は??? @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 葛城の土蜘蛛
神武東征の際に征伐されたとある
また脛が長かったと言われている
ナガスネヒコと似ているな
葛城の土蜘蛛は征服に抗った忠義の厚い先住民だったのかな?
その後の葛城の勢力は何なんだろう? >>313
本来の「葛城」って奈良じゃなくて、鳴門市が本貫地なんだよ。 奈良の葛城に葛城神社なんてないでしょ。 @阿波
阿波国鳴門には「葛城神社」がある。
「葛城神社」は鳴門市北灘町粟田に鎮座し,一言主神(ヒトコトヌシノカミ)をご祭神とする。
縁起文中にある「藤葛にて馬がつまづき神は落馬され…」とあるが、注文すべきは「藤葛」というキーワード。
列びは前後逆になるが「葛藤」という言葉がある。
「葛藤」とは「藤原氏」と「葛城氏」の因縁から生まれた言葉。
「葛城神社」には境内に古墳があったり、古代の遺物が発掘されている。
そして背後の天円山一帯は特に重要な地域で、古代史に詳しい人は「萩原墳墓群」をご存知であろう。
因みに、「藤原氏」(中臣氏)の本貫地は鳴門市の西隣、板野郡板野町である。
神武天皇と戦った長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。
また、「蘇我氏」の本貫地は徳島県石井町にあり、そこには「曽我氏神社古墳群」や奈良に先行すると思われる「白鳳寺院跡」および「白鳳瓦窯跡」が確認されている。 「阿波」は実に面白い所。
阿波各地の遺跡で記紀のストーリ巡りが出来るよ。 そんなこと、畿内や九州では叶わぬこと。 @阿波 葛城一言主
「私は悪事も一言、善事も一言にて言放つ言離神、葛城一言主神なり」
普通、日本語では「あの人の良いことも悪いことも知ってる」てな具合に、
「良い」が先になるはずなのだが、一言主の場合は雄略に対して「悪」が先に来ている。
雄略が行ったよほど酷い悪のことを言いたかったのであろう。
これはもう何なのか分かる。
眉輪王(まよわのおおきみ)の変だ。
眉輪王をかくまった葛城円(つぶら 葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼き殺された。
土地も娘も差し出すと哀願する円を雄略は焼き殺した。
これらは史実であり、近年、極楽寺ヒビキ遺跡として発見される。
消火活動の痕跡が全くなく、土まで焼けている恐ろしい遺跡だ。
記紀では一言主を天皇と対等のように書いているが、続日本紀では一言主は土佐に流されたとある。
一言主を祭神とする土佐一之宮が現存する事からも、続日本紀の記述が正しいのであろう。
葛城では主が焼き殺され、それをなじった主も流された。
そのような葛城の凄まじい怨念を背景に、やがて葛城から台頭してくるのが蘇我である。 >>316
>眉輪王をかくまった葛城円(つぶら 葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼き殺された。
鳴門市「葛城神社」背後の天円山(あまがつぶやま)。 @阿波 こもりくの泊瀬
豊泊瀬
吉野の泊瀬女
泊瀬とはどういう勢力か? 神武東征紀の強烈なイメージから、まさか神武の時代が女王国だったなんて誰も思わないだろう。
それもそのはず日本書記は神武の時代が女王国だとばれないように意図的に編纂されたのだ。
発想を地動説に切り替えれば見えてくる。
倭國王帥升とはスサノオだ。 京都の五塚原古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。
ここにきて伊香色雄命を軸とする二人の人物が浮かび上がってきた。
箸墓古墳とは伊香色雄命の墓ではないだろうか。
彼が磯城の王であったことは妹のイカガノシコメとヒメヒコを形成してることでも明らか。
そのイカガノシコメから産まれたのが崇神。
崇神墓を古事記の記述から行灯山古墳として、叔父で磯城の王であった伊香色雄命が崇神より巨大な墓を造ってたとしても不思議ではない。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。 >>322
>箸墓古墳とは伊香色雄命の墓ではないだろうか。
伊迦賀色許売(いかがしこめ)、伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は
日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。
そんな高貴な人の墓は奈良盆地のような平地には造営しないんですよ。 これ常識。 @阿波 >>323
>そんな高貴な人の墓は奈良盆地のような平地には造営しないんですよ。 これ常識。
それは、奈良盆地では、イカガノシコオでさえ、平地に墓を造らねばならないほど最高位の人物ではなかったということ。
箸墓近辺から見た画像。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/32_2056de6028.jpg
耳成山の向こうに神武ゆかりの畝傍山、そしてその向こう高天原(金剛山)。
いくら箸墓の様な巨大墓を造ろうとも天然の山の威容には敵わなかったわけだ。 >>324
>それは、奈良盆地では、イカガノシコオでさえ、平地に墓を造らねばならないほど最高位の人物ではなかったということ。
それは、イカガノシコオの墓じゃないってこと。 @阿波 奈良は色々興味深い
荒木神社の辺りも興味深い、浮田の杜 >>325
10代崇神は最高位と言える。
最高位である大物主を殺し、自らが最高位に就いたのだから。
大物主の霊が恐いのか、大神神社を建てる。
しかしイカガノシコオは違う。
彼の時代まで最高位の大物主は生きていた。 >>328
徳島県美馬市美馬町にある「玉振神社」。
主祭神は、玉振姫命・大己貴命で、美馬市美馬町宗重部落のほぼ中央にある。
すぐ東には四国最大級の巨石墳(円墳)の「段の塚穴古墳」があり、西には白鳳時代の寺院跡「郡里廃寺跡」がある。
この社はもと正部神社の祭神、清姫霊神の侍女、玉振姫霊神を祀っていたといわれている。
延宝五年(1677)に大己貴命を宗重部落の氏神として合祀し、鎮座したものだそうだ。
この美馬町は、吉野川中流域にあり「倭地」なのである。
美万岐に入り込んで美万岐に居を定め、師木水垣宮を宮殿にしたと伝えられている。
この「所知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)」はもちろん「崇神天皇」のこと。
この師木水垣宮の御宇に疫病がはやり、多くの人民が死ぬという大変な出来事が起こっている。
これは、大国主命に近い埴夜須比賣命(武埴安彦)の一族を討亡した祟りと考えて恐れられたとも考えられ、後世の贈名でも祟神(たたりがみ)の天皇となっている。
また、大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、
大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。
崇神天皇の謚号のとおり、崇神紀には天照大御神や倭大国魂神社の祭祀、天神地神、神地・神戸を定め、供物の定義等のほか「玉振」として大田田根子や市磯長尾市が求められるなど、神祇制度の起源説話ととれる記事が集中している。
「玉振神社」は「玉振り」として求められた淳名城入姫命が祀られていたものと思われる。 @阿波 倭国(阿波)では、「淳名城入姫命」のような有名な神様じゃなくても、きちんとお祀りしているんですよ。 @阿波 >>330
>大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、
大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。
丹田古墳を調べると4世紀ごろ、オオタタネコの時代であろうから、
大和でクーデターがあった時期。
「加茂=神」の系統(大物主)が王権を崇神に乗っ取られた時期。
大和も阿波も連動してたのだろう。
基本、前方後円墳は鴨の系統ではないから丹田古墳は乗っ取った側の墳墓だろう。 >>332
>大和でクーデターがあった時期。
それは、8世紀以降の「大和」じゃなくて、倭国(阿波)の時期ね。
> 大和も阿波も連動してたのだろう。
大和も倭国(阿波)の拓殖地だったからね。 @阿波 阿波には中平銘鉄刀の和邇氏の本拠がない。
したがって大和の勝ちw >>334
>阿波には中平銘鉄刀の和邇氏の本拠がない。
和邇氏だろうが物部氏だろうが、すべて元を辿れば倭国(阿波)を発った忌部一族。 @阿波 >>335
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部一族)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>335
>和邇氏だろうが物部氏だろうが、すべて元を辿れば倭国(阿波)を発った忌部一族。
和邇氏だろうが物部氏だろうが、すべて元を辿れば出雲。
壱岐の原の辻遺跡では楽浪の文物と一緒に出雲土器が多数出てくる。
古代出雲人が弥生時代の日本のエスタブリッシュメントであった証拠。
加茂岩倉遺跡の銅鐸が近畿から中部まで広がるのもその証拠。
また物部の祖先は出雲王国の防人であったのだろう。
半島の全羅道あたりにも展開してたようだ。
全羅道の上雲里遺跡では見事な翡翠の勾玉が出てくる。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/50_tn_91788ded62.jpg >>337
>和邇氏だろうが物部氏だろうが、すべて元を辿れば出雲。
出雲だろうが畿内だろうが、すべて元を辿れば忌部一族。 @阿波 >>338
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋
国底立神、
国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神、
阿波咋
倭国大乱を引き起こした張本人 理由はわからないんだけど、
家の老婆の言う、凄い土地を持っていたというのと同じ話?
とある時代になり、
某という家の臣下、配下(下の家??に思えるけど、実際は・・・)になったとか >>341
真は、臣下・配下ではなく、元祖。 @阿波 >>340
魏志倭人伝では「倭国乱」
記紀では「国譲り」 @阿波 実際は暴力団ではないんだけど、暴力団だと思われる?
そういう話なんじゃないの?
ここは家の土地、土地だったんだよ
とか
普通の人は言わないはず、
そういう謂れのある人(談) >>342
だから、往古より天皇家は倭国(阿波)に「麁布」の調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)を求めてきている。 @阿波 日本の企業などを調べてみても、
そもそもの源流は何やらと書いてあったり、
とある時代の、某という家(一族)が開拓したところを〜
と書いてあったり 邪馬台国論争は崇神天皇がいつ頃の人物か、その一点。
崇神は4世紀初頭から前半が有力であり、ならばその数十年前の最高位のトヨは一人しかいません。
しかもそのトヨ=トヨ津媛は国宝中平銘鉄刀の保持者である和邇氏の祖・孝昭天皇の母です。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
考古学的根拠も伴い、邪馬台国論争は終了します。
古代史ファンはそれぞれ自説をお持ちなので、私の説を黙殺するのも結構ですが、むなしいだけですよ。 329 名前:日本@名無史さん 2018/07/28(土) 06:53:10.91
日本書記でなぜ神武東征紀があれほど誇張されてるのか。
答:神武の時代が女王国であったから。
330 名前:日本@名無史さん 2018/07/28(土) 07:02:34.39
ではなぜ女王国を猛々しい男王国に変えたのか。
答:ヒミコが誰なのか分ってしまうと、約100年5世代前の倭國王・帥升が誰なのか分ってしまう。
倭國王・帥升とは、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛と神武夫妻から約5世代前、スサノオだ。
つまり日本の歴史は中華皇帝・安帝への土下座から始まった。
この【屈辱的史実】を7世紀の朝廷は書けなかった…
だから基点となる神武時代をBC660年などと大きくずらした。 331 名前:日本@名無史さん 2018/07/28(土) 07:11:06.80
朝貢年
266年 台与 天トヨ津媛
・
238年 卑弥呼 ヒメ(踏鞴五十鈴)媛
・
・
・
・
・
107年 倭國王・帥升 スサノオ
後漢書東夷伝の倭國王帥升とはスサノオである。
332 名前:日本@名無史さん 2018/07/28(土) 07:35:29.64
7世紀に「天皇・皇后」という称号はなぜできたのか。
答:女王を消すためだ。
実際は今のイギリスのように「女王・婿」であったが
新しく「天皇・皇后」を採用し、婿の神武を天皇、女王であったヒメを皇后にした。
そしてヒメに出雲族の象徴である「踏鞴」と妹と同じ「五十鈴」を付け足した。
姫蹈鞴五十鈴媛
ここからヒミコを連想できる人物はなかなかいないであろう、天才のわし以外は。 良すれあげえ!かもせんせかっこええ!
あたかたすさんいはったらワニさんが素戔嗚尊の子孫いうことになりますか?(突然質問してすんません!(粟鹿大明神がいうてました? 国宝中平銘鉄刀が五尺刀で粟鹿大明神の系図のが正しかったら卑弥呼さんは出雲? ありゃ?ダックか?妬くな
わえは刀を診る目は肥えてるんや ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています