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★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★

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0001日本@名無史さん
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2018/04/19(木) 13:05:56.87
邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。

10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。

これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。

そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。

わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 

神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。

つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。
※考古学的根拠「国宝」中平銘鉄刀・和邇氏の系図は>>2
0438日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 09:50:35.31
>>437

神武が大和に来た時、事代主神と鴨王がいた。
神と王。

王権である、
0439日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 09:54:45.44
wiki

鴨王[5](かも の きみ/かも の おおきみ、生没年不詳)は、古代日本の政治家。
天日方奇日方命[1](あまのひがたくしひがた の みこと[注 2])の名でも知られる。
『日本書紀』によれば、懿徳天皇(第4代天皇)の外祖父である。

かも の おおきみ
もう一度言う、「おおきみ」である。
0440日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 09:56:55.36
ま、纒向学者が言いたいのは、こんなとこだろ

 ヤマト王権 = 邪摩堆王権
0441日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 10:12:24.64
>>438

頭大丈夫?   @阿波
0442日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 11:03:02.16
>>441

「曰渟名底仲媛命 事代主~孫 鴨王女也」(日本書紀原文)
0443日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 11:07:11.39
>>442

いや、だから、それが「大和」とどう関係してるの?  どこかに「大和」って書いてある?  @阿波
0444日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 11:13:40.22
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650  
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神
「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」と。
また、「寛保改神社社帳」には「加茂村式加茂大明神神主加茂村 白川信濃同長太夫、同助大夫、同権之進」とあり、
更に「阿府志」には、「鴨神社小社三好郡加茂村に在り祭神一座別雷神、神主白河信濃社侍宮川某堂河原某」とある。
鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。 「徳島県神社誌」

京都、上賀茂神社の創立が、天武天皇7年(678年)と伝えられているので、「鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。」を信じれば
「京都、上賀茂神社」より「阿波國 鴨神社」の創立が古いということになる。 
「郷社 下加茂神社」
鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2
御祭神 玉依姫命

※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。  @阿波
0445日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 11:18:08.73
「阿遅志貴高日子根神」は、大国主命と、須佐之男命の娘・多紀理毘売命との間に生まれた長男。 「迦毛大御神」とまで呼ばれた実力者である。

阿波国三加茂町加茂山の高い尾根上に占地する「丹田古墳」は「阿遅志貴高日子根神」の神陵。

その麓に鎮座する式内社「鴨神社」はその拝所。  @阿波
0446日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 19:19:51.41
>>443
>だから、それが「大和」とどう関係してるの?  どこかに「大和」って書いてある?

事代主神の娘で鴨王の妹であるヒメ(踏鞴五十鈴)媛と神武が結婚するのだから、
神武の居住地カシハラの近くが彼ら鴨(神)王族の住まい。
高天原(御所市高天)、またはそのふもと、おそらく名柄。
長柄神社別名「姫の宮」が有力。
息子の綏靖は御所市森脇近辺、おそらく葛城一言主神社あたり。
0447日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 19:24:59.12
>>444
ネタにマジレスするのもあれだが、四国にいた鴨族が祀っただけ。
出雲系鴨族は加茂岩倉の銅鐸と兄弟である松帆銅鐸に見られる様に淡路にも多い。
0448日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 22:09:25.30
鴨王の孫か誰かが四国に派遣されたはず。
面倒だから調べない。
0449日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 22:26:42.92
>>447
>ネタにマジレスするのもあれだが、四国にいた鴨族が祀っただけ。

「四国にいた鴨族」  妄想はいいから。


>出雲系鴨族は加茂岩倉の銅鐸と兄弟である松帆銅鐸に見られる様に淡路にも多い。

そりゃ、島根も淡路も倭国(阿波)の領分なんだから。  @阿波
0450日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 22:50:05.28
>>449
www
0451日本@名無史さん
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2018/08/16(木) 22:52:28.96
巻第四 地祇本紀

三世孫、天日方奇日方命。またの名は阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)。
この命は、日向の賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)を娶って、一男一女をお生みになった。
子は建飯勝命(たけいいかちのみこと)。
建飯勝命の妹の渟中底姫命(ぬなそこひめのみこと)。
この命は、安寧天皇のときに皇后となり、四人の子をお生みになった。
すなわち、大日本根子彦耜友天皇(おおやまとねこひこすきとものすめらみこと:懿徳天皇)。
次に常津彦命(とこつひこのみこと)。次に磯城津彦命(しきつひこのみこと)。
次に研貴彦友背命(たきしひこともせのみこと)。

四世孫、建飯勝命。
この命は、出雲臣の娘・沙麻奈姫(さまなひめ)を娶り、一男をお生みになった。

五世孫、建甕尻命(たけみかじりのみこと)。またの名は建甕槌命(たけみかつちのみこと)、
または建甕之尾命(たけみかのおのみこと)。
この命は、伊勢の幡主の娘・賀貝呂姫(がかいろひめ)を妻として、一男をお生みになった。

六世孫、豊御気主命(とよみけぬしのみこと)。またの名を建甕依命(たけみかよりのみこと)。
この命は、紀伊の名草姫(なくさひめ)を妻として、一男をお生みになった。

七世孫、大御気主命(おおみけぬしのみこと)。
この命は、大倭国の民磯姫(たみいそひめ)を妻として、二男をお生みになった。

八世孫、阿田賀田須命(あたがたすのみこと)。
和迩君(わにのきみ)たちの祖である。
次に、弟の建飯賀田須命(たけいいがたすのみこと)。
この命は、鴨部(かもべ)の美良姫(みらひめ)を妻として、一男をお生みになった。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/16(木) 23:02:40.69
これはいわゆる出雲系大物主の系譜。
全員妻と子の名前が書かれてる。
しかし一人だけ書かれてない人物がいる。

八世孫、阿田賀田須命(あたがたすのみこと)

彼だけが書かれてない。
これは朝廷に気兼ねして書けなったのだ。

阿田賀田須命の妻があのモモソ媛だからだ、
そして崇神がこの神を殺したのだ。

日本では一度だけクーデターがあった。
クーデターをおこしたのは現天皇家の祖先・10代崇神。
おこされたのはスサノオ八世孫阿田賀田須命。、
0453日本@名無史さん
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2018/08/16(木) 23:03:38.98
大体元々ヤマトにいたのは、ナガスネヒコや土蜘蛛なんじゃないのか?
葛城の土蜘蛛は脛の長い土蜘蛛だったと伝承に残っているし。
0454日本@名無史さん
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2018/08/16(木) 23:39:37.22
長髄彦のところに、饒速日が「自分は天神の子であり、王である」と言って押しかけて、
続けて神武が「自分も天神の子であり、王である」と言って押しかけてきた。
神武と饒速日は勝手に和解してしまったが、二人も王を抱くことになってしまった長髄彦はたまったものではない。
領地を取られてしまうからだ。
結局、饒速日は長髄彦を排除してしまう。
0455日本@名無史さん
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2018/08/17(金) 00:13:27.86
渡来人勢力を受け入れ、金属加工や水稲で豊かになった稲作民(縄文系勢力と渡来人系勢力の混血)が山の縄文系勢力を征伐したという歴史認識は間違っている

実際は狩猟や石器作りをしていた勢力が朝鮮半島系渡来人と手を組み、稲作民を征伐したというのが真実

鎮魂歌
邪馬台国、卑弥呼、初期のヤマト政権を歌ったもの
倭国大乱の勝者は、畿内を征伐した石神であり狩猟民。
更にアチメ、大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では朝日という意味になる

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0456日本@名無史さん
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2018/08/17(金) 07:52:28.86
>>453
>大体元々ヤマトにいたのは、ナガスネヒコや土蜘蛛なんじゃないのか?


いや、上牧の銅鐸が加茂岩倉遺跡と兄弟銅鐸であることからも、弥生時代前期から中期には出雲系鴨族が来ていた。

葛城の土蜘蛛は脛の長い土蜘蛛だったと伝承に残っているし。

ニギハヤヒが弥生末、瀬田遺跡のころか。
これが倭国大乱の原因であろうが、神武が先住鴨族の助太刀をすることでとりあえず収まったのであろう。
そして神武は神の娘と結婚する。
神武に先立たれた神の娘の様子は「年既に長大 夫婿なし」だ。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/17(金) 08:04:30.60
日本では一度だけクーデターがあった。
クーデターをおこしたのは現天皇家の祖先・10代崇神。
クーデターをおこされたのはスサノオ八世孫阿田賀田須命。

その阿田賀田須命を祀っている神社がある。
あの【国宝】中平銘鉄刀の保持者和邇氏の地域だ。
和爾坐赤坂比古神社。

わしが初めてこの神社に参拝したとき、わざわざ参拝に来てくれたことがうれしいのか、
それともいまだに苦しいのか知らないが、青白き蛇体が激しくのたうち回っていた。
一瞬だがその映像を脳裏で見たのだから仕方がない。

太古から蛇に例えられる大物主の姿だ。
0458日本@名無史さん
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2018/08/17(金) 08:05:52.80
>>456
>いや、上牧の銅鐸が加茂岩倉遺跡と兄弟銅鐸であることからも、弥生時代前期から中期には出雲系鴨族が来ていた。


いや、それ忌部さん達の活動結果だよ。  いろいろ妄想が働くもんだね。  @阿波 
0459日本@名無史さん
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2018/08/17(金) 17:51:32.68
895日本@名無史さん2018/08/17(金) 17:44:23.11
弥生時代の硯が続々発見されている。

2世紀前半までには九州から出雲(田和山遺跡)、
そして三重(大城遺跡)まで西日本全体に文字文化が行きわたっていた。

壱岐の原の辻遺跡では楽浪の文物とともに大量の出雲土器が出土する。
これは弥生時代の日本のエスタブリッシュメントが出雲人であった事を意味する。

その出雲の神々はBC3世紀ころから畿内を中心に移住している(松帆銅鐸の放射性炭素測定)。
これは加茂岩倉の兄弟銅鐸の分布からも分る。

ならばヒミコの時代、王都は畿内にあり、彼ら出雲族が王であった。

彼ら出雲王がいたのは葛城であり、ヒミコとは事代主神の娘・ヒメ(踏鞴五十鈴)媛である。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/17(金) 23:04:52.00
その後で筑紫の邇邇芸に国を譲っただろ
0461日本@名無史さん
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2018/08/18(土) 08:09:52.33
その後で筑紫の邇邇芸に国を譲ったという夢を見たのか、あぁそうなのか。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 08:19:04.94
だから、いくら出雲が栄えていたと連呼しても、九州説への反論にはならない。
また、畿内説が有利になるわけでもない。
倭国の首班が出雲、筑紫、その後に大和と変遷しただけのこと。
卑弥呼がいた3世紀において、平原遺跡がある筑紫が最大の権力を持っていたことは明らか。
しかも平原遺跡は女王墓であると考えられており、卑弥呼の墓そのものだ。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 08:22:30.47
>>462
>倭国の首班が出雲、筑紫、その後に大和と変遷しただけのこと。

あれっ?  倭国(阿波)が抜けてるよ?  @阿波
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 09:44:33.29
>>462
>だから、いくら出雲が栄えていたと連呼しても、九州説への反論にはならない。
また、畿内説が有利になるわけでもない。

壱岐の原の辻という楽浪の使者を迎え応対する主体を畿内・出雲に占領されていながら九州説などありえない。

今で言えば全員が東大出身の外務省官僚に大使て偏差値38の福岡工大出身者が挑むようなもの。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 10:24:50.54
>>464
占領?
アホか。
魏志倭人伝にそんな描写はないだろ?
土器だけで考えるといかに大間違いするかという見本だな。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 10:37:49.19
>>465
倭人伝に描写があったかどうかではなく、
九州にある壱岐、筑紫からほんの少しの壱岐で、
出雲・畿内勢力が楽浪の使者を迎え入れていた。
今でいう外務官僚。
出雲・畿内勢力が王権であった証拠。

残念だったな偏差値38の福岡工大よwww
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 11:08:19.99
楽浪帯方からの使者が滞在したのは伊都と書いてあるじゃないか。
魏志倭人伝を無視するなよ。

>>466
>出雲・畿内勢力が楽浪の使者を迎え入れていた。

ここがまったくの妄想。
出雲や畿内からも人が筑紫や対馬、壱岐、すなわち倭国に来ていたというだけのこと。
使者の公式な対応はあくまでも伊都で行なった。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 11:11:12.80
>>459
>その出雲の神々はBC3世紀ころから畿内を中心に移住している(松帆銅鐸の放射性炭素測定)。
>ならばヒミコの時代、王都は畿内にあり、彼ら出雲族が王であった。

500年もズレているよ。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 11:35:31.20
>>467
>楽浪帯方からの使者が滞在したのは伊都と書いてあるじゃないか。
魏志倭人伝を無視するなよ。

そりゃ滞在したのだろね、だから何。
この前の伊勢志摩サミットで各国首脳は伊勢志摩に滞在したよね。



>出雲や畿内からも人が筑紫や対馬、壱岐、すなわち倭国に来ていたというだけのこと。

権力の主体の話をしてるのだが。
今なら外務省は東京だよね。
それと同じ。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 11:37:58.68
>>468
>500年もズレているよ

500年もズレている根拠なし。
放射性炭素測定で淡路の松帆銅鐸がBC2世紀からBC4世紀。
ざっとBC3世紀にすることに不都合はなかろう。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 11:38:44.72
赤坂の大使館があるのが伊都に相当。
壱岐は羽田空港程度の通過地点だよ。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 11:39:36.47
>>470
卑弥呼に関係ないだろうということ。
その後で出雲の国譲りで筑紫に王権が移ったんだよ。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 12:09:23.78
>>471
迎賓館が壱岐・
伊都は滞在通過地点。

それ以前に福岡が2世紀末から畿内土器に圧倒されていき、
やがて在地の西新土器が消えていくのに、
福岡に主権も何もあるもんか。
0474日本@名無史さん
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2018/08/18(土) 15:40:27.77
>>473
魏志倭人伝を無視していますね。
妄想だけ繰り返しても意味ありませんよ。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 15:43:59.35
九州にいた卑弥呼は、外地の文化に理解があり、積極的に取り入れたのだな。
卑弥呼の即位がその2世紀末だから。
ただ、その時点で畿内に王都が成り立つ余地はまったくない。
平原遺跡を見ると大陸からの文化の輸入にも積極的だったようだ。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 15:45:13.72
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 20:12:16.44
>>474
伊都は無視していない。
但し通過点。

>>475
>卑弥呼の即位がその2世紀末だから。
>ただ、その時点で畿内に王都が成り立つ余地はまったくない。

10代崇神が4世紀初頭から前半、2世紀末とは神武のころ。
その神武が大和に来た時、すでに鴨「王」も事代主「神」もいた。
それぞれ神武の義理兄、義理父となる。
大和にあった出雲系の王権だ。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/18(土) 21:13:33.40
壱岐・対馬は単なる通過点としてしか紹介されていない。
伊都は郡使が駐在するところとして紹介されていて、外交拠点であることがわかる。

なんでこんな基本的なところから説明しなくちゃいけないんだ
畿内説はみんな夢でも見ているのか?
0479日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 07:41:04.74
>>478
考古学的には原の辻遺跡で楽浪の文物と出雲土器が共伴している。
楽浪を迎え入れて応対していたのが出雲人であることが分かる。

伊都も畿内土器に圧倒されるのだから出雲・畿内の出先機関。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 08:01:57.37
畿内大和説の貴族は、
なが〜い夢を見ているらしい。自らの官位・官職が永遠に続くことを願って、、、。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 08:26:29.49
>>479
>楽浪を迎え入れて応対していたのが出雲人であることが分かる。

出雲と交易していたというだけだよ。
対馬海峡、筑紫、出雲、越が倭の主な領域だから、不思議でもなんでもない。
そしてその代表権は、上古のいつかの時点で出雲から筑紫に移譲された。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 14:13:31.34
>>481
>対馬海峡、筑紫、出雲、越が倭の主な領域だから、不思議でもなんでもない。


これらは、忌部(海人族)の日本海ルート進出勢力
一方、関東までの太平洋ルート進出勢力の忌部(海人族)もいた。  @阿波
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 21:31:02.04
>>481
>出雲と交易していたというだけだよ

ならば楽浪と交易してた主体が出雲ということでいいな。
「上古のいつかの時点で出雲から筑紫に移譲された」なんて君の願望であって何も根拠がない。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 21:48:28.35
>>483
>ならば楽浪と交易してた主体が出雲ということでいいな。

うん、出雲忌部だね。  @阿波
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 23:04:23.03
>>483
>ならば楽浪と交易してた主体が出雲ということでいいな。

なんだ?
どうしたらそう飛躍できるんだ?
筑紫が全国と半島大陸と、めちゃくちゃ広域に交易をしていただけだよ。
筑紫の出土物を見ればわかる。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/19(日) 23:51:35.27
>>484
>どうしたらそう飛躍できるんだ?

飛躍ではなくて、原の辻に楽浪の文物とともに出雲・畿内土器が出てるのは事実。

九州倭国(笑〉とやらがあったのなら、
壱岐に出雲・畿内土器が入り込む余地すらないだろ。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 00:20:00.30
筑紫倭国が出雲を従えて大陸と交易していたんだろ?
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 06:53:16.36
>>487


うん、筑紫忌部と出雲忌部だね。  @阿波
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 09:19:47.75
>>487
出雲は太古から黒曜石の供給で王国を築いていた。
それは日本で最も古い墳丘墓は弥生中期の出雲が圧倒してる事からも分る。

その出雲王国は「中国対策」として半島西部・全羅道まで防人を配置してた事は、全羅北道・上雲里遺跡に見事な翡翠の勾玉と武具が出土してる事からも分かる。

筑紫も瀬戸内も同じく出雲王国の防人の土地。
畿内大和は出雲王の移住地。
出雲の王が住んだ場所は高天原(御所市高天)だ。

筑紫ごときが自惚れるな。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 09:56:41.67
>>489


出雲も筑紫もそれ全部、忌部はんと何度言えば!  @阿波
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 13:09:40.58
弥生中期はそうかもしれないが、高天原に攻め滅ぼされて筑紫に王権が誕生したことが記紀に記録されており、実際に弥生後期の王墓は筑紫ばかりになる。
その中心が筑紫の日向の伊都なのだけれど。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 13:33:07.34
>>491

出雲も筑紫もそれ全部、忌部はんと何度言えば!  @阿波
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 14:11:35.80
>>491
>高天原に攻め滅ぼされて筑紫に王権が誕生したことが記紀に記録されており

神武は在地のヒメ様と結婚。
結婚することが何で「滅ぼす」になるんだ?

しかもそのヒメ様の父は神、兄は王。
こちらが本物の王権。
その王権は5代続く。

そしてその王権を滅ぼした男が10代崇神だ。
ハツクニシラススメラノミコトとなる。

PS:神武は宮崎県だよ、
証拠は崇神が祖先の神武をしのんで宮崎神宮を立てている事。
神武の痕跡が宮崎にあり福岡にはなかった証拠。

福岡って何もないんだよw
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 14:22:07.13
>>491
>実際に弥生後期の王墓は筑紫ばかりになる。
>その中心が筑紫の日向の伊都なのだけれど。

あんなの王墓ではない。
あれが王墓というなら、弥生中期から王墓がある山陰出雲では3世紀半ばの西谷3号墳墓まで王墓が続くことになる。
平原よりよほど立派だ。
また丹波の赤坂今井の方がよほど王墓にふさわしい。

平原を王墓なんて言ってたら、
後の時代のワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳を卑弥呼の後裔王の墓と言わざるを得なくなるが、
あんなショボい古墳を卑弥呼の後裔王の墓なんて恥ずかしくて言えないだろ。
言えないならあきらめろ。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 19:14:51.93
>>494
弥生終末の北部九州ではあれだけの副葬品を持つ墓は無いから王墓だろうね

他の地域と比べるのは意味がないよ?
特に九州説には尚更無意味

糸島に都があったのは可能性的に古墳前期までかなぁ。

一貴山を見るとまだそこそこ力はありそうだけど
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 19:35:34.44
紀ノ川に伊都があるな
紀ノ川は神功皇后、応神が軍を整えた地

伊都国の王族は畿内周辺に移動したのかな?

天武朝、石徹白イトシラ、何か関係あるのだろうか?
白日別
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 19:43:09.71
>>495
>弥生終末の北部九州ではあれだけの副葬品を持つ墓は無いから王墓だろうね

副葬品の豪華さで王墓を決めるのなら、
5世紀後半で最も豪華な副葬品は奈良の新沢千塚126号墳墓になる。
しかし百舌鳥・羽曳野の大古墳を差し置いて、
あんな小さな長方形墳墓を王墓なんて言う人はいないしこれからも出てこない。

新沢千塚古墳群は大伴氏の墳墓でほぼ間違いなく、126号墳墓は大陸系の女性、
まぁ大伴氏の首長の妾と言ったところであろう。
大伴金村のお母さんあたりであるかもしれない。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 20:00:22.72
>>495
>糸島に都があったのは可能性的に古墳前期までかなぁ。

その後は大宰府あたりに遷都でしょうね。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 20:03:36.70
>>497
>5世紀後半で最も豪華な副葬品は奈良の新沢千塚126号墳墓になる。
>しかし百舌鳥・羽曳野の大古墳を差し置いて、
>あんな小さな長方形墳墓を王墓なんて言う人はいないしこれからも出てこない。

畿内の陵墓指定がデタラメなのは有名だろ。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 20:51:10.98
>>499
陵墓指定がデタラメかどうかと、
墓の大きさが大王を意味するかとは別次元の話だ。
論理をすり替えるな。

最近は考古学の発展で須恵器の編年が進み、
誉田御廟山が応神、
大仙が仁徳でほぼ間違いがないようになってきてる。

問題は全国3位の上石津ミサンザイだが、
次期大王と言われながらならなかった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)であろう。

だいたい天皇が死んでからあんな大きな墓を造り始めるわけがない。
一番良いのは皇太子の時代に造り始める事だ。
そうすれば天皇になって死ぬ頃に墓が出来てちょうどよい。

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のために大墳墓を造ったものの、
菟道稚郎子は大王にならなかった。
次の仁徳は上石津ミサンザイを超える大墳墓を造らないとかっこがつかない。
そして必死で大きな墳墓を造ったら世界一のものができたってわけさ。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/20(月) 21:07:36.35
それだと並行していくつか作る可能性もあるから、実際には前方後円墳を作る労力というのは、今までの見積もりが過剰だったのではないかと思う。
少なくとも、何年もかかる話だとは思えない。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/21(火) 17:26:08.54
>>497
文化の状況が違う5世紀の奈良?を持ち出してどうなるの?
もともと、あのあたりは巨大墳墓文化だし

反論ならば当時の弥生終末期の北部九州の状況でしてね。

総合的に考えても、北部九州の中での平原の副葬品が圧倒的すぎ
だから、畿内説の学者も無視できなくなったのだろ?

平原以前で同じ流れの大量鏡副葬文化の三雲では
ガラス製の璧も出土しており、金銅製の四葉座飾金具も出土している
つまり、かなりの権力を持ち、中国からも認められていた存在だった、という事。
当然、王墓なわけだが、その流れを汲む平原はやはり、王墓の可能性は高いね。
その範囲は謎だが。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/21(火) 18:32:03.40
中国側は倭王しか認めていないのだから、当然、平原遺跡の被葬者は倭王。
しかも倭国大乱より後で、魏晋代の装飾品を持つ女性だ。
魏の時代の倭王卑弥呼しかありえない。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/21(火) 19:45:37.51
>>500
さすがは鴨先生ごっつい勉強になる
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/21(火) 19:48:41.07
>>503
ダックごときが無粋レスこくスレちゃうよ?
黙って先生のうんちく読め?
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/21(火) 21:48:56.96
>>502
>>509反論ならば当時の弥生終末期の北部九州の状況でしてね。

なんで反論を弥生終末期の北部九州の状況でせねばならんのだ。

邪馬台国は九州と決め込んでるからこそ、そんなアホな例えになるのだろうが。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 00:02:52.16
弥生末期ってようは伊都国繁栄から没落に至る年代だよね
福岡には畿内系の土器が入ってきて糸島の方は完全に孤立してるしさ
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 00:15:15.08
>>507
没落?
それは幻想だよ
三雲も少し前に古墳前期の大型建物が発見されてるし、潤地頭給遺跡の玉造工房も古墳前期まで

弥生終末期は平原からもわかる様に全盛期だよ

箸墓と同時期の前方後円墳もあるし、また、古墳前期の墓も沢山あるが、未発掘なんだよなぁ
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 00:35:42.00
>>506

そもそも畿内説で平原を倭国王墓という人はほぼいないだろう?(希にいるが)

平原を王墓と考えているのは九州説なのだから、北部九州内での比較が妥当だよ

その九州説の王墓へ反論をしたいのなら、本州の墓との比較は意味がない
倭種ではあるが、女王の国の範囲ではないからね
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 07:40:56.97
>>509
>倭種ではあるが、女王の国の範囲ではないからね

庄内土器はもちろん、少量だが畿内弥生土器まで筑紫で出てるのだから、
筑紫は女王の国の範囲。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 07:44:56.42
筑紫は女王の都
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 08:13:00.54
>>510
>庄内土器はもちろん、少量だが畿内弥生土器まで筑紫で出てるのだから


庄内土器はもちろん、畿内弥生土器まで筑紫に持ち込んだのは「筑紫忌部」だよ。  @阿波
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 09:24:24.48
庄内土器はもちろん、畿内弥生土器まで筑紫に持ち込んだのは「物部」だよ。
中河内が土師器の拠点なのもそのせい。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/22(水) 09:28:55.94
>>513

その「物部」も元は忌部一族だよ。 「中臣」も「蘇我」も「大伴」もみな忌部。  @阿波
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/23(木) 19:32:43.84
【臺與】
長生きした卑弥呼のあとを13歳で継いでるわけだから、卑弥呼との世代差は3〜5世代。

ならば、
➀万幡豊秋津師比売説
アマテラスの息子・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)と結婚し、
天火明命(アメノホアカリ)と邇邇芸命(ニニギ)の母となってるので、
アマテラスとの世代差3〜5世代では説明が苦しい。
また神武の曽祖父ニニギが3世紀末あたりになるが、これはとても無理。

A天豊姫命説
崇神時代の建諸隅命の子なので時系列として無理。
考古学的にも文献史的にも崇神を4世紀初頭から前半とするのが有力なので、
崇神を3世紀中頃の人物としなければ無理。

B豊鍬入姫命説
崇神天皇の皇女だから、モモソ媛を卑弥呼とし、モモソ媛を崇神の2世代前とすれば世代差は説明できる。
しかしこれも上記、崇神を4世紀初頭から前半とするのが有力なので時系列として無理。

C豊姫説
4世紀後半の神功皇后の妹だから論外。

つまりwikiの臺與候補、全員アウト!

というわけで臺與の条件をたった一人、トヨ津媛のみがクリアする。
しかも【国宝】中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の祖・孝昭天皇の母である。

卑弥呼とは彼女から3世代前のヒメ(踏鞴五十鈴)媛である。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/23(木) 21:29:01.50
>>515

「豊玉比賣」  @阿波
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/23(木) 23:39:20.75
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/25(土) 19:12:01.98
>>517
>この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。

そう思うのは勝手だが時系列として崇神の数十年前になるのか?
ヤマトタケルの説話を出してる時点で崇神より後の時代だろうが。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/25(土) 20:05:44.41
レスありがとうございます。
川上タケルが壹與の数十年後の倭王ということになります。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/25(土) 22:18:40.15
川上タケルって野球選手?

どのみち九州にはいないよ。
【国宝】中平銘鉄刀という物証とともにヒミコもトヨも判明したから。



   事代主
     ┣━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 11:43:38.94
與止日女神社の創建は564年で、
御祭神の與止日女は、神功皇后の妹という設定らしい
川上のタケちゃん伝説とは、まあまあ時代は合うな、・・・というか合わせてあるようだ。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 13:07:34.35
神功皇后の妹説はかなり後世の文献から登場する。
神学者の何某の著作が最初だったはず。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 17:07:35.58
與止日女神社(神紋は鍋島氏)

>昔は大陸に近い田島神社の方が盛大で、大社であったが、
当社が、国府にも近く、肥前国一宮となった<。

>川のほとりにある、姫神のお宮で、しかも肥前国一宮であるということで、
もっと華美な神社を想像していたのだが、そのような雰囲気ではない。
開放的で明るく、境内にベンチでもあれば、ゆっくりと時の流れを感じながら、
川面を見つめていたい。そんな感じ。<
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 19:40:32.89
>昔は大陸に近い田島神社の方が盛大で、大社であったが,,,

この田島神社は、大陸への出港に便利な唐津市呼子町加部島(古名:姫神島)にあったそうな。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 19:50:12.19
姫神島は高天が原にして松浦国府かも?(高天が原は葛城でもええですが
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 20:01:35.39
田島はもともと九州北岸全域を支配していたけれど、他の氏族に博多湾を取られて、辺縁部にだけ残っていると推察しています。
博多湾の主(=倭王)は何度か入れ替わっているようです。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 20:10:15.51
>博多湾の主(=倭王)

遠慮せず王の名前をどうぞ。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 20:14:21.04
倭奴国時代の辺縁にあった呼子・田島神社の、
そのまた辺縁の佐賀川上に、あの與止日女神社はポツンとあったってわけか、、、
それが六世紀に、誰かの肝いりで創建・再建された・・・。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 21:28:26.87
道饗祭 抜粋

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、

高天原は方違神社のある大阪湾岸の台地じゃないかな
上町台地&泉北丘陵
生國魂神社、方違神社、坐摩神社、仁徳天皇陵、錚々たる神々が鎮まり坐している
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 22:49:33.20
泉北丘陵に住んでるが全然関係ないよ。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/03(月) 11:22:53.51
BC3世紀ころ、超大国「秦」の誕生に備えるかのように出雲の銅鐸が近畿一円に拡散。
加茂岩倉と兄弟銅鐸である淡路の松帆銅鐸は2世紀〜BC4世紀。
加茂岩倉と兄弟銅鐸は他にも禁忌一円に多数あり、それらもおそらくその時代と推定される。

この時、王権も大和に移住したのでしょう。
後に神武がその王権に婿入りします。
北部九州というのはその王権の防衛での最重要地域。

九州に王権などありません。

また生口問題でも九州に太古から存在する奴婢郷はありません。
太古からの奴婢郷があったのは葛城。
大和の王たちが住む高天原の麓です。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/03(月) 11:33:04.78
>>531
>この時、王権も大和に移住したのでしょう。

出雲から大和に流れて言ったということ?
それなら出雲の国譲りで敗者となった事代主が大和に移動したのだろうね。
それを受けて誕生したのが筑紫の天孫族の日向三代の王家だよ。

>後に神武がその王権に婿入りします。

その神武の出身地が筑紫であり、父親までは天孫ニニギ以来、代々が九州で倭王だったのだが?
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/03(月) 18:36:27.34
>それなら出雲の国譲りで敗者となった事代主が大和に移動したのだろうね。

そうすると譲らせた勝者は四隅突出墳墓を造ったということになるが?

>それを受けて誕生したのが筑紫の天孫族の日向三代の王家だよ。

筑紫に四隅突出墳墓はないので君の話はヨタである。


>その神武の出身地が筑紫であり、父親までは天孫ニニギ以来、代々が九州で倭王だったのだが?

神武は宮崎県。君の話はヨタ。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/03(月) 19:03:50.94
>>533
>そうすると譲らせた勝者は四隅突出墳墓を造ったということになるが?

そうだと思うよ。

>>533
>筑紫に四隅突出墳墓はないので君の話はヨタである。

同じである理由がない。

>>533
>神武は宮崎県。君の話はヨタ。

根拠のない思い込み。
宮崎県が日向国となったのは景行天皇の時。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/03(月) 20:29:42.86
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/03(月) 22:31:31.57
>>531
>この時、王権も大和に移住したのでしょう。

そんな昔に大和に有力勢力がいた痕跡はない。

>後に神武がその王権に婿入りします。

それ、もっと後のこと。
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