キナイコシ VS @阿波
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鉄器ゼロで銅鏡も無いから
自らの姿を見ることすらできずに
状況なんて理解できないんじゃないの?
毛人=ムダ毛処理ができずに毛がぼうぼうの野蛮人 毛人=蝦夷=えみし
日本書紀の神武東征における歌に、
『えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず』
毛人は、一人で百人力の強兵と、人は言うけど、戦いもせず降伏した。
とある。
つまり鉄器国家北部九州から東征した神武に、
鉄器を持たない毛人は簡単に敗北した、というとても分かりやすい記録だ。
その後の478年に、宋書の倭国伝に倭王武の上表文として、
『東征毛人五十五國』
鉄器を持たないムダ毛ぼうぼうの毛人は、
鉄器国家北部九州からみて東方に55集落あったのが、
全部5世紀以前に征服されたということだな。 また八咫バカがクソスレ立てたのか
狂人と呼ばれるだけあってマジで狂ってるな 畿内説への恨みと自己顕示欲だけで頭はカラッポなのが良くわかる 阿波おどりの「阿波守・蜂須賀家政は、徳島藩民衆が“国民が人畜である証拠”として世界一入場規制が厳しい“ナイトクラブ”のようだった」を
世界に羽ばたくビジネスデザイン
徳島市とインド・ゴアとドイツ・ベルリンと大韓民国・光州市を
左翼おどりで友好姉妹都市に
元々、政治的、あるいは社会的マイノリティの抑圧からの解放の場として、存在している阿波おどり。
商業的な進化や成功が進めど、本来起こってきた能動的なムーヴメントとしての阿波おどりを継承しようとする気概が存在する。
関係者の中で500年以上もの間の社会的、政治的、経済的変化を受け入れ、そして乗り越え、守って来た。
それこそが神童であり、世代が変われど守り、そして継承していくものなんだ。
というメッセージが永続し神話化硬直化した阿波おどりビジネスの弊害に現れている。
http://bnana.jp/mags/berghain-bouncer-sven-marquardt-talkingabout-doorpolicy/
こういった民間活力の活用方法や
年中阿波おどりが楽しめるスタジオコーストを徳島観光協会で運営行えば良かったんですがね
http://blog.livedoor.jp/yukitakeishi/archives/71400723.html
https://amp.redbull.com/jp-ja/essential-tips-on-how-to-get-into-clubbing-institution-berghain-2017-15-04
https://ninja-woman.com/archives/47396820.html
http://tabippo.net/berghain/ 阿波おどりの「阿波守・蜂須賀家政は、徳島藩締め付けが世界一入場規制が厳しい“ナイトクラブ”のようだった」を
世界に羽ばたくビジネスデザイン
徳島市とインド・ゴアとドイツ・ベルリンと大韓民国・光州市を
左翼おどりで友好姉妹都市に 682日本@名無史さん2018/04/15(日) 06:16:33.78
テンプレを読みに行くことすら拒否する駄々っ子のために貼ってあげるよ
倭国内の弥生時代後期〜末期に鉄器がないと想定する方がおかしい
鉄器が「発掘されない理由」を考える方が、重要
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 683日本@名無史さん2018/04/15(日) 08:07:34.78
>>682
あのー
それだからダメだって言ってるんだが。
纒向の話をしているのに、
京都大阪までかき集めてどうすんの?
しかも京都大阪までかき集めてたったのそれだけ?
邪馬台国じゃないなあ、と思わないの?
北部九州の人がわずかに持ち込んだ鉄器を大事に大事に使ってたんだなあ、と思わないの?
【鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
<こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。 もはや九州説は狂った老人として皆から無視される末路しか無いな 驚いたな。。。
古事記に神功皇后という天皇の妻が、大活躍することが書かれているよ。。。
何者だろうか。。。 どうでもいいけど、「阿波」も出世したもんだね。 ボディブローが効いてきたかな? @阿波 >>11
纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纏向の中で、製鉄してるじゃん 卑弥呼より後だよ。
卑弥呼の頃に九州も畿内もいろいろな状況が変化したが、畿内説が持ち出すのは常に微妙に後の時代のものなんだよ。 >>20
>卑弥呼より後だよ。
纒向石塚の北東200m近辺は、庄内土器の出る範囲の中
纏向遺跡が大きくなるのは布留式土器の時代になってからとよく九州説は言うけれど、
この鉄鍛冶跡は、初期からの纏向遺跡の範囲内
>畿内説が持ち出すのは常に微妙に後の時代のもの
そうはいうけれど、弥生終末期と古墳時代は、
古墳を作ること、古墳祭祀が首長継承儀礼となること以外には、
社会構造の変化が見られない
古墳時代の最初の古墳は、弥生終末期の遺跡との対応関係がはっきりしている
箸中山古墳の母集落は纏向遺跡だし、九州でいえば那珂八幡古墳は比恵那珂遺跡
築山古墳は三雲遺跡群
古墳時代最初期は、卑弥呼の時代と直接繋がっているのだから >>21
>古墳時代最初期は、卑弥呼の時代と直接繋がっているのだから
時間軸が被っても、地域が別だと意味がない。 >>21
>箸中山古墳の母集落は纏向遺跡だし、九州でいえば那珂八幡古墳は比恵那珂遺跡
>築山古墳は三雲遺跡群
「母集落」というものの、集落遺跡がないという落ち。 @阿波 >>22
>時間軸が被っても、地域が別だと意味がない。
つ 那珂八幡古墳は比恵那珂遺跡
つ 築山古墳は三雲遺跡群
九州も同時に古墳時代に入っている
つまり、その前から古墳時代の古墳を作る領域の枠組みができていたということ
それが、魏志倭人伝でいう倭国だろう
「地域が別」とかいうのが、九州説の最後の言い逃れだけれど、
既に、古墳時代に入る直前=邪馬台国時代に、関東から九州に至る範囲の秩序が
形成されている
「別の地域」ではなく、「一つの倭国」だよ >>24
>九州も同時に古墳時代に入っている
それ、平原遺跡より後だろう。
年代比定がすべて少しずつ前倒ししすぎなんだよ。 >>21
>箸中山古墳の母集落は纏向遺跡だし、九州でいえば那珂八幡古墳は比恵那珂遺跡
>築山古墳は三雲遺跡群
「母集落」というものの、集落遺跡がないという落ち。 @阿波 >>25
>それ、平原遺跡より後だろう。
平原遺跡はむしろもっと古いと思うがね
平原1号墓の周溝には土壙墓があり、これが当初殉葬墓に見えた人がいて、
それが、平原1号墓=卑弥呼の墓という思い込みの発端の一つ
でも、土壙墓は周溝が年月を経て埋まってきたところで、その埋まった土に
土壙を掘って葬られている
1号墓の埋葬主体と、土壙墓の間には埋葬時期に最低でも数十年単位の時間差がある
その上で、周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土壙墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ない
1号墓の埋葬主体は、それよりも数十年単位でより古くなる
まあ、鉄器の編年はそこまで精緻ではないから、かなり幅のある推定にしかならないけれど、
卑弥呼の墓というには、やや古すぎると思うよ >>28
>この土壙墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ない
問題あるね。
耳璫の編年と合わないから。
耳璫はむしろもう少し後だよ。 >>29
>耳璫の編年と合わないから。
ならば、耳璫の編年の方が、見積もりが甘いのだろう
>耳璫はむしろもう少し後だよ。
金層ガラスであることを重視するなら、もう少しどころか
古墳時代終末期でもおかしくないことになるよ この耳璫とされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf
これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、
その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。
金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを
使用して、その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工
法も同様であると考えられた。」
これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる
またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは
初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しい
ものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしく
ないことになる
古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている 現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が
出土しており、1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になっているのだが、これと金層ガラスの
関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる >>28
>この土壙墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ない
庄・ 蔵 本 遺 跡
国立大学法人徳島大学埋蔵文化財調査室
「弥生時代前期の石棺墓や土壙墓が発見されました。」 だってw @阿波 周溝から出た土器なんぞなんのあてにもならんw
今から弥生前期の遺跡まで行って、溝を掘って、
地面に埋まっている土器片が溝に落ち込んだら、
それが弥生時代前期に作られた溝だと言ってるのと同じこと。
時代決定の決め手になるのは墓に副葬された土器だけ。 >>34
>時代決定の決め手になるのは墓に副葬された土器だけ。
鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器は、
「土壙墓に副葬」されたものだよ
土器じゃないけどね
周溝の土器を基礎とした編年で、平原1号墓を卑弥呼の頃と
九州説の人はいうけれど、もっと古い2世紀後半くらいが妥当だと個人的には思う >>35
>九州説の人はいうけれど、もっと古い2世紀後半くらいが妥当だと個人的には思う
鉄器がないから、そうかもね。 いずれにせよ、大したお墓じゃないよ。 @阿波 >>35
>九州説の人はいうけれど、もっと古い2世紀後半くらいが妥当だと個人的には思う
土器もないんでしょ? いずれにせよ、大したお墓じゃないよ。 @阿波 >>35
根拠なく思ってもダメ。
副葬品の年代と合わないからね。 >>38
>根拠なく思ってもダメ。
>副葬品の年代と合わないからね。
>>28とか読んであるかい?
根拠は書いてあるよ >>28
>その上で、周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
これらは長期にわたり同じ形状のものが使われる実用品で、数十年単位で絶対年代を割り出せるようなものではない。
装飾品は流行り廃りがあるから、耳璫の編年の方が正確。 中国でたくさん出ているから編年できたんだろ?
一番新しい出土品で考えるのが原則だから、平原遺跡は魏代以降だよ。 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>49
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。 @阿波 >>48
>一番新しい出土品で考えるのが原則だから、
じゃあ、平原1号墓は、古墳時代後期だな
この耳璫とされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf
これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、
その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。
金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを
使用して、その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工
法も同様であると考えられた。」
これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる
またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは
初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しい
ものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしく
ないことになる
古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている 「その多くは」だから、古墳時代初期にもあるんだろ。
弥生時代でははじめてだから、そもそも弥生時代ではないのかも。
弥生時代から古墳時代への移行期なら、卑弥呼でいいな。 そもそも耳璫の編年は魏晋代だから、古い方を取れば魏でいいだろ。
卑弥呼の持ち物でぴったりだ。 >>54
あの〜、倭国(阿波)にもあるんだけどw どうしたらいいかね? @阿波 >>54
耳璫が魏晋代だって編年は、だれが作ったの? 国内の遺跡の年代は詐欺ができても、中国の遺跡には手を出せないのか。
もっとも、キナイコシは魏志倭人伝まで無視する厚顔無恥だからな。
マトモじゃない。 >>56
>耳璫が魏晋代だって編年は、だれが作ったの?
魏代の王墓の発掘はまだほとんどなされていない(確か1つだけかな)から、
それで編年を云々するのがおかしいんだよ
魏晋代といいつつ、晋ならば卑弥呼より遅くなるだろ
いろんなところにごまかしやいい加減を混ぜ込んで、うやむやなまま
嘘をつき通そうとしているだけ どっちにしろ、径百歩にどうやっても足りないんだから、卑弥呼の墓のわけがない >>63
話をすりかえるなよ。
耳璫は王墓でなくても出土するんだよ。 >>65
>耳璫は王墓でなくても出土するんだよ。
だから耳璫ぐらいで大騒ぎするのが間違い。 @阿波 >>62
こんなふうに誤魔化してばかりだから
東遷説はインチキだと誰からも簡単に見破られる >>67
こんなふうに誤魔化してばかりだから
キナイコシはインチキだと誰からも簡単に見破られる 批判はするが、根拠を示したり具体的な指摘はしないしできないww
それが、キナイコシ連呼厨の伊都クズw >>68
>こんなふうに誤魔化してばかりだから
どこが誤魔化しなのか、具体的に指摘してごらん?
できるものならなww とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
XTT 僕達が今見つけた、このスレッドは、僕達には、作製した記憶も、作製する動機もないのだが、奥山氏が、荒らし行為をしているので、良いスレッドではないのかな。。 ネッシー実在説と邪馬台国畿内説とを、闘わせるスレッドは、僕達が作製したのだったな。 コトバンクとは、どこの素晴らしい会社が運営しているのかな、、 >>189
纒向になにもない→すべて韓人が教えた→すべて韓国へ返せ 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています