今だに邪馬台国畿内説を信じてる人っているの?2
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>>799
>住民の殆どが宮使。
そんな国はないww
せめて魏略の戸萬餘が正しいはず、とか言えよ
>可七萬餘戸は邪馬台国全体の戸数で、都の伊都国は1000戸
でも、主張している伊都国と奴国で邪馬台国っていうのでは、
二万千戸にしかならないよ
あんまり適当なことを書くなよw >>800
自分の勝手な理屈(妄想)を押し付けるなよ。
まず魏志倭人伝と向き合えよ。 >>801
>まず魏志倭人伝と向き合えよ。
魏志倭人伝といえば、「其山有丹」で決着済み。 @阿波 纒向には近くに千人の奴婢を支える集落がないから、くやしくてしょうがないんだろう。 >>803
>纒向には近くに千人の奴婢を支える集落がないから、くやしくてしょうがないんだろう。
いや?
奈良盆地にはいくらでも集落があるし、
纒向遺跡の中の土器の量でも、それだけの人数が食べられるだけの食料を
用意できることが明らかなんだが? >>801
>自分の勝手な理屈(妄想)を押し付けるなよ。
>まず魏志倭人伝と向き合えよ。
魏志倭人伝と向き合えよも何も、魏志倭人伝に書いてあることそのままなんだが?
伊都国・有千餘戸、奴国・有二萬餘戸だろ?
間に国は入らないぞ?
どうやっても邪馬台国、七萬餘戸の大国にはならないだろうが? >>806
>奈良県の集落密度と福岡県のそれを比べてみなよ。、
奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
1 遺跡地図
2 遺跡地名表
3 発掘調査報告書(報告書抄録)
遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」
と書いてある
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ 荒らすのにかけているエネルギーを他に回せばいいのに。
畿内説なんてやってないで、人生を有意義に過ごせよ。 こんなスレを埋めて過ごすだなんて、人生が虚しくならないのかな? >>826
此に及び、夫の字下に周制に八寸を尺と爲すと云う >>847
則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり >>853
是れ、周未だ嘗て八寸を尺と爲さざる證なるべし >>854
周尺である
周代の尺である、という意味
「周を計る尺」じゃないからねw
説文解字のこの3文字に対する注記が以下に書いてある >>855
白虎通は「白虎通義」という後漢の章帝の時代に儒教経典の解釈について
議論した結果を班固に命じてまとめさせた書物 >>856
「法」というのは、基準、規範、くらいの意味 >>857
日(太陽)の数は十である。
中国の神話では昔、太陽は10個あってそれが一つずつ空に上がっていたのが、
ある時10個が一度に上がって、夜がなくなって灼熱になったので、
9個を弓で射落とした、とある >>858
太陽が10個空にあるときの、影一つない様子 >>859
尺で計れば、長さがはっきりする(極まる)=極まらざるなし >>860
夏王朝は、日を法とする王朝で、日の数が10なので、10寸を尺とした >>861
夏の次の、殷王朝は、12月を基準とした >>862
一歳の中は、一年中
一年が、十二月でぴったりということ >>863
月を法とする王朝で、一年が12月だから12寸を尺とした >>865
周朝は、五徳で言うと「火徳」なので、「地によりて生る」がよく分からないが
そう書いてあるので仕方がない >>867
男女を陰陽で言えば、男が陽で女が陰
周朝は、地:陰の王朝なので、陰:女・婦人を法とした >>869
婦人の奄の大きさは大体(大率)八寸である >>870
周王朝は、地によりて生る陰の王朝で、婦人も陰なので、婦人の奄の八寸を尺とした >>871
考えてみたけれど、奄の字はいまだに詳しいことが分からない >>872
これ(奄の字)は、手の誤字ではないかと疑っている >>873
ここまで述べてきた文で見るように、尺は十寸である >>874
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では八寸を尺としたという話になる >>875
周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった >>876
王制というのは、礼記の一篇の名称であると同時に、
周朝初期やそれ以前の聖王による
理想的な治世の時代の制度、くらいの位置づけ >>877
王制(礼記の一篇)によれば、いにしえには周尺の八尺を歩としていた >>880
鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。
また,その経書。じょうちゅう。 >>881
周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない だから、東夷の倭国では独自の尺を使っていたんだろ?
里や歩も同じ。 >>882
孔子の「礼制」による既成の秩序維持の考え方は周王朝期の礼制に依拠している >>883
周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある)
後漢の鄭玄は古文経の『周官』を中心として『儀礼』と『小戴礼記』を三礼として総合的に解釈する体系的な礼学を構築した
その書物が「鄭注」で、その内容の紹介 >>885
考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった 「蓋し」は、推論・推定を導く 「考えてみるに」程度の意味 楚斉燕韓魏趙の六国では、各国独自の制度が敷かれたので、それを変法、乱法と呼んでいる
「法度」は法律と制度 >>886
あるいは周尺は八寸と言う
(周尺も十寸だったとしたが)六国時代には、あるいは周尺(一応は周代)は八寸だったとも言う >>887
歩はさらに八尺なのだから、
「㪅に」は「更に」
>>829で見たように、八尺がもともとの歩の定義 >>888
ハッパ六十四で六十四寸になる(先に書いた今以周尺六尺四寸爲步と計算が合う) >>889
鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ >>890
周末というのは、周朝の威が衰えた六国(春秋戦国)時代のこと >>892
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている
この部分は、鄭注曰の内容の続き 力政についてもう少し解説
史記の秦本紀に、「周室微,諸侯力政,爭相併」とある
周室(周の宮室)微え(おとろえ、衰微し)、諸侯力政、相併せるを爭う
互いに併呑しようと争っていた
この力政に、力政:用武力征伐。という注が付いていて、力政とは、武力を用いて征伐すること、とある
徳によって帰服させるのではなく、武力で征服する政治のこと >>893
(周朝が衰え、天下が)(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
戦国時代に覇を争った、戦国の七雄のこと 六国時、も同じ時代だが、戦国の七雄のうち秦は西周の故地を根拠地としていたので、
周朝の制度を引き継いでいる部分も多かった
そのため、秦を他の六国を区別していう場合に、六国という表現になる >>894
田のうねは畮を異にする(七国の国ごとに異なる) 𤲮はうね(畝、畦)のこと、畮は田畑の面積の単位
農作物の植え方、農地の区画の仕方が、国ごとに異なる様子をいう >>897
車の涂(みち)は軌を異にす。(七国の国ごとに異なる)
涂は、途(みち)の意味 軌は車輪の幅 交通手段、車の規格が
国ごとに異なる様子をいう >>898
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた 律は刑法、令はそれ以外(主に行政法、その他訴訟法や民事法も)に相当する 公定尺は、令で定められることになる
律令の法が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる >>899
周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わない >>900
左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書 >>901
(左伝には)「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある 左氏伝 僖公九年に「天威不違顏咫尺」とあることの引用
天威は、天子の威徳、顔は天子の顔(竜顔)、顔を違らざるは天子の顔近くで恐れ多い様子をいう 天威不違顏咫尺は、「天威咫尺」「天顔咫尺」という四字熟語のもとネタ >>902
咫尺を並べて言うということは、区別があるということ この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる >>904
「国語」でも、「列子」でも、みんな、「その長さ尺有咫」という使い方をしている 『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている 『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献 国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある >>905
(天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない 「左伝」でも「国語」でも「列子」でも、
咫と尺を並べて使っていても、二尺とはしていない >>906
こうしたことは、周の時代にいまだかつて八寸を尺としたことはないと
いう証と見てよいだろう 説文解字では、咫の項に「中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。从尺只聲。」とある これだけだと、「咫」の長さは婦人の手の大きさの八寸で
かつ、周尺の長さ(=八寸)のように読める しかし、段玉裁の《說文解字注》を見ると
周代でも尺は10寸であり、咫の八寸とは区別されていたことが分かる 周代には、春秋戦国時代も含まれる
段玉裁の《說文解字注》において、「六国時」とされる時代である この時期には各国(六国)の制度が、度量衡も含めばらばらになった それで、周代の尺の長さが
10寸なのか8寸なのか混乱し、分からなくなっていた それで、秦の始皇帝による度量衡の統一が必要だった訳だ その際に咫は、もともと身体尺だったことから、
統一公定尺の体系には入れられなかった さらに、咫は使いどころがほぼない
八寸の言い換えで、八寸を咫という以外に使い道がない 7寸や9寸は、寸で示すしかないのだから、
8寸も寸で示せば、もう咫の使いどころはない そうして、咫が「咫尺の書」などの決まった言い方でしか使われなくなって
それから、3世紀までには400年くらい時間が経っている 昭和の時代に思いついた人がいるってだけの単なる憶測だよ 平原1号墓出土鏡が、八咫鏡と呼ばれていたと考える理由はない 呉の太白の末裔を名乗るくらいだから、倭人は古典に親しんでいたんだよ。
というか、最新の情報から切り離されていたのかもね。 八咫鏡ではないのであれば、平原1号墓と卑弥呼を結びつける積極的な理由は皆無だ 八寸を咫と定義するとちょうど八咫となる鏡があり、それが世界最大の鏡で、女王墓から出土したことは間違いない。
その理由について、上の長文は何も説明できていない。 水行陸行合わせて2ヶ月かかるほどの遠地と魏志倭人伝にも書いてあるのだし、 このスレッドは1000を超えました。
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