後北条氏時代の江戸について語るスレ
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小田原衆所領役帳 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%A1%86%E6%89%80%E9%A0%98%E5%BD%B9%E5%B8%B3
>相模の戦国大名北条氏康が作らせた、
>一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。
>原題は不明で、「北条家分限帳」、「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。
東京市史稿
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915622
この182コマ近辺に
小田原衆所領役帳の江戸の部分が大体載ってる
その他後北条氏時代の江戸の話も東京市史稿にある https://shirobito.jp/article/徳川家康と城%20 第3回 |%20 家康入城以前の江戸はさびれた漁村だったのか
>戦国大名北条氏の重要拠点の一つで、
>城下町もそれなりに発達していたのである。
>「江戸は砦のある漁村」といったイメージはこの際払拭する必要があるのではなかろうか。
>前述岡野友彦氏が指摘されたように、
>江戸は浅草からはじまる利根川・常陸川水系と、
>品川からはじまる太平洋海運とを結ぶ結節点に位置していたわけで、
>江戸が平安時代から中世を通じてある程度発達していた点をみておく必要があるように思われる。
>家康の江戸城築城と町づくりはこうした前提の上にはじめられたのである。
小和田哲男先生はこう語る 『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』森浩一と網野善彦の共著
>品川津の繁栄ぶりは、淀と匹敵するとまではいかないにしても、
>対比は十分できるぐらいのものだったと思います。
>なにしろ瀬戸内海から淀川に入ってくるルートは、
>現在の新幹線のようなものですけれど、
>伊勢から品川、神奈川への道も在来の東海道線ぐらいの意味は持っていたと思いますよ。 後北条氏時代の江戸の範囲は
大雑把に言うと
江戸朱引-今の隅田川東岸+牛島近辺+今の北区と練馬区と板橋区 昨夜放送されたNHKスペシャル「大江戸」を観て、 スレ立てを思いつきました。
皆さん よろしくです。 1420年の江戸氏名字書立に見える江戸一族
六郷殿、渋谷殿、丸子殿、中野殿、阿佐ヶ谷殿、飯倉殿、桜田殿、石浜殿、牛島殿、江戸大殿、国府方殿、芝崎殿、鵜木殿、けんとう院、金杉殿、小日向殿、原跡、蒲田殿跡 大田区・・・六郷、丸子、鵜木、原、蒲田
渋谷区・・・渋谷
中野区・・・中野
杉並区・・・阿佐ヶ谷
港区・・・飯倉、金杉(かねすき・かねそぎ)
千代田区・・・桜田、国府方、芝崎
台東区・・・石浜
墨田区・・・牛島
練馬区・・・金曽木(かねすき・かねそぎ)
文京区・・・小日向 江戸氏の一族が今の東京23区の地を結構開発してるんだよな
太田道灌登場の前に 後北条氏は中原街道と大山街道の整備もしているな
当時の江戸の幹線道路でもある 北条が江戸に入ってくるのは高縄原の戦い以後なんだけど江戸城から出撃した上杉氏が高縄原(高輪)で負けた理由がよく分からない
地形は悪くないのに とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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X39 番組で浅草や赤坂や両国の話があったけど
浅草や赤坂の地は少なくとも平安時代には既にそれなりに開発されている
吾妻鏡に平安末の頃の浅草や浅草寺の話があるね
鎌倉の鶴岡八幡宮の社殿を浅草の大工が建てたという
赤坂も赤坂氷川神社が平安時代からあって氏子もそれなりにいるし
今井城という城もあったという
赤坂は平安時代後期は渋谷氏の領地で郷もあった
江戸時代のは再開発であって
古代中世の浅草や赤坂の地が開発されていなかったわけではなく 江戸寒村説は『葦原があった→葦原だらけだ』とか
『家が江戸城の隣に100軒あった→江戸に家はそれくらいしかない』
みたいな誤解による 戦国時代中期や後期にもなると数十万石〜百万石の大名も続々出てきたし
そういう大名家に比べれば大分見劣りしただろうな 戦国時代の江戸が都市?
いやいやあり得ないよ。
当時は人口1万で大都会の時代だが、そのレベルの都市ですら関東には存在していない。
室町時代中期の鎌倉府ですら、人口は1万で終えていたか怪しいもんだ。
室町末期だと小田原が関東一の都会だろうね。
そもそも家康以前の江戸市域を一つの都市とみなすのは間違い。
大江戸八百八町の時代じゃあるまいし、浅草や品川などは川や森や原野に阻まれた別々の町ですよ。 小田原衆所領役帳によると
戦国時代中期の江戸における
後北条氏家臣&客将の所領の税収は合計約2000貫
貫高石高換算は時代や地域によるけど
まず所領役帳の数字は総貫高ではなく税収である点
あと後北条氏本家領や多くの寺社領は書かれてない点が重要(一部の寺社領は書かれているけど) https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
後北条氏の場合
動員兵力は(約)5貫で1人が基準
戦国時代の動員兵力は基本的に100石で数人 (天下統一後は100石で5人くらいの場合もあるが)
この事から後北条氏の場合
10貫〜20貫で総石高は約100石という事が分かる
という事は2000貫は少なく見積もって1万石
所領役帳に書かれた所領の人口は少なく見積もって約7000人という事になる
&江戸城に駐屯している『江戸衆』の貫高が1〜2万貫で
少なくとも数千人の兵が江戸に駐屯している という事で
所領役帳から分かるだけでも
当時の江戸には1〜2万人の人がいたという事が分かるよ
あとは所領役帳に書かれていない
後北条氏本家領や寺社領の人口も考えると
2万人は少なくとも戦国時代中期の江戸にいたんじゃないかな
東京港のご紹介
https://www.kouwan.metro.tokyo.jp/yakuwari/rekishi/
>明徳3年 1392 中世品川湊が相当数の出入港船や問丸(問屋)の活動などで活況を呈していた(明徳三年品河湊船帳及び帆別銭納帳)
>長禄元年 1457 太田道灌江戸城築城、江戸前島の平川河口に江戸湊を開く
こういう記録もある 金王八幡宮
http://www.geocities.jp/ynycr674/yuisho.html
>渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので
平安後期から少なくとも鎌倉時代
多分戦国時代中期までの話
平安中期までだと一郷の人口はわりときっちり決まっていて
一郷の人口は約1250人
平安後期以降はそんなにきっちりしていないけど
同じ郷が存続している場合もあったりと人口が半数以下にはならないだろうという前提で考えると
谷盛庄(今の渋谷区港区)だけでも
平安後期〜戦国時代中期の人口は少なくとも数千人いたんじゃないかな
そういう前提で考えると
室町時代の江戸の人口は
2万人より多くなる感じ ちなみに谷盛庄は江戸朱引でも江戸だけど
所領役帳でも江戸
所領役帳にはあまり記載が無いけど
金王八幡宮や芝大神宮その他寺社の領地が少なくなかったのかも 江戸市域全体で1万〜2万って・・
いくつかの集落を抱えただけのただの農村地域じゃないかね。
例えば浅草と品川でそれぞれ5000の人口を抱えてるとしたら、後はただの農民と豪族の家臣でしょ。 東は江戸前島と常盤橋近辺から将門の首塚あたり
北は江戸城平川門の北面
西は今の江戸城西の丸(西の丸になる前は紅葉山に日枝神社と近辺に村があった)
南は日比谷入江でまあ住めない
浅草に通じる鎌倉街道の支道が江戸城の西側から北側を通ってたんでそのあたりにしか実際に人はいないと考えると地方の街道筋の都市程度 家臣や有力者を大名の城下に移住させ大名の拠点を都市化する政策は全国的に始まっていたけど
江戸は徳川が移封される前はそういうの無かったからねえ >>29 >>31
中世城下町と近世城下町の違いがあるよ
家臣を城下すぐ近くに集住させて
大規模な区画整理をしってっていうのは
安土城あるいは天正期(1573年〜1593年)以降の近世城下町の話(そのちょっと前からと言っても良いが)
所領役帳は1520年〜1555年にかけての調査を元に1559年に完成で
その頃は江戸だけじゃなく
全国的に近世城下町は無いよ
信長が尾張を本拠地にしていた頃の清洲城の城下町も
宿場町的な城下町
中世城下町っていうのは
宿場町あるいは似たような町が
一つから複数あるような城下町で
城の隣だけじゃなく
城の比較的近くの街道沿いにいくつかあったりする感じ 所領役帳の頃の
江戸の中世城下町は
江戸宿や江戸湊
隅田宿や浅草の寺町や浅草湊
品川の寺町や品川湊
といった海沿いの町の他にも
本郷の寺社町
局沢十六寺(今の麹町にあった寺町)
芝の寺社町(増上寺関係の寺がいくつかと芝大神宮等の神社が集まってる)
原宿(鎌倉街道の宿場町)
岩淵宿(荒川を渡る地点の宿場町)
等々の町が存在し
鎌倉街道や川越街道や中原街道や大山街道等々の街道が幹線道路となり
いくつもの町がネットワーク化した
結構大きな中世城下町があった 荒川って当時は入間川
ちょっと訂正
中世江戸の北の端が岩淵宿とも言える
あとは渋谷城は1524年に廃城になってしまったけど
渋谷城下の寺町は残っていて
渋谷の寺町も所領役帳期の中世城下町の一つでもある 大田道灌時代の江戸城の出城網の時点で
今の山手線くらいの広さはあった
所領役帳だけで少なくとも
当時の江戸に人口1〜2万人いる事が分かるけど
渋谷氏の領地の郷やその他の郷
あとは近世初期の現存検地帳の話から考えると
室町時代の江戸の人口はもっと多いと考えるのが妥当ではある
後北条氏は駅伝制の復活等
街道の整備にも力を入れていたな 仮に戦国時代の山手線エリアに3万の人がいたとしても、分散してるから一箇所で数千人程度
都市とはいえない
畿内なら当たり前の風景 家康が江戸に引っ越して来た時に
徳川家臣団8000人もいたんだけど
その8000人の多くは当初江戸城近隣で
家を借りて暮らしていたという記録もある それって江戸が開発されてないことだろ。この時代、毛利元就の郡山城や朝倉氏の一乗谷のように
有力大名は家臣の屋敷を拠点に築いて中央集権を
計っていたけどそれさえ江戸は出来ていなかった >>32
中世の城下町はただの要塞。中世の商業は寺社が担っていて武士は茅の外
それを打破したのが戦国大名。 >>38
江戸っていうか同時代で比べるなら後北条氏だな
後北条氏の本拠地は小田原なわけで
江戸が出来てなかったみたいに言うのは違うと思うぞ
あと郡山城は拡張が始まったのが1550年代で
その後も拡張が続けられているけど
いきなり最盛期の頃の城や城下町が出来たわけではないよ
一乗谷もいつ最盛期になったのかっていうのがある
所領役帳で分かる頃と比べるなら1550年代がどうだったのかって話になる
あと開発って何も近世的な町を作る事だけが開発ではないし
中世の江戸の地が開発されてなかったという事はないよ
白川郷
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/Ogi_Shirakawa01n3200.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Sirakawa%C9%A1ou0%C9%A8.jpg
郷の一例だけど(現代ではあるが現代的な所以外は中世とそう違いは無い)
現代でもこれくらいで開発されていると言うよ
現代的なビルを建てる場合は再開発と言う
あと中世の江戸に町が無かったわけではなく
いくつもあったよ 近世と中世を比べて
中世の土地が開発されていないと言うのなら
現代に比べれば江戸時代はどの地域の土地もなんて話にもなる 白川郷はその画像の範囲だけではないんだけど
一つの郷があると合計2km四方くらいの土地は
開発されている事になるという良い例になる
一つ郷があれば
少なく見積もっても1km四方の土地は開発されていると言って良いよ 郷は今で言えば
(政令指定都市以外の)市と
市にある町の中間くらいの行政単位で
一つの郷に村がいくつか含まれる
あと中世の村は農村という意味ではなく
建物がたくさん集まってる地域という意味
(村と群の語源は同じとも) 一次史料もあるだろうけど
氷川清話で勝海舟が
大田道灌は江戸城の南に家臣を集めて住まわせた
みたいな事を書いてもいる 道灌時代の江戸城本丸は今の北の丸辺りにあったという説もあるから南側=徳川時代の江戸城本丸のことだろうね
道灌時代の江戸城は鎌倉街道に要害を構える目的で築城されてるので街道を支配する意味でもこの配置は納得できる 江戸城の南って
近代以前は
北北東から南南東に斜めに海岸線があるんだよな
江戸城の南にしばらく行った所は海なのは確か
ただ江戸城の南隣は陸だったりする 治水が出来る大名も存在せず、城下町どころか船が着ける湊さえないのが徳川が転封されるまでの江戸
人口はそれなりに居たけど室町時代の三津七湊の七湊にさえ及ばない寒村だったのが実情 来年のNHK正月時代劇「家康 江戸を建てる」
旧態依然とした江戸寒村説でいくのかな 家康、江戸を建てるのドラマ化は
原作通りだと寒村説って事になるな
原作改変すれば寒村説じゃないようにも出来るけど
どっちで行くんだろうな >>46
前島という半島が南に突き出ていたけど日比谷入り江辺りはたしかに陸はあるけど塩水混じりの土地で誰も住もうとしなかったんじゃなかった? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています