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後北条氏時代の江戸について語るスレ
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0001日本@名無史さん
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2018/04/30(月) 20:46:30.79
小田原衆所領役帳 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%A1%86%E6%89%80%E9%A0%98%E5%BD%B9%E5%B8%B3
>相模の戦国大名北条氏康が作らせた、
>一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。
>原題は不明で、「北条家分限帳」、「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。

東京市史稿
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915622
この182コマ近辺に
小田原衆所領役帳の江戸の部分が大体載ってる
その他後北条氏時代の江戸の話も東京市史稿にある
0051日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 17:46:05.16
>>50
汐入で〜って書いてある史料だと
その場所は十町(約100m四方×10)くらいって事だから
地形図等で確認すると江戸城の東十町分くらいのスペースの事しか言ってないんだよね
日比谷入り江周辺は
低地でもスペースは他にたくさんあって
上平河と下平河に町があって人がそれなりに住んでるね
台地の上の方が人は多く住んでるけど

あと南側は川を挟んで台地続きみたいな感じで
海のすぐ近くまで台地があるね

地形図
https://amd.c.yimg.jp/amd/20161115-00000001-corp_tokyojohodo-001-1-view.jpg
太田道灌時代の江戸を描いた古地図(右が北)
https://pbs.twimg.com/media/DTYRAsRWAAUmH0P.png

上平川(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7298710
>戦国期に見える地名上平河とも書く
>豊島郡のうち平川村を上・下に分称したと推定される太田道灌築城の江戸城の北東に位置し,
>寺社や町並もあったと思われる

下平川(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7299651
>戦国期に見える地名下平河とも書く
>豊島郡のうち太田道灌が長禄年間に江戸城を築いてから城下町として家並が増え,寺社が多かったという
0052日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 17:51:08.95
江戸郷(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7298112
>鎌倉期から見える郷名豊島郡に属す古代末期に平川が日比谷【ひびや】の入江に流れ込み,
>その両岸に江戸郷が開かれた

江戸宿(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7298110&;keyword=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%AE%BF%28%E4%B8%AD%E4%B8%96%29
>戦国期に見える宿名豊島郡のうち小田原北条氏が江戸宿の小代官・百姓中に毎年課していた正木棟別麦のうち,
>28俵を4月28日までに小田原(神奈川県)へ届けるよう命じた
0053日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 21:47:01.76
江戸の始めの頃で両郡併せて6万石弱あったけど太閤検地の荏原・豊島郡の石高は?
以前見た多摩川誌のサイトだと世田谷領(多摩郡)と六郷領(荏原郡)も併せて1万石強だったかな
0054日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 22:52:04.10
https://ja.wikipedia.org/wiki/旧国郡別石高の変遷
正保郷帳(1644〜1651年)
豊島郡 28,972石 91村
荏原郡 21,818石 79村
武蔵国全体が慶長郷帳(1604〜1610年)の840,000石から正保郷帳の982,337石に17%増加
正保郷帳の豊島・荏原郡から17%減らすと42,155石
0055日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 22:58:11.89
寒村説というか実際に寒村でしょ。室町から戦国時代にかけて関東の中心は武蔵国
江戸は房総地域への足掛かりか防衛の拠点程度の認識。戦略上は要所でありポテンシャルも高いけど
水害が多く当時の技術力では排水の困難な沼地ばかりで石高も畿内に比べて劣る発展途上国
0056日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 23:30:54.02
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e_bunkazai/shiryoshitsu/hakken_sheet/history.files/1-08.pdf
中世の江戸の隣には伊勢神宮の荘園があったけど(西3分の1は後の江戸朱引に含まれ江戸時代は江戸)
隅田川下流の低地も中世の時点で普通に開発されている
1398年の『葛西御厨田数注文』によると
この時点で1233町7段の広大な田んぼ隅田川下流にあった
0057日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 23:33:35.11
土砂が堆積して出来た自然堤防があるから
洪水もそう頻繁に起きるわけではないよ
0058日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 23:39:29.15
中世品川のにぎわい
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/pdf/pub/kaisetsu/cs28l.pdf
>中世の品川は、
>六浦、 神奈川(横浜市)とならぶ関東の重要な港町で、
>海陸交通と物流の拠点で、あった。
>太平洋海運による東西交易の場として繁栄し、
>湾内の交通はもとより、 西国から運ばれた物資は
>;品川を経由して武蔵野平野の各地へ届けられた。
>品川に来航する船には帆別銭が課税され、
>その税により鎌倉の円覚寺や金沢称名寺(横浜市)の堂塔が造営されるなど、
>品川は鎌倉の後背地として重要な位置を占めた。
>称名寺金沢文庫には、 南北朝時代の「湊船帳」など
>当時の港の繁栄がうかがわれる文書が残されている。
0059日本@名無史さん
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2018/08/07(火) 23:42:55.96
大田道灌時代には
その品川湊の役割を江戸湊も担った
当時の江戸城と品川湊の間の地区は
建物が途切れる事なく建っていたという同時代の記録もある
0060日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 03:14:18.23
家康以前に江戸が発展していたか否かはともかく中世は鎌倉街道下道が現在の青山通りあたりから赤坂御苑内→上智大付近の喰違門→半蔵門→江戸城北側→平川→常盤橋→浅草寺方面に至る道が主要街道

江戸湾の物資は平川河口辺りに集まり市が立っていたというから当時の江戸の大手や町は街道筋に江戸城の西側から北側にかけての高台にあるので、低地の日比谷入江付近は街道筋から外れた場所なんでここを指して寒村というのは江戸市内からみてもまあその通りなんだと思う

ちなみにその後に移転する吉祥寺や法恩寺、平川天満宮なんかもすべて平川から現在の大手町付近にあって墓地だったようだね
大手町付近が中世江戸の南の端なんだと思うよ

品川湊は中世ではあくまで鎌倉の後背地であって江戸の表玄関という位置付けは確認できない
ここで陸揚げされても確かに江戸まで遠いし平川河口まで行ってしまう方が楽
品川湊は北条氏綱以降に中原街道の兵站で発展したんじゃないのかな
とはいえ北条時代になっても水軍の拠点になっていないし房総の里見水軍も襲撃に来ていないので軍事的価値もあまりないのかも
0061日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 05:03:34.16
中世の江戸は太田道灌時代以前以降で
その範囲が結構変わったかもよ

https://fujimizaka.wordpress.com/2014/03/10/fujimi_fujimizaka2-1/
同時代史料の江亭記では
>南に顧るときは則ち品川の流れ、
>溶々漾々として以て碧を染む、
>人家北南の鱗差す
と江戸城から南北に家がたくさんあるという事が記されているよ

http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.banjinyama.htm
あと港区にある
太田道灌が築城した出城の番神山城もある
0062日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 05:34:35.71
所領役帳だと日比谷や大井も江戸
そしてもっと南でも江戸の範囲な場所があるよ

江戸時代に東海道沿いに
江戸朱引の外まで江戸下町文化圏が広がってたけど
室町時代も似たような感じだったのかも
0063日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 09:07:10.13
そもそも太田道灌時代の江戸城の城下町は「平川」で後北条時代に始めて江戸宿と出てくるんで中世江戸城の城下町は平川なんだよ
厳密にいうと中世の町に城下町と呼ぶのもおかしいけどね
その江戸宿も現在の常盤橋付近なんでやはり江戸城の北東方面がメイン
江戸期の東海道にあたる街道ももちろんあるし町は点在していたけどこれを江戸の町に含めるのは違和感あるな
物流は平川より鎌倉や小田原方面に向いてた訳だし京都に繋がる東山道へは今の甲州街道から府中で繋がっていたんでそう考えても江戸城の北側で東西に行き来できる高台の鎌倉街道がメインになる
0064日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 13:56:29.54
分散城下町とその統合原理
http://hist-geo.jp/img/archive/242_023.pdf
城下町についての論文だけど

>近世城下町の性格はその成立過程における
>空間的な都市形成の在り方において具現化される。
>松本は戦国期の城下町を、
>給人居住域と城下市町の2つの部分域が合一していない状態であるとし、
>矢守はそうした部分域の一体的結合により、
>両者がワンセットになって都市プランの中にレイアウトされることが、
>戦国期城下町から近世城下町への変容であるとした。

>中世都市の分散的性格は原田により早くから指摘がなされているが、

城下町研究では中世の城下町は基本的に分散的であるという基本があるよ
近世城下町の多くのような分散的ではない大規模な区画整理された城下町だけが
城下町なのではなく中世城下町は分散した複数の町からなるのも普通
0065日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 13:59:41.53
その論文では関宿城という
近世でも中世城下町のような城下町を維持した
城下町について語られているけど

中世の関宿城は
まず後北条氏時代以前に台宿という町が街道沿いにあり
後北条氏時代に別の街道沿いに網代宿という町が作られ
複数の町で城下町が形成された
0066日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 14:09:19.86
六郷殿館(東京都大田区)
http://maro32.com/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%AE%BF%E9%A4%A8/
>憲幸は関東管領・山内上杉憲政の子であったとされ、
>北条氏康により攻められ以後、
>後北条氏の傘下に入ったそうで氏康が作ったとされる「小田原衆所領役帳」に
>六郷殿の所領などが記されているそうです。

品川よりさらに南の六郷だけど
六郷も後北条氏時代重要地点だんだよね
0067日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 14:17:26.67
http://www.town.kawajima.saitama.jp/1368.htm
>叔悦禅師は、江戸城を築いた太田道灌の弟で、
>のちに臨済宗の大本山鎌倉円覚寺の住職となった名僧です。

太田道灌の弟の叔悦禅師が鎌倉円覚寺の住職になったんだけど
江戸前島には円覚寺領があり
江戸湊の港湾経営にも円覚寺が関わっていたとも言われているな

太田道灌とその時代展
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/feature/1047/%e5%a4%aa%e7%94%b0%e9%81%93%e7%81%8c%e3%81%a8%e3%81%9d%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e5%b1%95/
>本展ではそのうちの2点を展示する。
>両通ともに、陣中見舞いを受けた道灌が、
>鎌倉円覚寺黄梅院の僧に出した礼状。

道灌と鎌倉円覚寺も色々協力していたり
太田道灌時代の江戸湊も鎌倉関係で色々あるよ
0068日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 14:25:59.20
鈴木道胤
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%81%93%E8%83%A4
>武蔵品川馬場地(現南馬場町周辺)に拠点を構えて品川湊を支配し、
>自身も廻船業や土倉などの貸金業を営む商人として活動した。
>太田道灌とも交流があり、連歌の名手としても知られていた。

太田道灌時代に品川湊で商売をしていた豪商とも言える鈴木道胤は
太田道灌とも交流がある
0069日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 14:29:14.49
後北条氏時代の関宿城の中世城下町が
2つの街道と2つの町から成る事と対比出来るけど
後北条氏時代の江戸の中世城下町は
5つ以上の街道と10以上の町から成る
結構大規模な中世城下町が形成されている
0070日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 15:25:11.44
所領役帳にストレートに当時江戸だった場所が
江戸と書いてあるとも言える
0071日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 15:27:28.09
芝村新宿(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7299475&;keyword=%BC%C7%C2%BC%BF%B7%BD%C9%28%C3%E6%C0%A4%29
>戦国期に見える宿名
>荏原【えばら】郡のうち天正16年7年24日付の世田谷城将の吉良氏朝の制札に
>「右,柴村新宿,為不入立之候間

江戸城と品川の中間地点の芝にも
中世に宿場町があったよ
0073日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 18:51:48.87
所領役帳における江戸の範囲は
中世の豊島郡の大部分+中原街道沿いの多摩川付近までという感じかな

江戸城や本郷、湯島、平河、芝とか
その辺が一大中心地でありつつ
その周辺にもいくつもの町がある感じ

結構広いけど葛西は江戸ではなく
江戸時代の江戸朱引の外側の荏原郡も江戸ではない感じ
0074日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 18:53:37.46
>>73
自己レスだけど
江戸時代の江戸朱引の外側の荏原郡も
中原街道沿いは江戸な感じ
0075日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 21:25:06.74
>>54
正保郷帳の1村平均出してみた
武蔵
豊島郡 28,972.7849石 91村  318.3822石  34,325.382(377.202石×91村)
荏原郡 21,818.5058石 79村  276.1836石  29,798.958
橘樹郡 44,555.98795石 113村  394.3007石
久良岐郡 13,949.833石 43村  324.4147石
都筑郡 21,005.69788石 62村  338.8015石
多摩郡 73,782.9869石 320村  230.5718石
新座郡 7,683.555石 18村  426.8641石
入間郡 61,754.411石 185村  333.8076石
足立郡 130,252.6876石 361村  360.8107石
葛飾郡 103,689.487石 192村  540.0494石
相模
三浦郡 21,142.742石 59村  358.3515石
鎌倉郡 23,735.815石 81村  293.0347石
高座郡 38,150.593石 95村  401.5851石

豊島・荏原と山間部を多く含む多摩郡を除いた10郡の1村平均は377.202石
江戸(豊島・荏原)は都市化したことで農業生産力が落ちてるんだろうね
戦国末期でも山の手線エリアに5万人くらいの人口はあったんじゃないかな
0076日本@名無史さん
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2018/08/08(水) 22:23:08.25
確かに今の山手線圏内に
室町時代5万人くらいの人が住んでいただろうね
0077日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 05:57:09.86
後北条時代の江戸は四谷の喰違門のある貝塚村から大橋(常盤橋付近)にかけての街道沿いが江戸の範囲
あとは別の町だな
0078日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 05:59:40.38
江戸時代と室町、戦国じゃあ大きく異なる
生産高は飛躍的に伸びている
0080日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 13:51:43.71
後北条氏公式の史料で江戸の範囲がある程度はっきりと定義されているわけで
それに一つの町だけが江戸という考え方自体が違い
江戸という領域は複数の町に広がっている
0081日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 13:54:52.79
江戸湊や品川湊は
何もそこで品物を売る為だけに商船が来たわけじゃなく
そこで荷物を大船から小船に積み替えて
北武蔵や北下総
さらに上野の方まで荷物を運ぶ為の中継基地でもあった

あと湊から陸上輸送で品物を売るにせよ
江戸に複数の湊があったって何の問題もないどころか
その方が便利なわけで
0082日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 13:57:18.36
江戸を一つの町だけで考えるなら
それこそ平川河口の両岸だけになってしまう
麹町も吹上庭の場所も江戸ではなくなる
0083日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 13:59:12.45
広域に広がる複数の町が江戸というのは
一度に複数の事を理解出来ないと理解しにくいかもしれない
0084日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 14:06:43.98
江戸時代を通して
大雑把に言えば農業生産は倍になったけど
という事は江戸時代以前に既にそれなりに農地の開発があったという事でもある
0085日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 14:16:29.74
後北条氏の公式史料である小田原衆所領役帳だと
貝塚村は『一木貝塚』と赤坂と同じ地域として記述されている
0086日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 14:21:51.32
朱引墨引以降の江戸の話でも
江戸の範囲を下町だけとか
大木戸の内側だけみたいに言って
墨引の内側でもそういう場所じゃなければ江戸じゃないみたいな事言う人もいるけど
それは血液型性格判断のような発想とも言える
江戸と言えば特定のこういう所だけみたいな
実際は江戸と言っても多様
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/09(木) 14:55:32.86
後北条氏時代の江戸城の南は日比谷入り江ではなく
日比谷入り江は江戸城の東
江戸前島も江戸城の東

地形図
https://amd.c.yimg.jp/amd/20161115-00000001-corp_tokyojohodo-001-1-view.jpg
このグリーンの所は海抜4〜10mくらいの所で
後北条氏時代もほとんどの所は陸

後北条氏時代の江戸城の南隣も
日比谷で所領役帳に記載があって陸
そのさらに南は芝で台地
当時は貝塚にあった増上寺関係の寺が芝にあったりするし
宿場町もある
0088日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 14:59:47.35
勝海舟の『氷川清話』 

太田道灌

>それから桜田門外より霞ヶ関へかけても、
>ずっと諸屋敷があったらしいが、
>ともかくずいぶん規模が大きかったに相違ない。
0089日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 15:14:10.99
江戸城の南隣は小川はあっても基本陸続き
江戸城の陸続きの南隣が江戸ではないという事はないだろう
それに桜田門の名前の桜田郷から
江戸郷は分割して出来たわけで
0090日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 16:10:04.72
江戸城の北の丸が当時江戸城だったって言ってる人もいるけど
北の丸は神社
0093日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 17:31:09.68
>>91
その北ね
その遺跡は空堀だけど
国立近代美術館の所まで本丸の側から城があったって事
中間の水堀は家康時代以降だと思うよ
水堀空堀で二重には通常しないだろうし
0094日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 17:33:21.27
大江戸っていうのは江戸時代の話だけど
江戸朱引は大江戸とか関係なく江戸の範囲は?
という事で描かれたもの
朱引で大江戸でも江戸を大江戸と言っただけで
江戸の周辺含めてとかそういう事じゃないよ

後北条氏時代の江戸はなおさら大江戸とかそういう事じゃなく
所領役帳の江戸が江戸
0095日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 17:35:18.18
太田道灌時代の江戸城の大手門は
江戸時代の江戸城の百人番所あたりにあったと言われているよ
本丸の西側
0097日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 19:09:51.28
北の丸が太田道灌時代も江戸城だった説だと
本丸も北の丸も江戸城だったという感じになる
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/09(木) 19:18:33.59
北の丸公園
https://ja.wikipedia.org/wiki/北の丸公園
>もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧・田安明神)の旧地であり
北の丸に筑土神社があったようだけど
その場所含めて江戸城なら
江戸城の規模は今よくある再現イラストより結構大きくなる
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/09(木) 20:42:28.25
>>70>>80
台東区、中央区、荒川区、文京区、千代田区、港区、品川区、北区、新宿区、中野区、渋谷区、目黒区
0100日本@名無史さん
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2018/08/09(木) 21:29:49.31
>>23
足利義氏が1560年に鶴岡参詣した際
北条氏が江戸〜川崎〜神奈川〜鎌倉の路地の掃除と伝馬の用意を街道筋の家臣に命じている
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/10(金) 00:31:25.13
>>98
広さの優位性が確立されるのは大砲をはじめとした火薬を用いた兵器が出てきてからなんだよ
室町〜戦国中頃までは高低差の方が重要。無駄に広くせず土塁や堀で敵の進行を止めるのが中世の城の常識
0102日本@名無史さん
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2018/08/10(金) 06:51:33.87
国立近代美術館遺跡が太田道灌時代の年代と符合することは証明されてるので、そこは否定できなくなっている
また旧江戸城の大手門が東側というのも最近では否定されつつあるね
徳川御三家の屋敷が半蔵門側にあることから家康時代までの江戸城はそれ以後と明確に異なるともいわれてる
0103日本@名無史さん
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2018/08/10(金) 07:07:56.90
>>98
いや大して広くないよ
北の丸と本丸の間を通る鎌倉街道を取り込む形で中世江戸城があったと言われているので街道筋付近のみが城のメイン
西の丸は当時は城外だったのは確かだけど今の本丸もすべて含めて江戸城の曲輪だったかどうかは不明
ちなみに今の江戸城本丸内の梅林坂が鎌倉街道ではなかったかともいわれているので現在の地図上の道路と堀は参考にならない
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/10(金) 20:25:55.62
始図では神田橋・常盤橋・日々谷口・外桜田口の東区画が大名屋敷、飯田町口・半蔵町口の西区画が旗本屋敷
0105日本@名無史さん
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2018/08/12(日) 10:30:02.87
そうそうそれならば徳川御三家の屋敷も東側に持ってくるはずだけど西側の旧鎌倉街道方面にある
家康時代の大手は半蔵門側ではなかったかという理由の一つにもなってるし、そもそも徳川がやってくるまではこちら側がメインだったというのも辻褄があうと言われている
日枝神社もあったしね
0106日本@名無史さん
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2018/08/13(月) 16:14:52.70
天正時代で言えば
江戸城下町の規模は全国10位には入らないだろうけど
11位〜20位には入っていたと思うよ
太田道灌時代で言うと
トップ10に入っていただろう
0107日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 06:05:27.17
それはない。有力大名が不在な状況では城下町整備は進まない。東北では南部、安東、伊達、葦名の拠点が城下町として栄えた。
関東の近くでは武田、上杉、今川、後北条、徳川の城下町や要所が江戸とは比較にならないほど繁栄した。
信長の領国はそれこそ数えきれないし、毛利や九州勢といった西国大名は東国には縁のない南蛮貿易と
物流の大動脈である商業都市を抱え近世の城下町造りに勤しんだ
0108日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 07:18:10.25
城下町の規模のソースは?
0109日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 07:56:17.95
それくらい戦国時代の主要な城下町や都市のググれば分かるだろ
5000人以上を抱えていたのは主に中部と畿内。中央集権を進め100万石越えの武田でさえ
城下町の人口は1万人にも届かない
0110日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 10:04:58.94
漁村説ってイメージ大きいよな
魚とって家の畠で野菜作って何百年も
暮らしてきたみたいな集落のイメージ

その後何百年も日本の中心になると
思えばその時代時代に無数にあるような地域社会
が広がっていただけという見立てもウソじゃないと思うけど
0111日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 13:57:16.23
近世城郭の築城や築城開始年等

永禄 1558年〜1570年
元亀 1570年〜1573年
天正 1573年〜1593年

1550年代 吉田郡山城の拡張開始

1576年 安土城の築城
1581年 大和郡山城の近世城郭への改修開始
1583年 大坂城の築城(この時惣構は未建造)
1586年 聚楽第の築城(この時惣構は未建造) 清洲城の拡張開始
1590年 秀吉による小田原攻め
1591年 京都御土居の建造開始(聚楽第惣構)
1592年 伏見城の築城
1597年 近世豊後府内城の築城 近世岡山城の築城
1601年 仙台城の築城 福岡城の築城 近世宇和島城の築城
1609年 近世名古屋城の築城
1611年 弘前城の築城
0112日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 13:58:18.84
凄い思うけど
江戸寒村説を支持する人って
近世の江戸以外と中世の江戸を比較してる人が多いんじゃないかな
0113日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:02:14.09
天正期って近世になり始めの時で
城も現存の近世城郭とは違い
近世城郭も中世と近世の中間みたいな城がほとんど

>>107
天正期は置いといて
1550年代までなら江戸は城下町として相当発展している方だけどな
あと中世城下町と近世城下町の区別をつけた方が良いよ
0114日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:02:33.00
>>2
「さびれた」という語感はどうしても
かつて栄えた漁港の衰退期というイメージがする
0116日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:08:08.03
近世城郭の築城開始って
吉田郡山城が突出して早いけど
他はそこまで早くない

あと近世城郭って
その地域にあった多くの城の役割を
一つの城で担うみたいな所があって
無数にあるわけではなく城の数は減る

大和郡山城も近世城郭に改修する時に
筒井城を廃城にしたり
大和国は城一つみたいな方針だったり
そういう事がある
0117日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:10:40.63
てかこのスレの上の方に色々書いてあるわけだけど
室町時代の江戸も商業は相当盛んだったわけで
0118日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:18:26.51
天正期で言うと
伏見や大坂に急ピッチで近世城郭や近世城下町が作られた時期で
人口が急増した場所とそうではない場所の人口の差が急に開いた時期でもある
京の都や鎌倉みたいな場所は城下町云々とは別に人口が多かったけど
0119日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:24:17.42
中世の大阪
http://livedoor.blogimg.jp/wendy777/imgs/e/a/ea491acc.jpg
中世の大坂ってこんな感じだからね
近世の大坂をイメージすると間違う
ただこういう感じでも人口は相当多い方

当時の淀川付近の地図
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chuusei/images/chuusei11-03.jpg
湿地帯云々も
古代〜中世の淀川沿いも湿地帯がたくさんあるわけで
てか今の淀にも葦原があるよ
伏見城の隣も湿地帯

石山合戦図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/Ishiyama10.jpg
1570年代の石山合戦の時点でもこんな感じ
ちなみに上町台地に川が描かれているのは
古代の運河跡だろう
0120日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:43:40.34
近代以前の日本の都市人口統計
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
戦国時代の城下町の人口については
ほとんど書いてないけど
江戸時代の武家人口以外の町方人口を参考までに

神戸 約2万人 1725年頃
西宮 約1万人 1769年
桑名 約1万3千人 1700年頃
四日市 約6千人 1724年
亀山 約2千人 1669年頃
安濃津 約1万2千人 1665年
松坂 約8千人 1699年
岐阜 約5千人 1655年頃
鳥羽 約4千人 1745年
名古屋 約5万5千人 1654年
犬山 約2千人 1804年
津島 約6千人 1800年頃
岡崎 約6千人 1801年
浜松 約6千人 1843年
甲府 約1万3千人 1670年
小田原 約1万人 1703年
大津 役2万人 1691年
坂本 役4千5百人 1732年
大垣 約5千5百人 1721年
松本 約8千5百人 1674年
松代 約3千人 1860年
0121日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:49:49.46
会津若松 約2万3千人 1649年
二本松 約4千5百人 1705年
仙台 約2万8千人 1668年
盛岡 約1万2千人 1683年
青森 約6千人 1744年
弘前 約1万6千人 1690年
米沢 約6千人 1595年 (江戸時代ではないが)
山形 約2万人 1622年
酒田 約2千人 1612年
0122日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 14:54:27.88
小浜 約1万人 1640年
敦賀 約1万5千人 1663年
福井 約2万5千人 1610年頃
金沢 約5万5千人 1664年
富山 1万6千人 1661年
新潟 約2万人 1818年
新発田 約4千人 1706年
長岡 約6千人 1694年
直江津 約6千人 1838年
0123日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 15:06:44.91
鳥取 約1万3千人 1749年
米子 約6千人 1749年
松江 約1万4千人 1763年
津和野 約2千人 1845年

明石 約9千人 1721年
姫路 約2万2千人 1648年
岡山 約3万人 1667年
倉敷 約3千人 1679年
松山 約6千人 1694年
福山 約1万3千人 1681年
鞆 約7千人 1711年
尾道 約7千人 1720年
広島 約3万7千人 1663年
山口 約6千人 1840年頃
岩国 約3千5百人 1726年
萩 約9千人 1663年
0124日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 15:09:43.98
和歌山 約4万2千人 1699年
田辺 約4千人 1667年
徳島 約2万人 1685年
高松 約1万3千人 1642年
松山 約1万7千人 1691年
宇和島 約5千人 1690年
高知 約1万7千人 1665年
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/14(火) 15:39:24.81
博多 約1万8千人 1669年
福岡+博多 約3万5千人 1690年
久留米 約9千人 1699年
柳川 約7千人 1752年
豊後杵築 約千3百人 1721年
豊後府内 約1万4千人 1712年
佐賀 約3万2千人 1687年
熊本 約2万5千人 1680年頃
延岡 約2千5百人 1747年頃
鹿児島 約5万人(武家人口含む) 1684年

松前 約5千人 1701年
函館 約2千6百人 1801年
0126日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 15:40:11.14
駿府 約1万7千人 1692年
堺 約7万人 1663年
岸和田 約3千人 1870年
八尾 約3千人 1769年
大和郡山 約1万3千人 1723年
淀 約5千人 1715年
宇治 約6千人 1690年
伏見 約2万5千人 1690年
0127日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 15:41:28.07
NHKは家康が来た頃の江戸を
人口6万の田舎町と言ってたけど
>>120-126に書いてある地域で2番目に人口が多いという
それも江戸時代の町と比較して
0128日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 16:35:56.30
京都、鎌倉、大坂、堺とあと数都市
それらの都市が人口一番手グループで
後北条氏時代の江戸の人口は二番手グループのトップという所だろう
0129日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 20:41:09.30
鎌倉は鎌倉公方も関東管領上杉氏も居なくなって廃れた
小田原の方が江戸より人口は多かったんじゃなかったかな
小田原から江戸に商人や職人を大勢移住させてるほどだしね
ちなみに彼らが江戸で伊勢屋を名乗った
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/14(火) 21:38:40.41
普通に考えて小田原城や躑躅ヶ崎、今川館あと家康の居城だった浜松城の方が人口は多いかと
0131日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 21:46:36.56
その辺含めて
後北条氏時代の江戸の城下町の規模は
11位〜20位って所が妥当じゃないかな
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/14(火) 22:00:35.05
太田道灌は勿論
扇谷上杉氏も河越から江戸に移って江戸城を居城にしたし
北条氏政も隠居後江戸城を居城にしたしで
なんだかんだ言って太田道灌の後
家康より前も結構江戸は重視されてる
0133日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 22:05:57.52
>>132
太田道灌の頃はやや特殊で家臣団を江戸城下に定住ささてたというから必ずしも人口は右肩上がりとは限らない
実際北条氏政の頃には小田原からの主要街道はもう少し西寄りの山の辺の道になっている
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/14(火) 23:06:01.15
っていうか江戸が都会だったってソースは何?
南関東そのものが河川の氾濫とかぐちゃぐちゃな地縁と血縁で纏まりがなく
上杉北条武田の狩場というか泥試合の舞台だったソースばっかりなんですけど
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/14(火) 23:35:25.59
なんで浜松の人口が多いの?
0136日本@名無史さん
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2018/08/14(火) 23:35:55.77
https://fujimizaka.wordpress.com/2014/03/10/fujimi_fujimizaka2-1/
>品川之流、溶々漾々以染碧、
>人家鱗差乎北南、而白?紅樓、鶴立?飛、以翼然乎其中、
>東武之一都会

>南に顧るときは則ち品川の流れ、
>溶々漾々として以て碧を染む、
>人家北南の鱗差す
の続きだけど
江戸〜品川に建物が鱗のように連なり
当時の江戸が東武の一都会と
太田道灌時代の江亭記という史料で言っているよ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/14(火) 23:39:06.84
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e_bunkazai/shiryoshitsu/hakken_sheet/history.files/1-08.pdf
江戸の隣の葛西御厨は
当時の利根川河口付近だけど
室町時代の『葛西御厨田数注文』という史料で
約1233haの広大な田んぼがあった事が分かっているよ

洪水と言ったって
そんなにしょっちゅうあるわけではないよ
堤防も人工的に作らなくても
河川の流域には土砂が堆積して自然堤防が出来るよ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/14(火) 23:45:27.35
>>136
自己レスだけど
江戸〜品川は
江戸城〜品川って事

当時の江戸を描いたという絵図も参考にすると
太田道灌時代に既に品川も江戸になっていたと思われる
太田道灌の家臣が品川の館にいて
品川の館は江戸城の出城網の一つでもある
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/15(水) 05:40:46.39
道灌時代の江戸と品川は別の町
品川湊は府中方面に海からの物資を運ぶ中心地
江戸は江戸湊が北条時代に整備されるまで鎌倉街道下道の街道筋の町で浅草や下総方面に向かっていた
利権構造から言っても全く別々の町だったし、そもそも道灌が品川の御殿山城から江戸城に移ったのも当時の敵対勢力である古河公方や下総の千葉氏により近くその街道筋で軍の移動がしやすいからで道灌が江戸城に移ってからは御殿山城の軍事的意味はない
実際、後年に北条氏綱が攻めてきた高輪原の戦いでは御殿山を占拠した記録はなく高輪から一気に江戸城まで攻めているんで出城としても機能していない
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/15(水) 05:49:10.19
品川の館は道灌時代の出城網の一角だけど
その後は廃城になっていた可能性もある
道灌時代より後は記録が無い以上何とも言えない所があるが
0142日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 05:55:09.39
江戸の南側には敵はいないと思っていたらいつのまにか南から後北条氏がやってきたという上杉氏が間抜けだったと考えてもいいが、一応江戸城から出陣して高輪まで応戦に出ているので決して警戒していなかったわけではない
という状況でも御殿山城は使われていないので早い段階で破棄されていたかとしれないがどこにも記録はないので分からない
あと道灌が江戸城に移った後に宇田川長清を御殿山城に入れているが宇田川長清は品川湊の商人だとも言われているのでやはり軍事的意味は道灌時代にもはやなくなり品川湊の代官所的な役割だったんだろう
この役割を江戸に持ってきていないことからも品川は軍事的にも経済的にも政治的にも江戸とは別の町と言える
0143日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 05:57:42.77
品川湊は
府中方面に限らず北武蔵や北下総や上野方面へ物資を運ぶ拠点でもあるよ
今の東海地方から商品を運んで内陸部に輸送する為の
大船じゃ川を遡れないから
あとはその為の問屋街

https://blogs.yahoo.co.jp/urayamagakenchi/15795789.html
この前埼玉県蓮田市で発掘された室町時代の埋蔵銭だけど
東海地方で作られた常滑焼に入っていた
まあどういうルートでそこまで行ったのかは不明だけど
東海地方から北武蔵まで常滑焼が運ばれたのは確実
0145日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 06:08:21.98
宇田川氏は江戸氏みたいな感じで
江戸の開発をした感じではある
字は宇多川とか別の書き方があるけど

宇田川氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/宇田川氏

品川は江亭記で考えるなら
江戸城から町が沿岸部の
主に台地の端に続いていたと考えられる(低地含め)

宿場町の記録なら後北条氏時代の芝村新宿のがあるけど
新宿という事はそれ以前から宿場町がある場合が多いな
芝は芝大神宮があったりその他寺社が太田道灌時代より前からあるな
0146日本@名無史さん
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2018/08/15(水) 06:10:12.95
国府津ってどこだか不明ではある
品川湊のあたりが候補の一つではあるけど
多摩川からはちょっと距離がある

大国魂神社の祭礼の一つでは
多摩川沿いに江戸湾まで行くから
多摩川河口に国府津があったとも考えられるよ
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/15(水) 06:24:07.74
品川湊
https://ja.wikipedia.org/wiki/品川湊
>品川湊のあった品川湾は遠浅で、
>品川湊の沖合いでは、東京湾内の小型廻船(瀬取船など)と太平洋航路の大型廻船(弁才船など)の積み替えが行われた。
>現在の東京港品川埠頭から天王洲にかけての一帯がこれにあたる。

>荷物を受け取った小型廻船は河川を通じて北関東や香取海にまで至り、西国との流通路を形成した。

品川湊は遠浅だけど
江戸湊の港湾は水深が深く
大船を港に接岸出来るようにと
江戸湊が作られたとも
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/15(水) 07:33:04.49
江戸が洪水にならないよう北条氏は隅田川の堤防を整備してるよ→墨田堤ほか
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/15(水) 11:01:37.61
江戸湊も絶えず土砂が流れ込んでいたと言われているけどね
前島あたりを流れる平川の流路を変えることによって江戸が湊として機能することになった
いずれにせよ後北条氏時代からだけど水軍もいないし江戸湾はやはり三浦半島やその北部がメインで江戸や品川はたいした港ではない
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