邪馬台国畿内説 Part346
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525372527/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>141
少なくとも、卑弥呼の直前の後漢の頃は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国だから、対馬海峡周辺だけが倭なんだよ。
で、畿内説は倭国大乱の間にそれが畿内まで拡大して畿内が倭の中心になったと言うんだろ?
ぎからみて、そんなに遠くの国を同じ倭という名前で呼ぶかねえ。 >>155
まあ、景行天皇と筑紫の神夏磯姫の関係はそれかもしれないね。
でも八咫の鏡を持っていたのは景行天皇ではなく神夏磯姫の方なんだよね。 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>99
>新羅の南は、東南の大海=日本海の中にある倭国の対馬
倭国の北は大海の日本海で限られている<
唐会要の「新羅の東南」や「正北抵新羅」でも、魏志倭人伝の行程記載でも 、
どっちにしても倭國は、九州であり、
倭国の北は、半島〜九州の間の大海。
>魏志でも、「韓在帯方之南」「倭人在帶方東南大海之中」であるので
倭人は韓の南ではなく東南 <
唐会要の「新羅の東南」や「正北抵新羅」でも、
魏志倭人伝の「帶方東南大海之中依山島爲國邑」でも行程記載でも 、
どっちにしても倭國は、九州。
>後漢書に注をつけているのだから、「誰も知らないような地名を持ち出して」というのは
「今名邪摩惟」のこと<
だから、李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得たので、
後漢書の邪馬臺國に「今の名」で注を付けた。
>隋書の「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」を知識人は皆知っているから
後漢時代の「邪馬臺」の音が今は訛っていると推測している <
アホ言いなさんな。
李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、
隋書の邪靡堆に注を付けたんではない、んだよ。 記紀の神話では、
榊の枝に八坂瓊之五百箇御統、八咫鏡、青白の布帛をかけ祈祷をしたのは
天磐戸のときに中臣氏の祖の天児屋根と忌部氏の祖の天太玉がやったことだから、
神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした >>161
>どっちにしても倭國は、九州であり、
仮説は循環論法になるので ×
>どっちにしても倭國は、九州。
言張るだけでは日本では ×
>李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得た
誰も知らない
>李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、
後漢書の「邪馬臺」の音が今は隋書の「邪靡堆」と訛っているという推測
つまり、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」は後漢時代の「邪馬臺國」と同じ国であり
「邪馬壹」ではなく「邪馬臺」を前提として推測している >>106
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。<
畿内という文言は、「天子皇帝天皇」の存在を前提とした宗教的な文言であり、
2世紀末には存在しないし、
大和の勢力変化は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の結果であった可能性が非常に高い。
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があった事と、
九州倭國の地方の市を監督する「大倭」職がいて、頑張ったから。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<
神武らに拠る東征建国は、紀元前91年頃。
>大和朝廷の主体は尾張と出雲。<
尾張は、東征毛人55国の中の一つ。
出雲は、国譲りや東征毛人55国でも滅びず、
梁代にも文身國と記録され、残存していた。 >>113
>邪馬台国はヤマト国<
邪馬台国なんて存在しないし、
邪馬壹國女王之所都の事なら、「ヤマト」は、「南≠東」だけでも×。 >>164
>畿内という文言は、
現在使われている地域概念が定着しているので ○
>「東征毛人五十五國」
毛人は東国なので ×
>文身國
出雲が文身國である根拠がないので × 神夏磯姫が三種の神器を掲げたのは、倭王であることを示すためだろうね。
景行天皇とむやみに衝突するのを避けたかったのもあるだろうけど、自らの正統性を示す意味もあったと思う。 >>115
>スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。
近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。 倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。<
倭国大乱もなかったし、
「倭國亂、相攻伐歴年」があったには九州付近であるし、
近畿地方で起きたのは九州倭國の「東征毛人五十五國」。
>結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
大和朝廷もなかった。
>近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。<
「三道将軍」の派遣は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の事。
大和は、その「東征毛人五十五國」に従軍した事を古事記に伝承し、
書紀は、それに出雲方面への戦争に従軍した事を付加して「四道将軍」と改竄した。 >>162
>神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした
恭順を意味するという根拠は? 神夏磯姫は土蜘蛛も退治できないくらいだから
豊前あたりの小国の首長 >>116
>魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。 弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 奴佳鞮は中臣。 邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。<
九州倭國の共立支配や東征中心は、邪馬壹國と伊都国。
いずれも「姫氏系と天孫族の阿毎氏系の合同王朝の倭奴國の後継的」な国であり、
東征毛人五十五國の中心的な国であったから、
その臣下の呼称が、「東征毛人五十五國」に遺残する事は、幾らでも有り得る。
阿毎氏と姫氏とが婚姻で?合同していた事になる倭奴國(委奴國)からは、
AD57年の遣使の後に、姫氏系の一部が大野の地(卑弥呼が出た地)に分離し、
更に残った倭奴國は、奴國と伊都国に分裂して、
争って乱していたようであり、
そして、伊都国と邪馬壹國が共立中心になって、卑弥呼の共立にこぎつけた。 >>120
>学者にとっちゃ筑紫説なんて無いだろう<
弥生銀座や糸島の繁栄を無視して、
それらを倭国の地方の小国であるかのような言い方をして、
大和が倭国の首都であったかのような説を唱えた西谷は、
「南→東」などの嘘つき騙しもしており、
まあ、まともな人間ではないね。
おそらく皇国史観宗教に狂った・・・・学者。 >>171
~夏磯媛は周防の娑麼の南だから筑紫の魁帥じゃないよ 日本書紀に筑紫の梟帥と書いてあるよ。
他の勢力と組まれないように、先回りして豊前まで来ただけだよ。 >>127
>(陳寿の三国志を評価した後代の人)命じた皇帝は司馬氏、裴松之は東晋の役人<
後代の人である事には違いがない。 そして、この男(ww)は、私が「晋書の筆者」を挙げた事をこっそり隠している詐欺師。
>清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、、くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。<
唐代の晋書の陳寿伝は、司馬氏とは何の関係もなく、「デマや誤報、くだらないゴシップ」ばかりである筈がない。 この・・・・男の、「紹介や評価」の紹介の方が、信頼性が全くない。
>>邪馬臺國という狭い地域名の地(久留米付近)に変わっていた。<
>作り話はいらない<
七支刀の「こうやの宮」の存在や、高良大社の磐井伝承や、久留米付近の古墳や、横穴式石室や、装飾古墳などが根拠。 楽浪滅亡の半島情勢も傍証。
>>邪馬壹國が古文古型であった。<
>紹煕本は12世紀末の版本 <
底本になったのは、写本。
>>版本での錯誤の有無は、底本写本を介して、写本での錯誤の有無になる。<
>版本は12世紀以降なのでならない<
系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。
>>後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、対象が違うから、関係がない。<
>仮説を根拠にするのは循環論法になるから不可<
史料事実の差異を根拠にしているから、循環論法にならない。 まあ、神夏磯姫の筑紫の倭国女王としての権威が弱まっていたのは確かだろうけどね。
オオタラシヒコを利用して、耳垂など以前の邪馬台国の官を倒さなくてはいけなかったからね。
逆にいうと、邪馬台国が九州北部であった痕跡が神夏磯姫の記事に色濃く残っているんだよ。
神武から景行までの間、大和には女王はいないけど、筑紫には八咫の鏡を持つ女王がいて、耳垂などの邪馬台国の官名もまだ残っていたんだ。 筑紫の帥で八咫鏡を持つ。
倭国女王である平原の卑弥呼そのままですな。
卑弥呼の没後、おそらく数十年しか経っていないから、直接の後継者か。 >>131
>>「殿本考証」での話 <
>北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)は
殿本考証での誤りを正す個所の数<
だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
北宋本と南宋本の校異・考証箇所。
しっかり読めよ。
>北宋本、南宋本(数本、紹興本系列の本)しか書いてない
他本(諸本)とは張元済の話で、紹煕本以外のこと<
それが、「殿本考証の説明」を書いた張元済の話。
しっかり読めよ。
>>(太宰府の翰苑の元の原文)に現れた本文の事を「本体」と言った。<
>お前が、「本体」などと変な表現の自分のレスに返答していただけ<
お前が、「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。 >>176
>後代の人である事には違いがない。
晋の後の時代に三国志を評価したのは誰かと訊ねている
>「晋書の筆者」を挙げた
「晋書」の評価が低いのは書いてあげた
>唐代の晋書の陳寿伝は、
陳寿ではなく三国志の評価を訊ねている
>七支刀の「こうやの宮」の存在
って何?
>〜などが根拠。
だから仮説であり作り話は ×
>底本になったのは、写本。
>系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。
それはどこにあるのかを訊いたが応えはない
>史料事実の差異を根拠にしているから
字が違うから別の国というのが仮説だから × >>180
>だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
>北宋本と南宋本の校異・考証箇所。
それはおれが最初から言ってること
お前は「殿本考証」で北宋本と南宋本の他にその他(諸本)があると書いていた
途中で話を変えてごまかすな
>「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。
お前が自分のレスに返答してるから教えてやって
おかしな「本体」を訂正してやっただけ >>126
>親魏倭王印や魏の臣下の銀印の身分を貰っていた九州倭国は、
>魏の薄葬令の制約をもろに受けるが、
畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
その頃にも本国だとザラコクが主張する九州ではしょぼい前方後円墳しか作ってないよな?
魏の薄葬令なんて関係ない時期でも、九州に巨大古墳はない
つまり倭国の中心とはほど遠い土地だ 畿内説はすぐ卑弥呼より後の時代の話を持ち出して話をそらすんだよな。 もうこれを書くのも何度目か、なんだが
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
この小鹿火宿禰を「倭王」だとか言うやつはいないよ
八咫鏡持っている=倭王、じゃないんだよ
神夏磯姫も当然、倭王ではない >>133
>お前は更正数を版本数と勘違いし、張元済の話での他本(諸本=紹煕本以外の版本)を
殿本考証の話と勘違いしている <
していない。
そんな事は始めから判っている。
「ここで注意すべきは「殿本考証」の性格だ。
清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したこの考証は、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である。
特に注目すべきは、当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ。
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)
南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)」
と書いてあるんだから、
「当時」とは、殿本考証の時であり、
「全巻にわたって対照し、記録」とは、
殿本考証の時の「北宋本」部分と「南宋本」部分の、それぞれでの、考証箇所数だ。
お前は、日本語も読めない・・・・アホだ。 九州説は、白村江敗戦後まで九州王朝が存続してるっていうんだから、
そこが否定されたらもう意味なしだろ >>183
>畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
箸墓は卑弥呼の時代ではなかったのか? >>135
>白村江の戦いの時点で唐が日本と呼ぶ国が2つあるなんて、<
釈日本紀や晋書や唐会要や新唐書の情報もあるが、
根本的には、旧唐書などの、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。」
記載が根拠だ。
>古田説はムチャクチャな説だね<
釈日本紀や晋書や唐会要や新唐書や旧唐書などの記載を否定するなんて、
大和説は、ムチャクチャな説だね。 それらに、唐が日本と呼ぶ国が
同時に2つもあるとは書いてないよ >>141
>二王朝とか万世一系とかいうレベルじゃないぞ
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶかアホ!って話だ
脳が腐ってるのか?<
九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
大和は、隋の文帝に小野妹子が日本国を初めて名乗った、という話であり、
それを紹介したのが、旧唐書の、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
の文だ。
だから、お前がアホか、脳が腐っているのか?、って話だ。 >>142
>この人は、、何が問題だか理解できてないんだろうか<
この大和説男も、何が問題だか?、も理解できてないんだろうか。 >>143
大和説のいう王朝って言葉の使い方がいい加減なだけだと思う。
各地には各地の支配者である首長がいて、それが豪族になり、
更にその豪族一族が一定地域を継続的に支配している事になれば、
そりゃ、普通の日本語では「王朝」と呼べる国である事になる。
>国造なり県主なりと呼ばれるようになる
九州の首長は、奴国が国造(筑紫国造)、伊都国が県主(怡土県主)、末慮国が国造(末羅国造)
になっているね<
いや、九州では、倭奴國から倭国時代にずっと盟主的に「一定地域を継続的に支配していた」から、
王朝と呼べる。
しかし、大和は、九州倭国の支配下の「地方の市を監督する大倭職の役人の支配地域」であったから、
盟主ではなかったので、王朝と少し言い難い。
>こういうのを全部王朝扱いしても、構わないけどさ、あまり意味のある議論にはならないだろう<
大和をずっと「王朝扱い」にするのは、少し「嘘つき騙し」のインチキだろう。 >>186
>していない。
お前が北宋本・南宋本の他にもその他の諸本がたくさんあったと連呼して
間違い箇所数を貼り続けたから
俺が殿本考証については北宋本・南宋本の間違い箇所数しか書いてないと
指摘してやったんだろ、自分のアホをごまかすな >>144
>名前が違うから別の国だ と言い張ってたトンデモ珍説が<
言っていないねえ。
始めから、旧唐書の、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
に拠って、
九州倭国も大和も、どちらも「日本国」と名乗っていた、と説明して来て置いた。
>とうとう辻褄合わなくなって<
唐会要や新唐書などの新しい情報が入るたびに、ますます「辻褄が合って」来た。
>名前は同じだが別の国だ と言い出して泥沼 って話だよ 笑い話 <
大和説者が、
九州倭国と大和が、ずっと同じ国だ と言い出して泥沼になってしまった、
って話だよ。
笑い話。 >>167
>神夏磯姫が三種の神器を掲げたのは、倭王であることを示すためだろうね。
という理由は、なんか有るのか?
ないんだろ? >>146
>(九州倭國)北部はイマイチまとまりが無いね
>玄関口だからね<
共立時代は、イマイチまとまりが無かった可能性はあるが、
その後は、はっきり倭国として統一的になって来たから、纏まっていた。 >>194
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
は、作り話だから × >>194
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
>大和は、隋の文帝に小野妹子が日本国を初めて名乗った、という話であり、
>それを紹介したのが、旧唐書の、
>「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
の文だ。
あんたらのそんな突飛な考えはどうでもいいよ
だって、それ・・・
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶ
なんて奇妙なフルタ説を正当ばしてくれないだろ >>148
>奴国は筑紫国造じゃなくて儺県主だろ、(筑紫国造の同族だろうけど)<
奴國は、倭奴國時代には盟主的であったようだが、
伊都国と別れてからは、倭国王にはなっていなかったようだよ。
それに、半分偽書の記紀の「北部九州諸国への身分呼称の国造や県主」には、
信頼性もないよ。 >>200
纏まってはいないが、畿内の庄内式の模倣という共通性は
見られるようになる
3世紀はまだ畿内と密接なのは博多湾沿岸地域だけだろう >>155
>筑紫で激しい権力争いをしている根拠はないけど、<
女王共立の頃までは、激しい権力争いがあったかも知れないが、
その後は、姫氏と阿毎氏系の団結が強くなって、
(継体の反乱頃までは)激しい権力争いは殆どなかった。
>北部九州で勢力争いがあった場合
新興勢力は本州の大きな勢力と手を組んだほうが有利になる<
本州勢力が九州倭国の王家に参加出来る事になったのは、継体の反乱勝利の後。 >>203
そもそも2万戸奴国の比定が三雲の飛び地と早良平野という
九州説でも言わないおかしな国にしてるから「ようだよ。」と作り話しても × >>205
>姫氏と阿毎氏系の団結が強くなって、
作り話だから × >>156
>少なくとも、卑弥呼の直前の後漢の頃は
倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国だから、対馬海峡周辺だけが倭なんだよ。<
成程。
後漢の頃は、九州中南部は、東テイ人の国であった、という事になり、
それが卑弥呼の頃には投馬國になっていた、という事になり、
史料事実とほぼぴったり合うね。 >>193
>倭国は隋の時代に遂絶している。
根拠は? >>199
三種の神器が倭王の王権の象徴だからだよ! >>157
>まあ、景行天皇と筑紫の神夏磯姫の関係はそれかもしれないね。
でも八咫の鏡を持っていたのは景行天皇ではなく神夏磯姫の方なんだよね。<
成程ねえ。
まあ、景行は、山口県から出発して筑紫に凱旋しているから、
筑紫倭國の将軍の一人ではあって、
大和の書紀はそれを盗用したんでしょうが。 >>202
>唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶ
>なんて奇妙なフルタ説を正当ばしてくれないだろ
じゃあ、倭国と日本国が並存していた別の国であることは認めるんだな? >>208
>九州中南部は、東テイ人の国
東鯷人は呉地だから ×
>卑弥呼の頃には投馬國になっていた
何の繋がりもない作り話は × >>204
>>>200
>
>纏まってはいないが、畿内の庄内式の模倣という共通性は
>見られるようになる
>3世紀はまだ畿内と密接なのは博多湾沿岸地域だけだろう
纒向は東海との結びつきが強いんじゃなかったっけ?
博多湾沿岸部は西日本各地から物資が集中したけどね。 >>211
忍代別の称号があるから、筑紫倭国から出た分家の一つでしょうねえ。 >>214
庄内甕は在地模倣製作だから
物資が集中した根拠はない >>215
なんで忍代別だと筑紫倭国から出た分家になるんだ
意味不明 >>214
纒向の搬入土器は東海が多いけど
庄内式自体が吉備の技術の影響だから情報交流が緊密なのは吉備のほう
北部九州でも庄内式模倣製作の中心の那珂が畿内と緊密 >>218
直接交流だとは思いませんね。
纒向はあくまでも東海地方を通じて西と交流していたということであり、独自の主体性を欠く従属する土地なんですよ。
当時は海運が主力だから、吉備と東海は直接交流できたでしょうが。 そんな纒向が、豊かで文化的水準も高かった筑紫を従えることなど無理。 >>220
庄内式の成立は河内だからな
庄内式の前段階に畿内第V様式圏があるから
舟で行けるとこだけというのは新石器時代の話だから >>220と>>221
慌てて文体を変えるのを忘れてるなw
>>220は岡上口調
>>221は名無しの八咫バカ口調 東海系のS字甕は博多遺跡には入るけど
古墳時代初頭から外港になる西新町からは出ない >>222
>舟で行けるとこだけというのは新石器時代の話だから
根拠は? >>227
何の知識も無い人から根拠はと聞かれても困るが
縄文時代でも中部高地は遺跡が密集する
弥生時代は水稲栽培適地、それにより土木技術が発達する >>220
>纒向はあくまでも東海地方を通じて西と交流していたということであり
ことであり?
どっから湧いて出て来た話だ? 畿内説明は土器の話しかできないのかよ
倭人は鉄の鏃を使うって書いてあるんだろ
ヤジリが出ない時点で九州確定なんだよ
俺は卑弥呼の墓も想定ついてるけど
荒らされたら申し訳ないから書かないだけだからな >>231
倭人が全員鉄の鏃を使うって書いてないな >>162
>記紀の神話では、
榊の枝に八坂瓊之五百箇御統、八咫鏡、青白の布帛をかけ祈祷をしたのは
天磐戸のときに中臣氏の祖の天児屋根と忌部氏の祖の天太玉がやったことだから、
神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした<
「恭順の意」とは限らない、と思いますよ。
記紀神話は、天孫族の阿毎氏の皇国史観という宗教的な「結論先にありき」で書かれていますから、
「恭順の意」を表したように書いているんでしょうが、
「三種の神器」様の組み合わせで出迎えた、という事は、敵味方を示す旗印のように、
自分たちの部族の出目や地位を相手に伝えよう、としているんだろう、と思いますよ。
つまり、神夏磯媛や熊鰐や五十迹手らは、
自分らが、倭国の王家や、天孫族系の阿毎氏系王家に繋がる部族である事を、
軍を引き連れて来た(倭国系の遠征将軍の?)景行や仲哀に示そう、とした。
ニギハヤヒが東征将軍の神武らに示したお宝と同じようなの事なんでしょうね。 テンプレに出てくる「"嘉平限断論"」ってなに?
ググってもこのスレしか出て来ないんだが >>163
>>(唐会要の正北抵新羅)どっちにしても倭國は、九州であり、<
>仮説は循環論法になるので × <
変な男。wwは・・・・か?。
「唐会要倭国伝の正北抵新羅」という史料事実を出発点にした論を書いているのだから、 循環論法になっておらず、
「倭國の中心部は大和にあった」という無根拠な事を言い張ったwwの方が、
「結論先にありき」の循環論法。
>>どっちにしても倭國は、九州。<
>言張るだけでは日本では × <
史料事実を否定して「大和が倭国の中心であった」として言い張るだけでは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者には通用しても、
国民や人類や世界の学者や科学者には通用せず、×。
>>李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得た<
>誰も知らない<
確定的な別情報(郭務ソウらからの)を得なければ、李賢は「邪摩惟」情報を知る事が出来ない。
>>李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、<
>後漢書の「邪馬臺」の音が今は隋書の「邪靡堆」と訛っているという推測
つまり、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」は後漢時代の「邪馬臺國」と同じ国であり
「邪馬壹」ではなく「邪馬臺」を前提として推測している<
「案:今名邪摩惟、音之訛也」は、「今の名のが邪摩惟がである」と事を断定した表現であり、
後漢書の「邪馬臺國」の名前が「邪摩惟」に変わった、という事を「案」じている。 >>231
>ヤジリが出ない時点で九州確定なんだよ
鉄鏃があちこちから出てる阿波はどうなるの? @阿波 >>222
>庄内式の前段階に畿内第V様式圏があるから
その庄内式の前段階は、畿内第V様式の「東阿波型土器」だよね。 @阿波 >>166
>畿内という文言は、現在使われている地域概念が定着しているので ○ <
畿内という文言は、大和に天皇がいたという事を前提にした文言であるが、
大和が天皇になったのは天智からであり、だから、天智以前の話に「畿内」を使うのは、
「結論先にありき」の循環論法になってしまうので、×。
>「東征毛人五十五國」 毛人は東国なので ×<
倭国の位置は、唐会要倭国伝で「正北抵新羅」であるから、九州であり、
その倭國の「東征毛人五十五國」の「毛人」は九州以東の地の部族の事になり、
単なる「東国」として、大和以東の人種だ、とするのは嘘つき騙しになるので、×。
>(文身國)出雲が文身國である根拠がないので ×<
梁書が出雲を「文身國」と記録しているので、このwwの説明は嘘つき騙しになり、×。 >>232
全員どころか、畿内では誰も使ってないw 3世紀の鉄器が出土するのは北部九州で関西からは出ない、絹も同じ
3世紀当時は関西は未だ未開の地で国なんか存在してなかった。 「晋書限断論」とは晋書の始まりをどこに置くかという問題。
荀?は曹叡が死んで曹爽と司馬懿の連立政権が始まる239年を晋書の開始年と主張した。
王?は司馬懿が曹爽を誅殺した249年(嘉平元年)を晋書の開始年と主張した。
290年に司馬炎が死ぬと魏が滅亡した265年が晋書の開始年となった。 >>240
>3世紀の鉄器が出土するのは北部九州で関西からは出ない、絹も同じ
3世紀の鉄器は阿波でも出土する。
3世紀の丹が採れるのは阿波だけ。 @阿波 >>>(陳寿の三国志を評価した後代の人である事には違いがない)
晋の後の時代に三国志を評価したのは誰かと訊ねている<
>>「晋書の筆者」を挙げた<
>「晋書」の評価が低いのは書いてあげた<
晋書の筆者が、陳寿や三国志を評価した事には変わりがない。
>(唐代の晋書の陳寿伝は、) 陳寿ではなく三国志の評価を訊ねている<
晋書は、陳寿も三国志も、どっちも評価している。
>>七支刀の「こうやの宮」の存在<
>って何?<
「桐の家紋」の主が七支刀を持った使節らを受けている、という形の人形群があるから、
「桐の家紋」の主は、倭王旨その人か?、倭王旨の家臣の最高位的な人物。
>>〜などが根拠。<
>だから仮説であり作り話は ×<
否定反論の根拠も言えずに、「ただ仮説だ」と口先だけで否定宣伝をするwwは、
全て仮説であり、作り話であるから、×人間。 >>181の続き
>>底本になったのは、写本。
>>系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。<
>それはどこにあるのかを訊いたが応えはない<
当然、殿本考証の時点で、最大限の資料収集をしていたんだから、
清朝の殿本考証の場に、揃えられていた。
当たり前の事。
>>(邪馬壹國や邪馬臺國や邪靡堆や邪摩惟)
史料事実の差異を根拠にしているから <
>字が違うから別の国というのが仮説だから × <
字形も音韻も説明記載内容や時期も違えば、「別の国」である、
というのは、史料事実を根拠にした史料実態であり、
仮説ではないので、
wwは、また、×。 >>241
鉄器が無い→農業生産性が低い→人口が少ない
鉄器が無い→戦争に弱い→他国の侵略を受ける >>246
>鉄器が無い→戦争に弱い→他国の侵略を受ける
鉄器が無い→農業・手工業生産性が低い→先進国の文化を受け入れる @阿波 >>182
>>(北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71))
だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
北宋本と南宋本の校異・考証箇所。<
>それはおれが最初から言ってること<
それは、私が最初から言っていた事。
>お前は「殿本考証」で北宋本と南宋本の他にその他(諸本)があると書いていた
途中で話を変えてごまかすな <
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)という記載では、
その数が、殿本考証での、北宋本と南宋本のそれぞれの中の考証箇所数を示している可能性が高く、
北宋本と南宋本間の考証箇所であれば、北宋本と南宋本の考証箇所数が一致する筈であるので、
それが「違う」という事は、
単に「殿本考証での、北宋本と南宋本のそれぞれの中の考証箇所数を示している」という可能性が高い。
>>「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。<
>お前が自分のレスに返答してるから教えてやって おかしな「本体」を訂正してやっただけ<
お前の「言葉尻の誹謗」のために、世間の人々に何の話なのか?が判るように、
その返事に「何の話であったのか?」の説明も入れる必要がある事になり、
しかし、行数が32を超えれば、5chにその投稿全部を抹殺されてしまう可能性があり、
だから、お前の・・・・投稿文をカットした投稿を書いた、
というだけだ。 >>222
内陸の僻地であった纒向は邪馬台国と関係ないということで。 >>241
魏志倭人伝の記述と畿内の状況はかけ離れすぎている。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 キナイコシが鉄器に過剰反応するのはなぜだろうか、、、 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています