北条泰時は日本史上唯一の革命家
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山本七平によると日本で革命を成功させた革命家は北条泰時だけらしい。 北条内の反乱分子と言えば名越だが泰時存命中までは大人しかったんだよな 日本史板は北条ブームだな
自分は一族滅亡した後に最後の意地を見せた中先代時行が大好き 血塗られた粛清にまみれた北条得宗の中で突然変異で生まれた聖人だよ。 吾妻鏡を読んでると、泰時って抜けた人にしか思えない
和田合戦の前夜に酒飲んで酔っ払って当日二日酔いだとか
宇治川で馬で突っ込もうとしたら馬隠されて家来と追いかけっことか
編者にネタにされてる印象すらある >>43
泰時は朝時に気を遣いまくってたから
朝時が有能なわりに単純な性格だったのと、
泰時が気配り性だったので存命中は平和だったが
むしろ例外的な事態だなそれは >>47
朝時が泰時に気を遣っていたんじゃないか
庶兄とはいえ12歳も年上の兄だったから
比企氏の乱が起こらなければ得宗は朝時だったはずだし 承久の乱に勝てたのは、政子がいたからだろう。泰時は、当初びびってたろう。 承久の乱の時も泰時がいちばん弱気だった
泰時の言うとおりにしてたら鎌倉は負けたかも
もっとも義時も強気派ではなかったが
はっきり言って有事のセンスはない人だけど、
温和で真面目な性格が合議制の時代にマッチして
安定してたという幸運な人だね 家庭には恵まれてなかった
最初の正室は離縁で次男は家臣に殺害され期待の嫡男は早世 承久の乱で幕府が勝てたのは慎重派の北条父子や政子演説よりも、
大江広元の強硬策によるものである。
ある意味では公家出身の大江氏が「武士の世の中」を生み出した。 >>52
北条得宗家は泰時以降、早死に多い
毒殺説が流れるほど 朝廷を完全にコントールできたのは北条泰時と徳川家康だけ だが、最後には朝廷に滅ぼされてしまう北条一族ワロス 皇帝=天皇
漢人貴族=公家
寒人、異民族傭兵=武士
日本は古代チャンコロのパクリ >>67
鎌倉幕府打倒は足利と新田の功績じゃないか?
しかも後醍醐は足利兄弟にボコボコにされたし >>69
天皇家自体は現代にまで特別待遇が残る唯一の家系であり勝者だろ
北条の子孫とか足利の子孫とか言ってもただの一般人で
何の優遇処置もなし 足利(喜連川)と新田(岩松)も戦前は華族だぞ。江戸時代は交代寄合 立憲ミンス党支持率急落 頼みの綱の連合は旧総評と旧同盟系に分裂www
世間の関心はサッカーと紀州のドンファンへ。
しっかりしろよパヨクw 安倍より下痢してんじゃねえのかww
アカヒ新聞も部数減らして青色吐息だから購読者にでもなってやるかなw 義時 泰時 の次が
経時 なのか 時氏なのかいつも分からなくなる とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
0ZC 日本史上最強のマイナー武将 北条義時 ってことでその2つのスレでは
結論付けられているけどな 確かに北条氏は知名度や人気は低い
だが日本を支配してたのである 朝廷の権威を完全に無効化した北条義時こそ人類最強! ,
北条一族は短期間だが天皇家を超越して日本の王に君臨した。
天皇家を超越した一族は北条一族しかいない。 北条氏と徳川氏は優れた武士政権をつくった
中途半端に天皇権力を復活させた足利氏は、権威ガタ落ちで武士社会の秩序をかき乱した えらいシブいスレやな。続法窓夜話で穂積陳重先生も激賞しとったで(´・ω・`) 泰時って合戦に際してはあんまりいい所がない
和田合戦の時は二日酔い、承久の乱でも総大将自ら川に飛び込もうとするし
吾妻鏡の記述を見てても泰時をちょっと茶化してる所がある 朝廷内の皇位継承に口出しし出家予定の後嵯峨天皇を即位させたため
公家たちから嫌われた
御家人たちから絶大な信頼を得ていた尼将軍・北条政子が死去してからは
北条独裁ではなく御家人たちによる合議制にせざるを得なかった >>107
御成敗式目を参考に建武式目を定めた尊氏はくしくも泰時の子孫の一人
江戸時代の寺子屋ではこれが書道の手本
実質明治憲法発布まで日本の憲法がこれだったと言える >>127
さすがに違うわ
朝廷が定めた飛鳥浄御原令やら大宝律令のほうが先行するし
もっと多くを網羅している
御成敗式目は幕府御家人にのみ有効な法令で
朝廷や庶民は無関係だったし 北条泰時がいなければ鎌倉幕府はもっと短命で終わっていただろ 北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった なにわ武士だよ源平は
治承四年、ポンコツ平家と臆病な畿内童貞侍の皆さん、水鳥の羽音に狼狽し我先にと逃げ帰る。
山槐記…宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww
吉記…於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww
吾妻鏡…所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww
寿永二年、ポンコツ平氏は山城、大和、摂津、和泉、紀伊の包茎侍どもを招集(『盛衰記』)、木曽討伐に向かうも惨敗。
河内長野の貞弘戦死、季国戦死、摂津の重経、紀宗時らは尻尾を巻いて逃げ帰りました。
寿永三年、負け犬行家さんと石川源氏が連合で木曽に喧嘩を吹っ掛けるも、信濃の猛将樋口様にビビって小便漏らしながら逃亡。
【なにわのトップ】
摂津の国守護は剛毅の士・長沼宗政様(下野国出身)
河内の国守護は知勇兼備・三浦義村様(相模国出身)
和泉の国守護は弓馬無双・佐原義連様(相模国出身)
悲報、相模和田氏出身の河内国司・藤原秀康さんと弟の秀澄さんが長年の京暮らしで都の悪風に染まり
幕府から「天下乱逆の根源、この両人の謀計に起こる(承久の乱)」とまで言われてしまう。 アベコロナ「コラ吉村早く宣言解除して、府民みんなで、馬鹿騒ぎしろや、変異株が退屈しとるやんか」
いそじん「すんまへん、もう少し待ってくださいなんとかしますから」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています