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「《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。すなわち畿内政権の故郷は北九州であると
無理なく考えられよう。記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の

「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、

大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。