差別の問題は意味が大きいのだ。
なぜなら倭國王帥升の連れた160人の生口、
これは2世紀には王権の近くにかなり大きな俘囚郷があった事が推定されるからだ。

九州の差別問題は白村江の移配俘囚や黒田藩が姫路から連れて来た皮工をルーツとする以上、
弥生時代に大きな王権があったとは言えないのだ。

太古の日本列島において俘囚郷のあった大きな王権地と考えられるのは葛城だ。
この地の俘囚郷が20世紀の「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ」の水平社運動の聖地になるわけだ。

そもそも大和には移配俘囚が存在しない。
ならば大和の俘囚は7世紀以前から存在したということだ。
葛城には土蜘蛛と思われる国栖(くず、くにす)に関わる地名の被差別郷もある。

つ弥生時代に俘囚郷があり王権があったのは葛城だ。

帥升ことスサノオは葛城にいた。
今も日本最古の高鴨神社に祀られている。

その後、王権は移動していない。
魏志の2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで王権は葛城にあった。

邪馬台国とは葛城だ。

ヒミコとはヒメである。
後にヒメ(踏鞴五十鈴)媛と表記される人物である。