平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
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説文解字(後漢)にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大) >出土した銅尺から、東周から漢代までは1尺=約23センチで一定。
>しかも10寸刻み。考古学的に確定。
さらに、西周の尺が東周時代と違うという証拠はあるかな?
そして、西周だと漢代から500年以上前になるが、
漢代の辞典が周と言った場合に、
東周をすっとばして西周のことを指す可能性は非常に低くなる。 >>135
尺が23センチで成立している以上、その反論は意味が無い。 説文解字の著者は正しく理解できていたが、それを伝え聞いた人は、古への周代のことなので誤解した、ということですね〜。 出土した銅尺によって、考古学的に周代の八寸=漢代の八寸だから。 >>137
現代の尺と変わらないのに
「周尺なり」と書いたという
非常識な人がいたよ
w 周の尺の八寸という絶対値ではなく
尺の8割を咫と呼ぶ相対値として理解した、といえばいいでしょうか〜。 古代中国人にとって周代というのは周公の徳が天下を覆ってた時代のイメージなんだよ
諸侯が覇者だった時代ではない >>141
「円周長」用の尺なり
周尺≠周代的尺
周代的尺=漢代的尺=十寸
咫=周代的咫=漢代的咫=周代的周尺=漢代的周尺=八寸 >>140
それは出土地出土状況から言ってやや無理筋のように思います。
具体的には前掲>>118 >>145
東周銅尺だけじゃなくて、
東周代の戦国時代に出土した何本もの銅尺=約23センチなのだが。 「咫、中婦人手長八寸」を無視した伊都説はないな
文献無視だ >>149
尺もすでに身体尺の実測から乖離しているから、それは反論にならない。 >>148
つまり東周代の尺は周尺ではない
現代の尺と一緒なんだもの >>151
つまり周尺とは、周代の尺ではない。
漢代の尺と周代の尺は一緒なんだもの。
周尺=咫=円周長計算用の尺度 >>153
そちらがね。
説文解字における周代が、西周代と言いたいのなら、
じゃあ漢代の一つ前の時代である東周代のことは
なんと表現されて区別されているのだ? 漢代の一つ前は秦でしょ。
漢尺という言葉はなくて、普通は秦尺という。
周は漢から2つ前。 >>148
今、注目してるのは漢代だろ
前漢になった時点で戦国時代の尺長ともう違うようになってるぞ。 畿内説が主張するとおり平原遺跡が2世紀に作られたものなら、とうぜん漢尺で製作しただろうし、径はぴったり2尺だ。 漢尺なら「八咫の鏡」じゃないよね
漢代にそんな単位は使われてない >>162
日本ではどうだったのか?
では、八咫とは? 現時点までに発見された最大の銅鏡が平原遺跡の超大型内行花文鏡だからな。
特大な「八咫鏡」とは平原遺跡の鏡を指すと考えても良さそうだ。 >>144
>「円周長」用の尺なり
これが一番最初に否定されたんだが?
まあ説文解字の「周尺也」をこう誤読したのがそもそもの出発点なんだがな
咫で何かの円周長を計った例は、一切、一例たりともない
さらに言えば、円形物の大きさを円周長で示した(計った)例も、一例もない >>154
>なんと表現されて区別されているのだ?
六国時、だな
この時代は、変乱法度が多く、よく分からんと説文解字注に書いてある >>173
>記録されるまでもない普通のことだったんだろうね。
普通のことだったら、現実にもたくさん行われているだろうし、記録も残るだろ
でも現実には測らないし、測った記録もない
本当に、言い訳の仕方まで論理性が欠如している >>152
>周尺=咫=円周長計算用の尺度
円周長計算用と言っているうちは、間違いであることが確定
大体、「咫」は複数形で、二咫とか三咫とかの用例すらない
それでどうやって計算するのかってことだよ >>177
三省堂 大辞林
あた??【咫▼・尺▽】
上代の長さの単位。親指と中指とを広げた長さ。「八咫(やあた)」「七咫」などの形で助数詞的に用いる。 「其の鼻の長さ七−/日本書紀??神代下訓」
だって だから、大陸の「咫・シ」と日本の「咫・あた」は区別しないとね
>>176で言ってるのは、大陸の「咫・シ」
>>178で言ってるのは、日本の「咫・あた」 【九州説】
直径=漢尺で二尺
円周長=漢尺で八咫
の世界最大の銅鏡=平原超大型内行花文鏡
畿内説はちがうちがうと見苦しく
わめくだけで
対案はなにも示せないようだ
>いつの時代の
>どの鏡が
>八咫鏡なのか? >>180
>円周長=漢尺で八咫
漢尺の体系に咫はない
咫を複数形で使う用法は大陸の「咫・シ」にはない
円周長を測った事例はない
これらは事実
対案も何も、「平原1号墓出土鏡は八咫の鏡」というのは
意味のある案じゃなくてただの思いつき >>181
対案を出せよ。
八咫鏡というのはじゃあなんなんだ?
「ただの大きい鏡」を日本人は千年以上も崇めてきたというのか? ただの大きい鏡と主張しても
平原のが世界最大という現実 日本独自の単位だから日本の辞書の定義に従わないとな >>184
もともと王権の証であった内行花文鏡を内製して世界最大にまでして、それを伝世の品として三種の神器に取り入れたんだね。
そしてその時期はもともとの内行花文鏡の供給元であった漢が滅びた直後、卑弥呼に時代なわけだ。
倭国王卑弥呼がどこにいたのか、その墓がどれであるのか、わかったも同然なんだけど。 対案も示せずにおかしな批判を繰り返すだけではジリ貧 おかしな主張にはおかしい、
わからないことはわからない、
と言うのが学問的に真っ当な姿勢
対案だせ?バカじゃねーの
いや、バカだな まっとうな主張にはおかしな反論、
対案を聞かれるとわからない、
あげくの果てに学問的に真っ当な姿勢を持ち出して居直り強盗
対案をだせない?バカじゃねーの
いや、バカだな >>1で完結
糸冬
なのだが。
それだとあんまりだから、
畿内説の対案を聞きたいと思っている。 >>187
>もともと王権の証であった内行花文鏡
これがそもそも、きちんと論証されていない根拠レスの言い分に過ぎない
王位と関係ないところでも、普通に内向花文鏡が出ているんですが? >>183
>「ただの大きい鏡」を日本人は千年以上も崇めてきたというのか?
「ただの大きい鏡」ではなく、天皇の権威とともにある鏡だから、
千年以上崇めてきたんだよ
平原1号墓の鏡は、作ってすぐにばらばらに破鏡されて、壷に入れるでもなく、
墳丘にバラ撒かれていて、まったく崇められていなかったけれどね >>193
>王位と関係ないところでも、普通に内向花文鏡が出ているんですが?
どこ? >>195
>どこ?
下池山古墳 120メートル
柳本大塚古墳 94メートル
から、大型内行花紋鏡が出ているけれど、被葬者は倭王だとは誰も考えていない
籠神社には、伝世鏡の内向花文鏡があるけれど、籠神社に倭王がいたという説はない
他にも、小さな弥生時代の墳墓からも内向花文鏡が出土しているけれど、もちろん
そんなところに倭王墓はない >>196
>から、大型内行花紋鏡が出ているけれど、被葬者は倭王だとは誰も考えていない
考えない方がおかしい。
>籠神社には、伝世鏡の内向花文鏡があるけれど、籠神社に倭王がいたという説はない
籠神社の神鏡は天照大神の孫の饒速日の十種の神宝の鏡と言われている。
饒速日は先代旧事本紀で天照国照の称号が与えららており、倭王であったと考えられる。 >>197
>饒速日は先代旧事本紀で天照国照の称号が与えららており、倭王であったと考えられる。
先代旧事本紀に、倭王を任命する、称号を与えるでもいいけど、それだけの権威は
ないんだが?
物部氏系の私家版の歴史書だぞ?
自らの伝承の始祖を精一杯持ち上げるのは当然だろ?
そして、ニギハヤヒは神武の臣下に下っていると、先代旧事本紀にも
書かれているんだから、それ以降は子孫も含めて、倭王にはかすりもしてないだろ? >>197
>饒速日は先代旧事本紀で天照国照の称号が与えららており、倭王であったと考えられる。
そりゃあなたの心の中ではそうだろう、
しかし倭王とは中華世界の冊封関係でしか成り立たない概念だよ。列島の王(の1人)だったは言っていいが、倭王であったとはいえないね。
ニギハヤヒは何世紀の人物なんだい? >>197
>考えない方がおかしい。
倭王を安売りしすぎww
そのクラスの小さな古墳まで倭王だとしていたら、倭王が何百人もいる事態になるぞ
歴代で数えても、そんな人数は日本の歴史に収まらないww
大王墓候補の大きさを、築造順に並べておくと
始まりの大王墓、箸中山古墳がいきなり280メートルもあって、その後の大王墓候補も
西殿塚(230m)→外山茶臼山(207m)→メスリ山(224m)→行燈山(242m)
→渋谷向山(300m)→五社神(267m)→宝来山(227m)→佐紀陵山(207m)
→佐紀石塚山(220m)→津堂城山(208m)→仲津山(290m)→百舌鳥陵山(365m)
→誉田御廟山(425m)→大仙(486m)→土師ニサンザイ(290m)→岡ミサンザイ(245m)
外山(桜井)茶臼山とメスリ山は、大王墓とは認めない人も多く、オオビコの系譜に連なるものと考える人も多い
これと、
下池山古墳 120メートル
柳本大塚古墳 94メートル
を比べてもしょうがないだろ?
つまり、内向花文鏡があるから王墓だっていうのは、根拠にならないんだよw >>199
>しかし倭王とは中華世界の冊封関係でしか成り立たない概念だよ。列島の王(の1人)だったは言っていいが、倭王であったとはいえないね。
>ニギハヤヒは何世紀の人物なんだい?
饒速日の次の倭王は邇邇芸。
これは当時よくあった兄弟相続だね。
邇邇芸が降臨したのが筑紫の日向、のちの伊都国なので、当時の表記でいうと倭奴国、後漢代だね。
そこから日向三代の後に倭国大乱だ。 >>201
なぜならば、どのようにと、説明がないと単なる妄想だよ。 >>198
>物部氏系の私家版の歴史書だぞ?
>自らの伝承の始祖を精一杯持ち上げるのは当然だろ?
逆に、なぜ物部氏が強大な権力を持っていたかがわかる。
倭王の直系だったからだよ。
ただし、邇邇芸に兄弟相続したから、家督は末弟の子孫が受け継ぐんだよ。
これは中央アジアや西アジアでも見られる相続形式だ。 >>200
>倭王を安売りしすぎww
>そのクラスの小さな古墳まで倭王だとしていたら、倭王が何百人もいる事態になるぞ
鴨王や事代主まで倭王だと言い張る畿内説がよく言うよ。
彼らが漢から冊封されたとは考えられないからね。
それと、内行花文鏡を持っているから倭王なのではなく、倭国王家の一員としての内行花文鏡だよ。
大彦だって皇族なのだから、内行花文鏡を持っていてもいい。
ただ、内行花文鏡の中にも序列があるわけだ。
そうでないと皇位争いになってしまうからね。 >>202
後漢代の倭王(冊封された)が博多湾沿岸、筑紫にいたことは畿内説も認めるんだろ?
だったら記紀と後漢書や魏志倭人伝は年代さえ修正すれば矛盾しない内容なんだよ。
筑紫こそ倭国の中心であり、倭王がいたと。 今さらだけど、>>24のこの部分、解釈が間違ってるよ
>・咫は長さの単位だと全ての学者が認めている(列子皆言 其長尺有咫)
説文解字注の原文は
國語、列子皆言其長尺有咫。
ここでいう、『國語』は21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている書
同様に、『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献
国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある
列子皆言は「全ての学者が認めている」ではなくて、
国語でも列氏でも皆(複数の記述箇所の全てで)という意味だよ >>203
>逆に、なぜ物部氏が強大な権力を持っていたかがわかる。
そう思いたいのは>>203の勝手だけど、その強大な物部氏の権力は、
天皇の下でのものだから、当然に倭王じゃないよね?
倭王のシンボルについて語るときに、倭王じゃない例をいくら出されてもねw >>204
>鴨王や事代主まで倭王だと言い張る畿内説がよく言うよ。
>彼らが漢から冊封されたとは考えられないからね。
それ、畿内説のスタンダードじゃないからww
まあ、伊都国説も九州説の中でも異端の弱小勢力だけどなw
普通はもっと広い筑紫平野の方に持っていく説の方が人気がある
水行の起点を帯方郡まで巻き戻したり、邪馬台国七万戸を、北部九州全体に
重ねてダブルカウントするとか、伊都国説はインチキな無理が多すぎ >>204
>ただ、内行花文鏡の中にも序列があるわけだ。
>そうでないと皇位争いになってしまうからね。
そして、誰も認めていない鏡の序列を、伊都国説の人が勝手に決めるんですよね!
分かります! >>206
>大彦は出雲族だから鏡じゃなくて銅鐸だよ。
記紀の系譜では、開化天皇の兄で四道将軍の北陸担当なんだが?
皇族(天孫族)が出雲族(地祇系)ってのはどういう理屈だい?
北陸担当ってだけで、出雲族認定をするのかい? >>208
>そう思いたいのは>>203の勝手だけど、その強大な物部氏の権力は、
>天皇の下でのものだから、当然に倭王じゃないよね?
饒速日は倭王だけど、息子のウマシマジ以降は倭王ではない王族だろうね。
天津神の倭王の王位は筑紫の邇邇芸が継承したことになっているから。
神代の時代に別れた分家なので、物部氏は神別に分類される。 >>210
>そして、誰も認めていない鏡の序列を、伊都国説の人が勝手に決めるんですよね!
鏡の大きさは、誰でもわかる明確な序列になりうるよ。 >>213
>鏡の大きさは、誰でもわかる明確な序列になりうるよ。
平原1号墓の内行花文鏡は、割っちゃってるし、埋めちゃってるから、
その場にいた人以外には大きさが分からないんじゃないかな?
古墳時代には、その場にいた人はみんな死んでるだろうし
副葬して埋めたら、他の人には大きさが分からないのは古墳から
出土の鏡でも同じこと
他の内向花文鏡にしても、伝世してみんなで持ち寄って大きさを比べるとか
しなければ、大きさの序列は分からないんじゃない?
古墳の大きさの序列は、それこそ見れば分かるけど だから伊勢の神鏡は作り直しで小さくなったのかもね。 >>215
だからこそ、凄い
惜しげもなくあれだけの鏡を副葬
凄いと思うよ
この地域の破砕鏡の意味合いが気になるよなぁ >>215
>だから伊勢の神鏡は作り直しで小さくなったのかもね。
伊勢の御神鏡が作り直されたっていう、根拠はあるのかな? 大きさが八咫でなくなっているのであれば、どこかの時点で作り直されたとしか考えられない。 >>211
記紀のそのあたりの系譜情報は改竄されてるとのことなので。 >>218
>大きさが八咫でなくなっているのであれば、どこかの時点で作り直されたとしか考えられない。
元の大きさが八咫だという根拠が、最初からないので、却下だな 新たに作り直された鏡の面径は恐らく
八寸 = 一咫
八咫鏡は咫(あた)の鏡
女王の手のひらに
太陽を納める意味を込めて作られた
内行花文鏡 明日は夏至
八咫鏡が御鎮座される伊勢志摩では
夫婦岩の間から太陽が昇り
大型内行花文鏡が出土した伊都志摩では
夫婦岩の間に太陽が沈む >>223
>三雲南小路遺跡・平原遺跡・可也山・芥屋大門は夏至の日没線に並ぶ
>何か意味がありそうだが
>ただの偶然かもしれない
確認した。確かにそうなるね。
ただ、三雲南小路遺跡より、井原鑓溝遺跡と起点にした方が、直線性がよくなる
まあ起点は三雲遺跡群、ってことでいいんだと思うけれど
あと、芥屋大門は、偶然じゃないかな?
伊都国からは可也山の向こうで見えないし
平原遺跡から日向峠がどうこう、っていうのより面白い >>223
あと、井原鑓溝遺跡基点にすると、夏至の日の出が高祖山の山頂付近になる >>225
確認ありがとうございます。
芥屋大門との関連は、
伊都国の祭祀と鏡の意味
当時の測量法
伊都国の範囲
当時の地形(特に鏡岩)
洞窟最深部の地中
が、分からないと何にも言えないですね。 >>227
可也山と芥屋大門の2点を結ぶ直線が、夏至の夕暮れ方向っていうのは、
人間が住む前からそうだろうし、弥生人が設定できるものじゃないから、
偶然ってことでいいんじゃないかな? >>222>>223
伊都志摩のも実際に夫婦岩と呼ばれているの?
>>221
直径が八咫の鏡なんてほぼありえないから、
八咫が長さであれば円周長くらいしかないのですね。 そもそも、順序が逆
大きな鏡が出土した 事実
八咫の鏡だと思った人がいた ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう これは連想ゲーム
アマテラスのモデルは卑弥呼 そういう仮説もあるという程度
大きな鏡が出土したから卑弥呼の墓 風が吹けば桶屋が儲かる
こんな程度の話なんだよ >>229
福岡屈指の観光名所ですよ
ttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/二見ヶ浦_(福岡県)
いつ頃からそう呼ばれ始めたかは分かりません >>229
直径が八咫の鏡なんてほぼありえないから、
咫ってのが長さであれば5cmくらいしかないのですね。 三重の伊勢が福岡の伊勢のコピーであることは明らかであり、それは八咫鏡繋がりであったことがわかる。
同じような地形を持つところに伊勢と名付けたのだろう。 >>231
大分にも豊後二見ヶ浦
http://saiki-kankou.com/kamiura/2017/09/3863
熊本にも八代の二見(埋め立てで分からんけど)
二見ヶ浦は九州ゆかりの名前ですね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています