平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
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説文解字(後漢)にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大) 今さらだけど、>>24のこの部分、解釈が間違ってるよ
>・咫は長さの単位だと全ての学者が認めている(列子皆言 其長尺有咫)
説文解字注の原文は
國語、列子皆言其長尺有咫。
ここでいう、『國語』は21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている書
同様に、『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献
国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある
列子皆言は「全ての学者が認めている」ではなくて、
国語でも列氏でも皆(複数の記述箇所の全てで)という意味だよ >>203
>逆に、なぜ物部氏が強大な権力を持っていたかがわかる。
そう思いたいのは>>203の勝手だけど、その強大な物部氏の権力は、
天皇の下でのものだから、当然に倭王じゃないよね?
倭王のシンボルについて語るときに、倭王じゃない例をいくら出されてもねw >>204
>鴨王や事代主まで倭王だと言い張る畿内説がよく言うよ。
>彼らが漢から冊封されたとは考えられないからね。
それ、畿内説のスタンダードじゃないからww
まあ、伊都国説も九州説の中でも異端の弱小勢力だけどなw
普通はもっと広い筑紫平野の方に持っていく説の方が人気がある
水行の起点を帯方郡まで巻き戻したり、邪馬台国七万戸を、北部九州全体に
重ねてダブルカウントするとか、伊都国説はインチキな無理が多すぎ >>204
>ただ、内行花文鏡の中にも序列があるわけだ。
>そうでないと皇位争いになってしまうからね。
そして、誰も認めていない鏡の序列を、伊都国説の人が勝手に決めるんですよね!
分かります! >>206
>大彦は出雲族だから鏡じゃなくて銅鐸だよ。
記紀の系譜では、開化天皇の兄で四道将軍の北陸担当なんだが?
皇族(天孫族)が出雲族(地祇系)ってのはどういう理屈だい?
北陸担当ってだけで、出雲族認定をするのかい? >>208
>そう思いたいのは>>203の勝手だけど、その強大な物部氏の権力は、
>天皇の下でのものだから、当然に倭王じゃないよね?
饒速日は倭王だけど、息子のウマシマジ以降は倭王ではない王族だろうね。
天津神の倭王の王位は筑紫の邇邇芸が継承したことになっているから。
神代の時代に別れた分家なので、物部氏は神別に分類される。 >>210
>そして、誰も認めていない鏡の序列を、伊都国説の人が勝手に決めるんですよね!
鏡の大きさは、誰でもわかる明確な序列になりうるよ。 >>213
>鏡の大きさは、誰でもわかる明確な序列になりうるよ。
平原1号墓の内行花文鏡は、割っちゃってるし、埋めちゃってるから、
その場にいた人以外には大きさが分からないんじゃないかな?
古墳時代には、その場にいた人はみんな死んでるだろうし
副葬して埋めたら、他の人には大きさが分からないのは古墳から
出土の鏡でも同じこと
他の内向花文鏡にしても、伝世してみんなで持ち寄って大きさを比べるとか
しなければ、大きさの序列は分からないんじゃない?
古墳の大きさの序列は、それこそ見れば分かるけど だから伊勢の神鏡は作り直しで小さくなったのかもね。 >>215
だからこそ、凄い
惜しげもなくあれだけの鏡を副葬
凄いと思うよ
この地域の破砕鏡の意味合いが気になるよなぁ >>215
>だから伊勢の神鏡は作り直しで小さくなったのかもね。
伊勢の御神鏡が作り直されたっていう、根拠はあるのかな? 大きさが八咫でなくなっているのであれば、どこかの時点で作り直されたとしか考えられない。 >>211
記紀のそのあたりの系譜情報は改竄されてるとのことなので。 >>218
>大きさが八咫でなくなっているのであれば、どこかの時点で作り直されたとしか考えられない。
元の大きさが八咫だという根拠が、最初からないので、却下だな 新たに作り直された鏡の面径は恐らく
八寸 = 一咫
八咫鏡は咫(あた)の鏡
女王の手のひらに
太陽を納める意味を込めて作られた
内行花文鏡 明日は夏至
八咫鏡が御鎮座される伊勢志摩では
夫婦岩の間から太陽が昇り
大型内行花文鏡が出土した伊都志摩では
夫婦岩の間に太陽が沈む >>223
>三雲南小路遺跡・平原遺跡・可也山・芥屋大門は夏至の日没線に並ぶ
>何か意味がありそうだが
>ただの偶然かもしれない
確認した。確かにそうなるね。
ただ、三雲南小路遺跡より、井原鑓溝遺跡と起点にした方が、直線性がよくなる
まあ起点は三雲遺跡群、ってことでいいんだと思うけれど
あと、芥屋大門は、偶然じゃないかな?
伊都国からは可也山の向こうで見えないし
平原遺跡から日向峠がどうこう、っていうのより面白い >>223
あと、井原鑓溝遺跡基点にすると、夏至の日の出が高祖山の山頂付近になる >>225
確認ありがとうございます。
芥屋大門との関連は、
伊都国の祭祀と鏡の意味
当時の測量法
伊都国の範囲
当時の地形(特に鏡岩)
洞窟最深部の地中
が、分からないと何にも言えないですね。 >>227
可也山と芥屋大門の2点を結ぶ直線が、夏至の夕暮れ方向っていうのは、
人間が住む前からそうだろうし、弥生人が設定できるものじゃないから、
偶然ってことでいいんじゃないかな? >>222>>223
伊都志摩のも実際に夫婦岩と呼ばれているの?
>>221
直径が八咫の鏡なんてほぼありえないから、
八咫が長さであれば円周長くらいしかないのですね。 そもそも、順序が逆
大きな鏡が出土した 事実
八咫の鏡だと思った人がいた ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう これは連想ゲーム
アマテラスのモデルは卑弥呼 そういう仮説もあるという程度
大きな鏡が出土したから卑弥呼の墓 風が吹けば桶屋が儲かる
こんな程度の話なんだよ >>229
福岡屈指の観光名所ですよ
ttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/二見ヶ浦_(福岡県)
いつ頃からそう呼ばれ始めたかは分かりません >>229
直径が八咫の鏡なんてほぼありえないから、
咫ってのが長さであれば5cmくらいしかないのですね。 三重の伊勢が福岡の伊勢のコピーであることは明らかであり、それは八咫鏡繋がりであったことがわかる。
同じような地形を持つところに伊勢と名付けたのだろう。 >>231
大分にも豊後二見ヶ浦
http://saiki-kankou.com/kamiura/2017/09/3863
熊本にも八代の二見(埋め立てで分からんけど)
二見ヶ浦は九州ゆかりの名前ですね。 筑紫、豊国、肥国の倭国主力三ヶ国の全てに二見ヶ浦があるのですね。
ますます伊勢は九州北部の倭国の末裔ですね。
そもそも九州北部の銅鏡文化を継承している時点で(ry >>231
おお、ありがとうございます。
伊都志摩と伊勢志摩ですか。
東西南北が反転していますが、共通点があって面白いですね。 >>231
>いつ頃からそう呼ばれ始めたかは分かりません
桜井神社の創建は江戸時代 桜井神社は夫婦岩よりも西にあるし、桜井神社から夏至の夕日が夫婦岩に沈むのは見られないよ
というか、桜井神社は山の中だし >>236
>大分にも豊後二見ヶ浦
「豊後二見ヶ浦大しめ縄の張り替えは、『昭和44年』に始まり毎年12月中旬に行われています。」
注連縄を張るようになったのはになったのはずいぶん最近みたいだよ >>237
>筑紫、豊国、肥国の倭国主力三ヶ国の全てに二見ヶ浦があるのですね。
昭和の時代の町おこしに見えるのだが? 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>242
豊後二見ヶ浦は昔からあった訳だししめ縄なんて大した問題じゃないでしょ
九州には岩が並んだ二見ヶ浦と呼ばれる場所が古来何か所もあったってこと。 >>244
>九州には岩が並んだ二見ヶ浦と呼ばれる場所が古来何か所もあったってこと。
岩が並んだところは昔からあっただろうけれど、それが
二見ヶ浦と呼ばれていたのが「古来」であるとは認められないってこと
どこまで遡れるか、調べてみて 糸島の二見ヶ浦も夏至の日の入りがとか言っているけれど、夫婦岩の正面からではなく、
夏至の日の入りが岩の間に落ちる斜めの場所から見たら、夫婦岩の間に沈むっていう
緩さだよ >>245
>二見ヶ浦と呼ばれていたのが「古来」であるとは認められないってこと
あれもこれも信用したくない病気?
呼びかななんてどうでもいい。
伊勢の信仰が八咫鏡も含めて九州北部からの伝来であるということ。 そう言ってる考古学者のいない「考古学的にも正しいですねが口癖の人ってだ〜れ? 畿内説は考古学を無視した捏造だろ。
桃の種で邪馬台国だなどと、笑わせるなよ。 二見ヶ浦だけでなく三種の神器なども九州から畿内へ文化は伝わったんだよ。 博多の住吉神社が大阪の住吉大社へなど
伊勢神社、八幡神社、天満宮も九州から
九州は神の国であり日本の誕生の地。 記紀にあるそのままだし、倭国の弥生王墓は数百年間も福岡にしか作られなかった。
そもそも弥生の稲作の伝来も福岡だし。
弥生時代とは倭国の創成期であり、その中心は福岡。
稲作の伝播と並行して、九州倭国が東に拡大した。 >>256
それを裏付けられる文献なり、考古学的遺物なりがあればいいけれど、
それがなければ、ただの妄想・捏造に過ぎないよ?
で、根拠あるいは典拠は?
こう訊くと、一切答えないんだよな、九州説の人はさw >>260
>反論になってないよ?
昭和以降の記録しかなく、有史以前から二見ヶ浦と呼ばれていたと考えるべき論拠・論証を
完全に欠いている
現時点では、単なる思い付き以上のものではなく、これを前提として立論は無意味
これでいいかい?
ということで、「根拠あるいは典拠は? 」
こう訊くと、一切答えないんだよな、九州説の人はさw 「根拠は?」
◯◯の一つ覚えだな。
自分では何一つ証明できないくせに。 >>262
>「根拠は?」
>◯◯の一つ覚えだな。
>自分では何一つ証明できないくせに。
いや?
平原1号墓出土鏡は八咫鏡ではないって、説文解字注の全解釈をつけて、
具体的に論証したよ?
で、結局、九州の二見ヶ浦が伊勢の二見ヶ浦よりも古いっていう根拠は
「一切出せずに逃げる」んだね?
明らかに、伊勢の二見ヶ浦にあやかった、町おこし、村おこしでしょ?
九州のやつは
糸島のは、江戸時代初期に遡れるみたいだけど、その桜井大神宮の御由緒で
「櫻井神社ご祭神のご神託を受けられた黒田忠之公が櫻井神社創建前の
寛永二年(1625)に岩戸神窟の西南の地、光寿山(こうじゅさん)へ
神明造り茅葺の社殿を造営し、伊勢神宮の祀官橋本氏により、
伊勢神宮の内宮・外宮の両宮のご分霊を奉じさせ、ご鎮座頂いたことが
ご創祀であります。」と、伊勢の方が先だと明記されている >>263
>明らかに、伊勢の二見ヶ浦にあやかった、町おこし、村おこしでしょ?
うわ、ブーメランw >>264
反論できないんだねww
九州の二見ヶ浦は、伊勢の真似っこがFAでw >>266
九州の二見ヶ浦が伊勢の二見ヶ浦よりも古いっていう根拠を
「一切出せずに逃げ」たので >>266
>根拠は?
つ>>263
九州の二見ヶ浦のうち、一番古くからある糸島のものですら、
江戸初期に「伊勢神宮の内宮・外宮の両宮のご分霊を奉じさせ、ご鎮座頂いた」と
神社の由緒がはっきり書いてあるんだから、伊勢の方が先にあって、
そこから御分霊を頂いた以外の何者でもないだろう すぐ上に根拠が書いてあるのにww
それを無視して「根拠は?」ってw
言えばいいってもんじゃないし、
九州説と違って「根拠が書けずに逃げる」ようなことにはならないよw 論証になっていない
結論ありきの独釈を連打して
論証したよと主張されてもなあ 夫婦岩にしても
神社そのものの縁起とは別の話だし。
平城京跡も観光地として再開発されてるけど、
1000年以上土に埋もれて忘れ去られていたのを、
現代人が再発見して上書きしているわけだし。 畿内説は議論に負けると根拠厨になるからわかりやすい敗北宣言だなw 今でも神社と二見ヶ浦は別もので関係してないな
関係ない神社の由緒が根拠って? >>274
お前、あたま狂ってるだろう
世間の常識じゃあな
自分の主張の根拠が答えられない奴を
議論に負けたというのだ 糸厨「月にはウサギが住んでいるのだ。だから円高になる。」
世人「なんで? 根拠は?」
糸厨「根拠を聞いたなぁぁ。お前は議論に負けた。」
世人「ダメだこりゃ・・・」 >>276
>今でも神社と二見ヶ浦は別もので関係してないな
>関係ない神社の由緒が根拠って?
ちゃんと調べなよ
糸島の夫婦岩は、桜井神社が注連縄を張ってるんだよ
神社が関係していないなら、それこそ信仰その他と関係ないただの観光スポットじゃん?
そんなのが伊勢の源流って言われても、矛盾が深くなるだけだって分からないのかな? >>270
>論証になっていない
>結論ありきの独釈を連打して
桜井神社の御由緒は、解釈を一切入れずに、そのまま引用してるんだが?
古く遡れる根拠がまったくないってのは理解できてるか?
>>270が根拠を求めてる体でいきってるけど、九州の二見ヶ浦が古いという根拠を
示さなきゃいけないのが、それを主張している九州説側だってことすらごまかしたいんだろうな
根拠は一切ない妄想なんだからw >>271
>平城京跡も観光地として再開発されてるけど、
>1000年以上土に埋もれて忘れ去られていたのを、
>現代人が再発見して上書きしているわけだし。
平城京にはそこに都があったことが記録でたどれるだろ?
九州の二見ヶ浦に、そういうきちんとあとづけられる記録があるなら
出してくれって言ってるんだが
ないのか? 残念! >>281
>平城京にはそこに都があったことが記録でたどれるだろ?
倭国が九州にあったことも記録でたどれるよね。
記紀に後漢書に魏志倭人伝。
都合が悪いから無視しているだけでしょ。 >>279
桜井神社が夫婦岩を置いたのではない
夫婦岩は元々在ったの
夫婦岩の近くに桜井神社が出来たから
桜井神社が注連縄を張ってるだけ。 糸島も豊後二見ヶ浦大しめ縄の張り替えと同じだな
廃れていたのを桜井神社が復活させたんだ
糸島には細石岩神社もあるし古くから巨岩信仰があったんだ。 君が代の歌詞の大部分は福岡の地名だそうだ。
細石神社は漢委奴国王印を保管していたという神社のこと?
伊都国初代国王である天孫邇邇芸と王妃木花咲耶姫の墓である三雲南小路遺跡の祭殿。 細石神社は天正15年(1587年)の豊臣秀吉の太閤検地により、神田没収に遭い衰退したとされてるから、もしかしたら夫婦岩も元は細石神社が祀っていたのかもしれないな。 >>283
>夫婦岩は元々在ったの
>夫婦岩の近くに桜井神社が出来たから
>桜井神社が注連縄を張ってるだけ。
海辺から程遠からぬところに、二つの岩があるところは、いくらでもあるんだよ
そこに信仰・祭祀がなければ、ただの岩
古くから岩があることは、何の意味もない
昔から松浦川は流れているけれど、それが信仰の対象になることはない
本当に議論のポイントが分かってないよな
「九州で古くから夫婦岩を信仰の対象にしてきた歴史」があって、
それが論証できて初めて、九州の文化が伊勢に伝えられたという仮説が意味を持つ
「九州で古くから夫婦岩を信仰の対象にしてきた歴史」がまったく、
史料も一切ない、ただの空論(空想?)だって言ってるんだよ >>283
>>276の
>今でも神社と二見ヶ浦は別もので関係してないな
>関係ない神社の由緒が根拠って?
これは、適当に思い付きを書きましたって、認めるのかい?ww
手のひらクルックルだなw
まあ、もともとが思いつきにすぎない、ただの空想だからそんなもんか >>284
>糸島には細石岩神社もあるし
おいおい、細石神社は「怡土」、今問題にしている夫婦岩や桜井神社は「志摩」
今でこそ合併して糸島市になっているけれど、本来別の国、別の郡だよ
本当に、思いつきだけの適当さだよな
九州説の書き込みは全部そう
九州説の人間より、俺の方が詳しいってのはどういうことだよww >>284
>廃れていたのを桜井神社が復活させたんだ
「廃れる前」があったことを、まず論証しなさいっての!
それがなければ、ただの戯言w 豊後二見ヶ浦の地名は、大分県佐伯市上浦大字『浅海井浦』みたいだね
二見ヶ浦は、歴史のない通称
観光スポットしての名前 >>290
>今でこそ合併して糸島市になっているけれど、本来別の国、別の郡だよ
別と言ってもすぐ隣だし。
伊都国が倭国王都なら、その支配域は九州北部から日本海、瀬戸内海へと広がっていたわけだから、志摩なんて目と鼻の先のお膝元。 >>282
それは記録を九州説で解釈しただけ
まさに循環論法 >>293
>別と言ってもすぐ隣だし。
日本はだてに八百万の神の坐す国じゃないんだよ
神様はどこにでもいるんだから、細石神社が、近くだからといって隣の国まで
出張っていったりはしない
その土地にはその土地の土地神がいるんだから
神様と王様は一緒にしちゃだめだよ
そういうところも、本当に九州説論者はガバガバでいい加減なことばかりを言う
根拠を調べ上げた緻密な論証とは無縁
まあ、九州説自体が、思いつきの妄想の束だからしょうがないか
それに、弥生時代の伊都国は志摩半島の向こう側までは届いていないだろうし >>296
>その土地にはその土地の土地神がいるんだから
細石神社は土地神ではなく、倭国王妃である木花咲耶姫を祭っている。
>神様と王様は一緒にしちゃだめだよ
記紀の神は実質的に王族の尊称だ。 >>296
>それに、弥生時代の伊都国は志摩半島の向こう側までは届いていないだろうし
倭国の王都だろ。 邇邇芸は王様?神様?
イザナギは?
アマテラスは?
神武は? >>297
>細石神社は土地神ではなく、倭国王妃である木花咲耶姫を祭っている。
それ、まともな根拠がないんだが
「倭国王妃である」木花咲耶姫
神話を史実として語るのはやめたら?
それから、特定の貴人を祀る神社であれば、遠方まで出張っていくのはおかしいだろ?
神道の基本が分かってないだろ >>298
>倭国の王都だろ。
それも、まともな根拠がまったくないから
それに、この頃は領域国家じゃないから、王都だから広いということもない
さらに、伊都国は魏志倭人伝で有千餘戸とされていて、
末慮国有四千餘戸、一大国有三千許家よりも戸数が少ない
どう見ても、伊都国の範囲を志摩まで広げるのは不当 >>301
>それから、特定の貴人を祀る神社であれば、遠方まで出張っていくのはおかしいだろ?
遠方とはなんのこと?
邇邇芸は筑紫で即位したのだから、木花咲耶姫も筑紫でいいよね。
筑紫の中でも、弥生王墓は福岡平野か糸島平野にしかない。
そのうち、筑紫の日向の呼称にふさわしいのは糸島平野。 >>302
>それに、この頃は領域国家じゃないから、王都だから広いということもない
そうだな、連合国家だから、王都が大きくある必要もない。
千戸の伊都国でも王都として十分。
一大率の力があれば、遠方まで支配することは可能だしね。 >>302
>どう見ても、伊都国の範囲を志摩まで広げるのは不当
何を寝ぼけているんだ?
伊都国は王都の名であり、国号は倭だよ。
奴国も出雲も支配下に決まっているだろ。 >>305
じゃあ、なんで伊都国というんだ
伊都国
伊都国
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