平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
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説文解字(後漢)にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大) >>693
>卑弥呼が死んだから割ったのだろう
死んでから割ったのだとしたら、その後伝世することはないよね?
太陽信仰の象徴としては、卑弥呼の死と同時におしまいになるねw
当然、王権のレガリアにもならないw
その辺の矛盾に、まったく気づかずに思い付きを書きまくるから笑える 一枚だけ残せばいいだろう。
それがレガリアとなる。 >>695
>一枚だけ残せばいいだろう。
>それがレガリアとなる。
平原1号墓から、鋳上がりの悪い、伝統の文様・作図法を無視した
やたらでかい破砕された仿製鏡が5枚出土したのは事実
でも、6枚目があった、というのは憶測か妄想
「あったらいいな」で歴史を語るのが、伊都国説のデフォ >>688は
こいつだなww
伊都国東遷スレPart7>991
文脈無視の文盲は弥生時代にマンホールがあった証拠を持ってこい、話はそれからだ。
肥溜めの蓋がなかったことの証明はしてもらえなさそうだねww >>701
まだ抵抗するみたいだよww
378岡上 ◆Lv09mLa3HM 2018/07/21(土) 18:49:18.68>>379>>416
http://fast-uploader.com/file/7087721936368/
八寸と八咫という小論を作りましたので、どうぞ。 婦人の手が実長17cmとしても
「大率掩」八寸と記述されている以上、八寸を多少18cm程度で17cmより大きな長さであったとみなしても良い、と言うことだね。 中国語が母国語の説文解字注の著者、段玉裁が
「按奄字未詳。疑是手之誤字。」としているの
をまともに漢文が読めないお鏡さんが
勝手な解釈をしても説得力ないんだけどね
字体によっては手と奄は意外に近かったりする
手の異体字http://pic.zdic.net/kai/jt/100/8b/21D24.gif
奄の小篆http://pic.zdic.net/xz2a/100/17/5944.gif 尺が男の手の大きさの身体尺
咫が女の手の大きさの身体尺
この二つを同じ大きさって言い張ってるのがおかしいって
早く気づくといいのにね 咫が尺の8割くらいなんだろ。
径一尺の円の円周が四咫であるとき、およそ咫は尺の8割になる。
径二尺の平原の鏡の周は八咫。 その尺が漢尺で、咫は漢の度量衡に入っていないと何度言えばww >>707
>全然、似てない。
いや?
内行花文鏡が太陽に見えるってのよりはよっぽど似てるだろ? >>708
>平原の鏡の周
鏡に限らず、円形物の大きさを周で表した例があれば1例でもいいから挙げてみな、って
何度言われても答えられないくせにww
円形物の大きさは径で示すんだよw >>713
>鯨尺
鯨尺がなんだか分かってないだろ?w
>>713が言いたいのは曲尺の裏面の丸目のことだと思うが、
その丸目が弥生時代まで遡るわけがないし、
丸目で計った数値で円形物の大きさを示した例がやはりない訳だ 古文書ってのが、どんな状態で参照されるか考えてごらん
木簡竹簡に墨書きされたものだよ
それが百年単位で伝世してそれを見たときに、篆書とかのごちゃごちゃした
字体で薄れているわけだから、>>705に示した文字は紛れうるよ 九州説の人は、このスレをきちんと盛りたてて行けばいいのにw
まあ、書くべきこともないのかな? 捏造、改竄、詭弁で正しいと言い張っても無意味
例
・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄 もうそろそろ、平原1号墓出土鏡が八咫鏡ってのは、否定されたって認めたらどうだ?
円周を測って鏡の大きさを表す例はない
鏡に限らず円形物を円周長で大きさを表す例はない
咫は周尺で16.9センチ程度 平原1号墓出土鏡の円周は8.63咫になる
神道五部書の御鎮座傳記では、八咫は大きさではなく八頭の古語であると説明されている
内行花文鏡以外にも、巨大化した鏡種は多くある
平原や三雲、伊都国に八咫鏡があったとする説話も伝承も一切ない 八頭の古語ならそれこそ平原の世界最大の超大型内行花文鏡が
唯一無二の八葉ジャマイカ 筑紫倭国が滅んで千年以上たっているからなあ。
伝承も失われただろう。
明治はじめにかなり焚書が激しかったらしいし。
引用
「唯一」といったのは、他でもない。明治初年、維新政府の使者が来て、一週間にわたり″、当社の文書を焼きつづけた、という。
ひどい話だ。この「高良記」のみ、社格調べ″のため、京都の吉田家に寄託され、かえって「明治初の焚書」をまぬかれた、という(糸永明典前権宮司による)。 >>720
>八頭の古語ならそれこそ平原の世界最大の超大型内行花文鏡が
>唯一無二の八葉ジャマイカ
日本語の「頭」には、あまり尖ったイメージがないんだ
熟語で使われるときは、端っこ、始まりのイメージ
御鎮座伝記の注記の前半部分の「八頭花崎八葉形也」ばかりが引用されるが、
後半の「中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。」のところは
内行花文鏡ではうまく説明できない
「中台円鏡形」という言い方は、中台八葉とのつながりがあるのではないか
御鎮座伝記が書かれたと推定される鎌倉時代は、神仏混淆が進んでいたので
仏教系のイメージの流入も考えなければならない
胎蔵界曼荼羅 中台八葉院
http://www.geocities.jp/kawai5510/IMG_3928-11.jpg ~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
「一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。 」
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 >>724
これ自体が後世の解釈に過ぎないからね。
本来の八咫の鏡の意味や姿を伝えているとは言えない。
その意味で、2〜3世紀の段階で世界最大の銅鏡が博多湾沿岸にあったことの意味は大きい。 >>725
>本来の八咫の鏡の意味や姿を伝えているとは言えない。
つまり、本来の八咫鏡の意味や姿は、不可知だってことだ
それを勝手に、平原1号墓出土鏡に引き寄せて語るのはやめろって言ってるんだよ
背乗りは大嫌い >>725
>2〜3世紀の段階で世界最大の銅鏡が博多湾沿岸にあったことの意味は大きい。
でも、平原1号墓出土鏡は、内行花文鏡の伝統的な作図法から外れた、袋小路のガラパゴス化した鏡なんだよ
他への影響は、皆無
神庭荒神谷に358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸があった意味は大きい
加茂岩倉に39個の銅鐸があった意味は大きい
のと比べても、平原1号墓はそこまで重視する必要はないんじゃないかな >>727
>神庭荒神谷に358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸があった意味は大きい
>加茂岩倉に39個の銅鐸があった意味は大きい
それらの勢力は、事実上消滅したということだよ。 >>726
>つまり、本来の八咫鏡の意味や姿は、不可知だってことだ
八咫の本来の意味に戻るしかないだろ。 銅鐸は消滅したじゃん
内行花文鏡は古墳副葬品の最上位じゃん
十種神宝のも内行花文鏡じゃん 崎は先と音通で端っこの意味
花崎なら花弁のこと
古代後半から中世の宗教人にとっては八葉=蓮華
そして仏のおわす宇宙の中心 >>740
「崎」の意味は主に突き出た先端じゃない?
それが八頭かな〜と思ったけど >>728
>それらの勢力は、事実上消滅したということだよ。
なら、平原の勢力もロウソクの最後の輝きみたいなものだと見ていいんじゃないか? >>731
それを否定してるんだよ
御鎮座伝記をはじめ、八咫鏡の「八咫」が大きさを示すと
言っている古記録、伝承、神話、社伝は一つもない
昭和の時代の思いつきでしかない >>736
>なら、平原の勢力もロウソクの最後の輝きみたいなものだと見ていいんじゃないか?
弥生最後の太陽、それが平原遺跡に眠る卑弥呼なんだよ。 むしろ弥生文化の全盛期だから、「最後の輝き」は偏向表現であり、正確ではない。 内行花文鏡の伝統の柿蔕文を、8つにしてしまった辺りが伝統兄姉のやっつけ仕事に見える
そして、鏡面中央の小さな区画の特徴を「圓外日天八座」とするのも不自然
「一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。
八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。 」
これを平原1号墓出土鏡の描写だとするのはこじつけ 平原1号墓の被葬者と太陽を結びつける理由なんてないだろ? 圓外日天八座が仏教の影響だとすると、後世の鏡ということになる。
そもそも実物を検証できないからなんとも言えないけどね。 >>739
>むしろ弥生文化の全盛期だから、
1号墓の後も、平原遺跡では3号墓、4号墓と造墓が続くけれど、見るべき副葬品もない
どの辺が全盛期なんだ?
同じ北部九州の吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも40×27メートルの、大きな墳丘を持っているんだが、
それと比べてもとても全盛期には見えないぞ? >>744
>圓外日天八座が仏教の影響だとすると、後世の鏡ということになる。
それは、御鎮座伝記を書いたのが神仏習合時代の宮司だから、だろ?
圓外日天八座という表現が、後世のものだってだけだよ >>746
結びつける理由がないのに結びつけるのは「妄想」っていうんだよ
伊都国説はこんなのばっかり 平原1号墓の存在、位置づけを評価し、考える上で、
同じ平原遺跡の5号墓、2号墓、3・4号墓を無視して
考えようとするのが科学的ではないって言ってるんだが? >>754
そうだろうね
それに似ていたんだろう
平原の紐と紐座の部分が似ているし、問題ないよなぁ 平原遺跡をなんとか過小評価しようと必死なキナイコシ >>742
東西に向けられた棺、御柱、鳥居、日向の地名、内行花文鏡の紋様。 周尺の8寸なのに秦漢尺の8寸で計算してるから詐欺だな >>752
>1号墓が全盛期だよ。
それは、平原遺跡を家族墓地とした、伊都国ローカルの有力家系の全盛期であって、
弥生時代の全盛期でもなんでもないんだが?
何代も、累代的に造墓しながら、全盛期が一人だけっていう時点で、
倭王でもなんでもないだろうに >>753
>平原遺跡をなんとか過小評価しようと必死なキナイコシ
「キナイコシ」さん、こんにちは(定型句)
過小評価も何も、実際小さいじゃん?
同じ立柱を持つ吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の10分の1以下だよ? >>754
>東西に向けられた棺、
真東向いてないよね?
二分二至のような、特別な方角は向いていない
高祖山の山頂も向いていない
日向峠も向いていない
墓坑・棺は周溝で区画された領域の中央からずれている
これのどの辺が、太陽信仰と関わりがあるんだい? >>754
>御柱、
5号墓の柱の指す方向と一致していない
柱は2本以上あった形跡がある
同じく墳丘の軸線に合わせて柱と祀堂を置いている吉野ヶ里北墳丘墓も参考にすれば
柱が太陽とは無関係に立てられたと考えるほうが合理的
>鳥居、
それは単なる通称で、単なる並んだ穴に過ぎない
本物の鳥居であれば、聖域への「入り口」を示すものなのだから、
南東の周溝の切れ目にこそ立てられるべきなのに、西側に位置している
二対ある柱穴が平行ではなく、違う方向を向いている
「二つの鳥居」ではなく、4つのトーテムの可能性も高い >>745
>日向の地名、
現存は日向峠のみ
明治頃までは、高祖山塊を日向山と読んでいた形跡はある
しかし、国名として日向が使われていた形跡はない
日向峠と平原遺跡は6キロ離れていて、特に関連を見出せない
平原遺跡の場所は、三雲遺跡群主要部から見て冬至の日没方向に当たる
平原遺跡と太陽の関係で意味がありそうなのはむしろこちら」 >>754
>内行花文鏡の紋様。
それは、主観でそう見えるってだけだろ? >>756
>何か問題あるの?
でかい鏡が出る墓は、そこかしこにあるけれど、
「その鏡が出たから王墓」だとは考えられていない
「でかい鏡を王墓に副葬するのが伊都国の文化であり、それが全国に広がった
平原はその発端であり、倭王の墓である」
という主張は、「現実」によって否定されるってこと >>757
>それは、平原遺跡を家族墓地とした、伊都国ローカルの有力家系の全盛期であって、
根拠なし >>761
高祖山の東側に日向川もある。
高祖山の北側に日向の小戸がある。
高祖山の南側に日向峠がある。 >>763
>「その鏡が出たから王墓」だとは考えられていない
主観に過ぎない。 >>761
>日向峠と平原遺跡は6キロ離れていて、特に関連を見出せない
日向峠と小戸はもっと離れているが、日向という地名で呼ばれているのだから、少なくとも高祖山とその周辺全体が筑紫の日向だよ。 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>764
>根拠なし
根拠なしとする根拠がないだろ?
倭王の家系の家族墓地だったら、どうしてこんなにちっぽけなんだ?
倭王の家系なのに、前後に厚葬墓がないのはどうしてだ?
どう見ても、弥生文化の全盛期じゃなくて、
「この一族の全盛期」以上のものじゃないだろ? >>765
>高祖山の東側に日向川もある。
日向川 (北海道)(ひなたがわ) - 北海道士別市を流れる天塩川水系の河川。
日向川 (宮城県)(ひなたがわ) - 宮城県石巻市を流れる北上川水系真野川支流の一級河川。
日向川 (山形県)(にっこうがわ) - 山形県酒田市を流れる本流の二級河川。県内最大の二級水系である。
日向川 (群馬県)(ひなたがわ) - 群馬県安中市を流れる利根川水系秋間川支流の一級河川。
日向川 (神奈川県)(ひなたがわ) - 神奈川県厚木市・伊勢原市を流れる相模川水系玉川支流の河川。
日向川 (山梨県)(ひなたがわ) - 山梨県南巨摩郡南部町を流れる富士川水系大和川支流の一級河川。
日向川 (島根県)(ひなたがわ) - 島根県邑智郡川本町を流れる江の川水系の一級河川。
日向川 (岡山県)(ひゅうががわ) - 岡山県久米郡美咲町を流れる旭川水系大瀬毘川支流の一級河川。
日向川 (福岡県)(ひなたがわ) - 福岡県福岡市西区を流れる室見川水系の二級河川。
日向川 (熊本県)(ひむきがわ) - 熊本県菊池市・合志市・菊池郡大津町を流れる菊池川水系合志川支流の一級河川。
日向川 (宮崎県)(ひなたがわ) - 宮崎県西臼杵郡日之影町を流れる一ツ瀬川水系の二級河川。
確かにあるねww
でも、これ、日向峠の向こう側だよね?
日向と平原って、ますます無関係なんじゃないかね? >>765
>高祖山の北側に日向の小戸がある。
小戸はあるけれど、これを日向の小戸だといってるのは、一部の九州説の人だけだよ
日向の小戸だとする積極的な根拠はない >>767
>日向峠と小戸はもっと離れているが、日向という地名で呼ばれているのだから
繰り返しになるが、その「小戸」を「日向の小戸」と言い張ってるのは一部の九州説だけ
根拠は特にない
思い込みから来る、結論ありきの「当てはめ」だけ >>768
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
それ、宮崎の日向を当てるのが普通
筑紫は筑紫島
神武天皇出航の地、美々津も、宮崎にあるんだから >>771
>小戸はあるけれど、これを日向の小戸だといってるのは、一部の九州説の人だけだよ
小戸大神宮をなんだと思っているんだ?
住吉神社をなんだと思っているんだ? >>769
>倭王の家系なのに、前後に厚葬墓がないのはどうしてだ?
すぐ近くに三雲南小路などほかの歴代倭王の王墓もあるよ。
卑弥呼の前の男王の墓だろうね。
魏志倭人伝の記述からすると、混乱の末にどこかの有力家系から卑弥呼が共立されたのだろうね。
だから三雲とはわずかに違うところに墓が作られたのだろうとも説明できる。 >>776
>すぐ近くに三雲南小路などほかの歴代倭王の王墓もあるよ。
三雲遺跡群と曽根遺跡群は別の家系と見るのが普通
別の家系だから、墓所の位置が異なる >>776
>三雲南小路などほかの歴代倭王
歴代というが、三雲南小路と卑弥呼の間には100年単位の開きがあり、その間の王墓は
検出されていない 伊都国説の持ち出すものは、基本的に100年から200年、卑弥呼の時代よりも古い
甕棺墓時代のもの
あとは、平原1号墓にすべての望みを託すしかないが、同じ九州の中の
他の王墓、主張墓と比べても非常に小さな方形周溝墓で、王墓とするのはためらわれる >>786
三雲井原は古墳前期まで続く複合遺跡だよ?
ちょっと前には、古墳前期の大型建物の跡がみつかっているし
近くの玉造工房の潤地頭給遺跡も古墳前期までのもの
平原にいたっては卑弥呼時代に入っている可能性は十分にある
3世紀前半はまだまだ全盛期だろうね
前期の前方後円墳も沢山あるので、発掘されたら何かわかるんじゃね?
ほとんどが未発掘だからなぁ
糸島市は金が無いし、市民もあんまり関心がないから動きが鈍いんだよね…今年のフォーラムなんか30分は講演の先生達からの市民運動への呼び掛けだったよ…凄い遺跡があるのに残念だって… >>780
>三雲井原は古墳前期まで続く複合遺跡だよ?
遺跡としては続く=人は住んでいる
が、王墓が続かない
人が住んでるところは、日本中どこでもあるだろ?
でも、それが邪馬台国の比定地の根拠にはならないってこと >>780
>前期の前方後円墳も沢山ある
畿内の大古墳と比べると、二分の一、三分の一のサイズで小さい
伊都国の首長墓としては相応だが、直前に倭王が居た地域のトップの墓としては小さい
同様に、平原1号墓の墳丘規模は、倭王の墓というのはずうずうしい、というレベル
平原遺跡は、伊都国の有力家系の家族墓
平原1号墓は、その「有力家系の最盛期」であって、弥生文化の最盛期ではない >>778
井原鑓溝があるな。
あとはまだ見つかっていないだけだろう。
逆に、弥生後期の王墓は糸島にしかない。 >>781
>人が住んでるところは、日本中どこでもあるだろ?
>でも、それが邪馬台国の比定地の根拠にはならないってこと
これは畿内説へのブーメランだよ。
伊都は外交や産業の中心としての遺跡が大量にある。
そして倭王にふさわしい王墓もある。
国璽たる金印もここに伝世していたと言われている。 魏志倭人伝をしっかり嫁。
男王が70-80年続いて、それから倭国乱。
卑弥呼は共立されたんだぞ。
そして後継のうち、少なくとも台与は卑弥呼の子孫じゃなくて、親戚。
三雲南小路〜井原鑓溝が70-80年の伊都王家の墓域。
平原1号が女王卑弥呼。一代だけの共立。
魏志倭人伝の記載と完璧に合致しているのに、
それをもって違う根拠にするとか畿内説は勉強不足にもほどがあるだろ。 記紀に卑弥呼は記されていないからな。
一代だけの女王だったのだろう=平原1号女王墓 >>783
>井原鑓溝があるな。
井原鑓溝という時に、どれの事を指しているんだ?
王墓と呼ばれている遺跡は、江戸時代に偶然見つかったもので、
青柳種信による鏡面のスケッチは残されているが、どこにあったかも定かではない
当然、編年も確定的なことはいえない
とりあえずスケッチから復元される鏡=方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡=は18面で、
その鏡面の図柄の編年から、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれに
この鏡が海を越え伊都国に定着するまでの期間を加えたものとなる。この伝世期間は、さほどの
根拠はないが100年程度とするのが通例で、それを加えるとおおむね1世紀後半〜2世紀初頭の
間に収まると推定できる。
3世紀の卑弥呼までは、まだまだ100年単位の隔たりがあるよ 考古学的知識が皆無なのに「考古学的には〜」と嘘をつく伊都クズ >3世紀の卑弥呼までは、まだまだ100年単位の隔たりがあるよ
倭国乱が2世紀中旬
卑弥呼死去が3世紀中旬
魏志倭人伝の記載と完璧に合致しているのに、
それをもって違う根拠にするとか畿内説は勉強不足にもほどがあるだろ。 >>790
>倭国乱が2世紀中旬
またうそをついている
卑弥呼が100歳超えちゃうよ?ww >>788
>3世紀の卑弥呼までは、まだまだ100年単位の隔たりがあるよ
何年から何年を100年と数えているんだ?
そのうち50年は卑弥呼の治世だろ。
残りのうちの半分は倭国大乱だろ。
遺跡の編年の誤差を考慮すれば、あと一代分の王墓がどこかに眠っているかどうかという程度の話。
伊都にある倭王ぼはほぼ魏志倭人伝に沿って連続している。 男王70〜80年が日向三代なら、あと1代分の墓がどこかにあるはずなんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています