【北条得宗家】北条時宗【最後の英雄】
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宮迫闇営業騒動で大河ドラマ「北条時宗」に影響しないか心配したけど
オンデマンドの総集編は健在でひと安心 >>91
それよく見るけど実際は使者切ったのって戦争になった後だよね? 細川重男氏の「執権 北条氏と鎌倉幕府」(講談社学術文庫)が出ました。
かつてのメチエ選書から若干加筆修正したものですね。
時宗論とか、どう書かれていますか? >>98
ただの再販だと思ってスルーしてたけど加筆修正されてるのか
かなり手厳しく批判してた本だよね 時宗を野蛮な好戦家として評価していたのでしたっけ?
いわゆる反戦似非平和主義の立場かしら?
義時はどう評価されていますか? 京都の帝に逆らったから、好感とか? 前にしか読んでないけどかなり批判的だったような
そんなでもさすがに>>91みたいなことは言ってないってか
流石に本や番組で>>91みたいなこと言ってるのは見たことない
ネット限定のデマかと思ってたけど 元との外交が破談したのは文永の役直前に日本と南宋の同盟が成立したからだ。
朝廷には無断で幕府が極秘に進めてた話だから日本の史書には残ってないげど
元の使者がそう証言してる。 >>102
日本の史書には残ってない、ってことは元の史書には残ってるってこと?
何処か頼む >>102
ってか証言してる元の使者って誰?
文永の役の前でも同一人物や来なかったの含めて6回あるけど 趙良弼って使者だよ。
日本との外交がまとまりかけた時、鎌倉から南宋に渡っていた僧が帰国して日宋間で
同盟が成立したと告げたので決裂したんだって。
北条時宗は南宋やベトナムに呼び掛けてモンゴル包囲網を作ろうとしてた形跡がある。
当時の中国の記録には、「弘安の役の翌年に日本がベトナムに使者を送って、モンゴルの
属国に甘んじてることを叱った。そのためベトナムはモンゴルに対する反乱を決意した」
って書いてある。 へーもしそうなら北条時宗ってかなりグローバルに動いてたことになるね
よく外交無知とか世界を知らないとか叩かれてたけど
(まあ中には戦争前から友好やあいさつ程度の使者をいきなり殺したとか、
使者処刑とか他の国ならありえないとかの前提から間違ってるものもよくあるけど)
文永の役後の使者処刑もその趙良弼の偵察を日本が警戒して
もう使者が偵察して情報持ち帰らないようにするためだったともいわれてるし
日本側も元を偵察してたふしもあるし、意外と情報戦も行われてたのかな >>102 >>106
元史の趙良弼伝には見当たらないようだけど、どこに書いてるか教えて 現在の価値観で見る奴はアホ。使者を切ったのは、日本だけではない。 そもそも、先に仕掛けたのは、元のほうで、
対馬、壱岐で一般庶民を強姦、虐殺、誘拐して奴隷にしている。
九州本土での戦は、日本が圧倒的に優勢だったので、一般庶民の被害は少なかっただろうが
対馬、壱岐はそうはいかなかった。 元は南宋が使者に出した文天祥を監禁したし、後には明の使者殺害したし、
元自体が戦時だろうと先に相手が蛮行(南宋も元の使者監禁した)しようと使者には礼を尽くす、なんてことないしなあ >>110
そう、先に仕掛けたのは元の方
なのに日本が先に使者切って、それが元寇の原因になったって勘違いが広まってる
さらにはそこから、だから元寇は侵略じゃなかった、日本の自業自得、日本は侵略されたことなんてない、
とどんどん勘違いをもとにして拡大してるというよくわからないことになってる >>102
日本って南宋と元の戦争になんかしたっけ?
南宋滅亡するまで特に関与しなかったような
南宋人の坊さん呼んだり、戦後に南宋人は助命したりしたくらいで 元寇は、対馬や壱岐のような小さな島は、とても住民たちの全部を守ることは出来なかった。
ただし、対馬の場合は、壱岐に比べて、面積が大きく殆どが山岳地帯なので
住民の中に山奥へ逃げ込んで息をひそめていたもの多かったらしい。
実際にグーグルの地図見たら分かるけど、対馬は南北60キロ、東西10キロにもなり
その9割以上が山岳地なので、2か月くらい山奥に潜伏しようと思えば不可能ではない。
元軍も対馬の山奥まで捜索しようと思わず、沿岸の重要な港を抑えれば
さっさと、壱岐、九州へ進軍していった。 >>113
日本最初の侵略に対処して終わったら当時としても早死だぞ >>91
文永の役までの使者のことなら斬られてないから間違ってるし、
文永の役後、弘安の役の前の使者のことなら
文永の役で侵略して対馬壱岐虐殺したけど友好を求めてきていた、
というどっちにしても意味わからん事になるなあ
友好求めてるなら攻めてくるなよと >>112
どっちにしたって属国にする目的なのは明らかだから
使者切ったんだろう
「屈しませんよ」ってメッセージ
あの時代を考えたら日本の独立を守った英雄だよ 使者を切ったのは、2度目の元寇の前だよ。
つまり、使者を切るよりも前に、元軍によって、
日本の一般庶民への虐殺が行われている。
また、あの当時、元の使者を斬ったのは、日本だけではない。
現在の価値観とあの当時の価値観を同じにするべきではない。 >>112
そんな勘違い、本当に広まっているのか? 元寇のとき頑張って戦ったのは松浦党とか地元の侍で
たまたまその時執権だった時宗が英雄だなんておこがましい >>119
これ、酷過ぎるよね。
日本が三別抄からのSOSを無視したから珍島が陥落して裴仲孫が見殺しにされたみたいな
印象操作してるじゃん。
裴仲孫は日本に国書を送る前に、モンゴルに「半島南部の支配を認めるなら従属する」
って条件で交渉をもちかけてる。
1261年4月末、三別抄とモンゴルとの交渉が決裂
1261年5月15日、モンゴル高麗の攻撃で珍島が陥落
1261年9月2日、幕府が三別抄からの国書を朝廷に提出
裴仲孫が日本宛ての国書を書いたとすればモンゴルとの交渉決裂後のはずだから、
それから2週間足らずで日本から珍島に援軍を送るなんて物理的に不可能なんだよ。 >>125
訂正
1271年4月末、三別抄とモンゴルとの交渉が決裂
1271年5月15日、モンゴル高麗の攻撃で珍島が陥落
1271年9月2日、幕府が三別抄からの国書を朝廷に提出 >>123
あくまでもネット上で、だけど広まってるよ
5chでも流石に歴史板ではめったに見ないが、
ニュース関係の板で元寇関係のスレが立つと必ずってほど書き込まれてたし
ツイッターでもその手の論をとなえてる人は良く見る
ツイッターはキーワード検索できるから、検索すればすぐに沢山見つかる 大河ドラマでは時宗よりも渡部篤郎の時輔の方が格好よかった >>123
昔は5chの書き込み程度でそれもたまにだったと思うけど、
それも見かけることが多くなってきて、
歴史解説系のサイトや動画まで事実のように書くこともあるし、
とうとう子供用とはいえ歴史の本までこんな風に
338名無しさん@1周年2019/10/14(月) 13:20:51.09ID:eekq0/ho0
>>314
学研の子供用?の歴史の本は内容がピンキリで、本によってはあまり…
たとえば「人物学習事典」の北条時宗の項なんて、
>国書を受け取った幕府は、要求を無視する決意をかため、十八歳の時宗を執権職につけて、
>幕府内部の体制を新たにして、危機にのぞむことにしました。
>その後、何回か元の使者が来ても、時宗は、求めをことわり、
>使者を追い返したり殺したりしました。
>そして西日本の御家人たちを九州にまとめ、守りをかためました。
>一二七四年、フビライは兵力二万五千人をこえる大軍をおくってきました(文永の役)。
とあるけど、文永の役の翌年、一二七五年に七回目の使者・杜世忠が殺されるまで、
時宗が使者を殺したことはないのに、文永の役の前の記述で
『使者を追い返したり殺したりしました。』と書いてしまってる。
この本は『学研まんがNEW日本の歴史』という歴史漫画シリーズの一冊で、
シリーズのうち鎌倉時代を描いた『武士の世の中へ 〜平安時代末・鎌倉時代〜』では
『翌年以降、さらに4回の使節がおとずれたが、時宗は返書をおくらなかった』と
ちゃんと書いてるし、古い方の学研の歴史漫画でもこの点の間違いはないんだけどね…。 日本を悪者にするため時系列を操作するのは得意技。
NHKを見た人は、珍島の裴仲孫を見殺したと非難されてる朝廷が三別抄からの国書を読んだのは、
すでに珍島が攻め落とされて裴仲孫が死んだ後だったなんて、誰も思わないだろ。 学研の人物学習事典の監修はこの人かな
出してる本からみると専門は江戸時代なのかもしれないけど…
https://ja.wikipedia.org/wiki/大石学 得宗家の嫡子に生まれ、執権・得宗として実権を握り、“大守”と呼ばれたかった…
あとは、戦国末期の毛利家の人間が好かったかな。
皆さんは、そういうのある? (どの氏・一族に生まれたかった?) >>123
関係ないスレでも見かけるくらいよくみるよ
数日前もこれ
何故かおーぷんの艦これとかのソシャゲスレでも何度か見かけた
583この名無しがすごい! (ワッチョイ 2390-mjLV)2019/10/28(月) 22:37:53.64ID:qriU+3zh0>>585
>>571
そもそもは鎌倉幕府がモンゴルの使者を殺したからやで
「なんつー野蛮人!さすが四方でも最低の東夷人!」と言われただろな
その時点でモンゴルは攻める以外の外交はなくなった
ところがジャップは海を超えてくるはずがないとのんびり
敵軍が現れて驚いたってんだから低能にも程がある モンゴルの使者を斬っていたのは、日本だけではないぞ。
東欧、中東、東南アジアも同じようなに使者斬っている。
その点、日本は最初は黙殺しただけだから、常識的。 >>136
使者を文永の役の前から切ったと主張してる書き込みって、その他にも
日本だけが使者切ってたかのような書き方したり、
>>134のように元が攻めてくると思ってなかったとかの、
色んな間違いを同時に並べてるのもよく見るよね まとめでも多いよ
元寇や鎌倉武士のスレのまとめだと恒例
ここまで多いと誰かが広めようとしてるのかと疑う あとそういう書き込みってジャップとかネトウヨとか言ってるのも多かったような…
またはそれを根拠に日本や時宗叩いてたり youtubeの動画に、モンゴル軍の戦いの動画あるだろう。
それを見たら、モンゴルの使者は良く斬られているよ。
理由は相手に付属を要求するから。 これか?
でもこの動画も「まず和平の使者送ったら日本が話も聞かずに切り捨てた」と言っちゃってるぞw
歴史解説動画にまでこのデマ広まってるんだなあ…
【ゆっくり解説】 モンゴル軍について
https://www.youtube.com/watch?v=-yDU0AHhUzg
>モンゴル軍が世界を席巻したのは有名ですね
>ええ 日本にも攻めてきたわね
>…あれは外交を知らなかった日本が圧倒的に悪いんですがね
>そうなの?
>はい 亡命したきた中国人に騙されたとありますが、実際は鎌倉幕府の暴走です
>何が暴走したの?
>モンゴル軍は戦争をするかしないかはまず和平の使者を送って確かめます、これを殺害すると容赦しません
>ああ 皆殺しになるのね
>そうです
>で、日本も使者を死者にしちゃったと
>ええ 話も聞かずに切り捨てました 【モンゴル軍vsマムルーク朝】アイン・ジャールートの戦い
の2分辺りから。。。
使者を斬首するのは珍しくない。。。というか、先にモンゴル軍が酷いことしたんだから仕方がない
https://youtu.be/zleQDkZ6VEE?t=2m
【モンゴル帝国vsホラズム王国】インダス河畔の戦い
ホラズム王国もモンゴルの使節団をいきなり殺害。
https://youtu.be/n4IfpAor-P0?t=44s
モンゴル対応はあれでいいよ、時宗でなくたってほかに答えようがないよ
それより二月騒動の名越討伐のほうがフライング気味だったのかなと思うけど >>129
大河の時輔は片腕で十数人の刺客に勝ってしまう、
いつまでたっても死なないという滅茶苦茶の設定だった 実際時宗批判って、じゃあどうすればよかったんだよって代案までないとなあ
よくモンゴルに従属したって税金とられるだけ、形だけでむしろ貿易でお得!って意見もみるけど
お隣の高麗がどうなったか知らんのかと
元寇だって高麗が兵士も出して船も作ってんのに 日本に対してはモンゴルに従属しろと言うくせに、高麗のモンゴルに対する抵抗や
ベトナムの反乱は絶賛する矛盾。 大河の時輔ってなんか時宗との関係や大陸に行くあたりの話が
わけわからない変な話になってたような…
わからなすぎてもうその変なもの見たって感想しか記憶にないけど あとうろ覚えだけど、時宗生まれる前の初期の話で
時輔の母親が家から出されるときに凄い泣いたり抗議してた記憶あるけど、
当時だったら正妻が嫁いでくるなら側室が家を出されるの当たり前なんじゃ
先に男子産んでたとしても庶長子なんだし
武家の娘がそれであんなに悲嘆にくれるのか
うろ覚えだから記憶間違ったたらすまん 足利さん家みたいにもともと正妻だったのが、
より身分高い人が嫁いできたせいではね飛ばされたのかもしれない 時輔の母親の讃岐局は当時の北条家の正妻になれるほどの身分じゃなさそう
兄が執権だった頃に迎えたかもしれないが 足利さん家はどっちも北条氏の娘だったからなあ
後から来た正室の方が執権の孫娘な分有力ではあるけど
名越の朝時の娘だって時政のひ孫で十分足利の正室クラスではあった 時宗の母は一族重鎮の重時の娘だから当然その長子は嫡男となるのは当然だな
重時の同母兄の朝時は泰時と嫡流を争うぐらいだから足利泰氏がその娘を最初の正室に迎えてるのに何ら不思議はない >>145
宮迫が助けたんだよね、赤マフラー。
時宗が鎌倉から動かないから、影の主役として大陸に渡って
松浦党首のフビライ暗殺未遂の現場に居合わせた。
久しぶりに見返したいけど再放送してくれないかな。 北条時宗の原作の人とは、炎立つの原作の人と同じなんだよね。
どちらも史実との隔たりが多すぎるw 個人的には原作の方が好き
原作のままの方が矛盾なかった所多いし
この通りにやって欲しかったなあ >>158
原作は初めの方に経時が出てくる
もしドラマでもそうだったら誰が演じただろうか >>123
なんJやおんJによく立つ元寇や鎌倉武士スレだと毎回みる
反論されてもこともあるけど減る様子もないね
今日もなんJのスレにあった
50大阪鷹2019/11/14(木) 08:37:46.86ID:Q5LmiX+qp
元は当時の鎌倉幕府や朝廷に朝賀などの臣下の礼を求めて使者だしたら、北条時宗が首チョンパしたからな
そら攻めにくるやろ
http://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1573687507/ 語り散らすだけで新たにインプットする気なんてないんだろうな これなんか使者を毎回切って皆殺しにしたとか(斬られたのは13回中2回)
単に無礼だって理由だけで斬ったとか(先に文永の役がある)
海越えて攻めてなんて来ないと無警戒だったから馬鹿やったとか(文永の役前から警戒してるし攻められた後に斬ってる)
逆に旧南宋人に吹き込まれた話に踊らされて元を敵視しすぎたからとか(先に文永の役があるから敵視の理由は他にある)
日本は国書を読んですらないとか(出さなかった返書で前の国書に言及してる)
斬首したその首をフビライに送り付けたとか(元は7回目が殺されたの知らずに8回目送ってるから日本は知らせてすらない)
見かける度にどんどん酷い話になってきてるな 日本は、蒙古の威圧的な使者に対して
最初は黙殺して何もしていない。
そこへ侵略軍を送って、対馬、壱岐などの住民を虐殺したので
その次の侵略軍を送ってきた時の使者は斬った。
マムルーク朝、ホラズム王国なんて、そっこう、蒙古の無礼な使者を斬っているから。
【モンゴル軍vsマムルーク朝】アイン・ジャールートの戦い
の2分辺りから。。。
使者を斬首するのは珍しくない。。。というか、先にモンゴル軍が酷いことしたんだから仕方がない
https://youtu.be/zleQDkZ6VEE?t=2m
【モンゴル帝国vsホラズム王国】インダス河畔の戦い
ホラズム王国もモンゴルの使節団をいきなり殺害。
https://youtu.be/n4IfpAor-P0?t=44s 使者を九州に留めて京都に行かせなかったのは無礼って叩きもあるけど、
情報戦の点からいえば偵察しまくってた使者を先へは行かせられないよね 日本が文永の役前に使者切った、それが元寇の原因って誤解、
ちょっと調べたら授業や解説系にいくつも出てきた
・トライイットという中学生・高校生向け映像授業サービス
【中学歴史】「元寇 文永の役と弘安の役」 映像授業のTry IT (トライイット).html
https://www.try-it.jp/chapters-2878/lessons-2898/point-2/
>日本に興味を持ったフビライ・ハンでしたが、いきなり軍隊を送ったわけではありません。
>まず日本に使者を送り、降伏して元の支配に下るよう要求しました。
>当時の執権である 北条時宗 は、フビライの要求を拒否するだけでなく、元の使者を処刑してしまいました。
>この行為に激怒したフビライが、日本に大軍を送ってきたわけです。ついに戦いが始まります。
・無料WEB予備校・塾 チノポスの授業動画
竹内睦泰 元寇と得宗専制政治
https://www.youtube.com/watch?v=b4_azPkG7-o
>元の皇帝フビライは、日本に服属要求。家来になれといいました。
>日本側は北条時宗、家来になれと言ったモンゴルの、フビライの、使者を、二人の首を刎ねます。拒否。元寇でございます。
>まず文永の役。元高麗軍三万人が来ます。博多湾に上陸。
と、戦いが始まる前に使者処刑した、文永の役前に使者の首刎ねたかのように解説しちゃってるな
ネット塾のようなものとはいえ、『授業』として公開してるものにまで広まってるとは
しかも下の動画、閲覧数がつべだけでも2万ある人気動画なのに… 他、個人のものだろうけど歴史解説系でもこんな感じ
>>141の
【ゆっくり解説】 モンゴル軍について
https://www.youtube.com/watch?v=-yDU0AHhUzg
3分でわかる鎌倉時代(鎌倉幕府)〜成立から元寇後に滅びるまでのダイジェスト版 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
https://bushoojapan.com/tomorrow/2019/05/21/110579/2
>これに対し、ときの執権である北条時宗はかなり強気で
>【返答しない&使者を切り捨てる】
>などの対応で、対決姿勢を明らかにします。まぁ当たり前ですね。
>かくして(#^ω^)ピキピキ状態になった元が日本へ侵攻してきます。
鎌倉時代C?8代執権北条時宗、元寇と得宗専制政治の話 高校ネットゼミ大学受験講座
https://koukounetzemi.com/629
>そうして、これまた孫の1人であるフビライという人がトップに立ったとき、ついに日本も支配しようということになります。
>ただ、この「支配下に入れ」要求に対して執権北条時宗はあっさり拒否します。そして使者を処刑までしました。 文永の役による元寇(蒙古襲来)とは? 日本の歴史についてよく分かるサイト
https://www.worldwide-transition.info/kamakura/mouko/bunei.html
>元から突きつけられた服属要求ですが、このときの執権であった北条時宗はどのように応えたのでしょうか。
>なんと、使者の首だけお帰りいただくという、なんとも強固な姿勢でのぞんだのです。
>時宗は使者の首をはねて、従者に持ち帰らせ、「日本は絶対に服属しない」と返答しました。
ぐだぐだ歴史講座
https://lineblog.me/wapdjgto/archives/729446.html
>最強のモンゴル帝国が攻めて来ました。なぜ攻めて来たのか、事の経緯を説明しますと…当時の鎌倉幕府の執権北条時宗に対しフビライハンの使者がやって来ました。
>内容は「俺達と仲良くしようぜ〜しなかったら殺すYO!」って内容でしたが時宗はシカト。しまいには使者を斬り殺す始末。
>それにキレたフビライハンは大軍を率い2回も攻めて来ました。しかしどれも失敗に終わりました。
https://lineblog.me/wapdjgto/archives/572255.html
>1268年に元(中国)が「俺の配下になれよ!」と要求してきました。
>時の執権、北条時宗は「はあ?お前バカ?」と使者を斬り殺しました。
>それにまじギレしたフビライハンが2度に渡って軍を派遣したのが世に言う元寇です。 教師のブログで日本史Bの授業の展開について書いたらしい記事で、
フビライから送られた書状を紹介して北条時宗の対応についての話で
「実際は無視。6回同じ書状がきた。しかし、使者を殺害するなどする。
返答がないことを受け、フビライは日本侵略を決意する。」
ってあるのを見かけて驚いたことがある
ネットだけじゃなくリアルでの授業でもそんなこと教えてるんだね 学校で元寇の前に日本が使者斬ってたと教わった、
って書き込みを5chで何回か見かけたけど、
学校や塾の教師層にまで広まって、
授業として教わるから生徒も疑いなくそれ信じ込んで、
じゃ際限なく広まっちゃいそうだ… ほんとこれ何処が初出なんだろう
時宗(幕府、鎌倉日本)がこれで叩かれてるの酷すぎる 使者といえばこんなのもあった
和睦(休戦)や和平の使者がきたとかそれを6回も殺したとか聞いたことないのに
打線という広まりやすい形になってるせいか
よく貼られるし鵜呑みにして引用する人も増えてる模様
1 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:08:49.75 ID:3HbREZZQ0
元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)
1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた
2(三)壱岐・対馬は見殺しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ
3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射殺してた
4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる)
5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた
6(左)使者をぶっ殺した時に書状を見ずに殺したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった
7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった
8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた
9(捕)実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる 時宗は悪くないって主張は分かったから
時宗はこんなにすごかったってエピを新参のワイに分かりやすく教えて やっぱり大国に攻められて日和らなかった所でない
7回目の使者切ったのも徹底抗戦姿勢の表れだし あと一回目の国書の時点で蒙古の狙いに気づいてたこと
一回目の国書を友好的とみる人もいるけど、
クビライは南宋と日本を征すと言ってたから、時宗の警戒は正しかった
南宋と戦ってる最中だし脅しだけで従わせられるならその方が良いとは思ってたとしても
従うわけにいかないなら同じことだしな
何故か元は従っても大して干渉や収奪がないとみる人もいるけど
干渉されまくり収奪されまくりで元寇でも多大な負担と犠牲でたのが高麗だから
そんな希望的観測も無理があるし NHKの英雄たちの選択で
ちゃんと放送していたよ。
最初は無視だとね。
斬首は攻められて日本人が逆された後からね。 >>172
やったのが時宗かどうかわからんけど、
昔と違って今は日本も結構情報収集してたんじゃないかと言われてるね
送ったの大宰府の独断かもしれないけど、元寇の前に
五回目の使者の帰還時に日本からも使節団送ってて
元は軍備の偵察目的と思ってクビライには会わせなかった話が元史にあったりする >>172
弘安の役の後、ベトナムに反乱起こさせてモンゴル軍が日本を攻められないようにした。 >>178
モンゴルに従順だった南ベトナムのチャンパが反乱起こしたのは弘安の役の翌年 >>123
今日もあった
しかも「だから元寇は侵略じゃなかった」論をマジに唱えてる
4 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウー Sacd-dI2U) sage ▼ 2019/12/04(水) 13:00:39.30 ID:8zDTHIyIa [1回目]
元寇は無かったことに
20 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウー Sacd-Bots) ▼ 2019/12/04(水) 13:05:12.73 ID:qRZJd9E2a [1回目]
>>4
ジャップが使者の首を切り落として送り返したから征伐が始まっただけで、マジで侵略ですらないぞ
BBC 「日本と韓国は7世紀から断続的に戦闘を続け、日本は繰り返し朝鮮半島の侵略を試みてきた」 [541495517]
http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1575431970/ 元寇侵略じゃなかった論も年々見かけること増えてるような…
そして何故かジャップとか言いつつ日本批判してくる不思議
日本が先に使者斬ってた誤解が広まってるように
これも放置されてたらそのうち広まってしまうんじゃ 建長寺つくったのも南宋の坊主。鎌倉にいる南宋の坊主がモンゴルと戦わない訳ないよ。 鎌倉幕府がモンゴルを脅威と認識したのはクビライが即位する前の1259年。
モンゴル軍が南宋に侵攻し、高麗がモンゴルに降伏した年な。
鎌倉幕府の防衛強化はこの年から始まってる。
でも日本史研究者には「日本は海外情勢に無知でなければならない」という大前提があるから
それに反する史料は無視される。
日本が海外情勢に精通してた史料が無いのではなく、あるのに無視されてるだけだから。 南宋から来日した僧侶や商人、渡宋した日本人もいるのだから、大陸の情報が
鎌倉幕府や大宰府に伝わっていたと考えるほうが自然だと思う。
情報を総合的に分析し、蒙古の来襲は避けられないと見たのだろう。 秀吉も長い年月をかけて人気を落とす工作がされてきたからなあ
朝鮮人に恨まれている人物の運命やな 北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった なにわ武士だよ源平は
治承四年、ポンコツ平家と臆病な畿内童貞侍の皆さん、水鳥の羽音に狼狽し我先にと逃げ帰る。
山槐記…宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww
吉記…於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww
吾妻鏡…所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww
寿永二年、ポンコツ平氏は山城、大和、摂津、和泉、紀伊の包茎侍どもを招集(『盛衰記』)、木曽討伐に向かうも惨敗。
河内長野の貞弘戦死、季国戦死、摂津の重経、紀宗時らは尻尾を巻いて逃げ帰りました。
寿永三年、負け犬行家さんと石川源氏が連合で木曽に喧嘩を吹っ掛けるも、信濃の猛将樋口様にビビって小便漏らしながら逃亡。
【なにわのトップ】
摂津の国守護は剛毅の士・長沼宗政様(下野国出身)
河内の国守護は知勇兼備・三浦義村様(相模国出身)
和泉の国守護は弓馬無双・佐原義連様(相模国出身)
悲報、相模和田氏出身の河内国司・藤原秀康さんと弟の秀澄さんが長年の京暮らしで都の悪風に染まり
幕府から「天下乱逆の根源、この両人の謀計に起こる(承久の乱)」とまで言われてしまう。 大河ドラマ「太平記」では、貞時を名執権と言っていた
元寇の時の執権ということで、時宗が有名だが、貞時ももっと評価されるべきでは? 貞時さんは得宗家の真っ黒成分濃縮したような人だから…… 日本の史料にはないが、元の史料には日本が使節団を一度だけ大都まで派遣したそうな
フビライとの謁見はなかったが、これは時宗による敵情視察かも >>194
フビライに謁見できなかった理由もそう疑われてたからだしなあ
その後に正式な返書持った使者も出してないしそういうことだろうね でも日本の史料でも見たような気がする
どの史料だったかまでは覚えてなくてすまんけど… >>192
北条高時が父貞時のような立派な執権になれと周囲から言われ続けたという話だから
貞時の頃はまだ鎌倉幕府が持ってたしな >>189
面白いんだけど見方が時宗に厳しすぎるような気もした >>197
貞時は嘉元の乱で得宗専制体制を完成しようと無理したが失敗
その結果晩年は酒浸りで政務から逃亡してしまった
その姿を幼い高時は見ていたはず >>199
北条貞時は北条時宗の一人っ子で兄弟もおらず
従弟の北条師時も死んだあとは孤立
嫡子にも死なれ三男の高時は幼く
もともと北条得宗家の家司であった長崎家が幕府中枢職まで独占するようになった 高時、3男だったのか
「太平記」では貞時の嫡男と言ってたから、そうだと思ってた 兄の菊寿丸って母親不明だから庶子の可能性あるかも
高時って貞時32歳の時の子なんだね
菊寿丸は26歳の時の子
貞時は時宗21歳の時の子だし当時としては遅くできた子か >>203
貞時の正室は北条宗政女
執権在職中の貞時は菊寿丸を嫡子としていたが夭折しやる気をなくした
北条高時は貞時が出家後に生まれた子で母親は貞時の側室
高時母は霜月騒動で安達宗家が滅ぼされた後傍系の娘が側室として差し出されたもの
貞時はすでに執権職を従弟で娘婿の師時に譲った後だったが
側室腹とはいえ得宗に男子誕生ということで高時を後継とした 安達は二代続けて執権の外戚になってたのか
まあ一回目では安達の娘から産まれた執権に滅ぼされちゃったが
讒言あったとはいえ母親の実家滅ぼすって何があったんだろうな
母親が生き残り保護したみたいだから母親と実家の関係は良好だったんだろうに 時宗って元服も結婚も当時としても早いけど、なんか理由あるのかな
庶長子がいるからやっかいなことにならないように
さっさとこの子が後継ぎ!と明らかにしたとか? 時宗の庶兄時輔は9歳で元服11歳で結婚しているから
時宗が11歳で元服と結婚をしたのは特に早くもないだろ 今だと元寇に関しての時宗の評価って肯定否定、どっちが主流なんだろう?
比較的最近の本でも、批判してるものあったりするけど
まだ批判の方が強いのかな 大河ドラマだと「モンゴル軍の侵略により博多炎上!」とか次回予告でもピンチ感煽ってたけど
史実だと燃やしたのは鎌倉軍だったと知って草生やした >>209
そもそも博多が本当に燃えたか自体が疑問視されてるし、鎌倉武士が燃やした云々の話も根拠なし
打線とかあの手のネタコピペは鎌倉武士蛮族っぽくネタにするために史実といえない話や根拠の怪しい話、
果ては明らかに捏造まで入り混じってる 得宗家に生まれたかった、「太守」と呼ばれたかった… >>208
時宗が戦前に英雄視された反動で、戦後ではことさら批判する論調があったな
大河ドラマでは英雄として描かれたが、放映された2001年ごろには、学界でも
時宗への再評価が行われていたのだろうか? >>218
今では北条時宗の手腕や創意工夫が評価されるようになっている。
元寇も「神風」だけではなく、幕府軍の奮戦や軍功があって撃退できたという分析になっている。
大河ドラマでも、近年の研究成果を取り入れた描き方になっていた。
その結果、時宗が再び「英雄」として扱われることになった。 >>221
時宗は大規模な幕府軍を編成して元寇を撃退したが
敵を追い返しただけで新たな領地を得たわけではなかったため
御家人たちの働きに対する恩賞を与えなかった
一方で他氏排斥によって全国の守護はどんどん北条一門に塗り替えられていき
「富の北条集中」に御家人たちの鬱憤がたまった
結果、鎌倉幕府討幕へと動く原動力になった もし元寇がなければ、鎌倉幕府はもっと長く続いたということか
北条時宗も長生きできていたかも知れない >>223
歴史マニア以外ほとんど知られていない「嘉元の乱」
時宗の息子貞時が得宗専制を完成させようと起こしたものだが
結果失敗、貞時はその後やる気をなくして引退状態
これが鎌倉幕府の「終わりのはじまり」 嘉元の乱の真相はよくわからないが、得宗専制を目指すという方向性そのものが間違っていた可能性がある
御家人たちを評定衆に参加させ、その合意のもとに政権運営すべきだった
執権や連署はそのまとめ役に徹するべきだった
得宗はあくまで北条一門の家督であるべきだった
そうしていれば、鎌倉合戦で北条一門が鎌倉で孤立し、関東武士に包囲されて殲滅されるという悲劇的な
最期は回避できていた そうすると応仁の乱みたいな感じになってたんじゃないかな >>224 >>225
上にも書いてあるが嘉元の乱の前から貞時は出家して隠居の身の上だったよ
男子は夭折して育たなかったため娘婿を執権にして隠居してた
ところが貞時が出家後に思いがけず側室との間に高時が生まれた
赤ん坊の高時を将来確実に執権にするために高時が生まれた翌年に貞時が起こしたのが嘉元の乱
連署やら執事やら将来高時のライバルになりそうな北条一門の有力者を一斉に粛清した
北条得宗は短命が多く貞時も高時が7歳の時に41歳で没したが
貞時の粛清が実って高時は9歳で執権となれたため嘉元の乱は成功したといえる
御家人が鎌倉幕府討幕に動いたのは元寇の恩賞なしが主因だろ
高時時代に北条一門の数が少なかったという弊害はあるにせよ
残った北条一門は誰も高時を裏切っていない 貞時は得宗なのだから、わざわざ騒動を起こさなくても、得宗の権限で高時を執権に
使命してしまえばいいのにと思うのだが、そうもいかないのかな?
貞時は酒に溺れたり、その言動には不可解さを感じる。
泰時のような公明正大さで一族も御内人も御家人も束ねてほしかった。 >>228
赤ん坊の高時を今すぐ執権にするわけにはいかなかったから
貞時が死んだ後はどうなるか分からない
高時の母方は安達氏だが実家が滅んでいたため母方も頼れない
泰時も自分が執権になるまでは異母弟たちや和田氏を粛清してるだろ
泰時は義時がかなり若い時の子であるため中年になるまでずっと父が生きててその庇護下にいて
執権になった時点で40過ぎてたためその頃には成人した息子が何人もいてその後は盤石だった 豊臣秀吉が秀次とその家族を粛正したのに似ているな
高塒が生まれたのは、貞時が満32歳のときだから、それほど高齢とも思えないが、
従来の得宗と同様、自分も短命に違いないと、貞時は考えていたのだろうか?
当時の貞時の精神的な不安定さも背景に感じられる 韓国
日本は倭寇以来
アジアでは危険で野蛮な
海賊国と認識されいた。
元寇の際は、海賊退治に
フビライの力を借りて、
これを退治しようとしたが、
運悪く台風で失敗した。
現在、
日本政府は侵略と誤った
認識をしている。
アジアで古くから
悪い事をしていた
のは寧ろ日本人であり
倭寇である。
元々日本人は韓国よりも
知性も文化も歴史も
かなり劣る野蛮な海賊。
海賊討伐に失敗した
運の悪い、元の
不幸なモンゴル人
フビライというのが、
歴史の真実である。 韓国
日本人は恥知らず。
韓国様と中国様から、
漢字や宗教、学問
貿易まで教わったのにwww 民族的にも王朝的にも断絶してるけど中国って何?朝鮮って何?
恩のあった国には半分ぐらいは義理通しとるわ 韓国
知性が無い日本人www
サムスンとソニーどちらが
スマホ売れてますか?笑 アニョハセヨ!
日本人の皆さん、
明けましておめでとうございます!
ラリーでヒュンダイが
トヨタを潰しましたよw 日本のTVはトヨタに遠慮して
ニュースにしないのですか?笑 アニョハセヨ!笑
だとしたら不幸な事ですw
ヒュンダイ以下のトヨタには
頑張ってほしい!韓国から弱いトヨタ
今度、応援しますね!笑 それでは日本人の皆さんサヨウナラ!
アニョハセヨ!笑 >>246よりもさらに酷い記事が出てきたよおい…
北条時宗が使者斬り捨てたのが文永の役を引き起こしたってネットでよくみるデマやんけ
>権力の座に就いたクビライは、南宋攻略作戦を展開します。実は日本へのいわゆる「元寇」は、その一環としておこなわれたものでした。
>クビライが日本に宛てた国書の写しが残されており、それを読むと日本征服ではなく、日本との交易や外交関係の樹立を求めていることが分かります。
>南宋を孤立させて包囲するための政策だったのです。
>しかし、当時の日本の政治を担当していた鎌倉幕府の執権である北条時宗は、モンゴルからの使者を切り捨ててしまいます。
>これが「文永の役」(蒙古襲来)を引き起こしました。
【歴史】モンゴル帝国の衰退は寒冷化→免疫力の低下→ペスト大流行(パンデミック)→基軸通貨たる銀の不足 [かわる★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626936604/
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/292206 南宋から知識階級が日本に亡命してるし
モンゴルと敵対して当然でしょ
鎌倉の禅寺は時宗より少し前につくられたモノおおいんだぞ 南宋の坊さんは鎌倉北条氏の先生。南宋人は助けるに決まってるだろ。 鎌倉幕府は僧侶や商人を通じて、当時の大陸や半島の情報を入手している。
蒙古が当時大陸や半島でどんなことをしていたかを知れば、徹底的な対決姿勢を取るのは
当然だった。実際、壱岐と対馬で蒙古と高麗は暴虐の限りを尽くしている。
蒙古襲来について事実を無視して時宗を批判するおかしい学者がいるのは、大笑いだ。 神風が吹かなかったらどうなってただろうなw
あの後、元が日本に攻めてこなかったのも
日本が不戦勝の神国だと知ったためじゃなくて
それほど侵略意思がなかったからだろ 元寇の研究は殆ど行われてなかったからな。
だから、>>252みたいなコメントが出る。
元寇は、どっちみち、成功することはなかったと思うけどね、大陸軍は。
元の記録でも、モンゴルの将軍は正確に分析しているよ。無理だってね。
大型船を座礁せずに接岸できるポイントを完全に防御されていて、上陸すら困難。
渡海して戦わないといけなく、季節風や海流の関係で渡海時期が限られているとか
補給線が常に不安定で、兵站の確保が難しいとか、
日本は人口が多くて動員力が多くて、押し切れないとか。
日本は山岳地帯が多く地形の起伏が激しくて攻めにくいとか、
博多に上陸しても、日本の王都までの道のりが長くて、とてもじゃないけど
そこまで攻めあがれないとか >>253
馬鹿だな
やろうがやれまいが侵略する気があれば出撃する
普通に考えればやれっこない朝鮮出兵や第二次世界大戦を
日本は20世紀にいたるまで遂行したじゃないかw
元は侵略する気がなかったんだよ >>254
朝鮮半島と日本列島では進軍の難易度に大きな違いがあるだろう。
朝鮮半島の場合、地形的に一つの半島で、北上しやすいけど
日本列島の場合、九州、四国、本州があり、真ん中に瀬戸内海に島々が連なっていたりする。
人口も日本は半島の3倍だし。。。
元寇は2回あって、最初の侵略は、元軍の動員兵力は少なかったので、
日本征服の意思は少なかったけど。。。
2回目の侵略は14万の兵力なので、日本征服の意思はあっただろう。
でも、これで2か月間戦って、九州の海岸線すら突破できなかったんだから。。。
そうこうしているうちに食糧不足になり、ずっと船の上での生活で、船酔いに悩まされるし。。。 >>255
最初の元寇だって動員兵力は多いたろ。
蒙漢軍2万5000人と高麗軍8000人って同時代の普通の国なら余裕で征服できる兵数だよ。 >>253
東路軍と江南軍14万人が博多の防衛ラインを突破してモンゴル騎兵40万騎の上陸に成功していたら
時間はかかっても日本征服できた。
大平洋戦争のオリンピック作戦並みの大兵力なんだから。
クビライの日本征服プランはかなり現実的な作戦だよ。 当時の航海技術では馬の輸送ができないので、蒙古軍は主力の騎馬隊が使えなかった。
海上に浮かべた船から徒歩の兵士を小出しに博多の防塁に向かって突撃させる戦法では
大軍勢の実力を発揮することもできない。
江南軍は南宋人が主体で戦意が低かった(杉山正明によれば、南宋人を日本に棄民する
ための移民団であり、戦闘員ではなかったらしい)。
上陸できないまま合戦が長期化すれば、日本側の水軍による反撃、海上で長期生活する
蒙古兵の衰弱などで、蒙古側の戦力は低下する。
史実のように、蒙古・高麗側は壊滅するしかなかった。 騎兵40万騎ということは、馬も40万匹以上いるのか?
そんなに沢山の馬の餌とか用意できる訳なかんめえ 元軍の司令官は馬にのっていたらしいが。
数匹なら船で馬を運搬できたのだろう 元寇では、元軍は志賀島などに上陸占領していたらしいが。
元軍が用意してきた食料は、どれくらいもったのか気になるところ。
補給部隊が途中で来たとかは聞かない。
現地略奪して調達する予定だったのだろうけど。 >>260
船で馬を輸送するのが大変ってのは品種改良し過ぎで極端に脆弱になったサラブレッドの感覚。
馬の海上輸送なんて紀元前から普通に行われてる。
だから元寇の主力も当然騎馬部隊。
元は江南から博多までの中継地である済州島をわざわざ馬の牧場化してるじゃん。
クビライの対日戦略の中心に馬の運用があったことがよくわかる。 馬は輸送できても騎馬部隊の運用が出来るほどには送れないだろう
少数の馬でも偵察・伝令には有用だっただろうが
どちらにしても橋頭堡の確保を歩兵が行なってからになるかと 蒙古軍も馬は数的には日本に匹敵するくらいいた
ただし騎乗率は日本と違った可能性はあるのと
上陸戦闘した部隊が一部だった可能性はある
尤も馬の多寡は実際の戦闘経過で見るとさして重要ではない
端的に日本軍の戦闘意欲が強く大きな損害を出したため引き揚げに決した そもそも論として、3万程度の蒙古軍で
動員中の鎮西御家人を撃破するのは困難だった
幕府にとっては承久の乱あるいは元弘の乱のほうが
一刻を争う対処という意味でよほど脅威だった
蒙古は負け組の九州御家人主体で撃退しているからな >>267
蒙古軍の数は40万人だって
『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」 >>264
元寇の主力は騎馬部隊?
そんな訳なかんめえや >>269
現地に伝わる史料にも蒙古は馬に乗って戦ってたと書いてある。
八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル。」 洪茶丘のような指揮官は騎乗していたという記録がある。だが、騎馬隊による戦闘の
記録はなく、海上輸送した馬の数は限定的だったのではないか。
鷹島に10万余の兵を下船させたとき、降ろした軍馬は70匹だったという。
戦場が海岸線や島嶼に限定されたので、そもそも騎乗兵による力は発揮しにくい。
島嶼にこもった元軍は10万余いたとされるが、それだけの人数がいたにも関わらず
日本側の掃討によって壊滅している。 >>270
馬に乗っていた元軍兵士は数人はいただろうから、記録は間違いではない >>271
東路軍や江南軍に騎馬部隊がいないのは、水上戦闘部隊だからだよ。
他に40万蒙古軍という巨大騎馬部隊がいるのに、わざわざ東路軍や江南軍に騎馬部隊を
所属させるわけないじゃん。 モンゴル騎馬兵40万騎は、どこから現れたのだ?
空から来たのか? 大本営発表や日本書紀のように、公式文献に書かれていることが全て正しい訳ではない。 弘安の役では、元軍は東路軍4万、江南軍10万、合わせて14万と言われている。
元軍の退却後、約3万人が日本に置き去りにされ、処刑されたり奴隷にされたらしい。 >>275
弘安の役のちょっと前まで南宋征服に従事していたモンゴル騎馬部隊と、
中国河西地方に駐屯していたモンゴル騎馬部隊で編成したんだよ。
もと西夏国の河西地方は対カイドゥの最前線で、オゴデイやチャガタイの子孫たち所属の
モンゴル大軍団が多数あったからね。
『元史』巻十一 世祖八 至元十八年春正月癸亥
「賜征日本河西軍等鈔」 元々目的が宋人の世界最大拠点である博多の攻略だったから、弘安の役で上陸して八幡社である筥崎宮を焼失させたところで目的は達成出来たんだろう。 北条時宗の異母兄、時輔は時宗に殺害されたが。
大河ドラマでは、高麗に逃亡し、高麗の日本侵攻を手伝ったことになっている 文永の役の後、時宗は日本から高麗へ攻め込むことを空想したが、実現できなかった たとえ「40万蒙古軍の騎馬部隊」がいたとしても、日本まで海上輸送できないのでは意味はない
東路軍と江南軍が壊滅した時点で蒙古(元)の日本侵攻は潰えた 蒙古襲来に失敗
ベトナム
日本 弘安の役
蒙古襲来に成功後何もせずに帰った
ハンガリー
日本 文永の役など 3度目はどうやって攻めるつもりだったの?
今度こそ40万蒙古軍の騎馬部隊を投入して最後の決戦に持ち込む計画だったのか? >>285
武士に負けて1日で逃げ帰り1万3500余人の犠牲者出した文永の役なんて、
これ以上ないレベルの大失敗だろ 文永の役は蒙古襲来に成功してないし
偵察だったのかもしれないが、日本側に防備を備えさせることになったから失敗だろう 第三次日本侵攻計画には軍船の製造はあったが、騎馬部隊の編成・輸送はないな
ならば、公安の約の繰り返しだ 第三次日本侵攻計画では、モンゴル兵に水軍の訓練させて海戦に投入するつもりだった。
弘安の役では、東路軍と江南軍が制海権を確保できず、せっかく動員したモンゴル大部隊を
戦闘に使えないまま大敗したからね。
とにかく制海権を確保しないと話にならない。 高麗や元南宋の奴隷が嫌々で作った泥船を使い、やる気のない兵士が主力では、元が何回攻めてきても日本は負けないだろう
元が勝つとしたら、南北朝の時に、南朝か北朝のどちらかを味方にして便乗するくらいしかない 文永の役は筥崎宮を焼いた後、何もせずに四方を荒らして帰った。
中世の八幡社の役割なんてよく分からんが、これできっと目的である博多攻略が達成できたんじゃないかな。 >>295
文永の役で元軍に博多が攻略されたなんて史料は皆無なんだが。
その手前の赤坂で武士に負けて逃げ帰ってる。
元軍大惨敗。 どさくさに紛れて博多の町を放火したら勝ちなのか?
それなら、倭寇は大勝利を重ねたと見なされることになる。 今で言う華僑の大元締めが八幡社だったんじゃないかな。逆説でしかないが そもそも筥崎宮の火災って史料では蒙古の放火じゃなく内部出火だし。
筥崎宮は当時火災を連発してて、1265年に一度焼失して、再建したら1274年にまた燃えて、
再建したらすぐ1280年に焼失した。
火災原因を内部に抱えた状態だったんだよ。
史料で内部出火の筥崎宮の火災を無理やり蒙古が放火したことにして、それを根拠に
史料では戦闘で勝ってる武士を負けてたことにする。
こんなのまともな学問じゃない。 モンゴルが情報操作に長けているから、多くの史料は鵜呑みに出来ないんだろう。 元寇の研究はイデオロギーによって歪められてきた。
皇国史観においては、実際の戦果を過小評価して「神風によって勝った」として、「日本は
神国」という思想の根拠にしようとした。
戦後の偏向的研究においては、「蒙古が勝っていた」「武士が負けていた」などと戦果を
過小評価し、「蒙古による日本遠征」と称して侵略性を隠蔽することもあった。 >>268
その四十万、多分Wikipediaもそれ参考にして元軍の数を計算したんだろうけど、
他の部分では十四万となってるのみると、そこだけ十四を四十と誤字ったんじゃないかなあ >>302
弘安の役に参加したモンゴル兵の人数が40万人であったことは、全く別系統の史料でも
裏付けられてる。
鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌
「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。
晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、
在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。」
「韃軍」とは、旧南宋軍とかじゃなくあきらかにモンゴル軍だ。
その「韃軍」は半数が海に沈み、20万人が帰還できずに殺されたとある。
つまり「韃軍」=モンゴル軍の総数は40万人。 >>304
その帰還できなかった云々についても、やはり元史では10万人としてるよ >>305
元史日本伝に書いてあることは江南軍のことで、蒙古軍のことじゃないでしょ。
江南軍と蒙古軍は完全に別物なんだから。 元の手下となって日本に攻め込んできた元南宋の兵士は10万人くらいいたに違いない。
モンゴル人は、多分数千人だろう 「韃軍」とは韃靼の軍、つまりモンゴルの軍だ。
元南宋の軍を「韃軍」とは呼ばないな。 降伏したばかりの南宋人なんてモンゴル帝国最下層の人種じゃん。
南宋人がモンゴル軍になれるわけないだろ。 自国の禅僧などを通して情報戦をやってたくらいだから、カチカチ山の泥舟で元軍を沈められたんだろう。なんせ船は南宋の持ち船か高麗の船しかなかった。元が滅亡したきっかけの江南の反乱も扇動してそう。 そもそも、モンゴルは自前の海軍なんて持ってない。
まあ、モンゴル陸軍自体、被征服民たちとの混成部隊だけどな。
モンゴルは人口が少ないので、自前の軍隊だけでは動員力に限界がある。 高麗がモンゴルに嫌々作らされた舟は、まさに泥舟
間違いない
元南宋に作らされた舟は、よく分からんけど。多分少し大きな泥舟 10万もの大軍を上陸させようと思ったら、丸1日かかるらしい。
つまり、朝に上陸を開始しても、日が暮れても、全軍の上陸は不可能。
しかも、大型船が座礁せずに接岸できる港は限られている。
よって、蒙古襲来の時も、浜辺から遠いところに大型船を止めて
小型の船に乗り換えて、上陸を試みようとしたけど、
そこには日本の大軍が待ち構えており、弓矢のあらし。
常に兵力で劣勢な戦いを強いられてきた。 >>311
クビライに寝返った南宋の水軍提督の蒲寿庚って南宋滅亡前からクビライに寝返って
その時に南宋の宗室の虐殺もしてるくらいだし
旧南宋ってもこのあたりはクビライに忠実だったんじゃね
貿易商人でもあるからメリットもあるし >>313
高麗史の数字を信用するなら高麗の船の方が南宋船より帰還率高い 九州から朝鮮へ帰るのは簡単
九州から中国まで、壊れた船に敗残兵沢山のせて帰るのは大変だっただろう >>315
まぁ、調略は双方していただろうと。
表の歴史だけ見ると、宋側は最後の土壇場で大規模な連環の計を成功させたように見えるけど。 調略に関してはベトナムに使者を送って反乱起こさせた北条時宗がモンゴルなんかより数段上だな >>316
南宋の范文虎の水軍て長江守備の喫水の浅い川船だから、
大型で堅牢に作られてようと、高波には弱いから、
台風来たら一発浸水転覆だろう。 この人の早世と子供の少なさが北条氏衰亡の大きな要因だよね。 弘安の役では日本が勝ったと言うより元側が戦う気なくして逃げ帰った、と言う方がより正確。
当時、良くも悪くも天候を読み取る科学技術がなかったことが大きな要因だろうな。 当時の兵站から考えて、本気かそうでないか以前に、海を超えて支配権を維持できるかって微妙だよ。 今大河放送中だからそれ以外の北条も注目されてるのでは >>326
当時の兵站を考えたら、海を越えた方が船で大量の物資を輸送できるから有利になるよ。
北アフリカのイスラムだって海を越えてイベリア半島の支配権を数百年維持しただろ。 >>326
よくあるやり口は皇子を人質にすることだけど、
日本の場合は仮に朝廷の東宮が人質として元にとられても
幕府にとってはどうなんだろうな
幕府の都合で皇統を選ぶのはもう過去にやってるし >>332
モンゴルが朝廷と組んだら日本なんて簡単に征服されちゃうじゃん。
その国の権威を温存して征服するのはモンゴルの得意戦略。
朝廷は承久の乱で鎌倉幕府に恨みがあるんだし。
モンゴル軍が攻めてきたとき朝廷が幕府の方を朝敵宣告したら日本の防衛体制崩壊だろ。 >>333
そう考えるとよくみる一旦従属すればよかった論はダメそうだな
一旦従属する→皇子を人質に出すになったらもう
元から無理難題があってやっぱり逆らおうとなっても
人質とられた朝廷との間に軋轢が生まれるし 北条氏って戦国時代の武将に比べるとそれほど高い評価は受けていないな。時宗は18のときにフビライに対して強気な態度を崩さなかったことで日本存亡の危機を乗り越えたという大きな功績がある。なのに教科書ではそれほどページが割かれてない 得宗は殺し合いに至るまでの導火線がいくらなんでも短すぎるので、摂家の方がまだ平和そう。
歴代当主で粛清してない奴いないし、なにか一族の気質というか宿痾のようなものを感じる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています