邪馬台国北部九州説の雑談用(伊都が首都だっちゃ)
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>>498
伊都国説スレにふさわしいトンデモですね! 東京から北海道までの最短距離だと 640キロ弱
玄関口の函館までだと 680キロ弱
中心都市(道都)の札幌までだと 830キロ
最遠の稚内だと 1100キロ
道央の真ん中辺までで 900キロ
東京から北海道までの距離は、640キロから1100キロまでの幅がある
これを100キロ単位の丸めた数字で表現すると
東京から北海道まで900キロくらい となる
起点・東京より、北海道に至るに900余粁
自郡至女王國萬二千餘里
自東京至北海道九百餘粁 東京から北海道まで900キロといっても、札幌までの距離は計算できない
それと同じで、帯方郡から女王国まで萬二千余里といっても、
邪馬台国までの距離は計算できない 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
北海道の例えだと、最短距離の640キロと、中心までの距離の830キロが明記されていることになる。 >>510
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
三国志の魏書東夷伝韓条はちゃんと読んでるかい?
そこの弁韓、辰韓の一覧
已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、
弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、
弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國、馬延國、
「弁辰狗邪國」、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、馬延國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國
この、最後から7番目の「弁辰狗邪國」が、狗邪韓国だよ
ちゃんと韓の中の国だ
だから、「倭国の西北界である」狗邪韓國、は誤り >>510
>その国(邪馬台国)から一万二千里である。
これも、誤訳、というか誤解釈
その国は「倭國」だよ
魏志倭人伝の「女王国」にあたるもの
「北海道」であって、「札幌」ではない >>511
>だから、「倭国の西北界である」狗邪韓國、は誤り
後漢書に文句言えよ。 >>512
そっちこそ誤訳している。
倭国の国境は楽浪郡から七千里の狗邪韓国だ。
後漢書を読み直せ。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
倭の王都が邪馬台国であり、楽浪郡から一万二千里、倭の西北界は狗邪韓国であり、楽浪郡から七千里だ。
ちなみにこれは魏志倭人伝とも一致していて、対馬海峡が三千里なので楽浪郡から一万里で九州北岸に達している。
これはいわゆる短里で書かれていることに相当する。 >>513
>後漢書に文句言えよ。
去其西北界拘邪韓國七千餘里の「西北界」は「西北の境界」であって、
倭国の内部じゃないって言ってるんだよ
後漢書がおかしいんじゃなくて、その解釈がおかしい >>514
>倭国の国境は楽浪郡から七千里の狗邪韓国だ。
狗邪韓国までが韓で、そこに国境があるが、狗邪韓国は韓側ってだけだろ?
何を訳の分からないことを言ってるんだ? >>515
>これはいわゆる短里で書かれていることに相当する。
これがうそ
単なる誇張
「范曄が5世紀に書いた後漢書」の元ネタは、「西晋の華嶠が書いた後漢書(漢後書)」
晋の時代のものだから、晋の高祖司馬懿の功績が盛ってある >>517
狗邪韓国は倭国側だろ。
狗邪韓国が韓国側なら、朝鮮半島内に国境を想定する意味がそもそもなくなってしまって、意味不明になる。
楽浪帯方から倭の国境まで七千里、王都まで一万二千里なんだよ。 >>519
>楽浪帯方から倭の国境まで七千里、
伽耶諸国と対馬の間が倭と韓の境で、そこまで楽浪帯方から七千餘里
何も問題ないだろ? 『三国志』「魏書」東夷伝韓条では、
韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。
韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。
辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある。
とあり、韓と倭が接する(陸続きである)と記述している。
また、狗邪韓国は韓伝に含まれず倭人伝に含まれている。
狗邪韓国は倭国の一部である。 >>522
>とあり、韓と倭が接する(陸続きである)と記述している。
「接」は陸続きとは限らないよ
単に隣ってだけ
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 その倭は、帯方東南大海中と書いてあるから大丈夫だろ
「帯方と地続きの倭」はどこにも書いてない >>515
>楽浪郡から一万里で九州北岸に達している。
単に、倭国の朝貢を大事件にするために、「万里の修交」にしたかったんだよ
要するに数字が盛ってあるだけ
>これはいわゆる短里で書かれていることに相当する。
だから、短里なんてないんだよ
プサンー対馬
対馬ー壱岐
壱岐ー唐津 の3つの渡海は等距離じゃないけれど全部千里にされてるだろ?
実測地じゃないし、作った数字
短里なんてないんだよ あいかわらず、過疎ってるなw
伊都国説の人間なんて、ほとんどいないってことだろ? そうだね
畿内纒向が王都で、その都が置かれた場所がヤマト国=邪馬台国ってのは
もう議論の余地もなく確定だよな! じゃあ、このスレはもう要らないってことでいいのかな? 魏志倭人伝には邪馬壹國(=ヤマイ)と書かれておる。
同じく
魏志倭人伝でのヤマト=大和とは大倭と書かれておる。(交易市
各地から大型倉庫が見つかっておるのだが、
その中でも大市が出土したのはどこじゃったかの? >>533
>邪馬壹國(=ヤマイ)
上代日本語で、母音の連続はなかったとされている
ヤマイというのは、当時の日本語(倭語でもよいけれど)として不自然 同じ理由で、「やまたい」もない。
やはりヤマトしかない。
そしてそれは上古においては筑紫の別名であったのだろう。 >>536
>そしてそれは上古においては筑紫の別名であったのだろう。
筑紫が大和と呼ばれたという、名残も伝承も痕跡もないんだ
九州の上古における呼び名が筑紫ってだけだろ 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>539
>佐賀大和があるよ?
その大和(村)は、春日村・川上村・松梅村の合併でできたものなんだが?
字レベルでも大和の地名はなさそう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%BA_(%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C)
古代に遡れる地名ではないだろ? >>541
嘘つくなよ
2004年(平成16年)12月までに大和町と佐賀市・諸富町・富士町・三瀬村の1市3町1村の合併が各議会で可決された。
もともと大和町があるじゃねーか。 大和町はともかく、
川上村の「川上」は、古代から居を構えるのに優れた土地として有名。
古代豪族の住処といえば、「○○川の川上」というのが、お決まりのフレーズだからな。 >>542
みるとこ間違った。うそつきよわばりしてごめんなさい。申し訳ない。 >>542
>2004年(平成16年)12月までに大和町と佐賀市・諸富町・富士町・三瀬村の1市3町1村の合併が各議会で可決された。
>もともと大和町があるじゃねーか。
ウィキペディアのURLも記してあるんだから、調べてから書き込みなよ
その、2004年(平成16年)12月まで存在した大和町が「できた」のが、明治の
「春日村・川上村・松梅村の合併」で、それまでその辺に大和の地名がないんだよ >>545
指摘が間に合わなかったw
理解してくれればOK >>543
>古代豪族の住処といえば、「○○川の川上」というのが、お決まりのフレーズだからな。
でも、筑紫の辺りが大和と呼ばれた過去はないだろ? 肥前国風土記・・・佐嘉郡
また別の者が云うには、佐嘉郡の西部に佐嘉川(現在の嘉瀬川)という川があり、年魚(鮎)がおり、北方の山から南方の海へ流れ出ていた。
その川上には「荒ぶる神」が居て多くの人々が亡くなっていた。これを鎮めるため、県主の祖の大荒田は占いを問う・・・。
川上の由来はなかなかのものだが、
大和町の名は、近年の町村合併の所産らしい。
とはいえ、この名前を付けた人は、相当の歴史通だったのだろうな。 >>549
>大和町の名は、近年の町村合併の所産らしい。
近年の町村合併言うたら、通常は昭和の大合併か、平成の大合併だと思うだろ?
明治の市町村制導入に伴うもので、通常の感覚では近年ではない
>相当の歴史通だったのだろうな。
こういう地名を付けるのは、合併する村の中で中心となるべきところがなくて、
お互いが譲らないときと相場が決まっているんだが? 倭が日本語のヤマトに相当するなら、後漢書によれば博多湾沿岸の倭奴国を含む対馬海峡こそヤマトになる。 昭和30年(1955年)
>4月16日 - 春日村・川上村・松梅村が合併して「大和村」が発足。(2町5村)
そもそもは、大和村として発足したらしいな >>551
>倭が日本語のヤマトに相当するなら、後漢書によれば博多湾沿岸の倭奴国を含む対馬海峡こそヤマトになる。
倭とヤマトは語源が別だよ 佐賀の大和町は古名ではなく
関係するような古地名もないので
邪馬台国と繋げなくてよい。
佐賀市大和町住人より >>555
タブーじゃないが、邪馬台国の墓制ではないと思う。 >>553
>どう別なの?
見たまんま、倭は大陸の言葉、ヤマトは大和言葉
倭は、論衡が初出だけれど、百越の流れの海人集団を倭と呼んでいるように読める
これが、日本列島の人々にも「流用」された言葉 この部分、推論交じり
ヤマトは、河内とセットでおそらくは山外が語源
大和川でつながる、生駒山地の西側が河内、東側が山外なのだろう
この部分も、推論交じり 邪馬台国は3世紀だけで
4世紀以降はまた倭国に戻る。
邪馬台国はその後どうなったんだ? 倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して倭国王争いをして
邪馬台国が勝ったから狗奴国を九州して
倭国再統一されたんだろ。 その後も何度も内紛はあっただろうね。
卑弥呼と壹與の間の男王の時も乱れたらしいし。
壹與の次はもう4世紀の神夏磯姫の時代になり、景行天皇が九州で暴れる。
その次はヤマトタケルの時代だし、次に神功皇后が暴れるだろ。
それで4世紀が終わるんだよ。 神夏磯姫=壹與
邪馬台国の支配権は景行天皇へ奉還。
景行天皇が狗奴国を滅ぼす。
ここで統一。
神功皇后は世代が別。 神夏磯姫は筑紫にいて、小倉まで出てきていたよね。
肥前河上の壹與とは少し違うと思うんだ。
壹與が肥前にいたのは、その時点で既に肥後狗奴国は再統一できていたからだと思う。
あと、景行天皇は実は倭王ではないと思う。
あくまでも三種の神器を持っていた神夏磯姫が倭国女王だ。
その手のひらで転がされていた将軍といったところだな。
田油津姫は神夏磯姫の末裔(孫?)とのことなので、4世紀末に神功皇后が邪馬台国女王の系譜を倒して、応神朝(八幡様)の世となる。 >>557
北部九州〜日本海or瀬戸内海〜畿内という経路。
日本海の四隅突出も
瀬戸内海の楯突も
積石墓なのに、倭人伝に書かれていない。
陳寿は各地の墓制に強い関心を示していて、
例えば高句麗の積石墓なども記載されているのにね。
つまりそういう意味でも、
倭国とは積石墓の領域を含んでおらず、積石墓はせいぜい東の倭種で、
倭人領域は北部九州の土塚の墳丘墓のみ。 熊本の稲作が盛んになった記録は7世紀のもの。
王墓は4世紀以降。
鉄器が生産できても北の邪馬台国と敵対したら原料が途絶える。
要するに3世紀の熊本一国だけでは敵対できない。
3世紀先進地域の福岡県そのものが南北に割れて戦わない限り
一瞬で決着がついてしまう。 免田式土器など邪馬台国時代の流通は
筑後肥後を動き回っている。
弥生時代の硯出土分布や
甕棺墓分布などを見れば、
福岡県から佐賀県にかけての領域が突出して栄えており、
伊都王墓群を中心とする北部邪馬台国勢力に対抗するには、
筑後平野の勢力ぐらいが指導しなければ相手にならない。
吉野ヶ里が衰退したり、
平塚川添が鉄器を全回収して廃棄されたりしているわけだが、
弥生熊本一国がやったにしては荷が重すぎるだろう。 >>566
>熊本の稲作が盛んになった記録は7世紀のもの。
延喜式のことなら10世紀だぞw >>559
>邪馬台国は3世紀だけで
>4世紀以降はまた倭国に戻る。
その認識は間違い
3世紀の卑弥呼も「親魏倭王」であって「邪馬台国王」ではない
国号としてはずっと倭国のままだよ
邪馬台国は、倭国の中の女王の都が置かれた場所の、ある意味「地名」 >>565
>積石墓はせいぜい東の倭種で、
九州説の人はすぐ「東渡海千里皆倭種」に頼るけれど、
九州と本州の間は幅600メートルの関門海峡しかない
九州説の人は短里が大好きだけれど、関門海峡は短里でも10里もないよ
長さ60センチの1歩よりも短い超短里で渡海千里にするの? >>570
>国号としてはずっと倭国のままだよ
その認識は間違い
列島側は国号として「倭国」は使ってない
倭人が作った邪馬台国、伊都国・・・の連合政権だね 列島側が使っていなくても、大陸側の認識はずっと倭であり、
倭の領域の倭人の国が倭国 対外的な国号では、倭、日本、しか使ったことはない。 >>572
卑弥呼の印璽は親魏倭王だよ。
国号は倭だ。 倭王は倭国の王の意味だよ。
魏王とか漢王とかで魏や漢が国号ではないとかいうバカがいるのか。 当時、倭が列島の国号だったという根拠は何かあるのか 国号と王権を承認するのが冊封だから、当時の東アジアにおいては一番の根拠だよ。
しかも漢も魏も金印を用いている。
これ以上の根拠はないよ。 >>567
免田式土器など邪馬台国時代の流通は
筑後肥後を動き回っている。
弥生時代の硯出土分布や
甕棺墓分布などを見れば、
福岡県から佐賀県にかけての領域が突出して栄えており、
糸島平野と福岡平野の勢力に対抗するには、
筑紫平野各地区全体の勢力ぐらいが指導しなければ相手にならない。
吉野ヶ里が衰退したり、
平塚川添が鉄器を全回収して廃棄されたりしているわけだが、
これは筑紫平野内各地域(佐賀平野、筑後平野、北野地域)の抗争結果であろう。 >>588
列島側が「倭国」と称していた根拠を示せばいいだけなんだが 訳の分からない意地を張っている人がいるが、もとは>>559の
「邪馬台国は3世紀だけで
4世紀以降はまた倭国に戻る。
邪馬台国はその後どうなったんだ?」
だからな
日本側も大陸側も、邪馬台国を国号としたことはない
以上
で終わりなんだよ >>592
>それは押しつけられただけだから
朝貢ってのは、呼ばれもしないのに押しかけていって、
たくさん土産をもらってくること、なんだよ? 理解してるか?
>>592は、何を主張したいんだ?
自分は間違ってないって言いたいのかい? >>592
押し付けられようが、それを受け入れて外交をしているのだから、呼称していたということになる。
わけわからん議論はやめろ。 >>585
ですね。
基本的に、半島南岸〜壱岐対馬〜伊都の支配者が圧倒的。
鉄を初めとする海外交易の全てを支配し、
対馬海峡の渡海技術を独占しているから、
一方的に攻めることは出来て、逆に攻められる心配は皆無。
ヒエラルキーとしては、
対馬海峡支配者(邪馬台国)>>>北部九州倭国の他勢力(狗奴国)>>(倭国の壁)>>東の本州倭種>>>>>毛人 >>576
漢委奴国王と同時期に匈奴がもらったのは、匈奴単于璽だったね。
個人に授けているように見えるけれども、
この金印は後に回収されているわけだから、
回収するということは、個人じゃなくて、代々効力を発揮するものだから、
わざわざ回収したということ。
匈奴は国家名というよりは民族名。
全世界が統治国家で満たされて国境線が画定された
現代の我々は、国家と領土国境線の白黒つけるのが常識に思えるけど、
弥生時代だとまだ統一国家が少なくて、朝鮮半島も日本列島もバラバラ。
未開の地域すら広大に広がる。
イメージとしては、一つの民族(政権集団)の支配領域が、周辺の小集団との兼ね合いで、
数年ごとに膨張したり収縮したり分裂したりしている。 いや、倭種って言葉の意味がずれてるんだってば!
魏志「倭人」伝ってのがどういう意味か、きちんと理解して!
「倭種の人」=「倭人」だよ!
そして「倭人の国」=「倭国」だ
「倭種」だから「倭国ではない」というのは最初から見当違い
そして、関門海峡しか隔てのない九州ー本州間を渡海「千里」というのも無理がある
畿内を倭国から切り離したいという「九州説の勝手な都合」は分からないでもないが、
所詮無理筋 >>601
間違っている。
現代の国家観に引きずられているね。
日本列島が統一された奈良時代以降なら、それでいい。
しかし弥生時代は、
北部九州くらいは倭国と呼べるかもしれないけど、
東方倭種や半島南岸は、倭王の支配下にあっても、
現代の感覚のような同一国家として運営管理されていない。 倭種だから倭国じゃないだろ。
そもそも鉄器ゼロの毛人の地だし。 >女王國東 渡海千余里 復有國皆倭種
邪馬台国から東に渡海して千余里で、倭種の国。
おわかり?
北部九州邪馬台国に豊前地域は含まれない。
女王國(宗像のちょい手前が境界)から東に渡海したら千余里で本州だよ。 考古学的に文化が断絶しているじゃないか。
>鉄器豊富倭人>鉄器保有倭種> 鉄器ゼロ毛人
>土塚倭人>積石墓倭種>巨大古墳
>銅矛倭人>銅剣倭種>銅鐸毛人
>硯大量倭人>硯少量倭種>硯ゼロ毛人
>中国朱倭人>>国産朱毛人 >北部九州邪馬台国に豊前地域は含まれない。
>女王國(宗像のちょい手前が境界)から東に渡海したら千余里で本州だよ。
これ何度も言われてるし、其の余の傍国でもいつも宗像地域が入らないのが
九州説内でも議論になってるのに、
キナイコシは北部九州倭国に紛れ込もうと必死だなw そもそも魏使が伊都までしか来ていないからな。
(奴国弥生銀座の圧倒的都会の描写なし)
伊都で目的が果たせた=卑弥呼と外交交渉した
ということだ。 「キナイコシ」さん、今日はこちらでご活躍ですか
デマ広宣活動に、精が出ますね! >>602
>間違っている。
>現代の国家観に引きずられているね。
現代の国家観に引きづられているのはそっち!
>現代の感覚のような同一国家として運営管理されていない。
これなんてまさに、「現代の国家観」じゃないか
古代の国は「運営管理w」なんてしてないよ!
首長同士の連帯が、当時の倭国の実態だし、その連帯は「倭人=倭種の人」の
範囲に広く張り巡らされていた
それを認めると、弱小勢力の北部九州には倭王が縁遠くなるから、本州を
倭国の枠外にどうにかして切り離そうという足掻きが、
「倭種は倭国じゃない」という誤読 >>609
>そもそも魏使が伊都までしか来ていないからな。
恥ずかしくならない?
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
とはっきり書いてあるのは、なかったことにするんだww 鉄器大量消費
なにもかも満ち溢れた北部九州がなんで弱小なん?w
考古学を馬鹿にしてる?
東方倭種はまだ北部九州倭国の範疇に含めても
200回近く発掘して鉄器ゼロの毛人は北部九州倭国と同じ国じゃありませーんwww >>612
里程と旅程の並列表記。
見聞録は伊都まで。
恥ずかしくならない? 隋書によると筑紫国の東に秦(ハタ)王国があると書かれている。
八幡神社総本社の大分の宇佐神宮を中心とした地域であろう。
ここから東千里(80q程度)の倭種ならば四国を想定するのが妥当ではなかろうか。 四国なんざどうでもいい。
倭種は日本海沿岸。
後には稲部遺跡からの畿内。 >>611
>首長同士の連帯が、当時の倭国の実態だし、その連帯は「倭人=倭種の人」の
>範囲に広く張り巡らされていた
連帯はしていただろうけれど、倭国と呼べるのは、金印をもって冊封された博多湾沿岸の倭王が統べる土地だけだよ。 んだな。
邪馬台国女王国から東に千余里で本州の倭種。
邪馬台国が狗奴国を倒して北部九州倭国再統一だぜ。 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 女王国以遠を里程表記している時点で、
女王国までの説明が里程+日程の並列であることが明らかだな。
〇里程(+日程並列)→さらに里程
×里程→日程→里程 (錯乱w) >>620
>200メートル以上の前方後円墳33のうち
>24は陵墓指定されておらず
これ、どこから拾って来た情報だ?
ウィキペディア見ると200メートル以上が33と書いてあるが、
このページの情報だけで、そのうち10基が天皇陵治定されているし
皇族墓も入れれば17が陵墓指定されていて発掘できない
残りは16になるはずだが?
相変わらずいい加減なゴミ情報を何度も書き込むばかりだな >>621
>女王国以遠を里程表記している時点で、
>女王国までの説明が里程+日程の並列であることが明らかだな。
相変わらず九州説の根拠は、倭人伝の無理読みのみだな
並列だったらそう読むように注記がなければ読めない
で、そんな注記はないんだから、並列読みは無理読み
史書は、暗号書でも判じ物でもないんだから、普通に読めばいいんだよ
邪馬台国は伊都国や奴国から水行陸行合わせて2ヶ月かけて行く遠地の別の国
倭国の中に邪馬台国があってその中に伊都国や奴国があるなんていうのは、
戸数も矛盾する二重帳簿詐欺 伊都や奴国などというのは
漢代楽浪郡史が里程を測定した頃の地名。
魏使が来た時は投馬国→邪馬台国で到着。 >>624
>魏使が来た時は投馬国→邪馬台国で到着。
だったら、投馬国が邪馬台国より南だったらおかしいよな?
北部九州が邪馬台国で、投馬国が宮崎は無理だ
さらに半島南部が投馬国はもっと無理
北部九州説では、どうしたって投馬国の否定に無理が出る 投馬国は邪馬台国より北だろ。
半島南部が投馬国だ。 >>623
伊都国、奴国で里数の合計が12000里を超えているから注記なんて必要ないよ。 漢代は狗邪韓国
魏代は投馬国
晋代は任那
鉄原料を入手 >>629
>伊都国、奴国で里数の合計が12000里を超えているから注記なんて必要ないよ。
今どき、島巡り仮説を採用する気か? >>627
>半島南部が投馬国だ。
半島南部は韓地
狗邪韓国は、魏使東夷伝韓条の弁辰12国の中に弁辰狗邪国としてきちんと載ってる
半島南部は小国小集落が割拠する状態で、戸数五萬餘戸の投馬国が入る余地はない >>628
>投馬国は宮崎都万
投馬国は邪馬台国より北
投馬国を宮崎都万にするなら邪馬台国は鹿児島で 狗奴国が置けなくなる >>631
島巡り仮説にを否定する理由や根拠は無いですよ
倭人伝の行程の書き方なら島巡りを入れるべきですよ。 >>633
狗奴国かい
それっはだね、熊本緑川の南で、宇土・宇城・御船・甲佐・八代だ
塚原古墳とか、宇土・宇城の女王大古墳とか
なかなかの場所さ >>635
それは、東鯷人二十餘國(島原湾沿岸 八代海沿岸)
狗奴國は、緑川北岸以北の白川流域と菊池川流域の地域。 >>636
>東鯷人二十餘國
東鯷人まで九州にしちゃうのか!
さすが、トンデモは行き着くところを知らない! >>632
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接」
韓の東西は海で南は倭に接している
弁辰に「其瀆盧國與倭接界」とあり弁辰の瀆盧國は倭と境界が接している
狗邪韓國は倭人伝に書かれており韓伝には記載がない
弁辰狗邪国は単に名前が似ているだけで別の国である、同じ国だとの証拠は無い
狗邪韓國は倭人伝に書かれているのだから倭の国である
半島南部の国邑の比定は困難であり分かっていない
戸数五萬餘戸の投馬国が入る余地は十分にある。 >>639
>弁辰狗邪国は単に名前が似ているだけで別の国である、同じ国だとの証拠は無い
>狗邪韓國は倭人伝に書かれているのだから倭の国である
弁辰が、韓条に書かれているのだから、弁辰諸国は当然に韓の国
弁辰狗邪国は弁辰狗邪国を名乗ったわけではなく、弁辰の狗邪国だ
そして、弁辰は韓のサブセットなのだから、狗邪国は韓の狗邪国であり、
一言で言えば狗邪韓国となる
>韓の東西は海で南は倭に接している
>弁辰に「其瀆盧國與倭接界」とあり弁辰の瀆盧國は倭と境界が接している
海を隔てて、接していても、「接」と書かれるよ
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
韓の東西は、沖合いにも国がないから、海なんだよ >>639
>半島南部の国邑の比定は困難であり分かっていない
>戸数五萬餘戸の投馬国が入る余地は十分にある。
入る余地はないよ。
南岸はリアス海岸で、そもそも平野が少ないから否定が難しいんだ。
5万戸は入らない。 >>640
>一言で言えば狗邪韓国となる
根拠のない独善的な主張ですね。
>韓の東西は、沖合いにも国がないから、海なんだよ
韓の西の沖合いには魏があるだろ
その解釈だと韓の西は海を隔てても魏と接していることになるよ。
>>641
半島南部の国邑の位置が分からないのに入る余地はないとか言えないよ。 >>642
わからないんじゃなくて、わかりたくないんだろ? >>642
>韓の西の沖合いには魏があるだろ
>その解釈だと韓の西は海を隔てても魏と接していることになるよ。
>>642の「沖合い」って、どこまでだ?
アメリカは日本の沖合いなのかい? >>643
実際に分からいだろ
ここは〇〇国ですなんて出土品ないからな。
>>644
3世紀にアメリカがあるなんて知られていないだろ
都合よく「沖合い」なんて使うなよw なんでも分からないことにすればトンデモ説は言いたい放題で便利だろうな
でもそれ、一般読者から馬鹿にされるだけだけどな 三方が海で南に倭があるなら「韓在帶方之南 東西南以海爲限 倭在韓之南」 とか書くはずだな
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接」 とかどう読んでも東西が海で南は倭と地続きだな。 >>646
分からいことを分かってるとか嘘吐くなよなw >>645
>都合よく「沖合い」なんて使うなよw
都合よく「沖合い」を使っているのは
>>642=>>645だろ
>韓の西の沖合いには魏がある
>>647
だ・か・ら、半島南岸から対馬は天気のいい日には見えるんだよ
そういう距離感なら、海を挟んでいても「接する」と書かれる
黄海の向こう側は、とても接する距離じゃないだろうが! >>640
訶陵國(シャイレーンドラ朝)はマレー半島も支配下に置いていたので真臘(カンボジア)とは陸続きで接してたようですが?
接はやはり陸続きにしか使われないですね。 >>650
唐会要のこれは読んだことないのかな?
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
倭と百済は地続きですか? 倭と越州は地続きですか? >>651
唐会要だけど浙江省を越州とあるから607年以前の記事を基にしてるな
当時、倭は任那を領有してたから百済とは接していました
越州は南でもないし接してもいませんね
何かの間違いでしょうね。 >>652
>当時、倭は任那を領有してたから百済とは接していました
はい「北限大海」
任那を領有しているから百済と接するというのが、
詭弁だというのは簡単に示せますね 調べたら相接は接するじゃなくて連なるって意味らしい
南に越州に連なる、西南諸島のことかな? >>653
倭(九州)の北は海がある
同時に百済とも倭は任那で接している
何の問題もない。 >>649
>そういう距離感なら、海を挟んでいても「接する」と書かれる
それは接するとは言わないよ。 >>651
>倭と百済は地続きですか? 倭と越州は地続きですか?
半島南部を倭が領有していたということでしょう。
それをなぜ畿内説は必死に否定しようとするのか。 >>658
607年以前ですから、607年に任那が存続してるとか言ってないよw >>655
>倭(九州)の北は海がある
>同時に百済とも倭は任那で接している
>何の問題もない。
おいおい、詭弁のレベルすら下がってきてるぞ
任那が倭だとするなら、倭の北限は大海にならないから「北限大海」 に矛盾する
倭の「北限大海」なら、任那は倭の中に入れられていないことが明らか
ならば、百済と倭は陸続きでは接しないだろ?
間に海があっても、「接」で表現するんだよ >>661
>間に海があっても、「接」で表現するんだよ
無茶 >>662
>無茶
>>662の個人の感想は、何の意味もないんだって!
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
山東半島と遼東半島が地続きとか言わないよな?
唐会要の百済と倭も、陸続きじゃないのは反論できないだろ?
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接は
>>650で
「訶陵國(シャイレーンドラ朝)はマレー半島も支配下に置いていたので真臘(カンボジア)とは陸続きで」
とか言ってるけど、ここで書かれている訶陵國は「南方海中洲上」の島国だし
婆利=ブルネイや、墮婆登=スマトラ辺りの島とも、陸続きってのは無理だろうに >>650
>訶陵國(シャイレーンドラ朝)はマレー半島も支配下に置いていたので真臘(カンボジア)とは陸続きで
マレー半島とカンボジアだったら、
「北」與真臘接にはならないだろ?
これは、ジャワ島辺りの訶陵國が、海を挟んで北の真臘と接してるんだよ 横からだけど、これ理屈がわかれば、
正直、本当にどうでもいい誤字なんだよね……
https://dotup.org/uploda/dotup.org1611256.png
自分的には随分前から
ここが誤字だと気付いてたもんで、今更感がある >>663
>山東半島と遼東半島が地続きとか言わないよな?
地図見ろよ陸続きだろ。
>唐会要の百済と倭も、陸続きじゃないのは反論できないだろ?
思い込みw
訶陵國(シャイレーンドラ朝)は「南方海中洲上」の島国だけど領土はマレー半島まで及んでいたから陸続き。
>>664
真臘(カンボジア)の領土もタイまで及んでいたんだよ
領土は広がったり狭まったりしてる。 >>666
>地図見ろよ陸続きだろ。
陸上では接してないだろww
間に、漁陽郡、右北平郡、遼西郡と挟まってて、接していない
半島同士が渤海海峡で向かい合って接してるんだよ
もう無理だよ
>>666の言うことは通らないw >>665
読んだけどただのトンデモじゃん
瀆盧国は通常、巨済島の国とする
弁辰12国と接する国、なんてことはないよ >>666
>領土もタイまで及んでいたんだよ
それでマレー半島の国と接していたら、「北」與真臘接ではなく「東」與真臘接になるだろ?
もう詭弁にすらなってない
間違いは素直に認めなさい https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%B8%88%E5%B8%82
>古来、巨済島は日本と朝鮮との交通の要衝であった。
>市の公式サイトでは、三韓時代の弁韓の一国で
>「倭と界を接す」と記された瀆盧国を歴史的淵源に求めている。
>もっとも、瀆盧国の比定地には諸説あり、巨済島とする説は定説ではない。 >>669
>それでマレー半島の国と接していたら、「北」與真臘接ではなく「東」與真臘接になるだろ?
マレー半島付近で接していたら、「北」與真臘接で合ってるでしょう??? >>671
そうか、こういう方面からだと話をそらされるのか
そもそも、カンボジア(の前身)がマレー半島まで進出するのは真臘のあとの、
クメール王朝(中国語で高棉)の頃
それよりも、大陸史書・会要での、地理記事は、国の中心を基準に記述する
だから、真臘は今のカンボジアのトンレサップ湖の東の辺り、訶陵國は
ジャワ島の国
普通に海を挟んで、南北に接していると書いてあるだけ >>670
>巨済島とする説は定説ではない。
定説ではないけれど、多くの人が巨済島とするのが妥当だとしているよ >>672
8世紀頃にはジャム湾岸の真臘へ陸伝いにジャワ人やマレー人が進出してたんだよ
訶陵國はジャワ島からスマトラ、マレー半島を経てカンボジア近くまで支配してたんだから
陸で接してたの海を挟んでたら接じゃないだよ
解釈が強引だな。 外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
陸上では接してないだろ
間に、漁陽郡、右北平郡、遼西郡と挟まってて、接していない
半島同士が渤海海峡で向かい合って接してるんだよ >>674
>解釈が強引だな。
>>674は無理筋の詭弁だけ >>675
>外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
でもこの文は例文にならんだろ? >>677
なりますが、何か?
ならないというならならない理由を具体的に書いてください
そして、唐会要のこれだけで、海をはさんで接すると書かれることをしますには十分だろ
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接 >>679
つ 欲附山東、外接遼東、得戎馬之利、建樹根本、孤立一隅、不與共也。
なるだろ? >>679
逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? >>673
とりあえず、定説ではないし
むしろ倭国と接するの記述以外に
根拠ないレベルじゃん
指示してる人の割り合いだって不明だし 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? >>686
>意味も分からずにあげてるの?
意味も分からずにこんな書き込みしてるの
↓
>でもこの文は例文にならんだろ? 逆質問で返してごまかさずに、>>678の
「ならないというならならない理由を具体的に書いてください 」にまずは答えようか? >>688
あなたはかなりのクズ野郎とお見受けする
>>665のhttps://dotup.org/uploda/dotup.org1611256.png のトンデモに比べたら
瀆盧国の比定地として巨済島を考えるのは普通 だいたい
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接に出てくる
「訶陵國」「婆利」「墮婆登」「真臘」の位置関係を考えたら、
海を渡って接するのは、一目見て間違いがないだろうが!
「真臘」が、マレー半島まで領土を伸ばした時期があるとか言っても
島が別の「婆利」「墮婆登」とも「接」と書いてあるんだから、諦めな >>692
いや、そもそも巨済島が
比定地としてかなりの根拠があるなら
こちらの説の否定にもなるけど
無いんなら、それは否定材料にならないってだけの話 「婆利」・・・バリ島
「墮婆登」・・・スマトラ島西部
訶陵國と陸で接していたんだろ。 >>693
接を海をまたいで良いなんて主張するくらいですから漢文読めないんですね。 >>695
>「婆利」・・・バリ島
バリ島は小さすぎるし、大陸王朝と交流できるだけの勢力はないよ
現状、ブルネイ辺りのカリマンタン島の西岸に比定地を求めるのが通説
どうやっても地続きにはならないよ
まあバリ島でも地続きじゃないけどさ >>696
>接を海をまたいで良いなんて主張するくらいですから漢文読めないんですね。
どうして九州説は間違いを認められないかねぇ
民族教育の結果かい? 「婆利」をググって、やっと無理だと悟って消えたかな
どうして、簡単に確認できることを確認もせずに、面倒な言いがかりをつけてまで
自分の間違いを認めずに突っ張ろうとするんだろうか >ブルネイ辺りのカリマンタン島の西岸に比定地を求めるのが通説
これどこの情報
「婆利」はバリ島が定説のようですけど
論理的に説明しないと言い張るだけでは相手されないよ。 >>702
まだがんばるのか?
いいかげんに諦めな
现文莱国旧称。文莱达鲁萨兰国位于加里曼丹岛北部,北濒南中国海,东南西三面与马来西亚的沙捞越州接壤,
并被沙捞越州的林梦分隔为不相连的东西两部分,总面积为5765平方公里,水域率为8.6%
中文名: 婆利国; 国 界: 东西四月行南北四十五日行. 梁書《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
婆利國,在廣州東南海中洲上,去廣州二月日行。國界東西五十日行,南北二十日行。
隋書
婆利國,自交趾浮海,南過赤土,丹丹,乃至其國。國界東西四月行,南北四十五日行。
舊唐書《卷二百九》
婆利國,在林邑東南海中洲上。其地延袤數千里,自交州南渡海,經林邑、扶南、赤土、丹丹數國乃至焉。 日本語のページだけググって文句をつけたけれど、
大陸史書の原文を典拠として出されたところで逃亡だな 九州説の雑談スレの邪魔をする気はないから、雑談を続けておくれ 23岡上 ◆Lv09mLa3HM 2018/08/28(火) 20:52:13.36
今回の小論は設楽論文が結構良い刺激になっています。批判もしますけど
「結構よい刺激になっています」ww
結局お鏡さんは、他人の説に寄っかかって、何か言ってるふりをしてるだけ
インスパイヤされたってのは、便利な言葉だよな
世間的には、盗作、盗用でいいと思うんだが
まあ、金儲けしてるわけじゃないから、ただの真似っこだとでも言いたいのかねぇ? >>705
「婆利」はバリ島で何か別の情報が混ざったんじゃないのかな
インドネシアは中国大陸からは遠いからね。 >>709
>インドネシアは中国大陸からは遠いからね。
遠いからいいかげんとか言い出すんだったら何でもありだなww
どうして「私の判断はどうやら間違いだったようです」って言えないんだろう? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>712
そして、その地図が、現在の適当な推定で適当に作った地図だし
たいした根拠にもならんよ
で、そのいい加減な地図上でもいいから、どこに婆利國があるんだ? 古マタラム〜クディリが婆利國でしょうね
ジャワ島東部からバリ島、ボルネオ島、スラウェシ島 >>716
>古マタラム〜クディリが婆利國でしょうね
>ジャワ島東部からバリ島、ボルネオ島、スラウェシ島
これとの対応が取れないだろ
梁書《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
婆利國,在廣州東南海中洲上,去廣州二月日行。國界東西五十日行,南北二十日行。
隋書
婆利國,自交趾浮海,南過赤土,丹丹,乃至其國。國界東西四月行,南北四十五日行。
舊唐書《卷二百九》
婆利國,在林邑東南海中洲上。其地延袤數千里,自交州南渡海,經林邑、扶南、赤土、丹丹數國乃至焉。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>718
>婆利って播磨とかだろ
いや、倭国内の国じゃなくて、東南アジアの島嶼国 >>721
いや、そんな一言でいいなら
「接」は海越しに接していることが示されているじゃん
で終わりだな
ありがとう >>722
それを実名で世間に発表しろよw
皆で笑ってやるよwww >>723
>それを実名で世間に発表しろよw
>皆で笑ってやるよwww
唐会要のこれは読んだことないのかな?
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
倭と百済は地続きですか? 倭と越州は地続きですか?
たぶん今頃、「顔、真っ赤」だろうなww >>725
だから朝鮮半島に倭地が在ったんだよ
相接は接しているって意味じゃないよw
もっと漢文の勉強しろよ! >>726
>だから朝鮮半島に倭地が在ったんだよ
ないよ
あったら狗邪韓国じゃなくて、狗邪倭国だろ?
それとも投馬国が朝鮮半島にあったとかいうクチか?
漢文は>>726よりよっぽど読んでるよww 投馬国は宮崎だが、半島側にも狗邪韓国という倭国の足がかりがあったわけで。 >>728
南は越州に連なる
西南諸島のことだな
君は落第だよw
>>729
>半島側にも狗邪韓国という倭国の足がかりがあったわけで
狗邪韓国の周辺の倭地が投馬国と呼ばれていたわけです。 >>730
>南は越州に連なる
>西南諸島のことだな
西南諸島なら西南諸島でもいいけれど
原文は、南與越州相接
「南は越州と相接する」だ
「連なる」と文字を変えているのはごまかし
南西諸島であっても、「海を隔てて接している」ことには変わりがない
そして中華の文献で越州といえば、百越以来ずっと中華南方からベトナムにかけてだぞ
魏志倭人伝にいう當在會稽、東冶之東の會稽、東冶の辺りが越だ
南西諸島が越州と呼ばれたことはない >>730
>狗邪韓国の周辺の倭地が投馬国と呼ばれていたわけです。
ならなぜ、狗邪韓国の前後で投馬国に至ると書いてないんだ?
意味のないデタラメを書くなよw >>733
相接で「連なる」って意味ですけど
越州もこの場合は中華南方からベトナムのことではなく
実際に中国に在った越州ですよ
ちゃんとお勉強しようね。
>>734
最初に里数で国邑間の距離を細かく説明して
次に大雑把に日数で郡と投馬国、邪馬壹国に掛かる時間を説明してるんですよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>735
>最初に里数で国邑間の距離を細かく説明して
>次に大雑把に日数で郡と投馬国、邪馬壹国に掛かる時間を説明してるんですよ。
これが、九州説の一部の人の頭の中にしかない矛盾だらけの無理読み >>735
>相接で「連なる」って意味ですけど
それ、ただの意訳
海で隔てられた土地を「接」の字で表現していることは変わらない
相は互いにだから、接の意味は変化しない >>737
矛盾の無い読み方ですけど?
何処か矛盾してる?
>>738
相がないんですから海で隔てられた土地ではないってことですよ。 >>739
>矛盾の無い読み方ですけど?
>何処か矛盾してる?
文献を読む資格なしだな
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。と、魏志倭人伝の冒頭に書いてあるのに
戸数五万の、倭人国の中でも第2の大国が帯方郡と地続きの半島上にあったら
おかしいってすぐに分からないかな?
東南「大海」中にならないだろ? >>739
>相がないんですから海で隔てられた土地ではないってことですよ。
相のあるなしは、接とは無関係だと言っているのに
史/正史/史記/本紀 凡十二卷/卷五 秦本紀第五
楚北及魏西與秦相接
楚の北および魏の西と、秦は相い接する
相の字があっても地続きで接している場合もあれば、海を挟んで接しているときもある
相の字がなくても地続きで接している場合もあれば、海を挟んで接しているときもある
魏志東夷伝で、南與倭接と書いてあっても、倭が半島領土を持ち
地続きで韓と接している訳ではない >>740
倭の地の一部が帯方郡と地続きの半島上にあったら
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。とならない?
ではどうなるの?
倭人の殆どは日本列島なんですから。
>>741
相接は「皆連山相接」みたいに連なるって意味だから海でも陸でも関係ないし
接してる場合もあるし接してない場合もある
今問題としてるのは接の場合。 >>742
>倭人の殆どは日本列島なんですから。
そんなことにはならない
投馬国は5万戸の倭国第二の大国
人口の3割くらいが半島にあったら、
ほとんどが日本列島なんてことにはならない >>742
>相接は「皆連山相接」みたいに連なるって意味だから
これ、漢文の読めないやつの強弁で、何の意味もないよ
楚北及魏西與秦相接
これだと何が連なっていることになるんだ?ww >>742
倭の地の一部が帯方郡と地続きの半島上にあったら
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。となるわけないだろうがよ >>740
>戸数五万の、倭人国の中でも第2の大国が帯方郡と地続きの半島上にあったら
>おかしいってすぐに分からないかな?
だから、投馬国が宮崎県で邪馬台国が福岡県なら、全ての矛盾は解消します。 >>746
>だから、投馬国が宮崎県で邪馬台国が福岡県なら、全ての矛盾は解消します。
残念。 九州は「其山有丹」で矛盾を解消できない。 資格喪失ですな。 @阿波 >>746
>だから、投馬国が宮崎県で邪馬台国が福岡県なら、全ての矛盾は解消します。
それは、投馬国が「自女王國以北、其戸數道里可得略載」に入るから、通らないよ
「投馬国が邪馬台国より南になる」という矛盾が生じる
北部九州に邪馬台国を求めた場合、どうやっても投馬国の比定地で矛盾することになる >>748
投馬国は里程の記載がない、郡使が訪れなかった南の国。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>749
>投馬国は里程の記載がない、郡使が訪れなかった南の国。
魏志倭人伝に書いてあるのは
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」
道里であって、里程じゃない
そして、日数も道里の表現なのは 『九章算術』巻第六「均輸」から明らか
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とあって
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らか
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している
つまり、投馬国は南至投馬國水行二十日で道里が、可五萬餘戸で戸数が
略載されており、自女王國以北の国であるのは明らか >>752
「道里」つまり里数が書いてなければ、女王国の北の国ではないのだよ。 >>753
日本語読めますか?
魏志倭人伝が書かれた時代に通用していた書物で、距離を日数で示した文章で
その日数を道里と表現している
つまり南至投馬國水行二十日が道里略載そのものなんだよ
>「道里」つまり里数
これが間違いで、日数で道里を表した実例によって否定されている >>754
>その日数を道里と表現している
アホー
里数を略載できるのは、そこを郡使が通過したからだよ。
日数しかわからず里数がわからないのは、倭人からの伝聞だからだよ。日数しか書いてないのは、通過していない、つまり対馬海峡周辺ではないということだよ。 >>755
>アホー
>里数を略載できるのは、そこを郡使が通過したからだよ。
バカだなぁ
『九章算術』巻第六「均輸」の練習問題は、中国国内のいくらでも
里数が計れるところだけれど、「日数で道里が示されている」
日数も普通の道里の示し方なんだよ
郡使が通過するしないの問題ではない
そして、梯儁は魏皇帝の詔書を携えた除正使だから当然に卑弥呼の都まで行っているし、
張政は政等以檄告喩壹與とあるから、台与と直接会ってるしもちろん都まで行ってる
日数は行ってないところというのは通らない
論理的に考えないから、投馬国は南でいいとかいうバカな説になるんだよ >>743
戸数が書かれる分だけならそうだが
狗奴国や倭種の国、侏儒国、裸国、黒歯国も倭人の国。
>>744
国境 また、『九章算術』のあまの尺が暴れまくっとるな
魏代に、あまの尺は無かったのだ まあ常識では投馬国は女王国より北とされてるんで
ヘリクツつけて南とかにすれば九州説がさらに信用を失うだけだから
お好きなように >>759
>まあ常識では投馬国は女王国より北とされてるんで
いやいや、朝鮮半島の方が非常識ですよ。
日程は帯方郡が起点という原則を曲げてはいけませんよ。
地名の一致からも、人口からも、投馬国は宮崎ですよ。 >>756
>日数も普通の道里の示し方なんだよ
倭人は里数がわからないから日数で代用するとわざわざ断っているので、自分たち(中華の文明人)が通過したところは里数もわかると主張しているのですよ。
里数が書いてない投馬国は、対馬海峡周囲ではないということ。
>郡使が通過するしないの問題ではない
郡使が里数を記録したのですよ。
>そして、梯儁は魏皇帝の詔書を携えた除正使だから当然に卑弥呼の都まで行っているし、
そうですね。
行きましたね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>760
>いやいや、朝鮮半島の方が非常識ですよ
いやいや、北部九州に邪馬台国を持ってくると、
矛盾を承知で投馬国を南、宮崎・都万に持っていくか
投馬国を非常識の極みの半島南部の国にするか
どちらかになるんだよ
結局、その矛盾か非常識を、この読み方で正しいと突っ張ることになる
九州説同士で決着をつけてくれると助かるんだがね あ、はい
九州説で、投馬国をどこにするかよく話し合ってください! 投馬国の前に、雑談がてら九州説内で邪馬台国の候補位置を統一できないかね? 現状では限りなく伊都国らしい。
一万二千里にわずかに足らないのが気になるくらい。 漢代
朝鮮半島南部に狗邪韓国
北部九州倭国(伊都国や奴国などの連合国家)
魏代
朝鮮半島南部に投馬国
北部九州に邪馬台国 vs その南に狗奴国
晋代
朝鮮半島南部に任那
北部九州倭国再統一(景行&ヤマトタケル) >>767
一万二千里は漢代のものだからね>須久岡本 >>767
>現状では限りなく伊都国らしい。
普通に読めば、伊都国と邪馬台国は別の国
同じ国だったら、伊都国に着いたところで邪馬台国に着いたと
書かれていなければおかしい
この辺をごまかさないと、伊都国にはならないだろうに
それから、投馬国はどこに置くの? >>768
>朝鮮半島南部に投馬国
>>760に「いやいや、朝鮮半島の方が非常識ですよ。 」と書かれてるんですが、それは?
それに、帯方郡と地続きの半島南部に倭人が5万戸もいたら、
倭人在帶方東南「大海之中」にはならないでしょう? >>770
>普通に読めば、
あなただけの「普通」 漢代
朝鮮半島南岸に狗邪韓国
博多湾沿岸に、倭国
魏代
朝鮮半島南岸に狗邪韓国
福岡に邪馬台国 vs その南に熊本狗奴国
宮崎に投馬国
晋代
朝鮮半島南部に任那
北部九州倭国再統一(景行&ヤマトタケル) >>772
この部分にはコメントできないの?
同じ国だったら、伊都国に着いたところで邪馬台国に着いたと
書かれていなければおかしい
この辺をごまかさないと、伊都国にはならないだろうに 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>774
ごまかさんでもいいじゃん
陳寿さんが言葉足らずだっただけ
伊都に着く前
一大国=壱岐に入った時点で邪馬台国だよん 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>775
>この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
これがウソだから、長々書いてあるのが全部ムダw 今度、久留米に出かけることになった。
邪馬台国観光で行くべきところはどこかな?
今考えているのは
高良大社
淀姫神社(略字ですまん)
吉野ヶ里遺跡
ちょっと足を延ばして
平原遺跡
他にオススメの見どころはあるかな? 八女の岩戸山古墳
反対方向だが
小郡の九州歴史資料館
そんなに見るものはないが
平塚川添遺跡
平原なら伊都国歴史博物館
基本の福岡市博物館
九州国立博物館など 佐賀に行くなら、上流の淀姫神社に対して
下流の与賀神社がセット。
佐賀城本丸歴史館は幕末や明治維新が主力
古代、弥生時代なら佐賀県立博物館のほうがおすすめ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>778
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如刺史
一大率を置いたのは女王卑弥呼だし
常に伊都国で治めてるのも女王卑弥呼です
この文章の主語は女王卑弥呼。 >>784
>一大率を置いたのは女王卑弥呼だし
ここまではよいが
>常に伊都国で治めてるのも女王卑弥呼です
こうはならない
諸国検察するのは一大率
これが卑彌呼が主語だったら令検察のように使役動詞が入らないと読めない 一大率を置いたのが卑弥呼なら、どちらでも同じこと。 それより、畿内説では、伊都国に置いた一大率が女王国から北を治めることをどう説明するんだ? 「自女王國以北 特置一大率」なんだから一大率は女王国の以北に置かれた
だから同時に伊都国に常駐することはできない
「常治伊都國」の常に伊都国に治むるのは女王卑弥呼
伊都国で治めるのは卑弥呼自身の行いだから使役動詞はいらない。 >>788
「常治伊都國」の常に伊都国に治むるのは特置一大率 女王も伊都にいれば全て解決。
逆に、女王が畿内だとどうにもならずに論理が破綻する。 >>790
女王が倭国(阿波)にいれば全て解決。
逆に、女王が畿内や九州だとどうにもならずに論理が破綻する。 @阿波 >>791
女王が阿波にいても畿内にいても論理は破綻
女王は九州の伊都国にいないと。 >>792
>女王は九州の伊都国にいないと。
伊都国(糸島?)には、「丹」がない。
女王が伊都国ても畿内にいても論理は破綻。 @阿波 >>790
>女王も伊都にいれば全て解決。
>逆に、女王が畿内だとどうにもならずに論理が破綻する。
女王と一大率が同じ場所にいるなら、一大率じゃなくて女王または女王直属の官が
検察すればいいんだから、一大率は不要だろ
一大率がいる時点で、九州説は成り立たないと断言する人も少なからずいる 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>794
つか、九州説の論理以外に破綻するものは何もない 女王直属の高官が大率だよ。
後の百済にも継承されている。
そして、率(帥)は九州における行政のトップでもある。 で?
畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの? 一大率は女王国以北に置かれたと明記されてるのに
畿内説の人は一大率が伊都国にいたとか内容を平気で改ざんするんだから
頭おかしい。 女王国以北は女王国伊都を含むから、九州説なら問題ないが、畿内説だと矛盾だらけで意味が通じない。 で?
畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの? >>797
>女王直属の高官が大率だよ。
また、いい加減なことを言い出したなw
じゃあ、なぜ一大率は
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月
「官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮」可七萬戸
に書かれてないんだ?
女王の都にいるという設定なのに?ww >>798
>畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの?
何も問題ないだろ?
何度も書いているとおり、陳寿は倭国を南北に長く連なる洲島の上の国と認識しているから、
対馬、壱岐から、邪馬台国まで、多少東よりになる部分はあっても、ずっと一貫して
北から南に国が並べてあるんだよ
陳寿の認識ではね
つまり、その戸数道里が略載されている、投馬国までは全て、女王国より北になる
現実の地理ではなく、陳寿の認識ではそうなっている、というだけのこと >>799
>畿内説の人は一大率が伊都国にいたとか内容を平気で改ざんするんだから
おーい、魏志倭人伝に
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。「常治伊都國」。
って明記されてるだろ?
女王国以北に特に置く、は一大率の検察範囲を示していて、
その治所(役所にあたる)が常に伊都国にあるって書いてあるんだから、
一大率は伊都国にいなきゃおかしいだろうが >>800
>女王国以北は女王国伊都を含むから、九州説なら問題ないが、畿内説だと矛盾だらけで意味が通じない。
伊都国が邪馬台国とはどこにも書いてないんだから、でたらめな読み方だよw >>803
>畿内説だと伊都国と女王国から北の関係はどうなるの?
>>801に書いたとおり、
陳寿の認識では、対馬・壱岐・末盧・伊都・奴国・不彌・投馬は全部
女王国から北なんだから、その真ん中の伊都に一大率がいるのは
理に適ってるだろ? >>802
伊都だけではなく、伊都より北の対馬海峡全体を管轄するからだよ。
東京都知事と内閣官房長官の違いかな。 >>804
>その治所(役所にあたる)が常に伊都国にあるって書いてあるんだから、
どこに「その治所(役所にあたる)」何て書いてあるんだよw
改ざんするなよなwww >>809
>どこに「その治所(役所にあたる)」何て書いてあるんだよw
>改ざんするなよなwww
分かりやすく書いただけだよ
書き下しは「常に伊都國に治す」だ
帯方郡治といえば、「帯方郡を治めること」ではなく、
帯方郡を治める人のいた場所・現代用語で役所のあった場所だよ >>810
「常に伊都國に治す」とは
常に伊都国で治めるって意味だよ
検察が常に一か所にては仕事にならないだろw
常に女王國以北の諸国を検察して回らないと
常が付いてるんだよ。 伊都国(女王国)に大率の役所があり、女王国から北の(対馬海峡を)検察して回っていたのですね。
まるで刺史が地方を治めるが如く。
伊都国の官は首都である伊都国の中を管轄しますが、大率はより広域を管轄しているわけです。
そして女王国が伊都国であるからこそ成り立つ文章です。 畿内説だと、九州の伊都にいた大率が、女王国(畿内)から北を検察するので、わざわざ若狭や丹後に戻ってくることになる? >>812
一大率は検察が仕事なんだから「治」の主語では無いのは明らかですね。
>>813
大率の役所なんてナンセンスな馬鹿話は止めたら。 >>815
大率は刺史の如きもの
「治」は治めるの意ではなく、駐しているの意
「又州郡所駐曰治,如蜀刺史曰治成都,揚刺史曰治會稽」
http://www.zdic.net/z/1c/kx/6CBB.htm 伊都国に卑弥呼之所都と書かれていないこと
伊都国の記事に至邪馬台国と書かれていないことから、
よほどのバカではないほぼ全ての人にとって
「伊都国が卑弥呼の都じゃない」ことは明白
伊都国に卑彌呼がいたとかいうのは、本来論評する必要もないレベルの戯れ言 >>817
卑彌呼がいたのは倭国(阿波)。 以上 @阿波 >>816
だから如でしょ?
「治」は治めるの意で、治めている如き
「治」が駐しているの意とか馬鹿なの?。
>>817
邪馬台国の中に伊都国が在り
伊都国が卑弥呼の都なのです。 >>819
>邪馬台国の中に伊都国が在り
そこまでして・・・・・ @阿波 >>819
著者は陳寿だよ
陳寿が大率は刺史だと言ってるわけで
その上で「治」を使ってるのだよ >>821
検察する姿が刺史のようだといってるだけで
一大率が治めるなんて書いてないな。 >>822
>邪馬台国の中に伊都国が在り
そこまでして・・・・・ @阿波 大率は対馬海峡を検察し、普段は伊都に駐在している? >>825
>伊都国と奴国をあわせて邪馬台国ですかね?
そこまでして・・・・・ @阿波 一大率は朝鮮海峡付近の諸国に置かれ
女王卑弥呼のいる国は伊都国
伊都国で常に治めている
邪馬台国とは朝鮮海峡付近の諸国傍国を合わせたもの。 >>822
>一大率が治めるなんて書いてないな。
そのとおり、やっと理解したか >>828
伊都国で常に治めてるのは一大率ではなく女王卑弥呼って理解できましたかw そのヒミコというのがアマテラス(仮名)なのか?
違うだろう 頭の病院(死刑)、
刑務所(死刑)か・・・自殺(死刑)でもしたほうが良いんじゃないのか?
と言っているんだよ >>829
壊滅的に漢文読めない駄脳だから九州説なんだと理解できた >>829
漢文をまともに読めないやつのことは誰も信用しない 「常治伊都国」って文章を読んで「治」が動詞だったら
じゃあ目的語は何か?って話よ
九州説は無教養すぎる >>829
漢文はおろか、日本語も怪しいんじゃないの 「常治伊都国」
常日頃は、伊都国に治しておる・・・、という意味だろう。
だから、何かあるときは女王国から対馬まで出向くこともありうる、、、という含みだな。 >>838
おーい、原文はこうだ。
自女王國以北 特置一大率檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中(於自女王國以北)有如刺史
ここにおいて、主語は「特置の一大率」 >>839
なら、どうして「女王国から対馬まで出向く」になるんだ? 追加補正:
自女王國以北には、特に一大率を置いて檢察せしむ、諸國は畏憚之
(この特置の一大率は)、常(常日頃は)伊都國に治す、國中に於いて(自女王國以北に於いて)刺史の如く有り >>834
「治」の目的語は国や州
なので女王国以北の諸国
>>836
常ってのは常であって例外は無い
だから、何かあっても対馬まで出向くことはない
常に伊都国に治している。
例外があるなら書かれてる。 >>844
常に伊都国に貼り付けになっていては、女王国以北の(諸国の)検察はできないだろ・・・
その例外的なことについての例示もある。
それはその次のこの部分だ。
王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯
(いろいろな遣使が海を渡って行き来するときは)、
皆、津(末蘆国の港)に臨みて搜露し、文書賜遺之物に行き違いがないように計らった(そのために津まで出向いた)・・・。と、こういうわけだ。
なお、渡海の好適シーズンは、潮の満ち干の関係で、
強い離岸流が発生する6月と12月の新月だか満月のぜんごだったそうなので、
月齢を見て年に2回、その都度、伊都国から唐津へ出向けば用が足りたのだろう。 >>844
>「治」の目的語は国や州
>なので女王国以北の諸国
なぜ?
史料には「常治伊都國 」ってはっきり書いてあるのに
なぜ? >>846
内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 >>846
一大率は女王国以北に置かれてるので女王国の港には集まれない
この文章は一大率のことではなく女王の周辺を警護している直臣の家臣のこと。
>>847
「常治伊都國 」これは常に居る場所が伊都國
治の目的語はこの文だけでは分からない。 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北には特にひとりの大率を置く。
(大率は)諸国を検察し、(諸国は)これを恐れ憚った。
(大率は)常は伊都に治し、(倭国の)国中にあっては刺史の如しである。 女王国は倭国全体よりも狭い地域を指しているように読める。
そして、対馬海峡は女王国に含まれない。
しかし狗邪韓国から南は明らかに倭国なので、
倭国>女王国=邪馬台国>伊都国
という包含関係なのだろう。 訂正
自女王國以北特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北には特にひとりの大率を置き検察させ、諸国はこれを恐れ憚った。
(大率は)常は伊都に治し、(倭国の)国中にあっては刺史の如しである。 >>853
だからそれだと意味が支離滅裂だろw
一大率は女王国から北に置かれいるのに
常は伊都に治すなんて
居る場所も業務も違う
意味が全く通らない。
女王国から北には特に一大率を置く。
(一大率は)諸国を検察し、(諸国は)これを恐れ憚った。
(女王卑弥呼は)常は伊都に治し、国中(魏)にあっの刺史の如しである。 >>857
女王国から北には特に一大率を置き検察させ、諸国はこれを恐れ憚った。
(女王卑弥呼は)常は伊都に治し、(魏)国中にあっては刺史の如しである。
非常に明快で意味も通るだろ。 >>859
卑弥呼が刺史の如くというのはおかしいだろ。
引きこもりなんだから。 >>858
自女王国以北は、自も以も、女王国を含むことを示す語ですよ。
陳寿は相当しつこく書き込み年を押すタイプだったのですね。 >>846
>月齢を見て年に2回、その都度、伊都国から唐津へ出向けば用が足りたのだろう。
唐津には出向いてないと思う
というか、唐津によらずに伊都国の港に直接来るだろ?
末盧国は地理の紹介であって、魏使の経路ではないだろう
歴史的な過去の記録の産物だよ 里程が細かく書いてあるから、末盧は通過しただろう。
それがどこかは知らん。
前原あたりかもな。 >>860
別におかしくないだろ
卑弥呼が一大率を使ってる様子が魏での刺史の如く
って意味でしょ。 自女王國以北特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
この訳は岩波書店の三国志も誤魔化して有耶無耶に訳してあるな。 >>856
>倭国>女王国=邪馬台国>伊都国
>という包含関係なのだろう。
大間違い
伊都国と邪馬台国は横並びで包含関係にはない
倭人の住む範囲 ⊃ 倭国 ⊃ 女王国 ⊃{邪馬台国、投馬国、奴国、末盧国、壱岐国、
不彌国、対馬国、伊都国、その他余傍国}
という関係
ただ、2ヶ所だけ女王国=邪馬台国という狭い意味で使っているところがあるから混乱している
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。
の二箇所だけが、女王国=邪馬台国になっている >>864
>卑弥呼が一大率を使ってる様子が魏での刺史の如く
>って意味でしょ。
だから、刺史の如く働くのは一大率で、卑弥呼じゃないよね? >>863
>里程が細かく書いてあるから、末盧は通過しただろう。
唐津から糸島に陸路で行くのは普通はない
唐津から、東南陸行五百里は佐賀平野に抜ける経路としては合理的だ
佐賀平野のどこか(吉野ヶ里の方?)へ向かうなら、唐津に上陸するのが合理的
佐賀平野のどこかに行くときに唐津・末盧国を実際に通って行ったときの記録が
末盧国の地理的位置を示すために挿入されているだけだと判断している
だから、東南陸行五百里は糸島行きを指していない
唐津から糸島・三雲は北東方向になる 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>868
>佐賀平野のどこか(吉野ヶ里の方?)へ向かうなら、唐津に上陸するのが合理的
唐津は行きも帰りも不適。
唐津には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw
唐津は福津・宗像の爪の垢でも煎じて飲んどきなはれ! @阿波 >>866
>伊都国と邪馬台国は横並びで包含関係にはない
これこそ大間違いですよ
邪馬台国の王都が伊都国です
後漢書にも「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也倭国」と倭国の中に倭奴国があります
邪馬台国の中に伊都国があったんです。
>>867
そうですよ。
>>868
だから末盧国に上陸したのは呼子付近です。 >>872
>邪馬台国の中に伊都国があったんです。
救いようがないね。 @阿波 >>873
里数での行程文と日数での行程文が同じ行程を距離と時間で書いてある
陳寿は二重に丁寧に説明してるんです
それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。 >>874
>それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。
それはね、分からなくなるのは、妄想トンデモ説だからなんだよ。 @阿波 >>872
>これこそ大間違いですよ
>邪馬台国の王都が伊都国です
まだ言うかww
「女王国=倭国のうち卑弥呼の共立に参加した範囲」の王都が邪馬台国だよ
邪馬台国の王都って、王都の中に王都があるとかいうバカな話にしかならない >>874
>里数での行程文と日数での行程文が同じ行程を距離と時間で書いてある
>陳寿は二重に丁寧に説明してるんです
>それを続けて読むから目的地までの距離も時間も分からなくなる。
三国志の中にも、他の史書にも、里数と日数で二重に書いてある地理・行程記事なんてないだろ?
同じ陳寿さんが書いてるのに、東夷伝倭人条だけ、二重に書いてあると考える方がおかしい >>877
邪馬台国は王都じゃないんですよ
3世紀の日本に七万戸もの国邑なんてありませんよ。
>>878
公孫氏の帯方郡の資料や張政の報告書など基の資料が複数あったからでしょうね。 >>879
>3世紀の日本に七万戸もの国邑なんてありませんよ。
「七万戸」は兎も角、3世紀の日本の最大・最強・最先端文化都市は倭国(阿波)以外に無し。 以上。 @阿波 伊都国と奴国をあわせて邪馬台国。
さいわい、日本語にもこのエリアだけを的確に示す語がある。
それは筑紫の日向。
神代の倭国の王都だ。
魏志倭人伝において邪馬台国は倭国の王都なのだから、邪馬台国と日向が同じ地域を意味するのはとうぜんのこと。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>880
阿波の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw >>881
>それは筑紫の日向。
あんまり伊都国説のやつがうるさく言うから、ちょっと詳しく見てみた範囲だと、
日向川というのが室見川の支流、奴国側にあって、その川の谷筋を上りきったところの
峠が日向峠
これから考えると高祖山塊の東側斜面、朝日が当たる側が、日向と呼ばれた地域だな
決して伊都国側ではない
朝日が当たる斜面が日向(ひなた)と呼ばれることに違和感はない 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>883
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw @阿波 >>886
何処にも無い、当然阿波にも無い
七万戸の邪馬台国は国邑ではなく
国邑の連合体だよ。 >>884
奴国側ですね
首都の外側に住んでた一族が東征したようですね。 >>887
>七万戸の邪馬台国は国邑ではなく
>国邑の連合体だよ。
その「国邑」の一部がこれらだよ。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>887
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw @阿波 >>890
全部合計しても七万戸には遠く及ばないし時代もまちまちw >>888
>奴国側ですね
>首都の外側に住んでた一族が東征したようですね。
いや?
北部九州の首都は、どうみても奴国
伊都国は「入国管理の出先、関所」が置かれたところ >>892
奴国がパリなら伊都国はベルサイユ
奴国がニューヨークなら伊都国はワシントンDC
だろうな。 >>891
>全部合計しても七万戸には遠く及ばない
倭国(阿波)以外の何処に七万戸の国邑の遺跡があるんだよw
>時代もまちまちw
どの遺跡が? @阿波 >>894
七万戸の国邑なんて阿波にも無いし日本の他にも無いの
3世紀の日本には存在しない
七万戸は北部九州全体の国邑の合計 >>884
筑紫の日向の小戸の橘が、今の小戸のヨットハーバーだから、高祖山の北側も日向だよ。
高祖山とその周辺全て、つまり魏志倭人伝の伊都国と奴国が丸ごと筑紫の日向なんだよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。 @阿波 神武が出発したクシフル山は日向峠の裏だろ。
怡土城の城域の中だね。
つまり、伊都城が高千穂宮なんだよ。 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。 @阿波 >>895
>七万戸は北部九州全体の国邑の合計
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。
と、ボロクソに言われながら黙り込む北部九州のお粗末。 @阿波 >>902
>阿波、うるさいぞ
こら、こら、北部九州、がんばれ! @阿波 怡土城の城域は290ヘクタール。
倭国の王城にふさわしい。
高祖山の上にそびえる楼閣は、魏志倭人伝の卑弥呼の王城の楼閣高くという記事そのものだ。
大門の奥の高祖宮に卑弥呼がいたのだ。 有名なものだけで三雲南小路遺跡、吉野ヶ里遺跡、曲り田遺跡、 板付遺跡、菜畑遺跡、那珂遺跡、雀居遺跡、 須玖岡本遺跡 >>906
と言いながら、ろくな弥生時代後期集落遺跡が無い北部九州のお粗末。
と、ボロクソに言われて変な遺跡を挙げる北部九州のお粗末。 @阿波 >>908
九州の遺跡の方が阿波とは比較にならんぐらい大きいが。 >>909
>九州の遺跡の方が阿波とは比較にならんぐらい大きいが。
まるで、子供だねwww そんなんで大丈夫かね、九州説のみなさん。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 阿波の揚げた遺跡なんて小規模でマイナー過ぎて誰も知らないものばかりじゃないですかw >>913
>阿波の揚げた遺跡なんて小規模でマイナー過ぎて誰も知らないものばかりじゃないですかw
君自体が「小規模でマイナー過ぎ」なだけなんだよ。 もっと勉強しよう。 @阿波 阿波国って、現在の徳島県でいいのかね?
遺跡データベースで弥生時代の遺跡を検索すると
兵庫県2114件
徳島県413件
だったのだが。 >>915
倭国(阿波)は遺跡発掘後進県なんですよ。
にもかかわらず、他を圧倒する特異な遺跡がザクザクとね。 @阿波 >>915
そのデータベースで弥生時代の九州の遺跡を検索すると? 奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
1 遺跡地図
2 遺跡地名表
3 発掘調査報告書(報告書抄録)
遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」
と書いてある
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ
これで、福岡の遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ? それらの情報のすべてが少ないのが奈良県。
200 回以上掘った巻向遺跡が
大半の情報だったりしてね。 実際に奈良にどれだけの弥生遺跡があるのかというと、福岡に比べて激しく貧弱なのは事実。
1ヘクタールあたりの住居の数でも比較してみろよ。 福岡は考古学者が
もう出ないでくれ、と祈る場所。
まともに発掘したら金も人も足りません。
でかいのに当たると、その研究施設が
数年麻痺するから、できるだけ
必要なところ以外は掘らないようにしている。 実際、建物を建てるときは、基礎工事でコンクリを流し込んだり
杭を打つ予定のところだけ発掘して、上に薄くアスファルトや
コンクリを流すところは放置するんだよね。
その工場予定地全体を発掘すれば
巨大な遺跡になりそうだけど、
それは吉野ケ里のように国から予算でも来ないと無理。 >>921
>それらの情報のすべてが少ないのが奈良県。
>200 回以上掘った巻向遺跡が
>大半の情報だったりしてね。
調べもせずに、印象だけで戯言を書き付けて反論した気になるのが九州説
実際に奈文研のデータベースで調べてみればいいだろ?
こっちは、九州説の遺跡数が多いという戯言に付き合ってきちんと調べた上で、
汐井掛遺跡という集団墓地遺跡一つで、204件の登録があるって示してるんだからさ
奈良県の登録の仕方だと、「唐子・鍵遺跡」で1件だよ
弥生時代後期では、日本屈指の大遺跡だけどね >>925
>その工場予定地全体を発掘すれば
>巨大な遺跡になりそうだけど、
>それは吉野ケ里のように国から予算でも来ないと無理。
それ、具体的にはどこ?
具体例が出せなければ、ただの戯言、世迷言w >>926
>奈良県の登録の仕方だと、「唐子・鍵遺跡」で1件だよ
>弥生時代後期では、日本屈指の大遺跡だけどね
またまたご冗談をw >>927
あんたが知らないだけ。
キナイコシは井の中の蛙。 >>929
>あんたが知らないだけ。
>キナイコシは井の中の蛙。
そうそう、井の中の蛙なんだよ
だから、外界の情報を教えてもらおうと思ってさ
具体的には、どこの遺跡なんだい?
遺跡名がまだついていないなら、行政地名でいいよ?
さあ、具体的な場所を教えておくれ >>928
>またまたご冗談をw
どこかどう冗談なのか、「具体的に指摘」してね! 伊都は首都じゃないから、そろそろこのスレも閉じようよ 首都の定義はどうであっても、女王之所都と書いてあるんだから、
女王卑弥呼がいた場所だろう 内政を管轄する一大率が置かれ、外交相手である魏の使いが駐在するのが伊都。
これが都でなくてなんだというのか。 伊都城www
3世紀に存在していた証拠をどうぞwww 大野城、基肄城、菊池城に相当する地名も魏志倭人伝にあるのだから、卑弥呼の宮城と書かれている邪馬台国も城でいいよね。
伊都国と奴国にまたがる高祖山の山城、伊都城(怡土城)がそれだろう。
まさに楼閣高き筑紫の高千穂宮だね。 3世紀からあったと主張する側が、歴史学的、あるいは考古学的な根拠を提示する義務があるな おや、いつもと立場が逆だな。
ないことを証明しろといつも言っていたじゃないかw 奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。
この奈良時代の記録で、それ以前に城があったものを拡張したとか、それ以前から要所だったとかの記述は「一切ない」
さて、怡土城が3世紀にあったと主張するのであれば、それを「具体的な根拠を付けて」論証してもらいましょうかね? そう!
奈良時代より前の記録が「ない」のだよ。
九州の歴史はいつもそう。
魏志倭人伝に怡土国や奴国が載っているのに、国内の記録はわずかしかない。
なぜだと思う? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 九州説では、硯が出てるから3世紀から九州では漢字の読み書きができたっていう説なんだろ?
それでどうして記録がないんだ?
風土記になって畿内政権から促されてやっと地域の歴史をまとめたような一地方が何を言ってるんだかww 景行天皇から神功皇后の話なんて
ほぼ九州の話だからねえ。
北部九州の書物を記紀編纂者が
見ていたのはほぼ間違いがない。 そのご都合主義、どうにかならんかね?
都合の悪い情報があっても、それは間違いだと言い張り
都合のいい情報がないのは、捨てられたからだと強弁する
そういう、何でもありの上でしか、九州説は成り立たないと言ってるだけだな 日本書紀が大量に引用をしているので、古文献があったことは間違いない。
禁書の詔勅や、明治の焚書も事実だよ。
あったことをなかったことにしようとする畿内説はおかしい。 >>955
>禁書の詔勅
その詔勅の原文あげてみ?
どうせ聞きかじりの間違いなんだろ?w 証拠は消された!とか言い出したらトンデモ一直線
なぜなら、それは科学的な姿勢の放棄と自身の絶対化だから >>958
過去に、世を惑わすとされた書物が焼かれたという記録があることと
その書物には自説の根拠となる内容が記されていた、と主張することは、
全く次元が違う
その違いが分からないなら、歴史学のセンスが絶望的だから、
首を突っ込むのはやめた方がいい 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>961
その六国史の該当部分を、原文そのまま引用してみw 福岡平野は、弥生中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ
100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
どんぐりの背比べである。 慶雲四年707年
大赦天下。自慶雲四年七月十七日昧爽以前大辟罪以下。罪無軽重。已発覚・未発覚。咸赦除之。
其八虐之内、已殺訖、及強盗・窃盗。常赦不免者。並不在赦例。
前後流人非反逆縁坐及移郷者。並宜放還。
「亡命山沢。挟蔵軍器。百日不首。復罪如初。」
和銅元年708年
大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪無軽重。已発覚・未発覚。
繋囚・見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盗。常赦所不免者。不在赦限。
「亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。」
養老元年717年
可大赦天下。改霊亀三年。為養老元年。天下老人年八十已上。
授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜絁三疋。綿三屯。布四端。粟二石。
九十已上者。絁二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。
八十已上者。絁一疋。綿一屯。布二端。粟一石。
僧尼亦准此例。孝子・順孫。義夫・節婦。表其門閭。
終身勿事。鰥寡惸独、疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯薬。
「亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初。」 養老律令巻30雑令8
雜令第八 秘書玄象條:凡秘書。玄象器物。天文圖書。不得輙出觀生。
不得讀占書其仰觀所見。不得漏泄若有徵祥災異陰陽寮奏。訖者。季別封送中務省入國史。
禁書の内容は養老律令の秘書玄象條に書いてある通り
九州倭国の歴史書なんてのは禁書でもなんでもないよ
そもそもそんなものはないww 六国史も御鎮座記も祇園祭も後世のものなんだけど、自覚できてる? 九州説はチェリーピッカーだから、自分が必要な部分しか見ていなくて、
その周辺情報まで調べられると矛盾しまくりで即死ってのを繰り返している訳だ
大和朝廷が九州の歴史書を焚書したってのはガセネタってことででいいな マイルール
=俺様の推理を裏付ける文献が残っていないのは、
時の権力者に不都合な事実を伝えていたため、
燃やされたからなんだ! キナイコシは7世紀以前を先史時代にするつもりらしい。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 3世紀の硯が九州では見つかっているのに文献が残っていないから
九州の多くの書物が焚書されたのは明らか。 なぜ7世紀かと言うと、その時代に倭国が白村江で大敗し、なぜか国号が日本国になったことと関係しているのだろうね。
日本の歴史学者は国号変更についてまともに論議するのを避けている。
旧唐書では倭国と日本国は別の国として書いてある。
そして記紀が編纂され、それ以前の歴史書は全て何処かへ失われた。 持統天皇5年(691年)8月13日条に、「十八氏に詔して其の祖等の墓記を上進らしむ」
『続日本紀』和銅元年正月(708年)の詔
亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。
禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。
『古事記』序文で・帝紀・本辞・旧辞・帝皇日継・先代旧辞・先紀等の記紀に先行した歴史書名が確認でき
『日本書紀』でも・国史・四方志・旧本・日本旧記・譜弟・帝王本紀・天皇記・国記・帝記・上古諸事・墓記等の存在が確認できるが
現在は一つも残ってない。 >>979
>旧唐書では倭国と日本国は別の国として書いてある。
倭国は7世紀までの倭国(阿波)で、
日本国は8世紀遷都後の奈良大和と何度言えばw @阿波 キナイコシニュー速プラスでID変えまくって
分身の術使うのやめろよ。 >>980
>禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。
>>966は読んだのか? もう一回貼っとくよ
養老律令巻30雑令8
雜令第八 秘書玄象條:凡秘書。玄象器物。天文圖書。不得輙出觀生。
不得讀占書其仰觀所見。不得漏泄若有徵祥災異陰陽寮奏。訖者。季別封送中務省入國史。
禁書の内容は養老律令の秘書玄象條に書いてある通りのもの
九州倭国の歴史書なんてのは禁書でもなんでもないよ
そもそもそんなものはないww >>980
>『古事記』序文で・帝紀・本辞・旧辞・帝皇日継・先代旧辞・先紀等の記紀に先行した歴史書名が確認でき
>『日本書紀』でも・国史・四方志・旧本・日本旧記・譜弟・帝王本紀・天皇記・国記・帝記・上古諸事・墓記等の存在が確認できるが
>現在は一つも残ってない。
それらの内容をまとめて、古事記と日本書紀が編纂されたんだよ
特に日本書紀は、異説も一書曰の形で多くを伝えている
そして、史書が全て残ると思っている方がおかしい
魏略だって逸文しか残っていないし、翰苑に至っては数ページ分しか残っていない >>982
>キナイコシニュー速プラスでID変えまくって
>分身の術使うのやめろよ。
これも全1病の亜種だな
それだけ畿内説で書き込みをする人が多いってだけ >>985
プラスでも全く同じこと言ってたw
主張もいつもワンパターン
土器がぁー
松盧国から東南がぁー いや、実際まともに文献が読めてきちんと最近の研究成果まで目を通している人間なら
よほど頭がおかしくなければ畿内説以外とらないからさ 畿内説なんて、まともな思考能力があったら眉唾だとわかるよ。
魏志倭人伝の記事と食い違いがありすぎるもの。
畿内説が主張しているのはヤマト王権の起源であり、邪馬台国とは関係ないものだよ。 編年を無視してるから、そういう的外れなことを言い出すんだよ
九州説の根拠は全て古すぎる
鏡などは特にそう
3世紀限定にして、伊都国、奴国という、邪馬台国ではないことが確定している場所を除くと、
九州には見るべき遺跡も遺物も、驚くほど何もないことが分かる 何を言っているんだろう。
奴国と伊都国を合わせて邪馬台国だというのに。 >>990
>奴国と伊都国を合わせて邪馬台国だというのに。
そんな読み方するやつはいねーよ、まともな知性を持っているやつならな
邪馬台国は女王之所都なんだが、伊都国と奴国を合わせた範囲だとしたら、
女王の都はどっちにあるんだ?
それに、伊都國千戸、奴國二萬戸、邪馬台国七万戸って明記してあるのと
完全に矛盾する
九州説の中でも伊都国説は、まともじゃない知性の持ち主以外は採らない駄説だ あわせて都だよ。
行政府は三雲、人口集中は福岡。
王城は両者の間の高祖宮、後世の名では怡土城、記紀でいうところの筑紫の日向のクシフル山の高千穂宮。 3世紀に限定すると、伊都国・奴国の範囲でも、一つの墳墓から出る舶載鏡の最大数は
平原1号墓の2枚だよ(同数は他にもあるが所詮2枚だ)
そして平原1号墓を3世紀とするのもおまけ
おそらくは2世紀後半かそれよりも前
3世紀の北部九州には、発達した王権を示す遺蹟も遺物もない 北部九州が倭国内でも栄えた地域だと言えるのは紀元前2世紀から
紀元後2世紀初頭まで
3世紀には相対的な地位は落ちまくりで、倭王の居る地域ではない >>992
戸数は?
五萬戸くらい足りないぞ?
奴国の2倍半足りないw >>992
>王城は両者の間の高祖宮、後世の名では怡土城、記紀でいうところの筑紫の日向のクシフル山の高千穂宮。
高祖宮なんて、史料の記録も実体もない妄想
怡土城は8世紀のもので、3世紀木は影も形もない
日向のクシフル岳が福岡にあるとするのは無理筋
日向峠という3文字に頼りすぎ >>996
>怡土城は8世紀のもので、3世紀木は影も形もない
7世紀より前の記録がないという、いつものパターン。
>>996
>日向峠という3文字に頼りすぎ
イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸が高祖山の北側の福岡市西区小戸だから、少なくとも記紀が書かれた頃には高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれていたことがわかる。 弥生時代に最も栄えた伊都と奴国、博多湾を眼下に見下ろす高祖山に何もないという方が無理。 でも実際、何もないじゃないか
怡土城は発掘調査されてるが、実際に
「7世紀より前の遺物も伝承も何もない」といういつものパターン
そこにあるのは昭和になってから盛り上がった、九州説の妄想だけだよ 無学と思想狂いが九州説を創り
愚昧と盲信が九州説を育て
そして無謀が殺した このスレッドは1000を超えました。
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