伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 阿波は、結論ありきで絡んでくるだけだから、積極的に反論する必要を感じないんだよな
阿波の言う万津浦に上陸した後の、伊都国の比定地も「否定地」だし >>158
九州説は、人ごとにいうことが違うから困るなww
ピンポイントで、末慮国を糸島平野内まで持ってくるなら、
末慮国はどこになるのか教えてくれw >>154
幅三千里の対馬海峡全域が一大率の支配下なのだから、500里なんてすぐだろ?
何か問題か? >>155
何言っているんだ?
もう一度平原遺跡の出土品リストを見直せよ?
そろそろ恥ずかしいぞ。 >>160
ピンポイントに港に決まっているだろ。
なんで内陸なんだよ。 >>161
いやむしろ、伊都の一大卒が船出するのが末盧だな。 >>156
>千々賀遺跡「群」と呼びうる広がりが確認できてるんだから、
どんな遺跡の広がり???
>当時の国としては十分だと思うが?
とても国レベルじゃないよ。 @阿波 >>163
>ピンポイントに港に決まっているだろ。
>なんで内陸なんだよ。
つ >>149「環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。」
環濠集落ならピンポイントになるぞっていう話、もともとは
同じ平野内で、別の国ってのはないだろう
↓
環濠集落なら別の国でもいいだろ?
↓
それだとピンポイントになるし、末慮国の環濠集落(糸島平野)はどこ?
↓
ピンポイントに決まってるだろ >>163が話の流れも追わずに乱入
九州説は、人ごとにいうことが違うから困るなww >>145
伊都ゴルフ倶楽部が在るあたりだよ
分水嶺になってるだろ。 >>146
末慮国は唐津市付近だけではなくもっと広範囲だったんだよ。 >>162
刀なら、丹波の方が立派なのが出てるな
ガラス製品も、大風呂南墳丘墓の方が豪華
舶載鏡は、100年以上古いのが2枚だけ
仿製鏡の枚数は多いけれど、破砕鏡でつぼにも入れずに墳丘にばらまかれている
鏡の種類・枚数では桜井茶臼山に勝てない
で、どこをどう見ると、王墓になるんだ? >>164
>いやむしろ、伊都の一大卒が船出するのが末盧だな。
いやむしろどうして伊都国から船出しないんだ? >>150
一大率は伊都国ではなく女王国以北に居たと記述されてるよ
この範囲には末盧も含むだろけどね
一大率のは検察だから女王の元に届けるのは一大率の仕事ではないよ。 >>170
当時の伊都国の浜辺は遠浅で大きな船が着けなかったんだよ。 >>167
>伊都ゴルフ倶楽部が在るあたりだよ
>分水嶺になってるだろ。
どことどこの分水嶺?
そのゴルフクラブの西側も、東側も船越湾に流れていく川なんだけれど >>160
末慮国自体は広範囲な国邑だけど
魏使が着岸したのは呼子付近だな
名護屋浦に入港したんだ。 >>173
ヤーフー地図で地形図に切り替えてみると分かるよ。 >>174
それは、糸島平野内に末慮国と伊都国の国境をもってくる理由にはならないよな?
まあ、名護屋浦に入港ってのもないけど >>176
糸島平野内に末慮国と伊都国の国境をもってくる理由は呼子付近から500里です。 >>169
細切れに一部だけ見ればなんとでも言えるが、それらが揃っているところが重要。
そして構成として三種の神器となっていること。 >>170
伊都に海がないからだろ。
ピンポイントの地名だから。 >>168
>末慮国は唐津市付近だけではなくもっと広範囲だったんだよ。
なんか、範囲を広げた「畿内説」みたいだね。 @阿波 >>169
壺って…そんな事いう人初めて聞いたわ
破砕鏡は糸島、唐津あたりの文化だね
鏡をわざと割って副葬した事で、ほぼ元鏡に戻せる鏡が多いのが平原
つまり完鏡の物がかなりの数あった、という事
それにバラまいてはないよ
副葬位置も意味がある様に見える
茶臼山は破片をを集めてバラまいてる。
平原の破砕鏡とは別物
鏡の材料かもしれん
だから元の鏡に戻せる鏡は無いんだよね
だから破片一つでも鏡の枚数に入るから多くなるのだよ
年代も平原より50〜100年新しいのでは?
比べる意味が無い
それと、銅鏡は中国産かどうかで鏡の価値の違いは見当たらないよ
というか区別できないと思うよ
現代でも成分を調べてもはっきりしないのだから
どちらかというと鏡の種類が関係がある
やはりその扱いは三角は一段落ちる >>183
平原遺跡も、超大型内行花文鏡の1枚は破片一つが別の個体由来であることがわかって1枚カウントが増えたので、破片一つだったはず。
残りの破片は関係者が形見分けしたんだろうね。
つまり筑紫の破鏡も畿内の破鏡もまったく同じ文化だよ。
しかし年代的に筑紫の方が早いから、筑紫の文化が畿内の葬送形式の基礎となっている。
しかもどちらも内行花文鏡を至高としている。
レガリアを共有しているので、畿内王権が筑紫の王権の末裔または分家であることは、考古学的にも明白だよ。 >>184
銅鏡ごときが頼りとはw もう諦めたら? @阿波 >>181
末慮国の範囲なんて魏志倭人伝では分からない
現在の地名からすると唐津市付近だけに限定するのはおかしいだろ
魏志倭人伝によると南東方向に伊都国があるから
魏使の上陸地点は呼子付近であると推測され
そこから500里ですから糸島市の中央付近が末慮国と伊都国の境で
伊都国は怡土平野だけの範囲で100里(約8q)で通り抜けて奴国(福岡市)へ行けたんだ。 魏使の上陸地点は中原遺跡のあるところと考えられているよ。
中原遺跡から東南に行ったら佐賀の方だろ?
糸島半島じゃない。 上陸地点は伊都国から逆に推定すればいいのではないかな。
その伊都国からの正確な位置がわからないことにはどうしようもないが。 >>187
魏使の上陸地点が中原遺跡である根拠は?
何か証拠でもあるの? >>188
>上陸地点は伊都国から逆に推定すればいいのではないかな。
伊都国が、三雲遺跡群周辺であることは動かない
そこから北西に五百里行ったら、海の中だな
つまり、魏志倭人伝の旅程はあてにならないんだよ
これが、畿内説の主張
九州説のように「魏志倭人伝が正しいと決め付けて」読むのがおかしい
どうやっても現実に合わない、末慮国からの東南陸行五百里を
正しいと強弁するために
上陸地点を、末慮国とは思えない場所(名護屋浦)に持っていったり
末慮国と伊都国の国境を、糸島平野内まで持ってきたり
している
素直に、魏志倭人伝は
「遠国の伝聞だからそこまで正確ではない」し、当然に
「史料としての限界がある」ことを認めた上で、検討をすれば済むことなのに
正しいと決め付けた上で、現実の方を捻じ曲げようとするから、トンデモにしかならない >>190
>伊都国が、三雲遺跡群周辺であることは動かない
いや、伊都国は直方辺りですよ。 @阿波 >>190
>上陸地点を、末慮国とは思えない場所(名護屋浦)に持っていったり
名護屋浦は末慮国でしょう
壱岐対馬でも方可○○里と北端から南端へ移動してますから
末慮国でも末慮国の北端に上陸したんですよ。 >>186
>魏志倭人伝によると南東方向に伊都国があるから
>魏使の上陸地点は呼子付近であると推測され
この時点でインチキ
呼子付近にしたところで、伊都国は東であって東南にはならない >>192
>壱岐対馬でも方可○○里と北端から南端へ移動してますから
この時点で根拠がないんだから、どうしようもないな >>193
呼子付近に上陸すれば移動方向がほぼ南方向と東方向だから東南なの。
>>194
行程文の中に島の外寸を記す必要はないから方可○○里も移動距離。 >>194
>末慮国でも末慮国の北端に上陸したんですよ。
今でも、道路の標識の「○○まで何キロ」という表示は、その境界までじゃなくて
中心までだよな?
http://jidoushaguide.com/wp/2017/07/06/road-sign-100-km-to-tokyo-knack-driving/
これが、地理・旅程を示すときの基本
それに、末慮国の北端に上陸しても、そこには何もないけど、そこから国の中心までは
どうやって移動するの?
船で来ているんだから、船で唐津まで行く方が楽でしょ?
壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
まあ、対馬海峡を渡るところは全部千余里に丸めてあるから、細かいことを言っても
しょうがないけど、島巡り仮説とか言い出す連中がいるから、それは行程距離には
入れないのが普通だろう、とは書いておく >>196
>壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
壱岐の例海上移動ですから船はそのままですよ。 >>196
>壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
壱岐の例だと海上移動ですから船はそのままですよ。
>それに、末慮国の北端に上陸しても、そこには何もないけど、そこから国の中心まではどうやって移動するの?
船で来ているんだから、船で唐津まで行く方が楽でしょ?
唐津に大型の外洋船が入港出来る港が整備されてなかったから、徒歩で末慮国の北端から伊都国まで移動。 魏志倭人伝の記述で陸上移動は末慮国に上陸後だけ
他に陸上移動の記述は一切無いので海上移動
帯方郡内の陸上移動も無いし壱岐対馬の陸上移動も無い
古田説みたいな朝鮮半島内を陸行なんてのも一切書かれて無い
スタート地点が帯方郡の端であり、その後も行程文は全て国邑の端から端への記述となっています。 >>199
>他に陸上移動の記述は一切無いので海上移動
海上移動のときは、水行。 その他は陸行。 九州内はすべて陸行。 @阿波 今度はまた倭人伝無視か
伊都説はどこまでメチャクチャするんだろうね 帯方郡郡治から海岸までの陸上移動の記載が無く、スタート地点は帯方郡の海岸から
狗邪韓国でも陸上の記載は無く、壱岐対馬も全て海上移動であり陸上の壱岐や対馬の中心とかは寄っても通っていない
道路の標識みたいに中心点から中心点移動の記述の仕方とは違いますね。 >>203
45度もはズレてない20〜30度くらいかな
45度も違ったら気付くよ
普通に生活してたら気が付かないくらいのズレ。 >>202
あんた、そりゃ中心地が港湾都市なだけだよ >>206
>あんた、そりゃ中心地が港湾都市なだけだよ
原の辻遺跡は、結構内陸なんだが、船着場とされる遺構があるんだよな
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16425
まあ、川港なんだろうけれど、この辺の遺構と九州説の人の
「外洋船は遠浅の海には云々」との整合性をどう考えているのかは聞いてみたい
対馬・壱岐に「上陸して補給」なしで、対馬海峡が渡れるものでもないだろう
それと、投馬国を半島南岸に設定するタイプの伊都国説の人がいるけれど、
千里×3に十日かけるというのは、どういう計算なのか聞きたい 外洋船といっても大きさはたかが知れている。
乗り換えなどしなかったろう。
頑張って1日で千里を乗り切ったのだろうね。
夜は港に停泊して、首長の接待だろ。
名前が記載されているのは、紹介されてもてなしを受けたからだ。
投馬国は宮崎県だと思うから、知らない。 >>207
古代の港は河口の潟港か河川を遡った船着き場の二択
特に干満差の大きい地域は後者一択になる
岩礁の多い地域では島陰などで潮待ちをすることはあっても港にはしない >>209
>古代の港は河口の潟港か河川を遡った船着き場の二択
これが正しい見解だよな
末慮国比定地の唐津平野の松浦川河口付近には、潟湖があったから、
そこを港にして上陸していたと考えるのが普通 >>208
>頑張って1日で千里を乗り切ったのだろうね。
これが正しい見解だよな
帯方郡から半島南部の投馬国まで20日、そこから対馬海峡を渡るのに十日とか
言ってる投馬国半島南岸説はありえない
一方で、投馬国宮崎都万説も、南水行だけでは、帯方東南にならないので、
やはり矛盾する
また、南至投馬國水行二十日(官名略)可五萬餘戸と、投馬国も戸数道里が
略載されており、自女王國以北、其戸數道里可得略載に入るので、
邪馬台国が九州北部なら、それより南方の宮崎に投馬国を求めるのは矛盾する 投馬国への里程は示されていない。
投馬国への水行は、邪馬台国へより長い。 地図で測定すればわかるが、
帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
よって、水行10日であれば、800÷10=80km/日
水行20日+10日であれば、800÷30=26.7km/日
古代船の最大速度が3ノット=時速5.5km
灯台も無い古代沿岸航海での夜間航海はありえない。
(夜間航海を主張した時点でその説は敗北)
1日10時間全力で航海したとしても、1日に進める最大距離が55km。
里程部分は連続読み
日程部分は並列読み
という主張をして、投馬国を宮崎に比定しようとしても、
現実がついてこない。 >>210
>そこを港にして上陸していたと考えるのが普通
無理してそんな所へ上陸せずとも、対馬海流に乗って相島経由の玄界灘の福間辺りへ上陸が普通。 @阿波 手漕ぎで1時間5.5kmだけでも全身筋肉痛でバッキバキになるんじゃね?w >>207
補給の為に壱岐に寄ってもわざわざ内陸の原の辻なんかには行ってないよ
一旦外海に出たら1日で乗り切る必要があるから
休息日・・・1日
狗邪韓国〜對馬國の北岸・・・1日
休息日・・・1日
對馬國の北岸〜對馬國の南岸・・・1日
休息日・・・1日
對馬國の南岸〜一大國の北岸・・・1日
休息日・・・1日
一大國の北岸〜一大國の南岸・・・1日
休息日・・・1日
一大國の南岸〜・末廬國の北岸・・1日
計10日で渡海。 >214
よって、末盧国は玄界灘の福津市辺り。(参考:万津浦) これで満足かな? @阿波 >>212
>投馬国への里程は示されていない。
道里であって、里程とは書いてない
里数でも、日数でも、道里略載として問題ない
戸数と書いてあるが、
一大國 有三千許「家」
不彌國 有千餘「家」
と、戸数ではなく家数で書かれている
これも戸数略載のうちだってのは分かるだろ
一大国も不彌国も「自女王國以北、其戸數道里可得略載」に入る
>投馬国への水行は、邪馬台国へより長い。
同様に、投馬国も「自女王國以北」に入るんだよ
わざわざ起点を帯方郡まで巻き戻すから矛盾するだけ
不彌国あたりの玄界灘沿いから出航して、
投馬国まで水行20日、それからさらに10日水行するっていう日程なんだから
何も問題は出ない >>213
里程部分も連続読み
日程部分も連続読み
里程部分と日程部分が並列読み(同じ行程)
ですよね。
突然、宮崎に行く意味がありませんよね。 >>215
>手漕ぎで1時間5.5kmだけでも全身筋肉痛でバッキバキになるんじゃね?w
だから、対馬海流をうまく利用したのですよ。 楽ちんでしょ。 古代人は偉いね。 @阿波 >>218
>補給の為に壱岐に寄ってもわざわざ内陸の原の辻なんかには行ってないよ
補給をするなら、壱岐最大の集落である「原の辻」でなければ、十分な補給にならない
ちょっと、原の辻の発掘調査報告書読んでおいで
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16425 >>218
不彌国は海に面してないよ
倭人伝の行程に従えば福岡市の南側付近だよ。 >>219
>里程部分と日程部分が並列読み(同じ行程)
並列で読むように魏志倭人伝文中で指示されていない
後代の注でも、並列読みという指摘はない
並列で読むと、南にしか行かない経路と東南へ向かう経路が同じという矛盾が出る
並列で読む根拠がない
よって不可 >>221
海岸近くに荷物を運んでもらえばいいだけだろ
一々最大の集落なんかによる必要はないよ。 狗邪韓国〜對馬國〜一大國カラカミ遺跡・・・1日
カラカミ遺跡で連日どんちゃん騒ぎ・接待の占卜・・・3日
休肝日・・・1日
原の辻遺跡で連日どんちゃん騒ぎ・接待の占卜・・・3日
休肝日・・・1日
一大國の南岸〜・末廬國の北岸・・1日
計10日で渡海。 >>222
>不彌国は海に面してないよ
当然、不彌国は海に面しているよ。 水行の出発地なんだから。
不彌国=築上町辺り @阿波 >>222
>不彌国は海に面してないよ
だから、>>218でも「不彌国『あたり』の玄界灘沿い」って書いてるでしょ
本質的には奴国から出航なのだと思うけれど、いずれにしても玄界灘沿い
北にしか海がないから、南水行はできない
これも、水行の投馬国行きが、実際には東方向ということの傍証 >>225
>狗邪韓国〜對馬國〜一大國カラカミ遺跡・・・1日
狗邪韓国〜對馬國が一番距離があるんだから、一大国まで一気に一日で行くのは
無理だよ 韓の東西は海、南は倭に接しているのだから、
南行で投馬国に着きますよん >>223
里数で説明した行程が日数の行程に変わるのが
並列で読めってことだよ
日数行程の方が国邑の集合体の投馬国と邪馬台国と大きな括りになってるから南でいいんだよ。 1日の最大距離が55kmなら海流を利用しての渡海でギリだな >>224
>海岸近くに荷物を運んでもらえばいいだけだろ
誰がその連絡をするの?
電話も電報もないんだよ?
前もって連絡する手段がないから、海を渡ってきてから、足を運ぶしかない
偉い人を海岸に残して、下っ端を行かせるというのでは、
十分な補給を出してもらえないだろ
結局、中心集落・原の辻=壱岐国までいくことになるんだよ >>227
>北にしか海がないから、南水行はできない
不彌国は海に面してないし
だから日数の行程は帯方郡から投馬国行きなんだよ。 >>232
代表者が上陸して命令を伝えればいいだけでしょ
何で全員が行かなくてはならないの? それでは僭越ながら
ここ一大国の一大率に今年から配属されましたワタクシが
大役を
この大役を
務めさせていただきまっす!!!
♪今日の お酒が 飲めるのは
張政〜さんの お・か・げ・で・す!!
張政〜さんよ あ・り・が・と・う!!
ホレ
イッキ!!イッキ!!イッキ!!イッキ!!
わーーーーーー(パチパチパチパチ
九州説のが楽しそうだなw 九州人のはしご酒は尋常じゃないからなw
アメリカ人が日本人の打ち上げフルコース(一次会→カラオケ→ちょい出てラーメン→カラオケ→夜明けの道ばた)に参加したかのような
魏使にとっては強烈に楽しい思い出だったのだろう。
倭人伝にも酒酒書いてあるしw >>230
>里数で説明した行程が日数の行程に変わるのが
>並列で読めってことだよ
そんなルールはないよ
例えば、漢書の大月氏国の記事
大月氏國,治監氏城,去長安萬一千六百里。不屬都護。戶十萬,口四十萬,勝兵十萬人。
「東至都護治所四千七百四十里」,「西至安息四十九日行」,南與罽賓接。
カギカッコの部分、里数と日数で書いてあるけど、これも並列で読むのかい?
>>230の主張はそんなデタラメなんだよ >>234
>代表者が上陸して命令を伝えればいいだけでしょ
代表者って誰?
それに、対馬海峡の渡海は、それぞれ丸一日の距離
夜に海にいるわけにはいかないから、壱岐なり、対馬なりで上陸して泊まることになる
そのときに、海岸で野営するか、中心集落まで行くか、と考えれば、
「代表者だけ行けばいい」、なんてぇのは机上の空論だって分かるだろ? 夏なら、朝早く出て夕方までに12〜14時間は移動できる。
60〜70キロといったところか。
対馬海峡を夜間に航行して流されたら遭難確実だから、島ごとに1日で渡りきっただろうね。
もし天候などの問題で1日見送ったら、それは日数に数えていないだろう。 >>234
>>>232
>代表者が上陸して命令を伝えればいいだけでしょ
>何で全員が行かなくてはならないの?
夜間は船にとどまる必要がない。
官と面通しして接待を受けただろうし。 そう考えると、帯方郡から福岡までは最短で10日でたどり着く。
あとは陸行1日。
投馬国へ行く場合は、福岡で上陸せずに南下して宮崎まで行くはずだが、実際には魏の使いは福岡止まりだったから、関門海峡の存在は知らない。 あきらめな
投馬国は朝鮮半島南岸の全て東夷伝里で四千里
帯方郡から南行で到着。
投馬国から南行で北部九州邪馬台国。 それで、お前の名前は?
どうせ三流の学者か何かなんだろう、
それとも、どこかの学校の先生、教授? キナイコシは生徒から空気のように無視された
そんな定年後の24時間ATMスレ立て爺さんだけど? >>237
里と日で単位が違うから続けては読まないでしょ
別々の方向で別の行程ですよね。 >>241
古代の船で帯方郡から福岡までは最短で10日でたどり着く!
一月は掛かりますよw >>238
使いを出すってことだよ
海岸で野営なんかしなくても海岸近くに接待用の家を建てればいいだろ
公孫氏時代から郡使は何回も往来してるんだから。 接待用の家なんて建てなくても
そこら辺の家に泊めればいいだろw
どうせ徹夜で飲み明かしてみんなグダグダで
海岸で顔を洗いながら笑い合うわけだし 投馬国宮崎説は
完全に
否定されました
反論するなら
古代船が
どうやって20日で帯方郡から宮崎まで
たどり着けるのか
説明してね 壱岐も対馬も南北に交易してたとあるから
南北に港があり港近くには人家も多少はあったろうな。 >>249
面積的にも5萬戸は宮崎には多すぎるよな。 対馬海峡を3日なら、朝鮮半島も7日で行けるだろう。
我々が思うより、倭人の船は優秀だったのだろう。 地図で測定すればわかるが、
帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
よって、水行10日であれば、800÷10=80km/日
水行20日+10日であれば、800÷30=26.7km/日
古代船の最大速度が3ノット=時速5.5km
灯台も無い古代沿岸航海での夜間航海はありえない。
(夜間航海を主張した時点でその説は敗北)
1日10時間全力で航海したとしても、1日に進める最大距離が55km。
里程部分は連続読み
日程部分は並列読み
という主張をして、投馬国を宮崎に比定しようとしても、
現実がついてこない。 1日に進める最大距離が55km
7日で進める距離は385km<<<<<帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
キナイコシは掛け算をやり直さないと
円周長の咫すら議論できないぞw 韓◎人にとっては切実な問題だからなあ。
魏志倭人伝だと北部九州倭国が先んじて広域国家を形成しているだけでなく
半島南部にも領土を持っている。
そしてそれを中国国家が金印をもって認証している。
国際状況が不安定な昨今にこれはマズいよねw
だから
あわよくば
北部九州の先進的鉄器地域は韓◎の突出領土。
倭人は鉄器のない畿内で韓◎に教えを受けて
初めて共立国家を立ち上げて(馬鹿丸出しのただ大きいだけの)巨大古墳を作り始めた。(ばーか、ばーか)
ってのが
韓◎人のキナイコシ。 >>251
福岡平野と比べても宮崎平野は面積的に見劣りしない。
農業生産高も十分ある。
西都原古墳群は全国屈指の古墳群だし、男狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳(古いホタテ型)だ。
そしてとどめは都万神社が宮崎で一番の宮として崇敬を集めてきたことだ。
字にこだわらなければ投馬国に当てるのが相応だろう。 >>256
時系列が無茶苦茶
つまり
キナイコシの攪乱戦法 >>256
>西都原古墳群は全国屈指の古墳群だし、男狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳(古いホタテ型)だ。
古墳もいいけど、弥生集落遺跡群は? @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています