伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 森浩一
「中国では連弧文鏡と呼んでいる内行花文は、花の文様ではなく、
太陽の輝きを捉えた文様だと推測されており、 天照大神そのものにふさわしい。
八咫鏡の有力候補が内行花文鏡であるということに、私は知的興奮を覚える。」
北條芳隆
「ヤマト土着の弥生文化の勢力が独自に邪馬台国の主体をになったというのはありえない。
纏向の建物の配列の仕方などは、ヤマト在地の弥生文化とは異質で九州北部の強い影響を受けていることは明らかです。
(中略) 言ってみれば、「邪馬台国東遷説」に近い考え方かもしれません」(歴史REAL抜粋)
寺澤薫
「平原一号墓の鏡はそれまでの弥生時代の王墓の副葬鏡とは大きく性格が違う。(中略)首長霊継承の秘儀には本来、
太陽の力によって首長霊を鼓舞する女性最高祭司と内行花文鏡が欠かせない存在だったという考えもある。
比類ない倭製の大鏡が内行花文鏡で、後の前期古墳にも引き続き特別扱いされていることは、その可能性を強く示している。」
(王権誕生 p249抜粋 連弧文鏡は、内行花文鏡と表記を改めました。) 伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その2
寺沢知子
「初めて国産オリジナルブランドの超大型内行花文鏡を制作した糸島平野の勢力の意図は、
初期ヤマト王権成立期に吉備や出雲主要な要素に加えて受け継がれた。
特にその初期には、王権の伝統生徒独自性を主張しうる祭祀具として、中国製ではない国産の超大型内行花文鏡が王権中枢部で作り出され、政治性が付加されて分有された。 」
福永伸哉
「やや単純化して言えば、弥生後期段階に内行花文鏡を重視した集団のネットワークの中から、古墳成立期の中央政権主流派を形成する動きが展開して言った。 」
高橋徹
「現時点において平原遺跡にその最古例を知り得る特大、大型倣製内行花文鏡は、
大和の古式の前期古墳に形式的連続性を保って連綿として用いられている。」 伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その3
今尾文昭
「前期古墳に出土の大型長宜子孫銘内行花文鏡の日本列島内への伝来と、
大型倣製内行花文鏡の製作開始時期に大きな隔たりをみる必要はないと考える。
具体的には、大型倣製内行花文鏡の製作開始時期は古墳時代前期前葉の桜井茶臼山古墳の出現以前に設定できるのではないだろうか。
平原墓出土鏡と古墳出土鏡に間隙を設ける必要はなくなる。」
清水康二
「柳本大塚、下池山古墳出土の大型内行花文鏡が含まれる大型鏡は、
王権の強い規制の元で製作され王権の意思によって被葬者の手元に届いたものと考えらえる。
その場合、当然のことながら面径30cmを超える極端な大型鏡は、中型鏡、小型鏡と比べて付加された権威はさらに大きかったものと思われる。」
辻田淳一郎
「奈良盆地の東南部に内行花文鏡系の超大型倭製鏡が集中する事実は重要である。
これは具体的には、舶載三角縁神獣鏡の配布主体と想定される。
奈良盆地東南部に墓域を営んだ初期ヤマト政権を構成した上位層が、
各地で共有される舶載三角縁神獣鏡や中国鏡とは異なる自らのアイデンティティの表現形態として
内行花文鏡系の超大型鏡を採用したものと考えることができる。」 コラムとして、「魏略と伊都国」を書きましたので公開いたします。
「平原一号墓」が女王墓であったという考古学側からの知見に対して、あくまで邪馬台国畿内説を維持しつつ、それが中国側文献に残っている痕跡はないか、という着眼点から考えました。
特に魏志の旅程記事解読において、女王国に至る「万二千里」は九州北部まででその大半を消費しているため、従来の単純な畿内説の立場では、どうしても納得的な説明を与えることができず、
「万二千里」は単なる文飾として無視する以外ないと感じていましたが、それがこの小論において、随分とスッキリしたのでは思います。これはある意味、旅程記事の解釈の大きな比重において、九州北部説側の説明に合理性を認めたという事でもあります。
(もちろん純粋な九州北部説で魏志が全て綺麗に説明されていると認めているわけでありません)
少々自身を込めて表現するなら、この小論において、共立された女王としての平原墓を文献的にも発見すると同時に、旅程記事の里程の矛盾が解けた、と言うことができるでしょう。
「膝に手を打つほどに明快」とまで感じるは人に依るところはあると思いますが、個人的には、なかなかの自信作というところでしょうか。是非ご一読ください。
http://fast-uploader.com/file/7083675628950/ 魏略との一致状況の点数表です。 平原王墓に減点要素ゼロですね。
【平原一号墓】
被葬者が女性 : ◎(2点)
王墓である : ◎(2点)
鏡が出土 : ☆(3点) *日本最大、最多
年代.... : ○(1点)
漢との交流 : ◎(2点)
万二千里におさまるか? : ◎(2点)
-----------------------------------------------------------
合計 12点
【箸墓】
被葬者が女 : ○(1点) *モモソヒメ伝承から
王墓である : ☆(3点) *古墳時代への画期を成す
鏡が出土 : ?
年代.... : X (0点)
漢との交流 : ?
万二千里におさまるか? : X X(-1点)
-----------------------------------------------------------
合計 3点 + α
以上でテンプレ終わりです。 アマゾンの電子書籍「継続としての日本古代史」を出しましたので、
岡上説として纏まったものは、そちらを参照いただけると幸甚です。
ちょっとした広告用ポスターも自作しました。
詳細はブログ( http://aroomofwisdom.blogspot.jp/ )の方をどうぞ 全スレ、スレチが云々の話がありましたが、このスレッドの趣旨は私としては、伊都国の文化の東遷になります。
邪馬台国がどこにあろうと、そこはあんまり主題ではない感じでしょうか。
少なくとも畿内自生的な考え方、九州王朝的な考え方は、趣旨ではありませんので、
前者が後者を、後者が前者を批判・罵倒するような話題が、強いて言うならスレチになります。 前スレ、丈夫がどうのの意味の話ですが、私は丈夫という単語から「背が高い」という意味を抜くのは、
炭酸の抜けたコーラみたいな読みと思いますので、感心しませんせんね。
「大夫」もそうですが、当時の士大夫の理想像としては背の高さも重要な要素かと思いますよ。
平均身長としては、人長七尺と思われていた節がありますしね。 >>9岡上
>このスレッドの趣旨は私としては、伊都国の文化の東遷になります。
「伊都国の文化」って何なんでしょうか? @阿波 引っ越しするなら髭剃り持って行くでしょ。
東遷したなら髭剃り持って行くでしょ。
鉄刀子が集落出土するのはいつよ?って話。 阿波さん
もっとも中心的なところは、もちろん巫女王による銅鏡・太陽祭祀でしょうね。 >>13岡上
>もっとも中心的なところは、もちろん巫女王による銅鏡・太陽祭祀でしょうね。
その他を是非とも聞きたいですね。 @阿波 >>10
相変わらず根拠もなく言い張るだけの駄スレか >>10
>私は丈夫という単語から「背が高い」という意味を抜くのは、
>炭酸の抜けたコーラみたいな読みと思いますので、感心しませんせんね。
お鏡さんが感心しようがしまいが、それはお鏡さん個人が恥をかくかどうかってだけで、
古代の丈夫の意味とは何の関係もないね
もともと丈が平均的な成年男子の身長を示す身体尺なんだから、
丈夫も平均的な身長の成年男子だよ
恥ずかしいね! いまだに「自分の解釈ミス」というか「もの知らずの思い込み」を
間違いだと素直に認められないってのはw 前スレ>974
いまだにドヤ顔で
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org532307.png
を貼ってくるってことは
もしかして「之」なしの所都が「都するところ」で
「之」があったら所都は「すべて」って意味になるとか考えてるのか?
あまりにもバカすぎだろ?
漢文を教えてもらえるレベルの高校に通ってないのか?
それとも、そもそも日本のカリキュラムによる教育を受けてないのか?
何度も書くが「所都」が「すべて」という意味でグーグル翻訳される理由は、
「副詞として使われる『都』」に、「すべて、いずれも、完全に」という
意味があるからだよ
「副詞」の時には、当然「王の居所、首都」という意味はない
「咸陽,秦所都」と「咸陽,秦之所都」をそれぞれグーグル翻訳にかけてごらんw
どちらも「秦の首都Xianyang」って出るから
秦所都という場合、所都が動詞表現で秦が主語
秦「之」所都の「之」は、主語を示す助詞だから、
所都が動詞表現で秦が主語なのは変わらない
「之」の意味、読み方の高校レベルでの解説(ベネッセ)を貼っておくから確認しなさい
https://kou.benesse.co.jp/nigate/japanese/a13j0305.html >>15
>相変わらず根拠もなく言い張るだけの駄スレか
ここはお鏡さん隔離スレで、ザラコクさんがこないから
伊都国説の矛盾、無謀を暴くのにちょうどいいスレだよw
お鏡さんも伊都国説だってのを隠さなくなってるしw >>13岡上
>もっとも中心的なところは、もちろん巫女王による銅鏡・太陽祭祀でしょうね。
その他を是非とも聞きたいですね。 @阿波 >もともと丈が平均的な成年男子の身長を示す身体尺なんだから、
>丈夫も平均的な身長の成年男子だよ
根拠なし >>20
>根拠なし
つ「清代 段玉裁《說文解字注》」
十尺也。从又持十。
夫部曰。周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。然則伸臂一尋。周之丈也。
故从又持十。直㒳切。十部。
さらに漢典の国語辞典で丈夫の項を見ると
丈夫
身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺左右,故以丈夫為男子的通稱。
となっていて、成年男子高八尺「左右」と、「左右」が付くことで「標準的な身長」を
示す語であることが分かる >>20
常識だろ
春秋の頃には「丈夫」と「婦人」は対語として使われている
普通の夫だ
丈夫という言葉には本来は大男という意味などない >>22、>>24
同じ人だよね?
身体尺をなんだと思ってるの?
なにがどうなら証拠を示したことになるの?
まあ、九州説の人は論理的な議論ができない人が多いから、
まともな答えが返ってくる可能性はかなり低いのは覚悟してるけど、
答えられるなら答えて欲しいな 周制、寸・尺・咫・尋・常・仞諸度量、皆以人之体為法。
説文には身体尺として、丈 がないですねぇ。
字形的にも、「手+十」で、杖を持つ様子(白川)と、十咫(藤堂)の二説あるみたいですが、
いずれも身長とは関係なさそうですが。
想像を働かせてみても、身長を物理的に用いて、何か計ることってしませんしね。
小さいものなら手で測ればいいし、地面などは歩いて計るのが普通ですよね。 >>26岡上
>もっとも中心的なところは、もちろん巫女王による銅鏡・太陽祭祀でしょうね。
岡上さん
その他を是非とも聞きたいですね。 @阿波 阿波さん
葬制を含む伊都国の文化がパッケージとして畿内に入ってきたんじゃないでしょうかね?
ですので、伊都国についてもっと知れば分かることが多いと思いますよ。 >>28
>葬制を含む伊都国の文化がパッケージとして畿内に入ってきたんじゃないでしょうかね?
畿内の墓制はなんといっても前方後円墳でしょう。 その墓制が伊都国からと?
倭国(阿波)を差し置いてそれはないでしょ。 @阿波 そして、説文解字注にあるように
歩が漢尺の体系で「歩=6漢尺」
周尺の体系で「歩=8周尺(尺=八寸)」
または 「歩=6周尺4寸(尺=十寸)」
歩が、秦漢尺体系の歩=138センチでも>>110で計算したのを再掲して
ついでに寸もつけておくと
これをもとに10寸の尺(歩=六尺四寸)で換算すると、咫は八寸だから
歩 周尺(十寸) 咫(八寸) 寸
1.35m 21.1cm 16.9cm 2.16cm
1.38m 21.6cm 17.3cm 2.11cm
8寸の尺で換算する(歩=八尺)と、咫は八寸だからこのときは尺=咫となる
歩 周尺(八寸) 咫(八寸) 寸
1.35m 16.9cm 16.9cm 2.16cm
1.38m 17.3cm 17.3cm 2.11cm
漢尺の寸=2.25cmも、周尺の寸=2.16cmも、1ミリしか違わないよ >>26
>説文には身体尺として、丈 がないですねぇ。
自分で前スレで引用していた説文解字(説文解字注)に
「夫部曰。周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。
然則伸臂一尋。周之丈也。故从又持十。直㒳切。十部。」
と書いてあるだろ?
後半部分は無視していたから、原典は見ていないのかもしれないけれど
後半部分は
「然るに則ち臂を伸ばすを一尋とす。周の丈なり。」と書いてある
尋は大人が両腕を一杯に広げた長さとして定義された身体尺
これが周代の丈
尋で書いてあるから、一見、丈がないように見えるんだよ
周制、寸・尺・咫・尋・常・仞諸度量、皆以人之体為法 >>33
>じゃあ、丈夫じゃなくて、尋夫じゃないとな
本当にケチをつけるしかできないんだな
はぁ >>26
>想像を働かせてみても、身長を物理的に用いて、何か計ることってしませんしね。
間取り >>26
>想像を働かせてみても、身長を物理的に用いて、何か計ることってしませんしね。
それを言うなら、円形物の大きさを円周長を測って示すことって、ないだろ? 議論がまだ続いているのに、
自分の主張を連張りして
具体的に論証したと一方的に勝利宣言するのは悪質だな。 議論は続いていないぞ。
みんな納得して帰っちゃったのに、畿内説が一人駄々こねてるだけw 議論は終わったよ
伊都国東遷説は可能性が消えました
それでみんな帰っちゃいました
合掌 平原一号墓は、卑弥呼の墓でも、倭王の墓でもないし
平原1号墓出土鏡は、八咫鏡ではない
短里もないし、短歩もない
秦所都と秦之所都には意味の違いはないし、
女王之所都に女王のすべてという意味はない
全部、20世紀の日本人の思いつき(一部21世紀も混じってるけど)
伊都国説、終了 九州説ではすべてがうまく説明できるが、畿内説ではすべてが矛盾するため、最後は古代史の大半を否定しなくてはいけなくなる。
どちらが正しいかわかるというもの。
畿内説は妄想、虚無主義。 >>48
>九州説ではすべてがうまく説明できるが
じゃ、「其山有丹」をうまく説明して。 @阿波 九州北部に水銀鉱脈があることは何度も示してある。
くどい。 【朱】
九州北部では佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市に水銀鉱床があり、いくつかの丹生神社(いずれも佐賀県嬉野町)も祀られている。
その他の全国の丹生都比売神を祀る神社一覧、つまり水銀朱の算出する地域の一覧
http://kamnavi.jp/ny/nyuiti.htm
中国産はプラスになる
日本産はマイナスになる
三重県丹生鉱山 -8.82 ± 2.27
奈良県大和水銀鉱山 -2.24士5.75
徳島県水井鉱山 -4.56±3.86
徳島県若杉山遺跡 -6.03 土 2.88
徳島県の朱を時系列で並べてみると
名東遺跡(弥生時代中期末) -8.8 三重産?
萩原2号墓(3世紀前葉) +8.66 中国産
萩原l号墓(3世紀前葉) +3.10 中国産
蓮華谷(古墳時代前期初頭)-7.23 (三重産もありうるが)徳島産
西山谷古墳群(古墳時代前期初頭) -2.57 ± I.22 (奈良産に見えるが)徳島産
鶴島山2号墳(古墳時代中期) -4.96 ± 3.46 徳島産
恵解山l号墳(古墳時代中期) -3.86 徳島産
産地がどちらとも取れるものは、基本的に地元徳島産と考えてよいだろう。
徳島の歴史の中で、萩原墓のみが中国産=北部九州の海外ルートと接続されている。
3世紀前葉といえば、卑弥呼健在で倭国大乱の最中だから、
中国産の朱を使っている=一大率が味方なので、
3世紀前葉の徳島萩原墳墓群は邪馬台国側だったことになる。 >>50
それがうまい説明かね? 水銀鉱脈がなにか? @阿波 >>47
>平原一号墓は、卑弥呼の墓でも、倭王の墓でもないし
根拠は?
>短里もないし
根拠は?
>秦所都と秦之所都には意味の違いはないし、
>女王之所都に女王のすべてという意味はない
何が言いたいのか分かりません?
「邪馬壹國 女王之所都」とは投馬國に対して邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味ですよ。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>54
>邪馬台国時代の遺物の出土状況
>http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
古墳の副葬品なんかどうでもいいからw
いや、だから、その根拠となる「弥生集落遺跡群」は? 示せないの? 妄想はもう腹いっぱい。 @阿波 >>52
>それがうまい説明かね? 水銀鉱脈がなにか? @阿波
その水銀鉱脈が発見されるのは、飛鳥時代に入ってから
畿内豪族が九州まで出向いて見つけている
弥生時代には存在自体知られていないから、「ない」んだよ >>48
>九州説ではすべてがうまく説明できるが、畿内説ではすべてが矛盾するため、
どこが矛盾するのか、具体的にどうぞ!w
具体論から逃げ続ける九州説w
「25センチ=歩」に頼らなきゃいけないのが、うまい説明か?ってのww >>53
>卑弥呼の墓でも、倭王の墓でもない
径百歩ではない ⇒ 卑弥呼の墓ではない
弥生終末期は各地の地域首長が巨大な墳丘墓を作るようになっている
魏志倭人伝にも、王(卑弥呼)の死に際して「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」と
記していることとも整合性が取れる
倭王の墓は、最大級の墳丘墓とみなせる
平原1号墓は、12×8メートルの小さな墳丘墓
⇒ 倭王の墓ではない >>53
>根拠は?
距離が測れるのは、
末廬國−伊都国間と
伊都国−奴国 間の2箇所しかなくて、統計処理もできないデータ数
そして実際の距離は
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
里に換算すると、50メートルと200メートルで4倍違うけど、
「短里という統一した単位」で計られているんでしたよね
そんなものある訳ないだろ?
単里なんてない >>53
>>秦所都と秦之所都には意味の違いはないし、
>>女王之所都に女王のすべてという意味はない
>何が言いたいのか分かりません?
この部分は、前スレにいた池沼連呼の頭の悪いやつへの通告
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528806114/978
>「邪馬壹國 女王之所都」とは投馬國に対して邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味ですよ。
投馬国も邪馬台国も、倭国の中の一国(地名)であって、
投馬国と邪馬台国が対置されているわけではない
この辺の読みからして無理読みなんだよな、九州説は >>61
>投馬国も邪馬台国も、倭国の中の一国(地名)であって、
投馬国と邪馬台国は書き方が他の文と違い明らかに国邑ではない
投馬国は朝鮮半島の南岸であり邪馬台国は北部九州地域の名称である
投馬国と邪馬台国を国邑と混ぜて読んでしまうから魏志倭人伝が意味不明のものとなるんだよ。 >>60
末廬國−伊都国間は(呼子〜伊都ゴルフ倶楽部)44q
伊都国(糸島)ー奴国(伊都ゴルフ倶楽部〜福岡市)8q
44q=500里=88m/1里・・・1里=80mで550里なので500里としてもおかしくない。
8q=100里=80m/1里 >>61
>投馬国も邪馬台国も、倭国の中の一国(地名)であって、
投馬国と邪馬台国は書き方が他の文と違い明らかに国邑ではない
投馬国は南部九州地域であり邪馬台国は北部九州地域の名称である
投馬国と邪馬台国を国邑と混ぜて読んでしまうから魏志倭人伝が意味不明のものとなるんだよ。 >>64
>邪馬台国は北部九州地域の名称である
北部九州地域は「其山有丹」で即死。 @阿波 >>62
>投馬国と邪馬台国は書き方が他の文と違い明らかに国邑ではない
これが根拠になってないんだよ
魏志倭人伝は、きちんと見ていくと、二国分くらいずつで、旅程の書き方を変えていっている
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
始 度一海 千餘里 至對馬國・・・方可四百餘里・・・有千餘戸
又南 渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・方可三百里・・・ 有三千許家
又 渡一海 千餘里
至末盧國 有四千餘戸
東南 陸行五百里 到伊都國・・・ 有千餘戸
東南 至奴國 百里・・・ 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里・・・ 有千餘家
南 至投馬國 水行二十日・・・ 可五萬餘戸
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日、陸行一月・・・ 可七萬餘戸
きっちり、ほぼ二カ国ごとに書き方が変わってる
末慮国のところが、水行と陸行の境目で、ちょっと対応が悪くなってるけどね
それと、邪馬台国までは、距離(道里)と戸数の情報が必ず入っている
これが、自女王國以北、其戸數道里可得略載の意味で、
投馬国が、女王国より以北であることがはっきりする
奴国、投馬国、邪馬台国の3国は、ある程度の動員が可能な領域国家に
近い段階だと思われる >>63
>末廬國−伊都国間は(呼子〜伊都ゴルフ倶楽部)44q
また適当なことを書いているなぁ
呼子と伊都ゴルフクラブの間は30キロないぞ
呼子を末慮国とするのも不適当
国の中心と見るべき遺跡が呼子にはない
伊都ゴルフクラブを伊都国とするのも不適
伊都国の中心は三雲遺跡群でもっと北になる
呼子から伊都国方向は、東であって東南にはならない
奴国の福岡市というのもごまかしがひどい
奴国の当時の中心は那珂遺跡群のあたり
伊都ゴルフクラブからでも軽く20キロくらいはあるぞ
無理やりな比定地を持ち出さなきゃいけない時点で、
筋の通らない無理読みだってのが証明されているんだよ >>67
>国の中心と見るべき遺跡が呼子にはない
そうですね。 やはり末慮国は「国の中心と見るべき遺跡」が在る宗像方面ですね。 @阿波 >>68
>さらりと嘘をつく畿内説
だから、嘘だというなら、「どこが嘘なのか『具体的に』指摘しろ」って、何度言えばw
まあ九州説は、議論・討論に耐えられるだけの知的能力がない人ばかりみたいだから、
無理な要求なのかもね
「具体的な指摘」 >>66
對馬國と一大國は島国
末盧國と伊都國は伊都国までの陸上行程
奴國と不彌國は伊都國から先の国
書き方が変わる理由がある
たまたまだね
投馬國と邪馬台国はこれらの国邑とま全く違う
これらの国邑を含んだ領域国家。
>>67
距離を脳内で測らずにグーグルマップで測ってみろよw
倭人伝の行程は国邑の端から端までを記してあり国の中心は関係ないよ
思い付きでいい加減なことを書かないように。 >>72
>對馬國と一大國は島国
>末盧國と伊都國は伊都国までの陸上行程
>奴國と不彌國は伊都國から先の国
>書き方が変わる理由がある
つまり、投馬国、邪馬台国は、水行(沿岸航行)という、それまでと異なる移動方法を
とるために、書き方が変わる理由があるってことだよな!
>たまたまだね
>>72の主張どおり、はっきりとした書き方が代わるべき理由があるんだから、
たまたまじゃないだろ?
自分の書いたことには、すぐに手のひら返しをしたりせずに、責任を持とうな! >>73
だから、帯方郡からの総日程をおさらいしたんだろ。 >>72
>投馬國と邪馬台国はこれらの国邑とま全く違う
何をもってまったく違うというのか、根拠が不明
「具体的」に書いてくれ
>これらの国邑を含んだ領域国家。
ある程度の領域国家的なものになっていただろうことには同意
萬餘戸を超える大国でも、奴国は「有」二萬餘戸なのに対し
投馬国、邪馬台国は「可」五萬餘戸、「可」七萬餘戸という書き方になっていることも
傍証といえる
ただ、それが、他の国名と重なる領域とするのは、読み方がおかしい
重なるのであれば、戸数がダブルカウントになってしまうので、その旨を示す注釈が
入らないといけない
投馬国は山陰の日本海沿岸、四隅突出墓の領域
邪馬台国は大和+河内〜環大阪湾の、畿内第V様式土器を使う領域 が
それぞれの領域国家(仮)の範囲として想定できる
無理に九州の国と重ねる理由がない >>76
>無理に九州の国と重ねる理由がない
無理じゃない。
投馬国は帯方郡から南にあり、出雲では方角が違う。
宮崎県都万が大きさから言っても妥当。 >>72
>距離を脳内で測らずにグーグルマップで測ってみろよw
きちんとYahoo!Mapで測ってあるよ
グーグルマップではないけどなw
>倭人伝の行程は国邑の端から端までを記してあり国の中心は関係ないよ
そんな計り方だったら、旅程に記された距離を足しても、総移動距離が出ないだろ?
それに、末慮国から伊都国への経路として、末慮国の国内移動を書くことになるぞ?
大陸史書の地理・旅程記事は、基本的にはその国(地域)の中心(国邑・首都)を
直線距離で方角と距離で示しているんだよ
>思い付きでいい加減なことを書かないように。
思いつきでいい加減なのは、九州説の方ww
「行程は国邑の端から端まで」だとしたら、
伊都国の端が「伊都ゴルフ倶楽部」ってのは、どっちから来たときの端なんだい?
また、手のひらクルックルで、前言撤回して、
新しい思いつきで言い逃れを試みるのかい?w 伊都国説は支持者が多いから、人により言うことが違う。
手のひらを返しているわけではない。 >>77
>無理じゃない。
無理だよw
>投馬国は帯方郡から南にあり、出雲では方角が違う。
帯方郡から南っていう時点で、無理
倭人伝冒頭に、倭人在帶方「東南」大海之中とあるのに、
帯方郡起点で、南にしか行かなかったら、倭人の領域、帯方東南大海之中には
たどりつかないだろ
出雲の方がまさに、帯方の東南だ
魏志倭人伝の記述が、方角を間違えているんだよ
倭国が南北に連なる洲島だと勘違いしているからね
>宮崎県都万が大きさから言っても妥当。
宮崎県都万に、奴国を超える人口を容れられるような遺跡はないよ
それに自女王國以北、其戸數道里可得略載から
投馬国が、女王国より以北であることがはっきりしている
北部九州が邪馬台国だと主張するなら、それより南に投馬国を持ってくるのは
無理読み 伊都国説とか本も出てないのに
どうして「支持者多い」の?
ww >>80
>伊都国説は支持者が多いから、人により言うことが違う。
>手のひらを返しているわけではない。
さっきから、私の相手をしているのは一人だと思ったんだがな?
>>63、>>64は、>>72、>>80とは別の人の書き込みだと主張するのかい?
まあ、匿名掲示板だから、何とでも言えるけれど
それはそれとして、>>72の立場からすれば、>>63は大間違いの比定地だって
ことでいいのかい?
手のひらクルックルじゃないとすると、そういうことになるんだが?w >倭人伝冒頭に、倭人在帶方「東南」大海之中とあるのに、
>帯方郡起点で、南にしか行かなかったら、倭人の領域、帯方東南大海之中には
>たどりつかないだろ
倭人は倭国だけでなく東方の倭種や黒歯国、裸国にも居ますから問題ないんです。
>宮崎県都万に、奴国を超える人口を容れられるような遺跡はないよ
投馬国は宮崎じゃありませんね、朝鮮半島の南岸ですね。 >>81
>魏志倭人伝の記述が、方角を間違えているんだよ
魏志倭人伝を信じないのに邪馬台国を語るとは笑止千万w >>81
>宮崎県都万に、奴国を超える人口を容れられるような遺跡はないよ
西都原古墳群だろ。
>それに自女王國以北、其戸數道里可得略載から
>投馬国が、女王国より以北であることがはっきりしている
投馬国は里数が記載されていないので、女王国以北に含まれない。 >>83
>>>63、>>64は、>>72、>>80とは別の人の書き込みだと主張するのかい?
自分のは80だけだね。
>それはそれとして、>>72の立場からすれば、>>63は大間違いの比定地だって
>ことでいいのかい?
少なくともゴルフ場に否定するようはアホなことは言わないよ。
そんなところは知らないし。 地図で測定すればわかるが、
帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
よって、水行10日であれば、800÷10=80km/日
水行20日+10日であれば、800÷30=26.7km/日
古代船の最大速度が3ノット=時速5.5km
灯台も無い古代沿岸航海での夜間航海はありえない。
(夜間航海を主張した時点でその説は敗北)
1日10時間全力で航海したとしても、1日に進める最大距離が55km。
里程部分は連続読み
日程部分は並列読み
という主張をして、投馬国を宮崎に比定しようとしても、
現実がついてこない。
文脈としても、
帯方郡から近い土地から先に書くわけなので、
帯方郡→まず投馬国(水行20日)があって→次に邪馬台国(水行30日陸行1日)。 魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日 >>95
伊都ゴルフ倶楽部付近は小高い丘になっている
この付近が末廬國と伊都國の境で伊都國は怡土平野。 >>97
違いますよ、
帯方郡から投馬国まで水行20日
投馬国から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤り)
宮崎は狗奴国です。 邪馬台国は福岡、佐賀、長崎、大分、熊本・・・7万戸
狗奴国は鹿児島、宮崎。 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。 >>103
倭国大乱は邪馬台国よりも前の時代
この文では結論だけで狗奴国を熊本とする理由の説明がなされていない
九州で出土した副葬品の分布地図で見ても熊本は邪馬台国の一部としか考えられないですよ
言ってることの意味が分かりませんね。 「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
この文は奴国から奴国まで有明海一周ですから熊本も邪馬台国を構成してる一部ですね。 >>84
>倭人は倭国だけでなく東方の倭種や黒歯国、裸国にも居ますから問題ないんです。
帯方郡の南に倭人がいるとはどこにも書いていない
なのに、倭王が帯方郡の南にいるっていう読み方ではダメだと言ってるんだよ
典型的な誤読・無理読み >>94
>西都原古墳群だろ。
古墳時代で語ってよいなら、その時点で畿内で終了だよ
古墳時代の前に九州に倭王の都するところがあったってのが、九州説だろ? >>94
>投馬国は里数が記載されていないので、女王国以北に含まれない。
道里であって、里数とは書いてない
日数も道里の略載法だよ
邪馬台国も日数で書いてあるが、邪馬台国までが「女王国より以北」だ
当然、投馬国も「女王国より以北」になる >>106
>この文は奴国から奴国まで有明海一周ですから熊本も邪馬台国を構成してる一部ですね。
いろんなところで書いているんだが、なかなか常識にならないな
「周旋」は、一周しない
いろいろと寄りながら進むことであり、周旋五千里は片道で五千里になる >>98
>伊都ゴルフ倶楽部付近は小高い丘になっている
>この付近が末廬國と伊都國の境で伊都國は怡土平野。
伊都ゴルフクラブは、松慮側から見て脊振山地を越えたた先じゃないか
脊振山地という自然境界の北側まで末慮国ってことは、相当に伊都国が
圧迫されてたことになるぞ
つまり、ありえない想定だってこと
九州説は、短里の不合理さを示されると、さらにそれ以上に不合理な「勝手な
条件」や「恣意的な国境線」を引き始める 末盧国は伊都の玄関口だよ。
圧迫とかそういうことはない。
場所の比定が正しいかどうかは知らないけどね。
伊都はあくまでも広域の倭国の王都だから、周辺地域はすべて支配下だよ。 >>109
>古墳時代の前に九州に倭王の都するところがあったってのが、九州説だろ?
「古墳時代の前に」という注釈は畿内説側の思い込み。 >>114
>「古墳時代の前に」
古墳時代に入ってから後も九州王朝があったというのは
ただのトンデモ >>113
>末盧国は伊都の玄関口
誰がそんなことを決めたんだい?
末慮国と伊都国の間は五百里と書かれているよ?
これは、かなりの遠距離だろう
実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね >>116
>実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね
ちゃんと魏志倭人伝に「東南陸行五百里到伊都國」と書いてあるのになんでそう思うかね? へそ曲がり? @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) >>117
>魏志倭人伝に「東南陸行五百里到伊都國」と書いてある
末慮国の東南五百里に伊都国がないからだよ
末慮国が万津浦とかいうたわ言は却下で
浦=海岸の名前を国の名前にしてはいけない >>111
まだ変なことを言ってますね
周旋とはぐるりと回ることですよ。 >>119
>まだ変なことを言ってますね
>周旋とはぐるりと回ることですよ。
三国志で、周旋で「ぐるりと回る」意味で使われているところがあったら出してくれ
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf
斡旋の意味(今でいう周旋屋)で使われているところはあっても、ぐるりと回ったり、
出発点に戻る用法で使われているのはないそうだよ >>118
>末慮国の東南五百里に伊都国がないからだよ
へそ曲がり?
>末慮国が万津浦とかいうたわ言は却下で
>浦=海岸の名前を国の名前にしてはいけない
万津浦にこだわってるわけじゃないよ。 参考まで。
末盧国(四千戸)(福津市辺り)なら満足かい? @阿波 >>121
>末盧国(四千戸)(福津市辺り)なら満足かい?
万津浦を参照しないのであれば、松浦川、末羅国造等、古代まで
遡れる地名が残る唐津平野を差し置いて、福津市辺りを末慮国とする理由はない そろそろお鏡さんが出てくるかもしれないから、ごまかせないように貼っておく
16日本@名無史さん2018/06/24(日) 10:42:35.88
>>10
>私は丈夫という単語から「背が高い」という意味を抜くのは、
>炭酸の抜けたコーラみたいな読みと思いますので、感心しませんせんね。
お鏡さんが感心しようがしまいが、それはお鏡さん個人が恥をかくかどうかってだけで、
古代の丈夫の意味とは何の関係もないね
もともと丈が平均的な成年男子の身長を示す身体尺なんだから、
丈夫も平均的な身長の成年男子だよ
恥ずかしいね! いまだに「自分の解釈ミス」というか「もの知らずの思い込み」を
間違いだと素直に認められないってのはw >>116
>実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね
魏志倭人伝を無視して妄想しても意味ない。 「東南陸行五百里 到伊都國」これは実際に末慮国から伊都国まで陸行したってことですよね。 >>120
三国志でも周旋は「ぐるぐる回る」との意味で使われてますよ
「いろいろと寄りながら進む」は誤訳ですよ
畿内説の人からも馬鹿にされる恥ずかしい間違いですね。 >>116
末盧国も伊都国も女王国の領土内なんだから
首都である伊都国に対して末盧国は玄関口ですね
伊都国が怡土平野だけで直ぐ西まで末盧国であってもそれは単なる行政区分上のこと。 >>122
>松浦川、末羅国造等、古代まで
>遡れる地名が残る唐津平野を差し置いて、福津市辺りを末慮国とする理由はない
あのねぇ、もういい加減に地名だけに頼るトンデモ説を卒業しなさいよ。 君、レベルが低いよ。
きょうび、遺跡とか遺物で証明しなきゃね。 @阿波 >>127
>三国志でも周旋は「ぐるぐる回る」との意味で使われてますよ
>「いろいろと寄りながら進む」は誤訳ですよ
>畿内説の人からも馬鹿にされる恥ずかしい間違いですね。
言い張れば済むってもんじゃないんだよ
そう取れるところを原文と解釈とともに挙げてくれ
そうしたらこっちでも解釈できるから
ただ、このネタは結構古くからあって、知ってる人は知ってるネタなんだよ
きちんと読んでる人は、周旋は、一周とか元の場所に戻る経路じゃないのを知ってる
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/history/1329627586/500 >>126
>「東南陸行五百里 到伊都國」これは実際に末慮国から伊都国まで陸行したってことですよね。
いや、そうでもないんだ
よく、魏志倭人伝の旅程記事、という呼ばれ方をしているけれど、
地理・旅程記事と呼ぶ方が実態をよく表している
大陸正史では、ある場所からどっちの方向にどれだけ離れた場所に、
どこの国(町)がある、というのを「至(到)」で表現しているんだよ
陸行と書いているから、移動しているように見えるけれどね
そもそも宇木汲田遺跡や、千々賀遺跡のある末慮国から、伊都国に行くのに
脊振山地を越えて陸行するのはバカらしい
壱岐から船で来ているのだから、そのまま伊都国へ船で向かうほうが楽
この部分は、漢代の倭国への行程記録が紛れ込んでいるのだと思う
私のオリジナルの考えではないのだけれど、末慮国から東南五百里は
松浦川沿いに筑紫平野に抜けるルートだという説に賛成
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko >>128
>伊都国が怡土平野だけで直ぐ西まで末盧国であってもそれは単なる行政区分上のこと。
行政区分などという概念は、3世紀にはないから
自然境界も何もないところに、国の呼び名が変わる境界があったらびっくりだよw >>131
>あのねぇ、もういい加減に地名だけに頼るトンデモ説を卒業しなさいよ。 君、レベルが低いよ。
相手を無意味に罵るようになったら、九州説の同類だよww
桜馬場遺跡、千々賀遺跡、宇木汲田遺跡とか、国の存在を想定できる遺跡が
唐津平野に揃ってるんだから、これと松浦(現在)、末羅国(古代)という地名と
合わせて考えるに決まってるだろw >>134
そうじゃなくて、伊都国と末盧国はお互いに張り合うような独立した関係ではないでしょう、という意味だろ。 >>135
>桜馬場遺跡、千々賀遺跡、宇木汲田遺跡とか、国の存在を想定できる遺跡
それらはとても「国の存在を想定できる」ほどの遺跡じゃないでしょ。 せいぜい邑程度。 甕棺墓地じゃね。 仕方ないよ。
とにかく、これといった弥生末期集落遺跡が無さすぎ。 @阿波 >>136
>伊都国と末盧国はお互いに張り合うような独立した関係ではないでしょう
張り合わなくて、同じ平野にいたら一つの国になって、伊都国と末慮国の間の
国境線はあり得ないってこと >>137
>せいぜい邑程度。 甕棺墓地じゃね。
千々賀遺跡は、墓地だけじゃない複合遺跡群だよ
平成12年(2000年)に漆の蓋状のものや直径40センチの柱や板材などが出土。
周辺では、甕棺と銅鉾、銅戈などが出土した千々賀庚申遺跡、銅の腕輪が出土
した千々賀宇ノ木遺跡があり、久里双水古墳も近いなどの理由から、それまで
不明とされてきた魏志倭人伝に記載されている末盧国の拠点ではないかと話題に
なった。
その時発掘された、蓋状の漆品のうち、形状のしっかりしたものは2枚。このうち
1枚は、ほかの遺跡でも見られるように、全体を黒漆で塗り、中心の小丸と外円の
やや内側に赤色の漆で丸い線が描かれている。
もう1枚は、前の線に加えて、幾何鋸歯紋と呼ばれる、細かい三角形の文様や、
斜線、細線などが描かれている。青銅器にはみられるが、漆品に見る国内での出土
例は初めてとされた。 >>139
糸島市の中央には小高い山脈みたいのがあって東西に平野が分かれてるよ。 >>140
>千々賀遺跡は、墓地だけじゃない複合遺跡群だよ
いや、だからせいぜい邑程度なんだよ、倭国(阿波)の集落遺跡と比べたら。 @阿波 >>137
松浦は唐津平野付近だけじゃなくて長崎県から佐賀県北部一帯の地名だよ。 >>139
そうだね
かなり糸島と唐津は当時はかなり近しい存在だと思われるよ
中原遺跡の弥生終末期の墓で
平原1号墓と規模と構成が類似する墓がある
破砕鏡も伴うが副葬品は平原に及ばない >>141
>糸島市の中央には小高い山脈みたいのがあって東西に平野が分かれてるよ。
どれのこと?
地名で教えて
微高地程度なら、むしろ集落が作られやすい場所になるんだが? >>143
>松浦は唐津平野付近だけじゃなくて長崎県から佐賀県北部一帯の地名だよ。
松浦郡のことでしょ?
それはそれで、古代の末慮国の範囲を考える上ではあまり参考にならないと思う >>144
親しいかどうかは別だけどな
対外貿易の利権を取られてるだろう >>144
>中原遺跡の弥生終末期の墓で
>平原1号墓と規模と構成が類似する墓がある
てことは、平原1号墓は、そこらの一族の墓と同程度の規模ってことだよね
倭王墓に見立てるのは無理でしょ >>139
環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。 >>147
伊都にいた一大率が伊都から北を統率したとあるのだから、当然末盧も含むだろ。
末盧で荷揚げした物資を確認して帳簿と付け合わせて女王の元に届けるのも一大率の仕事だよ。 >>148
副葬品の規模が違うと書いてあるのが読めないのか? >>149
>環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。
そういう主張はありうると思うけれど、九州説の
「魏志倭人伝の旅程は正しい」
「距離は短里」
という主張とは相容れないんだ
国がかなりピンポイントになるだろ >>150
>当然末盧も含むだろ
含むかどうかじゃなくて、東南「五百里の遠地」だって言ってるんだよ >>151
>副葬品の規模が違う
規模が違うっていっても、仿製鏡の割れたのがやたらたくさんあるってだけじゃん
もらったはずの舶載の魏晋鏡が一枚も出てないんだし >>153
面で発掘できているわけじゃないから、邑程度ってのもただの推測だろ
千々賀遺跡「群」と呼びうる広がりが確認できてるんだから、
当時の国としては十分だと思うが? >>150
>末盧で荷揚げした物資を確認して帳簿と付け合わせて女王の元に届けるのも一大率の仕事だよ。
内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 >>152
ピンポイントに決まっているだろ。
それが九州説と相入れないという理由は? 阿波は、結論ありきで絡んでくるだけだから、積極的に反論する必要を感じないんだよな
阿波の言う万津浦に上陸した後の、伊都国の比定地も「否定地」だし >>158
九州説は、人ごとにいうことが違うから困るなww
ピンポイントで、末慮国を糸島平野内まで持ってくるなら、
末慮国はどこになるのか教えてくれw >>154
幅三千里の対馬海峡全域が一大率の支配下なのだから、500里なんてすぐだろ?
何か問題か? >>155
何言っているんだ?
もう一度平原遺跡の出土品リストを見直せよ?
そろそろ恥ずかしいぞ。 >>160
ピンポイントに港に決まっているだろ。
なんで内陸なんだよ。 >>161
いやむしろ、伊都の一大卒が船出するのが末盧だな。 >>156
>千々賀遺跡「群」と呼びうる広がりが確認できてるんだから、
どんな遺跡の広がり???
>当時の国としては十分だと思うが?
とても国レベルじゃないよ。 @阿波 >>163
>ピンポイントに港に決まっているだろ。
>なんで内陸なんだよ。
つ >>149「環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。」
環濠集落ならピンポイントになるぞっていう話、もともとは
同じ平野内で、別の国ってのはないだろう
↓
環濠集落なら別の国でもいいだろ?
↓
それだとピンポイントになるし、末慮国の環濠集落(糸島平野)はどこ?
↓
ピンポイントに決まってるだろ >>163が話の流れも追わずに乱入
九州説は、人ごとにいうことが違うから困るなww >>145
伊都ゴルフ倶楽部が在るあたりだよ
分水嶺になってるだろ。 >>146
末慮国は唐津市付近だけではなくもっと広範囲だったんだよ。 >>162
刀なら、丹波の方が立派なのが出てるな
ガラス製品も、大風呂南墳丘墓の方が豪華
舶載鏡は、100年以上古いのが2枚だけ
仿製鏡の枚数は多いけれど、破砕鏡でつぼにも入れずに墳丘にばらまかれている
鏡の種類・枚数では桜井茶臼山に勝てない
で、どこをどう見ると、王墓になるんだ? >>164
>いやむしろ、伊都の一大卒が船出するのが末盧だな。
いやむしろどうして伊都国から船出しないんだ? >>150
一大率は伊都国ではなく女王国以北に居たと記述されてるよ
この範囲には末盧も含むだろけどね
一大率のは検察だから女王の元に届けるのは一大率の仕事ではないよ。 >>170
当時の伊都国の浜辺は遠浅で大きな船が着けなかったんだよ。 >>167
>伊都ゴルフ倶楽部が在るあたりだよ
>分水嶺になってるだろ。
どことどこの分水嶺?
そのゴルフクラブの西側も、東側も船越湾に流れていく川なんだけれど >>160
末慮国自体は広範囲な国邑だけど
魏使が着岸したのは呼子付近だな
名護屋浦に入港したんだ。 >>173
ヤーフー地図で地形図に切り替えてみると分かるよ。 >>174
それは、糸島平野内に末慮国と伊都国の国境をもってくる理由にはならないよな?
まあ、名護屋浦に入港ってのもないけど >>176
糸島平野内に末慮国と伊都国の国境をもってくる理由は呼子付近から500里です。 >>169
細切れに一部だけ見ればなんとでも言えるが、それらが揃っているところが重要。
そして構成として三種の神器となっていること。 >>170
伊都に海がないからだろ。
ピンポイントの地名だから。 >>168
>末慮国は唐津市付近だけではなくもっと広範囲だったんだよ。
なんか、範囲を広げた「畿内説」みたいだね。 @阿波 >>169
壺って…そんな事いう人初めて聞いたわ
破砕鏡は糸島、唐津あたりの文化だね
鏡をわざと割って副葬した事で、ほぼ元鏡に戻せる鏡が多いのが平原
つまり完鏡の物がかなりの数あった、という事
それにバラまいてはないよ
副葬位置も意味がある様に見える
茶臼山は破片をを集めてバラまいてる。
平原の破砕鏡とは別物
鏡の材料かもしれん
だから元の鏡に戻せる鏡は無いんだよね
だから破片一つでも鏡の枚数に入るから多くなるのだよ
年代も平原より50〜100年新しいのでは?
比べる意味が無い
それと、銅鏡は中国産かどうかで鏡の価値の違いは見当たらないよ
というか区別できないと思うよ
現代でも成分を調べてもはっきりしないのだから
どちらかというと鏡の種類が関係がある
やはりその扱いは三角は一段落ちる >>183
平原遺跡も、超大型内行花文鏡の1枚は破片一つが別の個体由来であることがわかって1枚カウントが増えたので、破片一つだったはず。
残りの破片は関係者が形見分けしたんだろうね。
つまり筑紫の破鏡も畿内の破鏡もまったく同じ文化だよ。
しかし年代的に筑紫の方が早いから、筑紫の文化が畿内の葬送形式の基礎となっている。
しかもどちらも内行花文鏡を至高としている。
レガリアを共有しているので、畿内王権が筑紫の王権の末裔または分家であることは、考古学的にも明白だよ。 >>184
銅鏡ごときが頼りとはw もう諦めたら? @阿波 >>181
末慮国の範囲なんて魏志倭人伝では分からない
現在の地名からすると唐津市付近だけに限定するのはおかしいだろ
魏志倭人伝によると南東方向に伊都国があるから
魏使の上陸地点は呼子付近であると推測され
そこから500里ですから糸島市の中央付近が末慮国と伊都国の境で
伊都国は怡土平野だけの範囲で100里(約8q)で通り抜けて奴国(福岡市)へ行けたんだ。 魏使の上陸地点は中原遺跡のあるところと考えられているよ。
中原遺跡から東南に行ったら佐賀の方だろ?
糸島半島じゃない。 上陸地点は伊都国から逆に推定すればいいのではないかな。
その伊都国からの正確な位置がわからないことにはどうしようもないが。 >>187
魏使の上陸地点が中原遺跡である根拠は?
何か証拠でもあるの? >>188
>上陸地点は伊都国から逆に推定すればいいのではないかな。
伊都国が、三雲遺跡群周辺であることは動かない
そこから北西に五百里行ったら、海の中だな
つまり、魏志倭人伝の旅程はあてにならないんだよ
これが、畿内説の主張
九州説のように「魏志倭人伝が正しいと決め付けて」読むのがおかしい
どうやっても現実に合わない、末慮国からの東南陸行五百里を
正しいと強弁するために
上陸地点を、末慮国とは思えない場所(名護屋浦)に持っていったり
末慮国と伊都国の国境を、糸島平野内まで持ってきたり
している
素直に、魏志倭人伝は
「遠国の伝聞だからそこまで正確ではない」し、当然に
「史料としての限界がある」ことを認めた上で、検討をすれば済むことなのに
正しいと決め付けた上で、現実の方を捻じ曲げようとするから、トンデモにしかならない >>190
>伊都国が、三雲遺跡群周辺であることは動かない
いや、伊都国は直方辺りですよ。 @阿波 >>190
>上陸地点を、末慮国とは思えない場所(名護屋浦)に持っていったり
名護屋浦は末慮国でしょう
壱岐対馬でも方可○○里と北端から南端へ移動してますから
末慮国でも末慮国の北端に上陸したんですよ。 >>186
>魏志倭人伝によると南東方向に伊都国があるから
>魏使の上陸地点は呼子付近であると推測され
この時点でインチキ
呼子付近にしたところで、伊都国は東であって東南にはならない >>192
>壱岐対馬でも方可○○里と北端から南端へ移動してますから
この時点で根拠がないんだから、どうしようもないな >>193
呼子付近に上陸すれば移動方向がほぼ南方向と東方向だから東南なの。
>>194
行程文の中に島の外寸を記す必要はないから方可○○里も移動距離。 >>194
>末慮国でも末慮国の北端に上陸したんですよ。
今でも、道路の標識の「○○まで何キロ」という表示は、その境界までじゃなくて
中心までだよな?
http://jidoushaguide.com/wp/2017/07/06/road-sign-100-km-to-tokyo-knack-driving/
これが、地理・旅程を示すときの基本
それに、末慮国の北端に上陸しても、そこには何もないけど、そこから国の中心までは
どうやって移動するの?
船で来ているんだから、船で唐津まで行く方が楽でしょ?
壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
まあ、対馬海峡を渡るところは全部千余里に丸めてあるから、細かいことを言っても
しょうがないけど、島巡り仮説とか言い出す連中がいるから、それは行程距離には
入れないのが普通だろう、とは書いておく >>196
>壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
壱岐の例海上移動ですから船はそのままですよ。 >>196
>壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
壱岐の例だと海上移動ですから船はそのままですよ。
>それに、末慮国の北端に上陸しても、そこには何もないけど、そこから国の中心まではどうやって移動するの?
船で来ているんだから、船で唐津まで行く方が楽でしょ?
唐津に大型の外洋船が入港出来る港が整備されてなかったから、徒歩で末慮国の北端から伊都国まで移動。 魏志倭人伝の記述で陸上移動は末慮国に上陸後だけ
他に陸上移動の記述は一切無いので海上移動
帯方郡内の陸上移動も無いし壱岐対馬の陸上移動も無い
古田説みたいな朝鮮半島内を陸行なんてのも一切書かれて無い
スタート地点が帯方郡の端であり、その後も行程文は全て国邑の端から端への記述となっています。 >>199
>他に陸上移動の記述は一切無いので海上移動
海上移動のときは、水行。 その他は陸行。 九州内はすべて陸行。 @阿波 今度はまた倭人伝無視か
伊都説はどこまでメチャクチャするんだろうね 帯方郡郡治から海岸までの陸上移動の記載が無く、スタート地点は帯方郡の海岸から
狗邪韓国でも陸上の記載は無く、壱岐対馬も全て海上移動であり陸上の壱岐や対馬の中心とかは寄っても通っていない
道路の標識みたいに中心点から中心点移動の記述の仕方とは違いますね。 >>203
45度もはズレてない20〜30度くらいかな
45度も違ったら気付くよ
普通に生活してたら気が付かないくらいのズレ。 >>202
あんた、そりゃ中心地が港湾都市なだけだよ >>206
>あんた、そりゃ中心地が港湾都市なだけだよ
原の辻遺跡は、結構内陸なんだが、船着場とされる遺構があるんだよな
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16425
まあ、川港なんだろうけれど、この辺の遺構と九州説の人の
「外洋船は遠浅の海には云々」との整合性をどう考えているのかは聞いてみたい
対馬・壱岐に「上陸して補給」なしで、対馬海峡が渡れるものでもないだろう
それと、投馬国を半島南岸に設定するタイプの伊都国説の人がいるけれど、
千里×3に十日かけるというのは、どういう計算なのか聞きたい 外洋船といっても大きさはたかが知れている。
乗り換えなどしなかったろう。
頑張って1日で千里を乗り切ったのだろうね。
夜は港に停泊して、首長の接待だろ。
名前が記載されているのは、紹介されてもてなしを受けたからだ。
投馬国は宮崎県だと思うから、知らない。 >>207
古代の港は河口の潟港か河川を遡った船着き場の二択
特に干満差の大きい地域は後者一択になる
岩礁の多い地域では島陰などで潮待ちをすることはあっても港にはしない >>209
>古代の港は河口の潟港か河川を遡った船着き場の二択
これが正しい見解だよな
末慮国比定地の唐津平野の松浦川河口付近には、潟湖があったから、
そこを港にして上陸していたと考えるのが普通 >>208
>頑張って1日で千里を乗り切ったのだろうね。
これが正しい見解だよな
帯方郡から半島南部の投馬国まで20日、そこから対馬海峡を渡るのに十日とか
言ってる投馬国半島南岸説はありえない
一方で、投馬国宮崎都万説も、南水行だけでは、帯方東南にならないので、
やはり矛盾する
また、南至投馬國水行二十日(官名略)可五萬餘戸と、投馬国も戸数道里が
略載されており、自女王國以北、其戸數道里可得略載に入るので、
邪馬台国が九州北部なら、それより南方の宮崎に投馬国を求めるのは矛盾する 投馬国への里程は示されていない。
投馬国への水行は、邪馬台国へより長い。 地図で測定すればわかるが、
帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
よって、水行10日であれば、800÷10=80km/日
水行20日+10日であれば、800÷30=26.7km/日
古代船の最大速度が3ノット=時速5.5km
灯台も無い古代沿岸航海での夜間航海はありえない。
(夜間航海を主張した時点でその説は敗北)
1日10時間全力で航海したとしても、1日に進める最大距離が55km。
里程部分は連続読み
日程部分は並列読み
という主張をして、投馬国を宮崎に比定しようとしても、
現実がついてこない。 >>210
>そこを港にして上陸していたと考えるのが普通
無理してそんな所へ上陸せずとも、対馬海流に乗って相島経由の玄界灘の福間辺りへ上陸が普通。 @阿波 手漕ぎで1時間5.5kmだけでも全身筋肉痛でバッキバキになるんじゃね?w >>207
補給の為に壱岐に寄ってもわざわざ内陸の原の辻なんかには行ってないよ
一旦外海に出たら1日で乗り切る必要があるから
休息日・・・1日
狗邪韓国〜對馬國の北岸・・・1日
休息日・・・1日
對馬國の北岸〜對馬國の南岸・・・1日
休息日・・・1日
對馬國の南岸〜一大國の北岸・・・1日
休息日・・・1日
一大國の北岸〜一大國の南岸・・・1日
休息日・・・1日
一大國の南岸〜・末廬國の北岸・・1日
計10日で渡海。 >214
よって、末盧国は玄界灘の福津市辺り。(参考:万津浦) これで満足かな? @阿波 >>212
>投馬国への里程は示されていない。
道里であって、里程とは書いてない
里数でも、日数でも、道里略載として問題ない
戸数と書いてあるが、
一大國 有三千許「家」
不彌國 有千餘「家」
と、戸数ではなく家数で書かれている
これも戸数略載のうちだってのは分かるだろ
一大国も不彌国も「自女王國以北、其戸數道里可得略載」に入る
>投馬国への水行は、邪馬台国へより長い。
同様に、投馬国も「自女王國以北」に入るんだよ
わざわざ起点を帯方郡まで巻き戻すから矛盾するだけ
不彌国あたりの玄界灘沿いから出航して、
投馬国まで水行20日、それからさらに10日水行するっていう日程なんだから
何も問題は出ない >>213
里程部分も連続読み
日程部分も連続読み
里程部分と日程部分が並列読み(同じ行程)
ですよね。
突然、宮崎に行く意味がありませんよね。 >>215
>手漕ぎで1時間5.5kmだけでも全身筋肉痛でバッキバキになるんじゃね?w
だから、対馬海流をうまく利用したのですよ。 楽ちんでしょ。 古代人は偉いね。 @阿波 >>218
>補給の為に壱岐に寄ってもわざわざ内陸の原の辻なんかには行ってないよ
補給をするなら、壱岐最大の集落である「原の辻」でなければ、十分な補給にならない
ちょっと、原の辻の発掘調査報告書読んでおいで
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16425 >>218
不彌国は海に面してないよ
倭人伝の行程に従えば福岡市の南側付近だよ。 >>219
>里程部分と日程部分が並列読み(同じ行程)
並列で読むように魏志倭人伝文中で指示されていない
後代の注でも、並列読みという指摘はない
並列で読むと、南にしか行かない経路と東南へ向かう経路が同じという矛盾が出る
並列で読む根拠がない
よって不可 >>221
海岸近くに荷物を運んでもらえばいいだけだろ
一々最大の集落なんかによる必要はないよ。 狗邪韓国〜對馬國〜一大國カラカミ遺跡・・・1日
カラカミ遺跡で連日どんちゃん騒ぎ・接待の占卜・・・3日
休肝日・・・1日
原の辻遺跡で連日どんちゃん騒ぎ・接待の占卜・・・3日
休肝日・・・1日
一大國の南岸〜・末廬國の北岸・・1日
計10日で渡海。 >>222
>不彌国は海に面してないよ
当然、不彌国は海に面しているよ。 水行の出発地なんだから。
不彌国=築上町辺り @阿波 >>222
>不彌国は海に面してないよ
だから、>>218でも「不彌国『あたり』の玄界灘沿い」って書いてるでしょ
本質的には奴国から出航なのだと思うけれど、いずれにしても玄界灘沿い
北にしか海がないから、南水行はできない
これも、水行の投馬国行きが、実際には東方向ということの傍証 >>225
>狗邪韓国〜對馬國〜一大國カラカミ遺跡・・・1日
狗邪韓国〜對馬國が一番距離があるんだから、一大国まで一気に一日で行くのは
無理だよ 韓の東西は海、南は倭に接しているのだから、
南行で投馬国に着きますよん >>223
里数で説明した行程が日数の行程に変わるのが
並列で読めってことだよ
日数行程の方が国邑の集合体の投馬国と邪馬台国と大きな括りになってるから南でいいんだよ。 1日の最大距離が55kmなら海流を利用しての渡海でギリだな >>224
>海岸近くに荷物を運んでもらえばいいだけだろ
誰がその連絡をするの?
電話も電報もないんだよ?
前もって連絡する手段がないから、海を渡ってきてから、足を運ぶしかない
偉い人を海岸に残して、下っ端を行かせるというのでは、
十分な補給を出してもらえないだろ
結局、中心集落・原の辻=壱岐国までいくことになるんだよ >>227
>北にしか海がないから、南水行はできない
不彌国は海に面してないし
だから日数の行程は帯方郡から投馬国行きなんだよ。 >>232
代表者が上陸して命令を伝えればいいだけでしょ
何で全員が行かなくてはならないの? それでは僭越ながら
ここ一大国の一大率に今年から配属されましたワタクシが
大役を
この大役を
務めさせていただきまっす!!!
♪今日の お酒が 飲めるのは
張政〜さんの お・か・げ・で・す!!
張政〜さんよ あ・り・が・と・う!!
ホレ
イッキ!!イッキ!!イッキ!!イッキ!!
わーーーーーー(パチパチパチパチ
九州説のが楽しそうだなw 九州人のはしご酒は尋常じゃないからなw
アメリカ人が日本人の打ち上げフルコース(一次会→カラオケ→ちょい出てラーメン→カラオケ→夜明けの道ばた)に参加したかのような
魏使にとっては強烈に楽しい思い出だったのだろう。
倭人伝にも酒酒書いてあるしw >>230
>里数で説明した行程が日数の行程に変わるのが
>並列で読めってことだよ
そんなルールはないよ
例えば、漢書の大月氏国の記事
大月氏國,治監氏城,去長安萬一千六百里。不屬都護。戶十萬,口四十萬,勝兵十萬人。
「東至都護治所四千七百四十里」,「西至安息四十九日行」,南與罽賓接。
カギカッコの部分、里数と日数で書いてあるけど、これも並列で読むのかい?
>>230の主張はそんなデタラメなんだよ >>234
>代表者が上陸して命令を伝えればいいだけでしょ
代表者って誰?
それに、対馬海峡の渡海は、それぞれ丸一日の距離
夜に海にいるわけにはいかないから、壱岐なり、対馬なりで上陸して泊まることになる
そのときに、海岸で野営するか、中心集落まで行くか、と考えれば、
「代表者だけ行けばいい」、なんてぇのは机上の空論だって分かるだろ? 夏なら、朝早く出て夕方までに12〜14時間は移動できる。
60〜70キロといったところか。
対馬海峡を夜間に航行して流されたら遭難確実だから、島ごとに1日で渡りきっただろうね。
もし天候などの問題で1日見送ったら、それは日数に数えていないだろう。 >>234
>>>232
>代表者が上陸して命令を伝えればいいだけでしょ
>何で全員が行かなくてはならないの?
夜間は船にとどまる必要がない。
官と面通しして接待を受けただろうし。 そう考えると、帯方郡から福岡までは最短で10日でたどり着く。
あとは陸行1日。
投馬国へ行く場合は、福岡で上陸せずに南下して宮崎まで行くはずだが、実際には魏の使いは福岡止まりだったから、関門海峡の存在は知らない。 あきらめな
投馬国は朝鮮半島南岸の全て東夷伝里で四千里
帯方郡から南行で到着。
投馬国から南行で北部九州邪馬台国。 それで、お前の名前は?
どうせ三流の学者か何かなんだろう、
それとも、どこかの学校の先生、教授? キナイコシは生徒から空気のように無視された
そんな定年後の24時間ATMスレ立て爺さんだけど? >>237
里と日で単位が違うから続けては読まないでしょ
別々の方向で別の行程ですよね。 >>241
古代の船で帯方郡から福岡までは最短で10日でたどり着く!
一月は掛かりますよw >>238
使いを出すってことだよ
海岸で野営なんかしなくても海岸近くに接待用の家を建てればいいだろ
公孫氏時代から郡使は何回も往来してるんだから。 接待用の家なんて建てなくても
そこら辺の家に泊めればいいだろw
どうせ徹夜で飲み明かしてみんなグダグダで
海岸で顔を洗いながら笑い合うわけだし 投馬国宮崎説は
完全に
否定されました
反論するなら
古代船が
どうやって20日で帯方郡から宮崎まで
たどり着けるのか
説明してね 壱岐も対馬も南北に交易してたとあるから
南北に港があり港近くには人家も多少はあったろうな。 >>249
面積的にも5萬戸は宮崎には多すぎるよな。 対馬海峡を3日なら、朝鮮半島も7日で行けるだろう。
我々が思うより、倭人の船は優秀だったのだろう。 地図で測定すればわかるが、
帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
よって、水行10日であれば、800÷10=80km/日
水行20日+10日であれば、800÷30=26.7km/日
古代船の最大速度が3ノット=時速5.5km
灯台も無い古代沿岸航海での夜間航海はありえない。
(夜間航海を主張した時点でその説は敗北)
1日10時間全力で航海したとしても、1日に進める最大距離が55km。
里程部分は連続読み
日程部分は並列読み
という主張をして、投馬国を宮崎に比定しようとしても、
現実がついてこない。 1日に進める最大距離が55km
7日で進める距離は385km<<<<<帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
キナイコシは掛け算をやり直さないと
円周長の咫すら議論できないぞw 韓◎人にとっては切実な問題だからなあ。
魏志倭人伝だと北部九州倭国が先んじて広域国家を形成しているだけでなく
半島南部にも領土を持っている。
そしてそれを中国国家が金印をもって認証している。
国際状況が不安定な昨今にこれはマズいよねw
だから
あわよくば
北部九州の先進的鉄器地域は韓◎の突出領土。
倭人は鉄器のない畿内で韓◎に教えを受けて
初めて共立国家を立ち上げて(馬鹿丸出しのただ大きいだけの)巨大古墳を作り始めた。(ばーか、ばーか)
ってのが
韓◎人のキナイコシ。 >>251
福岡平野と比べても宮崎平野は面積的に見劣りしない。
農業生産高も十分ある。
西都原古墳群は全国屈指の古墳群だし、男狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳(古いホタテ型)だ。
そしてとどめは都万神社が宮崎で一番の宮として崇敬を集めてきたことだ。
字にこだわらなければ投馬国に当てるのが相応だろう。 >>256
時系列が無茶苦茶
つまり
キナイコシの攪乱戦法 >>256
>西都原古墳群は全国屈指の古墳群だし、男狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳(古いホタテ型)だ。
古墳もいいけど、弥生集落遺跡群は? @阿波 韓◎人にとっては切実な問題だからなあ。
魏志倭人伝だと北部九州倭国が先んじて広域国家を形成しているだけでなく
半島南部にも領土を持っている。
そしてそれを中国国家が金印をもって認証している。
国際状況が不安定な昨今にこれはマズいよねw
だから
あわよくば
北部九州の先進的鉄器地域は韓◎の突出領土。
倭人は鉄器のない畿内で韓◎に教えを受けて
初めて共立国家を立ち上げて(馬鹿丸出しのただ大きいだけの)巨大古墳を作り始めた。(ばーか、ばーか)
ってのが
韓◎人のキナイコシ。 700年頃の日向の人口が3万人、1600年頃で9万人
3世紀に5万戸は無理だな。 700年頃の阿波の人口が5万人、1600年頃で13万人
3世紀に7万戸は無理だな。 >>245
>里と日で単位が違うから続けては読まないでしょ
大月氏国を中心に、東と西で繋がってるだろ?
これを、「里程と日程で書いてあるから、同じ経路を二通りに記してる」とは言わないだろ?
魏志倭人伝の地理・旅程記事も同じように読めばいいんだよ
>別々の方向で別の行程ですよね。
魏志倭人伝もそうだろ?
奴国・不彌国あたりまで西から来て、そこから東へ進む別の行程だよ >>262
>魏志倭人伝の地理・旅程記事も同じように読めばいいんだよ
同じで良いという根拠は? >>247
>海岸で野営なんかしなくても海岸近くに接待用の家を建てればいいだろ
その接待用の家は、いつ誰が、どんな情報をもとに建てるんだよ?ww
どんどん支離滅裂になってくるな
普通に、国の中心までみんなで行って、接待されながら泊まれば済むことだろうに
場合によっては潮待ち(天候待ち)も必要だろうし、その間も海辺の仮小屋で魏使を
過ごさせると想定してるのがすごいな
最初に、「内陸には行かない」って書いたのを、間違ってましたといえば済むのに
それができないのが九州説の人だよな はあ?
九州説だけど、はじめからその国邑の官が出迎えて接待したはずと言っているだろ。
海岸云々は畿内説か、朝鮮半島南岸に投馬国があるとかいっている馬鹿だろ? >>262
>大月氏国を中心に、東と西で繋がってるだろ?
東西ですから別方向で繋がってませんよw
連続して繋げては読まないでしょ、連続して繋げて読む例なんてありませんよ。
>これを、「里程と日程で書いてあるから、同じ経路を二通りに記してる」とは言わないだろ?
比較例になってないってことですね。
>魏志倭人伝もそうだろ?
>奴国・不彌国あたりまで西から来て、そこから東へ進む別の行程だよ
貴方の思い込みですね。 >>263
>同じで良いという根拠は?
いつも同じようなまぜっかえししか書かないが、
同じように書いてあるものは同じように読むのが当然だろう
逆に、「同じように書いてあるのに、ここだけは違う読み方(並列読み)をするんだ」と
主張する方が、違う読み方をすることを正当化できるだけの根拠を出す必要があるんだよ
挙証責任て言葉は知っているかい? 日程と里程ではそもそも同じ書き方ではないだろう。
前提が誤っている。 >>264
公孫氏の時代から郡使は度々、倭を訪れているんだよ
ルートも何時も決まってたんだよ
港には常設の休憩所くらいあっただろ
普段は交易の船用にも使えるし
遊びに寄るのではなく目的地までの通過地点だよ
対馬海峡の潮待ちや天候待ちも船の近くで出来るし
国邑の中心に寄らなければならないと主張する理由が分からないな
倭人伝にはそんな記述もない。 一大国の国邑の中心地は辻の原遺跡とされてるが
辻の原遺跡は島の西側にあって内陸に1qほど入っている
南側の印通寺浦からは2qくらい
郷ノ浦からは6qくらいか
魏使が一大国を通る際は勝本港、印通寺浦〜呼子だろうな。 >>270
国邑の中心に寄らなければならないと主張する理由が分からない?
官名や人口の記載があるのに? >>272
>辻の原遺跡は島の西側にあって内陸に1qほど入っている
うそつくな このスレに島巡り説はいないから、いちいち言わなくていいよ。 >>273
官名や人口を数えたのは新たに派遣された魏使ではなく公孫氏時代の郡使ですね
張政等は卑弥呼に会うのが目的ですから道草してる余裕はない。
>>274、>>275
ちゃんと確認してよw >>269
>日程と里程ではそもそも同じ書き方ではないだろう。
>前提が誤っている。
話を曲げるなよ
九州説側が>>219で
「里程部分も連続読み
日程部分も連続読み
里程部分と日程部分が並列読み(同じ行程)」
と言い出したから>>223で私が
「並列で読むように魏志倭人伝文中で指示されていない
後代の注でも、並列読みという指摘はない
並列で読むと、南にしか行かない経路と東南へ向かう経路が同じという矛盾が出る
並列で読む根拠がない 」
と指摘
>>230で九州説側が
「里数で説明した行程が日数の行程に変わるのが
並列で読めってことだよ 」
と駄々を捏ねるから、>>237で私が大月氏国の例を挙げて
里数表示と日数表示が並列読みを意味するわけではないことを例示した訳だ
「同じ書き方じゃないから」並列読みというのは、成り立たないのは分かったかな? そもそも原の辻に寄らないって言い出したのは、
末慮国は呼子に上陸して、湾岸を歩くっていうのがおかしいに
対する反論のつもりなんだよな
壱岐国の位置は、原の辻遺跡だし、島巡りもしないし
壱岐回りの移動は旅程の里数に入っていない
末慮国の位置は唐津平野だし、呼子から延々と歩いたりしないし、
末慮国から伊都国の移動距離五百里が、
「末慮国に着いた呼子から唐津湾沿いに伊都国との境までの末慮国内の移動距離」
にはならない
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/matsurakoku.html >>283
>末慮国の位置は唐津平野だし
あなたも、それが間違い。 @阿波 いちいち万津浦で出てくるなよ
出所不明の昭和の文書に多くを求めるなw >>285
>いちいち万津浦で出てくるなよ
「万津浦」に異常反応してるね。 「万津浦」なんてどうでもいいんだけどw
末盧国は対馬海流に乗って、相島経由の福津市辺りだよ。 @阿波 >>282
参考にならない例を挙げて駄々を捏ねるてるのは>>237ですよ
君頭おかしいよ。
>>283
海峡部分は測定が困難なので3海峡とも1000里と書かれてるだけ
全体を見ずに狭い一部だけを切り取って誤魔化しても無駄。 >>289
いつもの根拠厨だから放っておけ。
どうせ自分では何も論証できない空っぽのやつだよ。 伊都クズのことですね
>論証もできない空っぽのやつ >>289
あんたの心にあることは
言わなきゃ誰にもわからはい
あんた、皆からそう呼ばれてるんだろ
滅論だけ言い張るけど理由が言えないやつは
確実にコミュ障だよ 「キナイコシ連呼の人」はコミュ障という言葉がお気に入り
でも、実態は自己紹介ww で、平原1号墓と2号墓を合わせても(合わせる理由がもともとないのだけれど、
それでも敢えてそれに従ったとしても)、25メートルにはならないのは確認できたか?
測りもせすに適当なことを言うなよ! 大陸史書の一連の地理・旅程記事で、
1.もと資料の記載しだいで、里程と日程が混用されること
2.その日程と里程を、並列な記述だと考える理由がないこと
の2点が、大月氏の記事ではっきり確認できるな?
ということは、魏志倭人伝の記載も同様に考えればいい訳だ
独立した他の例からの推論というのは、意味があるし
参考になるだろ?
そして、日程と旅程は並列読みというのは、根拠がないことがはっきりする
九州説の連中のよくやる、問題としているその例一つしかないのに
それを根拠だという自己言及の循環論法とは違うんだよ
水行の起点を帯方郡に戻すのは無理読みの誤読 万津浦すらなかったら、末慮国も伊都国も、
阿波の比定地をとる積極的な理由が何一つない
もう出てくるなよ >>299
> 阿波の比定地をとる積極的な理由が何一つない
「万津浦」に異常反応してるね。 「万津浦」なんてどうでもいいんだけどw
末盧国は対馬海流に乗って、相島経由の福津市辺りだよ。 @阿波 理由を理解できてないからコミュ障って言われてるわけだが。
一方で畿内説スレのテンプレのように主張がぼやけて筋の通らない論証だけゴタクを並べると言うね。 あんたは理由を説明できてないからコミュ障って言われてるわけだが >>303
主張がぼやけて筋の通らないゴタクってのも
自分がいつも言われてることを耳コピきたんじゃないか?
ww >>301
その通り。
キナイコシは根本から間違っているただの荒らし。 >>301
まったく理由を言わないトンデモ説だな
伊都厨終わってるよ >>123
>>26 で書きましたが、「丈が平均身長を表した身体尺」 ということのが、
説文や字形から帰納的に証明出来ない、むしろ別の意味が帰納されるのですから、
それを前提に言われてもね。
一様に身体尺といっても、手で測ったり、足で距離を測ったりする
尺、咫、尋、歩などと同じ意味では、「丈」が身体尺であったとは考えられませんね。
丈夫が husband の意味であるのは勿論承知ですが、単なる凡夫ではなく、「良き人」であったからこそ
「丈夫」がhusbandであったはずで、それこそ「大夫」と通底するんじゃないでしょうかね。 あと、歩についてですが、身体尺として考えれば、一寸2.mmから出てくる144cmが程度が、
身体尺として最もふさわしいと思います。
始皇26年に、一歩を六寸に規定していますから、その際に身体尺としての長さ(6尺4寸)から4寸短くなったと考えるのが自然と思いますね。
実際、少なくとも戦国時代から、漢尺まで一寸・一尺ともかなり安定的ですから。
この時点で、歩の方を固定的に想定して、寸尺自体が変わったと考えるのはどうなんでしょうかね。
この点を考えると、本スレの方のFAQの王制の計算がナンセンスということがわかると思いますよ。 おっと、訂正です
一寸22.5mmから出てくる144cmが程度 >>311
論理的な説明ができてない
主観ばっかり >>315
新しい知見どころか出発点の説文解字から無視してるんだから、岡上がナンセンスのそしりを免れないのは当然だな >>317
何のどこを無視したのですかね?
丈が身体尺の例から漏れたのを無視しているのはどちらでしょう? >>319
それは由来でしょ。
尺も由来から外れた大きさになっている。 >>319
白虎通義での観念的な規定を書いただけですね。
それに身体尺でのアタは、単純な手の大きさより多少大きくなりますから。
18.5 cmなら別に女性のものとして普通ですよ。
許慎が多数の夫人の手を計測したと考える方が、(以下略) >>321
岡上は相変わらず現実離れした結論を言い張るだけか >>321
>18.5 cmなら別に女性のものとして普通ですよ
女性の手がそんなにデカくて
普通だって根拠でもあるのる >>311
>始皇26年に、一歩を六寸に規定していますから、その際に身体尺としての長さ(6尺4寸)から4寸短くなったと考えるのが自然と思いますね。
確認された事実としてだよ
尺のほうが歴史的に大きくなってる傾向があるのにね
歩のほうが小さくなったと考えるのが自然だって
いったいどんな論理でものを考えてるんだ? 無理矢理に周尺を今の一尺にしたいがためにトンデモ訳をつくってるとしか >>325
ですので、拇中指咫は普通の手長より大きいんですって。
それこそご自分で調べてみては?
>>326
165cm〜170cmの人の身体尺は、事実として145cm程度ですよ。
秦は水徳で六を重視するらしいですから、秦代に端数を切り落としたんでしょ。 めんどくさいのでネタバレしちゃいますが、別に独自説でもない、古典的な議論なんですよ。
「尺度綜考」藤田元春
「日本人の尺度」望月長与
を参照してくださいね。特に前者は、周尺=漢尺と論じていますね。 >>328
>秦は水徳で六を重視するらしいですから、秦代に端数を切り落としたんでしょ。
ただの想像かよ >>328
周尺と書いて今の一尺と区別してる史料事実を無視した珍解釈だな もちろん、岡上要素も入ってますよ。
後者は、日本人の尺度としては、拇人指咫を想定していて120cmぐらいのものを
八咫鏡と考えたみたいですよ。古い本ですので、仕方ないですが、平原大鏡を知れば、
拇中指咫での大きさの八咫鏡が出てきたと指摘されていたことでしょうね。 >>328
>秦は水徳で
火徳の漢の前が、なんで水徳なんだ? >>334
拇人指咫だったら女の手が18.5cmもあるって根拠でもあるの? 拇人指咫 と拇中指咫の区別をまずは勉強してくださいね。
わたしは、手長18cm、拇中指咫20cmでしたよ。 >>341
つまり自己都合にあわせて拇中ということにしたが、データは持ってないと
w >>342
あのねぇ。
そもそも許慎が複数の中婦人の手を実測していると考えるのが筋悪なんですよ そもそも平原鏡が八咫鏡であるという前提が筋悪だろ
これに合わせようと、無理読み、珍解釈してるだけじゃんか >>344
それ、筋悪岡上の創作だろ?
岡上以外だれもそんなこと言ってない >>346
そうなんですか?
じゃあ、説文解字の中婦人の手長とは、許慎が想像で書いたか、
測ったとしても奥さんか使用人あたりがちょっと大きめの手だったということで結論でましたね。 そもそも漢代に使われた形跡のない単位を持ち出した岡上の筋悪さにまさるもの無し >>347
根拠史料の筆者を
非常識な人に仕立て上げないと
日の目を見る可能性のない
筋悪岡上珍説 >>338
>>>334
>拇人指咫だったら女の手が18.5cmもあるって根拠でもあるの?
18.5cmはそれほど大きいか?
大きすぎるという印象操作? 男性の自分の手で測ったら21センチもあった。
女性で18センチが小さいとは思えないな。 手の大きさとは書いてあるけど、具体的にどこを計っているかは書かれていない件 どっかに親指と人差し指を広げた幅とか書いてなかったっけ 丈夫の丈は、平均身長だって、どうしてそんなにかたくなに否定するんだ?
アタマおかしくないか? >>354
>>341
>拇人指咫 と拇中指咫の区別をまずは勉強してくださいね。 >>340
>岡上から受け売りを取ったら何も残らない
キナイコシがいつも言われていることをおうむ返ししているみたいだね。 >>356
岡上は頭が悪いのにプライドだけ高いから、いつも他人にちゃんと説明ができない >>361
つまり、なんにも無いのね
カラッポ岡上 wiki 尺より引用
「尺」という文字は親指と人差指を広げた形をかたどったものであり、元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。
この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。
wikiすら引けないキナイコシ キナイコシはググることすらできない池沼だったとは、、、
知ってたwwww >>363
wikiなんて、どんな素人がカキコしてもいいんだよ
(よく「要出典」とは突っ込まれるけどさ)
5ちゃん掲示板と同じようなもんだ >>363
wiki信じるなら説文の
>一般にはこの文章は「周代の尺で8寸を咫という」という意味に解釈されている。
で八咫鏡説明即死 >>363
「出典は?」と聞かれて出してきたモノに
「要出典」と書いてあった
これ、どんな笑い話? トンデモ八咫論者の脳には濁った血液が悪循環してるようだ >>347
>測ったとしても奥さんか使用人あたりがちょっと大きめの手だったということで結論でましたね。
こういう根拠なしの憶測を「結論」とかいうあたりが、
お鏡さんの頭の悪さであり、たちの悪さ
丈が成人男子の平均身長だってのも認められないし、
自分の間違いを頑なに認めない、間違いを認めたら負けっていう
九州説価値観の体現者 >>363
>この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。
要出典のWikipediaでさえ、漢尺=23.1センチが正しいなんて書いてないだろ?
そして、八咫鏡だとかいうのは、周尺也を「周を計る尺なり」と誤訳したのが
きっかけなんだから、根本からバカすぎ
しばらく前まで、「周を計る尺なり」の誤訳がWikipediaにも書いてあって、
「これが根拠だ」、とか言ってたんだよなww さすがに、この辺にいる伊都国説の人も、お鏡さんも
あのちっぽけの平原5号墓を、倭王の墓とか日巫女の墓とかは言わないよな? 誰も言っていないことを持ち上げて批判した気になっているヘンな人がいる。 >>376
咫は円周長を概算できる便利な単位だって言ってたのは、
完全に放棄するんだな? 恥ずかしい間違いでした、とw >>376
>誰も言っていないことを持ち上げて批判した気になっているヘンな人がいる。
このスレを立てたお鏡さんは、平原1号墓と大柱の関係こそが、被葬者を日巫女だと
考える理由で、その大柱の指し示す方角から朝日が昇る日が特別だっていう主張だと思うが?
違うのか?ww でもさすがに、「咫は円周を測るのに便利な単位」って言う奴はいなくなったなw で、平原1号墓を特別視=王の墓だとする理由の一つに、大柱を立てた祭祀?があるという主張を
お鏡さんはしてるんだが、>>375に示した平原遺跡平面図でも確認できるが、
「5号墓にもセットとなる大柱が立てられていた」ことが分かる
そして、5号墓を王墓という人はいないだろう
つまり、一号墓の大柱は「倭王の祭祀とは無関係」だってことだ >>383
>王家の祭祀でいいじゃん。
5号墓を王家の一員という人はいないんだ
これまで誰も主張していなかったこと(=5号墓被葬者は王家)を、
ご都合主義でいきなり言い出すのかい? >>384
>どんな理屈だよ
「王墓だから大柱を立てた」ってのが通らないのは理解できるかい?
つ 「5号墓は王墓ではないが大柱が立てられている」という理屈 畿内説は以前から主張していたじゃないか。
今度は自分で否定するの? >>378
>畿内説は以前から主張していたじゃないか。
何を?
具体的に書いて? 東遷に異議は無いが
伊都国は邪馬台国に変わって台頭した国ということですか? 1岡上 ◆Lv09mLa3HMさん の主張は以下でいいですか?
邪馬台国は畿内にあった
ヤマト王権は伊都国が東遷で創った 1岡上 ◆Lv09mLa3HMさん の主張は以下でいいですか?
邪馬台国は畿内にあった
ヤマト王権は伊都国が東遷で創った 卑弥呼が東遷したという説だとしたら
伊都国の文明・文化が大和に移入してるはずだが
あまりにも当時の大和は文明的に劣っている・・・・3世紀の発掘物から・・鉄、渡来した物等々 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 >>396
>福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
その「41箇所の遺跡で使用されている」 朱丹って、ベンガラなんだって? 九州では。 @阿波 >>398
やけっぱちになってはいけませんな。 「鉄器がない」とかもね。 @阿波 >>390
>東遷に異議は無いが
>伊都国は邪馬台国に変わって台頭した国ということですか?
この辺、きちんと考えを整理できていない人が多い
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1421710539/722
「東遷の時期の範囲を不明にすれば
畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう」
畿内説では、倭国王帥升等の朝貢が大和の王だとかは言わないが、
3世紀半ばの卑弥呼の遣使よりも前に、畿内で邪馬台国が成立していると考える
それだけのこと >>395
>>>388
>コミュ障?
問われたことに答えないから、話が進まないんだよ
まあ、伊都国説側の>>395はコミュ障じゃなくて、具体的な話になると
論破されてしまうから、具体的な話をしないように逃げ回ってるんだよな?
「八咫鏡」「咫」「丈」「歩」と、具体的に論じたものは、すべて伊都国説側が
間違っていたことが示されちゃったからなw
「咫は円周を測るのに便利な単位」って言う奴はいなくなっただろ? >>400
>畿内説では、倭国王帥升等の朝貢が大和の王だとかは言わないが、
帥升はどこにいたの? これも言わなくなったよなw
↓
「平原1号+2号を囲む共通の周溝の長径は
25メートル 」
実際に測ったら22.9メートル
事実の前には無力だな
まあ、その前に、歩が25センチってのがありえないんだがな
歩は最初からずっと複歩だから、そんなに短くなるはずがないし、
尺と長さがほぼ変わらない単位が、作られたり使われたりする理由もない
そして、魏代でも1里=300歩の関係は変わらないのだから、短歩=25センチが
ありえない時点で、短里もありえない訳だ
短里と旅程の無理読みしか頼るもののない九州説はとっくの昔に終わってるんだよ 帥升はどこにいたの?
倭国はいつ大和に東遷したの? >>404
>帥升はどこにいたの?
当然、倭国(阿波)。
>倭国はいつ大和に東遷したの?
8世紀。 @阿波 東遷とか言ってるのは、魏志倭人伝無視じゃないのか?
魏志倭人伝では「共立」って書いてあるだろ?
当時は、使譯所通三十國で、いろいろな場所に首長がいて、その中から
勝手に朝貢するのがいた時代もあった(漢時は舊百餘國)し、有力首長が
割拠するようになって、倭国乱の争いを収めるために大和の卑弥呼が共立された
それだけのことであって、特に九州から人なり集団なりが移動(東遷)しなきゃ
ならない訳ではない
東京都庁が、千代田区から新宿区に移動したのを、遷都とは呼ばないだろ?
倭人の領域(倭国)内で、王のいる中心が別の場所とされただけだよ >>402
>帥升はどこにいたの?
個人的には「吉野ヶ里」を推すな
倭面土国王を重視し、面土国を「メタ国」と読めば、吉野ヶ里周辺の米多郷と通じるし、
旧事本紀の国造本紀には筑志米多国造も見える >>410
後漢書で倭の範囲は対馬海峡だけなんだけど? >>409
>後漢書で倭の範囲は対馬海峡だけなんだけど?
それは、九州説の勝手読みだよ
倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>412
じゃあ、倭は九州から台湾にかけての国かな? あ、漢文読める?
読み下し付けた方がいいかな?
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ 困ってくると、すぐコピペww
またあとで、何度目か分からないけど、きちんとそうじゃないことを
示しておいてあげるから待っといて 范曄(398-445)の後漢書(415年頃)は諸家の後漢書を集めて再編集したもの
種本は華?(-293)の後漢書であり、この華?は晋の朝廷で文官として陳寿(233-297)の同僚だった
289年頃に三國志と華?の後漢書は晋王朝に一緒に公認された
二人は同じ時に、同じ場所で、ほぼ同じ立場で、華?は後漢時代、陳寿は三国時代を扱ったのであり、
倭国情報と史実認識も共有し、一致していたはず
だからこそ、范曄の後漢書は二次的資料ではなく、史料価値は高いといえる >>417
>だからこそ、范曄の後漢書は二次的資料ではなく、史料価値は高いといえる
だからこそ、後漢書の情報を三国志の情報と分けて考えても意味がないんだって
>>417の言うように
「二人は同じ時に、同じ場所で、ほぼ同じ立場で、
倭国情報と史実認識も共有し、一致していたはず」
なのだから、基本的に、同じ情報が書いてあるだけ
倭国は、帯方(韓)東南海上の洲島の国で、南北に長く、
會稽・東冶の東で、朱崖・儋耳の近く
これを、対馬海峡の国と言い張るのは九州説だけw それは一万二千里を長里で解釈していたからだろ。
朝鮮半島もずっと長く認識していたのだろう。
でも実は短里だったんだ(陳寿は短里を知らなかった)。 >>419
>でも実は短里
これだけが、九州説の拠り所だよな
でも、短歩がないってのは分かるだろ?
そして、1里=300歩は、動かないんだ
>陳寿は短里を知らなかった
というより、倭国を地の果てからの朝貢国にしたかったんだよ
大陸の世界観における、世界の果てまでの観念距離が萬二千里
それに合わせて数字が作ってある 卑弥呼が東遷したという説だとしたら
伊都国の文明・文化が大和に移入してるはずだが
あまりにも当時の大和は文明的に劣っている・・・・3世紀の発掘物から >>420
>でも、短歩がないってのは分かるだろ?
>そして、1里=300歩は、動かないんだ
短歩だったんじゃない?
足の長さが25センチというのは常識的な数字だ。
>というより、倭国を地の果てからの朝貢国にしたかったんだよ
あなたの願望? >>421
同意する。
東遷はなかった。
卑弥呼が即位した2世紀末の大和は後進地域だ。 >>421
同意する。
東遷はなかった。
卑弥呼が即位した2世紀末の倭国(阿波)は最先端文化地域だ。 @阿波 >>422
>短歩だったんじゃない?
>足の長さが25センチというのは常識的な数字だ。
足の長さというのは、足裏長のことか?
歩は、字の成り立ちからして、複歩だと何度教えればww
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497
説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。 実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更) 伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm
さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png >>426
>実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
大陸ではなく東夷だからね。 >>428
>大陸ではなく東夷だからね。
でも、記録をしたのは、建忠校尉の梯儁さんや塞曹掾史の張政さん
魏朝の役人さんが、魏の度量衡に反した単位は使えないだろう
その前に、漢字を使う人が「步」という字を「複歩」以外の長さに使うのは、
ありえないよ それに、伊都国説の人の言い分では、平原1号墓出土の大型内行花文鏡は
面径二尺に合わせてある、つまり漢魏尺が正しく伝わっているという主張なのだろ?
ならば、漢尺の体系の歩、「一歩=六尺」が伝わっていないとするのは無理があるし、
漢尺が伝わっていて、それでいて漢尺と長さが変わらない東夷歩とやらで測る理由がない
漢尺=23.1センチ
東夷歩=25センチ(伊都国説主張)
どうみてもおかしな話にしかならないだろ? 平原1号墓出土の大型内行花文鏡を作ったのは倭人。
東夷歩を測ったのは楽浪から来た魏使。
全く別系統の縮尺。 >>432
>東夷歩を測ったのは楽浪から来た魏使。
東夷歩(があるとして)を、東夷の人間が測るのでなければ
筋が通らないってことすら分からないんだな
魏使が、魏の単位以外で測ったらびっくりだよ!
しかも、歩は元が身体尺で、多少のずれはあっても、大きくずれることは不能
複歩が25センチなどというのはどんなに儀式でチャチホコばって
ぽくぽく歩いても無理だよ! >>435
>都合のいい勝手ルールを振り回すなよ。
図星を突かれて、カオ真っ赤、なのかい?
「都合のいい勝手ルール」の代表
つ 「短里」あるいは「東夷伝里」
つ 「島巡り航路」
つ 「末慮国は上陸地点で呼子」
つ 「末慮国と伊都国の国境は糸島平野の中」
つ 「奴国と伊都国の国境は、高祖山の西側」
つ 「水行の起点は何の説明もないけど帯方郡」
本当に都合がいいよな! >>434
楽浪郡から来た魏使が東夷伝里を使っていた。
歩幅は体調によって違いがある。
自分の足のどこからどこまでが25センチ=東夷伝歩であるかを知っていれば
寸分違わず歩を計測できる。 >>438
なんで魏の役人が、そんな変な単位を使うんだ? >>440
が220年に成立した新興国だと
どうして役人が変な単位を使うんだ? 卑弥呼の墓は九州ではみつかっていないが正解
むりやり平原にするのは良くない
急ぎすぎ・・畿内説に対抗する気持ちはわかるが 代々の倭国王都のど真ん中にあって、3世紀の女王墓だなんて、卑弥呼の墓でなくてなんなのか。 対抗って、3世紀に鉄器ゼロでムダ毛ぼうぼうの毛人が何だって?w >>447だが
九州説だよ、伊都国は邪馬台国とは別国
平原は伊都国の王墓じゃないかな なお 岡上氏の主張の盲点の一つを
>>421が指摘しています
反論があれば書き込んでおいてください
>卑弥呼が東遷したという説だとしたら
伊都国の文明・文化が大和に移入してるはずだが
あまりにも当時の大和は文明的に劣っている・・・・3世紀の発掘物から< 「伊都国の文化」って何なんでしょうか?・・・・・・ @阿波
もっとも中心的なところは、もちろん巫女王による銅鏡・太陽祭祀でしょうね。・・・・・岡上氏
その他を是非とも聞きたいですね。・・・・・・・・ @阿波
卑弥呼が東遷したという説だとしたら
伊都国の文明・文化が大和に移入してるはずだが
あまりにも当時の大和は文明的に劣っている・・・・・・・・・>>421 >>448
>代々の倭国王都のど真ん中にあって、
またイイカゲンなこと言ってるね
代々の倭国王都だってんなら、先代の倭国王の墓はどこだ? テンプレどおり解釈すると
偽造倭人伝ができちゃわないか
邪馬台国はヨソにおいて神武東遷のみ論ずればいいのに >>452
「倭国(阿波)の最先端文化・技術」 九州や畿内などとの圧倒的な差ですね。 @阿波
@勾玉
A軽量薄型土器
B前方後円墳
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
その他いっぱい 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>454
畿内説は東遷抜きには説明できないはずだが、なぜか頑なに東遷を否定するんだよ。
その結果、ヤマト王権の「自然発生説」という非科学的なアイデアに走ってしまった。 >>456
どこにでもある凡庸な「内行花文鏡」だけをもって、王都とかw 実に哀れなり。 @阿波 >>457
説明できないのは東遷厨が無能なせいなだけ
だから問題ない 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 岡上さんの言いたいこたは、
伊都国が中心となり東遷し初期ヤマト王権を
創設したと言う事では?
邪馬台国をそこに絡ませるから変な論調となる そのお鏡さんの論拠の中心が、
平原1号墓は王墓だから、
大柱を立てて日向峠からの日の出をあがめる太陽祭祀を行っていた
平原1号墓出土鏡は、円周長が八咫だから八咫鏡 だから王墓
というもの
でも、円周長が八咫というのは完全に否定されたし
大柱を立てる祭祀は5号墓でも行われているが、5号墓は王墓とは考えられていない
お鏡さんの説は、所詮借り物だし、破綻してるし、考える必要すらないと思うよ >>447
>卑弥呼の墓は九州ではみつかっていないが正解
まあ、そうなんだけど、より正確には
卑弥呼の墓は九州ではその「候補すら見つかっていない」が正解 >>462
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。 @阿波 >>438
>歩幅は体調によって違いがある。
大笑い
「歩幅が体調によって差が出る」以前に、「足底長は人によって異なる」だろうが!
靴屋さんにどうしていろんなサイズの靴がいると思ってるんだ?
>自分の足のどこからどこまでが25センチ=東夷伝歩であるかを知っていれば
>寸分違わず歩を計測できる。
誰の足底長を基準にしたんだ?
足先から2センチ先が25センチだったら「寸分違わず」なんて計り方は無理だぞ?
それに、本当の「歩」で100歩、144メートルを測るのに、
存在しない「東夷伝歩」では、580歩くらい必要になる
1歩で、2センチくらいずつ誤差があったら、その580倍のくるいが生じるよ
かかとつま先で測る場合には、その足裏長を前もって測っておかないといけない
つまり、かかとつま先の歩は、身体尺としてはありえても、
25センチとかの決まった値をとることはない
そして、「歩」という文字で表される限り、「複歩」なのは絶対だから
25センチのような短い長さにはなりようがない >>470
>それに、本当の「歩」で100歩、144メートルを測るのに、
前提がむちゃくちゃ。 >>471
>前提がむちゃくちゃ。
そりゃそうだろ?
東夷伝歩=25センチ、なんていうむちゃくちゃに対する批判なんだから
大陸では「歩」はいつの時代でも「複歩」
大陸で教育を受けた人間が、「歩」という文字を25センチに使うはずがない >>471の言うことを聞いて、>>471がむちゃくちゃだと思う部分は外したよ
反論できるならどうぞww
>>438
>歩幅は体調によって違いがある。
大笑い
「歩幅が体調によって差が出る」以前に、「足底長は人によって異なる」だろうが!
靴屋さんにどうしていろんなサイズの靴がいると思ってるんだ?
>自分の足のどこからどこまでが25センチ=東夷伝歩であるかを知っていれば
>寸分違わず歩を計測できる。
誰の足底長を基準にしたんだ?
足先から2センチ先が25センチだったら「寸分違わず」なんて計り方は無理だぞ?
かかとつま先で測る場合には、その足裏長を前もって測っておかないといけない
つまり、かかとつま先の歩は、身体尺としてはありえても、
25センチとかの決まった値をとることはない
そして、「歩」という文字で表される限り、「複歩」なのは絶対だから
25センチのような短い長さにはなりようがない >>476
三国志東夷伝の距離記載が東夷伝里で統一されているから >>477
三国志東夷伝の距離記載が東夷伝里で統一されている
という証拠は? 魏志倭人伝にいちゃもんつけるキナイコシ。
俺様ルールの方が優先するとでも? >>479
魏志倭人伝に付いたいちゃもんって、具体的になに? >>481
>>482
キナイコシは何を言ってるの? >>475
>複歩のはず、というのがそもそも勝手ルール。
これを勝手ルールというやつは、漢文の文献を読む能力がないってことだぞ!
魏志倭人伝で何かを言おうとするのがそもそも無理なやつだったんだなw
複歩の「はず」なんて書いてないだろ?
複歩なのは「絶対」だよww >>477
>三国志東夷伝の距離記載が東夷伝里で統一されているから
その東夷伝里が大嘘なんだからしょうがないだろうにww 伊都国はわかるけど・・・
倭人伝を解き明かす必要がある
九州説を一つにまとめたり 九州+畿内=邪馬台国はどうも説得力が無い
吉野ヶ里遺跡の考古学見地から行けば、
現段階での調査でのでは畿内は相当遅れていた地としか考えられないと思う
東遷は5、6世紀 で 九州倭国+渡来人勢力がヤマト王権を築いた
大化改新は渡来人と倭人とのイザコザ >>490
>倭人伝を解き明かす必要がある
なにをいまさら。 とっくに解き明かされているよ。 @阿波 阿波さん あなたのカキコミ(他スレを含め)
阿波説もありかなと思いますが
阿波説の範囲を中四国に広げれば論として磨きがかかるのでは
阿波に限定する必要がまるっきりない
纒向一辺倒の畿内説と同じにならん事を期待します >>493
>阿波説の範囲を中四国に広げれば論として磨きがかかるのでは
それは、卑弥呼時代よりあとのこと。 徐々に倭国(阿波)はひろがっていきます。 @阿波 >>493
>阿波説の範囲を中四国に広げれば論として磨きがかかるのでは
卑弥呼時代は、邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)の統一で精一杯です。 中四国は卑弥呼以後。 @阿波 >>494
阿波さん
>それは、卑弥呼時代よりあとのこと。 徐々に倭国(阿波)はひろがっていきます。 @阿波<
四国一円は???
倭人伝に基く物証では阿波説が有意のは承知です >>496
「前方後円墳」・「薄型軽量土器」
簡単な目安として、これらの拡がりが倭国(阿波)の拡がりを示します。 @阿波 なんだ、阿波ってただの畿内説背乗りだったのか
ある意味がっかりだな 阿波というか、淡路島〜四国が、イザナギ・イザナミの国産み神話を含め、
畿内勢力の源流の一つで、実際に大きな寄与をしているのは確実だし認める
だが、なんでも忌部って言い出したら、それはもうトンデモなんだよ >>500
>だが、なんでも忌部って言い出したら、それはもうトンデモなんだよ
では聞くが、忌部以外に全国へ進出していった倭人(部族)はいますか? @阿波 >>499
>なんだ、阿波ってただの畿内説背乗りだったのか
なんにも文化起源を持たない畿内説が、倭国(阿波)に便乗しているんですよ。 @阿波 >>501
出雲神族(王族)と出雲族。
北は東北全域、南は九州。日本列島のほとんど。
畿内も当然、出雲神族、出雲の一部
阿波忌部にしても出雲王家の分家の分家の一つに過ぎません!?
倭人伝に言う、大倭国はおおむね出雲帝国やその分家らが建た地方王国(葛城(畿内)、吉備、諏訪(信州)、北九州(宗像))全体を言ったか。 >>503
>阿波忌部にしても出雲王家の分家の分家の一つに過ぎません!?
では、なんで出雲に「忌部」の地名や神社があるの? 阿波に「出雲」なんてないんだけど? @阿波 >>503
>阿波忌部にしても出雲王家の分家の分家の一つに過ぎません!?
出雲の勾玉造りも倭国(阿波)を発った出雲忌部が造っていたんだよ。 ホントは知ってるんだろうけど。 @阿波 各地の忌部は大和朝廷が派遣したんじゃないの?
忌部の「部」は部民の部で、部民っていうのがそもそも大和朝廷の職制なんだから >>506
>忌部の「部」は部民の部で、部民っていうのがそもそも大和朝廷の職制なんだから
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 個人的には忌部は殷部で殷の棄民じゃないかと思っている
殷周革命では周と九夷が組んだから九夷の勢力外まで逃げなければいけないと考えれば
阿波辺りまで逃げないといけなかったのではと思う >>507
>忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり
そんな勝手定義は誰も知らないよww
阿波はアワコン 平原広沢とは佐賀平野の邪馬台国である。(そいぎんた まあ、本質的にはお鏡さん隔離スレだから、よそにお鏡さんが出張ってこなければ、
それだけでこのスレは役に立ってるよww それにこのスレのおかげで、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡」っていうのが、
単なる昭和の思いつきだってはっきりしたし まあ、つまんない都市伝説がひとつ消えたという意義はあったな 平原1号墓の大柱も、実は5号墓の大柱の方が先だし、さらに吉野ヶ里の北墳丘墓にも
墳丘そばに大柱が立てられている
吉野ヶ里の大柱は日の出の方向とはまったく関係なく、ただ墳丘の長軸方向に立てられている
それと同じ文化であるとみなせば(異なるとする理由がない)、平原1号墓の大柱が日向峠の
日の出を意識して立てられていて、その日付・10月20日が重要というお鏡さんの説はまったくの
見当違いってことになる 吉野ヶ里のは、今ぐぐったら「立柱」という名前で呼ばれているようだね >>517
>平原1号墓の大柱も、実は5号墓の大柱の方が先だし、
そんなことが正確にわかるのか、甚だ疑問。
根拠は?
>吉野ヶ里の大柱は日の出の方向とはまったく関係なく、ただ墳丘の長軸方向に立てられている
平原の方がより進化した様式なのだと考えればいいだけ。
内行花文鏡に象徴される太陽信仰があったこと、日向峠という地名などを考慮すると、御柱になんらかの意味を持たせていた可能性を否定できない。
御柱は諏訪大社など国内に類例が存在する以上、否定する根拠に乏しい。
畿内説の言いがかりのような論説では、何も明らかにすることはできない。
畿内説のテンプレが根拠の薄い推定で満ち溢れているのに比べると、全く酷いダブルスタンダードが見て取れる。
これだから畿内説は信用されない。 >>519
>そんなことが正確にわかるのか、甚だ疑問。
>根拠は?
都合の悪いことは、全部「根拠は?」で済まそうとするんだなww
平原遺跡の発掘報告書で、
5号墓
↓
1号墓・2号墓
↓
3号墓、4号墓
の順で作られたとされているよ
5号墓の方が1号墓より古く、平原遺跡の立地は1号墓ではなく5号墓が作られたときに
選ばれたことになる
5号墓付属の大柱と、1号墓付属の大柱では、5号墓の方が古いのが当然 >>519
>内行花文鏡に象徴される太陽信仰があったこと、
逆に、これに「根拠がない」
内行花文鏡の鏡面の模様が太陽っぽく見えるだけで、
それが太陽信仰と結びつくかどうかは、実は根拠がない >>519
>平原の方がより進化した様式なのだと考えればいいだけ。
考えれば言いと考えるのが、恣意的
進化した様式だと考える理由がない
吉野ヶ里では、北墳丘墓の墳丘主体の長軸上に「立柱」があり、その延長上に
かつて南墳丘墓と呼ばれた祭壇がある(埋葬設備がなく墓ではないことが確認済)
墳丘の方向と立柱の方向で、聖別される方角を示すものと考えればよい
そこに、太陽に日の出の方角という意味合いを無理に付与する理由がない >>519
>御柱は諏訪大社など国内に類例が存在する以上、否定する根拠に乏しい。
諏訪大社の御柱は、聖別される区画の境界として4本立てるんだよ?
1本きりの、吉野ヶ里や平原5号墓、1号墓の柱とは意味合いが異なるのは明らかだと思うが? >>519
>畿内説の言いがかりのような論説では、何も明らかにすることはできない。
そもそも、クシフル岳も何もないのに、日向峠という小さな地名一つで
伊都国周辺を日向だと言い張る時点で根拠が薄弱すぎる
>畿内説のテンプレが根拠の薄い推定で満ち溢れているのに比べると、全く酷いダブルスタンダードが見て取れる。
こっちは、丁寧に十分な根拠を挙げて「平原1号墓出土鏡が八咫鏡だ」とかいう妄説をきちんと
否定したよ
>これだから畿内説は信用されない。
恣意的なご都合主義のチェリーピッキングの上に、妄想で隙間を埋めてるから
九州説は、論説として妥当性がないんだよ
信用されるされない以前の問題 >>520
その発掘報告書には柱を立てた順番まで
記述されているか?
お前の願望じゃないよな? >>525
柱を立てた順番が書かれていないと何か問題があるのか?
常識で考えれば、5号墓の柱は1号墓の柱より前だ 卑弥呼は共立女王だから
それまでの先祖とは違って
突然倭王としての格式を持った鳥居<日の出の方角
が作られたんだろ。 内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。 >>527
>常識で考えれば、5号墓の柱は1号墓の柱より前だ
太陽信仰との習合が1号墳の卑弥呼の即位の時なら、何の不思議もない。 予言スレの話
中国産の偽のガンダムが何やらと言ってる人がいたり、 >>528
「倭王としての格式を持った鳥居]だという理由は? >>531
太陽信仰との習合が1号墳の卑弥呼の即位の時だと考える理由は? 記紀を参考にすると、天照大神の頃から意識されていたのだろうが、どうせ記紀は無視なんだろ?
伊都国にある倭王墓である三雲南小路遺跡がニニギの墓なら、その先代の天照大神の頃から太陽信仰があったかもしれないな。 オウム返しは能なしの所行だと何度言えば
こう言えば、少しは情けなさが分かるかな?
「ザラコクレベル乙!」 >>525
>その発掘報告書には柱を立てた順番まで
>記述されているか?
>お前の願望じゃないよな?
本格的にアタマおかしいな!
5号墓が1号墓よりも古い、のは確実
おそらくは同じ家系の先代の墓
で、1号墓を作るときに、5号墓にも柱を立てたっていうのかい?
それこそどんな理由で立てるんだ?
それから、「太陽祭祀が−」、「日向峠が−」、っていつも言ってるが、その前に
1号墓の大柱の先に、小さな建物跡があるのは把握してるか?
吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓 立柱 祀堂 の位置関係と
平原遺跡の
1号墓 大柱 建物跡の位置関係が同じ
そして、吉野ヶ里が南北に近い方向で太陽祭祀と無縁であることと合わせて考えれば、
平原1号墓も無理に太陽の日の出の方向などと言い出す必要はない
諏訪大社の御柱はもういいのかい?ww >>534
>三雲南小路遺跡がニニギの墓なら、その先代の天照大神の頃から太陽信仰があったかもしれないな。
どういう時系列なんだ?
平原1号墓が女王で太陽祭祀だから卑弥呼で天照大神だって言いたいんじゃなかったのか?
三雲南小路から平原1号墓まで軽く200年くらい経ってるぞ?
三雲南小路の先代が天照大神だとすると、天照大神はどこにいたんだい?
どこからどこに天下るのか? >天照大神はどこにいたんだい?
吉武遺跡
>どこからどこに天下るのか?
吉武遺跡 そして、5号墓と5号墓附属の大柱が指す方角と
1号墓と1号墓附属の大柱が指す方角はずれている
そして大柱の指す方角と、1号墓の埋葬主体、木棺の長軸方向もまたずれている
こういうところをきちんと押さえて見ていくと、日向峠からの日の出っていうのが
眉唾物だと分かる訳だ >>541
吉武高木遺跡は紀元前3世紀
三雲南小路からさらに200年古い
とてもじゃないが先代とは言えないな
さらに王墓といいつつ、3号木棺は共同墓地の一つの埋葬主体に過ぎないし、
女性の被葬者と考える理由がない
また峠を越えるだけなのを、天下りというだろうか?
峠を隔てただけの隣の国を、誰に譲ってもらうんだ?
記紀を史実として説明しようとしても、破綻するだけだよ >>539
>そして、吉野ヶ里が南北に近い方向で太陽祭祀と無縁であることと合わせて考えれば、
>平原1号墓も無理に太陽の日の出の方向などと言い出す必要はない
前方後円墳がてんでバラバラなところを見ると、基本的に倭人は方角に無頓着だったんだろうね。
だからこそ平原遺跡の特別さが目立つ。 >>540
>三雲南小路から平原1号墓まで軽く200年くらい経ってるぞ?
>三雲南小路の先代が天照大神だとすると、天照大神はどこにいたんだい?
>どこからどこに天下るのか?
200年という年代が正しいかどうかは別として、男王70-80年とあるのだから、そんなに古くないかもしれない。
天照の高天原がどこかという話になるが、「海を照らす(支配する)」という意味だから、対馬海峡の王だったんだろう。
そこから大国主を廃して邇邇芸が筑紫に降臨したわけだ。 >>544
特別なんだろ
他者に影響を与えてない
つまり東遷なんて無いんだよ
平原は落選 >>544
特別なんだろ
他者に影響を与えてない
つまり東遷なんて無いんだよ
平原は畿内と関係ない邪馬台国の卑弥呼の墓 >>545
>対馬海峡の王だったんだろう。
この台詞、大好きみたいだけど、対馬も壱岐も耕作できる土地が足りなくて
乘船南北市糴しないと生きていけない土地なんだから、十分な人口も蓄えられないし
強い国なんて夢のまた夢だぞ?
半島南部は小邑割拠な状態だし、九州側に拠点があるなら、それは九州の国であって
対馬海峡の国じゃないだろう >>548
だからこそ大国主を倒して豊葦原中国を奪ったんだろ。
まあ、もともとは対馬海峡の天津国(海の国)も博多湾沿岸のイザナギの家系だが、家督争いの結果としてニニギの代に陸上の伊都に返り咲いたというわけだ。 >>544
>だからこそ平原遺跡の特別さが目立つ。
読解力、ないの?
平原1号墓はすぐそばの小型建物(祀堂?)に向けて、墳丘軸と大柱を合わせているだけで、
日向峠の日の出なんて関係ないだろうっていってるんだぞ?
この小型建物があるから、1号墓から日の出は見られない
5号墓の大柱の指す方角とも異なるし、平原1号墓の築造をした人たちこそ、方角に無頓着だよな?
5号墓の大柱の先にあるべき祀堂の位置に、3号墓があるからその頃には5号墓祭祀は
終わっていたのかもしれない >>549
だから時系列はどうなってるんだよ?
それは神話を楯にとったただの妄想
神話は史実じゃないっていうのが分からない人間は、たちが悪い >>550
>日向峠の日の出なんて関係ないだろうっていってるんだぞ?
根拠なし。
>この小型建物があるから、1号墓から日の出は見られない
一時的な殯宮だろ。
古代神道の様式が成立したんだな。
>5号墓の大柱の指す方角とも異なるし、平原1号墓の築造をした人たちこそ、方角に無頓着だよな?
5号墓なんて重要ではないし、1号墓を作った時には忘れていたかもしれないね。
5号墓の方角こそ、無頓着に作ったんだろう。
1号墓の特殊性がわかるというもの。
太陽神の化身は卑弥呼だけ。
>5号墓の大柱の先にあるべき祀堂の位置に、3号墓があるからその頃には5号墓祭祀は >>551
辻褄は合っているだろ?
しかも博多湾沿岸に次々に新しい部族が入り込んだことは、考古学的に推定できる。
稲作文化を持ち込んだ部族、甕棺や支石墓の部族、方形周溝墓や木棺も部族など。
しかし倭王の象徴としての内行花文鏡を含む三種の神器は共通している。 非論理的ないちゃもんをつけているのは畿内説だよ。
それに対して誠意的に回答しているけど? 5号墓なんてどうでもいいものを持ち出しても無駄だということ。
副葬品から、1号墓の被葬者が圧倒的に上位であったことは間違いないわけだから。 「非論理的ないちゃもん」の典型が>>556
5号墓が「どうでもいい」という理由がまったく説明されていない 伊都トンデモ説が論破されちゃうのに
反論できないから
何としても無視しなきゃいけないんだよ >>552
>根拠なし。
困ったときの「根拠なし」ww
便利だねぇw
ザラコクさんの「南≠東」とまったくの同レベルw >>558
そもそもなぜ5号墓なんて持ち出すのが理解できない。
世間ではこういうのをいちゃもんをつけると言う。 >>561
>そもそもなぜ5号墓なんて持ち出すのが理解できない。
本気で言ってるの?
本気で言ってるのであれば、歴史について考えるのやめたほうがいいと思うよ
これまでにも何度となく、平原遺跡じゃなくて、平原1号墓と呼ぶように
言ってきたんだが、まったく理解できていないんだな
平原1号墓は、孤立して単独で存在するのではなく、平原遺跡の中に位置づけられるもので、
平原遺跡は平原1号墓に限定されない、空間的時間的な広がりを持つ
その中での平原1号墓の位置づけを考えるのが歴史学だ
さらに言えば、平原遺跡も曽根遺跡群の一角を占めるものだから、曽根遺跡群の
主体から考えていく必要がある
伊都国説(平原1号墓が卑弥呼の墓説)は、歴史学じゃないんだな
知ってたww >>563
>さらに言えば、平原遺跡も曽根遺跡群の一角を占めるものだから、曽根遺跡群の
>主体から考えていく必要がある
その「曽根遺跡群」といっても、所詮お墓ばっかり。
畿内も九州も頼れるものはお墓だけ。 @阿波
>>563
同時に作られた2号墓ならともかく、時代的に違う5号墓を恣意的に取り上げても意味がない。
魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読めるので、その出自の家系の墓だとしても、あまり意味はない。
畿内説は平原遺跡が怖いあまりに強弁しているだけ。 >>566
>魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読めるので
勝って読みして、決めつけはイカン。 @阿波 >>566
>同時に作られた2号墓ならともかく、時代的に違う5号墓を恣意的に取り上げても意味がない。
そう思うなら、歴史について考えるのをもうやめなよww
5号墓は「時代的に違う」とか言いながら、二百年も前の、完全に時代の違う三雲南小路遺跡は
重視するんだろ?
5号墓は単に1世代違うだけで、同じ家系の家族墓だと考えられるし、三雲南小路遺跡より
よっぽど関係も深いぞ
そもそも、平原遺跡全体の立地は、5号墓の造営のときに選ばれているんだから、
無視していたら何も言えないよ?
伊都国の王墓の地である三雲遺跡群の外、曽根遺跡群の地を墓所に選んだ理由を
考えることが、1号墓被葬者の属性を考える上で重要
古墳時代に入った後、
三雲遺跡群には伊都国首長(怡土国造)の墓である端山古墳、築山古墳が作られるのに対し、
曽根遺跡群にも、
それより規模の劣るワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が作られる
曽根遺跡群に墓を作る家系(平原遺跡後裔)と三雲遺跡群に墓を作る家系(伊都国首長家)は
別の家系だと考える方が蓋然性が高い
つまり、平原1号墓は伊都国王墓ではないと考えた方がよい
その方が、12×8メートルという小さな墳丘サイズを理解しやすい
ましてや、倭国全体の倭王の墓だなんて、ご冗談はヨシコサンだよw >>566
>魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読める
苦しいなぁww
共立という言葉からは、各地にいる首長のうち、多くが納得できるものを
共同で推戴したという様子が伺える
先代が大きさ5メートルくらいの方形周溝墓に葬られている弱小家系の人物が
いきなり倭国全体の王に担ぎ上げられるってのはないって
卑弥呼が倭王に共立されたのは、邪馬台国七万余戸という倭国内随一の大国を
背景にしている
ここから先は、想像でしかないが、平原遺跡は伊都国首長家の姻族だったと
考えるのが妥当だと思っている >>568
>別の家系だと考える方が蓋然性が高い
だから伊都国説では別の家系だと言っているが?
的外れな批判は返事の仕方に困る。
>つまり、平原1号墓は伊都国王墓ではないと考えた方がよい
倭王墓だし、伊都国にいた王家は倭王家だよ。
伊都国の王というわけではない。
倭国の王家が三雲の一族から平原の一族に移ったんだよ。
だから5号墳は王ではないのでどうでも良い。 >>570
>卑弥呼が倭王に共立されたのは、邪馬台国七万余戸という倭国内随一の大国を
>背景にしている
七万余戸という倭国内随一の大国は以下。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 >>570
>先代が大きさ5メートルくらいの方形周溝墓に葬られている弱小家系の人物が
方形周溝墓は倭国王家の墓制だろ。
>ここから先は、想像でしかないが、平原遺跡は伊都国首長家の姻族だったと
>考えるのが妥当だと思っている
まあ大ハズレではなさそうだ。
だから女王を輩出できたのだろう。 >>571
>だから伊都国説では別の家系だと言っているが?
つまり、伊都国王家ですらないってことだな
倭王墓はさらに無理ってことでFAだな >>571
>倭王墓だし、伊都国にいた王家は倭王家だよ。
こういうのこそ「根拠なし」っていうんだよw
>伊都国の王というわけではない。
伊都国王ですらない人物が、共立されることはないな
>倭国の王家が三雲の一族から平原の一族に移ったんだよ。
そもそも卑弥呼の前代の時点で、三雲の一族の倭王などというものは認められない
王墓もないしね
三雲の一族の倭王がいないんだから、そこから平原の一族に移りようがない
>だから5号墳は王ではないのでどうでも良い。
径5メートルの小さな方形周溝墓を作る人物の娘が、倭王になるってどんなファンタジーだよww
1号墓の大柱が、日向峠とは無関係だってのは理解できたか? >>573
>方形周溝墓は倭国王家の墓制だろ。
「時代が違う」&「三雲南小路でも30メートル四方の大墳丘墓」だ
適当だよな、知識のない人の書き込みはいつでもw >>573
>まあ大ハズレではなさそうだ。
>だから女王を輩出できたのだろう。
いや、伊都国王妃、くらいがせいぜいだよ
彦姫制の姫が、彦王の死後、全権を掌握したから、それなりに豪華な
副葬品を用意できたってところかな 伊都だけの王家というものがあったという証拠を出せよ。
どこの何という王家だ? >>578
>彦姫制の姫が、彦王の死後、全権を掌握したから、それなりに豪華な
>副葬品を用意できたってところかな
それなりというか、弥生時代で最も豪華な副葬品の女王墓なんだが? 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 後漢時代の倭国の範囲は、狗邪韓国から倭奴国まで。
この範囲でこの時代の王墓は糸島平野にしかない。
つまり、キナイコシが「伊都国王家」と呼んでいるのは、実は伊都を王都とした倭国王家だよ。
もちろん彼らには名前があり、天津神と呼ばれていた。
現代の呼び方だと日向三代とか天孫族とか呼ぶけどね。
これは、高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれる場所であることからわかる。 おまえらいい加減
同じ言葉で違うものを論じてるの理解しろよ。
言葉の定義と中身のすり合わせしないといつまでたっても決着せんぞ? >>580
>伊都だけの王家というものがあったという証拠を出せよ。
>どこの何という王家だ?
怡土県主家だよ
日本書紀仲哀紀にも筑紫伊覩縣主祖五十迹手って出てくるだろ
この家系の祖だよ >>581
>それなりというか、弥生時代で最も豪華な副葬品の女王墓なんだが?
それが単なる思い込み
仿世鏡がやたらたくさんあるだけで、剣でもガラス玉でも丹波の王墓の方が豪華だよ >>584
>後漢時代の倭国の範囲は、狗邪韓国から倭奴国まで。
コピペではないが、結局これだろ?
「後漢書で倭とは対馬海峡の国で 」
それは、九州説の勝手読みだよ
後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
あ、漢文読める?
読み下し付けた方がいいかな?
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ
その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ
そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね
九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw 後漢書
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」
三国志
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國」
後漢書
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」
三国志
「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ? >>584
>高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれる場所であることからわかる。
「日向峠」という小さな地名一つでよくそこまで妄想できるものだなw
クシフル岳もないのにw で、5号墓からは逃げっぱなしか?
大柱が日向峠を指してないってのもいいか?
諏訪大社の御柱に言及したのは黒歴史でいいんだな? 径百歩の説明がどうにもつかない平原1号墓を卑弥呼の墓にしようって時点で詰んでるんだよ >>591
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
この日向はどこなんだ?
あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。 >>590
短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈したので、実際よりも南にあると思い込んだんだろ?
東夷で短里が使われていたことを示す文章だよね。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 >>596
>古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
これの確認ができる典拠情報が示されたことが一度もない
つまり、根拠がない >>594
>この日向はどこなんだ?
普通に宮崎県の日向国で問題ないだろ
宮崎県宮崎市阿波岐原って地名もあるよ
まあ、本質的には「特定の土地を指していない」んだろうけれど
「アワギハラ」http://nihonsinwa.com/page/1962.html
>あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。
相変わらずどこにでもある小さな地名をあてにするんだな、九州説はw
日向峠もそうだけれどさ >>595
>短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈
そもそも、3世紀には短里を知っている人がいないんだよ
20世紀になって「考案」された戯言だからね
よく九州説の人が、対馬海峡を渡るところまでで一万里って言うけれど、
それが本質なんだよ
王朝の徳を示すために、倭国からの遣使を「万里の修交」としたかったから
数字を盛ったってのが本質
盛った数字だから、魏晋里より短いことになるけれど、実測値ではないし
適当な数字 祓詞の筑紫の日向の小戸はどこなんだ?
福岡だよね? >>602
倭国(阿波)の阿南市周辺に決まってるでしょ。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
7D0 楽浪郡徼去其國萬二千里
其西北界狗邪韓國七千餘里
楽浪郡から倭の国境(狗邪韓国)まで七千里余り、大倭王がいる邪馬台国まで一万二千里
倭王帥升はどこにいた?
倭王卑弥呼はどこにいた?
帥升から卑弥呼までの間に、邪馬台国は移動した? >>605
そうですねぇ、帥升から卑弥呼の間に畿内に移動したんでしょうね。
それがこのスレの趣旨でもありますから。
―――――
指摘のあった箸墓と夏至の関係も踏まえて、付論に少し加筆しましたので、こちらにアップしておきます。
http://fast-uploader.com/file/7086948633981/
八寸と八咫の話も今まとめてますが、ちょっと校正したり出典を調べたりしてますので、時間がかかっています。 >>606
>八寸と八咫の話も
丈と丈夫の話もまとめた方がいいんじゃないの?
チェリーピッキングも程々にしたら?
それと、間違いを間違いと認められない人は、進歩しないよ? 倭国王帥升は、大倭王とは書いてないだろ?
後漢書の典拠資料は、三国志が書かれた時代と同時代のもの
後漢書の其大倭王居邪馬臺國、というときの大倭王は三国志当時の情報であり
卑弥呼の後継の王
それに対し、倭国王帥升は、卑弥呼の遣使の130年前の王で
北宋版『通典』には「倭面土王帥升」と書かれているし、
『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」、
唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」となっている
まあ、倭国の王というよりは、倭の面土の「地」の王ってのが最大公約数かな
帥升「等」って後漢書にも書かれているし、倭国のただ一人の王という地位にはない >>607
一連の考察になってますからね、当然それも入ってますよ。 >>609
それで、もともとの丈夫は、成人男子の平均身長から来ている言葉で
偉丈夫にあたるような大男の意味はなかったってのは認められるようになったのかい? 丈が平均身長っていうのが同意できませんね。
当たり前ですが。 >>608
後漢書は倭国王と大倭王を区別しているようには読めないね。
倭王がいた倭国の王都である邪馬台国が九州北部にあったことを認めたくないからごねているだけにしか見えない。 >>611
>当たり前ですが。
どこがどう当たり前なのか、説明できるかな?
自分の間違いは認めたくないから、以外の理由で? >>608
>後漢書は倭国王と大倭王を区別しているようには読めないね。
>倭王がいた倭国の王都である邪馬台国が九州北部にあったことを認めたくないからごねているだけにしか見えない。
お前さんも、頭悪い系なのかい?
後漢書は、後漢の記録だけれど成立はずっと遅い
だから倭国の情報に関しては後漢当時のことではなく、典拠情報の成立時のことが
書かれている
其大倭王居邪馬臺國、というときの「大倭王」は三国志当時の情報であり
卑弥呼の後継の王
後漢代の倭国王ではないよ
それに対して倭国王帥升は、後漢の安帝に朝貢した人物で、時代が200年くらい離れている
区別するも何も、完全に別の立場の別人だよ >>615
もう何度か説明したと思いますが。
字形からして十アタか杖を手に持つ象形だからですよ。
説文にも身体尺の例から漏れてますしね。 >>617
>十アタか杖を手に持つ象形だから
またごまかそうとしている
その「字形」というのは、丈なのか夫なのかどっちだ?
それに、十アタってことは絶対にないぞ
「咫・あた」は日本の単位であって、大陸側には何の意味もない
>説文にも身体尺の例から漏れてますしね。
これもごまかし
尋の方が身体尺に入っていて、尋が丈であると書いてある
「清代 段玉裁《說文解字注》」
十尺也。从又持十。
夫部曰。周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。「然則伸臂一尋。周之丈也。」
故从又持十。直㒳切。十部。
周制、寸・尺・咫・「尋」・常・仞諸度量、皆以人之体為法。
と合わせて考えれば、尋が身体尺でそれが周代の丈だと書いてある
さらに漢典の国語辞典で丈夫の項を見ると
丈夫
身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺左右,故以丈夫為男子的通稱。
となっていて、成年男子高八尺「左右」と、「左右」が付くことで「標準的な身長」を
示す語であることが分かる >>618
>その「字形」というのは、丈なのか夫なのかどっちだ?
丈に決まってますよね。文盲ですか?
>それに、十アタってことは絶対にないぞ
>「咫・あた」は日本の単位であって、大陸側には何の意味もな
手の大きさ(それを用いるアタ)は、日本以外でも基本的な身体尺ですよ。
>尋が丈である
だからそういう一般的な身体に関する知識でしょ。
丈が平均身長であることを積極的に示すようなもんじゃないですね。
字形積極的に示されているのは、丈は「丈は10アタ」という会意ですね。 >>619
>丈に決まってますよね。文盲ですか?
非識字者と言おう >>619
>手の大きさ(それを用いるアタ)は、日本以外でも基本的な身体尺ですよ。
「あた」は日本の単位だって言ってるんだよ
それに、丈の字形のどこが「あた十個分」なんだ?
それに、手の大きさの身体尺と丈の関係では「尺」を使うと説文解字にも書いてある
「尺」はおおもとは男の手の大きさの身体尺
「咫」はおおもとは女の手の大きさの身体尺
「尺」を使う場面では、身体尺だからといって「咫」の出る幕はない
どうせ、白川静『常用字解』あたりを訳も分からずに引用して、
引っ込みがつかなくなってるんだろ
「文句があるなら白川静に言ってください」ってお鏡さんが書く前に言っておいてあげるよ
そして、白川静『常用字解』でも
「長老を丈人、成人男子を丈夫ジョウフという。立派な体格の男子は大丈夫である。」
と書いてある
お鏡さんの言う「丈夫は大男」は間違いで、大男は「大丈夫」なんだよw
本当に、お鏡さんは
1.漢文が読めない
2.思い込みが激しい
3.他人の説を自分の説のように言う
4.そのくせ間違いを指摘されると責任転嫁する
5.それでも自分の間違いは認めない
クズですな 10月20日は柳田先生
八咫鏡は原田大六氏
そしてnew
丈の字形は十あた by白川静
お鏡さんオリジナルは、浦間茶臼山だけ?
じゃあ、これを否定すれば、お鏡さんは終わるかな? >>622
丈が10アタというのは藤堂先生の説らしいですよ。
何トンチンカンなこといってるんですか?
>>623
浦間茶臼山と箸墓は、北條先生の指摘ですね。
岡上オリジナルの説は、ここではあんまり開陳してませんよ。
知りたければアマゾンで買ってくださいね。 要するに、人の説をとくとくと劣化コピーとして披露している訳か
しかも、古くて既に否定されているものでも、信じ込んでしまったらそのままww お鏡さんはこの辺を読んでおいた方がいいんじゃないかな
「聖なるものさし」 尺…身体尺
https://flora.karakusamon.com/syaku.html
そうすれば、平原1号墓出土鏡が八咫鏡とかいう寝言は通らないことが分かるだろうに >>626
>丈が10アタというのは藤堂先生の説らしいですよ。
>何トンチンカンなこといってるんですか?
その藤堂先生の説の典拠は出せるかい?
藤堂明保先生の「中国人のはかり方」という論文があるけれど
丈は十尺と書いてあるし、字形がどうこうという話はどこにもないよ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chuugokugogaku1955/1955/38/1955_38_105/_pdf/-char/ja
そもそも、白川静先生と、藤堂明保先生の学説の根本の違いが
白川説では漢字の意味は象形重視であり「最初に字ありき」、
藤堂説は漢字の意味は音重視であり「最初に音ありき、字は後」
字形について何か言うとしたら白川先生のはずだよ
実際、ぐぐったら、白川先生の説が出てきたから>>622に書いたんだが、
同じページに行き着けないww
もう少し探してみるよ
どっちにしても、お鏡さんの「丈夫は大男」という強弁が大間違いなのは確実 >>628
意識高い系じゃなくても、「非識字者」を使いなさい このページだったかな?
丈の象形の白川説
http://gaus.livedoor.biz/archives/13639355.html
いずれにしても、十アタなんてのは出てこないな
さて、お鏡さんはどこまでがんばるんだろうねぇ
「恥の上塗り」にしかならないのにw >633
横レスすまんが、
岡上は、手をあてて測る長さの身体尺をアタっていってんじゃないの? まぁ、平原は最高の副葬品の墓なのは事実だし、女性の可能性も高いので、卑弥呼の墓の候補だね
鏡も倭人伝の記載にあり、後の伊勢神宮に御神体として扱われている訳だし、重要な品なのは間違いない
その鏡何十枚もあり、中でも最大の鏡は八葉座の紋様さえも他の墓で類似品がでない
そのオリジナル性は凄いな
破片でも磨いて(破鏡)から副葬してある墓も多い時代なのに、その様相は圧倒的 そうですね。
畿内説はまず平原遺跡の位置付けをはっきりさせてからでないと主張できないはず。
その点では岡上さんは畿内説にありながらも平原遺跡の意味をまともに検討しようとしている点が評価できます。
まあ、私は伊都説派なので岡上さんの意見に賛成というわけにはいきませんけどね。 >>636
>まぁ、平原は最高の副葬品の墓なのは事実だし
鉄器は出ていたっけ? 鉄剣? @阿波 >>635
>岡上は、手をあてて測る長さの身体尺をアタっていってんじゃないの?
ただな、中国古典の「丈夫」の問題を、日本語の「あた」で表す時点で意味がないんだ
そして中国語では尺だと何度も書いている
もともとが、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡だ」という戯言の否定で、
「咫」の長さを検討している場面で、自説に都合が悪いからという理由で
お鏡さん自身が
「>八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑)
> 六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
一丈211cmなら、丈夫というより、怪物ですよ 」 (伊都国東遷スレPart5>883)
と言っているのが、発端で大間違い
具体的には「一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑) 」の部分
丈夫というのは「普通の成人男性」を指すから「凡夫」こそが正しい
そして、実際に当時の成人男性の推定平均身長が168.8センチだから、
まさにそのものだ
これだけ明確に間違えているのに、言を左右して、関係ない藤堂明保先生の
せいにしようとしてまで、自分の間違いだと認められないのがお鏡さん >>637
>畿内説はまず平原遺跡の位置付け
いい加減に、平原遺跡と平原1号墓の区別を付けろって言ってるだろ!
平原遺跡の位置づけはこれまで何度も書いてる
伊都国のそれなりに有力家系の家族墓地だよ
発端は、5号墓の築造
そのときに平原の地を選んで、5号墓を作り大柱を立てる祭祀をしている
1号墓はその後に作られたもので、同じように大柱を立てる祭祀を行っているが、
墳丘と大柱を結ぶ線の延長上に、小型建物の跡があり、
吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓」「立柱」「祀堂」と同じ位置関係になっている
よく、平原1号墓は太陽祭祀をした日巫女の墓で、大柱は日向峠の夜明け方向を
指しているというが、大柱は「祠堂」から墳丘墓を拝むためのもので見る向きが逆
吉野ヶ里の立柱は、南北に近い方向に立てられていて、太陽祭祀とは関係ない
5号墓の大柱の指す方向と、1号墓の大柱の指す方向も一致していない
吉野ヶ里、5号墓、1号墓と墳丘墓と大柱、祠堂の関係を順に並べて考えてみると
日向峠からの日の出と大柱の関係には特に根拠がないとするよりなく、
平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
そして、平原遺跡を伊都国有力家系の家族墓として見たときに、1号墓以外には
厚葬墓がなく、墳丘サイズも小さいものばかりで、伊都国王家とは異なる家系なのは
あきらか
日巫女でもなく、伊都国王家でもなければ、1号墓を卑弥呼の墓とする理由はない
どうやっても径百歩にならない墓に、そんなに執着してもしょうがないだろうに >>640
>つまり平原遺跡の鏡は八咫鏡でいいのだよね?
全然ダメだよ
当時、八咫鏡だった可能性はほぼない
単なる祭祀用の大鏡を普通名詞として八咫鏡と呼んだと主張する余地はあるけれど
円周長が八咫だからという説明は、完全に否定済みだよ
基本的には、原田大六氏の昭和の時代の思いつきだけが根拠なんだからさ >>641
>平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
1号墓の卑弥呼の時に日御子の立場が確立されたなら、別に問題ではない。
>厚葬墓がなく、墳丘サイズも小さいものばかりで、伊都国王家とは異なる家系なのは
伊都国のかつての男王たちと少し違う家系だろうというのは、魏志倭人伝のとおり。
個人的には、壹與は筑後に遷都した説ので、糸島平野に後に続く墓がなくてもいい。
筑紫の王家だからこそ、広域で考えなくてはいけない。
「伊都国だけの王家」などというものをあなたがでっち上げようとしているからこそ、矛盾が生じているだけだ。
伊都国説の不備ではない。 で、この「咫」の長さの論争の中で、
「丈夫は平均身長の凡夫じゃない」とか血迷った間違いをした人がいて、
丁寧に「それは間違いだよ」と教えてもらっているのに、
そんはのは認めないって言い続けている恥さらしが一人いるだけ >>643
>1号墓の卑弥呼の時に日御子の立場が確立されたなら、別に問題ではない。
どこから「日御子の立場が確立された」なんて事が出てくるの?
墳丘(そば)に立って、大柱の方向を見ると「祠堂」があって、
「日向峠は見えない」んだよww
もともと、二至二分でもない10月20日に昇る朝日の方向を指すから
日御子だっていう時点で無理があるんだけどね、しかもきちんと調べると
10月22日というお粗末さww
そして、埋葬主体の木棺の方角は、日向峠よりも南を向いている
結局偶然それっぽかった(日向峠の日の出の方向)だけで、大柱も
埋葬主体も具体的な方向を向いていた訳でもないんだ
>伊都国のかつての男王たちと少し違う家系だろうというのは、魏志倭人伝のとおり。
魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてある? 典拠部分を引用してよ
>個人的には、壹與は筑後に遷都した説ので、糸島平野に後に続く墓がなくてもいい。
個人的にって言ってるけど、要は「根拠なし」だろ >>643
>筑紫の王家だからこそ、広域で考えなくてはいけない。
そんなものはないよ
伊都国はのちの伊都県主
奴国が後に筑紫国造になる
末慮国は、末羅国造
別々の首長の家系があり、ここではそのうちの伊都県主家を
伊都国の王家と呼んでいるだけ
>「伊都国だけの王家」などというものをあなたがでっち上げようとしているからこそ、矛盾が生じているだけだ。
要するに、伊都国地域のローカル首長の家系だよ
邪馬台国からの派遣官の一大率の監督下におかれている首長
>伊都国説の不備ではない。
伊都国説自体が不備だからね
「短里」「島巡り仮説」「水行の起点を帯方郡に戻す」
こういった捏造がないと、説の形すら取れない
そもそも、伊都国と邪馬台国とは、水行陸行合わせて2ヶ月かかる
遠地の別の国、っていう魏志倭人伝の記録を無視しないと
成り立たない時点で終わってる、という前に始められない これまで、平原遺跡の立地と太陽の運行について意味があるなと思ったのは、
「三雲遺跡群から見て、夏至の日の入り方向に平原遺跡がある」
というもの
これだけ
でも、平原遺跡内の墳丘や大柱などの配置は、夏至の日の出日の入は、
一切意識していないようだ
平原遺跡は立地からしても、三雲遺跡群に対して従の立場であり、
すべてを差配できる王の立場にあるとは見えない >>641
>指しているというが、大柱は「祠堂」から墳丘墓を拝むためのもので見る向きが逆
御柱は被葬者のためのもの。
建物は古代神道で殯宮として知られる建物だよ。
勝手な造語はいけないね。
>日向峠からの日の出と大柱の関係には特に根拠がないとするよりなく、
>平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
逆だよ。
1号墓の被葬者だけが日の巫女だということだよ。
他の人物は太陽信仰ではなく、1号墓の被葬者だけが特別なんだよ。 >>646
>魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてある? 典拠部分を引用してよ
戦乱があっというので、王統の正統性を疑った魏は、わざわざ郡使を派遣したんだよ。
それ以外に郡使を派遣する理由があるか?
一女子を共立したというからには、王家の関係者だったかもしれないが、少なくとも嫡子(これもそもそもは男子を想定した語だ)ではないはずであり、平原遺跡の状況と一致するんだよ。 >>647
>伊都国はのちの伊都県主
怡土県主が倭王の末裔であることは同意する。
>奴国が後に筑紫国造になる
魏志倭人伝の時点で奴国に王家はない。
紀元前に奴国にいた倭王の権威は伊都の倭王が継承しているのだろう。
>伊都国の王家と呼んでいるだけ
あなたが勝手に呼んでいるだけ。
漢や魏が冊封したのは「伊都国王」ではなく倭王だからね。
そして卑弥呼もそのような倭王の一人だ。 >>648
>平原遺跡は立地からしても、三雲遺跡群に対して従の立場であり、
平原遺跡の方が後から作られたのだから、当然だ。
同じ内行花文鏡を奉じる王墓として、平原遺跡は明確に三雲から倭王の権威を継承している。 >>635 さん
そうですよ。手を当てて測っていたのは何も日本だけじゃないですから。
この「尺」の解釈はアタそのものですね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chuugokugogaku1955/1955/38/1955_38_105/_pdf/-char/ja
>>617 を読んで丈のことか夫のことかもわからないぐらいの読解力しかない人には
難しいですかね(笑) それはそれとして、>>633の内容も、丈=平均身長説(笑)とは、相容れない内容ですし、
現在推敲中の岡上説に資するところが大きそうですから、ありがたく参照に使わせてもらいますね。 遺跡の説明をすることと
説の中での遺跡の位置付けを説明するのは内容が違うで。
相変わらず、一人相撲の誤読大王だな。コミュ障改善するのに彼女と話をしてから書き込んだ方がいいぞ。 2ちゃん張り付き、粘着しすぎだし、それは無理な注文だろ >>654
相変わらず言い張るだけで
なんにも理由を言わない
ハジサラ氏
もといお鏡さん 考えを修正すると言っているんだからいいんじゃないか? >>648
三雲南小路は夏至の日の出が高祖山、日の入りが可也山となる位置にあり、この二つの山と夏至の太陽を意識していることがわかる。
そして、平原の5号甕棺から2号大柱の先は夏至の日の出方向。
5号墓から1号大柱の先は高祖山、また5号墓の主軸も高祖山を向いている。
https://www.google.co.jp/amp/s/ar.pinterest.com/amp/pin/627548529300333171/?source=images
夏至の日の入りは三雲南小路と同じ可也山。
少なくとも5号墓は三雲南小路の祭祀を継承していると見ていいんじゃない? >>649
>建物は古代神道で殯宮として知られる建物だよ。
>勝手な造語はいけないね。
殯宮というには、かなり小さいんだ
殯宮とするには根拠が乏しい
祀堂は吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓に伴う小型建物に付けられた名前で、
墳丘墓の被葬者へのお供え物を手向けるための場所とされている
勝手な造語ではないよ
>>649が知らないだけでね
>1号墓の被葬者だけが日の巫女だということだよ。
>他の人物は太陽信仰ではなく、1号墓の被葬者だけが特別なんだよ。
それは単なる伊都国説の人の思い込み
なぜ1号墓の被葬者が「いきなり日の巫女になったのか」という論証なしで
そんな主張をしても意味がない
5号墓と1号墓の大柱の指す方向は一致していないがだいたい同じ向きを意識している
5号墓被葬者が日の巫女ではないのなら、1号墓被葬者を日の巫女とする理由もない
5号墓と比べて1号墓の方が墳丘も大きく副葬品も豪華なので、異なる立場・地位に
あったことは推知できるが、その墳丘サイズは国家レベルの動員力を必要とするもの
ではなく、伊都国の有力家系が一族の力くらいで築造できるものだ
前後の墳丘のショボさや、その小さな2号墓と合わせて作られていることから考えて、
有力家系から伊都国王妃が出て、その王妃を一族総出で厚葬墓に葬ったというところだろう >>650
>戦乱があっというので、王統の正統性を疑った魏は、わざわざ郡使を派遣したんだよ。
>それ以外に郡使を派遣する理由があるか?
答礼使の派遣は、王の正統性を確認するためというのは正しいが、
一国を代表する王かどうかの確認が目的だぞ
王統はある意味どうでもいい
遠絶の地の王が誰であれ、朝貢に来て国を代表するものであれば王に除すればいいだけ
典拠を求められて、魏使が派遣されているからとしか言えないってことは
違う家系であることを示した部分は、魏志倭人伝にはないってことだな >>651
>怡土県主が倭王の末裔であることは同意する。
「縣主」という時点で、小首長としか認められていないってことだから、
それがかつて倭王だったとするのは牽強付会に過ぎるだろ
>魏志倭人伝の時点で奴国に王家はない。
中華視線で、皇帝から除正されていないものは王ではないとするのは勝手だが、
奴国には奴国の首長がいるし、伊都国より強勢だったのは遺蹟の規模からみて確実
実際魏志倭人伝でも、奴国が戸数二万の大国として描かれるのに対し、
伊都国は千戸に過ぎない
奴国首長がのちの筑紫「国造」、伊都国首長が怡土「縣主」であることとも
整合性がある
こういう前後の情報との関連を精査するってことを九州説はやらないよね
だからチェリーピッキングの域を超えられない
>紀元前に奴国にいた倭王の権威は伊都の倭王が継承しているのだろう。
「だろう」で勝手に想像しても、根拠がないのは変わらない
倭王の権威が衰微したからこその倭國亂と見る方が妥当
だからこそ、「共立」という「新たな正統性の担保」が必要だったと言える >>664
>墳丘墓の被葬者へのお供え物を手向けるための場所とされている
根拠のない決めつけ。
殯宮なら古代においてそのような風習があったことは確認できる。
>なぜ1号墓の被葬者が「いきなり日の巫女になったのか」という論証なしで
倭国大乱があったからだろ。
>有力家系から伊都国王妃が出て、その王妃を一族総出で厚葬墓に葬ったというところだろう
有力家系から倭国女王が出たんだろう。
三雲では王と王妃が隣り合っていて、王の墓の方がわずかに豪華だ。
しかし平原では王に相当する墓がないので、1号墓は女王だよ。
その時点であなたの勝手な妄想は完全に根拠を失っている。 >>653
>そうですよ。手を当てて測っていたのは何も日本だけじゃないですから。
>この「尺」の解釈はアタそのものですね。
どう強弁したところで「尺」なんだよ!
中国古典の解釈に日本語の単位を持ち出してどうする?
それにお鏡さんが>>617で書いてた「『字形』からして十アタか」の
『字形』ってのが完全に見当違いだってのは間違いないな?
>>>617 を読んで丈のことか夫のことかもわからないぐらいの読解力しかない人には
>難しいですかね(笑)
今問題にしている
「丈夫也。从大,一以象簪也。周制以八寸爲尺,十尺爲丈。
人長八尺,故曰丈夫。凡夫之屬皆从夫」
の説文解字の記事は「丈」はなく、「夫」の記事なんだよ
「丈」には「十尺也。从又持十。』としか書いてない
説文解字注でも
「『夫部曰。』周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。
然則伸臂一尋。周之丈也。故从又持十。直㒳切。十部。」
と基本「夫」の記事を引用している
丈夫を論じるのに、丈の字について論じるのか、夫の字について論じるのか
確認するのが当然
相手に紛れなく伝わる文章を書く能力がないのを棚に上げて
「わからないぐらいの読解力しかない人には
難しいですかね(笑)」
と相手の非難にすり替えるあたりは、九州説の人間にふさわしい態度だけどな >>665
>一国を代表する王かどうかの確認が目的だぞ
>王統はある意味どうでもいい
>遠絶の地の王が誰であれ、朝貢に来て国を代表するものであれば王に除すればいいだけ
これは概ね理解できる。
魏も、嫡子ではなかった卑弥呼を最終的に承認している。
福岡の様子を見て、実際に卑弥呼が倭を代表していることを確認したのだろう。
(畿内に行かずに倭の様子を確認できたのだから福岡が倭の中心だ)
あと、おそらく卑弥呼が漢委奴国王印を使って国書を送ってきたのだろう。
そうでないと、国書が届いても倭王からのものだと確認できないからね。
つまり金印があった福岡が倭の王都だ。 >>666
>「縣主」という時点で、小首長としか認められていないってことだから、
はるか後世の文献であることに注意されたい。
しかし、他の県主よりも格上の扱いであることがわかる。
もっとも、天孫族の末裔もその頃にはかなりの数になっていたはずで、その一部ということになる。
>奴国には奴国の首長がいるし、伊都国より強勢だったのは遺蹟の規模からみて確実
奴国のどの遺跡だ?
少なくとも三雲と平原は、その時代の最高クラスの王墓だが?
奴国が首都であったのはそれよりかなり前の話になる。 >>654
>丈=平均身長説(笑)とは、相容れない内容ですし、
読解力以前に、アタマ大丈夫か?
>>622でも引用しているように
「成人男子を丈夫ジョウフという。立派な体格の男子は大丈夫である。」と
解説にも書いてあるだろ?
普通の平均的な成人男子が「丈夫」で、お鏡さんが勝手に思い込んでいる立派な人・大男は
「大丈夫」だって書いてあるだろ
お鏡さんの間違いってのが確認できるだけだぞ?
引用しなければ、リンク先を読みに行っていない人はごまかせるとでも思ったのかい?
白川先生の書いた部分は、
「会意。十と又とを組み合わせた形。十は木の枝の形で、又は手の形。
手に木の枝を持ち、それを支えとするもので、杖(つえ)のもとの字である」
これだけだが、こちらは身長の話には一切触れていないから、相容れないなんてことには
まったくならないだろう
何を言っているんだかww
「一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑) 」
これが間違いでしたって、素直に認めるのがそんなに難しいことかねぇ?
まあ、がんばって恥の上塗りをまだまだ続けるっていうなら止めないけど、
お鏡さんは「間違いを正さない態度で、思い込みを言い張る人」、という評価がどんどん
固まっていくな そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
それらは正式に冊封された倭国の王家だよ。
福岡県内で王宮が年代によって移動している。
それをまあよくも伊都国は平原の後で衰退したとか、適当なことをほざけるな。
一方では西日本全域の支配を想定しておいて、一方では奴国と伊都国を分離してそれぞれに王権を想定するなど、デタラメなダブスタだよ。 >>673
別の時代の話をしてるんだからダブスタでもなんでもないんじゃ? >>673
>そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
理由は? >>675
隣接しているからだよ(^^;
平原と三雲は、それぞれ同時代に匹敵する王墓はない。 >>672
リンク先に
「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
とありますね。都合のいいところだけ抜き出してますね。
大夫は、大きいとは限りませんが、だからといって大のもつコアイメージを否定して、
大きいは限らないから平均身長だと主張するのは滑稽でしょう。
丈夫も同様ということです。 >668
恥ずかしい長文乙ですね。
617には、
>説文にも身体尺の例から漏れてますしね。
と書いてます。
これで丈のこととわからないのというはかなりの重症ですよ。
夫はそもそも尺度じゃないですから。 >>679
だから大人の平均身長だと言っているのに >>679
「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
とありますね。
常と同源であり
常と同源であり
常と同源であり
都合の悪いものは無視?
成長した大人の男の平均身長です >>683
>成長した大人の男の平均身長です
それと邪馬台国と関係まったく無し。 なにを馬鹿騒ぎしてんの??? @阿波 >>684
平原で八咫鏡なんか出てない事実を
どうしても認めたくない爺さんが
ゴネてるのさ >>685
ふ〜ん。 鏡で邪馬台国を見つける気、満々なんだね。 ある意味凄いわ。 @阿波 >>684
平原で八咫鏡が出た事実を
どうしても認めたくない爺さんが
ゴネてるのさ >>688
ジジイに認めて貰う必要はないよな
かってに喚いてるだけ >>690
粘着じじいの狭いすぎる世間に興味はないんだよ >>691
証拠ださない粘着じじいか
九州説は困ったちゃんだな >>663
できればPinterestじゃなくて、もとのブログのURLを貼ってくれればいいのに
https://plaza.rakuten.co.jp/chinchiraotsupe/diary/201712280000/
見てきたけれど、線の引き方がかなり恣意的だよな
5号墓周りの大柱の「横」を通る線が夏至方向と書いてあるし
>5号墓から1号大柱の先は高祖山、また5号墓の主軸も高祖山を向いている。
高祖山を向いていても、日向峠を向いていても、太陽信仰とは結びつかないよな?
>夏至の日の入りは三雲南小路と同じ可也山。
だが、平原遺跡は冬至の日の入り方向や可也山を意識している形跡はない
>少なくとも5号墓は三雲南小路の祭祀を継承していると見ていいんじゃない?
その三雲南小路の祭祀とは何を指すんだ?
三雲南小路にあやかった墓というのがせいぜいだと思う 東側に山、墓には水銀朱。
神仙思想だな(孝霊より) 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
高祖山を夏至の日の出の方向に臨む弥生王墓である三雲南小路遺跡は随伴する細石神社の祭神が天孫ニニギの妃である木花咲耶姫であるが、三雲遺跡そのものは男女のペアであり、ニニギと木花咲耶姫かもしれない。
ニニギは筑紫の日向に降臨してからクシフル山の高千穂宮で即位したと伝えられ、後世の怡土城、高祖城に相当する高祖山の山城がそれであろう。
現在では高祖神社(高祖宮)として糸島平野を見下ろしている。
三雲遺跡は璧や内行花文鏡などが副葬された倭王の墓であり、細石神社は江戸時代まで漢委奴国王印を保管していたという。
つまり伊都は倭王ニニギの王都、筑紫の日向であった。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺や博多湾沿岸のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 >>695
あやしげな出所不明ネタのデラックス詰め合わせだな 九州の原という地名は、国邑(おそらくは環濠集落)を意味するとともに、後世の城の丸(本丸など)の語源でもある。
さらにはマウル、ポルなども同じ語源の可能性があり、ユーラシア大陸各地で共通の概念である。
ttps://www.shochian.com/harubaru2.htm 畿内説は何も説明できなくてかわいそうだな。
いくら妄想を膨らませても史書とすり合わせできないからな。
筑紫が倭の王都だと考えると、紀元前からの弥生王墓群や金印、平原遺跡の内行花文鏡、邪馬台国、記紀の神代の巻まですべて一元的に説明できる。 >>700
筑紫にあった倭国の中から見た歴史がわかる。 >>699
記紀への当て嵌めゴッコが出来ると、何かいいことが有るのか?
そんな説明に意義があるとは思えないので、遠慮する >>701
幻が見えるなら御免被る
健康に悪そうだ >>607
>そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
何度も繰り返すが、>>607が「中華目線で冊封がない限り王じゃない」というのは
構わないが、魏志倭人伝に別の国として書いてあるじゃん
魏志倭人伝に「伊都国」「奴国」として、「国」と呼ばれる別のまとまりであると
はっきり書かれているのを無視してはいけないな >>667
>根拠のない決めつけ。
>殯宮なら古代においてそのような風習があったことは確認できる。
殯宮っていう言葉しか知らないんじゃないか?
墳墓祭祀の準備が整うまで遺体を置いておく場所だぞ?
それが、最終的に葬られる平原1号墓そばにあるのは、実はかえっておかしい
それに、これも何度も何度も書いていることだが、平原遺跡の平面図をきちんと見てるか?
http://yamatai.cside.com/katudou/image/273-5.gif
この図は、邪馬台国の会のページのものだけれど、この図の一番上にある異形建物と
書かれているのが今問題になっている建物
比較してみると、1号墓埋葬主体の木棺よりも建物の方が小さいだろ?
そんな殯宮はないよw >>667
>倭国大乱があったからだろ。
倭国大乱じゃなくて、倭國亂な
そして、その収拾には「共立」で足りる訳だ
実際、魏志倭人伝にも共立とは書いてあるが、日の巫女であるとは一言も書いてない
要するに、妄想・感想の類ってことだなw >>704
伊都国や奴国は、国邑の名前だよ。
特に奴国には王もいないし。
国家としてはすべてあわせて倭であり、王は倭王家の卑弥呼と卑弥弓呼しかいない。
王は代々伊都にいた(卑弥弓呼だけ南の狗奴国にいて王位争い)。 >>667
>有力家系から倭国女王が出たんだろう。
伊都国内で有力家系であっても、他国から見れば王でなければ、
共立対象にはならない
>三雲では王と王妃が隣り合っていて、王の墓の方がわずかに豪華だ。
その辺も、彦姫制の傍証だな
>しかし平原では王に相当する墓がないので、1号墓は女王だよ。
その伝でいくなら、1号墓が王墓で2号墓がその配偶者の墓と考えることに
なるんじゃないのか?
でも、1号墓と比べても2号墓は極端に副葬品も墳丘サイズも貧弱だ
三雲南小路遺跡の頃(200年前)と比べても、平原1号墓を作る頃には
伊都国の国力がずいぶん落ちていることを示しているな
>その時点であなたの勝手な妄想は完全に根拠を失っている。
その時点の前に、>>667の想定(憶測)に妥当性がない >>705
>そんな殯宮はないよw
ほほう。
では普通の殯宮はどれくらいの大きさなんだ?
教えてくれ。 >>706
>実際、魏志倭人伝にも共立とは書いてあるが、日の巫女であるとは一言も書いてない
魏志倭人伝には日の巫女と書いてなくても、太陽を象った内行花文鏡を象徴としていた巫女女王なら日の巫女でいいだろう。 >>669
>福岡の様子を見て、実際に卑弥呼が倭を代表していることを確認したのだろう。
>(畿内に行かずに倭の様子を確認できたのだから福岡が倭の中心だ)
これが勝手な妄想・憶測
魏志倭人伝で邪馬台国までの日程が書いてあるのを無視している
>あと、おそらく卑弥呼が漢委奴国王印を使って国書を送ってきたのだろう。
これも、根拠なしの妄想だな
>そうでないと、国書が届いても倭王からのものだと確認できないからね。
「倭王からのものだと確認」するために答礼使が送られるというのは
認めているくせに
>つまり金印があった福岡が倭の王都だ。
志賀島は伊都国じゃないよな?
ご都合主義もたいがいにしておきなww >>708
>その伝でいくなら、1号墓が王墓で2号墓がその配偶者の墓と考えることになるんじゃないのか?
>でも、1号墓と比べても2号墓は極端に副葬品も墳丘サイズも貧弱だ
つまり、2号墓は配偶者ではないんだよ。
三雲は王と王妃だから、1号墓に近い規模の副葬品を持つ2号墓があった。
でも平原は配偶者を持たない独身の巫女女王なんだよ。
魏志倭人伝にある、先代の男王と、女王卑弥呼でぴったりだ。 >>670
>はるか後世の文献であることに注意されたい。
これは構わないんだが、
>しかし、他の県主よりも格上の扱いであることがわかる。
これが、びっくりするほど何の根拠もない決め付けなんだよな
どうして、九州説は根拠と憶測の区別がないんだろう?
>もっとも、天孫族の末裔もその頃にはかなりの数になっていたはずで、その一部ということになる。
かなりの数になっていたところで、宗家であり首長家の頭首が「県主」な訳だろ?
豪族首長っていうのはそういうものだ >>676
>平原と三雲は、それぞれ同時代に匹敵する王墓はない。
伊都国の三雲南小路遺跡と、奴国の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は
同時代だぞ
どちらも副葬品から王墓級とされている >>711
>>>669
>>福岡の様子を見て、実際に卑弥呼が倭を代表していることを確認したのだろう。
>>(畿内に行かずに倭の様子を確認できたのだから福岡が倭の中心だ)
>
>これが勝手な妄想・憶測
>魏志倭人伝で邪馬台国までの日程が書いてあるのを無視している
日程は帯方郡から。
九州から先の国邑が記されてなく、郡使は伊都に駐在したと明記してある。
>>あと、おそらく卑弥呼が漢委奴国王印を使って国書を送ってきたのだろう。
>
>これも、根拠なしの妄想だな
次の行に根拠が書いてあるのだが。
>>そうでないと、国書が届いても倭王からのものだと確認できないからね。
>
>「倭王からのものだと確認」するために答礼使が送られるというのは
>認めているくせに
王の印がない国書なら無視した。
漢が与えた金印で封された国書が届いたので使いを送った。
>>つまり金印があった福岡が倭の王都だ。
>
>志賀島は伊都国じゃないよな?
>ご都合主義もたいがいにしておきなww
高祖山は博多湾沿岸の要所であり、志賀島がその支配下であることは明白だよ。
そもそも対馬海峡全体が倭の支配下だしね。 >>679
>「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
>dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
「常」って、単に「尋(=丈)」の2倍の長さだぞ?
「尺=身近な長さ」に対して「長い」というコアイメージを持つだけで、
大男に繋がるような意味合いはない
現代の感覚でも、30センチ定規は取り回しも簡単だが、
1メートルの定規は「長い」と感じるだろ?
どうして、意味のない強弁を続けるかねぇ
まあ、お鏡さんの「人格の本質」が
「間違いを絶対に認められない気質」なんだろうね >>713
>かなりの数になっていたところで、宗家であり首長家の頭首が「県主」な訳だろ?
同じ福岡県内で怡土の県主と岡の県主がいて、いずれも三種の神器と同じ内容の象徴を保有していたとあるので、複数の宮家があったのだろう。
前者が筑紫日向の高千穂宮、後者が筑紫岡田宮のことだよ。
この話は仲哀天皇が穴門豊浦宮から筑紫香椎宮に入る時の話なので、景行の孫の仲哀が正統と認められたということだろうね。
昔は宮家はたくさんあったんだよ。
平成は宮家の数が極端に少ない時代だったからわからないかもしれないけどね。 >>679
>大きいは限らないから平均身長だと主張するのは滑稽でしょう。
>丈夫も同様ということです。
また捏造している
何度も典拠は出しているだろう?
>>21の一部を再掲
丈夫
身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺左右,故以丈夫為男子的通稱。
となっていて、成年男子高八尺「左右」と、「左右」が付くことで「標準的な身長」を
示す語であることが分かる
平均がお気に召さないならば、標準でもいいけれど
誰がなんと言おうと、「丈夫」は普通の成人男子の身長が元になった言葉だよ
「大きいは限らない」ではなく、
「普通に育って大人になった男の人の身長」が「丈」
お鏡さんの言う、立派な男・大男は、「偉」丈夫とか「大」丈夫とか、
大きいことを示す形容詞がつくんだよ
本当にお鏡さんは、恥の上塗りが大好きなんだなww >>707
>伊都国や奴国は、国邑の名前だよ。
>特に奴国には王もいないし。
國邑には首長がいるだろ?
國邑をなんだと思っているんだ?
冊封されていないのは王じゃないと強弁するのは勝手だけれど >>714
>伊都国の三雲南小路遺跡と、奴国の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は
>同時代だぞ
須玖岡本は甕棺墓、三雲は平原につながる木棺墓なので、三雲の方が新しいだろうね。
奴国から伊都国への遷都で説明できるんだよ。
三雲の被葬者が天孫族なら、この遷都は筑紫の日向へのニニギの降臨による政権交代でもあった。
だから王位の象徴(三種の神器の様式)を継承しながらも墓制が変化している。 >>719
>國邑には首長がいるだろ?
魏志倭人伝では官と書いてある。
それは王とは区別されている。 >>707
>王は倭王家の卑弥呼と卑弥弓呼しかいない。
卑弥弓呼は、大陸王朝から狗奴国王の徐正を受けていないが、
>>707は王と認めるのか?
魏略に書かれている「其國王『皆』属女王也」というのは、
通常は対馬国・壱岐国・末慮国・伊都国の王は「皆」と解釈するんだが?
なんだが、言ってることがトンチンカンだな
>>707が王と認めるのは王で、認めないのは王ではないという基準なのか? >>722
>卑弥弓呼は、大陸王朝から狗奴国王の徐正を受けていないが、
でもなぜか魏志倭人伝は王と呼称している。
何か根拠があったのかもしれないが書かれてはいない。
>通常は対馬国・壱岐国・末慮国・伊都国の王は「皆」と解釈するんだが?
伊都以外は魏志倭人伝に王と書かれていない。
あなたの勝手な解釈に過ぎない。 >>709
>ほほう。
>では普通の殯宮はどれくらいの大きさなんだ?
>教えてくれ。
つまり、>>709は殯宮がどういうものか知りもせずに、
>>667で殯宮だと言い張ったってことだな?
根拠なしの主張が九州説のデフォって言うのが、
こういうところでもすぐに顔を出すww >>709
>では普通の殯宮はどれくらいの大きさなんだ?
>教えてくれ。
殯宮の大きさ・態様については、明確には記されていないが、
敏達天皇紀に
「天皇病彌留、崩于大殿。是時、起殯宮於廣瀬。
馬子宿禰大臣、佩刀而誄。物部弓削守屋大連、听然而咲曰、
如中獵箭之雀鳥焉。次弓削守屋大連、手脚搖震而誄。」
用明天皇紀に
「穴穗部皇子、欲姧炊屋姫皇后而自强入於殯宮」
とあり、殯宮は墳墓の地とは別の場所に建てること、少なくとも
殯宮内に複数の人物が入って儀式が行える程度の広さがあることが分かる
まあ、いつものように時代が違うとか言い張るんだろうけれど、
木棺一つよりも小さい建物では困ってしまうだろ?
殯宮が立てられた廣瀬は、奈良県北葛城郡広陵町
敏達天皇陵は、大阪府南河内郡太子町 「左右」がつくと「平均的な身長」を示すの?
何か悪い電波でも受信した? >>710
>魏志倭人伝には日の巫女と書いてなくても、太陽を象った内行花文鏡を象徴としていた巫女女王なら日の巫女でいいだろう。
内行花文鏡を太陽を象ったとする文献記録はあるのかい?
内行花文鏡だけで日の巫女としてよいのなら、柳本大塚古墳の被葬者も、下池山古墳の被葬者も
日の巫女でいいのかい? この二つの古墳は、被葬者が女性であるとは考えられていないけれど?
他にも、内向花文鏡を副葬した墳墓はたくさんあるけれど、全部被葬者は日の巫女だってことでいいのかい? >>712
>つまり、2号墓は配偶者ではないんだよ。
じゃあ、平原2号墓の被葬者は誰?
1号墓と同時に築造されたとされていて、ペアの墓であることは確実だよ?
副葬品も貧弱な「一般人」と同時に埋葬される親魏倭王って、おかしいと感じないのか? >>725
本当に時代が離れているなw
ようは棺を一時的に置いておければいい。
1号墓の棺が大きすぎるんだよ。 >>728
卑弥呼を補佐していた弟の可能性が高いと思うよ。 >>727
内向花文が太陽を表すのは定説だろ。
まさか日光鏡をしらないのか?
平原は耳飾りがあるから女性なんだよ。
三種の神器がそろうから王だし。 >>715
本当にめんどくさいな
>日程は帯方郡から。
>九州から先の国邑が記されてなく、郡使は伊都に駐在したと明記してある。
これが誤読
それだと、水行で南にしか行かないことになって、冒頭の
「倭人在帶方『東南』大海之中」という地理観といきなり矛盾する
こういう無理読みを重ねないと、九州に行きつかない時点で、破綻してるんだよ >>727
卑弥呼は特別なんだよ。
あとは日御子、日嗣の御子などだろうね。
天皇制が太陽信仰をベースとしていることは、各所に用いられるその称号から明らかだよ。
皇祖神が天照大神と呼ばれることもその証拠だ。 >>732
>本当にめんどくさいな
あなたの意見こそ、日本の古来からの伝統を無視してその場の思いつきを重ねている。
三種の神器も殯宮も何もかも否定して、あとに何が残るんだい?
それもすべて、伊都が倭の王都で、平原遺跡が卑弥呼の墓であるということを否定したいがためだろ? >>715
>王の印がない国書なら無視した。
>漢が与えた金印で封された国書が届いたので使いを送った。んだよ
また、妄想
魏志倭人伝に
「倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。」
と書いてあるだろ?
帯方郡の太守劉夏が取り次いだから、倭国の使いだとみなされたんだよ
逆に、國印のある文書を持参したとは書いてない
國印、國印というが、漢委奴國王の金印のことが言いたいのか?
倭国王帥升は、金印を持参したのか? >>732
>それだと、水行で南にしか行かないことになって、冒頭の
魏志倭人伝には、南のつぎに東に水行して狗邪韓についているから、南東であっているよ。
よく魏志倭人伝を読んでごらん。 >>735
>國印、國印というが、漢委奴國王の金印のことが言いたいのか?
>倭国王帥升は、金印を持参したのか?
まだ紙がなかったので、木簡などを綴じて、封泥に印を押したというのが一般的な解釈だよ。
印を与えたのは漢だから、漢から禅譲を受けた魏もその印影の資料は保有していたはず。 >>717
>三種の神器と同じ内容の象徴を保有していたとあるので、複数の宮家があったのだろう。
別に宮家じゃない普通の豪族だろ?
何度も書くけれど、雄略紀に皇統とは関係ない「八咫鏡」が出てくるし、
垂仁紀には、皇統とは関係ない「八尺瓊勾玉」も出てくる
三種の神器があるから、宮家とか、倭王だったとか言うのは見当違い
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。 >>726
>「左右」がつくと「平均的な身長」を示すの?
>何か悪い電波でも受信した?
漢文が読めないなら黙っとけよ
>>726はこれをどう訳すんだ?
「身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺『左右』,故以丈夫為男子的通稱。」 >>726
>「左右」がつくと「平均的な身長」を示すの?
本当に面倒くさいけど、親切に解説してあげると、
「成年男子高八尺左右」の「左右」は、現代日本語では「前後」にあたる言葉
成年男子の身長(高)は、八尺前後、だったら分かるだろ?
特に平均と訳す必要もないが、大体これくらいという意味でしかないし、
平均的な男子の身長、標準的な男子の身長、という意味にしかならないよ
丈夫が大男とかいうのは大間違い >>738
>別に宮家じゃない普通の豪族だろ?
筑紫高千穂宮、筑紫岡田宮、筑紫香椎宮、穴門豊浦宮、筑紫橘広庭宮などはいずれも宮の表記を用いる。
そこにいた天皇が明記される場合もあれば、はっきり起源がわからないものもある。
例えば、香椎宮は仲哀らが入ったと書かれるが、仲哀らが建てたとは書かれてない。
少なくとも伊都や岡には大王ではないが宮家があったことがうかがわれる。 >>736
>魏志倭人伝には、南のつぎに東に水行して狗邪韓についているから、南東であっているよ。
だから、その経路と水行20日の経路が同じ経路をもう一度書いただけ、という九州説の
言い分が正しいならば、
「南」至投馬國水行二十日 ではなく
「東南」至投馬國水行二十日 でないと矛盾するって言ってるんだよ
>よく魏志倭人伝を読んでごらん。
こっちの台詞だよww >>729
>本当に時代が離れているなw
>ようは棺を一時的に置いておければいい。
>1号墓の棺が大きすぎるんだよ。
逃げたなww
「1号墓の棺が大きすぎる」なら、それに合わせて殯宮を大きく作ればいいだろ?
要するに、異形建物は殯宮じゃないし、>>664の書き込みは
「知識のない人間の思い込みによる言いがかり」だと確認できたってことでいいな >>738
>別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
>昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
これだって、前者は領土を与えられているこら、大王ではないが王(紀なので冊封されたという意味ではない)の扱いを受けている。
後者は王の扱いを受けていないが、曰甕襲という名前は古い神別の可能性がある。日は王のこと、甕棺は古い王家が用いていた墓制、襲は熊襲など支配者のこと。 >>730
>卑弥呼を補佐していた弟の可能性が高いと思うよ。
ならば王族だし、王佐の第一の臣ならば、副葬品が貧弱すぎるとは思わないかい?
伊都国一国のローカル首長の弟ならばそれくらいで相当とも言えるけれど >>731
>内向花文が太陽を表すのは定説だろ。
>まさか日光鏡をしらないのか?
定説なら定説であることを示す、典拠資料を示してね!
単に文様から、通称がつくのは普通にあること >>746
魏志倭人伝における卑弥呼の弟の扱いはひどいよ。
名前も記録しないくらいだから。 >>747
その鏡の銘文そのものがその証拠だよ。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。 >>731
>三種の神器がそろうから王だし。
三種の神器は、それだけでは王を意味しない
>>738を参照
さらに三種の神器の組合せは、そこらの古墳の副葬品として普通に見られる
事実 山口県の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳 など 平原遺跡の状況は、邪馬台国筑紫説とよく合致するね。 >>750
紀元前に筑紫で確立された様式を持った一族が全国を支配したということだよ。
簡単だね。 >>733
>卑弥呼は特別なんだよ。
>あとは日御子、日嗣の御子などだろうね。
>天皇制が太陽信仰をベースとしていることは、各所に用いられるその称号から明らかだよ。
>皇祖神が天照大神と呼ばれることもその証拠だ。
それは、卑弥呼についてであり、ヤマト王権の皇統についての話であって
「それが平原1号墓の被葬者に当てはめられる理由がない」って言ってるんだよ
伊都国説は、畿内説への仮冒、背乗りと言っているのは、そういう意味
大和朝廷の神器の御神鏡の名称が「八咫鏡」だから、平原一号墓出土鏡を
「八咫鏡」と呼ぶことで皇統に繋がると「主張しようとしている」
というだけ >>734
>三種の神器も殯宮も何もかも否定して、あとに何が残るんだい?
否定していないだろ?
関係のないものを「無理やり皇統と紐付けしようとするな」と言っているんだ
平原一号墓東側の、木棺より小さい異形建物が「殯宮じゃない」のは確認したな?
まだ違うと言い張るなら、そういう印象操作に走らずに、論拠を挙げて論証してくれ 天皇家の起源が筑紫にあることは記紀も明記しているのだけど、なぜそこまで大和だけにこだわるのかな? >>754
>平原一号墓東側の、木棺より小さい異形建物が「殯宮じゃない」のは確認したな?
さあ?
最終的な棺は大きなものだからすぐには用意できないし、それまで小さな殯宮に安置したというのは不自然ではないよ?
あなたの言っていた供物を捧げる建物だとすると、鳥居と反対側にある理由が説明できないよ。
また、そのような建物を用いたという類例がない。 >>720
>須玖岡本は甕棺墓、三雲は平原につながる木棺墓なので、三雲の方が新しいだろうね。
>奴国から伊都国への遷都で説明できるんだよ。
ごめんなぁ、それ(木棺墓だから新しい)、根拠にならないんだわ
吉武高木遺跡の特定集団墓の中で、王墓とされることの多い埋葬主体は
3号「木棺墓」なんだよ
三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡D地点甕棺墓より、200年も古い「王墓」が
木棺墓なのだから、木棺墓だから甕棺墓より新しいとはいえない >>723
>でもなぜか魏志倭人伝は王と呼称している。
>何か根拠があったのかもしれないが書かれてはいない。
要するに、誰を王とするかは根拠がないってことだろ?
結局は、考古学的に厚葬墓を検出して「王墓級」と考えられるか否かで
判断するよりないんだよ
伊都国に王がいて、奴国には王がいないとか、遷都したとかいう言辞には、
検証に耐えうるだけの根拠がない >>757
なるほど。
でもそれならばなおさら、木棺墓が王墓ということになり、吉武高木や三雲南小路は王墓だが、三雲南小路とほぼ同時代の須玖岡本は王墓ではないということになるから、よりすっきりとするね。
奴国から伊都国への遷都があったということだ。 >>737
>まだ紙がなかったので、木簡などを綴じて、封泥に印を押したというのが一般的な解釈だよ。
>印を与えたのは漢だから、漢から禅譲を受けた魏もその印影の資料は保有していたはず。
それはいいけれど、倭国王帥升は、その印を使ったのか使わなかったのかどっちなんだ? 木棺墓が倭王の墓。
これですべて説明できる。
甕棺墓だらけの時代だから、木棺墓は特別な意味があったのだろうね。 >>741
>少なくとも伊都や岡には大王ではないが宮家があったことがうかがわれる。
行宮って言葉は知っているかい?
天皇が一時的にでも滞在した場所は、宮表記になるんだよ
筑紫岡田宮は、神武天皇が東征途上で1年滞在したから宮表記
古事記中巻
「於筑紫之岡田宮一年坐」
宮家の有無とは関係ない
あくまで天皇が基準
あと、神宮(かんみや)は宮と書かれるけれど >>745
>曰甕襲という名前は古い神別の可能性がある。日は王のこと、
おいおい、漢文が読めないならしゃしゃるなよ
名曰甕襲で、名は曰く甕襲、あるいは、名は甕襲と曰う、と読む
名前は甕襲だけ
日と曰は、別の文字だぞww
見当違いにも程がある >>763
>宮家の有無とは関係ない
しかし仲哀天皇の時代に再登場する不思議。 >>764
あー、これはすまん。
スマホの小さい文字なので区別できなかった。
この記事の意味はよくわからない。
よくこんなのを見つけてくるなあ。 >>748
>魏志倭人伝における卑弥呼の弟の扱いはひどいよ。
>名前も記録しないくらいだから。
それは魏志倭人伝の扱いであって、倭国側の都合ではないだろう?
卑弥呼の弟は、有男弟佐治國と書かれているのだから、彦姫制を想定するなら、
まさに彦王の政務王その人だ
というか、この記述自体が彦姫制の根拠とされることが多いんだが
男弟は王族であり、ある意味、王そのものなのだから、薄葬されるとは想定しがたい
それに何より、魏志倭人伝には、卑弥呼の墓は隣に同時築成の墓があるとは書いていない
平原1号墓は、隣に2号墓が付いている時点で卑弥呼の墓の候補としては、非常に弱いことになる
まあ、径百歩からだけでも否定されるんだけれどね >>767
>卑弥呼の弟は、有男弟佐治國と書かれているのだから、彦姫制を想定するなら、
>まさに彦王の政務王その人だ
それこそあなたこ勝手な想像。
政務は伊都の禰宜や大率が担っただろうね。
>男弟は王族であり、ある意味、王そのものなのだから、薄葬されるとは想定しがたい
事実を元に考えようよ。
おそらく卑弥呼本人の資質が大事だったのであり、一族はそらほど重視されなかったのだろう。
壹與も宗女とあり、直系(娘など)ではないようだし。 >>749
>その鏡の銘文そのものがその証拠だよ。
>三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
おいおい、それが根拠かよ
銘文に「日之光」という語を含んでいるものを「日光鏡」と呼ぶんだよ
単なる鏡種の分類のための名称
例えば九州説大好きな須玖岡本遺跡D地点甕棺墓から出土の重圏銘帯鏡にも
その銘文が記されたものがあり、重圏日光鏡と呼ばれている
また、「精(清)白」という語を含んでいるものを精(清)白鏡と呼ぶから、
別の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓出土鏡で、内行花文清白鏡と呼ばれるものもある
日光鏡と呼ばれるものがあることが、太陽信仰の根拠なら、内行花文鏡ではなく、
重圏銘帯鏡が副葬されている墳墓も、太陽信仰の日の巫女の墓ってことになるな
はい、論破w >>751
>平原遺跡の状況は、邪馬台国筑紫説とよく合致するね。
そりゃあ、平原遺跡に合わせて邪馬台国筑紫説を唱えてるんだから当たり前だろ?
散々、循環論法ってい批判を受けているのに、懲りないなww >>752
>紀元前に筑紫で確立された様式を持った一族が全国を支配したということだよ。
>簡単だね。
つまり、三種の神器を持っていても、一族の一員というだけで、
ある意味one of them でしかないと見とめる訳だ
つまり、三種の神器の存在は、ただ一人の王を示す象徴とは
なりえないってことだな
つまり、平原1号墓が王墓であるという主張は根拠がないってことだ 考古学的証拠があるからそれに合わせて考察するのが当然だろ?
何も出ないのに言い張っている畿内説とは大違いだ。
あなたの言っていることの方がおかしい。 >>771
時代を考えろよ。
一族の播種とともに増えたんだよ。
平原遺跡は圧倒的に卓越した女王墓だよ。
後世には三種の神器セットは増えるけど、それとは時代が違う。 >>756
>さあ?
>最終的な棺は大きなものだからすぐには用意できないし、それまで小さな殯宮に安置したというのは不自然ではないよ?
完全に、「想像」の世界だな
仮にも王の殯宮であれば、そんな貧弱なものは作らないだろ
のちの世の記録ではあっても、殯宮では儀式を行うものだから、
人が入る余地がない小さなものはおかしい
それに、墓を作る場所のそばに殯宮があるとするのは、死穢の観念からもおかしい
>あなたの言っていた供物を捧げる建物だとすると、鳥居と反対側にある理由が説明できないよ。
そもそも、その柱跡が「鳥居」であるとする根拠がないんだ
ただの「通称」でしかない
トーテムを立てた後だと主張している人もいる
>また、そのような建物を用いたという類例がない。
最初から、吉野ヶ里の北墳丘墓の例を挙げているんだが?
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=12
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c403.html
類例、あるだろ?というより、同じ目的の配置と考えない理由がない >>774
>のちの世の記録ではあっても、殯宮では儀式を行うものだから、
神道の儀式のほとんどは屋外だよ。
そもそもは宮ではなく磐座だったくらいだし。
>トーテムを立てた後だと主張している人もいる
そのトーテムを鳥居と呼ぶんだけど。
>最初から、吉野ヶ里の北墳丘墓の例を挙げているんだが?
鳥居と解釈する人が多いけど? >>759
ほんとうにめんどくさいな
>でもそれならばなおさら、木棺墓が王墓ということになり、吉武高木や三雲南小路は王墓だが、三雲南小路とほぼ同時代の須玖岡本は王墓ではないということになるから、よりすっきりとするね。
少しは、自分でググって調べてみなよ
吉武高木遺跡の特定集団墓は、甕棺墓が7基、木棺墓が4基で、
その中で一番副葬品が豪華だった3号木棺墓が「王墓」と呼ばれているだけで、
木棺墓であることが王墓であることを保障しないし、
甕棺墓が王墓ではない理由にもならない
結局、副葬品が豪華な厚葬墓を「王墓級」と判断しているだけ
そして、奴国の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓も、伊都国の三雲南南小路遺跡も
「王墓級」と考えられており、この辺の編年はそれほど正確には分からないので、
どちらが前とも判断ができない
もうちょっと、実力をつけてから書き込みしてくれると助かる
本当に面倒くさい そもそも腐り始めた死体と同じ建物になんかいられないって。
平原遺跡だって、1号墓からかなり離れているようだし。
どれくらいの距離がある? >>761
>甕棺墓だらけの時代だから、木棺墓は特別な意味があったのだろうね。
>>776を参照
あんまり意味のない憶測を書かないでくれると助かる >>762
>もちろん使っただろう。
もちろん、根拠が一切ない妄想だろ?
違うというなら根拠を出してね
ある訳ないのは知ってるけどw >>766
>よくこんなのを見つけてくるなあ。
有名な話だよ
邪馬台国論争で、八咫鏡を持ち出すなら、当然知っているのが普通
ニワカさんなんだね
>あー、これはすまん。
謝れるのは、お鏡さんよりずっと高潔な人格であることを示しているから、
立派なことだよ >>779
使わなかったらどうやって倭王ですと証明できたんだ?
教えてくれるかな? >>768
>政務は伊都の禰宜や大率が担っただろうね。
では、同じ場所にいた男弟は、何をして「佐治國」を行っていたんだい?
何もしないのに、「佐治國」とはこれいかに?
基本的に、伊都国の官や一大率と邪馬台国が水行陸行で二ヶ月かかる
遠地の別の国だという魏志倭人伝の記述を無視するから、こういう
おかしな話になってしまうんだよ >>768
>おそらく卑弥呼本人の資質が大事だったのであり、一族はそらほど重視されなかったのだろう。
これが、恣意的な憶測
根拠がない
>壹與も宗女とあり、直系(娘など)ではないようだし。
血統を重視するから、宗女を立てないと収まらなかったという話なんだが?
それに卑弥呼にはそもそも「無夫壻」だから、直系の子供ももちろんいない >>782
>遠地の別の国だという魏志倭人伝の記述を無視するから、こういう
誤読だよ。 >>783
>根拠がない
2号墓の扱いや魏志倭人伝の記述が根拠だよ。
>血統を重視するから、宗女を立てないと収まらなかったという話なんだが?
次の男王だって、卑弥呼の血縁だったはず。
おそらくは狗奴国の卑弥弓呼もね。
でも血統だけでは治めることができず、実力がないけど13歳の少女を女王にしたら収まった。
血統だけなら他にも候補はいたが、巫女女王であることが大事だったと考えられる。
もちろん、13歳の壹與に夫がいたとは考えにくく、邪馬台国は姫彦制ではなかったということだよ。 >>772
>何も出ないのに言い張っている畿内説とは大違いだ。
つ 纏向遺跡そのもの
つ 纏向古墳群
つ 纏向大溝 この溝からの出土物で纏向編年が作られている
つまり、大溝を作るのが最初であり計画都市であることが分かる
つ 布留式土器、精製器種3種が確立した場所である
つ 定式化した前方後円墳が確立した場所である
つ 軸線を揃えた大型建物跡と、関連した大型祭祀土坑
つ 桃の種2000個 確実な祭祀の遺物という意味では弥生時代でほぼ唯一
いくらでもあるねぇ
九州説がないないと言っているのは、纏向遺跡の王墓級墳墓で
埋葬主体部が発掘されたものがないから、ってだけなんだよ
盗掘されていたり、陵墓指定されていたり、削平されていたりで
まともに発掘されたものがないのが理由
>あなたの言っていることの方がおかしい。
どこがおかしいのか、「具体的に指摘」しておくれよ
祠堂がおかしいってことには、きちんと対応して論破して見せただろ? >>773
>時代を考えろよ。
>一族の播種とともに増えたんだよ。
そのまま言葉を返すけれど、時代を考えなよ
古墳時代に入ってから、北部九州の一族が増殖して播種されたなんていう事実はないぞ
>平原遺跡は圧倒的に卓越した女王墓だよ。
残念ながら、仿製鏡がやたらたくさん出ることを除けば、特に卓越していると
考えるべき理由はない
三種の神器でいうなら、剣も玉(ガラス製品)も丹波の「王墓級」の方が
豪華だ
>後世には三種の神器セットは増えるけど、それとは時代が違う。
三種の神器セットに、過剰な思い入れをするのはやめなよ
皇室の三種の神器は、皇室の権威が背後にあるから神器なのであって、
剣・鏡・玉のセット自体は、首長層の葬送儀礼で共有されている普通のものなんだよ
卑弥呼が共立であることから分かるように、日本の王は「絶対者」として
始まったわけではなく、同胞の中の第一人者として始まっている
それが、絶対的な王者・天皇・皇統として確立していく過程が、記紀の征服譚だよ >>775
>神道の儀式のほとんどは屋外だよ。
>そもそもは宮ではなく磐座だったくらいだし。
時代が違うだろ?
殯宮となった時点で、建物だ
磐座が宮でないのはそうだが、殯宮は宮だろ?
>そのトーテムを鳥居と呼ぶんだけど。
それは短絡
韓国のソッテという鳥のトーテム のようなのを想定する人もいる
これは鳥居じゃないだろ?
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/nyankosensee/20110813/20110813181534.jpg
鳥居ならば、二つが並行ではないのがあまりにもいい加減ということにもなる
>鳥居と解釈する人が多いけど?
それは、一度「鳥居」と呼ばれたのが一人歩きしてるんだよ
鳥居ならば、3号鳥居はどうして横向きに立てられているんだい? >>781
>使わなかったらどうやって倭王ですと証明できたんだ?
最初に戻るが、夷人の自己主張だけでは証明できないから、
答礼使を出して確認するんじゃないか
朝貢が来た時点では、王とは証明できないよ >>784
>誤読だよ。
九州説、すべてがね
分かってるよw >>785
>2号墓の扱いや魏志倭人伝の記述が根拠だよ。
だから、具体的に書いてっていってるだろ?
日光鏡の話も、具体的に書いたら論破されちゃったから、
できるだけごまかしたいのは分かるけどさw >>785
>血統だけなら他にも候補はいたが、巫女女王であることが大事だったと考えられる。
ここまでは同意
つまり、共立倭王は「祭祀王」である必要があったということだ
彦姫制の「姫王」の統一に留まるというこどだよ
>もちろん、13歳の壹與に夫がいたとは考えにくく、邪馬台国は姫彦制ではなかったということだよ。
逆だ
彦姫制だから、姫王=祭祀王が倭王を名乗るのは構わないが、
彦王=政務王・世俗権力が倭王を名乗るのが許されない お鏡さんは、「丈夫」が普通の成人男子って認められるようになれば、
もっと討論が普通にできるようになると思うんだけどね
間違いを認めたら負け、という儒教道徳的価値観をベースにした、
無駄なプライドがあるように見える 今日はっきりしたこと
・内向花文鏡は太陽信仰の象徴ではない
少なくとも日光鏡の存在は理由にならない
・平原遺跡全体で見て、太陽信仰を結びつける理由はない
1号墓に付属する大柱の先には異形建物があり日向峠は見えない
異形建物は1号墓木棺を納められないほど小さく殯宮ではない
異形建物は吉野ヶ里遺跡北墳丘墓に付随する祠堂と同様なもの >>789
>朝貢が来た時点では、王とは証明できないよ
金印で国書が封してあれば確実性がはるかに高くなる。
外交プロトコルの問題なんだよ。 >>794
何十メートルも離れた小さな建物は山を隠さないよw
異形建物の大きは?
祠堂なんてものが使わらていたという根拠がない。 >>794
・内向花文鏡は太陽信仰の象徴ではない
少なくとも日光鏡の存在は理由にならない
なんで?
2ちゃん珍説?? >>798
内向花文鏡が太陽信仰の象徴だったら、もう全国に広まってるから東遷の理由に出来ないよ
w >>798
>なんで?
>2ちゃん珍説??
>>710、>>727、>>731、>>747、>>749とちゃんと追って読んでみて
締めの>>769を再掲
銘文に「日之光」という語を含んでいるものを「日光鏡」と呼ぶんだよ
単なる鏡種の分類のための名称
例えば九州説大好きな須玖岡本遺跡D地点甕棺墓から出土の重圏銘帯鏡にも
その銘文が記されたものがあり、重圏日光鏡と呼ばれている
また、「精(清)白」という語を含んでいるものを精(清)白鏡と呼ぶから、
別の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓出土鏡で、内行花文清白鏡と呼ばれるものもある
日光鏡と呼ばれるものがあることが、太陽信仰の根拠なら、内行花文鏡ではなく、
重圏銘帯鏡が副葬されている墳墓も、太陽信仰の日の巫女の墓ってことになるな
はい、論破w
参考
「鏡の考古学」
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm >>798
もし内向花文鏡が太陽信仰の象徴なら
弥生のうちに太陽信仰が西日本一帯に
広まってたことになる
ならば、どっちの山からどっちの峠から日が出るとか
全国的に広まってないとおかしいことになる
そんなことないので
内向花文鏡は太陽信仰の象徴ではない 内行花文が太陽じゃないって言ってる人は、
何の象徴と思ってるのかな?
普通に気になるわ >>802
>面白い珍説だな
>さすが2ちゃんだわ
だろ?
内行花文鏡が太陽信仰の象徴だなんて笑っちゃうよなw
しかも、内行花文鏡が副葬されてるから被葬者は日の巫女だとか
言っちゃう迷説もあるんだぜw
さすが5ちゃんだよなww >>804
別の世界の人間みたい。
ほんと目がついてる? >>803
お前の頭は帽子掛以外には使えなそうだな >>803
>内行花文が太陽じゃないって言ってる人は、
>何の象徴と思ってるのかな?
>普通に気になるわ
鏡面の文様、特に幾何学文様が、何かの象徴だとか考えるのが不思議
方格規矩鏡は何かの象徴だとか考えたことはあるかい?
方格規矩鏡
「鈕の周囲に方形の区格があり、外側に T ・ L ・ V 字形の文様があるもの。
これを定木とコンパスに見たて、規矩鏡と呼んだ。」
定規とコンパスの象徴だなんていう人はいないだろ?
結局、内向花文鏡が太陽信仰の象徴だなんていうのは
伊都国説の人が、平原1号墓を卑弥呼の墓だというために逆算で
唱えているだけの珍説なんだよ
伊都国が邪馬台国の都
↑
平原1号墓が卑弥呼の墓
↑
平原1号墓出土鏡は八咫鏡
↑
内向花文鏡は太陽祭祀の象徴
こんな感じ >>807
内向花文が太陽に見えないとか。
もう感性が違いすぎて、、、、笑
もう人間やめたら? >>796
>13歳の壹與に夫がいたと思ってる?
ああ、そんなところに噛み付くんだww
彦姫制は、夫婦であることを要求しないよ
王族のペアの男女ってだけ
夫婦よりも、兄妹とか、姉弟とかの方がむしろ座りがよい
卑弥呼と男弟も、姉弟だろ
あと、叔父と姪なんてのもありだろう
13歳に夫がいるかどうかとか「まったく関係ない」よな?
で、まだ何か言いたいかい? >>797
>何十メートルも離れた小さな建物は山を隠さないよw
その前に、太陽信仰のために日向峠から昇る朝日が重要なら、
邪魔になる位置に建物は置かないだろうが!
>異形建物の大きは?
自分で、平原遺跡の平面図を確認したらぁ?
このスレにも何度か図のURL貼ってあるよ
平原1号墓ではなく、平原遺跡といいまくってるんだから、自分で調べなよ
伊都国説の人間より、私の方が平原遺跡に詳しいって時点で、伊都国説は駄説
>祠堂なんてものが使わらていたという根拠がない。
それは、吉野ヶ里遺跡の研究者に対する挑戦だな
ちゃんと根拠を揃えて、突してきたら?
吉野ヶ里遺跡についての「お問い合わせページ」はここだ
http://www.yoshinogari.jp/contents8/?categoryId=1
さあ、がんばれ!ww >>808
>内向花文が太陽に見えないとか。
太陽に見えたら、太陽信仰の象徴なのかい?
点が3つあると顔として認識してしまう「シミュラクラ現象」って知ってるか?
点が三つある鏡は、顔に見えるから、顔信仰の象徴だなww
九州説ってのは、こんなのばかりだ
それに、最初に噛み付いた>>794はきちんと
・内向花文鏡は太陽信仰の象徴ではない
「少なくとも日光鏡の存在は理由にならない」
こう書いてあるだろ?ww
いい加減なことを言うのはそろそろやめなw それから、古代中国で太陽の象徴って言ったら、三足烏だぞ
だから、日本サッカー代表のエンブレムに三足烏が描いてあるんだ
まあ、三足烏の意匠の鏡ってのは聞いたこともないけどな >>811
太陽の象徴ということは認めるわけ??
認めないのは勝手だけど、こちら強要しないでほしいな。 >>808
>もう人間やめたら?
こっちは、バカだなぁという思いを一生懸命押さえて書き込みしてるのに
九州説の人間は、すぐに相手を蔑んだり人格攻撃に走ったりするよなw
お里が知れるよww >>813
>認めないのは勝手だけど、こちら強要しないでほしいな。
認めないのが勝手、じゃなくて、根拠がまるでないって言ってるんだよ
根拠がないことを前提とした推論は意味がない
それだけのこと
太陽っぽく見えるから、太陽信仰に決まってるなんていう、脳内世界のことで
現実世界の歴史を語るなってこと >>813
太陽の象徴だと矛盾が生じることに弁明は? >>809
>彦姫制は、夫婦であることを要求しないよ
弥生時代にそんな制度があった証拠がない。
むしろ平原遺跡の状況はそれに否定的だ。
あなたは勝手に自分で思い込みをしているだけ。
まず事実を直視しなさい。 >>810
>邪魔になる位置に建物は置かないだろうが!
だから、小さい建物だから邪魔にならないよ。
神武が大和を攻めた時、兄の五瀬が死んで、神武は紀伊半島を東に回り込んで戦った。
その時、天神の子は太陽に向かって戦ってはいけないと言った。
つまり、天神の子は太陽を背にして君臨するという意識があったことになる。
(西) 民衆ー王ー太陽 (東)
という配置が必要なんだよ。
平原遺跡の鳥居と殯宮の配置はこれに沿っている。
変形建物が祠堂なら、民衆が東から女王を拝むことになるので、おかしなことになる。 >>815
日本は明らかに太陽信仰から発展してきた文化を持つのだけれど?
八咫鏡を象徴としているのも、その一部でしょ?
国号が日本というくらいだし。 >>816
太陽の象徴だと考えると全てが合致する。
そうでないと何も説明できなくなる(あなたのように)。 >>811
>太陽に見えたら、太陽信仰の象徴なのかい?
「見日乃光」(日の光を表す)と銘文があっても? 畿内説の立場でも内行花文鏡と太陽は結びつけて何の問題もないでしょうに。
否定するばかりで何ら主張できないというのは、何なんでしょうね。 >>824岡上
>畿内説の立場でも内行花文鏡と太陽は結びつけて何の問題もないでしょうに。
倭国(阿波)でも何の問題もないけれど、
邪馬台国とは何の関係もないよ。 @阿波 >>817
紹介されたpdf読んだけれど「丸い鏡」は太陽の象徴と考えられるっていう話で、
内行花文鏡が特別に太陽を象徴する鏡なんて話にはなってないぞ
その伝で行くと、「丸い銅鏡が出る墳墓」は「全部、日の巫女」だな
何を主張しないといけないのか、自分で分かってないだろう? >>818
>弥生時代にそんな制度があった証拠がない。
明示的に示しているものはないが、記紀の記事などで、ウサツヒコ、ウサツヒメのような
彦姫が対になった命名が多く見られる
神社の祭神名などにも、彦姫制があったことを思わせる事柄が多い
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヒメヒコ制
とか読んでみ
個人の妄想を書いてる訳じゃないよ
>むしろ平原遺跡の状況はそれに否定的だ。
前に、2号墓は男弟だって書いてる人がいたけれど?
1号墓と2号墓が一緒に作られていることは、明らかに彦姫制と親和的だろ?
どこが否定的なんだい?
言いたいことがあれば「具体的に指摘」してくれ! >>823
>「見日乃光」(日の光を表す)と銘文があっても?
それ、一種の吉祥句でいろんな鏡の銘に出てくるんだよ
これで三度目だけれど
例えば九州説大好きな須玖岡本遺跡D地点甕棺墓から出土の重圏銘帯鏡にも
その銘文が記されたものがあり、重圏日光鏡と呼ばれている
内行花文鏡が特に太陽を象徴するってことはない
「内行花文鏡があるから、日の巫女だ」なんていうのは三段跳び以上の飛躍だよ
有り体に言って、理路の通った論説にはならない >>824
>畿内説の立場でも内行花文鏡と太陽は結びつけて何の問題もないでしょうに。
>否定するばかりで何ら主張できないというのは、何なんでしょうね。
バカなの?
八咫鏡が太陽神の象徴であることと、「内行花文鏡」が太陽信仰の象徴だという主張には
何の関連もないって言ってるんだよ
丸い大きな白銅鏡(青銅鏡も可)が、太陽の象徴だってのはいいんだよ
内行花文鏡の円弧文が太陽に似て見えるから、って
いうのが根拠にならないって言ってるんだよ
日光鏡も特に太陽信仰とは結びつかない
重圏日光鏡を太陽信仰の象徴と主張した九州説の人は、いないだろ?
なら、内行花文日光鏡だけを主張するのは、根拠なしのご都合主義だってことにしかならない お鏡さんも出てくるなら、丈夫が普通の成人男子だって認めてからにしな 内行花文が太陽を象った模様にに見えないというのは、流石にちょっとついてけませんねぇ。ここで声高に騒がず、別スレでも立てて他所でやって欲しいところかな。
多分に感性の問題もあるでしょうし、平行線でしょうし、
議論の対象ではない気がします。 内行花文鏡、箸墓から出てきたらいいですね。
その時のここの畿内説の皆さんの反応も楽しみですね。
畿内説に不利?だからといって黙殺するしかないとか、
良心、痛まないんでしょうか?? >>831
>内行花文が太陽を象った模様にに見えないというのは、流石にちょっとついてけませんねぇ
再掲
太陽に見えたら、太陽信仰の象徴なのかい?
点が3つあると顔として認識してしまう「シミュラクラ現象」って知ってるか?
点が三つある鏡は、顔に見えるから、顔信仰の象徴だなww
根拠がまるでないって言ってるんだよ
根拠がないことを前提とした推論は意味がない
それだけのこと
太陽っぽく見えるから、太陽信仰に決まってるなんていう、脳内世界のことで
現実世界の歴史を語るなってこと
最初に内行花文鏡が太陽信仰の象徴だという根拠はなんだ?と訊いた時に
「模様が太陽に見えるから」ではなく「日光鏡があるから」って言ってたんだぞ?
根拠として、弱すぎってのは自覚があるんだろ? 太陽に見える最大の鏡が5枚も埋葬されてるんですよ。
正直、太陽信仰以外に何があるの?というところですが・・・
さらには、内行花文の鏡種には日の光を反射させる魔鏡で、
そこに日光銘鏡まであるんですから。
しかもそれが付近の三雲の女性の墓からもでてるとか。
これで太陽信仰でなければ、他にどんなのが太陽信仰なんでしょうかね。 あと、「内行花文の文様と太陽信仰を結びつけるのは、間違いだ」
みたいな主張の著作でも論文でもあったら興味ありますので、教えてくださいな。
あったら、ですが(笑) 835岡上
興味ないから無知なんだけど、太陽信仰と結びつくのは内行花文の文様だけなの?
他の鏡ではだめなの? @阿波 楽浪郡の貞柏里第4号墳の内行花文鏡の拓本?の画像を見てごらん
https://lh4.googleusercontent.com/-IV-X_LtBlHY/VPWOCeKTWdI/AAAAAAAACuY/gAGL_XM4YP8/s2560/teihaku4_208.jpg
太陽の光芒っぽいところにも、細かく線刻されてて、単純に太陽には見えないだろう?
この「円弧+三本線」と「鳥っぽい何か」の模様は、本来の内行花文鏡には共通して
描かれているもので、下池山古墳のものや柳本大塚古墳の出土鏡にも変形しながらも描かれている
でも、大きさ一番を誇っている平原1号墓出土鏡には、この線刻がなく、省略されてしまっている
その辺りも大きいだけで、粗製な感じが否めない
同じ平原1号墓出土鏡でも、舶載鏡の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡(16号鏡)と
仿世鏡でも大宜子孫銘内行花文鏡(15号鏡)にはこの線刻がある
この線刻の意味は不明だけれど、単純に形が似ているから太陽信仰ってのが
稚拙な論だってのは分かるだろう >>835
>あと、「内行花文の文様と太陽信仰を結びつけるのは、間違いだ」
>みたいな主張の著作でも論文でもあったら興味ありますので、教えてくださいな。
>あったら、ですが(笑)
相変わらずの「悪魔の証明」系の要求をずる卑怯者
内行花文鏡が太陽信仰を表すことがきちんと論証されていないのに、
その否定をわざわざ書く人はいないだろ?
他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん
話はそれからだ >>837
まぁ、鏡などのお墓の副葬品で邪馬台国を語るってのは、どうみても無謀というもの。 @阿波 >>834
>太陽に見える最大の鏡が5枚も埋葬されてるんですよ。
「太陽に見える」というのは主観ですね!
>>837で書いた「円弧+三本線」と「鳥っぽい何か」の模様について、
意識していろんな内行花文鏡を見たことはあるかい?
きちんと見ていくと、単純に太陽に見えるっていうのは幼稚な言明にしか見えないよ
ただの主観は科学にならない
ちゃんと根拠を挙げて論証してね! >>840
何か分からないけど、模様が欠けているから太陽信仰ではない(笑)
ですか。謎すぎる理屈ですね。勝手に言っててくださいな。
どっか別のスレで。 畿内説は勝手な理論が多すぎ。
しかも日本の古来の伝統や慣習を無視しすぎ。 >>833
>太陽に見えたら、太陽信仰の象徴なのかい?
もちろん 卑弥呼が持っていた八咫鏡が、混同されて天照大神の鏡として伝わった可能性がある。
天照大神のモデルは卑弥呼という人もいるくらいだから。 誤読大王の理屈は詭弁の論理そのものだからまともな人には相手にされないと思うよ。
一般化の詐欺と具体化の詐欺両方あるね。
普通の言葉だと曲解というやつ。 そもそも
太陽信仰があったといえる証拠はどこまで遡るんだっけ?鏡以外で。
三輪山祭祀は太陽崇拝の証拠になる? >>841
>何か分からないけど、模様が欠けているから太陽信仰ではない(笑)
分からないなら黙ってればいいのに
バカをさらすだけだよ
本来の内行花文鏡は、模様があって太陽ではない
伝統の模様すらない大きいだけの手抜き鏡が「太陽に見えるからぁ」という主観だけで
皇室の最高神に擦り寄るなって言ってるんだよ >>846
>誤読大王の理屈は詭弁の論理そのものだからまともな人には相手にされないと思うよ。
丈夫を大男と読んでしまったり、短里があると読んでしまったりする人は、
相手にされないねww 卑弥呼単独では 太陽崇拝 とはいえないよね?
魏志倭人伝の中に太陽崇拝に関する記述はないと言って良い?よいよな?
アマテラス
日の巫女
神社の御神体としての鏡
これらが漠然と結びついているが
厳密な論証はされていない、という趣旨と思えばよい? 状況証拠しかないが、それは顔を真っ赤にして否定する話ではない。
畿内説のテンプレではもっとひどいこじつけをたくさんやっているし。 他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん >>851
>状況証拠しかないが、それは顔を真っ赤にして否定する話ではない。
状況証拠があるならいいが、ここまで来てもお鏡さんも含め九州説側の人が出してきたのは
「僕ちんが見たら太陽に見えるんだぁ」っていう主観だけ
日光鏡という鏡があるとも言っていたけど、それは単に吉祥句の銘文(決まり文句)による
分類のための名称であって、内行花文鏡が太陽信仰の象徴であることを意味しないことは
すでに示してある
状況証拠すらないんだよ
あったら出してくれ
>畿内説のテンプレではもっとひどいこじつけをたくさんやっているし。
畿内説のテンプレは、きちんと典拠がいちいち示されてるぞ
反論したかったら典拠まで確認した上で、具体的に指摘すればいいのに、
それをする九州説は皆無なんだよな
ただ、「違う」というだけ >>841
>どっか別のスレで。
私に理屈や論理では敵わないから、どこかに行ってくださいという逃げ言かい?
お鏡さん理論を全部論破して伊都国東遷スレがなくなったらどこかに行くよw 丈夫が普通の成人男子だって、まだ認められないのかな? 他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん 太陽の光芒の中に模様は見えますか?
模様が書いてあるってことは、本来太陽は意識されてないってことだよ 倭製と言われる平原の大宜子孫鏡に、例の文様入ってますね。
八葉鏡にそれが入っていないのは、故意、つまり虚飾を排したということでしょうね。
連弧文があれば、それで十分太陽に見えますから。
「模様が入ってないから、太陽信仰ではない」という謎すぎる理論の相手はこれで十分でしょう。
>>855
かなり本気で迷惑なので、その辺、察してくださいね。
スレ進行が早くてもあんまり嬉しくもありませんので。 >>853
>畿内説のテンプレは、きちんと典拠がいちいち示されてるぞ
これは嘘
ひどい決めつけばかりで、読んでいてクラクラするよ
あれを擁護するなら完全なダブルスタンダードだよね >>854
>複数人がそう見えるなら、既に主観とは言えない件
その通り。
神道という宗教なので、多くの人があの鏡を見て太陽の形をしていると思うことが大事。
伊勢の鏡など、八咫の大きさではないくせに八咫鏡だと周りが思い込むことで千年も信仰の対象になっているわけで。 >>858
それは無理がある。
光芒自体、現実にはないわけで、そういう意匠なんだと理解することが大事。
青海波の模様だって、あの模様が波だという理解があるから波なのであって、知らない人が見たらWi-Fiがたくさんと思うらしいからねw
文化とは主観的なものなんだよ。
でもそれを千年以上継承している国に住んでいる。 >>860
嘘だと言いたいなら典拠まで確認した上で、具体的に指摘すればいいのに、
それをする九州説は皆無なんだよな
ただ、「嘘だ」というだけ >>859
>連弧文があれば、それで十分太陽に見えますから。
>「模様が入ってないから、太陽信仰ではない」という謎すぎる理論の相手はこれで十分でしょう。
本当にいちいち話をずらすなぁ、お鏡さんは
まともに対応できないから逃げてるだけなんだが
「模様が入ってないから太陽信仰ではない」じゃなくて、
本来の内行花文鏡は「模様が入っているから」「太陽のモチーフではない」だ
平原1号墓のでかい鏡に「模様が入っていない」というのは、
「内行花文鏡としては堕落した粗製品」だという批判
「日の巫女を象徴する大事な特別な鏡」という主張と
「内行花文鏡の作図原則を無視し、本来必要な模様すらない粗製品」であるという
「事実」が相容れないというのは、
「内行花文鏡だから太陽信仰の象徴というのには根拠がない」というのとは別の批判
2重の批判で、「デカい内行花文鏡があるから平原1号墓は日の巫女の墓」という戯れ言は
否定されてるんだよ
再掲
他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん >>859
>かなり本気で迷惑なので、その辺、察してくださいね。
>スレ進行が早くてもあんまり嬉しくもありませんので。
畿内説スレでお仲間がやっていることは、迷惑どころじゃないぞ
私の書き込みの内容そのまま(箸墓の主軸が夏至方向、
GPS考古学のページの紹介、箸墓の前方部が削られていて遥拝所が
本来の前方部中心からずれていること)を、しれっと自分の原稿に
書いておいてよく言うよww >>864
>他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
>いう論文があるなら出してごらん
論文でもないですが、このスレの>> 3 とか
あと、「内行花文の文様と太陽信仰を結びつけるのは、間違いだ」
みたいな主張の著作でも論文でもあったら興味ありますので、教えてくださいな。
あったら、ですが(笑)
私も再掲しておきますね。 >>862
>それは無理がある。
>光芒自体、現実にはないわけで、そういう意匠なんだと理解することが大事。
そうは言うが、その中に描かれた文様をなんだと思うんだ?
光芒の表現はよくあるものだが、光芒の内側に意味のある意匠を描きこむことは
通常はない
逆に言えば、あれは太陽だと思う文化で見ているからに太陽だと認識しているだけで、
「光芒内部の文様の方が主」で、「光芒に見える八連弧は単なる区画線」という方が、
図像解釈として正当ではないかという問題提起だよ
太陽の光芒としては浅すぎるという直感もある
まあこれは単なる主観だけれど、太陽に見えるという主観が理由になるらしいから
理由としては十分ってことだよなw >>866
では再掲
内行花文鏡が太陽信仰を表すことがきちんと論証されていないのに、
その否定をわざわざ書く人はいないだろ? >>865
基本、名無しなので、謝意を表しにくいんですよ。
もし、あなたでしたなら、ご指摘有難うございました。
夏至より春分・秋分がわかりやすいという珍説は、採用しませんでしたが、
有用なソースは活用させて頂きました。 >>867
そうですよ。太陽に見えない貴方の直感は、尊重しますよ。
ですので、それが太陽に見える、というかそれ以外に見えようのない人の
直感も尊重してくださいね。
>>868
そんな論文はなかった、と理解しました。 >>866
>論文でもないですが、このスレの>> 3 とか
基本的に、専門家が「本論の脇で感想を書いている部分」を引用しただけだよな
最初の森浩一先生の文も「中国では連弧文鏡と呼んでいる内行花文は」となっていて、
中国では「連弧文」、日本では「内行花文」と読んでいることが確認でき、
逆説的だが専門家も「太陽文とはしていない」ことを示している
論証にはなっていないよ >>870
内行花文鏡が太陽信仰を表すことをきちんと論証した論文はないことを確認した、
ってことでいいんだね! あ、尊重してください、というのは、
この件でこのスレでいちいち目くじらを立てて言い立てないでくださいということです。
やりたいなら「内行花文は、太陽がモチーフではない」という新スレでも立ててそこで論じてね。
このスレは貴方と感性を争うために作ったんじゃありませんので。 >>864
>本来の内行花文鏡は「模様が入っているから」「太陽のモチーフではない」だ
>平原1号墓のでかい鏡に「模様が入っていない」というのは、
うん?
どの模様のことかわからないけれど、平原の鏡は一部の模様を省略して、より太陽のモチーフに近づけた特別な鏡ということなのでは? >>872
>>3 で挙げた森先生以下、そう考えている人が多いとはおもいますが。
そういう感性の持ち主同士なら論ずるまでもなく共有できるんでしょうかね。
まとまったものとしては私は見たことないですね
>> 817 は、まぁその方向でまずまず、纏まっているほうじゃないですか。 >>865
岡上氏は、他人の意見に耳を貸すことができる真面目な勉強家なんだね。 >>871
凄すぎる曲解ですね。
マジで朝のコーヒー吹きました。
もうどっかのスレに帰ってね。 >>871
>中国では「連弧文」、日本では「内行花文」と読んでいることが確認でき、
連弧文はまだしも、花かどうかわからないのに内行花文と呼ぶのはおかしい。
むしろ太陽紋と呼ぶべきだと以前から思っている。 反論する意思も能力もない岡上が言いたいのは俺偉いのひとことか >>861
>伊勢の鏡など、八咫の大きさではないくせに八咫鏡だと周りが思い込むことで千年も信仰の対象になっているわけで。
伊勢の御神鏡と平原1号墓出土鏡が同じ大きさではないというのが、浸透してきたね
よいことだ
>その通り。
>神道という宗教なので、多くの人があの鏡を見て太陽の形をしていると思うことが大事。
何人一致したところで主観は主観だよ
主観である限り、一致しているかどうかの確認から、すでに難しい
痛みがあることは誰もが認めるが、その主観量を比較するのに
医学がどれだけ苦労しているか知ってるか?
それをネタにした「ハナゲという単位」の小咄がつくられるくらい
今でも多くの神明社でご神体として円形鏡を奉祭しているが、
それが内行花文鏡だという話は過分にして聞かない
神道という宗教を持ち出すなら、その辺について何か知っていたら教えてくれ >>879
内行花文から太陽を連想できないよう宇宙人とは会話出来ませんね。
いちいち誹謗されるのもウザいだけなので、どっかの巣に帰ってください。 また病的なことを言ってる。
>何人一致したところで主観は主観だよ
>主観である限り、一致しているかどうかの確認から、すでに難しい
見えるか、見えないか、だけなんだから、一致している確認は簡単でしょ。
太陽に見える方が多数派、貴方が少数派です。 神道という宗教には、内行花文鏡が太陽の象徴とか、鏡が太陽とかの教義は特にないみたいだね
太宰府天満宮
神職さんに聞きました
http://sp.dazaifutenmangu.or.jp/sittoku/ask/5
なぜ神社には鏡があるのですか?
古くから鏡は剣や勾玉(まがたま)とともに祭具として、重要な意味を持って扱われています。
神社にお祀りされる神様に、具体的な姿、形は無く、岩や木などに神様が依(よ)りつくと考えられてきました。鏡も神様が宿られる“依代(よりしろ)”の一つとして、神様の存在と威儀を示しています。
また、鏡を通して神様と自分が向かい合い、誠実で清らかな心でお参りをする、そんな役割も鏡は担っているのです。
鏡のようにくもりのない誠実な心もちでご参拝するというお気持ちを抱くことが、清々しいお気持ちになれる第一歩だと思います。 >>880
>何人一致したところで主観は主観だよ
主観だから、平原の鏡を見た当時の人たちが、いつもの鏡よりスッキリして太陽の模様により近いなあ、さすが日御子様の鏡だと感じれば、そのままそうなる。
しかもこれの大きさは八咫ですと説明すれば、それを現場でいちいち測り直して文句をつける人もいない。
いたら死罪にすれば良い。
つまり細かい差異を気にすることなく、大多数が「あれは太陽」「あれは八咫鏡」と思えば、それが太陽信仰の象徴としての八咫鏡になるということ。
宗教だから。
鰯の頭よりはかなり貴重な品であることも間違いないし。 お鏡さんが、「丈夫」が普通の成人男子って認められない限りは、軽蔑し続けるよw 平原1号墓出土鏡が八咫鏡ではないという議論の時も、
お鏡さんは結局、「出土しているのは事実だから」しか言えなかったんだよな
問題にしているのは、「円周長が八咫という主張の妥当性」であり、
出土鏡の存在ではなく、「その解釈の仕方」だったんだが、話をずらすことに終始してた
まあ、この件は>>861の書き込みでも「八咫ではない」ことが確認できたようだから
いいけれど
今回の内行花文鏡は太陽信仰の象徴に関しては、
お鏡さんは「私の主観では太陽に見えるから確実」だけで押し通すらしいw
本質は>>857に書いた
「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん」
なんだが、これは無視し続けるらしい
そのためには私にこのスレから消えて欲しいらしい >>885
>つまり細かい差異を気にすることなく、大多数が「あれは太陽」「あれは八咫鏡」と思えば、それが>太陽信仰の象徴としての八咫鏡になるということ。
それを論証してくれって話なんだが?
主観、感想、憶測では、科学にはならない 三星推文化の頃にすで、内行花文があり、太陽を表しているみたいだな 三星堆か、まぁどっちでも同じ。
中華文明の源流のころから、内行花文が太陽を表していたということ。 >>
>三星推文化の頃にすで、内行花文があり、太陽を表しているみたいだな
「みたい」はいいけど、それを確認できるような図像なりなんなりは、
典拠として示してくれないのか?
根拠なしなら何でも言えるんだが? >>817の論文にあるよ。
p18, p25の図表 >>895
ありがとう
前に紹介されたときに一通りみたけど、まったく記憶に残らなかったよ
P18の図は、「内行花文鏡に酷似する」とキャプションがついているけれど、
円弧じゃないし八連じゃなくて七連で、「光芒」がかなり尖っている
P25の図は、キャプションも「太陽かもしれない」と弱気
こちらは「光芒」がさらに尖っている
見た目の印章ではこちらは区画線としての役割と見てよさそう
まあ、手書きの図だからどこまでのことが言えるかは微妙
そしてこの論文の結論は
「何よりも円形の鏡そのものが太陽の形であろう。
そして鏡自体に太陽信仰の持つ復活再生観念が投影されているのだろう。」
これに対する回答にはならないね
「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん」 >>888
>それを論証してくれって話なんだが?
>主観、感想、憶測では、科学にはならない
神道は宗教
科学ではない 紹介されたものには三角縁神獣鏡がないからそれでよかろう。 三角縁神獣鏡はヤマトタケルの征服行が伝承として残る地域に多いからおおむね4世紀の鋳造の国産品だからそもそも紀元前から伝統のある内行花文鏡とは一緒には扱えない代物だよ。 >五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。
>筑前国風土記逸文に、「五十迹手(いそとで)奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり。」「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う。故れ、時の人五十迹手が本土を号けて伊蘇(いそ)国と曰う。
>伊覩(いと)と謂うは訛れるなり」と紹介されているように、天日槍の子孫が伊蘇国と名づけ、それが訛って、伊都国になったという。
なんだ、高麗の末裔が東遷したというか。 高麗≒大和ねえ、、、 神功皇后のくだりは嘘だらけだ。
実年代が4世紀末だとすると、100年以上前の魏志倭人伝に伊都の名前が書かれているのだから、イソシという謂れが後世の創作に過ぎないことが明らか。
そもそも記紀で名前の由来がわざわざ書いてあることは少なく、あえて書いた創作であることがわかる。 >>903
>実年代が4世紀末だとすると、100年以上前の魏志倭人伝に伊都の名前が書かれているのだから、イソシという謂れが後世の創作に過ぎないことが明らか。
その理解は真逆じゃないの。
記紀の神功皇后は201年〜278年という設定だから、
「そもそもここは、天皇、五十迹手を美めたまいたるをもって伊蘇志(イソシ)と呼ばれていたのに、後世、陳寿によって編纂された倭人伝において伊都とされたる謂れは、後世のイソシ→イソ→イトの訛化に過ぎないことが明らか。」 いやいや、そう思わせるためにわざわざ神功皇后を120年も前倒して卑弥呼の時代にぶつけているんだよ。
九州にいた女王としてね(神功皇后の宮は穴門と筑紫)。
あと、奈良時代の理解としては邪馬台国は九州というのもポイント。 昨日のブラタモリでは、関門海峡は昔は海峡ではなく同じ陸続きで本州と繋がっていたことが地質学的に説明されてたね。 ロマンを解さない無粋なやつ、シュリーマンの爪の垢でも飲んどけ。
神功開削の伝承も荒唐無稽ではなく、一定の信憑性があるということよ。 問題が1つある。
卑弥呼がいた頃、まだ本州と九州はつながっていたことになる。
では、邪馬台国から東に渡海千里の国はどこになるのか?
ふと思ったのだが、遠賀川河口付近は支流が多く、まるで海のようであった。
渡海千里の国は豊国だったのではないか? >>898
>神道は宗教
>科学ではない
でも、ここは「学問(文系)」カテゴリの日本史板に立てられたスレだ
論証は、「科学的」に行わないと
宗教も科学研究の対象だぞ
宗教学って言葉くらいは知っているだろう
図像学って領域もある
逃げてないで、根拠を挙げて、論理的に論証してくれ
それができないなら、ただの主観や感想の類で、チラシの裏の落書きに同じ
まあ、5ちゃんってのはもともとそういう場だというのはその通りだが、
お鏡さんは論理的検証をしているつもりらしいよwwww >>902
>なんだ、高麗の末裔が東遷したというか。 高麗≒大和ねえ、、、
天日槍は神功皇后の祖先神という扱いだから、神功皇后の事跡のある地域には
一定の存在感がある
>>902は曲解 >>911
>遠賀川河口付近は支流が多く、まるで海のようであった。
でも関門海峡より狭いよな?
関門海峡で幅600メートル
それが渡海千里というなら、1里60センチだな
超短里として主張したら? >>897
>イチャモンつけてるだけ。
つ「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん」
いつまで逃げるのかねぇ? >>915
で、お前は太陽以外の何に見えるのかな? >>918
へぇ、まずはマンホールが弥生時代にあったことを証明してこいよ。 >>919
だれが弥生時代にマンホールが有ったって言ったんだ? アホ!
マンホールの蓋に見えるって言ったんだろが! アホンダラめ コミュ障すぎる(笑)
で、太陽以外の何を象徴してるの??? 結局、マンホールを象徴してるといいたいの??
コミュ障とは、会話が成立しないねぇ 3世紀の人達はマンホールを知らなかっただろうから、あとは太陽しかないな。 >>925
>結局、マンホールを象徴してるといいたいの??
>コミュ障とは、会話が成立しないねぇ
本当に論理性がないなw
太陽に見えるだけで、太陽の象徴という主張に十分というなら、
マンホールに見えるならマンホールの象徴と認めないといけない
マンホールというのは、それくらいバカな主張なんだよというのを
はっきりさせるための例示だ
太陽に見えるから太陽の象徴って言い張るのは、それくらいのガバガバさで
事実上何の論証にもなっていない >>917
>関門海峡の方が狭いだろ。
どこを堂測るんだ?
「具体的に」、示してくれ 太陽に見えるだけで、太陽の象徴という主張に十分というなら、
マンホールに見えるならマンホールの象徴と認めないといけない
迷言すぎるwwww 相変わらず、糸クズ東遷厨はバカすぎる
マンホール大の鏡が太陽に見えるかどうかじゃなくて、
つ「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん」
これに答えないといけないんだよww
丸い鏡そのものが太陽の象徴というならまだ分かるし、
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61001/cks_048_001.pdfでも
「何よりも円形の鏡そのものが太陽の形であろう。
そして鏡自体に太陽信仰の持つ復活再生観念が投影されているのだろう。」
と結論付けている
ただ、内向花文鏡だけが特別だと主張するなら、そこの論証が必要だって言ってるんだよ
ここは「学問(文系)」の日本史板なんだから >>930
「太陽に見えるだけで、太陽の象徴という主張に十分というなら、
マンホールに見えるならマンホールの象徴と認めないといけない 」
これが理解できないなら、バカすぎるぞ お鏡さんに少しだけ同情するのは、同調者が>>930レベルのバカしかいないことw で、お前は太陽以外の何に見えるのかな?
マンホール??
wwwww 学問板でなければ、そういう罵倒無理押し(どこかの民族の得意技)も
通用するのかもしれないが、学問板では根拠と理路で説得できないのは駄論に過ぎない そういうのは無駄
冷静で知能のレベルの違う人間には、稚拙な煽りが通じないことも理解できないのか
ほれ、必要なのはこれだ
つ「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん」 何に見えるか聞いてるだけだよ?
なんで答えないの?日本語わからないの?
論文を提示しろとはいわなから、ね?? >>939
学問板で意味のある質問はこういうやつだよ
つ「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
いう論文があるなら出してごらん」 そんなん別に関係ないし。
こっちは何に見えるか聞いてるだけだよ?
なんで答えないの?日本語わからないの? そっちが答えないのに、こちらが答える道理はないだろ?
そしてこっちの要求は、日本史板の趣旨に合うが、そちらの要求はただの難癖
レベルの低いやつはこれだから困るww 平原5号墓の位置づけ
異形建物が日向峠への視線をさえぎっていること
吉野ヶ里遺跡の立柱、祀堂との関係
こういう、学問板として議論するべきことから逃げて、
太陽に見えるんですぅ〜って言い張ってるのって、バカにしか見えないぞw 何に見えるかどうかは、どこまでいっても主観だから、あまり意味がない
三星堆遺物の文様と、内向花文鏡と、どちらがより太陽に見えるんだ?
既に>>837で書いたように
「太陽の光芒っぽいところにも、細かく線刻されてて、単純に太陽には見えないだろう?
この「円弧+三本線」と「鳥っぽい何か」の模様は、本来の内行花文鏡には共通して
描かれているもので、下池山古墳のものや柳本大塚古墳の出土鏡にも変形しながらも描かれている 」
要するに、8つの連弧文は、区画線として機能しているってことだ 普通に考えればなにも内行花文だけが独占的に太陽を象徴している必要はないわけで。 自分がレベルが高いというコミュ障の>>944 さんへ
鏡は、太陽を象徴していると考えてますか? >>944
平原の鏡の子孫にあたるような鏡は古墳時代に見当たらないしね
やっぱり断絶した系譜なんだろう >>932
太陽を象徴する銅鏡の中でも、一番太陽に近い文様の内行花文鏡、さらその中でも太陽に近い文様の平原の鏡を、太陽の象徴としていたと言って何が悪いんだ? >>943
>異形建物が日向峠への視線をさえぎっていること
その建物が殯宮なら、太陽の出る方向に卑弥呼の遺体を置いて復活を祈ったのかもしれない。
建物は小さく、山は大きく、参拝者は鳥居より外側で祈ったのであれば、建物が小さいこともあり、日向峠を遮ることは全くない。 >>952
オレにはマンホール蓋にみえるからお前が悪い >>947
だからこそ、他の内行花文鏡と区別して平原の鏡が特に太陽の象徴だったんだろ? >>945
>普通に考えればなにも内行花文だけが独占的に太陽を象徴している必要はないわけで。
でも内行花文鏡が一番太陽に近いだろ? >>956
じゃあ、内行花文鏡は太陽信仰の象徴ではない
ということで、結論でたね >>958
いちいち名乗らなくても、皆んな知ってるって よく分からんけどこのコミュ障は何が言いたくてこのスレにいるの?
スレの趣旨には根拠がないと言い張るばっかりで
決定的な否定論は一向に示さない。
内行花文鏡が太陽の象徴でないなら
内行花文鏡が別のものを象徴しているか
別の鏡が太陽の象徴であるかを示せばいいだけだが。 >>963
>別の鏡が太陽の象徴であるかを示せばいいだけだが
全ての鏡が「太陽の象徴」なんですよ。 内行花文鏡に限ったことではないってこと。 @阿波 >>963
根拠が無いと指摘するのは決定的な否定論だよ >>963
マイルールイラネ
それ、根拠ないルールだから >>963
んじゃ、アンタは根拠のない他人の主張を丸呑みで信用するわけ? >>963
>スレの趣旨には根拠がないと言い張るばっかりで
>決定的な否定論は一向に示さない。
平原1号墓出土鏡は八咫鏡ではないというのは、決定的な否定論だと思うが?
咫の長さの議論を、説文解字注の全文訳も私個人で行ったし、
>>963とは、知識も知能も教育歴もレベルが違うよw
太陽に見えるから太陽の象徴という>>963のマイルールを認めろというなら
マンホールに見えるからマンホールの象徴という>>959の主張と差異はまるでないことに
気がつかないとww
そのあたりが、>>963の論理性の欠如であり、知的水準の低さだよ あなたは多少は知識があるかもしれないが、気を見て森を見ない、ただの厄介者。
あなた自身は肯定的または発展的なことを何も証明できていない。 間違った理論や説の展開を否定して、正しいと目される説の信憑性を高めることは、
十分に前向きで肯定的かつ発展的営みだと思うが?
例えば、平原1号墓に大柱が付随することは多くの人が指摘しているけれど、
その先の異形建物と合わせて、「1号墓墳丘ー大柱ー異形建物」の配置が、
吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓ー立柱ー祠堂」の配置と比較しうることを指摘したのは
多分このスレで私が指摘したのが初めてだと思う
平原遺跡と吉野ヶ里遺跡の関係は、ほとんど論じられることはないけれど、
北部九州の広い範囲で、共通の墳墓祭祀が営まれていた可能性を示すもので
非常に前向きで発展的な指摘だと思うが?
伊都国説側としては、日向峠からの日の出の観察の否定と捉えているようだけれど、
そもそも違う視点で見る発想がないから、否定されたという被害妄想的な
考えに凝り固まっているんだよ
そして、吉野ヶ里との類似を想定するなら、日の出・太陽との関係は考えにくい
吉野ヶ里の「北墳丘墓ー立柱ー祠堂」の直線は、南墳丘墓と呼ばれた祭壇を指しており
南北方向に近いため、いかなる太陽の運行とも関わりを考えづらい
平原遺跡の「1号墓墳丘ー大柱ー異形建物」延長上にどんな遺跡があるのかを
検討するのは、かなり面白い試みだと思うぞ >>969
>ただの厄介者。
ただの主観・感想ですねww
自分でスレ立てしておきながら、その自身の主張に重要な「咫」の長さの
探求に関わる「丈」の長さ、「丈夫」の解釈の間違いを頑として
認められないお鏡さんの方が、議論を進める上で「厄介な人」なんだよ
まあ、理性的に発言をコントロールできずに、「コミュ障」「マイルール」を
連呼している人も十分厄介だけれどねw >>969
トンデモを言い出さない人はダメな人
という変な価値観 >>970
>平原遺跡と吉野ヶ里遺跡の関係は、ほとんど論じられることはないけれど、
>北部九州の広い範囲で、共通の墳墓祭祀が営まれていた可能性を示すもので
>非常に前向きで発展的な指摘だと思うが?
なるほど。
>平原遺跡の「1号墓墳丘ー大柱ー異形建物」延長上にどんな遺跡があるのかを
>検討するのは、かなり面白い試みだと思うぞ
一理あるけれど、平原一号墓がそれまで同族のなかった日の出方向との関連性(太陽信仰)の要素を獲得したことは否定できない。
そしてその要素は三雲の王墓から継承したものだ。
三雲の一族から、吉野ヶ里に起源を持つ一族が太陽信仰を継承したとも考えられる。
筑紫日向の天孫族から、伊都に進出した肥国王家に倭国の支配権が委譲されたという考え方と矛盾するところはない。 つまり平原一号墓の被葬者が、三雲の天孫族から八咫鏡とともに太陽信仰を継承した日嗣ぎの巫女であった可能性があるということだ。 >>974
>可能性があるということだ
ついさっき、畿内説スレでも書いたんだけどさ、
「可能性がある」で済ませていいんだったら、なんでもありだっての!
そうなったら、科学ではないし、議論も検証もできない
例えば「>>150は卑弥呼の生まれ変わりである。その可能性がある」って言われても
確かに可能性はあるよ?、でも、だからどうした、って話にしかならないだろ?
もうちょっと、他人を説得できる根拠を積んでおくれよ >>974
>三雲の天孫族から八咫鏡とともに太陽信仰を継承した
だとすると、天孫降臨っていうのは、そこまで高くない山一つ越えることなのか?
縄文時代から長距離交流をしてきた海の民が住むこの日本で、低い山一つ越えていくのが天孫降臨?
無理があるだろ?
それに、天孫族っていうのは、ニニギノミコト以降の日向三代の後裔のことを言うんだが、
伊都国説では、日向三代の舞台こそが伊都国って話じゃなかったのか?
天孫族が伊都国から奴国に行ってそれからまた伊都国に戻ってくるのか?
行ったりきたりで忙しいな
神話を歴史解釈にダイレクトに入れ込むのはやめなよ
できの悪いトンデモにしかならないよ >>974
>三雲の天孫族から八咫鏡とともに三雲の天孫族から八咫鏡とともに太陽信仰を継承した日嗣ぎの巫女で
三雲に八咫鏡があったって話はとんと聞かないんだが?
継承した八咫鏡だったら、砕いて墳丘にばら撒いちゃダメなんじゃないのか?
いろいろグダグダだなw おお連れた釣れた(笑
否定したつもりで否定になってないよ。
とことん論理に疎いやつだ(w
主張に差がない?それは嘘だね。マンホールは弥生時代にはない。君も認めてるようにね。詐欺師のいうことはさすがだね。
「内行花文鏡が別のものを象徴しているか
別の鏡が太陽の象徴であるかを示せばいいだけ」
さっさと示して否定論に決着つけてくれたまえ。 >>965
本気でそう思ってるなら議論が噛み合わないから
君にとってこのスレは有用なことは何もないよ(嘲 >>967
有用な仮説であれば採用するよ。
否定的に解決された時にまた再考すればいい。 それを言ったら、「太陽に見える」という主観は「現代人」のものだぞ
「マンホールに見える」というのも「現代人」の主観
ここに差がないってことが理解できないあたりが、論理に疎いってことだよ
「3世紀の人間が、太陽だと思って見てた」ことは、どうやっても論証不能
>>974の書き方を借りれば
「3世紀の人間がマンホールの蓋だと思って見てた
可能性は否定できない」ことになる
主観で科学を語るのがダメだって話
日本史も人文科学だよ
科学の手続きから外れた論証はトンデモ >>970
他説を否定しても自説は優位になるとはかぎらんよ。 >>980
>有用な仮説であれば採用するよ。
その有用な仮設かどうかの判断が、主観ではダメだって話
ご都合主義にしかならない
というか、九州説はご都合主義と示威的無理読みだけでできてるんだよ
そこが批判されてるのが、分かるかな? >>971
スレの趣旨に沿ってないからな無意味だ。 >>984
ご都合でも
謎が解明できてる以上有用だからな。 >>982
>話をすり替えるのも詐欺師の手口だな。
これがすり替えだよな?
>>968は>>963の「決定的な否定論は一向に示さない。 」に対して
まっすぐに、決定的な否定論を示した例を出してるだろ?
「平原1号墓出土鏡は八咫鏡ではないというのは、決定的な否定論だと思うが? 」
実際、円周長が八咫だからっていう妄説は、ここでも書き込むやつがいなくなっただろ?
「周を測る尺なり」も決定的に否定してるし
あれ?このスレに一番貢献してるのって、私なんじゃないか?ww >>988
で?弥生時代にマンホールがあった証拠は?
あなた、文脈無視してもダメだよ? >>985
>スレの趣旨に沿ってないからな無意味だ。
伊都国東遷スレなんだから、伊都国に王がいたかどうかを論じるのはスレの趣旨に
ばっちり合ってるじゃないかw
ああ、もうスレの最後が近いから、短文コメントでスレ流しに走ってるのかww
まあ、これ以上人目につくところにこのスレをさらしておいたら恥の上塗りだからな >>991
文脈無視の文盲は弥生時代にマンホールがあった証拠を持ってこい、話はそれからだ。 >>990
>で?弥生時代にマンホールがあった証拠は?
マンホールというのは外来語だから、3世紀の人間がマンホールという用語そのもので
考えていた可能性は否定できるが、ここでマンホールというのは、暗渠や水路などの蓋という
機能面について言及している言葉であり、水路に渡した板などもこの概念に含まれるし、
肥溜めなどの蓋も当然考慮に入れられるだろう
そうした蓋は、もちろん木製で作られていただろうが、鏡としては不必要に大きく作られた
平原1号墓の破砕鏡を見て、3世紀の人間が肥溜めの蓋のようだと考えた可能性があるということだ
これを考えているのが現代人だから、それをマンホールの蓋という現代の用語で記しているだけで
本質においては変わらない
3世紀の人間が、マンホールの蓋のようだと考えた可能性は否定できない >>992
>文脈無視の××は弥生時代にマンホールがあった証拠を持ってこい、話はそれからだ。
非識字者と書けと何度言えば!
日本人じゃないのか? >>992
>文脈無視の××は弥生時代にマンホールがあった証拠を持ってこい、話はそれからだ。
ということで、3世紀に「肥溜めの蓋がなかった」ことを証明してね!
話はそれからだww アタマのレベルが違う人間にけんかを売っても、返り討ちにしかならないよw
お鏡さんもこんなのしか支持者がいなくてかわいそう
まあ、九州説は人材が払底しているから仕方ないかw
払底って言葉が分からないっていいそうだしな
基本的な語彙レベルから違う >>996
もう病院行ってきた方がいいぞ。マジレス。
親切心だぞ。感謝しろよ。 >>984
仮説を根拠もなく否定して回っていては、対話にならないだろ。 >>976
>だとすると、天孫降臨っていうのは、そこまで高くない山一つ越えることなのか?
>縄文時代から長距離交流をしてきた海の民が住むこの日本で、低い山一つ越えていくのが天孫降臨?
いやいや、福岡平野側の奴国勢力を抑えて、天孫は高天原(詳細不明)から来たんだよ。
須玖岡本は猿田彦のような人物なのではないか?
>それに、天孫族っていうのは、ニニギノミコト以降の日向三代の後裔のことを言うんだが、
>伊都国説では、日向三代の舞台こそが伊都国って話じゃなかったのか?
>天孫族が伊都国から奴国に行ってそれからまた伊都国に戻ってくるのか?
戻って来るって何のことだ?
奴国は天孫族じゃないぞ。
天孫族は卑弥呼の前の男王70-80年の三代だろうね。
>神話を歴史解釈にダイレクトに入れ込むのはやめなよ
>できの悪いトンデモにしかならないよ このスレッドは1000を超えました。
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