伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 1日に進める最大距離が55km
7日で進める距離は385km<<<<<帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
キナイコシは掛け算をやり直さないと
円周長の咫すら議論できないぞw 韓◎人にとっては切実な問題だからなあ。
魏志倭人伝だと北部九州倭国が先んじて広域国家を形成しているだけでなく
半島南部にも領土を持っている。
そしてそれを中国国家が金印をもって認証している。
国際状況が不安定な昨今にこれはマズいよねw
だから
あわよくば
北部九州の先進的鉄器地域は韓◎の突出領土。
倭人は鉄器のない畿内で韓◎に教えを受けて
初めて共立国家を立ち上げて(馬鹿丸出しのただ大きいだけの)巨大古墳を作り始めた。(ばーか、ばーか)
ってのが
韓◎人のキナイコシ。 >>251
福岡平野と比べても宮崎平野は面積的に見劣りしない。
農業生産高も十分ある。
西都原古墳群は全国屈指の古墳群だし、男狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳(古いホタテ型)だ。
そしてとどめは都万神社が宮崎で一番の宮として崇敬を集めてきたことだ。
字にこだわらなければ投馬国に当てるのが相応だろう。 >>256
時系列が無茶苦茶
つまり
キナイコシの攪乱戦法 >>256
>西都原古墳群は全国屈指の古墳群だし、男狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳(古いホタテ型)だ。
古墳もいいけど、弥生集落遺跡群は? @阿波 韓◎人にとっては切実な問題だからなあ。
魏志倭人伝だと北部九州倭国が先んじて広域国家を形成しているだけでなく
半島南部にも領土を持っている。
そしてそれを中国国家が金印をもって認証している。
国際状況が不安定な昨今にこれはマズいよねw
だから
あわよくば
北部九州の先進的鉄器地域は韓◎の突出領土。
倭人は鉄器のない畿内で韓◎に教えを受けて
初めて共立国家を立ち上げて(馬鹿丸出しのただ大きいだけの)巨大古墳を作り始めた。(ばーか、ばーか)
ってのが
韓◎人のキナイコシ。 700年頃の日向の人口が3万人、1600年頃で9万人
3世紀に5万戸は無理だな。 700年頃の阿波の人口が5万人、1600年頃で13万人
3世紀に7万戸は無理だな。 >>245
>里と日で単位が違うから続けては読まないでしょ
大月氏国を中心に、東と西で繋がってるだろ?
これを、「里程と日程で書いてあるから、同じ経路を二通りに記してる」とは言わないだろ?
魏志倭人伝の地理・旅程記事も同じように読めばいいんだよ
>別々の方向で別の行程ですよね。
魏志倭人伝もそうだろ?
奴国・不彌国あたりまで西から来て、そこから東へ進む別の行程だよ >>262
>魏志倭人伝の地理・旅程記事も同じように読めばいいんだよ
同じで良いという根拠は? >>247
>海岸で野営なんかしなくても海岸近くに接待用の家を建てればいいだろ
その接待用の家は、いつ誰が、どんな情報をもとに建てるんだよ?ww
どんどん支離滅裂になってくるな
普通に、国の中心までみんなで行って、接待されながら泊まれば済むことだろうに
場合によっては潮待ち(天候待ち)も必要だろうし、その間も海辺の仮小屋で魏使を
過ごさせると想定してるのがすごいな
最初に、「内陸には行かない」って書いたのを、間違ってましたといえば済むのに
それができないのが九州説の人だよな はあ?
九州説だけど、はじめからその国邑の官が出迎えて接待したはずと言っているだろ。
海岸云々は畿内説か、朝鮮半島南岸に投馬国があるとかいっている馬鹿だろ? >>262
>大月氏国を中心に、東と西で繋がってるだろ?
東西ですから別方向で繋がってませんよw
連続して繋げては読まないでしょ、連続して繋げて読む例なんてありませんよ。
>これを、「里程と日程で書いてあるから、同じ経路を二通りに記してる」とは言わないだろ?
比較例になってないってことですね。
>魏志倭人伝もそうだろ?
>奴国・不彌国あたりまで西から来て、そこから東へ進む別の行程だよ
貴方の思い込みですね。 >>263
>同じで良いという根拠は?
いつも同じようなまぜっかえししか書かないが、
同じように書いてあるものは同じように読むのが当然だろう
逆に、「同じように書いてあるのに、ここだけは違う読み方(並列読み)をするんだ」と
主張する方が、違う読み方をすることを正当化できるだけの根拠を出す必要があるんだよ
挙証責任て言葉は知っているかい? 日程と里程ではそもそも同じ書き方ではないだろう。
前提が誤っている。 >>264
公孫氏の時代から郡使は度々、倭を訪れているんだよ
ルートも何時も決まってたんだよ
港には常設の休憩所くらいあっただろ
普段は交易の船用にも使えるし
遊びに寄るのではなく目的地までの通過地点だよ
対馬海峡の潮待ちや天候待ちも船の近くで出来るし
国邑の中心に寄らなければならないと主張する理由が分からないな
倭人伝にはそんな記述もない。 一大国の国邑の中心地は辻の原遺跡とされてるが
辻の原遺跡は島の西側にあって内陸に1qほど入っている
南側の印通寺浦からは2qくらい
郷ノ浦からは6qくらいか
魏使が一大国を通る際は勝本港、印通寺浦〜呼子だろうな。 >>270
国邑の中心に寄らなければならないと主張する理由が分からない?
官名や人口の記載があるのに? >>272
>辻の原遺跡は島の西側にあって内陸に1qほど入っている
うそつくな このスレに島巡り説はいないから、いちいち言わなくていいよ。 >>273
官名や人口を数えたのは新たに派遣された魏使ではなく公孫氏時代の郡使ですね
張政等は卑弥呼に会うのが目的ですから道草してる余裕はない。
>>274、>>275
ちゃんと確認してよw >>269
>日程と里程ではそもそも同じ書き方ではないだろう。
>前提が誤っている。
話を曲げるなよ
九州説側が>>219で
「里程部分も連続読み
日程部分も連続読み
里程部分と日程部分が並列読み(同じ行程)」
と言い出したから>>223で私が
「並列で読むように魏志倭人伝文中で指示されていない
後代の注でも、並列読みという指摘はない
並列で読むと、南にしか行かない経路と東南へ向かう経路が同じという矛盾が出る
並列で読む根拠がない 」
と指摘
>>230で九州説側が
「里数で説明した行程が日数の行程に変わるのが
並列で読めってことだよ 」
と駄々を捏ねるから、>>237で私が大月氏国の例を挙げて
里数表示と日数表示が並列読みを意味するわけではないことを例示した訳だ
「同じ書き方じゃないから」並列読みというのは、成り立たないのは分かったかな? そもそも原の辻に寄らないって言い出したのは、
末慮国は呼子に上陸して、湾岸を歩くっていうのがおかしいに
対する反論のつもりなんだよな
壱岐国の位置は、原の辻遺跡だし、島巡りもしないし
壱岐回りの移動は旅程の里数に入っていない
末慮国の位置は唐津平野だし、呼子から延々と歩いたりしないし、
末慮国から伊都国の移動距離五百里が、
「末慮国に着いた呼子から唐津湾沿いに伊都国との境までの末慮国内の移動距離」
にはならない
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/matsurakoku.html >>283
>末慮国の位置は唐津平野だし
あなたも、それが間違い。 @阿波 いちいち万津浦で出てくるなよ
出所不明の昭和の文書に多くを求めるなw >>285
>いちいち万津浦で出てくるなよ
「万津浦」に異常反応してるね。 「万津浦」なんてどうでもいいんだけどw
末盧国は対馬海流に乗って、相島経由の福津市辺りだよ。 @阿波 >>282
参考にならない例を挙げて駄々を捏ねるてるのは>>237ですよ
君頭おかしいよ。
>>283
海峡部分は測定が困難なので3海峡とも1000里と書かれてるだけ
全体を見ずに狭い一部だけを切り取って誤魔化しても無駄。 >>289
いつもの根拠厨だから放っておけ。
どうせ自分では何も論証できない空っぽのやつだよ。 伊都クズのことですね
>論証もできない空っぽのやつ >>289
あんたの心にあることは
言わなきゃ誰にもわからはい
あんた、皆からそう呼ばれてるんだろ
滅論だけ言い張るけど理由が言えないやつは
確実にコミュ障だよ 「キナイコシ連呼の人」はコミュ障という言葉がお気に入り
でも、実態は自己紹介ww で、平原1号墓と2号墓を合わせても(合わせる理由がもともとないのだけれど、
それでも敢えてそれに従ったとしても)、25メートルにはならないのは確認できたか?
測りもせすに適当なことを言うなよ! 大陸史書の一連の地理・旅程記事で、
1.もと資料の記載しだいで、里程と日程が混用されること
2.その日程と里程を、並列な記述だと考える理由がないこと
の2点が、大月氏の記事ではっきり確認できるな?
ということは、魏志倭人伝の記載も同様に考えればいい訳だ
独立した他の例からの推論というのは、意味があるし
参考になるだろ?
そして、日程と旅程は並列読みというのは、根拠がないことがはっきりする
九州説の連中のよくやる、問題としているその例一つしかないのに
それを根拠だという自己言及の循環論法とは違うんだよ
水行の起点を帯方郡に戻すのは無理読みの誤読 万津浦すらなかったら、末慮国も伊都国も、
阿波の比定地をとる積極的な理由が何一つない
もう出てくるなよ >>299
> 阿波の比定地をとる積極的な理由が何一つない
「万津浦」に異常反応してるね。 「万津浦」なんてどうでもいいんだけどw
末盧国は対馬海流に乗って、相島経由の福津市辺りだよ。 @阿波 理由を理解できてないからコミュ障って言われてるわけだが。
一方で畿内説スレのテンプレのように主張がぼやけて筋の通らない論証だけゴタクを並べると言うね。 あんたは理由を説明できてないからコミュ障って言われてるわけだが >>303
主張がぼやけて筋の通らないゴタクってのも
自分がいつも言われてることを耳コピきたんじゃないか?
ww >>301
その通り。
キナイコシは根本から間違っているただの荒らし。 >>301
まったく理由を言わないトンデモ説だな
伊都厨終わってるよ >>123
>>26 で書きましたが、「丈が平均身長を表した身体尺」 ということのが、
説文や字形から帰納的に証明出来ない、むしろ別の意味が帰納されるのですから、
それを前提に言われてもね。
一様に身体尺といっても、手で測ったり、足で距離を測ったりする
尺、咫、尋、歩などと同じ意味では、「丈」が身体尺であったとは考えられませんね。
丈夫が husband の意味であるのは勿論承知ですが、単なる凡夫ではなく、「良き人」であったからこそ
「丈夫」がhusbandであったはずで、それこそ「大夫」と通底するんじゃないでしょうかね。 あと、歩についてですが、身体尺として考えれば、一寸2.mmから出てくる144cmが程度が、
身体尺として最もふさわしいと思います。
始皇26年に、一歩を六寸に規定していますから、その際に身体尺としての長さ(6尺4寸)から4寸短くなったと考えるのが自然と思いますね。
実際、少なくとも戦国時代から、漢尺まで一寸・一尺ともかなり安定的ですから。
この時点で、歩の方を固定的に想定して、寸尺自体が変わったと考えるのはどうなんでしょうかね。
この点を考えると、本スレの方のFAQの王制の計算がナンセンスということがわかると思いますよ。 おっと、訂正です
一寸22.5mmから出てくる144cmが程度 >>311
論理的な説明ができてない
主観ばっかり >>315
新しい知見どころか出発点の説文解字から無視してるんだから、岡上がナンセンスのそしりを免れないのは当然だな >>317
何のどこを無視したのですかね?
丈が身体尺の例から漏れたのを無視しているのはどちらでしょう? >>319
それは由来でしょ。
尺も由来から外れた大きさになっている。 >>319
白虎通義での観念的な規定を書いただけですね。
それに身体尺でのアタは、単純な手の大きさより多少大きくなりますから。
18.5 cmなら別に女性のものとして普通ですよ。
許慎が多数の夫人の手を計測したと考える方が、(以下略) >>321
岡上は相変わらず現実離れした結論を言い張るだけか >>321
>18.5 cmなら別に女性のものとして普通ですよ
女性の手がそんなにデカくて
普通だって根拠でもあるのる >>311
>始皇26年に、一歩を六寸に規定していますから、その際に身体尺としての長さ(6尺4寸)から4寸短くなったと考えるのが自然と思いますね。
確認された事実としてだよ
尺のほうが歴史的に大きくなってる傾向があるのにね
歩のほうが小さくなったと考えるのが自然だって
いったいどんな論理でものを考えてるんだ? 無理矢理に周尺を今の一尺にしたいがためにトンデモ訳をつくってるとしか >>325
ですので、拇中指咫は普通の手長より大きいんですって。
それこそご自分で調べてみては?
>>326
165cm〜170cmの人の身体尺は、事実として145cm程度ですよ。
秦は水徳で六を重視するらしいですから、秦代に端数を切り落としたんでしょ。 めんどくさいのでネタバレしちゃいますが、別に独自説でもない、古典的な議論なんですよ。
「尺度綜考」藤田元春
「日本人の尺度」望月長与
を参照してくださいね。特に前者は、周尺=漢尺と論じていますね。 >>328
>秦は水徳で六を重視するらしいですから、秦代に端数を切り落としたんでしょ。
ただの想像かよ >>328
周尺と書いて今の一尺と区別してる史料事実を無視した珍解釈だな もちろん、岡上要素も入ってますよ。
後者は、日本人の尺度としては、拇人指咫を想定していて120cmぐらいのものを
八咫鏡と考えたみたいですよ。古い本ですので、仕方ないですが、平原大鏡を知れば、
拇中指咫での大きさの八咫鏡が出てきたと指摘されていたことでしょうね。 >>328
>秦は水徳で
火徳の漢の前が、なんで水徳なんだ? >>334
拇人指咫だったら女の手が18.5cmもあるって根拠でもあるの? 拇人指咫 と拇中指咫の区別をまずは勉強してくださいね。
わたしは、手長18cm、拇中指咫20cmでしたよ。 >>341
つまり自己都合にあわせて拇中ということにしたが、データは持ってないと
w >>342
あのねぇ。
そもそも許慎が複数の中婦人の手を実測していると考えるのが筋悪なんですよ そもそも平原鏡が八咫鏡であるという前提が筋悪だろ
これに合わせようと、無理読み、珍解釈してるだけじゃんか >>344
それ、筋悪岡上の創作だろ?
岡上以外だれもそんなこと言ってない >>346
そうなんですか?
じゃあ、説文解字の中婦人の手長とは、許慎が想像で書いたか、
測ったとしても奥さんか使用人あたりがちょっと大きめの手だったということで結論でましたね。 そもそも漢代に使われた形跡のない単位を持ち出した岡上の筋悪さにまさるもの無し >>347
根拠史料の筆者を
非常識な人に仕立て上げないと
日の目を見る可能性のない
筋悪岡上珍説 >>338
>>>334
>拇人指咫だったら女の手が18.5cmもあるって根拠でもあるの?
18.5cmはそれほど大きいか?
大きすぎるという印象操作? 男性の自分の手で測ったら21センチもあった。
女性で18センチが小さいとは思えないな。 手の大きさとは書いてあるけど、具体的にどこを計っているかは書かれていない件 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています