伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 対抗って、3世紀に鉄器ゼロでムダ毛ぼうぼうの毛人が何だって?w >>447だが
九州説だよ、伊都国は邪馬台国とは別国
平原は伊都国の王墓じゃないかな なお 岡上氏の主張の盲点の一つを
>>421が指摘しています
反論があれば書き込んでおいてください
>卑弥呼が東遷したという説だとしたら
伊都国の文明・文化が大和に移入してるはずだが
あまりにも当時の大和は文明的に劣っている・・・・3世紀の発掘物から< 「伊都国の文化」って何なんでしょうか?・・・・・・ @阿波
もっとも中心的なところは、もちろん巫女王による銅鏡・太陽祭祀でしょうね。・・・・・岡上氏
その他を是非とも聞きたいですね。・・・・・・・・ @阿波
卑弥呼が東遷したという説だとしたら
伊都国の文明・文化が大和に移入してるはずだが
あまりにも当時の大和は文明的に劣っている・・・・・・・・・>>421 >>448
>代々の倭国王都のど真ん中にあって、
またイイカゲンなこと言ってるね
代々の倭国王都だってんなら、先代の倭国王の墓はどこだ? テンプレどおり解釈すると
偽造倭人伝ができちゃわないか
邪馬台国はヨソにおいて神武東遷のみ論ずればいいのに >>452
「倭国(阿波)の最先端文化・技術」 九州や畿内などとの圧倒的な差ですね。 @阿波
@勾玉
A軽量薄型土器
B前方後円墳
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
その他いっぱい 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>454
畿内説は東遷抜きには説明できないはずだが、なぜか頑なに東遷を否定するんだよ。
その結果、ヤマト王権の「自然発生説」という非科学的なアイデアに走ってしまった。 >>456
どこにでもある凡庸な「内行花文鏡」だけをもって、王都とかw 実に哀れなり。 @阿波 >>457
説明できないのは東遷厨が無能なせいなだけ
だから問題ない 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 岡上さんの言いたいこたは、
伊都国が中心となり東遷し初期ヤマト王権を
創設したと言う事では?
邪馬台国をそこに絡ませるから変な論調となる そのお鏡さんの論拠の中心が、
平原1号墓は王墓だから、
大柱を立てて日向峠からの日の出をあがめる太陽祭祀を行っていた
平原1号墓出土鏡は、円周長が八咫だから八咫鏡 だから王墓
というもの
でも、円周長が八咫というのは完全に否定されたし
大柱を立てる祭祀は5号墓でも行われているが、5号墓は王墓とは考えられていない
お鏡さんの説は、所詮借り物だし、破綻してるし、考える必要すらないと思うよ >>447
>卑弥呼の墓は九州ではみつかっていないが正解
まあ、そうなんだけど、より正確には
卑弥呼の墓は九州ではその「候補すら見つかっていない」が正解 >>462
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。 @阿波 >>438
>歩幅は体調によって違いがある。
大笑い
「歩幅が体調によって差が出る」以前に、「足底長は人によって異なる」だろうが!
靴屋さんにどうしていろんなサイズの靴がいると思ってるんだ?
>自分の足のどこからどこまでが25センチ=東夷伝歩であるかを知っていれば
>寸分違わず歩を計測できる。
誰の足底長を基準にしたんだ?
足先から2センチ先が25センチだったら「寸分違わず」なんて計り方は無理だぞ?
それに、本当の「歩」で100歩、144メートルを測るのに、
存在しない「東夷伝歩」では、580歩くらい必要になる
1歩で、2センチくらいずつ誤差があったら、その580倍のくるいが生じるよ
かかとつま先で測る場合には、その足裏長を前もって測っておかないといけない
つまり、かかとつま先の歩は、身体尺としてはありえても、
25センチとかの決まった値をとることはない
そして、「歩」という文字で表される限り、「複歩」なのは絶対だから
25センチのような短い長さにはなりようがない >>470
>それに、本当の「歩」で100歩、144メートルを測るのに、
前提がむちゃくちゃ。 >>471
>前提がむちゃくちゃ。
そりゃそうだろ?
東夷伝歩=25センチ、なんていうむちゃくちゃに対する批判なんだから
大陸では「歩」はいつの時代でも「複歩」
大陸で教育を受けた人間が、「歩」という文字を25センチに使うはずがない >>471の言うことを聞いて、>>471がむちゃくちゃだと思う部分は外したよ
反論できるならどうぞww
>>438
>歩幅は体調によって違いがある。
大笑い
「歩幅が体調によって差が出る」以前に、「足底長は人によって異なる」だろうが!
靴屋さんにどうしていろんなサイズの靴がいると思ってるんだ?
>自分の足のどこからどこまでが25センチ=東夷伝歩であるかを知っていれば
>寸分違わず歩を計測できる。
誰の足底長を基準にしたんだ?
足先から2センチ先が25センチだったら「寸分違わず」なんて計り方は無理だぞ?
かかとつま先で測る場合には、その足裏長を前もって測っておかないといけない
つまり、かかとつま先の歩は、身体尺としてはありえても、
25センチとかの決まった値をとることはない
そして、「歩」という文字で表される限り、「複歩」なのは絶対だから
25センチのような短い長さにはなりようがない >>476
三国志東夷伝の距離記載が東夷伝里で統一されているから >>477
三国志東夷伝の距離記載が東夷伝里で統一されている
という証拠は? 魏志倭人伝にいちゃもんつけるキナイコシ。
俺様ルールの方が優先するとでも? >>479
魏志倭人伝に付いたいちゃもんって、具体的になに? >>481
>>482
キナイコシは何を言ってるの? >>475
>複歩のはず、というのがそもそも勝手ルール。
これを勝手ルールというやつは、漢文の文献を読む能力がないってことだぞ!
魏志倭人伝で何かを言おうとするのがそもそも無理なやつだったんだなw
複歩の「はず」なんて書いてないだろ?
複歩なのは「絶対」だよww >>477
>三国志東夷伝の距離記載が東夷伝里で統一されているから
その東夷伝里が大嘘なんだからしょうがないだろうにww 伊都国はわかるけど・・・
倭人伝を解き明かす必要がある
九州説を一つにまとめたり 九州+畿内=邪馬台国はどうも説得力が無い
吉野ヶ里遺跡の考古学見地から行けば、
現段階での調査でのでは畿内は相当遅れていた地としか考えられないと思う
東遷は5、6世紀 で 九州倭国+渡来人勢力がヤマト王権を築いた
大化改新は渡来人と倭人とのイザコザ >>490
>倭人伝を解き明かす必要がある
なにをいまさら。 とっくに解き明かされているよ。 @阿波 阿波さん あなたのカキコミ(他スレを含め)
阿波説もありかなと思いますが
阿波説の範囲を中四国に広げれば論として磨きがかかるのでは
阿波に限定する必要がまるっきりない
纒向一辺倒の畿内説と同じにならん事を期待します >>493
>阿波説の範囲を中四国に広げれば論として磨きがかかるのでは
それは、卑弥呼時代よりあとのこと。 徐々に倭国(阿波)はひろがっていきます。 @阿波 >>493
>阿波説の範囲を中四国に広げれば論として磨きがかかるのでは
卑弥呼時代は、邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)の統一で精一杯です。 中四国は卑弥呼以後。 @阿波 >>494
阿波さん
>それは、卑弥呼時代よりあとのこと。 徐々に倭国(阿波)はひろがっていきます。 @阿波<
四国一円は???
倭人伝に基く物証では阿波説が有意のは承知です >>496
「前方後円墳」・「薄型軽量土器」
簡単な目安として、これらの拡がりが倭国(阿波)の拡がりを示します。 @阿波 なんだ、阿波ってただの畿内説背乗りだったのか
ある意味がっかりだな 阿波というか、淡路島〜四国が、イザナギ・イザナミの国産み神話を含め、
畿内勢力の源流の一つで、実際に大きな寄与をしているのは確実だし認める
だが、なんでも忌部って言い出したら、それはもうトンデモなんだよ >>500
>だが、なんでも忌部って言い出したら、それはもうトンデモなんだよ
では聞くが、忌部以外に全国へ進出していった倭人(部族)はいますか? @阿波 >>499
>なんだ、阿波ってただの畿内説背乗りだったのか
なんにも文化起源を持たない畿内説が、倭国(阿波)に便乗しているんですよ。 @阿波 >>501
出雲神族(王族)と出雲族。
北は東北全域、南は九州。日本列島のほとんど。
畿内も当然、出雲神族、出雲の一部
阿波忌部にしても出雲王家の分家の分家の一つに過ぎません!?
倭人伝に言う、大倭国はおおむね出雲帝国やその分家らが建た地方王国(葛城(畿内)、吉備、諏訪(信州)、北九州(宗像))全体を言ったか。 >>503
>阿波忌部にしても出雲王家の分家の分家の一つに過ぎません!?
では、なんで出雲に「忌部」の地名や神社があるの? 阿波に「出雲」なんてないんだけど? @阿波 >>503
>阿波忌部にしても出雲王家の分家の分家の一つに過ぎません!?
出雲の勾玉造りも倭国(阿波)を発った出雲忌部が造っていたんだよ。 ホントは知ってるんだろうけど。 @阿波 各地の忌部は大和朝廷が派遣したんじゃないの?
忌部の「部」は部民の部で、部民っていうのがそもそも大和朝廷の職制なんだから >>506
>忌部の「部」は部民の部で、部民っていうのがそもそも大和朝廷の職制なんだから
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 個人的には忌部は殷部で殷の棄民じゃないかと思っている
殷周革命では周と九夷が組んだから九夷の勢力外まで逃げなければいけないと考えれば
阿波辺りまで逃げないといけなかったのではと思う >>507
>忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり
そんな勝手定義は誰も知らないよww
阿波はアワコン 平原広沢とは佐賀平野の邪馬台国である。(そいぎんた まあ、本質的にはお鏡さん隔離スレだから、よそにお鏡さんが出張ってこなければ、
それだけでこのスレは役に立ってるよww それにこのスレのおかげで、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡」っていうのが、
単なる昭和の思いつきだってはっきりしたし まあ、つまんない都市伝説がひとつ消えたという意義はあったな 平原1号墓の大柱も、実は5号墓の大柱の方が先だし、さらに吉野ヶ里の北墳丘墓にも
墳丘そばに大柱が立てられている
吉野ヶ里の大柱は日の出の方向とはまったく関係なく、ただ墳丘の長軸方向に立てられている
それと同じ文化であるとみなせば(異なるとする理由がない)、平原1号墓の大柱が日向峠の
日の出を意識して立てられていて、その日付・10月20日が重要というお鏡さんの説はまったくの
見当違いってことになる 吉野ヶ里のは、今ぐぐったら「立柱」という名前で呼ばれているようだね >>517
>平原1号墓の大柱も、実は5号墓の大柱の方が先だし、
そんなことが正確にわかるのか、甚だ疑問。
根拠は?
>吉野ヶ里の大柱は日の出の方向とはまったく関係なく、ただ墳丘の長軸方向に立てられている
平原の方がより進化した様式なのだと考えればいいだけ。
内行花文鏡に象徴される太陽信仰があったこと、日向峠という地名などを考慮すると、御柱になんらかの意味を持たせていた可能性を否定できない。
御柱は諏訪大社など国内に類例が存在する以上、否定する根拠に乏しい。
畿内説の言いがかりのような論説では、何も明らかにすることはできない。
畿内説のテンプレが根拠の薄い推定で満ち溢れているのに比べると、全く酷いダブルスタンダードが見て取れる。
これだから畿内説は信用されない。 >>519
>そんなことが正確にわかるのか、甚だ疑問。
>根拠は?
都合の悪いことは、全部「根拠は?」で済まそうとするんだなww
平原遺跡の発掘報告書で、
5号墓
↓
1号墓・2号墓
↓
3号墓、4号墓
の順で作られたとされているよ
5号墓の方が1号墓より古く、平原遺跡の立地は1号墓ではなく5号墓が作られたときに
選ばれたことになる
5号墓付属の大柱と、1号墓付属の大柱では、5号墓の方が古いのが当然 >>519
>内行花文鏡に象徴される太陽信仰があったこと、
逆に、これに「根拠がない」
内行花文鏡の鏡面の模様が太陽っぽく見えるだけで、
それが太陽信仰と結びつくかどうかは、実は根拠がない >>519
>平原の方がより進化した様式なのだと考えればいいだけ。
考えれば言いと考えるのが、恣意的
進化した様式だと考える理由がない
吉野ヶ里では、北墳丘墓の墳丘主体の長軸上に「立柱」があり、その延長上に
かつて南墳丘墓と呼ばれた祭壇がある(埋葬設備がなく墓ではないことが確認済)
墳丘の方向と立柱の方向で、聖別される方角を示すものと考えればよい
そこに、太陽に日の出の方角という意味合いを無理に付与する理由がない >>519
>御柱は諏訪大社など国内に類例が存在する以上、否定する根拠に乏しい。
諏訪大社の御柱は、聖別される区画の境界として4本立てるんだよ?
1本きりの、吉野ヶ里や平原5号墓、1号墓の柱とは意味合いが異なるのは明らかだと思うが? >>519
>畿内説の言いがかりのような論説では、何も明らかにすることはできない。
そもそも、クシフル岳も何もないのに、日向峠という小さな地名一つで
伊都国周辺を日向だと言い張る時点で根拠が薄弱すぎる
>畿内説のテンプレが根拠の薄い推定で満ち溢れているのに比べると、全く酷いダブルスタンダードが見て取れる。
こっちは、丁寧に十分な根拠を挙げて「平原1号墓出土鏡が八咫鏡だ」とかいう妄説をきちんと
否定したよ
>これだから畿内説は信用されない。
恣意的なご都合主義のチェリーピッキングの上に、妄想で隙間を埋めてるから
九州説は、論説として妥当性がないんだよ
信用されるされない以前の問題 >>520
その発掘報告書には柱を立てた順番まで
記述されているか?
お前の願望じゃないよな? >>525
柱を立てた順番が書かれていないと何か問題があるのか?
常識で考えれば、5号墓の柱は1号墓の柱より前だ 卑弥呼は共立女王だから
それまでの先祖とは違って
突然倭王としての格式を持った鳥居<日の出の方角
が作られたんだろ。 内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。 >>527
>常識で考えれば、5号墓の柱は1号墓の柱より前だ
太陽信仰との習合が1号墳の卑弥呼の即位の時なら、何の不思議もない。 予言スレの話
中国産の偽のガンダムが何やらと言ってる人がいたり、 >>528
「倭王としての格式を持った鳥居]だという理由は? >>531
太陽信仰との習合が1号墳の卑弥呼の即位の時だと考える理由は? 記紀を参考にすると、天照大神の頃から意識されていたのだろうが、どうせ記紀は無視なんだろ?
伊都国にある倭王墓である三雲南小路遺跡がニニギの墓なら、その先代の天照大神の頃から太陽信仰があったかもしれないな。 オウム返しは能なしの所行だと何度言えば
こう言えば、少しは情けなさが分かるかな?
「ザラコクレベル乙!」 >>525
>その発掘報告書には柱を立てた順番まで
>記述されているか?
>お前の願望じゃないよな?
本格的にアタマおかしいな!
5号墓が1号墓よりも古い、のは確実
おそらくは同じ家系の先代の墓
で、1号墓を作るときに、5号墓にも柱を立てたっていうのかい?
それこそどんな理由で立てるんだ?
それから、「太陽祭祀が−」、「日向峠が−」、っていつも言ってるが、その前に
1号墓の大柱の先に、小さな建物跡があるのは把握してるか?
吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓 立柱 祀堂 の位置関係と
平原遺跡の
1号墓 大柱 建物跡の位置関係が同じ
そして、吉野ヶ里が南北に近い方向で太陽祭祀と無縁であることと合わせて考えれば、
平原1号墓も無理に太陽の日の出の方向などと言い出す必要はない
諏訪大社の御柱はもういいのかい?ww >>534
>三雲南小路遺跡がニニギの墓なら、その先代の天照大神の頃から太陽信仰があったかもしれないな。
どういう時系列なんだ?
平原1号墓が女王で太陽祭祀だから卑弥呼で天照大神だって言いたいんじゃなかったのか?
三雲南小路から平原1号墓まで軽く200年くらい経ってるぞ?
三雲南小路の先代が天照大神だとすると、天照大神はどこにいたんだい?
どこからどこに天下るのか? >天照大神はどこにいたんだい?
吉武遺跡
>どこからどこに天下るのか?
吉武遺跡 そして、5号墓と5号墓附属の大柱が指す方角と
1号墓と1号墓附属の大柱が指す方角はずれている
そして大柱の指す方角と、1号墓の埋葬主体、木棺の長軸方向もまたずれている
こういうところをきちんと押さえて見ていくと、日向峠からの日の出っていうのが
眉唾物だと分かる訳だ >>541
吉武高木遺跡は紀元前3世紀
三雲南小路からさらに200年古い
とてもじゃないが先代とは言えないな
さらに王墓といいつつ、3号木棺は共同墓地の一つの埋葬主体に過ぎないし、
女性の被葬者と考える理由がない
また峠を越えるだけなのを、天下りというだろうか?
峠を隔てただけの隣の国を、誰に譲ってもらうんだ?
記紀を史実として説明しようとしても、破綻するだけだよ >>539
>そして、吉野ヶ里が南北に近い方向で太陽祭祀と無縁であることと合わせて考えれば、
>平原1号墓も無理に太陽の日の出の方向などと言い出す必要はない
前方後円墳がてんでバラバラなところを見ると、基本的に倭人は方角に無頓着だったんだろうね。
だからこそ平原遺跡の特別さが目立つ。 >>540
>三雲南小路から平原1号墓まで軽く200年くらい経ってるぞ?
>三雲南小路の先代が天照大神だとすると、天照大神はどこにいたんだい?
>どこからどこに天下るのか?
200年という年代が正しいかどうかは別として、男王70-80年とあるのだから、そんなに古くないかもしれない。
天照の高天原がどこかという話になるが、「海を照らす(支配する)」という意味だから、対馬海峡の王だったんだろう。
そこから大国主を廃して邇邇芸が筑紫に降臨したわけだ。 >>544
特別なんだろ
他者に影響を与えてない
つまり東遷なんて無いんだよ
平原は落選 >>544
特別なんだろ
他者に影響を与えてない
つまり東遷なんて無いんだよ
平原は畿内と関係ない邪馬台国の卑弥呼の墓 >>545
>対馬海峡の王だったんだろう。
この台詞、大好きみたいだけど、対馬も壱岐も耕作できる土地が足りなくて
乘船南北市糴しないと生きていけない土地なんだから、十分な人口も蓄えられないし
強い国なんて夢のまた夢だぞ?
半島南部は小邑割拠な状態だし、九州側に拠点があるなら、それは九州の国であって
対馬海峡の国じゃないだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています