>>62
>投馬国と邪馬台国は書き方が他の文と違い明らかに国邑ではない

これが根拠になってないんだよ
魏志倭人伝は、きちんと見ていくと、二国分くらいずつで、旅程の書き方を変えていっている

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里

始  度一海 千餘里      至對馬國・・・方可四百餘里・・・有千餘戸
又南 渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・方可三百里・・・ 有三千許家
又  渡一海 千餘里      
                至末盧國            有四千餘戸
東南 陸行五百里        到伊都國・・・         有千餘戸

東南 至奴國          百里・・・           有二萬餘戸
東行 至不彌國         百里・・・           有千餘家

南  至投馬國         水行二十日・・・        可五萬餘戸
南  至邪馬壹國 女王之所都  水行十日、陸行一月・・・    可七萬餘戸

きっちり、ほぼ二カ国ごとに書き方が変わってる
末慮国のところが、水行と陸行の境目で、ちょっと対応が悪くなってるけどね

それと、邪馬台国までは、距離(道里)と戸数の情報が必ず入っている
これが、自女王國以北、其戸數道里可得略載の意味で、
投馬国が、女王国より以北であることがはっきりする

奴国、投馬国、邪馬台国の3国は、ある程度の動員が可能な領域国家に
近い段階だと思われる