♪邪馬台国ドンと来い!♪138
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前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪137
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1524929009/l50 >>632
>どうして、伊都国(または奴国)についた時点で、邪馬台国に着いたって書かれていないのか
長々と里程を説明して、伊都国の説明で「ここが郡使が滞在する(邪馬台国だ)」(やれやれ)という、いかにもな情緒的表現を重ねてある。
また、大率の説明で、伊都に置かれて女王国から北の対馬海峡を統率しているとある。女王国が畿内だと意味不明になってしまう。 >>633
>また、大率の説明で、伊都に置かれて女王国から北の対馬海峡を統率しているとある。女王国が畿内だと意味不明になってしまう。
これもウソ
一大率の説明は「自女王國以北、特置一大率」であって、
「女王国から北の『対馬海峡』」などとは書いてない
そして、「自女王國以北」は
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」にも同じ表現があって、ここには
投馬国も入っている
>長々と里程を説明して、伊都国の説明で「ここが郡使が滞在する(邪馬台国だ)」(やれやれ)という、いかにもな情緒的表現を重ねてある。
これはウソとまでは言わないが、まったく根拠にならない
「(やれやれ)という、いかにもな情緒的表現」こんなものは、読み取る余地はない
戸数に関する二重帳簿詐欺の説明もできないし、
結局「伊都国と奴国こそ邪馬台国」という誤読を基礎に置く北部九州説は
最初から成り立つ余地がない >>634
>そして、「自女王國以北」は
>「自女王國以北、其戸數道里可得略載」にも同じ表現があって、
これは、その範囲は郡使が自分で通過してきたから略載できるわけだよ。
その文章が対馬海峡のことだとわからないなら、魏志倭人伝を全然読めてないよ。
>投馬国も入っている
入らないよ。くどい。
>「(やれやれ)という、いかにもな情緒的表現」こんなものは、読み取る余地はない
読み取ってやれよ。
陳寿はうまい表現ができたとドヤ顔だったはず。 畿内説では「女王国から北」とはどこのことなんだ?
若狭湾?丹後?
なぜ伊都の大率がそこを治める?
伊都の大率が女王国から北を治めているなら、そとは対馬海峡だろ。
対馬海峡が女王国の北なら、女王国は九州北部だろ。 >>636
>畿内説では「女王国から北」とはどこのことなんだ?
畿内説では、大陸の世界観で「日本列島が帯方東南大海上の南北に長く続く洲島の上」に
あったとしているだけ
だから、魏志倭人伝の旅程記事は、帯方郡から邪馬台国、さらにはその先の餘旁國まで
基本的に、北から南へと「陳寿が認識して」並べて記述されているとみなす
だから、「女王国から北」は、対馬から女王国までだよ
旅程では、対馬、壱岐、末慮、伊都、奴国、不彌国、投馬国までになる
邪馬台国は入らないけれど >>635
>入らないよ。くどい。
認めたら九州説崩壊だから、認めたくないのは分かるけれど、最初から無理なんだよ
九州説の成り立つ余地はない >>635
>読み取ってやれよ。
>陳寿はうまい表現ができたとドヤ顔だったはず。
史書に限らず、人に情報を伝える文書は、読めば伝わるように書かなければならず
またそのように書かれているものだ
特殊な読み取りを必要とする、あるいは前提とする時点で、その「特殊」な読み取りは
事実上無価値だよ
つまり、「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」の水行の起点を
帯方郡とする読み方は、無価値だ 帯方郡から邪馬台国まで、12000里
松浦まで、10000里。残り2000里。
短里計算。
現在で、約140-150キロ半径内で、
畿内までいけないが。 >>640
短里なんてないんだよ
>松浦まで、10000里。
単に、倭国の朝貢を大事件にするために、「万里の修交」にしたかったんだよ
要するに数字が盛ってあるだけ
>短里計算。
だから、短里なんてないんだよ
プサンー対馬
対馬ー壱岐
壱岐ー唐津 の3つの渡海は等距離じゃないけれど全部千里にされてるだろ?
実測地じゃないし、作った数字
短里なんてないんだよ
結局、単純に言えば、「短里なんてない」っていうのが認められずに
魏志倭人伝の珍読解釈に頼ってるのが九州説だって分かるんだね 捏造、改竄、詭弁で正しいと言い張っても無意味
例
・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄 あっちも改ざん詭弁、こっちも改ざん詭弁、
結局、改ざん愧弁弁同士が入り乱れて応酬ってこった。どっちも〜〜ドン引き >>643
架空ではないよね。
周の時代は、短里だし。
魏志のなかで、書かれていた
高さに関する記述は、短里で、
ぴったり合う。陳寿さんが、
長里でかいていたら、世界最高峰の
山になる記述なんだが。
だから、この記述からも、
やはり、西晋と魏は、短里を扱っていたと
思われる。 >>646
そういう強弁はいらんから
短里なんてものがあったと言い張るなら証明すればいいだけ
そういう議論でも短里厨は最後はいつもトンズラ
ほとぼりが冷めるとまた湧いてきて言い張るだけ
この繰り返し >>646
>高さに関する記述は、短里で、
>ぴったり合う。
高さは里で表さないんだよ
高さは尺
有名な歌でも、アルプス一万「尺」って歌ってるだろ?
お前さんが山の高さだと思ってるのは、山を抜ける「道の長さ」だよ
短里でもなんでもない
三国志17 魏書17 張樂于張徐傳第十七
灊中有天柱山 高峻二十餘里 道險狹、步徑裁通蘭等壁其上
灊中に天柱山あり (その道のりは)高峻にして二十餘里 道は険しく狭い だな
「高さが長里で20余里だったら計算が合わない」って考えたんだろうけど、
そもそも里と書いてある時点で山の高さじゃない >>647
三国志.魏书.张辽传の中に、
下記の文章あり。
「灊中有天柱山,高峻二十余里,道险狭,步径裁通,兰等壁其上。」
高峻二十余里は、距離やない。句点で、
切られているから道程は、表さない。
高く急峻な山が二十余里という補語で、説明されている。
道などの険しい距離を表すなら、
後ろの「道险狭二十里」となるが、
高峻の高さを表す単語の後に二十里がきて、
句点で、意味を切っている。
1489.8メートル 天柱山
画像みたら、わかるが、まさに急峻。 >>637
>だから、魏志倭人伝の旅程記事は、帯方郡から邪馬台国、さらにはその先の餘旁國まで
>基本的に、北から南へと「陳寿が認識して」並べて記述されているとみなす
特殊な読み取りを必要とする、あるいは前提とする時点で、その「特殊」な読み取りは
事実上無価値だよ
畿内説は成り立たない >>648
三国時代 度量衡の度の定義 各王朝違いあり。
1丈= 10尺,1尺= 10寸,1寸= 10分
1丈= 242厘米,1尺= 24.2厘米,1寸= 2.42厘米,1分= 0.242厘米
一番長い高さの丈でも、242センチ
一尺は、24.2センチ
その範囲を超える表現は、「里」を
つかうっても合理性あるとおもうが。
そもそも、度量衡の度などの尺は
持ち運び、太陽の軌道をはかり、
影の長さを把握するために、周王の杖を
基準としたところもある。
故に、度量衡など、税や均田など
把握するさいの単位。日常での単位。 >>647
>短里なんてものがあったと言い張るなら証明すればいいだけ
魏志倭人伝の記事と実際の地理を比較するだけ。
証明終わり >>649
>高峻二十余里は、距離やない。句点で、
>切られているから道程は、表さない。
漢文にはもともと句読点はない べた書きで書いてある
この読点は読みやすいようにつけてあるだけ
「切られているから道程は表さない」には何の根拠もないし、意味もない
そもそも>>649は、読点「、」と句点「。」の区別もついてないだろうw
>>648のは、適当訳だから、もう一度きちんと書き下しと現代日本語訳をつけてやるよ
灊中に天柱山有り。高峻二十餘里、道險狭にして歩徑裁に通ず。蘭等、其の壁に上る。
灊中に天柱山がある。(天柱山は)高峻であり、(山中の道のり)は二十餘里で、
道は険しく狭いものであり、歩径(人の歩ける道)がわずかに通じている。
陳蘭らは、その(険峻な山の)壁面の上に砦を築いた。
そもそも、里は高さに使わない
平地の集落(里)の広さを示す単位なんだから >>650
>特殊な読み取りを必要とする、
必要としないよ
陳寿自ら、「計其道里、當在會稽、東冶之東」と書いてるだろ?
陳寿及び大陸中華の世界観では、日本列島は「會稽、東冶之東」に至るほど、
南北に長いと考えられていた
こうやって、「きちんと根拠を示せる内容」と
>>635の「読み取ってやれよ。 陳寿はうまい表現ができたとドヤ顔だったはず。 」のような
感性任せの無理読みを一緒にしてはいけない >>652
>魏志倭人伝の記事と実際の地理を比較するだけ。
実際に比べてみると
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
短里なんて出てこないねww 中原における里よりもはるかに短いことは明らかだね。
平均で100メートルくらい? >>657
>中原における里よりもはるかに短いことは明らかだね。
>平均で100メートルくらい?
九州説の言ういわゆる短里は、75メートルほどだったはずだが?
>>642でも書いたように
単に、倭国の朝貢を大事件にするために、「万里の修交」にしたかったんだよ
要するに数字が盛ってあるだけ
誇張された、作られた数字
その誇張分を逆算すれば、魏晋里より短い数字が出る
しかし、実測値ではない、作った数字だから、
「ある決まった単位長さ」=短里のようなものは出てこない >>658
>九州説の言ういわゆる短里は、75メートルほどだったはずだが?
自分で平均しろよ >>658
比率が合っているから、実測でないとは言えない。
誇張された里なんだろ?
それで帯方郡から一万二千里の九州北部が邪馬台国でいいな? >>656
この計測は、どの地点からどの地点と
書かないと説明には、ならない。
あなたが計測した地点は、現在の
役所から役所の距離? >>656
なるほど短里制度みたいな精密なものではなかったかもしれないな
しかし、75mと100mなら、古代の距離感としてはなかなかのものだ
五十歩百歩とはこのことよ、、、 >>661
横レスだがこういう作業は短里なんてものがあると言い張る側が出すべきなんだが >>660
>比率が合っているから、実測でないとは言えない。
比率が合ってないんだよ!
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
ここで4倍も狂っている
つまり、実測値ではないし、短里なんてなかったってことだ >>662
魏志倭人伝を読んで、いつも思うのは、
張政さんは、ある基準を持って、
測量はしている。
はっきりと比定される壱岐島や対馬などを
上司に報告する先遣隊だし。
その比定しやすい距離を考えると
約6倍も長い長里は、当てはめるのが
難しいと単純に、感じるだけだ。
40年近くも倭国にいて、上司に報告するため、
文化から生活様式、戦闘装備などを
記述する張政さんは、誇張するかな?
天子に報告するものだよ。 >>662
>なるほど短里制度みたいな精密なものではなかったかもしれないな
その前に、短里があるとする理由が一切ない
秦の始皇帝の度量衡の統一、始皇26年紀元前221年から、3世紀半ばまで450年以上が
経過し、その間安定した度量衡が使い続けられている
東夷伝里と言い出すものもいるが、公孫氏は漢人であり漢の官職についている
公孫氏が漢尺以外の度量衡を使う理由がない
また、倭国を訪れた、建忠校尉・梯儁も、塞曹掾史・張政も魏朝の官人であり、
魏尺以外の度量衡を使う理由がない
短里なんてないんだよ >>665
>張政さんは、ある基準を持って、
>測量はしている。
>はっきりと比定される壱岐島や対馬などを
>上司に報告する先遣隊だし。
しかし、
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
のように、2倍も異なる距離を一律千余里としている
つまり、一日で漕ぎ渡れる距離を千里としているだけで、実測値ではないことが明らか >>665
>40年近くも倭国にいて、上司に報告するため、
これには何の根拠もない
266年の晋への遣使を、倭人伝最後の
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人「送政等還」に
当てる考えもあるが、その場合でも18年だ
40年とかどこから出てくるんだ?
>天子に報告するものだよ。
度量衡は、始皇帝の統一以来、「天子が定めるもの」とされている
魏朝の天子が定めた魏尺以外の単位、つまり短里などというものを使って
報告するはずがない ま、
ことわざ通りの「五十歩百歩」ってこった
三国志の片隅に書き留められたんだから、古代にはこれで用が足りたんだろ。 魏王朝が定め、或は採用した「短里制度」ではなかったかもしれないな。
しかし天下といっても広い。
地方には地方のローカル里数が残っており、
まして東夷のそのまた端っこの離島倭国に、聞いたことのない荒削りの里数習慣があってもおかしくないさ。
なんせ、当時の倭国は中華天下の外だったのだからな。 >>669
>ことわざ通りの「五十歩百歩」ってこった
いや? それで言うなら、五十歩二百歩だ
4倍も違う
4倍違ったら、ものすごく適当な話になるぞ
>>640で
「現在で、約140-150キロ半径内で、
畿内までいけないが。」
などと書いているが、福岡から纏向まで500キロちょいだ
140キロを4倍したら、560キロになる
軽く届くだろ?
4倍も異なる単位なんてないんだよ
つまり、短里などはない >>670
>地方には地方のローカル里数が残っており、
これに、一切根拠がない
書けばいいってもんじゃない
>>666でも書いたように、秦の始皇帝の度量衡の統一、始皇26年紀元前221年から、
3世紀半ばまで450年以上が経過し、その間安定した度量衡が使い続けられている
その間に、里という大陸王朝の単位が伝わっているところであれば、大陸王朝の
度量衡を使っていなければ話にならない
そもそも、大陸王朝と違う度量衡を使っていたら「里」は使わないだろう
最初から、「短里がある」という前提は、ほぼ捏造に近いでたらめなんだよ 捏造、改竄、詭弁で正しいと言い張っても無意味
例
・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄 >>664
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
これも糸島の古墳群から博多南な古墳群を
結べば10キロぐらいだな。
見方によって変わるもの。
しかし、1里450メートルぐらいとしたら、
合わない。 >>674
こうすればこうなる式の、恣意的な条件設定していちゃだめだよ
伊都国と奴国の距離なのだから、それぞれの中心的な遺跡群で見ればよい
伊都国では三雲遺跡群、奴国では比恵那珂遺跡群を取れば、
直線距離で18キロだよ
丸めて20キロというのは、誠実な数値だと思うがね
そして、何度も書くが、距離は誇張されているから、誇張された数値から
逆算すれば一里が短くなるのは当たり前
魏代の一里、435.6mにあわないというのは、意味がない >>672
秦の始皇帝のの度量衡の統一、偉大な事業で、、
中華の歴史上初めての公式統一度量衡であったわけだ。
だが残念なことに、
始皇帝は間もなく死んじまったので、地方にはいろいろなローカル度量衡が残ったままだったそうだ。
軍事手段や通信手段が貧弱で、各地にはなお実力を持った部族が群雄割拠していた古代においては、やむをえないことだったのであろう。 >>673
短里は架空やないんよ。
「韓伝」も83メートルぐらいが1里で
計算されてる。
帯方郡から先は、どうも違う距離基準があるみたいだな。 >>675
そもそも、
伊都国は三雲遺跡群、奴国は比恵那珂遺跡群が正しいのかね。
そのあやふやな推理推測に基づいて、短里は怪しからんと、叫んでみたところで、
なんの保証もなく、証拠にもならんさ >>678
だ・か・ら・証明義務は短里厨にあるんだっつーの >>680
伊都国は三雲遺跡群、奴国は比恵那珂遺跡群だから、それから計算して短里制度はなかった、
とおまいが主張してるじゃないか
だから、その「伊都国は三雲遺跡群、奴国は比恵那珂遺跡群」の証明義務はオマイにあるんだよ >>667
>のように、2倍も異なる距離を一律千余里としている
2倍なら弥生時代にしてはまあまあな精度だな。 >>680
周髀算经 原名《周髀》で、短里は、
説明できる。夏至、冬至の千里移動で、
計算されて、77メートル前後。
この説明は、算数で、理解できる。
で、この後だが、
周髀算经》后面还引用“吕氏”的说法:“凡四海之内,东西二万八千里,南北二万六千里”。《吕氏春秋》卷十三《有始览》第一篇也称:“凡四海之内,东西二万八千里,南北二万六千里。” >>672
>そもそも、大陸王朝と違う度量衡を使っていたら「里」は使わないだろう
現代だって、香港ドルとかいろいろあるだろ。 >>683
これを450メートルの長里として、計算したら、
12000キロの東西の距離なんよ。
南北は、11700キロなんよね。
東京にいたら、西へ12000キロは、ロンドン超えるんよ。この時代。
南へ行くなら、南極に到達します。
コロンブスより早い
新大陸発見になるほど、広大な領域です。 >>681
詭弁
幽霊に例えると幽霊は実在すると言い張ってるのはお前
実在すると言い張る側が証明責任を追う >>683
南北千里が実測だということを証明してくれ
77メートルとやらが実際に当てはまるかを証明してくれ >>685
これを短里で計算すると。
东西が、2146.76キロ、南北が、1993.42公キロ
秦の領域に、類似している。
四海とは、东海(今黄海)、南海、西海(今の青海)と北海(今の渤海)を表しており、
それが、当時の人々の領域の認識。 >>687
散々証明されてる。日本語でも。中国語でも。
自分で、読んで理解してくれ。 >>685
倭人伝の里が435メートルでピッタリだと誰も言ってない
その誰も言ってないことを自分で勝手に作り、それを論破して勝ち誇ってる
アホか >>690
違う違う。畿内には、たどり着けないんやないかと。長里あっての畿内やないの?
別に邪馬台国は、どこでもいい。
長里で、スタートしたら、つまづいたわけ。 >>689
はいはい、言い張るだけのいつものパターン
というか、論破されるか短厨がトンズラしたのは何度も見てきたがな
お前らの脳内では論破されたことが時間が経つと証明済に変換されるんだろw >>691
だからお前の作った畿内説を自分で論破して自己満足してるんだろが
畿内説のきの字も知らないなら議論に参加するなって >>691
畿内説スレに行ってテンプレ読め
難しすぎてどうせチンプンカンプンだろうけど >>692
中国語の論文で、2011年に掲載されたのを
読んでくれ。
泰山学院学报》2011年第二期 に掲載されている。 >>695
千里一寸を、周時代に実測したものだと
仮定して、計算結果を
現代の実測で、検算したら、ほぼ同じとの
結果がでているから、論文掲載されたんやろ? >>687
実際に比べてみると
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里 >>695
日本語訳は?
その論文が中国の学会で通説になっているという証明は? 2011年の中国の論文でもそれが中国の学会で認められていたら
日本の学者で1人も支持してないってのはおかしい >>701
通説も何も、審査を通して、学報に掲載されたわけだから、今から引用されていくんやないかな。和訳とか、他力本願やなく、自分で中国語
を、理解してほしい。 >>702
日本でもこんな論文がある
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2015s/0/2015s_100012/_pdf
地理の専門家が短里があると仮定した場合こうなるという意味で書いた論文だ
だが歴史学者や考古学者には見向きもされていない
架空の単位を前提にした地理論文だからだ
その中国の論文が歴史学者に認められて初めて短里という単位が有効になる >>706
素晴らしいなあ。ありがとう。
魏志倭人伝の魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
ていう箇所は、張政さんがびっくりしているんよね。
え?四節をつかわないで、周時代のこよみを使っているの?と。春耕秋収 為年紀が、
俗に言う周岁だが。年とるたびに、年齢が、倍になる。このような文化の根底は、周時代の
制度を利用している。
魏略には、倭人は、太伯の子孫といったとかいている。太伯は、周の王族から、周を離れて、呉をつくり、
紋身をいれていた。その当時の文化を
倭国は、輸入していたんだろうな。
呉の地域は、青銅文化圏ではない。
青銅文化圏は、魏や高句麗。
日本には、脱蝋法などの青銅芸術品がない。
たたら製鉄文化は、呉からきて、倭国、半島南部まで広がっていたかな。
それ故に、短里などの周文化圏が、その地域にあり、張政さんは、現地の短里文化を
使い記録したかもね。 >>707
魏などでも、たたら製鉄は、しただろうけど、
極寒の寒さには、鋼はもろく、
青銅剣が、活用されたため、鋼製鉄は、
魏や高句麗では、流行らなかった。寒さの観点で、実用的でない。
半島南部は、たたら製鉄のあとや、鉄も貨幣かわりになったように、同じたたら製鉄文化圏かと。半島南部は、前方後円墳もあるため、
韓伝で、短里が使用された背景も理解できるかと。
つまり帯方郡より北は、青銅文化であり、
その当時の制度 >>708
文化は、帯方郡が、やはり境界線になっていた。それは、鋼と青銅が、同時期に存在し、どちらが、戦闘も含めて、実用的であったか。
鋼は、冬に、半島を北上して戦っても、寒さで、剣は使いものにならない。
青銅剣は、南下しても、鋼が凍らなければ、
剣を合わしただけで、おれる。 >>706
論文があるというだけでは何の証明にもならないといういい例だな 畿内説には、いかなる史書も論文も、全てが無価値らしい。
畿内説は学問版にいる資格がないよ。 >>711
はあ?
畿内説の論文なら山ほどあるが
考古学者はほとんど全員が畿内説だというこを知らんの?
学者はみんな間違っててド素人こそ正しいというのが九州説の主張のはずだが >>706
歴史学者が地球物理のことわかるわけない。的外れもいいところ。 >>713
周髀算経が正しいという仮定を置けばそこから77mという計算は2ちゃんの素人でもできる
問題は周髀算経が正しいかどうかで、これは歴史学者や考古学者でないと判断できない
あんたはポイントがズレてる >>714
现代天文理论证明:
《周髀算经》中的“千里一寸”是成立的。
“千里一寸”与北回归线共同构成了
中国最早的天文数学模型。
同时,这也相应的推翻了
唐代僧一行与南宫说
关于“千里一寸”的错误结论,
还《周髀算经》以本来面目。
ここに、要約かいている。
かなり簡単に書けば、現代の天文理論で、
千里一寸は、成立するし、さらには、ながらく
千里一寸は、間違えだと言った
唐代の僧一行や南宮说の結論を覆す意味でもある。 >>714
アホが何か言ってるな。一生無意味なことやってろ まあ少なくとも言えることは畑違いの学者の論文は無価値 >>716
これを読んでいくには、日時計の時間だけ把握するのではなく、
「圭表」と言われる什器を用いて、冬至、夏至、などを把握した知識をもたないといけない。
表は、垂直にたて、圭は地面に南北におく。
ちょうどホッチキスを開けたみたいな什器。
日時計とは、違う。 >>711
学問板にいる資格がないのは九州説だろがボケ
所詮は俗説
存在意義は古代史マニア向けのエンタメコンテンツとしてだけだ ここの九州説爺さんがいくら吠えようと、専門家の間では圧倒的に畿内説支持でありすでに通説になっている
動きが鈍かった教科書でさえ畿内説が有力になっていると記述が変わってきている
これはもう勝負がついたということ
ネットの世界では九州説の方が声が大きいから九州説有利と思い込んでる爺さんが現実を知らないだけ 虚構の畿内説
奢る平家は久しからず、まして、でっち上げられた箸墓説は、、、 虚構の畿内説
奢る平家は久しからず、まして、でっち上げられた箸墓説は、、、 つまり九州説は学問ではないのだからこの板で語るのは不適切
ラノベ板にでも引っ越してくれ いまだに、周髀算经を短里の根拠にするやつがいるんだな
この辺がきちんとした考察
『周髀算経』の新研究1 『周髀算経』影の測定 イワクラ(磐座)学会 江頭 務
http://www.geocities.jp/yamauo1945/shuhisankei1.html
『周髀算経』にみられる数値について 一一寸千里説の意味するもの一
下司 和男 計量史研究33−1 2011 43-51
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10632233_po_ART0009767074.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
下司先生の論文の最後を引用
「周代の制度を記した『周礼』、『書経』などの文献には「短里」の存在は記述さ
れていないし、中国歴代の正史の「律暦志」にも、後の時代の里から大きくかけ離れた里単位が周代
に公用されていたという記述は存在しない。岩田重雄は、周代に公用された1 里の長さを約414m
であったとしている。」
「『周髀算経』に出てくる「里」は、宇宙を観測する器具である表の影と蓋天説の宇宙の定数を結
びつける、いわば蓋天説における「宇宙里」とでも称すべき単位であって、現実に土地の計測に使
われている計量単位である里とは異なるものであると認識すべきである。」
短里なんて、ないんだよ >>684
>現代だって、香港ドルとかいろいろあるだろ。
現代だって、「香港」ドル、とかつけて、米ドルとは区別できるようにしてるだろ?
大陸中華の魏晋里と異なる「里」を使っているなら、その旨明記してなきゃおかしいんだよ >>691
>違う違う。畿内には、たどり着けないんやないかと。長里あっての畿内やないの?
いや?
北部九州から、水行20+10日、陸行1月の、合計2ヶ月かけて行く距離だったら、
九州島内よりも、畿内辺りの方が適当だろう、くらいのものだよ
そもそも、萬二千里を意味のある里数とも思ってないし
魏晋里で測った距離よりも長い里程が記されている、つまり誇張されているということだ
淮南子等に見られる大陸世界での世界観、「東方之極萬二千里」に合わせたと見るのが妥当 地の果てまでが萬二千里というのは、>>730で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている 一万五百里が一万二千里に繰り上がっている理由にはなるが、まったく信用ならんという理由にはならない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています